「中世法思想の小研究」序説
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(2) . 北 海 道 学 璽 大 学 紀 要 (第一部). 第5 巻 第1号. 昭和29年 8月. 「中 世 法 思 想 の 小 研 究」 序 説 高. 坂. 直. 之. 北海道学蔓大学旭川分校法律・政治学研究室. ‘Short Studi A Preface to ‘ es of LegaI ’ ’ iddl Thoughtsin the N1 e Age. Naoyuki KosAKA :. 次. 目 論 緒 統一的本質 1 西欧的法理念の . 一法的思念の底流 をなすもの- 2 . 中世法思想の主流及びその背景の概観 1 . 中世法学の非独創性論批判 江 . 中世法思想と世界法思想との葉連 .. -中世 人の民族意識超越性- 頂. 中世法思想の近代的性格 1 . ヒューマニズムに幕く 法思想の帰結 2 . マルクス主義法思想 と中世法思想との 対立 3 . 中世法思想の民主主義的性格. l n; Learn hence for A“αe郷 R〆e sajuSt EStee T 珍の喝. TO COPy 八おす銘γ8isto coPy 7 ・ f i i i t ) c sm, 1 (A. Pope: An Essay on Cr . .139. 緒. おいてのみ史的事実となって発現されるのであって、 現 実の社会は、 そのような極端な観念論のみで割切れるも のでない。 各個人の法に対する心構えは、 形而上的に推. 論. 1 . 西欧的法理念の統一的本質 過去数千年の精神史において観られるように、 法 思想 の推移もまた例外なく苦悶と葛藤の連続であったといっ. 論せられたものよりも遥かに多くの類似点を見出すこと 2 )故に法思想 の構成とその発展とは、 時代色、 ができる。. ても、 強ち過言ではない。 しかしこの時空的に雑多な諾 々の法思想群も、 理論上或いは政治上共通の敵に対して. いわば社会唐勢の具体的要求によって或る程度潤色せら. は、 或る程度の協同戦線を敷いてこれに対 醸 した事実が あり、 また生命、 自由及び幸幅追及に関する個人の権利. すものの中に、 何かしら一貫 したものが看取せられるの は、 強ち個人の主観とのみいい切れないものがある。 古. 乃至社会的衡年の原則については、 遂にこれを否定し得 なかったということにおいて、 或る程度の融合点を我々 1 )法の目指す理念は世界秩序の希求から発 し、 は見出す。. 代の素朴な個性の中に発芽した自然法思想も、 漸次時代 の実際的要求によって色彩づけられて、 遂に十三世紀の. 究極の理想として個人の完成を期することにあるのであ って、 これを度外覗する法理念の存在は許されない。 近. 世における実証法主義的理念も、 社会主義的法理念も、 つまるところこの個人の人権と衡平の原則を 是 認 し つ つ、 ヒューマニズム実現の要求に究寛の目標を置くので. れてきたというだけのこと ,であって、 それらの本質をな. 絢欄たる体系を現出するに至り、 その後多少の迂余曲折 は免かれなかったが、 近来再び自然法のルネッサンスを 唱える声が世界の隅々ま で響くようになったこと、 また. いわゆる啓蒙期以後の合理主義的自然法を批難し、 実証 法学派の主張を基礎づけて、 解釈法学、法史学など、近代 i i he Rechts‐ t 法学の発達に貢献した歴史法学派 (h s or s c. あって、 ただこの人 道主義を如実に表現して余すところ のない自然法なる術語のみを、 彼等はヒステリカルな態. l ) も、 煎 じつめると、 その考え方 が極めて中世的 e s chu であることなどを観ても、 思い半ばに過 ぎるの感に打た. ●に過ぎないのではないかとさえ思われるの 度で排撃する. れるのである。 なるほど歴史法学者は、 法を以て純粋理性的のものと. である。. 元来法思想上の乳蝶は、 極端な観念的な理論の枠内に. なし、 外面的でない倫理観念からの完全爺離を標梼する. - 22 -.
(3) . 高. 坂. ことによって、 第一原因と絶縁のできない中世法理論を シャットアウトしたかに見えた。 しかし彼等は民族精神. 直. 之. 7 ) る。. i lk (Vo t ) を神聖蔵するの余り、 結局経験的個性的 sge s 国家の神俗性を否定できな い立場に置かれて しまったこ. ところが往々にして、 中世法思想とヒュ←マニズムと を、 二律背反の如く考える者がないわけではない。 これ は歴史的認識として根拠がないぽかりでなく、 一面から. とに気がついた筈である。 つまり法より創造主 の観念を. i tha )の現世文化否 いえば、 中世におけるカタリ源 (Ca t. 追い出したことになったこの学振が、 いつの間にか最高 の法である国家の神格化を認めていたのである。 しかも. 定の異端的法思想と、 正しき意味における中 世 法 思想 i lt (Ca thol hough cl ega t ) とを混同 しようとする誤謬 s. 個人の平等は彊調するが、. 民族国家的見地より階級づけ の必要、 偉大な指導者への渇仰、 その強権保持を是認す. を犯したもの, であって、 もはや探るに足らぬ謬説といわ 8 ばならない ね 。J ともあれ中世的法精神、 換言すればス. るなどということは、 中世の有機体的法理論とも、 事実 上とはい えないまでも、 観念上の関連を我 々は認 めない 3 ) わけにはいかない。. 人類の法規範思想の同質性、 人類の法的共同使命を確信. また合理主義的自然法を極端に利用して、 啓蒙期以後. ー i i t コラステイ シズム(Scho a s sm)に基く自然法精神は・ c して、 そこに人道主義の本質を認めようとすることにあ る。 まことに中世法思想は、 あくまで基督教的恩寵啓示. の西欧法理 念の世界に偉大な貢献をな したルソー( J J - . .. によって、 世界観と人間観、 歴史観と人格観等を包含す. Rous eau) ですら、 彼の簡明にして道徳的に輩固な国家 s. る員諦が、 人間法理念世界という場において獲得樹立せ. 形成を標梯するところに、 その民主主義的法思想 が妙か らず中世的なもの--特にトミズム的なもの--を帯び ていることに気づくのである。の 故に彼の思想によって. られ、 中世社会の発展につれて絶えず指導精神となり、 それ自体も十三世紀の完璽の理論にまで成長 してきたも. ’homme e des droi t i t duc s del t ) や 「自由」 「同 oyen .. のであって、 現今において益々法思想界の一大課題とし て注目を浴びている。 いうまでもなく歴史的中世は、 す べての時代と同じく. 胞」、「相 愛」 のフランス的法理念に、 むしろ中世法思想 的性格さえ看取せられ るのは、 別に不思議ではない。 元. 歴史的過去 に属する。 ドイ ツの著名な思想家、 ボン大学 i のデソプ教授 (A1 o s Dempf ,1891~) もい っ て い る よ. 来啓蒙期において風爽たる論陣を張った世俗的進歩的自. うに、 新しい歴史的中世はあり得ないのであって、 中世 への無謀な愛着こそ巌 に戒めなければならないところで 9 ) しか しながら法哲学的中世は、 歴史的中世とは ある。. i l 導かれたフランス革命における「人権宣言」(D6c t a ra on. 然法は、これを仔細に検討すれば、畢覚神の法則に則り、 合理化された神学と親しくなり、 或いは矯激極まるカル ヴイ ニズムと依然として結びついていること に 気 が つ く。 また啓蒙主義法思潮に続く ドイ ツのイ デアリスムス i dea l (l ) 法 思潮や、 ロマンテイ ク (Roma i smus k) 法 t n 思潮においても、 なお 「変形された中世法, 思想的ヒュー マニズム」 が、 中世基督教の合理的新把握のもとに語ら れ得るのである。 このことはまた現代のアメ リカ法思想においてもいい. 得ることである。 彼等の民主主義的法意識は、 普通十八 世紀的な 個人主義的自由主義と モンテスキュー (Mon- i t e s eu)張りの古めか しい政治機構の枠内で、独特の境 qu 地をつくっているといわれているが、 かの建国者達のも っていた敬度な自然法的精神が、 現在においてもあらゆ る面 に浸透し、 その保守性はおそらく類のない程の強さ 5 )もはや 「十三州独立宣言書」(Dec をもっている。 