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卒業論文

日系アメリカ人のアイデンティティ

水島 瑠美 20327224

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目次

はじめに 第一章 日系アメリカ人の歴史 1、アメリカへの移住 2、カルフォルニアでの開拓 3、旧移民の嫌悪感 4、排日運動の始まり 5、日系コミュニティ 6、強制立ち退き、2世の日系社会 第二章 日系アメリカ人のアイデンティティ 1、エスニック・アイデンティティ 2、構造的統合と文化的同化 3、日系アメリカ人のアイデンティティ 第三章 戦争とアイデンティティ、現在の日系アメリカ人 1、 日系人と戦争 1-1、日系部隊 1-2、2世の葛藤 2、 現在の日系人 2-1、日系人の新たな動き 2-2、アジア系としてのアイデンティティ 2-3、3世のルーツ探し 終章

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はじめに 現在アメリカ合衆国では、世界各国からの移民およびその子孫が生活している。アメリカが建 国された当初、アメリカ社会はイギリスを中心としてヨーロッパからの移民を中心としていた。 しかし、その後も移民は増え続け、ヨーロッパ以外の国からも富みと自由を求める人々がアメリ カにやってきた。世界各国から集まった人々は白人、黒人、その他の有色人種様々であり、容姿 でアメリカ人と定義することはもはやできなくなった。日本人ももちろん例外ではなく、多くの 日本人がアメリカに渡っていった。そこで、彼らは第二次世界大戦も経験し、多くの苦難の中ア メリカ社会での地位を獲得し、今では「モデルマイノリティ」と言われるほどになった。 『第二次世界大戦後、急速な近代化、産業化の結果として、伝統的なものへのアイデンティテ ィが失われたため、「国家よりは小さく、家族よりは大きい」何ものかへのアイデンティティが もとめられるようになった[綾部 1982:19-20]』かつて階級というレベルで測られたアイデンテ ィティはエスニックなアイデンティティというレベルに変わっていったのだ。民族の移動が激し いアメリカは、他民族が共存しあう世界である。アメリカで生まれアメリカで育ち、教育も周り のアメリカ人と同じように受けてきた移民の子供たちは、自分たちが認識しているアイデンティ ティとその周りが持っているアイデンティティの相違に苦しんでいる。 私の周りにはそういった環境で育った知り合いがいる何人かいる。そういった環境から私は日 系アメリカ人のアイデンティティに興味を持った。しかし、研究を進めていくと当初私が予測し ていたような、日本とアメリカのエスニック・アイデンティティの葛藤は日系人にはあまり見ら れないケースが多かった。もちろん彼らもそれぞれ疑問や他の白人に比べれば民族性を含んだ悩 みはある。しかし、彼らはアメリカのエスニック・マイノリティである多くの黒人のように、白 人との間に明らかな線は引いていないし、多くの日系人は社会的にも白人と同じような生活が送 れている。 そういった事から、その他のアメリカのエスニック・マイノリティと比べても日系人は社会的 に同化していると言える。そこで、なぜ日系人は他の移民に比べて同化が進んでいるのだろうか。 その疑問をこの論文で明らかにしたいと思う。 第一章では、日系人について考察する上で必要な日系人の歴史について述べる。 日系人がどのようにしてアメリカに移住してきて、どのように定住していったかを記述していき たいと思う。 第二章では具体的にどんな要素が日系アメリカ人のアメリカ社会への同化を助けたのか、どう して彼らは他のエスニック・アイデンティティを強く保持している民族に比べてエスニック・ア イデンティティが希薄なのかを課題に研究を進めていく。

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第三章では今の日系アメリカ人のアイデンティティを形成する上で大きな関わりを持ってい る太平洋戦争についてと、戦争と日系アメリカ人のアイデンティティにつて詳しく考察していく。 ここでは、日系2世のアイデンティティの葛藤が太平洋戦争では一世との対立を通して明らかに なっている。それから、それらの経験を経ての現在の日系アメリカ人のアイデンティティについ て記述する。戦争中の日系アメリカ人と現在の日系アメリカ人のアイデンティティは異なる。具 体的にどういった点が違うのか、日系アメリカ人のアイデンティティへのアプローチはどのよう に変わったのかについて述べる。 第 1 章 日系アメリカ人の歴史 1、アメリカへの移住 アメリカ移住者の記録に日本人が登場したのは、1861 年であった。その後アメリカの経済発 展と日本の経済状況を背景に 1880 年頃から移住者が急増した。最初にアメリカに渡った日本人 は、不景気が原因となってアメリカに出稼ぎに出た者たちである。また、その後は徴兵から逃れ るため、留学といった形で反政府活動の取り締まりから逃れるため多くの日本人が渡米した。 1800 年代、不景気、地租の重税、凶作と悪条件の揃った日本は商業経済に移り変わろうとし ている時期でもあったため、農村からの求職者のうち余った労働力は海外に向けられるようにな った。彼らは日本に滞在していたアメリカの外商に契約労働者として雇われ、ハワイで就労する 事となった。最初に日本政府に正式に移民として認められた「ハワイ官役移民」はハワイ移民局 によって日本の各地で募集され、1885 年の2千人から始まり、10 年間の間に約3万人もの人が ハワイで就労した人たちである。 1900 年になると、アメリカ本土に移住する人々が増えたが、彼らは「出稼ぎ労働者」だった ため、多くのアメリカに移住したヨーロッパ人と違い、初期の出稼ぎ労働者はアメリカに移住し 生活の基盤を作ることを目的としていなかった。多くの日本人はある程度の資金が貯まれば、そ れを持って故郷に帰ることを決めていた [飯野 2000:10-17]。 2、カルフォルニアでの開拓 当時、日本人移民者が集中したのは西海岸だった。日本人の移住が増加する以前からカルフォ ルニアの経済発展は進んでいたが、その労働力を満たしていたのは中国人だった。しかし、以前 から東洋人は差別されていたが、ある事件をきっかけに中国人虐殺にまで発展した。この事件後、 1880 年に中国移民取締法が制定され、労働力が不足していたが中国人を雇う事ができなくなっ てしまったため、それを補ったのが日本人であった。 1890 年代になると移民保護法も制定され、その海外渡航も組織的になり、それまで政府が請

