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衆議院の解散について

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(1)

−いわゆる﹁明治憲法の天皇制下における衆議院の解散﹂

の反省と批判を中心として−

西

一︑

衆議院の解散権をめぐって日本国憲法下前後二回の憲法論争が行われ︑議論はほぼ出尽したといつてよいであろう︒

尾崎行雄氏の詳論の如き二位の解散否定論﹂1︐はともかくとして︑解散に関する冒本国憲法の規定をすなおに認め・

憲法の法理としてその解釈と正面から取組むものに大別して二つの方向があるといいうる︒一は・解散の時期及理由等

は明文がないから日本国憲法第七条によって行いうるといい︑他は︑それこそ明治憲法の考え方であって・日本国憲法

においては︑明治憲法になかった第六九条によってのみ衆議院の解散はなしうる︑すなわち︑衆議院で内園の不信任案

が否決されるか︑信任案が否決されたときでなくては解散はなしえないという︒しかも両者の立場は何れもかつての独裁制が再び行われることたきを確保せんとする目的をもち︑且これが憲法全体の精神よりみて妥当な解釈であるとす

る0おもうに衆議院の解散は︑法律的には﹁衆議院の任期満三間に議員の全部に封し共の資格を失わしめ一時衆議院の存衆を失わしめる行為﹂といいうるが︑政治的には︑﹁国会殊に衆議院が民意を反映しているかどうか疑わしい場合に︑

衆践院の解散について九一

(2)

民意を確める制度﹂であっ

τ

極めて重大なる意義を有するがために︑如何なる場合に行いうるかの解釈に沿いても︑か

つての明治憲法下に行われた如き解散格の濫別を生ぜざらしめんとする合目的的解釈をなさんとするは︑もと上り正当

なる態度といわなければならない︒しかしさればといって︑文理上論理上の根拠に之しい解釈を憲法の法理とし℃説く

ととも許されざるところであろう︒文理上論理上の許す限度にないて︑かつての明治憲法の天皇制下に沿けるが如き解

散権の濫用の行われざる合目的的解釈は来して何れが晃当な解釈であろうか︒

日本国憲法下昭和二三年二一日二三日第一回の衆議院の解散が行われた︒それまでは﹁衆議院で内閣不信任案を可決

した場合でなくとも衆議院を解放するととは憲法上許されるという見解﹂が政府及学界に於て支配的であったに拘ら

宇︑﹁日本国定法下に沿ける衆議院の解散は︑第六九条によってのみ行いうる︒第七条はク天皇の国事4をきめた規定

で儀礼的な行為であり︑その前に天皇は国政に関する権能を持たない旨はっきり規定してある︒国政と国事とははっき

りしなければならない︒第六九条以外に政府が独自の解散格をもっとの考え方は旧京法の忠惣であり︑かつ℃の天皇制

ともつながる﹂という有力な主張が行われるととによって︑﹁政府と野党との話合の結果︑衆議院で内閣不信任の決議

案が可決され︑その可決をまって衆議院の解散が行われた︒﹂第一回の先例に於てはまさに以上の如き処置がとられた︒

日本固定法第七条によって解散を行いうるという立場(通説と考えうるが)から︑との第一回の先例によっては窓法

理論の上で解決されたものではなめという主張が行われ︑幻又﹁不幸な先例﹂(金森徳次郎氏の言葉)であったとの批

判もあるが︑反到の立場からは﹁幸福な先例﹂のとしてとれを正当な運営であるという︒

・本稿に長いて︑日本国憲法下の衆議院の解散をめぐる論争に公いて表明せられた﹁定法第六九条以外に政府が独自の

解散権をもっとの考え方は旧定法の忠忽であり︑かつての天皇制ともつながる﹂とせられる明治憲法下の解散に関する

規定及運用を省みることにより︑日本国憲法に公ける﹁衆議院の解放権﹂をめぐる解釈理論解決のてがかりをえたいと

思う︒それ故本稿は︑日本国憲法下の衆議院の解散については前論的地位をもつものであるが︑それ自体独立のものと

して論述したいと忠う︒

(3)

佐藤功﹁解散ためぐる憲法論争﹂技館時報

の︑例目宮沢︑前特論文参照︒

め︑小島和司﹁四入年の幸福な先例﹂東京大学学生新聞

明治憲法に訟ける解散の規定は︑第七条に﹁天皇ハ:::衆議院ノ解散ヲ命ス﹂とあり︑衆議院の解散権は天皇の大権

に属するとせられた︒定法義併りにむいて﹁衆議院を解散するは史に新選の議院に向て輿論の属する所を問う所以な

り︑此に貴族院を謂はざるは︑貴族院は停会すべくして解散すべからざるなり﹂という簡単な註鮮が加えられていた︒

明治定法が多く旧プロシヤ法法に範をとった由来をもてるととは勾人の知るところであり︑衆議院の解散に関しても

亦)イギリス流の議院内閣制をもって国体に反するとなした起草者の主張を考慮すれば︑憲法義解に沿いては詳細に註

解はされていないが︑旧プロシヤ憲法の忠想がえけつがれたと考えうる︒すなわち︑明治憲法に沿いては議会に内閣不

信任案徒出格の明記されていない点について.その起平者伊藤一回文が枢密院の審議中に述べた︑﹁抑々弾劾権ノ国会‑一

在ルハ︑之ヲ君権下二移レリト一疋ハザルア得ズ︒大臣ハ君主ノ委任シクル大臣ナリ︑独リ君主ノ成桂一一伏リ大臣ヲ進退

瓢捗スルニ伏テ︑君終始一ア立ツト云ウペシ﹂﹁国会ハ直接一一大臣ヲ任免スルノ接ナキガ為メ若シ国会一一於テ大臣ノ政暮

ニ関シ不同意ヲ唱へ共意見ヲ上奏シ一ア大臣ヲ退ケント欲スト雄モ︑大臣ニシテ未グ国君ノ信用ヲ犬ハザルトキニハ依然

共職ヲ卒ジテ国会ハ大臣ヲ弾劾スル事能ハザルナリ︒何トナレパ国会ノ意見ヲ採納スルト否トハ国君ノ桂内一一アレパナ

リ﹂をみればその理出を知ることが出来る︒

英国流の議院内閣制は︑立法権と行政権との同に存する相互牽制作用の表われとして解散の作用が存するとされる︒

詳一一一目すれば︑国会殊に下院が内閣に封し不信任決議をつきつけて内閣の総時

M M

d

ピ要求しうると共に︑内閣はこれにおし

国会殊に下院の解散を以て封抗しうる︒最終的には主権の存ずる国民の判断によって決定される︒

これに到して一九世紀に沿ける君主制諸国にないて︑例えば︑一八五

G

年の旧プロシヤ憲法に沿い℃は表見上は立

(4)