l - ara. 異 り、 あらゆる時代のうちに課題として厳然たる存在を 窓まにしているのである。 近来頓に聞かれるようになっ l ) も 「ア ウ グ ス チ た 「トオマスに帰れ。」「 t e Thomam. i i i ヌ ス の 再 生。」 (Augus t nusr )も、 決して歴史 ed v vus . 的中世への不可能にして無意味な復帰を意 味するのでは. なく、 それは過去二千年来、 悠々と或いは地中海沿岸 に おいて、 或いはヨーロッパ大陸、 殊に ゲルマン、 ローマ ン的民族社会地盤において、 彼等の文化発達に沼うてよ くマッチして来たスコラ的自然法思想に対する全世界の 憧慢が、 遂に具体化せられたものであると観て何等差し 支 えないであろう。 「新らしき中世」の要請は、 この意味 において正に中世自然法的ヒューマニズムへの郷愁の 叫. ion ofl ●や現行合衆国及び諸州の 776 t ) e ndependenc . ,1. ・境の合理化、 技術化に伴う無味乾 燥 びであり、 また環 な、 卑俗化された生活状態から脱して、 新 しい生命を求 めようとする人間性が、 員の自然である 「聖なる理性」. 憲法、 さては The May日ower Pa t までg1合に出す必 c. i (Ra i i t oD na) によって導かれる普遍の法を求めて叫 v. 要 は あ る ま い。 ホr ム ズ (0.W. Holmes ,1841~1935). ぶいわば地霊の声でもある。. 6 ノ またイ 判事もエーモラスにこの事実を表明 している。. かく してあらゆる時代を通 じて法思想的遍歴を続ける. ギリスの保守的な性格も天下周知のことで、 アメリカよ. 人々も、 いつかは還るべき母の懐をもっていることに想 いを至す べきである。 彼等は特に打続く戦火の後に来た. り幾分割引をしても這股の事柄が結構あてはまるのであ ‐ 23.
(4) . 」 「中世法思想の′ }研究」 序説 るべき穎廃せる世相 を救うものは何 であるかを、 よく 知 っている。 過去二回に亘る世界的消耗戦によって引き起 された社会的混乱に対処すべく、 影群として再興した敬 霞な自然法思想に徴するまでもなく、 人類 が打粒がれて. 初めて本然の法思想に寄り纏るに至った幾多の事実は、 明白な歴史的反覆と してもはや多言を要 しない。 かかる 思念こそあらゆる法的 思索の底流をなすものであって、 西欧的法思想の統一的本質抽出の可能性も、 そこにこそ 認められ得るものと確信して止まない。 2 . 中世法思想の主流及びその背景の概観 十一世紀から十三世紀にかけて、 西ヨーロッパにおけ. る政治生活に豆大な変化が起り、 そのため政治的乃至法 哲学的圏内の思索を非常に刺激したことは、 歴史の明示 するところである。 当時の学者は、 その経験する新 しい 法事実に対して、 彼等の有する在来の法理論をそのまま 適合させようと努力したが、 それらの変化は数において も種類においても形しく 且つ雑多 であったために、 彼等 の法的思索は却って次々と頻発せる法事実によって誘導 される結果となり、 その 学説も複雑で、 屡々両 立 し得な い体系を構成するものさえ生 じた。 従って中世紀という 七百年ばかりを、 両端の不明瞭なままに法 思想的傾向の l o ) 大体十三 特色づけをすることは、 至難な技に属する。 世紀頃までは、 それが明確な理論として現われなかった ことは事実 である。 その時代前後から引き続いて幾多の. 政治評論家が、 夫々入念に組立てた独自の学説を発表す るに至った。 それらの学説は単なる公法上の原則となる に止まることなく、 従来存在 しなかった 「国 家と法」 に 関する劃期的な哲学をさえ解明するものとなったのであ. ルティ ングポットの中に混然融和せられるに至ったとい ID故にクロノ ジカルな立場よりすれば、 うことができる。. 中世紀を十一世紀から十四世紀までの三百年間に短縮す ることも充分に理由のあることであって決 して 不当では ない。 地域自治団体 (Commune) の出現、 大学の創設、 教会法の完成、 スコラ学の隆盛、 地方文学の発 展など、 いわいる中世のルネッサンスはこの時代であった。 大体においてロ←マの滅亡 から十一世紀ま でのヨーロ i ・である t t ) c s a ッパ人の法思想は、 綜合的に観て静的 ( とすることができよう。 尤も短期間 ではあったが、 シャ 2 )もないわけ で ー レマン王朝の復興という華やかな例 外1 なかったし、 パリ大学を中心としてアリス トテ リアニズ ムが復活するま での数百年間、 西欧法 思想界にその最高 i t t nus~ 権威を持続せしめたアウグスチヌス (S .Augus 605 ) の偉大な貢献を閑却するわけにはいかないが、 一 般的に見て十一世紀までの学者達は、 ギリシャ法思想及 びロ←マ法 そのままの継受か、 或いは多少の敷街を伴う 」 3 ) 確か 再生を事としていたひじ過ぎなかったよう である。 にアウグスチヌスは、 バ ビロニアの法思想とグノー シス i - i i i t t ) を多分に含むマニ教(Man c 主義 (Chr s an Gnos s し む 観から脱却 し i h c asm) の東方的二元論的法世界 、 ● ろこれを克服せんがために プラトニズムの簿統のもとに 基督教的法理論を説き、 プラトニズムと 基督教における i 「愛徳」 (Ca t ) の律法精神を極めて巧妙に統一する r as ius こ と に 成 功 した。 そ れ が グ レ ゴ リ ウ ス (St . Gregor ,. 540頃~604 ) によって継受発展せしめられ、 更にネオ・ l プラトニズム最後の代表者であるプロクロス(Prok os , 410~485) に影響せられて五世紀末に発表された 「ディ i i ) 全四巻は、 デイ ‐D s os オニュシオス偏書 (Ps eudo onu i i ta) os Areopag onus オ ニ ュ シ オ ス ・ ア レオ パ ギタ (Di. る。 このようにして彼等は法理念の歴史に極めて新 しい 力を導入することになった。 勿論ここに至るまでには種 種多様な科学の脇力によったことは当然である。 神学と. の名において著わされたもの であるが、 無名者による傭 書とはいうものの、 これに含まれた法思想は 神 秘 主 義. スコラ哲学、 政治史と当時の諸問題に関する実際的議論 は、 それら同志はもとより、 専門的法学との間にも衝突. i l l l l i i t t sm) の巧みな交 n e e c ua t (Mys c sm) と主知主義 ( 錯において体系的に発展せ しめられたもの で、 中世初期. を避けることができなかった。 同種類の科学の中 でも、 それらの出発点、 帰結点及び内容に関 しては夫々異るも. の法思想界に偉大な貢献をな している。 しかし厳密な意 味において、 そこにはまだネオ・プラ トニズム法理論の. のがあるかも知れない。 しかしそれでもなお 中 世 科 学. は、 場所の如何を問わず高い程度の調和と一般性を保持 していたのである。 公 法上の大問題についての意見の争 いがまことに識烈を極めていたときでさえ、 人々は宇宙 (人間による発見物でなく、 造物主が人類科学の土台- t t ra subs um- を穎示 したものとして考えられる最高の 共通した信念をもっていた し、 ま について一つの 前提). 中核をなす神秘主義と主知主義の残津が、 基督教の愛向 的律法思想のうちに完全には融合せられず、 或る程度沈 澱 して残っていたことを認 めざるを得ない。M) ところが十一世紀を契 機と して、 刺激となった事物の 幅合と変化の急激とは、 中世人をして自己の環境に調和 せしむべき新 しい生活 に対する解釈を 求 める必要を生ぜ しめ、 これに悪ずるが如く恰も青年のひたむ きな熱情に. た雑多な源泉から派生した諸要素も十三世紀 前 後 か ら. も似た力強い新法理 従来のものを全く変 貌せしめた、. は、 基督教的特色をもった中世社会組織という大きなメ. いわばオリ ジナルな香気の極めて強いもの.--が次々と. - 24 -.