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け負っていた仕事を日本人移住斡旋業者がするようになった。その後出稼ぎ目的でアメリカと日 本両政府を通してアメリカに就労しに行く形から、斡旋業者にも頼らず個人的にアメリカに渡る 形が広がり始めた。 日本人が従事した仕事は以下のようなものであった。家内労働者、西洋料理店の雇い人、農業 または製材所の人夫、鉄道人夫である。これらの職業は英語の能力によって賃金に差があったが、 全体的に技術や語学を必要とせず、比較的高い賃金を与えられていた。 3、旧移住者の嫌悪感 アメリカへの渡航がそれ以前より容易になったこともあり、1900 年代には急激に日本人移住 者が増加した。日本人移民がアメリカへ移住し始めた頃は、安い賃金で働く日本人の労働力は歓 迎された。しかし、日本人移民が増えるにつれ、ヨーロッパからの旧移民は日本からの新移民を 自分たちとは違った文化背景、アメリカフロンティアの消滅(土地の制限)、職の不足といった 理由から、新移民に嫌悪感を抱くようになった。日本人移民問題についてメディアが報道し始め、 徐々に政治的問題に成りつつあったことを日本政府も気がついてはいたが、特に危機感をもって これに対処することはなかった 日本人に対する嫌悪感は、それらに加えて、日本人の生活状況からもきていた。当時、安い賃 金と最低の設備、食事で暮らしていた日本人労働者の生活環境を見た人々は日本人に対して冷淡 な目で見ていた。彼らはアメリカに渡ったごく一部の日本人であったが、数少ない日本人しかい ないアメリカでは、彼らを見た事で日本人全体と解釈し、日本人に対して偏見を抱くことになっ ただろう。アメリカの資本家が、日本人労働者を雇うのは「単に労働者、換言すれば一種の生産 機械として」であり、コミュニティのメンバーとして積極的に受け入れているではないと当時書 記官であった上原正直は観察している[飯野 2000 25]。 4、排日運動の始まり 組織的な排日運動としての始まりは、1900 年シアトルでの排日集会とサンフランシスコでの 集会での日本人労働者排斥の決議である。日露戦争後、それまで力のない途上国と見なしていた 日本がアメリカの脅威となった。急激な日本人移民の増加と日露戦争の影響が重なって、日本人 への排斥活動が更に活発になり始めた。1905年にはサンフランシスコにおいてアジア系排斥 同盟が組織された。それは、在米日本人および韓国人を排斥する目的で結成された。 日本人排斥の波は、さらに新聞というメディアによってアメリカ中に広がっていった。排日運 動は日露戦争の日本の勝利により、世界に強力な国家として進出してきた日本に対するアメリカ の恐怖心からくるもので、日本が劣等であるからではないと主張する「黄禍論」が排日運動の中 心であった。アメリカ政府は、日本人移民のアメリカへの入国を禁止する日米紳士協定を 1908

