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岡本韋庵関係資料(二)

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Academic year: 2021

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(1)

岡本章庵関係

〆-、、

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目次 { はじめに ︼ ︻ 凡 例 ︼ ︻ 一 ︼ 年表 ・ ﹁ 章 庵 岡 本 監 輔 氏 年 表 ﹂ { 二 ︼ 雑説 ・ ﹁ 岡 本 監 輔 氏 ﹂ ︻ 三 ︼ 伝記 ・ 岸上質軒﹁岡本章庵(樺太最近探索者) ﹂ ︻ 四 ︼ 雑説 ・ 佐田白茅﹁岡本監輔小伝附録荒井直盈﹂ ︻ 五 ︼ 雑説・佐田白茅 ﹁ 岡本監輔支那遊歴の紀事﹂ ︻ 六 } 短文 ・ ﹁ ﹃ 海 国 急 務 ﹄ 序 ﹂ ︻ 七 ︼ 短文 ・ ﹁ ﹃ 千 島 探 検 誌 ﹄ 序 ﹂ ( 以 上 ( 一 ) ) ︻ 八 ︼ 書簡 ・ ﹁ 林 孝 尚 宛 書 簡 草 稿 ﹂ ︻ 九 ︼ 短 文 ・ ﹁ ﹃ 大 東 合 邦 論 ﹄ 序 ﹂ ︻ 十 ︼ 短文 ・ ﹁ ﹃ 史 記 評 林 補 標 準 ﹄ 序 ﹂ ︻ 八 ︼ 書 簡 ・ ﹁ 林 孝 絢 宛 書 簡 草 稿 ﹂ 徳島県立図書館・目録番号三│一│三一一一 ( 明治三十五年) 林 大 人 閣 下 。 昨 者 、辱貴使賜盛候。某与結城及館中諸子 、 斉班酔飽、談劇 至夜深 。 快甚 。 何度如之 。 某貧欲挨富貴再来奉謝而巴 。 更得琴 南先生大作、堂々数百言 。 筆端有神、政々鎌々、若出金石。某 欲次瑠街、不能出一辞 。 是亦欲挨他日奉酬也 。 大人見先生之次、 為菜一言幸甚 。 他不細述 。 敬頒 。 台 祉 岡 本 監 輔 再 拝 具 再某当以明天赴蘇州 。 因托﹃先覚士山﹄上巻於伊藤氏 。 就大人 謀伏望、大人与琴南先生、一一宥正誤直附削帆氏不堪大願 也 。 林 大 人 ( 註 1 ) 関下 。 空 昔 、 貴 ( 註 2 ) の 盛 僕 ( 註 3 ) を賜 はら しむるを か た 一 駅 け の う す 。 ぞ れ が し 某と結城(註 4 ) 及び館中の諸子(註 5 ) と、斉斑酔飽し、談劇、 ハ hU 9 u

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し そ れ が し 夜深に至る 。 快なること甚だし。何の慶か之に如かん。某 ま 貧なるも富貴を竣ちて再来して奉謝せんと欲するのみ。更に琴 南 先 生 ( 註 6 ) の 大 作 ( 註 7 ) 、堂々数百言を得 。筆端 有神 、 浪々鍬 そ れ が し 々 ( 註 8 ) として、金石より出づるがごとし。某時哨曲聞に次せん ( 註 9 ) と欲するも、一辞も出だすあたはず。是も亦他日を挨ちて そ れ が し 奉 酬 せ ん と 欲 す る な り 。 大 人 、 先 生 に 見 ゆ る の 次 は 、 某 の 為に一言せば幸甚なり。他は細述せず。敬頒。 台 祉 岡 本 監 輔 再 拝 具 そ れ が し 再 。 菜 、 当 に 明天を以て蘇州に赴く 。 因りて﹃先覚志﹄ 上巻を伊藤氏に托して大人に就かしむ。謀りて伏して望む、 大人と琴南先生とに、正誤を一看して直ちに剤附氏(註叩)に附 されんことを 。 大願に埴へざるなり。 ( 註 1 ) 林 孝 絢 。 詳 細 は 不 明 で あ る が 、 ﹃ 清 国 遊 記 ﹄ ( 徳 島 大 学 総 合 科 学 部 紀 要 言 語 文 化 研 究 6 に ﹁ 岡 本 章 庵 ﹃ 清 国 遊 記 ﹄ 翻 刻 ・ 釈 註 稿 ﹂ を 掲 載 し た ) の 明 治 M 年 3 月 間 口 日 ・ M H 日 ・ 幻 自