(5) . 高. 坂. 現れ始めたのである。 前記アウグスチヌスによって先鞭 をつけられたネオ・プラトニズムと徴度な律法観念 との 綜合も、 十二世紀に至って初めて doc iauus と l t or mel 呼ばれたクレルヴオーのベルナル ドウス (S t . Bernard i 1 of C a rvaux) によって完壁の融合調和がな し遂げられ ることになったのである。 そ して柔軟な員に人間的な穏 和さを湛えた愛と知の法理--中世におけるネオ・ブラ. 直. 之. 者 ヨ ー ク の トオ マ ス (Thomas of York ~1260) そ れ , 、. に中世随一の偉才とうたわれた doc icus トオ t or angel ・ T h マ ス ア キ ナ ス ( omas Aqu i nas , 1227~74) な ど の 名を挙げることが できる。 ここにおいてまこと に中世な らでは、 と思われる独創的な法理が、 は じめて楓爽と脚 光を浴びて法思想界に登場 することになったのである 。. に至ったことなどは、 その一例 である。 このようにして十一世紀を劃 して西欧に押 し寄せた新. しかも西欧法思想の二大主潮とも称す べきプラトニズム とアリストテリアニズムは、 十三世紀に至って完全に法 の世界に吸収せられたばか りでなく、 この両主潮を巧み に調和せ しめて、 贋のヒューマニズムに基く法理論を完. 法理念は、 蹄虎の勢を以て諸国 に伸展すると こ ろ と な り、 保守的な人々が如何に躍起となっても、 とうてい阻. 壁に導くことに成功した。 その最後の貢献者こそ トオ 、 1 6 マス.アキナスであった。 」 勿論アキナスがその偉業を. 止できるものではなかった。 ところが一方この蒙明期 に おいて、 アウグスチヌスの流れを汲むネオ・ プラトニズ. 樹立したに ついて、 彼が直接間接に示唆を受けたと覚 し. ム法理論と相対庶する新 しい法理論が現われは じめ、 そ. (Hugo de s t c or . Vi , 1097~1141)、 ポ ナ ヴ エ ソ ト ウ B ← ラ (St t o n a v e n r a u . ,1221~1274) な ど 惨 く と も 数 名. トニズム法理論の頂点をいくもの--がここに誕生する. れが当時の有数な碩学によって支持発展せしめられた結. 果、 遂に中世西欧法 思想界の核心的勢力をもつようにな ったものがある。 それはパリ大学を中心とするアリスト テ レスの法形而上学であった。 元来決定論的色彩の濃い法のアリストテリ ア ニ ズ ム は、 あらゆる法現象を独自の合理主義を以て解 釈し、 地. 上の変遷を支配する法規範を天体の運行に見出して、 宇. き学者は、 前言 巳のほかにサンヴイ クトオルの フ ウ ゴ オ. の学者を挙げることができるが、 ここに閑却できないの は、 東方からの影響として 「ギリシャ教父の偉統」 が、 十二、 三世紀を通じて西欧に紹介されたことであろう。 これが当時のスコラ的法理論に、 かなりの支配力をもつ ようになり、 その発展を大いに助長したこと に つ い て t 7 ) かくしてア は、 もはや異論を差 しはさむ余地はない。. 宙という規律ある旋回動力を絶対者に見立て る と と も. キナスは、 この ギリシャ教父法思想とアウグスチヌスの. に、 それを以て法の根源たらしめようとするのである。 このような法思想が当時の神学者によって排斥されたの. 法思想とを綜合統一し、 これを彼のアラビア哲学による. は、 当然といわなければならない。 さればといって彼等 がパリ大学迷 教授であり聖職者でもあ ったシゲルス・ブラ バ ソチ ヤ (Siger of Brabant) そ の 他の ア リ ス ト テ レス. 潤色はいうまでもないが、 ムタカリムー ソ (Mu i l l - t aka mun) の 思弁的方法ま で採入れて、 遂にゆるぎな き自然 法理論を完成することになったのである。. 源法哲学旭述者達を放逐した位では、 この新法思想を瑚. このような劃期的な法理論こそ、 従来中世の学者が抱 懐していた ものとは似ても似つかぬ外貌を呈 した法哲学. 1 5 ) 滅できるものではなかった。 かく して十一世紀以後の中世法世界は、 正統を固執 し. を形成したのであるが、 そ ,れらは最初から無係件に中世 西 欧諸国に歓迎されたというわけでない。 まず第一に十. て譲らぬ神学的法 理論と、 アリストテ レス流の科学的合. 二世紀西南ヨーロッパに蔓延していたイスラムの近代法. 理主義的法理論との紛争によって、 正に分裂の危機を草. 思想と対決しなければならなかった。 元来数父時代の秀 むに 至った。しかしなが ら中世文化の達 しさは、この危機 ・ れた天才達によって発表された彼等の法 思想は、 各自の. を巧みに切抜けると共に、 この相矛盾せる法理を完全に 融合させて、 より深い一つの高遠な法理にまで統一する という驚く べき成果を蕎 した。 その偉大な貢献者として. 神学研究の過程において想 到したもの であり、 それはむ しろギリシャ・ローマの修辞学的影響が鋭く感じられる. は、 特に神学や法学に数学の適用を提唱 したオクスフオ. ものであって、 ローマの実 定法学的偉統と併行して偉大 な貢献をな したギリシャの法哲学的博統 は、 実に西欧の. ー ド大 学 学 長 ロ バ ー ト ・ グ ロ ス テ ー ト(R. Grosse t tes e ,. 学者 に受け継がれる前にアラミャ系(Ar amaean)やペル. 1175~1253 )、 その弟子で、 師の論 を更に進めることに よって新たな認識に基くスコラ学を案出した十三世紀の 天才ローヂヤー・ ベー コン(Roge r Bacon,1214~92)、. i シャ系(Per an)の学者の手を経て、 イ スラム文化にま s ず貢献していたのである。 故に当時の 思想家として最高 の人気をあっめていたス ペイ ンのアラビア哲学者アヴェ. パリ大学の神学・哲学の教授で doc i t or universal s ・と 、 ベ 呼ばれたアル ルトウス・マグヌス (A1 be t r u s Magnus ,. 26~98 ) 一派の、 いわゆる普遍的 ロエス (Aver r oes ,11 理性を根幹と して、 敬度な中世人に不安と危倶を抱か し. 3~1280)、 フランシスコ会学飯の最初の偉大な哲学 119. めた自然主義的合理主義的法理念に対してなされた挑戦. - 25.