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年〜09 年にかけて制定した。 日米紳士協定の締結以降、都市の労働者が農業地域に入り込んできたため、日本人に対する白 人のさらなる危機感を強めた。その結果、カルフォルニア州は 1913 年に帰化不能外国人の土地 所有、賃借、譲受を制限する「外国人土地法」を制定し、日本人を農地から追い出した。さらに、 日本排斥問題の解決のためには立法手段で対処する必要があるとして、1919 年にカルフォルニ ア排日協会が結成された。カルフォルニア排日協会とその他の団体は、紳士協定の代わりに日本 人移民を立法的に禁止し、日本人移民を帰化不能にし、その子供にも市民権を与えないことを目 標としていた。 1922 年には、合衆国最高裁判所は日本人の帰化を否定した。このことは 1924 年に制定される 移民法で、日系アメリカ人は帰化不能外国人となる事を示していた。この法律は新たな日本人の アメリカ移住を禁止しただけでなく、日系アメリカ人として生きる事を決意した日系アメリカ人 女性の市民権を奪い、一生外国人として生きなければならないという最大の苦痛を与える事とな った。さらに、市民権がないため日系コミュニティは政治的に弱い立場へと追い込まれることと なった。 5、日系コミュニティ 数々の差別や非難の対象となり、困難な生活を余儀なくされた日系人だが、そうした中でも多 くの日本人がアメリカに渡って来てから、着実にアメリカに日系人のコミュニティを根付かせて いった。 1900 年になると、契約労働者たちはハワイでの労働契約が切れ、アメリカ本土に渡りハ ワイ、日本からその妻たちも呼び寄せられるようになった。約 1910 年、日米紳士協定によって 日本人の移住は禁止されたが、すでにアメリカに労働移民としている日本人は妻や家族を呼び寄 せることができたのである。この頃から、日系人のアメリカでの定住が見られるようになった。 彼女たちは、日系人がアメリカに定住するのに重要な役割を果たした。当初、日本に帰国する 予定だった日本人も妻を呼び寄せ子供も生まれるようになると、アメリカでの定住を考えるよう になったのである。女性たちは、日系人家族の経済生活に欠かせないもとのなった他、女性なら ではの職種で活躍をしていた。彼女たちは学校、日系教会、寺院、婦人会など日系、人の社会活 動の中心となる組織などを作っていき日系アメリカ人コミュニティができ始めた。渡米する日本 人が増えるにしたがい、県人会もできるようになった。 日系コミュニティは、日系アメリカ人に対する排斥に対処するために、サンフランシスコでは 在米日本人連合協議会を結成した。また、ワシントン州ではワシントン州日本人会が結成された。 これらの日本人会は県人会からさらに規模を大きくすることで、日本人移民社会のより強い結団 力を生もうと試みたものであった。

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日本人コミュニティの結束に役立ったのが日本語新聞であった。日本語新聞によって日本の情 報を手に入れた他、日本語新聞は日本人移民社会の模範を定める役割を果たし、日系人同士の結 びつきを強くした。また、日系2世が成長するに従い、日系人としての民族意識を養うために日 本人会付属小学校が設置され国語学校となり、2世たちはここで日本語を習った。 このように女性たちの移住、そして、日系2世たちの誕生によって、日本人移住者たちは日系 アメリカ人として日系社会を現実的なものにしていき、本格的にアメリカのマイノリティとして の日系コミュニティを築いたのであった。 そうやって、日系人はアメリカ社会に苦難を乗り越えながら自分たちの生活を確立していったが、 後の2世にも大きく影響を及ぼす太平洋戦争の勃発で大きくその形を変える事となった。 6、強制立ち退き、2世の日系社会 1941 年、日本軍による真珠湾攻撃が行われると、直ちに日系人1世の貯金は凍結され、日系 社会の指導者約 1500 人は強制拘引された。その後 1942 年、一般の日系人も強制収容された。日 系1世のみならず、アメリカ市民権を持つ日系2世も含めて、約 11 万人の日系アメリカ人がア メリカ各地の強制収容所に送られた。全日系人は、海岸地域から内陸部立ち退かせられたのであ る。立ち退きの対象となった地域はカルフォルニアから始まり、オレゴン、ワシントン、アリゾ ナ諸に広がった。 この戦争によって、日系人は始めて文字通り命を懸けたアイデンティティの選択を迫られた。 それはこの後の日系人を大きく変えるできごととなった。 1944 年、陸軍省は日系人の立ち退き命令を撤回した。帰還者の 90 パーセントが西海岸へ帰還 していった。しかし、忠誠審査を否定しツールレイクに送られた人たちは、この時期に帰還する ことはできなかった。市民権放棄の取り消しを要求した日系人たちの申請再審議が行われ、1946 年を最後に日系人の強制収容は終了した。 長い収容生活を終え、日系人たちは慣れ親しんだ土地へ帰還していったが、つい最近まで敵国 だった日本からの移民である日系人に対するアメリカ人の冷たい態度、差別、またほぼ消滅して しまった日系社会の立て直しなど、日系人には多くの苦難が待ち受けていた。が、その後徐々に 改善の兆しが見られてきた。排日移民法によって市民権の得られなかった日系1世たちだが、 1952 年に法律が改正され、市民権取得試験によって市民権を得る事が可能となった。また、戦 前は差別のため教育を受けていても2世たちは就職先が見つからずその知識を生かせず、親と同 じような職に就くしかなかった。しかし、戦後はそのような人種差別的な理由での就職難は目立 たなくなった。 戦後、1世から2世への世代交代もあり、日系社会はかつての形の復元ではなくなった。1世 が日本社会の中心だった頃、2世と違い、日本に繋がりが深く英語に不自由だった事もあり、2