経営と・経済

憲主義を採用したが︑その内実にむいて多分に専制君主制が包含され議院内閣制は採られないで︑国会が内問に不信任

決議をつきつけても大臣の責任は国会に封してでなく︑国王に封するものと考えられ︑内閣は必宇しも総辞職するとは

限ら示︑解叡の規定はあるがその観念に烏いて最終の判断を国民に求めるというより君主と一体となった内閣が国会を

﹁麿懲﹂する武器と考えられた︒要するに議院内閣制にゐける解散とはその理念を具にしていたととが明白である︒句

果して旧プロシヤ窓法を多く継‑交したわが明治法法に沿いても︑その一初期に沿いては︑かかる理念に立脚していたこ

とが実証される︒伊藤博文︑黒田清隆︑山県有朋等の超然内閣の構想は何よりこれを堆弁に物話るものであり︑伊藤博

文が明治憲法発布の翌日枢密院議長の地位にあって地方長官に与えた訓示の中に︑﹁前略国務大臣伍免の大権は憲法又

は法律に何等の制限がない︑故に北パ大権は絶対的と一五はねばならぬ︒だから議会に沿いて如何なる反討を叉くるも天皇の御信任合ゆか

J

川町山

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LP

恥いじ払れいし也市めすべきもので

b b h o

放に諸君は氏論に迷はや断乎たる決心を以

て共職安を完了せられんととを望む︒﹂ハ傍点筆者﹀と述べているのがその代表的なものである︒

学者の中︑議院内閣制を認めないとする代表者は穂積八束博士で3のる︒その憲法提要に﹁大権ヲ輔弼スルノ国務大臣

ノ任免瓢防ハ名一一於テ亦実一一於テ︑大権内閣ノ専断一一属シ︑議院ノ向背一一拘ハルヲ要セズ︑:::彼ノ所謂議院内閣ノ制

ハ・乙ヲ我ガ憲法ノ上一一移植スルノ名ナキノミナラズ︑若之ニ依ルコトアラパ権力混同シテ議院ノ専制一一帰シ大権下一一移

リテ政体ノ根抵ヲ顛覆セン﹂ハ同書六五﹂一頁﹀と述べているのがそれであり︑衆議院の解散については︑その一貫せる帰

結として︑﹁衆議院ノ解故ハ大権一一専属シ︑臨機ノ独裁一一ヨル﹂﹁或国‑一於一アハ下院ヲ解散スルュハ上院ノ同意ヲ要ス

ル例アリ︑我憲法ハ之ヲ大権ノ専断ニ委ス︑而シテ解散ハ同ヨリ理山ヲ示サズ︑何一フノ動機一一山内ズルモ之ヲ不法トナス

更ュ国務ノ進行ヲ謀ルコトアリ︑政府ト議会トノ問若ハ両議院ノ間相創刊機衝突シテ国務ノ進行ヲ阻害スル場合ノ如キ政

府大臣ヲ瓢砂シ又ハ衆議院ヲ解散スルュ非ザレパ之ヲ疎通スルコト能ハザルコトモアルペシ︑抑々統治機関ノ執撲筒突

ハ立憲政治ノ通弊タリ上一一紛争ヲ断ズルノ権力アル一一非ザレパ政務ノ敏活ヲ致スコト能ハザルベシ.我ガ法法ノ議院ノ

解散ト大臣ノ瓢捗トア全然挙ヂテ大権白山ノ独裁一一舟セシメタルモノハ蓋シ之一一山リテ国権ノ統一ヲ維持シ国務ノ進行

(5)

ヲ円滑ナラシメント欲スル‑一外ナラザルナリ﹂ハ憲法提要下巻四七五頁uと述ぺている︒

したがってこれらの忠蕊に立つ者に沿いては︑解散を以て民意をきき︑ほん意によっ

τ

内閣の進退を決するという結果

は生じない︑﹁民論に迷はや断乎たる決心を以て兆験責を完う﹂するととを望み︑政府の碕策に反均する議会は﹁何度

解放するととも差支えない﹂ていの主張となって表われる︒

しかし︑明治憲法起草の経過に沿いて︑イギリス流の議院内閣制を排斥し乍らも︑向実際政治に会いて議会の存する

以上政党内閲となるととは必然なりと観じた起卒者井上殺の予測は適中して︑明治の末年より大正︑昭和の始めにかけ

て実際政治の慣行として行われた議院内閣については︑とれを明治憲法の解釈として主怯する学者も次第に増加し

τ

った︒その代表的学者が美濃部達吉博士である︒美濃部博士は・最も初期の著書﹁憲法講話﹂の中に︑立憲政治を行う/

以上は︑議院内問︑政党内閣が必然の趨勢であるとなし︑﹁人によっては日本の憲法の下にゐいては政党内閣︑議院内

もので︑何の珂出もないことであります︒﹂ハ同喜一五

O

頁﹀として穂積博士らの学説を批判し︑衆議院の解散については

議院内閣制の帰結として︑﹁解散を行う目的は憲法上必やしも限定せられ℃沿らぬのでありまずから︑何の目的を以て

解散を命ぜられでも敢て不法というのではないが

J

共の主たる目的は︑議会の意見が政府の意見と相反封ずる場合に於

て奥論の判断に訴えるが為にするのであります︒﹂︿問書三七九頁)と述ぺている︒

大綱主義に立った明治憲法下に去いては︑斯る異なった解釈が二大主流をなして相争ったのであり︑運用に沿いても

亦同様の様相を呈し来った︒次にその点の考察を行うであろう︒

西

e

O

(6)

