序 一、研究の動機と目的 一 、 潤 北 地 域 二、環境と歴史・人事
目
︵ 竹 典 し 心 倶 空 ︶次
0 4 ためずとも直きこ 4 ろはおのづから竹とともに ゃむなーかるらん (白眼行 •i 他枇上人-),
0 4 枇の中の人をさくればおりづから隊なき庭の松の下臥︵し︶ 2 ︵ 潤 眼 分 時 人 如 n 心 将 二 静 行 溢 ︶ 0 5 我をしる人しなければ状しらぬ人に見すべき I J と紅もなし 2 ︵涙舟図犬地一釣竿の心を︶ 3 0 5 海ばらにたゞ一筋の釣の糸の外にうつさじおのがこ 4 ろ を 2 7 4 3 1 3 9 6 . 0 3 . 0 4 番の歌には、彼のひねたようなものの見方が、 0 5 . 0 5 泊 1 2 2 2 2 の歌には容易に心を開かぬ秋成の態度が見受けられるのである。こ のように暗い歌を詠んでいる秋成だが、私はここにおいて、秋成の ﹁⋮⋮歌とは心の中よりい、、つる者也﹂という作歌態度、つまり、飾 ・いずに、偽らずに歌を詠打という彼の作歌に対する伯念を、はっき りとみたような気がするのである 0 且上、秋成の歌の特 I l l が性について述べてきたが、秋成の歌は、万 州風・古今風•新古今風・を示していて、かなり多彩であるが、し かし、彼の歌としてその特異性を.小すものは、古歌にとらわれた作 ではなく、古歌に学んだ教投を充分牛か L て詠まれた歌なのであ る U そ し て 、 そ の 詠 ま れ た 歌 と は 、 彼 の " り 1 1 1 でのびのびとした性格 から作られた歌であると共に、彼の賠い性格から作られた陰屈な歌 であることも見逃がしてはならないと 1 1 1 心 う の で あ る 。 且上、第三序、第四正 1 1トについて述べにが、第一浮、第正いについ ては、提出の卒論を参照飢いたい。﹁球應・人吉地方の人称代名詞﹂
四、潤介 本 論 祁一章第一人称の人称代名詞 ィ ヽ 一 ォ 二、ワシ 三、ワクシ脱
嶽
久
美
球栖・人吉地方は、熊本県内にあっても、他の地城と述った独
H
の方言を有していると思われる。そのため、この地方に生れ行った 哨者は、以前から方言に対して閃心を持っていた。 一、研究の勅恨とH
的 序 四、ポク 五、その他 第二ふ叫第一天称の人祢代名詞 一 、 オ マ イ 二、オマイサン 三、オマハン 四、ヌシ 五、ワイ 六、コナク 七、アソク 八、アク 第三詔第三人称の人称代名詞 一 、 コ ン シ ト 二、コンマイ 三、コイ 四、コャッ 五、ダイ 、屈境と腋史・人れ 二、調在地域 球脱郡で﹁コンシト﹂︵この人︶といりことばが、人古市では ﹁ " ソ マ イ ﹂ で あ る 。 こ の 一 面 の 相 迩 に 1 4 1 ハ味なもち、人称代名詞に ついて閾べてみようと 1 1 1 心 い た っ た 。 こ こ で は 、 球 廊 い ・ 人 古 地 J j で 使 J I I されている人称代名詞の実態を 把 脚 す る こ . と がn
的 で あ る 。 瀾杜の中心は、水上村においた。水●村は、派者の生れ { I I っ た 村 であるため、つっ込んだ湖在に対しているとおえたからである。 生た、広範l m
の状況を知るために、水卜いりのほかに、九ヵ市町村 を対匁とする潤在も行なった。これらは人な、球府川に沿った、盆 地にある市町村である。東から順にi i i
町H
名をあげる。褐前町、多 几木町、岡原村、須 i i i 心村、深川村、免川町、上村、錦町、人山I I d
i o
球脱・人古地方は、熊本県のぃ I Y l 東部に位骰している。東と小川が宮 的県、西南が鹿児島県に境を扱している。市た、北は八代郡 d j 、 西 は " い 北 郡 と 水 俣d i
で あ る 。 郡の中心を日本一一忍流の一、球府川がH
流し、これを1 1 1
心に、大 きな盆地を形成している。また、周間には、九州介染1 1 1
脈と呼ばれ る ャ 四 く 険 し い1 1 1
々 が そ び え て い る 。 船史的には、かなり古いといわれて 3 ," 。 鎌 介 時 代 か ら 、 江 戸 時 代出では、相良氏がこの地城の領t
であった。叫治以後になって、 熊木県に編人されたのである。 文化程疫は、股H
部︵人古巾を含む︶は比較的 i " 9 い よ う で あ る - 25-﹁オイ﹂は、第一ー、称の代名訓の中心をなす話である。たぶん、 ﹁オレ﹂から変化したものであろう。﹁オレ﹂は、鎌倉時代から川 いられ始め、附北朝時代頃から盛んに川いられるようになったもの といわれている。→卜几忠生、加川武﹁国品史要説﹂一