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日 に 彼 の 名 が 見 え る 。 ( 註 2 ) 林 孝 尚 を さ す 。 ( 註 3 ) 立 派 な ご ち そ う の -﹄ と 。 ( 註 4 ) 結 減 琢 。 詳 細 は 不 明 で あ る が 、 ﹃ 清 国 遊 記 ﹄ の 明 治 M M 2 月 日 日 ・ 3 月 ロ 日 ・ 幻 自 ・ 5 月 幻 日 ・ お 日 ・ 初 日 ・ 6 月 幻 日 に 彼 の 名 が 見 え る 。 ( 註 5 ) 中 国 杭 州 の 日 本 領 事 館 の 職 員 を さ す も の と 思 わ れ る 。 ( 註 6 ) 中 国 の 文 人 で 、 後 に 北 京 大 学 教 授 。 岡 本 は 彼 に ﹃ 大 日 本 中 興 先 覚 志 ﹄ の 序 文 を 依 頼 し て い た 。 ﹃ 清 国 遊 詑 ﹄ の 明 治 M M 3 月 刊 日 目 ・ 幻 日 ・ 6 月 刊 品 目 に 彼 の 名 が 見 え る 。 ( 註 7 ) 林 琴 南 が 岡 本 意 庵 に 贈 っ た 漢 詩 を さ す も の と 思 わ れ る 。 ( 註 8 ) 金 属 や 玉 が 互 い に ふ れ て 鳴 る 滑 ら か な 音 の こ と 。 林 琴 南 の 詠 ん だ 漢 詩 を 形 容 し た も の 。 以 下 の ﹁ 謡 曲 酬 ( 玉 の よ う に 美 し い 詩 ) ﹂ も 同 じ 。 ( 註 9 ) 贈 ら れ た 漢 詩 の 餓 字 を 用 い て 返 歌 を す る こ と 。 ( 註

ω )

出 版 の た め の 版 木 を 彫 る 人 、 転 じ て 出 版 す る こ と 。 こ こ で は 出 版 社 を さ す 。 ︻ 九 ︼ 短 文 ・ ﹁ ﹃ 大 東 合 邦 議 ﹄ 序 ﹂ 柳井藤吉﹃大東合邦論﹄(海業社蔵) (明治二十六年月)

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27-大東合邦論序 一 ( 註 1 ) 森本丹芳嘗慨東洋諸国之衰険、謂﹁今日急務、莫如合我与朝鮮 為一大聯邦﹂。著一書日﹃大東合邦論﹄ 。 展市関之、上下古今、 貫穿中外、通観遼覧、公明無私。使読者有巡遊数十年後世界、 目盤旺衰実況之想 。余嘗遊滑菌、 観其土字広遠 、政令 難普 。窃 画一策 。調 ﹁宣分間国為四五、自領美回数百夫 、其余尽簸賢 者 。 而君統伝巳後、大権止彼身 。蓋欲 其合縦締盟、交相扶持、以保 内治禦外侮﹂ 。 与丹芳合邦之意相為表裏者也 。然余策 徒陳他人過

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失、而其言不過幾千。国為太簡。不如丹芳反諸己知英非。而堂 堂数万言、創切 ・ 詳明・的確也 。 如丹芳者、可謂先覚之士、能覚斯 民者失。顧朝鮮人、固植成性、其通海外事情者極官界。則恐其於丹芳 之言、未必免有所狐疑也。余請為丹芳叙其閲歴、使読者知其言有 淵 源 。 庶 平 其 有 益 失 。 森本丹芳は嘗て東洋諸国の一気配(註 2 ) するを叫き、ぉ部へらく ﹁今日の急務は、我と朝鮮とを合して一大聯邦と為すにしくは ひ ら み なし﹂と。一書を著して﹃大東合邦論﹄と日ふ。展きて之を閲 れば、古今を上下し(註 3 ) 、中外を貫穿し、通観遠覧、公明無私 なり。読者をして数十年後の世界に巡遊し、旺表(註 4 ) の実況を 目撃するの想あらしむ。余嘗て清国に遊び、其の土字(註 5 ) の あ ま ね ひ そ か 広 遠 に し て 、 政 令 の 普 く し 難 き を 観 る 。 窃 に 一 策 を 画 す 。 お も へ こ う と ︿ 謂 ら く ﹁ 宜 し く 圃 国 ( 註 6 } を分ちて四五と為し、自ら美回 数百夫を領し、其の余は尽く賢者に譲るベし 。 而して君統の伝 はりし巳後は、大権、彼の身に止まらん。蓋し其れ合縦締盟し て、交ごも相扶持し、以て内治を保ち外侮を禦せんと欲す﹂と。 い た づ ら 丹芳の合邦の意と相表裏を為す者なり。然れども余の策は徒 に他人の過失を陳ぶるのみにして、而も其の言は幾千に過ぎず(註 と こ れ 7 ) 。 闘 に 太 だ 簡 た り 。 丹芳の諸を己に反して其の非を知る にしかず 。 而して堂堂数万言、倒切(註 B ) ・ 詳明・的確なり。丹芳 の如き者は、先覚の士にして能く斯の民を覚らしむる者と謂ふベし。 朝鮮人を顧みるに、間隔の性左成り、其の海外の事情に通ずる者は す ︿ 緩めて寡なし。則ち其の丹芳の言に於て未だ必ずしも狐疑(註 9 ) す る所あるを免れざるを恐る。余譜ふ、丹芳の為に其の閲歴(註