7L 

/

明治法法下衆議院の解散は如何に行われたか︑明治憲法の実地期間は五八年間であり︑議会の召集は九二回︑衆議院

の総選挙が二二回︿第一回の総選挙を除く)その中任期満了によるものわやかに四回︑他の一八回はすべて朱議院の解

散によるものであった︒との意味に沿いて衆議院の解故は極めて重大な意義を有する︒

初期の帝国議会殊に衆議院と内閣との関係は︑抗争の最b激しい時代で﹁官民街突の時代﹂とか﹁封立時代﹂と呼ば

れて長り︑内閣は栄議院の多数党に基礎を有せ宇︑両者の提携が行われいなかったので︑解散が頻々として行われた︒

第一議会に沿いて︑とれに臨んだのが第一次山県内閣であり︑各湿の問題について両者の筒突をみたが︑解散を不吉

の如く考えた政府は議員を操縦して解散せやして涜んだが︑第二議会に沿いては︑とれに臨んだ第一次松方内閣の提出

した予算を削減したことに基凶して最初の解散が行われた︒明治二四年一二月二五日である︒衆議院の解散に当つて

は︑その理由がその後も何らかの形で政府より発表されているものが多いが︑(例外的に公表されないとともあった)

先づこの際︑その解散奏儀に︑昨年議会で巨大な減額を唱えたが︑政府は立岩崎行の第一期たるに注意し大局を顧み℃

譲歩したが︑又々議会は政府の行わんとする重要事業の予算を削除した︑‑J此の如き年々削減を以で相依り

τ

例をなさ

ぽ行政機関は殆んど北ハの運転を妨げられ維新以来施政の方針たる進歩の事業及国家の経済は逓次退縮に傾き而して後止

まんとす﹂といい︑﹁区等師加重責に当り国事を以

τ

是の如き議会の賛画に託するの国家の昌運臣民の福利と相容れざる

ととを信宇﹂と述べられている︒これ議院内閣制に就て最後の判断を国民に求めるというに非﹂干して君主と一体となっ

た内閣が︑職務上の義務に違反し兆の政資を尽さない衆議院を懲戒するという思想を表明せるものである3

との総選挙の際は後年の東条内閣による選挙の時以上の有名な大干渉が行われた︒総選挙の結果は民党の大勝利とな

り︑貴族院にないでさえ選挙干渉反対の建議案が行われ︑衆議院に沿いては弾劾上奏奈は否決されたが︑問責決議案

(一一挫の内閣不信任決議案﹀が可決された︒然るに政府は只僅に七日間の停会主命じたにすぎない︒解散後の総選挙による国民の総意を代表する衆議院の意思を無視せるものといいうる︒解説奏儀理由者といい︑問責決議案の無視とい

(7)

ぃ︑比訴訟院の解散に釘する政府者︒一貫せる思想を看取しうるであろうoり結局第一次松方内閣の総辞肢は︑北ハ後二五

年七月選挙干渉責任者の罷免から閣内の不統一に基因したものであった︒鮮政後の民意によっては進退左決しないで閣

内不統一によヲて総辞服した点を注意しなければたらぬ︒

その後をうけた第二次伊膝内閣も第四談会に沿いて軍艦製造交を削除せられ︑衆議院と正面街突をし︑衆議院は政府

開劾上安誌を可決したが︑大詔換発により時局の難を救うととをえた︒との場合も亦︑衆議院に於て総辞職も要求せ

歩︑内閣に於て処決もしない点松方内閣と同様である︒第五議会に於ては︑後藤長商務大臣の法政事件に関し︑衆議院

は官紀振粛に関する上麦茶を可決したが︑政府は何ら処決せ宇︑伊藤首相及後一限法相は進退伺を出して命を待った︒衆

議院は前の上麦茶は政府を弾劾したものであるとしてその進退を待ったが政府が処決しないので︑処決を促す決議をな

した︒その決誌中︑伊膝首相は︑﹁予は自ら上察して命を待ちつつあり︑大臣の進退は一に君主の大絡に属すべきなる

に拘ら宇末議院が之を表おしたるは経卒の責を免れやJ﹂と詰ったuとれん話法審議の枢密院会誌にむける彼の一貫せる忠

恕をとこにも一括一一一口せるものであり︑議院内閣制否定の端的なる表明である︒かくて裁議院の上奏により枢密院に諮拘せ

退

もその帰結である︒官紀振粛に関して一応溶岩せる議会に条約励行の建誌が起り︑政府は之に反釘して停会に停会を重ねて遂に衆議院の

解散となった︒明治二六年二一月三

O

日である︒解散に当り第一次松方内閣の時の如き併・故理由の公表されざる点につ

き立族院の布芯議員による忠音書があったのに封し︑伊藤首相は復吉としてその解放理由を述べ︑多くの理由勾を挙げ

ているが︑結局﹁以上ノ数件ハ博文ヲシテ衆議院ハ到底共一一翼賛一一和協スペキ望ナシト認メタル所以ノモノニシテ一件

ハ一件ヨリ迫リ周忌泉街シ政府ヲ排撃スルモ一面一一議院ノ法定要務ヲ緩慢ニシ他ノ一一山ニ国家人民ニ利スルノ計画ヲ氾

廃スルノ外成政ノ見ルペキモノアラズ﹂と述べているのは︑前の松方内閣が衆議院を解淑したると同忠蕊に立てるも

のである︒この復辺に討して立族院議員有志の叫抗議が行われたが︑その中︑﹁前略議会解放を以て犬猿の発動に出づ

るや論を作たー下︑然れども解散は国の主事国務紛説︒分るる所故に之を奏・討するは議院にして国家の命脈たり予算案を

(8)

議せや若くは一切否決するか否らざれば国家主主の法律案乞否斥する等の場合に於てすべきのみ﹂と指摘しているのは

τ

いる︒.