0
五頁参 照 ︶ ヽ ォ ・(T '
- '
g
名 5 3 本 第一人祢の人祢代名吋 " 川 : t 臥才 " r 、 J -ヽ ・ 諭 が、山村部はかな I l 低いようである。. 渦在の中心とした水KH
は、球附郡の一笛東にあり、球刑川の一 伯上流である。東間は宜約県、西は互木村と多良木町、北は八代 郡、南は楊前町に桜してい’匂H
の1 1 1
央部には、車川ダムがあり、 ぃ 川 東 端 に は 県 下 一 の 1り 似 "d i
川1 1 1
がそびえている。 水上付は江代、湯1 1 1
、W
野の三大字に分れている。三大字は、そ れぞれに特色を持っているが、ここでは、おもに楊山が中心とな る 。 ( I J l 代政肌原沢・党附敷竹次郎訳註﹁新訳求麻外史﹂・高I l l
ぷ 次紺「水上村史」•水 kH 役場発行「西宜みずかみ」 •M 「広恨み ず か み ﹂ 参 照 ︶ 調杜対象は、水上村にドいては、下れの身近な者が中心である。 また、水上村外においては、対象はおもに名人州である。 調北方法としては、観吹法と、 1 1 頭による買間法を併用した。 水kH
では、おもにM
革や1 1
下のれに対する時に川いるが、1 1
上 のれでも、川手が汎しい人の鳩合には川いている。 ←とは、年令や性別を問わす、訛でも使 J I I する話であったようで ぁ兌現在は、男,ナの・鳩介、小学牛に全く仙I l l
しないれがまれに入 いれる程度で、まだ令般的に使川している。もっとも、小学牛に は、~オイ」は應いことばであるという邸品がかなり弥いようで、 そのためか、使川するM
数は、小学牛以卜のれに比べて、かなり減 少するようである。いり.ほう、女f
の場合は、使川名は、・ 1 1 年陪か ら年令が下がるにつれて減少 L ている。そして小学牛になると、全 く使川しないれが半放に迎するようである 3 女f
の学校ことばとし ては、﹁オイ﹂はほとんど使 J l l されず、中学牛のごく親しいK
の 間 で使川される場合がまれにあるだけである。 人 士n d i
と球府郡︵以後これを一括して郡巾と称する︶^し休から、 ﹁オイ﹂の使川状況を人ると、i f H
l h i
J I
や 住t
地など︵i Y H
肘街も住屯 地も、郡i i i
の1 1 1
心的な、人K I I t
l i
、免川町、も良本町などの曲店街や 住屯地なさす。以後もM
様に使川する。︶では、女子は、わずかにk
人肘が用いるだけであり、男子は、1 1 1
学生以上のヤが川いている A りである。その他の仇付部では、それよりも多く川いられている。 水卜けは、開村部の1 1 1
でも多く川いている J j であると息われる。 コ 行4
"
"
ところで、「オイ」の複数形である「すドソ」は、~小数としても 仙川されている。これは、おもに女子が使川している。爪数の場合 に限数形を川いると、さしぷす対匁が陀然となるので散紅が邸くな る 0 I J れは、その一例であると 1 1 1 心 わ れ る 。 そ の た め に 、 h 心 ー が 好 ん で用いるのであろう。使川する相手は、岡革が中心となって、少し
n
上からH
下までで ある。使用地城は、郡i i i
^ L
休であるが、特に人吉市内では多く川い ているようである。人古市は、城下町であったためか、よそよりもT
寧なことばを使川することが多いようである。また、現在でも前 店などが多く、ことばは丁寧である。だから、T
卑な﹁オドソ﹂を より多く使用するのであろう。 後 略 二、ワシ ﹁ワツ﹂は﹁ワクシ﹂から転じたものといわれ、江戸時代から使 川されていたようである 0 ( ﹁旧訴史要説﹂一六二頁参照︶ こ れ は 、n
上の打に対│て川いる品である。男子は三十才前期か ら川いているようであるが、女f
は、"+い名でも四十オを越さない と J t l いないようである。地城的には、郡 i i j ^山城で川いられるが、人 古 d j 内では、女子の使 J I J れは少ないようである。 後 略 三、ワクシ 現在、﹁ワクシ﹂という●いは、女●を小心に、次第に多く川いら れるようになって穴ている 3 水上村の場合、一i l t
も ' 、I l l
いるのは小学生であって、煎れの小学 校時代には、学佼ことけとしてしか使川しなかったものが、現在 は、女f
の半数は家庭でも﹁リクシ﹂を使川していると 1 1 1 心 わ れ る 。 中学生、翡校化になると、家庭での使川は、やや減少するようであ る 。W
年灼ではも t .と政少ー、家庭で﹁ワクシ﹂を使川する打は少叫