ω

)

を叙 して、読者をして其の言の淵源する所あるを知らしめん。其れ益ある ち か に 庶 し 。 ( 註 1 ) 本 文 の 内 容 に そ っ て 便 宜 上 分 節 し た 。 ( 註 2 ) お と ろ え 、 く ず れ る こ と 。 ( 註 3 ) こ こ で は 歴 史 を 通 観 す る 、 の 意 か 。 ( 註 4 ) 盛 衰 に 同 じ 。 ( 註 5 ) こ こ で は 国 土 の 意 。 ( 註 6 ) 全 国 の 意 。 ( 註 7 ) 岡 本 が 上 記 の 策 を 記 L た 文 章 に つ い て は 未 見 。 た だ し 同 旨 の も の は ﹃ 亜 細 亜 之 存 亡 ﹄ ( 哲 学 書 院 ・ 明 治 三 三 年 ) に 見 ら れ る 。 ( 註 8 ) 適 切 で ゆ き と ど い て い る こ と 。 ( 註 9 ) 疑 い 深 く 決 心 が つ か な い こ と 。 ( 註 叩 ) 経 過 。 こ こ で は 経 歴 の 意 。

o o

n L 丹芳本姓樽井氏。名藤吉 。 大和国字智郡人 。 家世為木街 。 幼不噌 学。村人有岡田重郎 。 巧国詩 。 就而学駕 。 不甚進 。 隣邑豪族北氏 。 号酔陶園。窪干経学。毎夜就之修経 。 会大政維新、頓懐報国之志、