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世たちを日本語学校で日本文化や日本語を学ばせた。日本語学校には、ほぼ全員の2世たちが放 課後に通った。しかし、日本への精神的繋がりが薄い2世は3世に日本語を学ばせようとはせず、 日本語学校は規模を縮小していた。日系人会や県人会もその力を失っていた。民族性としては日 本との繋がりが弱くなっていった日系社会だが、時代の流れでアメリカに同化という形で新しい 日系社会を作り上げていったのである。 第二章 日系アメリカ人のアイデンティティ 1、エスニック・アイデンティティ 一般的に、日系アメリカ人は他の民族に比べて民族意識が低いと言われている。あくまでも同 化をよしとする同化論を唱える側からすればだが、確かにアメリカの「モデル・マイノリティ」 と言われているように、現在の日系人はアメリカ社会に同化しており民族意識が低い。エスニッ ク・アイデンティティは民族のアメリカ社会への適応するに従って当然のことながら低くなって いくのだが、黒人や中国系、ヒスパニックのように民族意識が高い民族もいる。 なぜそのように主流文化を身につけ「モデル・マイノリティ」となるような同化の道を歩んだ 民族と今なお独自の文化を保持し続け主流文化に同化しようとはしない民族が存在するのだろ うか。何がそのような違いを生むのか。それをここでは、社会構造的に見ていきたい。 2、構造的統合と文化的同化 民族が社会にどれほど同化しているかは民族意識の低下と比例する。そこで、いくつかの民族 を例にとって「構造的統合」と「文化的同化」の2つを尺度に民族の社会への同化の進み具合を 検証し、民族意識の程度を見ていく。 「構造的統合」とはエスニック・マイノリティが制度的構造的差別と排除がない状態のことであ る。所得差、職業分布の偏りなどによって見られる社会経済的地位である。一方、「文化的同化」 とはエスニック・マイノリティが全体社会の支配的価値観を内面化している程度によって測られ る。例えば、言語の習得の程度や習慣、行動様式などである。 この「構造的統合」と「文化的同化」で移民集団を「アンダーカースト状況」、「メルティング ポット状況」「サラダボール状況」、「アノミー状況」と位置づける事ができる。「アンダーカース ト状況」の人々は移民の1世など統合も同化もされていない状態の民族、フィリピン系、コリア 系、ベトナム系、メキシコ系などを指す。 それとは逆に、統合も同化もされており、実質的にはエスニック・マイノリティではなくなっ ているヨーロッパ系のような民族は「メルティングポット状況」にいる。また、マイノリティで はあるが、全体社会に統合され、同化の進んだ日系もここに位置する。

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最後の「サラダボール状況」には独自の文化を保ちつつ、それでいて構造的には社会に統合さ れているような民族が位置する。ユダヤ系のような、もはやマイノリティとはいえないグループ や中国系もそうだ。そしてもう一つの「アノミー状況」にいる人々はエスニックな特徴は消えつ つあり、文化的同化が進んでいるのに構造的統合ができていない民族だ。黒人や日本の在日朝鮮 人のような民族がここに当たる[石井 1992:53-58]。 ここからは各状況を民族が辿ってきた歴史や環境を考察し、なぜ今のような状態になったのか 分析していきたいと思う。 ① メルティングポット マジョリティであるヨーロッパ系の移民は現在では、容姿と、文化的類似でマジョリティとな っているが、移住してきた当時はそれぞれ文化を持ち対立していた。アメリカへ移住したヨーロ ッパ系の中でも、初期に移住したイギリス系とイギリスに近い移民文化を持つドイツ系が、数あ る移民文化の中でも主流であった。国の伝統と誇りからドイツも独自の文化を保持していたが、 第一次戦争によってドイツの立場を厳しくしたことから、ドイツ系移民はアメリカ社会に合わせ ることを選んだ。 その後、少し遅れて東ヨーロッパ、南ヨーロッパ、アイルランドから移民が移住してきた。身 体的な特徴や宗教が異なっていたため、すぐに主流文化に同化せず、彼らも独自の文化を保持し ようとした。しかし、第二次世界大戦をきっかけにして、イタリア系の移民の間で民族的なもの は消えて行った。やはり、日系と同じようにイタリア系の若者もアメリカへの忠誠を軍隊に志願 することで証明しようとした。 これらのメルティングポットに位置している民族の移住、同化の過程を見ていく中で顕著な共 通点は、多くの民族は戦争への参加を通してその特徴を消していった事だと言えるだろう。 ②サラダボール メルティングポット状況の反対ともいえるサラダボール状況の民族には、ユダヤ系と中国系と がある。中国系の移住者を華僑と呼び、その子孫たちを華人という。華僑の特徴は、とても人間 関係を重視し、特に同族人、同郷人を大事にする民族だという事である。注目したい彼らの特徴 は、彼らは商人として移住地で生活しており、利益中心とした活動を行っている民族であり、移 住した先で移民として他文化との触れ合いがあったものの、強烈にエスニック・アイデンティテ ィを保っているのである。彼らにとって信頼できるものは人間関係、同郷人であり、それが商業 をする上で大切な関係なのである。 また、ユダヤ系と華僑に共通して言えるのは、ユダヤ系も華僑もディアスポラを経験している ということだ。そういった民族のアイデンティティは領土的に制限されず、彼らは民族的、文化