総選挙の結果は一丹び民党の勝利となり︑第六議会に臨んだ︒貴族院の一部議員は.政府が解故理由を公表し泣いとと

は無責任非立憲として質問者を提出した︒それに封してなした伊藤首相の答弁が︑その沼散観

ο

﹁解散の理由を明言しなければ憲法的動作に適はぬとか或は政府は共責任を免れぬというが如きことであるが左様のも

のではない﹂﹁憲法には解散は閤巨が自由にすぺきとは苦いてない︑夫と同時に進退は自分の勝手に出来ぬ上命によっ

てしなければならぬ﹂﹁解散の理由を明言せぬとかしなくちゃならぬとか是は即ち内閣が至牟に問うことであって世上

に向って決してそんなことを公言しなければならぬというととは送法の上に於て義務を負うているとは私は見ないよ

要するに﹁一袋龍の下に隠れるのではない﹂といいつつ衰龍の下に隠れて解散の理巾を示すことは政府の義務ではないと

述べている︒衆議院は前議会の解散理由不明を追及し内治外交共に共の職安を︑夫するとなして内閲弾劾を上奏したが︑

﹁衆議院の上奏は仰採用に相成ら宇︑上奏に対しては別段当面を以て勅併合あらせられや﹂との同日が伝えられ︑同時に重

ねて解放せられた︒明治二七年六月二日である︒

同一問題について二回衆議院が解散されたととは注目に位する︒しかも解放理山は︑官民街突の事実問題を列挙せ

や︑極めて抽象的であって︑政府は内治外交に﹁心力を痔尽﹂せるに係ら宇︑衆議院はこれを諒せや弾劾上奏を行っ

た︑﹁維析の国是﹂﹁百年の大計﹂のため﹁国家の隆盛臣民の幸福﹂を重んじて衆議院の解散を奏請するというにあっ

た︒とれ亦衆議院の解畝を以て民意を問い︑民意によって内闘が進退を決するという議院内閣制を徹底的に否定せるも

ので︑解散を以て衆議院を﹁暦懲乃至懲罰﹂するの忠忽の交われであり︑明治憲法の基本原哩たる強間な君主主義が議

会に封して優越を示す顕著なる一例である︒解故を行うべき理山︑行うぺき場合が定法上明記されていないから︑再度

解散を行うととも敢えて違定とはいえないという評は行われても︑立志主義的解釈をとる学者をして﹁一時の援態

L 句

と評せしめた如く︑明治憲法下と雄も明かに解散権の濫別である︒

ヰ後日清戦争の勃発により園内の政争は一時中止さ札︑明治二七年九足︒総選挙ち平穏︑第七︑八議会ち純一争終了し

(9)

た︒明治二八年一一月には伊路内閣と自由先との提携が行われたため︑第九議会は﹁民党の遼哀還付に関する弾劾上麦

茶﹂も否決されたが︑海年度予算の編成雑より︑松方大限を入閣せしめんとして内に悶僚の反封外に自由党の妨害があ

り伊藤内閣は瓦解した︒明治二九年九月松限内閣成立し第一

O

議会は進歩党と提携して切抜けることをえた︒とれによ

っても明らかなように内閣は政党との妥協ないし提携をしなければ到底国政の円満た遂行をなしえざるを知り︑何らか

の形で提携をするようにたったととを知りうる︒日清戦争迄の官民街突におして以後が﹁提携時代﹂といわれるのはこ

れによる

o r

始めは松限内閣ら進歩党との提携があったが︑共後この関係が絶縁せられ︑第一一議会に於ては閉会努頭内閣不信任

案が提出され︑迎山を朗読せんとする時解訟が断行された︒明治三

O

年二一月二五日である︒との時の解散の特異性

は︑解散と同時に内閣の総辞肢が行われたことであり前例のないととである︒内閣が衆議院の不信任決議をうけて衆議

院を解叡し︑総選挙の結川市民意如何により進訟を決すべきであるのに︑総選挙の結某をまたないで総辞職した点︑﹁全

︿解説の目的に反するもので︑二回の解散を重ねることと共に湛しき悪例を閃いたもの﹂り﹁国政を頑弄するものにして

非立法的行動

L

句との非難に純し且同内関心閣僚中にさえ﹁挙措その意味をなさや﹂めとして極力反到する者があったと

とは如何に解散をしつつ総辞職せるととの理不尽怠るかを示すものであった︒若し始めより総辞職する予定たれば解散

すべきでたく︑とれ﹁政府が辞職の行懸の駄貨に議会を解散したとして非難﹂せざるをえ怠い︒

桧限内閣の次の第三次伊膝内閣は始め自由党との提携が成立していたが︑第一二議会前にその提携を絶縁され︑政府

の財政一一江固としての増税を否決され︑結局家議院を解放した︒明治三一年六月一

O

日である︒とれ特別議会が解散され

た第二回目である︒只前回と柏々越を問先にするのは同一内閣による一件解散でたい点であるが︑解散に釘する根本忠恕は

異泣らたい︒しかもととに注目すぺきことは︑同年六月二二日新合同政先送政党の宣言者中に﹁宗法発布議会開設以来

将に十年たらんとす而して具︑問解散は己に五回の多きに及び:::今や吾人は内外の形勢に鑑み断然自由進歩の両先を解

き一五々﹂とあることによって明か伝川く︑斯る解散格滋川の連続が︑白山進歩両政党をして多年の確執を忘れて一時合

同せしめる原因とたうたととを示じている︒かかる形勢に低み︑かつては政先内閣制を否認した伊藤首相も︑政党との

(10)

OO

提携によらたけ札ぱ内閣の存続は困難乃至不可能と観じ来り︑既に第二次伊藤内閣以前上り考え始めていたところであ

η

今再び白ら政党組織を考慮したのであるoのしかしとの場合は元老会議に於て山県有明より﹁政府を政党の上

になくは国体に惇り怠法の精神に背くもの﹂との猛反対に出過して自ら政党を組織して内問主維持するととが出来子︑

総選挙の結川市をまたや内閣の稔尋問刊となった︒伊藤の胸に刻まれた定政の実践に公ける実物教育上りの教訓は︑自ら直

ちに実行することは阻止されたが︑結局その前に合同していた憲政党の背班大限︑.板垣を後任に奏訪せる点に結晶した

ものと祢しうるであろう︒わが国蚊初の政党内閣の出現である︒

わが国政初の政党内閣大限内閣(世に大限板垣の名をとり隈板内閣という)は運用上の議院内問主取得して多大の期

待をもたれた︒さり訟がら︑海閥を共同の敵としては合同した政党も︑政権を獲得した今日︑党内に内江主生じ︑尾崎

文相が﹁宍和演説事件﹂により帯磁し︑その後任問題を契機として内部の分裂を来し︑わ・下か四ヶ月にして瓦解した︒

国ほん多数の支持を受けた政党内閣が︑国ほんの不信任によってでたく内部不統一のため退いたととは措しみても徐りある

ことであった︒(寄合世帯の路弱性に︑日本国道法下の片山︑芦田両内閣の場合に同様の事例をみたところである︒)