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謂﹁吾為商買以致巨万、是一己之私利耳 。 不如興国益与 一 世共 之 也 ﹂ 。 持母既没、父亦過知命、而有祖母猶存、不忍辞家遠遊 。 明治六年 。 決意托事商販登京 、 入井上頼国之内 。 居二載 。 屡上 書検時弊不聴 。 遂絶志位途 。 放浪市井、非議政治 。 始為政府所 忌 。 時有稲湾済 。 辞官隠干都下 。 本称能文、因日草稿、就之乞 正、而衣食不支 。 乃創新報不傷 。 尋為華族会館雑役 、 縫資糊口 。 未 幾 接 父 一 卦 音 、 恥 志 業 不 成 、 不敢奔喪 。 関西郷隆盛挙兵 、 上書右大 臣岩倉公、亦不聴 。 益為官忌 。 因辞会館赴奥羽、将募兵応隆盛 、 失 期不果 。 帰京潜匿 。 窮益甚 。 訪友人某 。 某勧探無人島子朝鮮近海 。 乃倶去京抵筑紫 。 会某復讐、遅留佐賀・長崎間一歳余 。 十 二 年 冬 、 俄小舟泥朝鮮海 。 遭逆風験因 。 更俄舟探之 。 出没雲鴻森荘之問、往 復四次 。 遂知無島市止 。 是為明治十四年十 二 月 。 時圏内政党紛起 。 丹芳在長崎 。 会諸友唱自他平等之説 。 { 呂誼其違集会法 。 繋獄歳余 。 十七年 。 期満出獄 。 開法箪攻福州 。 謂﹁固定関東洋諸国之安危 。 不 止清国之憂也 。 直航清園 、 将救解之 。 有我流寓書生 、 窃結彼国 浮浪、謀与法人内応者﹂ 。 丹芳百方陳其不利、終寝 。 有人告政府 謂﹁丹芳煽動使然﹂ 。 政府悪之尤甚 。 及帰、繋大坂獄 。 数月而解 。 再入京 。 間政府将報外国、麓革条約 、 調﹁是損国権之甚也﹂ 。 将 印刷密書、以阻渇之 。 事覚繋獄 。 二十二年二月 。 天 皇 発 布 憲 法 、 特赦国事犯者 。 出獄帰郷 。 郷人欲其為衆議院議員 。 丹芳財産蕩 尽無余 。 因襲森本氏、続保資格 。 二十五年二月 。 終為議員云 。 丹芳、本姓は樽井氏 。 名は藤吉 。 大和国字智郡(註 1 ) の 人 な り 。 家 は 世よ木商たり 。 幼きときは学を噌まず 。 村人に岡田重郎あり 。 国詩 こ れ ( 註 2 ) に巧なり 。 就きて駕に学ぶ 。 甚だ し く は進まず 。 隣邑に豪族 ︿ わ 北氏あり 。 酔陶固と号す 。 経 学 に 窪 し 。 毎夜 、 之に就きて経を修 ル ﹄ 畠 偶 マ 飴 “‘ ロ ヘ む 。 大政の維新するに会ひ、頓に報国 の 志を懐き 、 調 らく ﹁ 吾 、 商買たれば以て巨万を致すも、是れ一己 の 私利 の み 。 国益を輿 し 一 世と之を共にするにし か ざるな り ﹂ と 。 時に母は既に没し 、 父 も 亦 知 命 ( 註 3 ) を過ぎ 、 而も祖母の猶ほ存するあらば、家を辞 して遠遊するに忍びず 。 明治六年 。 意を決して事を商販に托し て京に登り、井上頼国(註 4 ) の門に入る 。 居ること 二 載 。 屡 し ぱ上書して時弊を論ずるも聴かれず 。 遂に仕途(註 5 ) を志すを 絶 つ 。 市井を放浪し、政治を非議す 。 始めて政府の忌む所と為 る 。 時に稲津済あり 。 官を辞して都下に隠る 。 本より文を能く すと称す 。 因りて日々稿を草し、之に就きて正を乞ふ 。 而れど も衣食は支せられず 。 乃ち新報を創るも傍れず 。 尋いで華族会館 ( 註 6 ) の 雑 役 と 為 り 、 ゎ 働 か に 糊 口 に 資 す ( 註 7 ) 。 未だ い 料 ︿ ならず して父の卦音に接するも、志業の成らざるを恥ぢ、敢て喪に奔らず 。 西郷隆盛の兵を挙ぐる(註 8 ) を聞き、右大臣岩倉公に上書するも、 亦聴か札ず。益ます官に忌まる 。 因りて会館を辞して奥羽に赴き、 将に兵を募りて隆盛に応ぜんとするも、期を失して果たせず 。 京に 帰りて潜置す 。 窮すること益ます甚だし 。 友人某を訪ぬ 。 茶、無人島 い た を朝鮮近海に探るを勧む 。 乃ち倶に京を去り筑紫に抵る 。 某 の 復 Q d n L

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讐に会し、佐賀・長崎の聞に遅留すること一歳余。十二年冬、小品川に つ う か は か へ つ 倣きて朝鮮海に泥ぶ。逆風に遭ひて験せ回る。更に舟に倣きて之 う ん と う ぴ ょ う ぼ う を探る。雲鴻(註 9 } 森荘(註叩)の聞に出没し、往復すること四 次 。 遂に島なきを知りて止む 。 是れ明治十四年十二月たり。時に国 内は政党紛起す。丹芳は長崎に在り。諸友の自他平等の説を唱ふる た が せ に会す。官、其の集会法(往日)に違ふを鑓む。獄に繋がるること歳 余 。 十七年。期満ちて出獄す 。 法 ( 註 ロ ﹀ 箪 の 福 州 ( 註 日 ) を 攻 む る を 聞 ぬ も へ く。謂らく﹁固定れ東洋諸国の安危に関はる。清国の憂ひに止 た だ まらざるなり。直ちに清国に航し、将に之を救解せん。我が流 寓 ( 註 MH) の書生の窃に彼の国の浮浪を結し、法人の内応する者と や 謀ることあらん﹂と。丹芳、百方其の不利を陳ぶ。終に寝む 。 人ありて政府に告げて調ふ﹁丹芳の煽動して然らしむ﹂と。政 に ︿ 府、之を悪むこと尤も甚だし 。 帰るに及び、大坂の獄に繋がる 。 数月にして解かる 。 再び京に入る 。 政府の将に外国に報じ、条 仙のもへ 約を飯廿早(註日)せんとするを聞き、調らく﹁是れ国権を損す そ あ っ ることの甚だしきなり﹂と 。 将に密書を印刷し、以て之を阻渇(註 凶 ) せ ん と す 。 事覚られ獄に繋がる。二十二年二月 。 天皇、憲 法を発布し、国事犯の者を特赦す 。 出獄して郷に帰る。郷人、 其を衆議院の議員と為さんと欲す 。 丹芳は財産蕩尽して余なし 。 わ ず か つ ひ 因りて森本氏を襲ぎ、綾に資格を保つ 。二 十五年二月。終に 議員と為ると云ふ 。 ( 註 I ) 現 奈 良 県 五 条 市 。 ( 註 2 ) 和 歌 の こ と 。 ( 註 3 ) 五