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的な共通性を持つものとしてのアイデンティティを持っている。 ユダヤ系は特定の人種集団でもなければ、エスニック・グループでもない。長い放浪生活の中 で多くの文化、人に接触し、人種も単一ではなくなった。それならば、ユダヤ人という定義も難 しくなってくる。そういった、特定の国を持たず特定の人種で定義できない不安定な状態だから こそ、個人の意識というものをアイデンティティを保持することに重点を置いているのだ。 ユダヤ系、華僑、華人のような強烈なアイデンティティを持つディアスポラを経験した民族に共 通していることである。[陳:47-48] ③アンダーカースト アンダーカーストに位置しているエスニック・グループは、構造的統合がまだできていない状 態にある。それには、いくつかの理由が考えられる。 ヨーロッパ系の移民たちが移住してきた時も、それ以前に移住してきた民族集団に拒否されてき たように、常に新参者は社会全体からは歓迎されず、経済的にも弱い立場にいる。 カルフォルニアでアンダーカーストに今のところ位置しているエスニック・グループはフィリ ピン、メキシコ、ベトナム、コリアである。特に、フィリピン系やベトナム系は移住してきてま だ日が浅く、収入の面からも安定した状態ではない。このように、構造的に統合が進んでいない と、社会的地位も向上しない。[石川 1992:67-71] ④アノミー アノミー状況に位置している代表的民族は、アメリカの黒人や日本における在日韓国・朝鮮人 たちである。彼らは文化的には同化していても、外部的な要因で構造的に統合されていないとい う状態である。文化的同化が進み、他の民族同様の権利を主張しても、社会はなかなかそれを受 け入れず、どうしようもない状況に追い込まれている状態である。 アノミー的状況に陥っている民族集団は特に強制的に新しい地に連れてこられた人々に強く みられる。 在日韓国・朝鮮人の若者は文化的な同化は進んでいるものの、まだ過去の歴史が未だに消し去 ることができず、自ら統合への道を塞いでしまっている。社会的差別もそれを助長している。多 くの人が日本に帰化しない理由には、帰化することでエスニシティの喪失や裏切りを感じるから である。歴史的背景から、彼らは構造的統合を拒んでいるのである。 一方、黒人も白人からの許すことのできない屈辱を受けたという歴史を持っている民族である。 不本意にアフリカからアメリカへ連れてこられた黒人たちはそこでの生活を強制された上に社 会的に否定され、同化することもできないでいた。 過去奴隷であったことは、統合へ向けての動きにはとても不利なことであった。南北戦争を経 て奴隷制が廃止され、奴隷は解放されたものの、依然として彼らの厳しい立場は変わらなかった。

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北部の南部社会全体に対する反感が差別やリンチを生み、黒人文化に対する異常な破壊活動を生 んだ。 しかし、時代は進み新しい傾向が見られるようになった。黒人たちは白人に近づくこと、白人 文化をまねすることでアメリカ社会に認められようとするのではなく、自分たちの文化を誇りに 思い、全面的に主張していくことで、アメリカ社会での立場を確立していけるまでになった。こ のようにして、黒人文化は尊重される対象となり、黒人自身もアメリカ社会にだんだんと同化し ていくようになった。しかしながら、未だにアフリカンアメリカンの全体の所得は他の民族に比 べて低く、教育年数も短い。よって黒人の構造的同化はまだまだ進んでいないことが分かる。 第3章 戦争とアイデンティティ、現在の日系人 1、日系人と戦争 移住当初から、先住民の日系人に対する態度は排他的であったのに加え、太平洋戦争は日系人 のアメリカにおける社会的立場を最悪のものにした。 日系人は皆戦争の勃発と同時に、強制収容所に送られることになったのだが、1世の指導者のい なくなった日系社会は2世によって代表されることとなるのだが、彼らはアメリカ人としてアメ リカを支持することを選んだのである。当時の日系社会の代表的立場にあった日系市民協会 (JACL)は、アメリカに忠誠心や愛国心を示すことで、戦後のアメリカを正当な立場で生き残 ろうとしたのだが、これには当然非難の声もあった。しかし、1世の中には日本や日本的なもの の関係を否定し、アメリカ的なものを取り入れることでアメリカ社会の日系人に対する疑惑を否 定しようとするものもいた。 日系人も太平洋戦争前は他のアメリカ人と同じように徴兵されていたのだが、その後日系人は アメリカへの忠誠心を集団忠誠登録という形で示すことでしか、徴兵の対象にならなくなった。 忠誠審査は徴兵年齢の男子に天皇へ忠誠を誓うのか、アメリカへ忠誠を誓うのかを問いただすも のであった。日系人一1世にとっては、唯一自分たちの存在を認めている日本を否定し、市民権 の認められていないアメリカに忠誠を誓えば、自分たちはどこからも認められていない人間にな ってしまうとの不安があった。 この軽はずみなアメリカ政府の質問によって、アメリカへの不信感を募らせた日系人だが、 大多数はこの質問に「イエス」と答えた。しかし、ここに当然「ノー」と答えた日系人もいたわ けだが、彼らは不忠誠者とされツールレイクに隔離された。世代間の対立も生まれ、忠誠者から 暴行される人もいた。このツールレイクから多くの日本人が日本への帰国を希望した。アメリカ 市民権を持つ2世は市民権放棄という形で1世たちと供に日本へ渡った。しかし、大半の日系人 が市民権を回復した。