(6) . 「中世法思想の小研究」 序説 が、 ようやく彼等の額勢を自覚せ しめる程に基督教文化 が高揚 したの は、 実に十三世紀も後半に入っての頃であ 8 1 ) る。. 拠って、 全ヨーロッパにょき法治体制を打ちたてんとい う各方面に充踊せる熱望にこたえて、 彼等に課せられた. 責任の数々に悪じるための法技術並びに政治技術を贋塾. ところで実定法関係において当時の法思想家が均しく 寄せた関 心事は、 おそらく行政組織についてであったら しい。 十‐一世紀という時代は、 ヨーロッパに対する異邦 人の侵捲が休止符を打 たれたときで、 住民は新たに故郷 を建設し、 自己を再詔識すると共に、 強力な自治体制を 樹立しようとす る努力が始められた時期で ある。 フラ ン こ居住していた北欧人は、 特 ス、 イ ギリスや南イタリ ー′ にその樹立の天才であったが、 一方 ドイ ツでは、 連綿と して続いた皇帝が、 ドイ ツから南方イ タリ←を覆うて拡 がる張力な、 だが寄せ集め的帝国を作り出そうとす る努 力を繰返していた時期でもあった。. 1 2 ’ これら註釈法学を中 心とする動 に研究 したのである。 きに対 して、 パリ大学を本拠とする十三世紀 の法的動向 にも言及 しなければならない。 彼等の法学教育と研究の 目標は、 あくま で宗教的社会そのものと、 宗教的有機体 に従属するあらゆる市民社会との基礎をなす教会法であ った。 かく して数会法に科学性を奥え、 その解明に著し い貢献をな した結果、 当時の西欧諸国を通 じて教会法の 普 遍性をゆるぎなきものと したパリ大学に、 基督教的世 界のあらゆる部分から学生と教師が蛸集 したこ とはいう 2」 2 ま で も な い。. 以上は主として 十一世紀より十三世紀に亘 る、 いわゆ る 「中世のルネッサ ンス」 時代の虜に中世と しての特徴. 宗教界において も、 十世紀 の終り頃より貿易の復興や 都市生活の再建に隙じて、 東方からマニ教の 思想がバル. が顕著に現われた法思想の主潮をなすもの、 及びその周. カン半島を通って再び浸潤 し始め、 その結果聖職者の世 俗化を招来するという細目に陥った。 十一世紀の宗教復. 時代及び各学者の抱いていた法思想の内 容系列について. 興は、 これが粛正と既に蔓延した馳立てられるような革 uny の大 階を更に一層刺激する結 果になった。 C1 新の熱1 規則改革運動 教会 けてから 修道院 でまずこの先鞭をつ 、 が瞭原の火の如く各地に広がり、 新 しい秩序の生ずる機 1の こ .である。 運を作るに 至ったのもその現れといえるの. の新秩序を推進せしめた宗教的熱情は、 世俗社会におい ても従前の諸規範に飽き足らず、 一層厳格な戒律を求め るに熱」 な庶民によって構成さ れる新 しい集団としての ョ←ロッパに、 急激な勢を以て浸透 したの である。 戒律 及びそれ故にこそ規則制定の必要ということが、 この修. 道院運動の基調をなすものであった。 修道院以外の教会 組織においても、 規律ある生活を樹立 し、 厳格な戒律の 中に生き甲斐を見出そうという一般人の願望が張く動い. 辺について概略摘記したに過 ぎない。 中世を通じての各 の詳細は、 序説の城を臆するものとして稿を改めなけれ ばならないが、 ともかく中世社会を指導した法理念の説 明につき、 異つた著述家の間で幾多の相異を見るであろ うことは予想されるし、 また数多の変動盛衰の中 でかな り違った説に出合うことがあるであろう。 しかしそれで もなおかつ全体の動きを注意して見るとき、 すべては或 る線に沼うて着実に発展 しているのがわかる。 その中世 から引き離される路を辿らせた第一の力は、 ホーエソシ f t ュ タ ウ フ ェ ン家 (the Hohe en) の要請を充たして ns au. くれた皇帝絶対主義に関する積極的議論の沸騰であると 2 3 」 いわ れている。 最後に一言 したいことは、,ルネッサンスや レフオルマ シヨンによって、 中世におけるものとは本質的に全く別. 教に夫々新たなる規律を奥え、 細部に亘る行政各部に関. 箇の劃期的な法観 念が生 じたと一般に信ぜられていたこ とも、 漸く歴史家達によって、 それは中世 的法観念の内 部からの成熟であること、 従ってそこには 中世的法性格 を払拭しきれない諸点が内在 していることを明確に指摘. して彩しい女書交換を行った。 こ れ ら の 回 勅 や 訓 令 ld l ) の中から、 当時の教会法学者は勿論、 t (Papa r e a s e c. されたことである。 故にそれは全く異質の法思想内容を なすものではなく、 単なる外形的変貌による新 しき実現. ていたことはいうまでもない。 そこで中世における社会 指導者として最高の地位にあるローマ教皇は、 各国の司. 一般法学者の興味をもひいたであろう幾多の主要な問題 0 2 ン を抽出することができる。 一方イ タリ←及びフラ ンスにおいては、 十÷世紀にな って新 しい法学体系を唱える学者 が輩出し、 一種の危機. であることに注意 しなけれ ばならない。 ルネッサンスは 一般に信じられているよ りも遥かに多くの中世的カトリ シズムの特質を保有 しているといわれているo脚 むしろ ●に 法思想という立場よりす ドオソンも述べているよう 、 れば、 ルネッサンスなる言葉も現今一般に用いられてい るような狭い意味においてではなく、 より広い意味をも. にあった当時のョrロッパに夫々新 しい法組織を紹介し l ogna 大学 た。 その中 心をなしたものは、 おそらく Bo れるが、 い 学であったと思わ マ法の註釈法 に興ったロー. たせて、 十一世紀以降、 中世後期が膏らした法的文化の. ずれにしろ幾多の法学者、 政治学者達は各自の法学派に. 業績を も含めて表現するために用いた方 が、 一層適切 で. 一 26.