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歳 の こ と 。 ( 註 4 ) 一 八 三 九

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一 九 一 四 。 国 学 者 。 平 田 篤 胤 の 気 吹 舎 に 入 門 。 維 新 後 は 神 習 舎 を 開 く ほ か 、 教 部 省 に 出 仕 、 ま た 大 神 神 社 少 宮 笥 を 歴 任 し た 。 後 に 宮 内 省 に 移 り 、 矢 野 玄 道 ( は る み ち } と と も に 系 図 編 纂 に 従 事 し た 。 皇 典 講 究 所 ( 現 園 田 牢 院 大 皐 ) の 設 立 や ﹃ 古 事 類 苑 ﹄ 編 集 に 尽 力 し た 。 ( 設 5 ) 役 人 に な る こ と 。 ( 註 6 ) 現 千 代 田 区 内 幸 町 に あ っ た も の で 、 江 戸 期 は 島 津 港 邸 で あ っ た も の 。 一 八 七 四 年 に 創 立 さ れ た 。 ( 註 7 ) 生 活 す る こ と 。

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30-( 註 8 ) 明 治 一

O

年 の 西 南 戦 争 を さ す 。 ( 註 9 ) は る か 向 こ う 側 に 雲 の よ う に 見 え る 海 の こ と 。 ( 註

ω }

水 の 広 々 と し た さ ま 。 大 海 原 。 ( 註 日 ) 明 治 二 二 年 に 定 め ら れ た 集 会 条 例 の こ と 。 ( 註 ロ ) フ ラ ン ス の こ と 。 ︿ 註 門 口 ) 現 徳 建 省 福 州 市 。 事 件 は 清 仏 戦 争 を さ す 。 ( 註 は ) 流 浪 し て 他 郷 ・ 他 国 に 住 ん で い る こ と 。 ( 註 日 υ ) 改 め る こ と 。 ( 註 M 山 ) は ば み お さ え る こ と 。