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1−1、日系部隊 1943 年日系2世のみからなる、第 442 戦闘部隊が結成された。彼らは、アメリカ軍の歴史に 残る輝かしい成績を残した。帰米と言われる、日本で教育を受けた2世は英語に多少ハンデがあ ったが、日本語や日本に対して弱い2世とが補い合い業務に徹した。2世らは捕獲文書の翻訳、 捕虜尋問の通訳などをこなし、アメリカ軍に貢献し、忠誠心を示した。2世の存在がなければ太 平洋戦争はもっと長引き、アメリカに多大な損害と被害者を出していただろうと言われるほど2 世の活躍はアメリカに大きく貢献した。彼らがアメリカ軍に志願する事で2世のアメリカへの忠 誠心が示され、戦後日系人がアメリカ社会に認められる事となった。 1−2、2世の葛藤 太平洋戦争の間、日系人はアメリカと日本の間で揺れ動いていた。アメリカ人でありながら、 日本人の血を引いている日系2世にはもっと辛いものがあった。戦前にも存在していた日系人に 対する差別に、2世は日系人であることを認識しなければならなかった。しかし、戦争によって アメリカ、日本の中間にいることは許されず、アメリカ人である自分たちに日系人であることを 押し付けられ、アイデンティティの葛藤に苦しんだ。 今までアメリカ人だと思っていた2世も、戦争によって嫌でも日系人として括られた。日本軍 が真珠湾を攻撃した次の日、学校に行く事ができなかった2世や、学校で非難の目で見られたと いう経験をした2世もいた。他のアメリカ人から差別されるようなことがあっても、日系2世た ちは自分たちがアメリカ人であることを、アメリカに認めてもらおうと必死に努力、主張した。 強制立ち退きに対して日系社会の中心であった日系市民協会は、強制立ち退きに反対するどこ ろか、協力する姿勢を見せた。1世、2世が強制立ち退きの経験を語らなかったために、3世は この日系人の姿勢に疑問と反発をもった。しかし2世が中心になっていた日系市民協会の判断は、 戦後アメリカに正当に同化するため、自分たちのアイデンティティをこうした中で敢えてアメリ カに忠誠を誓う事で認めてもらおうとしたのである。日系市民協会のメンバーは立ち退きのため に書類を揃えたり、英語が不十分な人のために代筆したりと、進んでアメリカ政府の政策に協力 した。 2世にとってアメリカに忠誠を誓うことは、自分のアメリカ人としてのアイデンティティを認 めてもらうための唯一の方法であった。その最たる行動がアメリカ軍への志願である。JACL の 方針に反発した1世もおり、世代間での対立が存在したが、それは家族間でも起こっていた。ア メリカ軍に志願するという2世と1世の対立である。しかし、反対する1世を押し切って、多く の2世は軍に志願した。アメリカ軍に志願した2世は一万人を越えた。アメリカ政府はアメリカ 軍に志願した日系人の日系人だけの部隊を結成するなど、ここでも人種差別的な対応をしていた

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にも関わらず2世たちはアメリカに尽くしたのである。 彼らは徴兵に志願し、JACL の方針と同じように日本人ではなくアメリカ人である自分たちの 潔白、アメリカへの忠誠を示そうとしたのだ。しかし、1世と2世では日本、アメリカに対する 思いは当然の事ながら違っていた。 収容所内でもその対立は目立っていた。故郷である日本の勝利と正義を信じる1世と、アメリ カの勝利、正義を信じるアメリカで生まれアメリカ人として自覚してきた日系2世の対立であっ た。そこで記述しなければならないのは、「帰米」の存在である。帰米はアメリカ生まれながら も、日本で教育を受けた2世のことである。彼らは日本で生活した経験があるため、日本への思 いれが強いものが多かった。そこで、対立は「1世対2世」や「帰米2世対純一世」という構図 にもなっていた。 日系人部隊による輝かしい功績は、日系人のアメリカ人としてのアイデンティティを根付かせ ただけでなく、アメリカ社会の日系人に対する好意を持たせ、寛容な対応をさせるきっかけとな った。また、Gl Bill(復員兵援護法)によって名門大学や大学院に進んだものや、戦中戦後の所 得増加で日系人家庭から高等学校に進むものが出てきた。これにより、日系人が日系社会以外で 活躍する機会ができ社会上昇が可能となったである。 しかしながら、強制収容は日系人にとって辛い経験であり、戦後もその経験によって苦しめら れることとなる。日系1世、2世とも太平洋戦争によって自分たちのアイデンティティを問い、 特に2世は日系人であることを恥と思い、罪の意識さえ感じるようになるなど、精神的な苦難が 待ち受けていた。日系人であることを恥じ、実際収容所での経験を後世に伝える事をせず、日本 語さえ話す事を否定し、日本と関係のあるものを処分してしまう1世、2世もいた。そういった 消極的な理由からも、家庭から日本文化が消え日系人の民族的アイデンティティの消失につなが る要因となった。 2、現在の日系人 2−1、日系人の新たな動き 日系人のアメリカ社会への同化の要因は様々であったが、特に太平洋戦争によって日系人は急 速にアメリカに同化していった。そういった歴史を通して、現在の日系人のアイデンティティは 形成されている。 日系人の世代も戦後2世から3世へ世代交代し、日系社会・日系人に新たな動きが見られるよ うになった。それまでの日系人は、日本や日本文化の繋がりを否定し、アメリカなものに同化す ることで、自分たちの日系人としてのアイデンティティを潜伏させ、アメリカ人としてのアイデ ンティティを持つ努力をしてきた。戦後、1960年代後半の黒人の公民権運動の高まりによっ て、エスニックなアイデンティティを肯定的にとらえる動きが黒人だけではなく、多くのエスニ