大限内閣の後︑再び器問山県内閣

ο

成立をみたが︑憲政党(旧白山党系)との提携により第一三︑一同議会は無事経

過した︒しかしその後間もたくその提携が破れ︑伊藤博文が政友会(憲政先主主体とし℃他党よりも入党せるもの﹀を

組織し

τ

とれに代った︒第四次伊藤内閣である︒単怠る政党との提携を一歩進めて政党を主体とする内閣の組織である︒

第一五議会は衆議院に於て多数を制して無事たるをえたが︑貴族院に於て増税案につき反おせられ︑勅裁をえて原案を

可決した︒勅裁をえて専を処理するのは伊藤の常套手段であり︑立志的といい難いが︑国民公選に非ざる賀民院と国民

公選の衆議院が同権限たるととは政党内閣運用に支障を来すことを示すものであづた︒(日本国憲法にむげる衆議院の

︐優越性はかかる点の反省上りする当然の結果である︒)第四次伊藤内閣はその後予算編成につき内部不統一で明治三四

O

日総持政し︑六月二日佳内閣とたる︒

桂内閣は一一般の超然官民ぽ内閣である︒しかし︑政友会との妥協により第一六議会を切抜けえた︒明治三五年三月には任

期満了によろ総選挙が行わ札た︒前例の泣いととである︒第二回より六回迄の総選挙共に皆解散の結果によるものであ

(11)

った︒こ九は次のことを示すといえる︒初期の議会に臨んだのは︑英国流の政党内閣制

‑ P 一放度に排斥した超然内閣で議

会に基礎を有し泣かった︒しかるに議会は法律予算の協賛権を有し︑との武器を利用して政府と抗争した︒政府は軽視

せる議会が反抗するのに討し懲戒を加えるな味で解放を以て相討した︒とれが解散を多からしめた原凶である︒ところ

が政府も次第に政労と協調する必要を感じて政党と提携しあるいは政覚を主体として内閣の組織及運営を行うにいた

り︑解散権を行使する必要がなくなった︒ぞのため憲法施行以来初めての住期満了による総選挙となったと考えられ

しかるに第一七議会に於て新選の栄議院で治討多数を有する政友会と提携破れ︑政友会及川一一以政本党が騎合して政府に る ︒

反封し政府の海平拡張廷に充当すべき地租増微笑を否決せんとし︑政府は政党との妥協を努めたが成功せや︑ついに衆

議院の解放とたった︒明治三五年一二月二八日である︒任期満了による総選挙後一ヶ年も経たぬ中の解散は︑民意を

問うといろには徐りに反針先が多すぎる︒しかし此際は解散と総梓肢を同時に行わや総選挙の結果をまった︒果して反

封党が圧倒的で民意は明白であるから本年総辞股すべきであるが︑政友会との妥協をえて第一八議会は無事通過した︒

第一九議会は明治三五年一二月五日召集されたが︑衆議院議長河野広中が内閣弾劾の文意を入れた異例の奉答文を単

独で作成し議員はこれに気付かや可決したため衆議院は解散された︒明治三六年二一月一一日である︒異例の解散と称

しえよう︒すたわち議員の多数の意思に反して内閣不信任が行われた︑しかも'気付か︑?と雌も可決されているのである

から議員としては如何ともしがたいところであった︒の

明治三七年二月一

O

日日停戦争に際会し︑一時政争を中止したため第二

O

︑二一議会を無事通過しえた桂内閣は︑日

露戦争終結のためのポ1ツマス条約に封しての国民の不満がついに﹁焼汀事件﹂とた

b

︑明治三九年一月伊旅情文の後を継いだ政友会総裁四国寺に後継内閣を委ねて総辞服した︒

西国寺内閣は﹁政友会と官僚派の述立内閣﹂と形容せら札た︒均西国寺内閣は第二二︑二三議会主求議院に多数を有

して無事経過し︑明治問一年五月一五日任期満了による第二回目の総選挙が行われた︒政友会は衆議院に多数をえた

が︑桂との提携破裂と財政政策の破徒により総時服し佳内問と代った︒

衆議院の解散について

(12)