(7) . 高. 坂. 直. 之. 5 2 〕 あるように思われる。. ある。 その具体的例証については、 Dawson, “ ‘Unders i Chr tandi topher : ‘ ng Burope s , 6 2 参 9 5 2 以 下 照 Sheed & Ward 1 p p , . ,. 註. int 1) Harvard の C. Br on 教授はその若 “ldea “ [ tern Thought es and M an: the Story of 訳r . Prent i l llncり 1950 ceHa , の目 頭に おいて 欧 米. 政治思潮の特徴の一として「現世的両利の享受」 を挙げ、 そのための 「合理的行篇」 が二千年来 絶えず問題とされて来たと述 べている。. 2) エ ル ソス ト ・ ト レル チ (西 村 貞 二 訳) : 「ョ -. 52 18頁 ロッパ精稗の構造」 みすず書房、19 ,′ 3 ) デル・ ヴェキオ (和田小次郎訳) : 「法哲学原 7頁 参照 理」 岩波、19 4 1 、; トレルチ: 前掲、 ,50 17 二頁 ‘Na “ 日ut ’Ent 1 Law. tura A・ P.d chin rきves:‘ ’ ・ d 5 L L b i 1 (ドイ ツの世 sons Unv . ,PP . i. , on on. 8 ) 吉満義彦 : 前掲書中 「中世精辞史研究」 みず 48 ず書房 . 、19 ,12頁 9 ) 吉滴義彦 : 前掲書 中 「中世精譜史の理念」 第 ium“ 一章 (A1ois Dempf : “Sacrum lmper Mi i nchen , の 訳) 参 照 ,1929. “ i i l t toryof Po caI Thought 10 ) P. Doyle:“A His , in & Co A.VV . ・67 . Ba , London , Pp ,1949. i i i I Theor t to Gi es of the ca 11) ot erke: “Pol ’ ’ i [ l N 1 i ddl t and a e Age . M , . by F. VV , trans i d Cambr ge Uni v .2 . Press , pp ,1951. 12) 教会と国家に関する基本的法規制度や中世女化 の古典的伝統などすべてこの時代にその基底を. 界は浪 漫主義の時代に、 いやおそらくはそれよ りも早い時期に、 自然法の信念から離脱して し まった。 それ以来 ドイ ツの法 思想は力を理の上 に顕揚さるべきものと し、 国家は道徳生活の最 高の具現として譜 えるような方向へ押流されて い つ た。) i i i in:“Schol - i t 4) jacques Mar ta as c sm and Pol ’ i s t es: The Centenary Pres cs ’ Geo甘rey B1 , 1945 .75 , pp 5) H. G. タ ウ ンセ ソ ド (市 井 三 郎 訳): 「アメ リ カ哲学史」 岩波現代叢書、 1951,12頁 ” fyou do not admi t she(hi ttha 6 ady) sl ) --i l l i t God ever made or wi t tha s the bes l ll t 6ght r l en sin a I r 1 ake . Therei ,you mus i t a ー uch so ve a de ー nand f or the specul , so 比 i l who has no other way tha tthe poor dev insi ing drunk. t t obt t by ge t ng i a ofreachi 1 t hi ts 】 広 I 1 e and i s at the ee ] 1 1 sto 立 s de ,tha ’ bot l tto prove tom ofthe Phi osoPher s e什or ’ i te and of the jur t tha tt ruth i u s s absol s. ‘The Maki ng お い て い る。 (C. Dawson : ‘ ” Sheed & Ward 1953 pp 169) of Europe , , . , tり pp 13) P, Doyl l oc e: l .67~68 .c “ Med i i i I Chr t an‐ eva s 14) Christopher Dawson: ” Ca i 9 6 T hS 1 3 i 1 i h l t t t ty e r u o c o c p p y , , . 02 , i 8 9 t 15) C oc p p . .c - Dawson: l . , ブ ラ パ ンチ ャ ー 派 の 教 え るこ と は、 す べ て アリ ス ト テ レス と そ の 註 解 者 た る ア ラ ビ ア の ア ヴェ ロ エ ス (Averr oes- -lbn Rushd- -) と の 二 重 の 権 威 に 裁 い て い る。 と こ ろ が ア ヴ ェ ロ エ ス. によれば、 信仰は理性が必然的にその反 対を証 明 し得 るよ う な 致 説 に か か わ る も の と して い る. ために、 これを認ぬ することは、 スコラ哲学に よって企てられた法理論を根本的に否定するに 等しい。 〔ェテイェ ンヌ‘ ジルソ ソ (渡辺秀訳) : 「中 世 哲 学 史」 エ ン デ ル レ、 1949 ,275頁〕. 16 ) 異教徒哲学者アリス トテ レレスの学説が基督教 適合せ しめられたのは、 いかなる理 の人生観にぅ 由 に よ っ た の で あ ろ う か。 確 か に そ こ に は 人間. が理r性によってのみ獲得できる自然倫理の体系 (asystem of natural ethics) が 存 在 し なく て. i i idi l ter ty whi versalva aofuni ch s earchforcr 1 he co1 tura11 t ec aw.“ s underthe head of na ’in Har- (○. W. Holmes: ” Naturallaw.’. は な ら な い。 そ して そ の 体 系 の 礎 石 を な す も の 法 で なけ れ ば な ら なし・。 こ の こ と は トオ は 自 然・. マス・アキナスの 論説中に明白に表現されてい ’Ent i きve: loc t る。 (d r .c . .38) , pp … … あたかも自然の理性の光--それによっ. ew,1918) vard Law Revi. 7) トレルチ: 前掲、7頁 パウンドは英米法学者の思考の特徴について、. て我々は 善と悪とを識別するのであり、 それは 自 然法である。 --が稗の光の、 我々に対する. 「す べ て を 普 遍 的 な も の に よ ら し める よ り も …. …一つの事件から他の事件へと経験を基礎とし 考え方である。」 といってい て注意深く進める‐ る。 (パウンド; 「法律史観」 高柳賢三訳) 確 かにそれには違いないが、 トレルチも前掲書で いっているように、 彼生のいわゆる民主主義 憲 ‐ 法ときたら、 一字一句 ブルジョア的な、 また艇 史的に譜聖にさ れ だ性格を 帯びているし、 彼等 の法理念はあくまでトラデイ ショナリズムに基 く クラ シ シ ズ ム そ の も の で あ る。 ま た 英 因 に お. いては、 他の地方よ りもその政治的伝統が自由 主義的であるといわれてい る土地でも、 欧洲大 陸のそれよりは、 或る点において一層保守的で. 刻 印 に ほ か な ら な い ご とく に。 か く て 自 然 法 が. 理性的な被遺物におけ る永久法への参輿にほか i (quas な ら な い と い う こ と は 明 白 で あ る。” i i d i i l t l l t n o c e r n m ー r r a o s u s u s n a u a s e n r . l u , q . i i l t ad t tl ne t bonum e r l a u l l l quid s , quod per iud s i l al t quam l tura l e l m l egen na , nihi i lu i s r ni ni s in nobi n ・ o di vi i npress . Unde i i l a l l t t quod l ud es ex natura s nihi te pa i i i i i l i t t ona t ol eg s ae ernae in rat c I m par pa qua l i Th 2 S l 【 - a e a e u t -- umma eoogca a,q . creaura . , 9la t r .2一一) i t seq. tり pp 17) C. Dawson: l oc ,c . ,105 e. 7「 -2.