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ック・マイノリティの間で広がった。それまでの大人しく自分たちの権利を主張しなかった日系 たちとは違う、「アメリカ化」の進んだ3世たちも、その動きに喚起され、過去の日系人に対す るアメリカ政府の行いに抗議することを決めた。 戦中、日系人は真珠湾攻撃とともに敵性外国人とされ、強制的に拘束されたのだが、対戦国で あったイタリア、ドイツの移民は日系人のような扱いを受ける事はなかった。この日本人に対す る処置は人種差別からなることを示していた。しかし、強制収容を経験した1世、2世はその経 験について多くを語らなかった。そうしたことにより、次の世代である3世は 1960 年代に高ま りを見せた黒人の公民権に対する運動などから、民族意識を持ち始めていた。彼ら3世たちは1 世、2世たちのアメリカ政府に対する態度に疑問と怒りを持ったのだった。1980年代にはマ イノリティの権利意識を持ち始め、この憲法的に問題のあったアメリカ政府の政策を問題視する ようになった。 そして、1950 年代当時、日系人の強制収容に反対、裁判にかけられ敗訴した2世三人らは強 制収容を憲法違反として再裁判を起こした。その結果、三人は勝訴し、アメリカ政府は謝罪と補 償金の支払いをすることとなった。日系人は太平洋戦争でのアメリカ政府による行いに抗議する ことにより、自分たちの正当な立場を主張したのだった。そうした運動の成功は、日系人が日系 人であることを肯定的にとらえることができる重要な出来事であった。日系人であることを公に 恥じる事なく示す日系人も増えた。また、日米関係も良好になり、日系企業のアメリカ社会の進 出は日系人が日本を身近に感じ、日本の存在を確信させることとなった。 2−2、アジア系としてのアイデンティティ 一方、最近では日系人という枠を越えてアジア系としての意識も持つ日系人が増えた。アジア 系としての連帯感が生まれたのには「ヘイトクライム」の影響もあるだろう。ここで、日系人が 他のアジア系の民族との関わりを重視し始めたのだ。公民権運動の高まりにより触発された日系 人は、アジア系の連帯を強める「イエローパワー」運動が起こした。教育や美術分野でも、アジ ア系でのまとまりを強める動きが見えてきた。そういった動きの背景には、個々の集団では力と して弱く、アジア系としてまとまった方が活動が広がりやすいとの考えもあった。 そのヘイトクライムへの反応も、今の日系人は今までとは違った反応を見せる。1990 年代以 降は、あまりヘイトクライムの報道も少なくなった。それは、今までの日系人には見られなかっ た、自分たちの権利を主張し、ヘイトクライムに泣き寝入りすることなく抵抗してみせたことか らである。さらに、1980 年代後半から、多文化主義が社会に広がったことも影響しているとい える。 そのことにより、日系人もさらに自信を持って自分たちの活動に取り組むことができたのであろ

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う。 また、日系人というよりはアジア系としての意識が高まる理由には、日系人の異人種間結婚の 増加がある。異人種間結婚とは自分の属する民族以外の民族に属する人との結婚である。現在、 その結婚相手の大半が他のアジア系グループに属する人であるため、次に生まれてくる世代は当 然日系以外の「アジア系」としてのアイデンティティを持つ可能性が高い。そういった意識から も、アジアとしてのまとまりがより強くなるだろう。 2−3、3世のルーツ探し さらに、現在の日系人、3世は最も「アメリカ化」された日系人であり、今までの日系人とは 違った性格を持つ。現在の日系人が置かれた状況から、3世は人種関係において2世よりもはる かに寛容であり、白人との関係もあくまで対等との見方をごく自然に持っている。また、行動様 式や人格が最もアメリカ的であるといえる。がしかし、それも完璧ではなく、未だ日系人として の特徴も併せ持っている。アメリカ的になった行動特性や人格とは逆に、3世たちは日本文化に 関心を寄せている。 2世は、厳しい人種差別の中で必死にアメリカ社会に立ち向かおうとしていたとき、彼らの日 本文化を消し去ろうと努力した。その結果、自分のルーツを求める3世は2世が日本文化や過去 の歴史を知らず、何も教えてはくれないかわりに、日本文化や1世たちとの交流を通して、アイ デンティティの基盤となるものを求めているのである。そのような傾向から、現在の3世たちは 日本文化に興味を持ち、日本人とは違う日系人としての日本文化を愛着を持って確立しようとし ている[綾部 1982:177-194]。 以上記述してきたように、日系人のアイデンティティは世代や時代、置かれた環境によって大 きく変化している。 終章 アメリカでは主流文化を作ったイギリス系の移民以外、皆マイノリティとしての経験がある。 今では主流に同化し、マジョリティとして数えられるアングロサクソン系の民族ももちろんマイ ノリティとして差別と偏見を乗り越えて来た。そういった環境の中では、もちろん同化というも のが必要に迫られてくるのであろう。特に戦争が絡んでくると、エスニック・アイデンティティ の選択は生死を分けるものであると言える。 独自の文化を持ち続けている民族のように日系人がならなかった理由には外部の影響が大き く関係している。先住民の新移民に対する態度は彼らがエスニックな伝統を保持できるかに大き