第二次桂内閣は前回と同じく落閥官僚内閣であるが政友会と提携ができて第二五︑二六議院を無事経過した︒第二七

議会は国民党より問責案が出たが政友会とのぬ携により否決された︒桂内閣は超然主義を菜て︑西国寺総裁は﹁政府と

政友会とは情意相投合す:::﹂と述べた︒第二次桂内閣は明治四四年八月二五日経冠し第二次回国寺内閣とたり︑翌年

五月一五日住期満了による第三回目の総選挙が行われた︒第二次西国寺内閣は陸一阜の二ケ師団増設の要求を担絶せるこ

とを契機として上原陸相の辞任あり︑後任をえや内閣不統一の責により総辞服した︒

次は第三次桂内閣である︒その問明治天皇の崩叫があり外遊中であった桂帰国して内大臣兼侍従長となっていたが︑

宮中より出でて組閣したととに封して宮中府中の別を素るとの非難が加えられ︑旦内問は議会殊に衆議院の多数を古め

る政党主支柱として成立するととが﹁定政の常道﹂であり︑桂内閣はこれに反するから打倒したければたらぬとたすい

わゆる憲政擁護運動が行われた︒第一二

O

議会に於て内閣不信任案が徒出されたが︑処決せざるうちに︑政友会︑国民

党︑無所属団及新聞記者日を中心として護法運動が盛!んとたり︑桂も与党を作づて相判抗せんとしたが︑帝都は暴動化

し︑総辞職のやむ泣きにいたづた︒在収わ十かに二ヶ月という短命であった︒

とれで桂︑西国寺内閣の交立を終る︒明治三六年二一月一一日第一次桂内閣により第一九議会が解哉されて以来︑大

正三年一二月二五日第二次大限内閣により第三五談会が解放されるまで一一年間一度も解散が行われや︑任期満了に上

る総選挙が二回まで行われているととがとの時期の特色である︒その理向は第一九議会の解淑後同もなく日露戦争の勃

発により一時政争を中止せるとと︑それに続いて内目的た若干の起伏紛争はあづたが︑器開と政党のいわゆる﹁情意投

合﹂が行われて︑桂︑西国寺内閣の交立が行われたととに帰国するといいうるであろう︒そのため衆議院の解散の必要

は少しもたかづたといえよう︒第三次桂内閣の総辞職はこの提携が破れたためであった︒

次の内閣は山本格兵衛門閥である︒政先内閣乙そ﹁法政の常道﹂な

P

とする護法運動は桂内閣を倒したが︑山本内閣

は純然たる政党内閣でなく︑藩閥と政覚の聯立である︒山本内閤は﹁シlメンス﹂事件のため超々の経緯の後総辞服し

ω

後乞うけて大正二一年四月一六日成立した︒第二次大限内閣が山本内閣 た ︒

中正会で少数で

(13)

あり従って解散は大限内閣成立の必然の要件であったOであるが︑その年七月第一次世界大戦が起り︑第三二︑三三︑

三四議会は無事経過し︑第三五議会に於て︑ニケ師団増設問題で多数党たる政友会の反対を交けて衆議院を解散した︒

大正三年二一月二五日である︒との解放こそは衆議院の意見が果して国民の意思を代表するかどうかを硲めんとする方

法として少数党内閣が試みた極めて妥当な方法といわなければたらないであろう︒町総選挙の結川市は政府与党同志会の

多数をえ︑大限内閣は︑第三六︑三七議会を経過したが︑選挙に関聯しての涜職事件直リ人心大限内閣に俗きたらや︑大

限は同士山会総裁加藤高明を後任に止して辞任したが︑一冗老は寺内正毅を止すところとなった︒

寺内内閣は超然主義を収得して組織せられた一涯の蒋凶内閣である︒既にこれー云での筒述で明かな上うに︑伊藤︑桂

にないでさえ政先との提携の必要を痛感して次第にとれを実践せるに省み︑更に議会勢力

o m

大となれるとき︑超然主

義を以て議会が乗

hy

きれる佐官がない︒果して同志会を中心として結成された憲政会によ

b

︐犬正六年一月二五日第三八

議会に於て不信任決議を提出され︑その討論中衆議院は解放さ札た︒内閣は不信任決議を交けても議会におし責任を負

わないから天皇の信用さえあれば進退を決するを要し左いという態度に比すれば若干の進歩は認めうるも︑寺内内閣が

懐く衆議院解散に討する思想は︑かつての第一次松方内閣︑第二次伊藤内閣の時の懲罰的併散ム﹂同様のものをその根抵

にもっていたといいうる︒すなわち︑その解散理由として地方長官会議に於℃発表したものの中に﹁一切ノ情実ヲ排斥

シテ議院ノ粛正ヲ企図シ云々﹂ゆと述べている点がこれを示すものである︒総選挙の結裂は政友会が第一党となり︑寺

内内閣は政友会及国民党の提携により第三九︑問︒議会を無事切抜けた︒寺内内閣は﹁米騒動し明に際会して桂冠した︒

寺内内閣に続いた原敬内閣は純然たる政党内閣と祢し︑ラる︒原内閣は政友会及国民党の多数を与党として沿り︑不信

任決議が通過することはありえ・なかった︒しかるに第四二議会に於て反針先から普通選挙法案が提出せられたのにお

し︑与党の多数を以てすれば否決しうるに拘ら十︑政府はかくの如き重大なる法律案は国民の輿論に訴えた後で泣けれ

ばたらたいとの理由で衆議院を解散した︒大正九年二月二六日である︒実は︑小選挙区制の法律が作られたのを機会に

それが政友会にとって有利たるため政友会をして更により以上の多数党たらしめんとするためであったとせられる︒こ

れまでの解散とは理由を具にし且解散権の澄川の一の事例である︒結洪はもとより政友会を飛躍的に増大せしめ︑との

衆議院の解散について

O

= 一

(14)

O

衆議院の絶卦多数と支族院の研究会の協力により原内閣は多数覚棋誌の非難を受けた︒

原首相が大正一

O

年一一月五日暗殺され同内閣の大蔵大臣高柿是清代ワて首相となり政友会内閣が継続した︒しかし

内託により内閣改造に失敗して大正一一年六月総辞職︑加総友三部内閣と怠る︒加藤首相の死亡により第二次山本務兵

衛内閣成立︒とのこ内閣は超然内閣であり︑前者は貴族院を基礎とし︑後者は務問及革新供楽部を中心とじて組敵され

た︒第二次山本内閣が︑﹁虎の門事件﹂の交を負うて砕し︑清浦内閣の出現となる︒

清浦内閣は貴族院の間派より泣り世にこれを貴族院特権内閲という︒ことに於て第三次桂内閣に'討して行われたと同

様の護虫運動が︑政友会︑憲政会及革新倶楽部聯合で行わ作た︒第四八議会の求議院に於て革新倶楽部の浜田国松が質

問し︑鉄相の答弁中議員外の社漢が議場に躍り込み︑演壇に上って鉄相にせまり議場は法漢に混乱させられた︒これを

名として滑油内閣は即日衆議院を解放した︒大正一三年一月=二日である︒治浦内閲は米議院に於て護法三派の反おを

受けているのであるから実質的には不信任と祢しうべきであるが︑まだ形式的には先内に於て何らの議築の提出も泣く

暴漢のちん入を動機としての解散権の行使は全くの具例といいうるであろう︒結局支族院内閣を国民が認むるや否やを

問うことに怒ったわけである︒との総選挙の結果は護憲三派の大勝に帰し︑清浦内閣は瓦錯し︑第一党法政会の党首加

藤高明が他の二派政友会︑革新倶楽部と共に組閣した︒

との時より昭和七年五月一五日の事件によって犬養内閣総持政まで︑いわゆる﹁定政の常道﹂時代とも称しうべき内

閣制度が継続した︒ず伝わち謎京運動でいわれた議院内閣制乃至政先内閣とそ﹁法政の常道﹂訟りといわれたその主張

が実際政治の慣習として行われた︒

加藤高明内閣は大正一四年八月間内不統一で瓦解し法政会単独の加藤内閣と怒った︒加総首相が第五一議会中に病死

し︑法政会総裁となった若槻礼次郎が後継内閤の首相とたる︒とれ議会に於て不信任されたのでたく病死怠るが故であ

る︒昭和二年四月若槻内閣が金融恐慌問題のため枢密院の反封のため瓦解すると反針先たる政友会総裁問中義一が政友

会内閣を組ー紘し︑昭和四年七月張作霧爆死事件

W

O支を負うて辞職した後は反対覚︒民政党総裁浜口雄幸が民政党内閣

を組織し︑浜口首相が五年狙撃されて六年四月持すると︑後任︒民政党総裁若槻礼次郎の民政先内閣の組織となり︑第

(15)