(8) . 「中世法思想の小研究」 序説 元来古代教父達の法学に対する態度は、 それ自 中学 体が窮究の目的ではなく、 彼等の哲学殊に吊 に対する戯烈な研究過程において当然行きあた るべき課題に 対す態度であり、 これを利用 して 基督教に順応せ しめんとする努力に、 最も正統 的 に 顕 現 せ ら れ て い る と い う べ き で あ る。 そ れ. i i t 摩る懐疑論(Sc ep c sme) 故彼等は、その信念に・ i sme) や巌粛な道義感を破壊す る快楽説(H6don を断呼否定すると共に、 実定法に 対する自然法 的思想の反映--技術的、 形式的には完壁に近 かったローマ法に対 して、 基底を信仰に置くュ マニテに満 ちた実体を以てす る潤色--という 点において見せた峻烈な態度にこそ、 彼等の法 思想が端 的に窺 われているというべきである。 しかし我々は教父達の法学を以て未だ独立せる 体系と看なすことはできない。 また彼等 の法思 想も横の連絡を快いていたため、 合基督教的の も の は 探 り、 しか ら ざ る も の は 捨 て た と い う 態. 度において軌を一に していたが、 それ以外、 共 通の法理念の発見は、 これを 断念 しなければな らない。 ただ中世の欄 熟期に至って初めて中世 を代表するに足る法理の樹立 に成功 した諸学者 に対 し、 勘からざる示唆を興えた功績は、 閑却 し得 な い と とこ ろ で ある。. ’史研究」46 T I ,47 ,56 , 18 ) 吉満義彦: 前掲 「中世精示 167頁 ig i the Ri se of on and[ 19 ) C. Dawson = ”Rel. , sheed & v▽ard 1951 ’ ture vves tern Cul , , , 2 4 4~5 pp . i』 pp l oc e: l 20) P. Doy ・69 ‐c 7 5 1 前 頁 掲 ル 21) ジ ソ ソ : 、. 西欧における法学の再興及びローマ法研究につ l ogna の影響を過大に評価すること いて の Bo はむづかしい が、 それはヨーロッ パ各地から集 まった法学生の一大中心地であり、 またそこか. i us や フ ラ ンス の Azo ら イ ギ リ ス の Vacar , な 学 者 が、 新知 識 の 種を 運 i よ う の P1 t acen nus i tり oc .c ん だ と こ ろ で も あ る。 (C. Dawson:l pp .226) 22) ジ ル ソ ソ : 前 掲、 181頁 i tつ pp 23) ot to Gi erke: loc .4 .c 1頁 ; ジ ル ソ ソ : 前掲、 2 4) 吉満義彦: 前掲、1 127頁 “ ” Medi i i t ty evaI Chr s ani 25) C. Dawson : , . 6 i 9 3 2 1 h S 1 i Ca t ocet thol c Tru y . , pp ,. 1 . 中世法拳の非濁創性論批判 中世紀は宗教的 迷信の時代であり、 現世を蔑議 し、 時. 1 ) 主として次の二つの理由によるといえるであろう。 まず第一に個人の体験とか ”思想上の業 績などは、 そ れが如何に偉大なものと して世人を驚倒せしめたもので あっても、 それは第一原因に向って浩 々と して時空を貫 いて流れる大河の一滴を形成するに過ぎない。 もとより 部分あっての全体であり、 極小分子といえども軽硯すべ きではないが、 悠久として運行する嬬理の前には、 人類 の有限的理性のみによった 思考の飛躍など、 たかが知れ ているというべきである。 それ故にこそ中世人は、 法の 窮極の目的である個人と全体との調和融合を図るための. 必須要素として、 古来の法的惇統を彼等なみの潤色のも とに是認 し、 希求した。 かく して彼等は、 近 世法思想の 如く個人即全体、 乃至は全体の中心を個人におくことを せずに、 ギリシャ、 ローマを踏襲して、 全体と比較して. 個人は個人に相礁しい法的人格を認めたのである。 ただ しその是認は、 あくまで第一原因の名において機密慎重 になされた。 ここに中世法思想の虞骨頂がある。. 個人が社会生活を営む上においては、 もはや俸統の姪 梢から脱することは、 これを肯定すると否定するとに拘 らず不可能なことに属する。 博統の否定は極論すれば、. 社会道徳の否定であり、 社会組織の否定にまで進展する おそれがあるといわねばなら ない。 中世法思想を慣例踏 襲であるといわしめ、 或る程度これを是認せざるを得な かった第二の理由もまた、 中 世人の法生活に対する歴史 的観方に発 している。 も し法なる規範により律せられる 人類の生活が、 古代 ギリシャ思想に見られる宿命的な、. 或いは近代の唯物史観に基く解釈のように倫理観念とは 絶縁せられた事象の連鎖に過 ぎないものとするならば、 惇続主義は、 なんら内容のないフオルマリズムに終始す るであろう。 それはもはや像統ではなく、 因襲に過ぎな い。 しかし人類の生活を規律する法の志向が、 中世人の 考えていたように、 局地的のものから、 あらゆる障壁を 坂除いた普遍的なものに、 また時間的制約を離れて永久 的なものに赴かんとするにあるならば、 悠久として続く. 人類生活運営の中に、 必ずや賞理たろ法理念を抽出する ことが できなけ ればならない。 即ち中世人にとって法理. 念は、 本来歴史的事実の整理によって獲得し得るいわば 一つの史的表現であって、 単なる観念のみの産物とはい えないところに、 その惇続精神の顕れがあるのではなか. 勢を顧慮せずして抽象的・億統的法観念にのみ終始した. ろうか。. 時代であると極 言する者 が、 識者の間でさえかなりいる のに驚く。 尤も中世法 思想が、 或る程度法慣例踏襲の立 場を離れ得なかったことは否定 し得ないとこ ろ で あ っ. 俸統は観念と しては完全な形ではなかったにせよ、 正 しき法理念を後世に遺してくれた。 勿論この法理念の認 識が、 フィ ジカルな面にのみ徹する場合、 それは単に形. て、彼等が敢て法惇統尊重の思潮を放棄 しなかったのは、. 式的で実体のまことに稀薄な存在となるばか り で あ る. 8- -2.
(9) . 高 r坂. 直. 之. が、 法的博統の ドグマの容認は、 ひいては中世法理念の 基底をなす超自然的実在を承認せざるを得ないまでに必. 気もまたそこにあり、 彼等の法的博統尊重の傾向こそ、 人間自然の天性の発露であるといっても過言 ではあるま. 然的 に発展するのである。 中世人はかかる博 統 に よ っ. し、 o. て、 員理たろ法理念を学びとることにより、 良心及び思 想の自由、 学問の自由などが、 総体 的に喪失されたとは 2 ) 現代における一部の極端な 柳かも感 じていなかった。 自由主義論者の唱えるような中世紀に対する臆測は一 中 こ中世紀 世人にとって甚だ迷惑なことであろう。 まことマ の産んだ霊的指導者程、 自由な 人を私は未だ知らない。 彼等は当時の法的政治的環境のもとにおいて、 柳かなり とも舗束せられたと感じた り、 自由の制限を殊更に覚知 したりしたであろうか。 彼等の遵法精神は直接信仰に通 ずるものである。 啓示に即礁するのが即ち法であり、 法 の実現は、 第一原因の意志を遵奉することにほかならな. . 42 1) 岩下壮一 :「中世哲学思想史研究」 岩波、19 , 60頁 le 2) F. Kem : “Ki ngshipandLawinthe Midd ’ ’ t i i I Age f nes rans , Bas . by s- B. Chr , 8 0 f 8 d 1 B1 l l o 9 4 1 r ackwe x o . , pp , ,. ≠幾分不明瞭で混乱を起 しやす 中世の法観念は、 い点や技術的にも多少ぎこちないものを含み、 しか も 烈 しい も の で あ っ た と は よく い わ れ る こ. とである。 しか しそれは一面極めて創造的且つ 崇高であり、 何よりも当時の人間的要求によく 適合していたために人々は喜んでこれに拠った の で あ る。. い。 また一方法は個人の自由を保障するものであるが、 員の自由は、 第一原因に発する法たろ虞厘への積極的参 i i be tas r el l )と er 典の中に見出さるべきもの (Deo s v .. 3) 岩下壮一 : 前掲、69頁 ” i 4) H.J .Berman: The Western LegaI Trad‐. 観念して、 彼等は少くとも現代人が推測する如き不自由 さ、 法の窮屈さなどは決 して覚えなかったであろう。 か. 現在西欧 のあらゆる園に見られる法的伝統の豊 富なことは、 その起源を十一・二世紀における aw) の刷新に発 ローマ法及び寺院法 (Canonl している。 西欧を通 じてまず最初に法律家、 法 律学校、 法律論、 法廷 の審級制度を生 じ、 そし て科学としての法学が出現するに至ったのは実 にこの時期であった。 バ」マン教授 のいうよう に当 ‐時の法学者は、 ゲルマン古来の慣習及びュ i i J t n an) 帝の勅命による法律学 スチニアン ( us 説大全 (幾世紀もの間忘却せられていたのが彼. i i Dante,1265 i かる時代においてこそ、 ダンテ (A1 e r gh ina commed ia) の 如 き、 ア キ ~1321) の 「神 曲」 (Di v ナ ス の 思想を豊かに盛ったといわれる雄大至高の文学が. 3 ) 出現した のであって、 決して偶然 ではない。 