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く関わってくる。新移民としてやってきた1世たちもアメリカでの周囲の態度は決していいもの ではなかった。先住民が日系人に対して、排他的だったのに加えて、戦争が起った。それにより、 特にアメリカで生まれた2世たちはそのエスニック・アイデンティティの選択に苦しんだ。そう いった環境の中、戦後の日系社会を担う2世たちはアメリカ人であること、真のアメリカ人にな ることに努めた。そのような過程を見ると、エスニック・アイデンティティは状況によって意識 的に選び取るものだと言えるだろう。 しかしながら、自発的にアイデンティティを選択するまでに至らない民族もいる。黒人や在日 朝鮮人のような歴史的に同化を拒む民族や、社会的経済的に影響力を持たず、同化へ進まない移 民たちだ。日系人たちも移民当初はそのような状況だったが、努力の末経済的力をつけ今の状況 に至った。従って、ある程度の条件が揃ったところでその選択はなされるものなのだろう。 日系人たちは適応の必要性から主流アメリカ社会に同化し、日系人であることを否定すること を選んだ。意識的に選択しただけに、2世たちは自分たちが日系人であることがずっとつきまと っていた。自分たちのエスニック・アイデンティティを否定的に捉えていたのだ。しかし、それ でも自分が真のアメリカ人であることを示そうと、アメリカ社会に自分たちの意見を押し通さな いできた。その結果、現在日系人はみごと同化に成功したのだった。制度的にも平等が保障され、 以前のような差別、偏見は見受けられなくなった。しかし、それとは引き換えに日系人社会にお ける伝統的文化が消えていく事となった。同化によって、日系文化の影響力がはるかに後退した のは確実であった。 しかし、一方で現在3世たちを中心に違った動きが見られるようになってきた。民族性を否定 し隠そうとしてきた2世たちとは違って、自分たちが日系人の血を引いている事を肯定的に捉え ようというものが3世の間で増えたのだ。言葉や行動様式はアメリカ化していると言っていいが、 自分たちのルーツである文化を大切にしようとしているので、コミュニティの行事に参加したり、 日本の伝統文化を積極的に学んだりしようとしている。これは、2世たちがアメリカ社会に同化 するために必死に民族的特徴を消そうとしていた結果、完全とは言わないまでも主流社会に同化 し、白人たちと同等の立場になったという自信の現れだと言えるだろう。 エスニック・アイデンティティは世代によって、民族が置かれている状況によって常に変化し ているものである。日系人が置かれた状況も常に変化してきた。新移民として移住し、戦争を経 て、努力の末経済的社会的地位を獲得した。そして、「モデル・マイノリティ」と言われるまで に主流アメリカ社会に同化した。その自信から現在、今度は自分のルーツとしての日本文化の見 直しが活発になっている。エスニック・アイデンティティは、幾世代にもわたって経験されてき たことの蓄積、結果である。過去の様々な経験や環境から、各世代別々のアイデンティティを持 っている。 現在の日系社会の中心は3世になりつつある。彼らの社会的環境や心理的動向、彼らの活動を

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通して、また新しい日系人のアイデンティティが形成されていくのであろう。 参考文献 石川准(1992)『アイデンティティ・ゲームー存在証明の社会学』新評論 松尾かず之(2000)『民族から読みとく「アメリカ」』講談社選書メチエ 村上由見子(1997)『アジア系アメリカ人』中公新書 陳天ジ(2001)『華人ディアスポラ』明石書店 トーマス・ワイヤー(1993)『米国社会を変えるヒスパニック』日本経済新聞社 ユウチュウクン(1990)『華僑』講談社現代新書 細見和之(1990)『アイデンティティ/他者性』岩波書店 原尻英樹『コリアンタウンの民族誌』ちくま新書 飯野正子(2000)『もう一つの日米関係史』有斐閣 ハルミ・ベフ(2002)『日系アメリカ人の歩みと現在』人文書院 今田英一(2005)『日系アメリカ人と戦争』星雲社 竹沢泰子(2000)『日系アメリカ人のエスニシティ』東京大学出版会 久保文明・砂田一郎・松岡泰・森脇俊雅(2006)『アメリカ政治』有斐閣アルマ 明石紀雄・川島浩平(1999)『現代アメリカ社会を知るための60章』明石書店 綾部恒雄(1982)『アメリカ民族文化の研究』弘文堂 米谷ふみ子、イチロウ・マイク・ムラセ・景山正夫(1987)新潮社

参照

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