二次岩槻内閲が持政すると反針先政友会総裁犬養毅の政友会内閣と伝った︒此問議会は第五一議会より第六一議会ま

で︑衆議院の解散は三回(問中内閣による第五問議会︑浜口内閣による第五七議会︑犬養内閣による第六

O

議会の解放)

との﹁法政の常道﹂時代乃至政府と政先O﹁融合時代﹂に於て行われた衆議院

ο

解散の特色は︑何れも前内閣総辞験

後を承けてその反封党が内閣を組織し︑その場合は栄議院に於て与党が少数で反封党が多数であり︑内閣と衆議院の衝

突は必至で政局は不安定であるから信を国民に問うという意味に於て行われたものである︒明議院内閣制を明文を以て

規定した日本国法法下に於ては︑憲法的慣習として行われた明治憲法下のとの時代の衆議院の解散の運営は大いに参考

に似する事例であろう︒

政党内閣が法政の常道として行われたのは︑大正の末より昭和の初めにすぎ十︑﹁五'一五事件﹂により犬養内閣総

辞肢をれ以後として終成迄遂に政党内閣は復活したかった︒との同を﹁反動時代﹂と称するのを通常とし︑衆議院の解散

は二回行われ

τ

いるが︑その様相も政党内閣の頃の如きでは泣い︒

﹁五・一五主件﹂後斎藤内閣が誕生したが︑純然たる政党内閣ではたく︑政友会︑民政党の支持主党けた﹁挙国一致﹂

内問であり︑軍部官僚の拾頭が次第に顕著にたり始めた︒斎族内閣がいわゆる帝人事舛で崩壊した後︑昭和九年七月岡

田内閣が成立した︒との内閣も前内閣と向性格のものであった︒粉々呉たるのはほ内政党と政友会出身の一部の者の支持

をえたが︑政友会の大部は宰ろ反政府の実質を有し︑昭和一

O

年の﹁国休明徴運動﹂と﹁天皇機関︑説排撃﹂は右翼軍部

が起した白山主義排撃の運動であったが政友会議員中には主動力をたすものもいた︒その年一二月召集された第六八議

会に於ては︑政先より岡田内閣の官僚性について攻撃が行

b

れ衆議院の解散が行われた︒昭和一一年一月一二日であ

る︒との解放は同日首相が﹁挙国一致を要望するために解散をしたい﹂均といい︑閣内に於ける政党出身の閣僚中にも

始めは賛否両論があったようであるが結局解散が行われたのは︑﹁各政先が同国内閣の官僚性を攻撃して問もたく来る

・任期満州以による総退挙を内問不信任決潟によって解散に誘引し有利泣臨時総選挙に沿きかえんとしたので己む泣く解放

したしめという説明も一一面の実相であるが︑所詮政府としては与先たる民政党及昭和会の増加を目的とせる一回をも有

衆誌院の解散について

一 O

(16)

一 O

していたであろう︒

と︑の総選挙︒後﹁二・二六事件﹂が起り岡田内閣が総辞践し︑昭和一一年三月九日広町内閣が成立した︒広田内閣は

組閣に当り人選︑政策等軍部の要求に譲歩し﹁二・二六事件﹂後︒粛平の実現と共に区・国主義的国家体制への方向に一

歩を進めたといいうる︒第七

O

議会に於て浜田国松議員は﹁軍部の優越必と官僚独一告を攻撃﹂し︑いわゆる﹁限切問

答﹂によって︑政党と平部の正面倒突と泣り︑寺内陸相は﹁政党に反省を求むるが為の解散﹂を要求し︑三日問︒停会

を以て一事態を収拾せんとしたが︑解散に関し陸海相の意凡一致せや内閣の総辞肢となった︒明岡田内閣に於ける末議院

の解散は︑純然たる政党内閣で伝かったが︑与川︹んたる民政党及昭和会の増加をはからんとするもの故信を国民に問う解

散に準じて考えうるものであったが︑寺内陸相による衆議院

ο

解散の主訟は︑国民に信を問うという如き性格は泣く︑

反軍的・なものに討する懲罰的性絡をもっ主訟であったといえ泣いであろうか︒

広田内閣の後宇垣一戒は陸軍の反対にあって組閣不能で流産し︑林銑十郎内閣が昭和二一年二月成立した︒林内閣は

成立の時から反政党的態度が露骨で︑第七一議会に於ては民政覚︑政友会の反政府的態度ら亦これに相応ゃるかの如く

であり︑予算は通過したが重要法案の審議を遅延せしめたので衆議院を解放した︒昭和一二年三月一一二日である︒とれ

を世に﹁喰逃げ解散﹂といった︒始めから政覚を基礎としたい内閣が併散を行うのは︑信を国民に問うという如きもの

では泣く︑多分に暦懲的色彩の濃厚泣ものがあったといいうる︒との総選挙の結巣は︑社会大衆先の若干の進出が行わ

れた他︑結局政府の惨敗により林内閣は総辞職した︒

昭和二一年六月阿日第一次近衛内閣が成立した︒その後間も泣く七月七日日華事縫が起り︑第七三議会では︑広汎た

授格立法とし

τ

一郊では違憲とされた国家総動員法が成立し︑国内政治

ο

目・国主義化と独裁化に拍平をかけた︒近衛内

閣は昭和一四年一月総辞放し平沼内閣と代った︒日独伊三国条約について宋議中︑ソ腕と独逸が不可侵条約を結んだの

で八月二八日総詐版︒次の阿部内閣は昭和一五年一月﹁討議会筑に関し閣内の一号︑がえられや﹂稔時収︒次の米内内閣に

おし民・部は国内軍国主義化の﹁新体制﹂に応ぜざる点につき苔処を要求して筒突し︑陸相の辞表提出により後任をえや

総辞職︒昭和一五年七月第二次近衛内閣が成立した︒近衛内閣に於ては﹁新体制運動﹂として﹁高度国防国家体制﹂の

(17)