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-一

丹芳為人、大都如此。下獄屡次、遂著﹃大東合邦論﹄。其志可知 也 。 丹 芳 自 謂 ﹁ 才 不 称 士 山 、為学亦不甚 博 ﹂ 。 而 其 著 ﹃ ム ロ 邦 論 ﹄ 、 在九年前、及下獄、忽失稿。更以漢文編次之 。 来請余評。余初 不識丹芳 。 丹芳嘗見蒼海副島先生、服其学識、遂為弟子 。 而余 素辱先生之知 。 故先生使丹芳就余問津也 。 余之随劣、何足与言 。 然亦志存経世者也 。 維新前、行何太全島、審其風土人物 。 自謂 ﹁ 前 無 古 人 ﹂ 。 後奉命、再赴其地、撫綴五十度以北土夷、大半帰 我版図。自調﹁憂労吾猶人也﹂ 。 不得志而辞罷 。 聞五島西北海中 有一島。日竹島 。 自長崎航福江、過大宝岬、出嵯峨島高方 。 世 軍 高 機望 、低佃久之。将俄舟航之。披図細看、知其為済州而止。事在 明 治六年。其跡与丹芳相類 。 後遊消因 。 自北京抵盛京、出牛荘至紬 巌 。 欲観朝鮮西境不果 。 遍遊北省各処而帰 。 有 ﹃ 消 国 紀 行 ﹄ 等 作 。 米 能行平世 。 歴任大学・中学、関十五年 。 著数百万言、欲行之子東洋 諸国。鍍板不信、鼠構巣窟 。 慨然投筆、再探北陸。謂﹁東北事体、 有関全因。不可 一 日 忽 ﹂ 。 而西北境及朝鮮之勢、則有尤急駕者 。 余不得而詳之也 。 拠丹芳此編、則知今日合邦之事 。 実為我両国 不可失之機会 。 可以大有為乎字内也 。 室奮而賛之、喜而序之平 。 余未能如丹芳再三繋獄不屈、鋭意率先、大声疾呼、而阪窮二十余 年。曽無一英豪為余先容者 。 立論日大、而処身益因。深感吾生之無 調 。 其曽任拓地之官、猶丹芳之縫列議員也 。 仰天附哉 。 陣 腕 後 人 、 殆 所 謂 同 類 相 憐 者 也 。 暗 唱 。 明 治 二 十六年笑巴六月 。 阿波岡本監輔撰 。 お お む ね 丹芳の人と為りは、大都此の如し 。 獄に下ること慶次、遂に ﹃大東合邦論﹄を著はす。其の士山、知るべきなり。丹芳、自ら 謂ふ﹁才は志に称はず、山{子を為すも亦甚だしくは博からず﹂と 。 市も其の著﹃合邦論﹄は、九年前に在るも、獄に下るに及び、 忽ち稿を失ふ。更に漢文を以て之を編次す。来りて余に評を詩 ふ。余初め丹芳を織らず。丹芳、嘗て蒼海副島先生(註 1 ﹀ に 見 え 、 其の学識に服し、遂に弟子と為る 。 而して余は素より先生の知 か た じ け の を 辱 う す 。 故に先生、丹芳をして余に就きて津を問はしむ { 註 2 ) るなり 。 余は之れ陪劣にして、何ぞき口を与ふるに足らんや 。 然れども亦志は経世に存する者なり 。 維新前、何太全島を行き、 お も へ 其の風土人物を審らかにす 。 自 ら 謂らく﹁前に古人なし(註 3 ) ﹂と。後、命を車中じ、再び其の地に赴き、五十度以北の土夷 お も へ を撫緩し、大半を我が版図に帰す 。 自 ら 謂 ら く ﹁ 吾 を 憂 労 す る は猶ほ人のごときなり﹂と 。 志を得ずして辞し罷む 。 五島の西 北海中に一島あるを聞く 。 竹 島 ( 註 4 ) と日ふ。長崎より福江に航 ぜ ん ぼ う し、大宝岬を過ぎ、嵯峨島の努に出づ 。 高きに登りて機望し、 て い か い つ ひ ら 低佃之を久しくす。将に舟に俄きて之に航せんとす。図を披きて 細看するに、其の済州(註 5 ) たるを知りて止む 。 事は明治六年に在 り 。 其 の 跡 は 丹 芳 ・ ど 相 類 す 。 後 、 清 国 に 遊 す 。 北 京 よ り 盛 京 ( 註 6 ) に い た し ゆ う げ ん 抵 り 、 牛 荘 ( 註 7 ) に 出 で 納 巌 ( 註 8 ) に至る 。 朝鮮の酋境を観ん

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31-あ ま ね と欲するも果たせず。遍く北省の各処に遊して帰る。 ﹃ 清国紀行 ﹄ ふ 等の作あり 。 未だ 世 に行ふあたはず 。 大学 ・ 中学を歴任し(註 9 ) 、 関 ること十五年。数百万言を著はし、之を東洋諸国に行はんと欲す 。 鍍 板(註目するも管れず、鼠、巣窟を 構 ゆ 。 慨 然として筆を投じ、再 鈍 M a u ヘ び 北 陸 を 探 る ( 註 日 ) 。 謂 ら く ﹁ 東 北 の事体は、全 国 に 関 するあ ゆ る が り 。 一 日 も 忽 せ に す る べ か ら ず ﹂ と 。 而るに 西北 境及び 朝 鮮 こ れ つ ま び ら か の勢は、則ち尤も駕より急なる者あり 。 余 、 得 て 之 を 詳 にせざるなり。丹芳の 此 の編に拠りて、則ち今日の合邦の事を 知る 。 実に我が 両 国の失ふべからざるの機会たり。以て大いに 危 ん 宇内に為すことあるべきなり。童ぞ奮ひて之に賛し、喜びて之に 序せぎらんや 。 余、未だ丹芳の如く再三獄に繁がるるも屈せず、鋭 意 率 先 し て 、 大 声 疾 呼 ( 註 ロ ) し 、 院 副 射 ( 註 日 ) す る こ と 二 十 余 年 な る あ たはず 。 曽て一笑豪も余の先容{註 M )と為る者なし 。 論を立つること 日 々大なるも、処身益ます困ず 。 深く吾生の謂ふこ

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なきを感ず 。 わ ず か 其の曽て拓地の官に任ぜらるるは、猶ほ丹芳の縫に議員に列 するがごときなり 。 天を 仰 ぎて附なる哉。後人を陣脱するに、 必 あ 殆ど所調同類相憐れむ者なり 。 暗 唱 。 明治二十六年美巴六月 。 阿波岡本監輔撰 。 ( 註 1 ) 副 自 問 種 臣 ご 八 二 八