これを以 .て観ても、 中世人の博統主義が彼等に創造力 の欠如を裏書きすることになるどころか、 むしろ彼等は 近代人に劣ることのない法理論的洞察と実行の能力を多 分に有していたというほうが、 史実に忠実なる所以では 4 ) なるほど彼等の実定法は、 ローマ法の継 なかろぅかo 受によってそのフ レイ ムを構成 し、 彼等の法理論はギリ シャのそれを継受することによってスタ← トしたことに 5 ) しかしながら彼等は この法的臨統に 間違いはない。 、 他の法, 思想を採り入れて融合し、 更に発展進陽せ しめ、 新たな信仰理念によって全くこれを変貌することに 成功 したということも隠れのない事実である。 つまり中世人 のギリシャ法思想、 実定法たるローマ法の継受は、 イ エ ズスの 「われは虞理な り。」 という一言によって根本か ら・修正されねばならなかったのである。 彼等は惇統が法 理念を正しく後世に博える保証と して、 活ける超自然的 権威を希望し、 これを教会の数権において認めたことに. その面目を見出す。 故に彼等の探った法思想的乃至実定 法的博統主義は、 単なる惰性的な模倣継続では決してな い。 このようなことは、 むしろ中世人の暦 しとしないと ころであった。 パスカルは、 「この自然の天性そのもの が第一の博統ではあるまいか、 それは博統が第二の自然 6 ) の天性であるように。 」 といっているが、 中世人の心意 - 29 .-. ‘The Cha ’ ’ in ‘ ie l t Law,“ l i enge of Sov t on, i 8 2 R 9 4 L 1 62 Ha・vard aw evew, . 38 , pp. 等 に よ っ て 再 び 用 い ら れ るよ う に な っ た。) を. 研究すると共に、 所祷書及び秘蹟についての研 究をも併せ行い、 それらの法的素材のうちに、 いまだかっ,て法律史に なかった新 しい法原則を 彼等は読みとっ たのである。 現代におけるあら ゆる法観念は多かれ少かれこれらの原則に基い て い る。 即 ち 「理 性」 (Reason) , 「道 義 心」 P ecedent ) こ i s (Consc ence) , そ して 「伝 統」 ( r れ で あ る。. i ) が十 s s canon t ローマ法学者、 教会法学者 ( 一・二世紀に亘って作ったこの三原則に暴く法 学は、 西欧全般に法意識を行き渡らせ、 独特の 概念構 成をもつ各圏内法の内容を刺激し、 ゲル マン諸民族の閏家を形成する一助ともなったこ とは疑いがない。 現代ヨーロッパ 史における大 きな国内革命 (十六・七世紀の ドイ ツ、 イギリ スに起った宗教革命、 十八世紀のフ ラ ン ス 革 命) のいずれも、 中世法の俗化乃至 園民化を伴 っている。 にもかかわらずこの三基本原則及び これに関連する諸観念 (法の最高性 と完全性、 法の均等性及び法の発達性) は、 あらゆるヨー ロッパ諸国の法組織における基礎概念となって. い るo 5) ジ ル ソ ソ : 前 掲、 418頁.
(10) . 「中世法思想の小研究」 序誘 る鍵があるの ではあるまいか。 こ のことはまた 「身分か t ) という英米法最 f t r a c ら契約へ。」( r om statusto con. t tur te na e ne soi igrand peur que cet 6)”ra ’ i 己re coutuは l e l l e l l e ‐ 1 e l ne qu e 1 l une pren ,com立 ” tur l e t une s tum econde na ー e es a cou . --- ‘Pensees ” = 93 一-- Pas cal; ‘ , , .. 近の傾向からも察知 できることと思う。 しか しこのような動きは決して新しいものではなく、 古代において も、 ささやかながら地中海沼岸諸民族間の. 亘 . 中世法思想と世界法思想との牽連. 現行実定法の中で、 或る程度の世界的統一が可能と思 われるものを挙げるのに、 左程困難は感 じない。 多数の. 行政法規、 刑法、 訴訟法、 或いは私法においても債権 法、 その他商法の大部分など、 いわいろ トエ ソ ニー ス. (F. T6nnies). i i l l の Gese t at on の 法 は、 そ schaf soc ,as. の可能性が充分にあるであろう。 これに反 して民族特有 の歴史、 俸統に基く法, いわば国家の基本法に含ま れた ● 諸原則や私法における不動産物件に関する制度、 或いは f i t ns cha 身分制度に関する法な ど、 い わ い ろ Geme , するといわれ i の部類に属 t の法は統一不可能 commun y ’ ) しかしこれとても、 民族が互に同化 してきた ている。. 過去の歴史的事実に徴するまでもなく、 文化交流の頻繁 が益々世界を狭隠ならしめ、 国家間・民族間の習俗的 ギ ャッ プを或る程度短縮することに成功 している現在、 盆 々統一的傾向が醸成される であろうことは想像に難くな し、o. 元来法的偉統の内容をなすものは、 生命・身体・名誉. 財産など個人的社会的生活上重要な意義を有する財貨に 関係するものであり、 その理念とするところは、 正義及 び合目的性に沿う社会 生活の規整にほかならない。 人間. の理性・感情に極端な懸隔が存在しない以上、 法博統の 形式においても国家的・民族的慣例に見られる径庭の、 漸進的ながら縮少される傾向にあるのではないかという ことは予想に困難でない。 そこにツイーテルマソ (E・ Zi lmann t e , 1852~1923) を俣つま で も な く 世 界 法 l ) 出現の可能性があり、 法の窮極の理想もま (We t t r e ch た、 そこにこそ置く べきものと信ずる。 徒らに自国法 の 優越性を主張し固執する ところに国際平和は あ り 得.な い。 コズモポリタニズムには決 して賛同するもの ではな ・いって極端な民族主義の固執が、 世界的 いが、 さればと 繰返しに眼を覆ぅてはなる したという歴史の 惨鍋を招来 まい。 マリタソもいうように、 「我々の経済・政治生活 は、 すべて感覚的な力・法則 及び決定論的展開によって の生活目的及び自由・道徳 支配される 「自然」 と、 人類. の領域に関連し、 自然法との調和において人類生活の法 則を自由に樹立する 「理性」 とに頼っている。 経済生活 過程において 権力を振うもの、 それは 「自然」 と 「物」 であり、 政治生活過程においては 「理性」 と 「自由」 で 2 )そこに我々の私的及び公的生活を統一し得 ある。」 と。. 取引を規律する法のうちに、 その萌芽を認めることがで iu i ) の う ち に、 或 l l usgent きる し、 ロー マの菌民法 ( l 規律する法の 催 した国際市を いは中世西欧諸国の商人が うちにも見ることが できるが、 それにもま して注目すべ きは、 中世の教会法が西欧諸国をすべて支配 した→種の 3 ) 世界法として権威づけられていたということである。 元来ロー マ法は、 教会法によって一層その債値を発揮 することが できたのであって、 更にスコラ的自然法と混 然融合することによって、 基督教的倫理思想 を反影せし め、 ここに別途な意味における世界法 となって歴史法学 派が登場するまでの西欧諸国に君臨していたの である。 た しか に ザ ヴイ ニ ー. i (F. K, von sav gny , 1779~. ) が昂 揚 これ 1861) ,1798~1846 , プ フ タ (G. F. Puchta. i l ks t ) は、 爾来近代国家政策 努 めた 「民族精神」(Vo s ge として多かれ少かれ調われてきたところであるが、 中世 人にはこのような民族意識に鉄けるところがあつたとい うことができる。 なぜなら彼等は普遍教会のもと、 完全 J ty としてさながら ブルソチュ リ ( な communi . B1un‐ l ) 「 (We t taat i h 8 8 8 1 s l 1 0 ~ ) のいわいる 世界国家 」 t s c , i t の観を呈し、 ロ←マ法の取引法たる i um に対 usgen 願す べき教会法法典において世界法を有 していたからで ) あ る。4. 彼等は人種の別を超越した普遍教会に隷属 していると いう自覚のもとに、 揺ぎなき信仰の裏づけある超種族的 信念を有していたが故に、 彼等の中に人種的偏見を見出 すことは不可能であるばかりでなく、 身分的制約を是認 しつつむしろ互に協調的であったことを確認 し得る。 あ りていにいえば、 彼等は極めてきび しく、 合理的宗教的 集団と して人道主義の理念を目指 していたのであって、 i l t ) t s 彼等はス トア学徒の唱導せる 「世界精神」 (We ge 0 よりも、 また十八世紀の中葉、 ゴ←ル ドスミス ( . l dsmi Go th)が当時のイ ギリス国民性、風習などを蜘笑し て、 己の理想を描いたものよりも遥かに完壁に近い 「世 l d i i ) であったことに間違 t 界市民」 (C z en ofthe Wor いはない。 世俗的利害に超然たる中世紀 christendom. は、 或る意味においては国際政治的契約の上に立つ国際 連合その他の国際政治的諸団体よりも、 精神的葦固さに. 5 ) テニソ おいて遥かに勝っていたということができる。. ソは未来の夢を歌って、. 「 30 -.