ボ ク なくなる。しかし、汎 L くない人との採触においては、はとんど □ リクツ﹂を川いる。な●でも壮年以上は、よほどあらたまった楊 ^ 1 1でないと川いないようである。り子は、ほとんど使川する者はい ないが、まれに、インテリぶったり、油説的に話をするK
が使 J f J す る 鳩 ^ 1 1が あ る 。 郡d i
全域の使川状況をみると、前店街・住t
地などでは、老人屈 を託くほとんどの女子が使I I I
している。ど人屈もあらたまって話を する均^"などには川いているようである。仇H
部にしてし、かなり 多く使川するようになりており、その中では、水上村は使川が少な い方であると 1 1 1 心 わ れ る 。 後 略 ・ボク﹂は﹁リクシ﹂に対応する男性油として、次第に多く用い しれるようになってきた。しかし、﹁リクシ﹂に比べると、使川数 はナだずっと少ないようである。 水上付では、少学牛でも立小ク﹂だけを使l f l
しているh
はまれで ある。また、一応学校ことばとしての役割は児 L ているが、やはり ﹁ソクシ﹂ほど完悶なものではない。そして中学牛以t
に な る と 、 けとんど使川しない。 郡巾令休からみると、前店街や仕t
地では、小学生はほとんど使 川す・々ようである。しかし、巾学化、邸校小になるとあすり使川し ないようである。主た、農H
部は、あ北り使 l l l しておらず、水上付 が>均的といえるであろう。 ヶ i r"
4、 9 .-
27-こ れ は 、
r r
でも述べたように、人吉 T l j だけで使川されることばで ある。このことばを使川するかどうかで、生粋の人吉っ子であるか どうかが見分けられると i i " っても過百ではないであろう。人吉市と いっても、現在は範囲が広くなっているので、旧城下一術といった 方が適切かもしれない。 二、コンマイ ﹁コンツト﹂は、﹁コノヒト﹂から転じたものと 1 1 1 心 わ れ る 。 ﹁ コ ノヒト﹂は室町時代に使川され始めたものといわれている。︵﹁国 語史要説﹂一〇六頁参照︶ こ の 軍 叩 は 、 第 三 人 称 の 中 で は " 駁 も 一 般 的 な も の で 、 誰 で も 気 軽 に 使用している。使川対魚も広いが、直接相手をさし示すことばであ るから、敬江がドがるので1 1
上の人には使 J l l されない。地域的に は、郡d i
一円どこも同じ上うに使川されているようである。 ‘ 、 人 ケ I i ""
' ィ 9 ‘ , ' ・ ヽ コ ン ’ シ lヽ 第三郎 第三人称の人称代名訓 略 ,,.,,.¥
1
,
冠
第二人祢の人称代名詞 略 ) L 也 そ d ( •L‘ ー このことはは、純粋な洲人ことはとして発凡したらしく、廂人仲 問どうしで使川することがしか↓たのではないだろうか。現在も、 使川対象はM
輩 が 中 心 で 、1 1
ドにも川いる 3 ーコンマイ﹂のな北化については、叫らかにする沢料もないが、 ●コノヒト﹂などが小じた屯町叫代あだりに、M
様に﹁コノ﹂+ ﹁マイの原形﹂という形で発牛したのではないだろうか。また、こ の 刑 I I U として、﹁コンでレ﹂かぷ 1 1 も、﹁"ノマイ﹂が大分で使川 ぷれている泌峠がある。 ( I l l 上 正 , f f ゴ 熊 本 県 J j ••" r t
料篇﹂・﹁分頬 方 . . . ぃ 辞 典 ﹂ ︶ 後 三、コイ ﹁コイ﹂は、﹁コレ﹂から転じたものと 1 1 1 心われる。﹁コレ﹂は平 安叫代に指示代名祉として使川されて t i り、”ての頃から人称代名" としても使用されていたと 1 1 1 心 わ れ る 。(
-l k
l i
叩 史 疫 泌 ﹂ 五 五 虹 参 照 ︶ 水上村では、﹁コイ﹂は内ら1 1
下に対 L て J i J いるが、男f
の 楊 合 は 、M
船の親しい行に対しては川いている。また、男子はどの年令M
でも使用しているが、女子は r 1 1 年州からわずかに減少し始め、小 学化になるとかなり減少している O L かー、史だ使川しなくなると い う こ と は な い 。 これを郡l I i
全域から人ると、翡店街や住中地では、女子はほとん ど使川せず、男:が、水卜村の女f
代度の使川状況であると布えら れ 合 股 村 部 は 、 水kH
が大休f
均的ではないだろうか。 後 略vi;~
`•I` } U ー ー ヽ ・ し n ” 五、ダイ 後 111;} 四、コャッ 鎌介叶代に使川された﹁コャッ﹂から来たのではないかと息われ ることばである。(﹁