μ

ο

解消が行わ札た︒議会労力はここに完全に無力化されたのである︒

﹁川比日必会﹂の名祢が如災にこれを示すものであった︒

ここに山口しなければ泣らぬのは第七六泌会に於て︑昭和二ハ年には任期満了による総巡挙が行わるべき議員の任期

. K

ずる法作が成立したことである︒政治解消により政党的勢力よりの攻祭は微力であっても大政成賛体制が選

栄によって被い・・されるととぞ恐れたためであるとされる︒﹁議会﹂はその形骸のみ存したといわ泣ければたらたい︒乙乙

に於ては栄治院の仰放たとと川う行政府と立法庇の相互牽制作用の'必要は遣もたく︑行政府の独走を只拍子同釆ずる立

法府わるのみである︒しかし流石に﹁翼賛議会﹂と称し︑議会を全面的に否定しえざりしは︑その推進力たりし軍部に

M M

・戊に形式的には強調せる欽定憲法を破熱するそしりを恐れたためであろうか︒幼

第三次近似川内問主経て東条内閣が︑昭和二ハ年一

O

月一八日に成立し︑二一月八日開戦と伝った︒昭和一七年四月

一年初一以後の総選挙に於て第一次松方内閣の下に沿けると同様左る選挙干渉が行われたことは︑わが選挙史上著名怠る

一引災である︒米滋院議員り若干名を除いた全部が︑昭和一七年五月二

O

日成立した翼賛政治会に属し︑来条内閣の独裁

o東条内閣は戦況の不利により内閣改造に着手して成功せ

宇︑昭和一九年七月一八日瓦解︑小磯内閣成立︒同内閣は翌二

0

年四月﹁政府と統帥部との関係の調整に失敗して﹂総

辞版︑その後をうけた鈴木内閣が終戦の処理を担当した︒

以上がいわゆる明治法法の天皇制下の衆議院の解散の諸様相である︒明治憲法は形式的には︑昭和二二年五月三日日

本国憲法の施行まで存続したが︑実質的にはポツダム{基一一一口一党誌を以て﹁明治法法の天皇制﹂は終了したものと考えらる

m

仮りにこの見解に立たないとしてもわが国がポツダム宣一一一口履行については︑﹁天皇及日本国政府の国家

統治の権限は日本の降伏条項を実施するため適当と認むる措置をとる聯合軍最高司令官の制限の下に沿かれ﹂たのであ

って︑終戦後日本国定法施行までに栄議院の解散が二回行われているが︑何れも占領下の管理政策に色どられた特殊の

場合といいうるであろう︒しかし︑占領下の解散と難も一応形式的には明治憲法下の解散という意味で附一一一口的に述J

.

一 O

(18)

一 O

第一回は幣以内閣に上る第八九議会の解放である︒終戦の年末の臨時議会に於て衆議院議員選挙法が改正され︑成年

以上の男女に選挙権が︑二五年以上の男女に被選挙格が与えられた︑完全なな誌の背通選挙の始めての宍施︑旦次の談

会に於て定法改正案を宋議すべき議員の選出という極めて重大たる使命をもって総選挙を行うぺく解放が行われた︒連

合国管理下新選挙法に上り折しく国民の怠忠を問わんとするものであり︑迎合国段高司令官の指令に基く追放令などに

より衆議院議員の待成者は一山枕されたといいうる︒総選挙の結果︑白山先が第一先となり極々の経件の後北ハの総裁吉田

茂が内閣を組織し︑第九

O

議会に訟法改正案を提案し︑止治安両院共若干の修正の後可決した︒第九一︑九二議会に於て

新憲法施行に必要なる新法律の制定改正な

H

こが行われて第九三議会は昭和二二年三月二二日解散された︒とれ新宗法実

施に備えて民意の推移を知らんがためであった︒第九三議会を以て明治泣法下の議会は終了したことにたる︒

註町︑この思相似た︑後藤活相の松方首相宛の意見書が率直に裏書する︒︑その要旨代︑林茂氏に依れぽ犬体次の如くである︒ハ林茂

﹁第一ニ議会と第一次松方内問の瓦解﹂国家学会雑誌第六二巻第一一一︑四号一七頁﹀衆議院の退治干渉につい

J

て内閣の問責決議

案は内閣不信任決議と同じ効力私有つべきものであるから︑議会は解散しなければならないという設は︑﹁我同の窓法の因

て基く所た悶みず英国の定法論た以て故国の四一一法か規制﹂しようと欲するもので︑﹁決して問ほするに足らざるの議論なり

というべ﹂ぎである︒わが国の憲法は﹁全く陛下の恩賜に出る者たるに外ならず﹂﹁叉致問内閣大臣は陛下の信任し給う所

にして︑践会に対し︑宮法上直接に買伍か負担するものではない﹂したがって﹁議会に於て︑幾度不信伍の該宗か議決する

も﹂﹁又之島上奏するも﹂かまはない︒﹁只施政た幼碍し︑同家の殴関か阻止するの時に至って初めて断然之た解散すべきの

(

勾︑﹁常伍蚤具の選挙ら忽せにして党派の争に熱哀し︑上奏の特権硲濫用したること︑突然官組振蔚問題お提出して笈裁お待ち

旦克に決議案舟可決して震波ら促したこと︑既に行政た整理して桐裂したる予算認に対して行政整担以前に立案したる否定

方針か適用せんと試みたること︑問問進取の間是と相容るべからざる条約励行突か提出して国家の犬計ら玩弄せんと企てた

ること﹂等の理由か挙げている︒ハ工藤浪主者︑﹁帝阿議会史第一巻﹂=二五頁参照︾

句︑実濃部連古書︑﹁日本語法の基本主義﹂一四九頁︒

参照

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