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一 九

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五 ) 。 佐 賀 出 身 の 幕 末 ・ 明 治 期 の 外 交 家 。 明 治 六 年 政 変 の 朝 鮮 使 節 派 遣 問 題 で は 敗 れ て 野 に 下 っ て い る 。 ( 註 2 ) 学 問 上 の 教 え を 求 め る こ と 。 A註 3 ) 自 分 よ り も 前 に そ の 事 を 為 し た 者 が い な い 、 の 意 。 ( 註 4 ) 島 根 県 の 隠 岐 と 健 園 の 臨 時 陵 島 と を 結 ぶ 線 上 に 位 置 す る 岩 自 問 。 長 崎 県 の 五 島 沖 に あ る と す る の は 限 っ た 情 報 で あ っ た 。 ( 註 5 ) 緯 国 の 南 端 に 位 置 す る 済 州 島 の こ と 。 ( 註 6 ) 現遼寧省漕陽市 。 ( 註 7 ) 現遼寧省営口市。 ( 註 8 ) 現遼寧省鞍山市 。 ( 註 9 ) 明 治 一 四 年 か ら 東 京 大 学 予 備 門 に お い て 、 明 治 一 九 年 か ら 第 一 高 等 中 学 校 に お い て 、 ま た 明 治 二 四 年 か ら 留 学 館 に お い て 教 鞭 を と っ て い る 。 ( 註 叩 ) 出 版 す る こ と 。 ( 往 日 ) 明 治 二 四 年 の 千 島 ・ 択 捉 探 索 及 び 北 海 道 周 遊 を さ す 。 ( 註 ロ ) し き り に さ け ぶ こ と 。 ( 註 日 ) 苦 し む こ と 。 ( 註 M ) 紹 介 し て 推 薦 す る こ と 。

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一 ︻ 十 ︼ 短 文 ・ ﹁ ﹃ 史 舵 評 林 補 棟 ﹄ 序 ﹂ 有弁進事周﹃史記評林補標﹄(海業社蔵 ) (明治十六年六月 ) 史記補様序 一 ( 註 1 ) 嘗読﹃尚書﹄、観其叙唐虞三代、以為漢土歴史之宗 。 而 ﹃ 左 伝 ﹄ ﹃ 戦

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国 策 ﹄ ﹃ 史 記 ﹄ 次 之 。 皆為実録典要。独﹃史記﹄上補六経之遣、下関百 史之法 。 其体莫不兼該 。 其文章変幻瓢逸、独歩千古、間有義理可議 者 。 替諸長江大河液液泊 、畑 、 自 天 際 至 、 驚 波 洪 潟 、 浩 紗 一 一 籍 、 而 浅 渚曲浦、鎗開其問、要不審平大体之美 。 使読者各随其才、油然自得 鷲 。 不可与彼校曲直於分寸、争是非平奪髪、而其実無益於世道者、 同日而語也 。 余欲著﹃尚書﹄努制、次第而下、遂及﹃史記﹄、以便読 者 。 窃謂﹁是今日漢学第一之急也﹂ 。 湿 潤 士 山 至 今 未 果 。 み 嘗て﹃尚書﹄を読みで、其の唐虞三代を叙するを観、以て漢土歴 史 の 宗 と 為 す 。 而 し て ﹃ 左 伝 ﹄ ﹃ 戦 国 策 ﹄ ﹃ 史 記 ﹄ 、 之 に 次 す 。 皆 、 実 録 の 典 要 ( 註 2 ) たり。独り﹃史記﹄のみ上は六経の遣を補ひ、下は百史の 法を開く 。 其 の 体 は 兼 該 ( 註 3 ) せ ざ る は な し 。 其の文章は変幻瓢逸に ま ま こ れ して、千古に独歩し、間義理の議すべき者あり 。 諸を替ふるに、長 こ ん こ ん ニ っ こ っ 江大河の液液(註 4 ) 泊 泊 ( 註 5 ) と し て 、 天 際 よ り 至 り 、 驚 波 ( 註 6 ) 洪 鴻 ( 註 7 ) 、 浩 紗 ( 註 8 ) 一 碧 { 註 9 ) として、浅渚曲浦の其の聞に 錯周(註叩)するも、要は大体の美を害せず。読む者をして各おの ゅ う ぜ ん 其の才に随ひて、油然(註日)として自得せしむ。彼の曲直を分寸に 校 し 、 是 非 を 奪 髪 に 争 ひ て ( 註 ロ ) 其 の 実 は 世 道 に 益 な き 者 と 、 同 日 に 語 る べ か ら ざ る な り 。 余 、 ﹃ 尚 喜 ﹄ の 努 訓 を 著 は し 、 次 第 に し て 下 り 、 ひ そ か お も へ 遂に﹃史記﹄に及ぼし、以て読者に便ぜんとす。窃に謂らく﹁是 れ今日の漢学の第一の急なり﹂と。 E m 志 ( 往 日 ) 、 今 に 至 る ま で 未 だ 果 た せ ず 。 ( 註 1 ) 本 文 の 内 容 に そ っ て 便 宜 上 分 節 し た 。 ( 註 2 ) 基 準 で あ る こ と 。 ( 註 3 ) 兼 ね 備 え る こ と 。 ( 註 4 ) 水 が さ か ん に 流 れ る さ ま 。 ( 註 5 ) 水 が 速 く 流 れ る さ ま 。 ( 註 6 ︺ 大 き な 荒 波 の こ と 。 ( 註 7 ) 大 波 の こ と 。 ( 註 8 ) 広 く は る か な さ ま 。 ( 註 9 ) 膏 一 色 の さ ま 。 ( 註 叩 ) か わ る が わ る そ ば だ つ こ と 。 ( 註 日 ) 感 情 の わ き お こ る さ ま 。 ( 註 ロ ) ﹁ 曲 直 を 分 寸 に 校 す ﹂ ﹁ 是 非 を 奪 妥 に 争 ふ ﹂ 、 い ず れ も 些 一 宋 な 問 題 に こ だ わ る こ と 。