(11) . 高. 坂. 直. 之. 1 . ヒューマニ ズムに基く 法思想の帰結 中世紀という時代的制約を無崩して、 アウグスチヌス. 人類の議会、 世界の聯盟がなってこそ、. 大多数の常識は不平な国家を畏服せしめ、. や トオマスの法理論を全くそのまま自己のそれとするこ. 6 ) 悪深き大地は普遍の法につつまれて眠るであろう。. とは、 紗くとも合理的とはいわれない。 彼等をして今日 在らしめたならば、 必ず修 正したであろう二・三の所論. (石田憲次訳) といったが、 彼の人道主義に基くこのような 政 治 理 想 は、 すでに中世において或る程度実現されていたという ことも、 上述によりもはや疑いな い。 まことに世界史上これ程世界 法思想に徹 した時代はな かったといえるし、 また将来においてもスコラ的 自然法 精神が女明諸国の末端まで浸潤 し、 それが世界における. 法思想提携を実現せ しめる重要な推進力となるまでは、 いずれの分野においても全き世界法の実現など得て望む べくもないわけで、 徒らに 「中世に如かず。」 の歎を見 ることになるだけであろう。 蓋し世界法の可能を宣言 し得るがためには、 その前提. として各国における宗教的道徳的観念が根元的には合致 すること、 及び彼等の思想と法に対する合目的的思惟と が同一の傾向を示していることを肝要とする か ら で あ る。 それ故トレルチは、「かかる (自然法的) 理想は、コ スモポリス即ち人類の世界主義を目指すものであって、 かかるとき君主政体は神の世界統治の横写にほかな らな 7 )と説いており また田中耕太郎博士は 「近世法 い。」 、 、 思想史中において、 自然法と世界法との牽聯を見出すこ. とは甚だ困難な業であって、 両者の法哲学的牽聯関係の 密なること中世に如く時代はなかった。」 と述 べられて いるが、 正に肯緊に中るとでもいうべきであろうか。. 註. 疑論者ばかり であるともいえない。 一口にスコラ的法理 論といっても、 時代の変遷によってその内容性格も変化 し、 なかには正統を逸脱 した徒もあり、 或 いは回教徒ア ヴェロエス の流れを汲むアリス トテ レス学眼の法理を唱 えた者もかなりいたのである。 いずれにしろ彼等のうち 或る者は、 自己の法理 ン念に理性偏重の傾向を採り入れ、 いた法理論を開陳 して樟 或る者はより神秘主義に傾 また らなかった。 それでもなお近代人の往々に して陥 り易い. 法思索の分裂を糊塗せんがために外面上妥協 して、 事を 安易に解決 しようなどということには決 して興しなかっ た。 彼等の法思想 ば精撤 という点において柳か戯けたも のがあることは事実である。 たしかに一時隆盛を極めた i l en s ケルゼソ (H.Ke ,1881~) 一派の純粋法学 (rene )のもつ科学的冷徹さ、 または新カ l ) 学説1 Recht s eh ・e ント振の法学説、 殊に法学的方法論に新たな途を拓いた 75~19 15) の法学論などのような ラスク (E sk .La ,18 ころもないではないが、 それに しても法に対する員剣な. .. 3 ) 田中耕太郎 : 「世界法の理論」 第一巻、 岩波、. 態度、 その熱烈な遵法精神は、 近代人の到底比肩し得な い体のものであった。 彼等は魂の問題としての法理を信. 1929 ,315頁. 奉し、 第一原因の啓示に対する積極的な参典を以て法の. 4) 田中耕太郎 : 前掲、 第二巻、63頁 5 ) 岩下批一 : 前掲、72頁. 6) The wardrum throbbed no l onger ,and the bat l t l -Hags werefur e ed l i l i n the Par t a r l 1 entoil f l on of an ,the Federa d l the wor . There the coml l hold r l on senseofI tshal t 1 os fulreal t af re ・ ni n awe , And the kindl th shal ls l umber apti n y ear ,l 11 aw. Sa unI Ver “ f l l l (f red Tennysods ”Locks rom A1 ey Ha .). 7) トレルチ (西村貞二訳): 前掲、lo頁. 尤も世人 の多くは、 中世法思想と近代のそれとの相違 をいとも簡単に、 信仰の熱烈さとそれに対する懐疑的態 度に発せしめている。 しかしあらゆる中世人が皆信仰者 であったというわけでなく、 現代人はまた例外な しに懐. 科学的精巧さをもつ組織構造に比べて、 多少破格的なと. 1 ) 法律学辞典、 皿, 岩波、 1936,1522頁 ” i in: ”Man and the sta 2 ) Jacques Mar ta te , The Uni cago Press v .of Chi .190 ,1951 , pp. を見出すことは決して不可能ではなく、 これらを合近代 的に解釈してこそ、 はじめて彼等の贋意に即際 したもの といえるであろう。. 精神とする。 中世の法律観が徹頭徹尾道徳的 であるとい われる所以 はここにあるのである。 しかして道徳の基底 をなすものは、 「敬愛」 の精神でなければならぬ。 この i l d) と見て、 こ t e ことは、 「敬愛」 を以て 「同悲」(Mi れを道徳原理 と ‘したショー ペンハウエル (A.schopen‐ 2 ) を僕 っまでもなく、 中世人には至 788~1860 hauer ) ,1 とであって 極当然のこ 、 これ を鉄くことは彼等にとって 3 ) はむしる罪悪 でさえあったの である。 、 元来中世人は一切のものが、 第一原因においてその存 在を確保され ると観念するが故に、 ギリ シャ思想に強く. 現われた第一原因と宇宙との形而上学的二元論は、 もは. 性格 m. 中世法思想の近代的-. や中世のも のではない。 後者は前者に対して実在的に依 一 31.
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