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33-( 註 日 ) 志 を 果 た せ ず に 死 ぬ こ と 。 一 一 報告社長大野発達、謁我有井進融再就明凌以棟﹃史記評林﹄訂正誤 謬、其評論来備者、折衷於古今諸家、間以己見補之、命日﹃補標﹄。 進脊者、故徳島藩文学、柴碧海之内人、岩本賓庵高足弟子。於予為 同門。余服其学問掩博精深、卓越時輩。恨役人未之織。而発運独能 知之。何其卓也。頃刻成、徴序於余。余之不文、其欄之何。発運母

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乃大誤乎 。 顧世之知進斎者、莫余若也 。 因 弁 一 品 一 一 一 口 於 巻 首 、 使 世 知 進 斎士山切世道決非尋常俗儒博虚誉営私利之流云 。 明治十六年六月中涜 阿 波 岡 本 監 輔 撰 報告社長大野発還、我が有井進寮の明の凌以棟の﹃史記評林﹄に就 きて誤謬を訂正し、其の評論の未だ備はらぎる者は、古今の諸家を 折衷し、間己の見を以て之を補ひ、命づけて﹃補標﹄と日ふを謁す。 進擦は、故の徳島藩の文学にして、柴碧海(柱 l ) の門人、岩本質庵 ( 註 2 ) の高足の弟子たり 。 予に於て同門たり 。 余、其の学問の流博精 深 ( 註 3 ) に し て 、 時輩に卓越するに服す 。 世人の未だ之を識らざるを 恨む 。 市るに発還は独り能く之を知る 。 何ぞ其れ卓なるや 。 頃 く して刻成り、序を余に徴む 。 余の不文にして、其れ之を何と謂はん。 む し ろ み し 発運、母乃大いに誤らんか 。 世の進斎を知る者を顧るに、余に若く ものはなきなり 。 因りて 一 言を巻首に弁じ、世をして進斎の志の世道 ひ ろ に切にして決して尋常俗儒の虚誉を博め私利を営むの流に非ざる を知らしむと云ふ。 明治十六年六月中涜(註4) 阿 波 岡 本 監 輔 撰 ( 註 1 ) 柴野碧海のこと 。 柴野栗山の弟貞穀の第二子で、栗山の養子となっ た 。 徳島藩儒として学政を統括した 。 程 朱 学 者 。 ( 註 2 ) 阿 波 藩 の 儒 学 者 。 有井進斎や岡本掌庵に教授したが、後に岡本とは 挟 を 分 か っ た 。 岡本に﹁貨庵岩本翁へ奉るの書﹂(徳島県教育委員会編 ﹃ 岡 本 氏 自 伝 ・ 窮 北 日 誌 ﹄ 所 収 、 昭 和 三 九 年 } が あ る 。 。 ( 註 3 ) 奥深くて広く、しかも精密であること 。 ( 註 4 ) 中旬に同じ 。 a n T q J

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