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第1章はしがき

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(1)

シンガポールの

経済構造と職業会計士制度

龍  家  勇  一  郎

第一章 第二章 第三章 第四面 一五章 第六章

   目   次

はしがき

戦前におけるシンガポールの経済状況守 戦後におけるシンガポールの経済発展 独立後におけるシンガポールの経済発展 最近におけるシンガポール経済の動向

シンガポールにおけるわが国の経済協力と職業会計士制度

第1章はしがき

 シンガポール(Singapore)は、東南アジア地域における最小最新の独立国(総面積は 約220平方マイルで、日本の総面積の約1万分の15で、約人口200万、人口密度1平方マイ ル8523人である。)で、淡路島とほぼ同じ大きさである。東西42Km、南北22Kmの平坦 な小島で、緑に包まれた、なだらかな丘陵があり、島の中央部には日本人に思い出の多い ブキ1テマの岡(177m)がある。対岸のジョホール州とは1200mの長い提防で結ばれて いる。首都シンガポール市は、ジョーホル水導と反対側、島の南岸にある。香港の息づま るような狭苦しさと比べると、街は道巾も広く、ゆったりとして清潔な感じである。

 シンガポールは、マレー半島の突端に位置し、インド洋と太平洋を結ぶマラッカ海峡に 面しており、近くは南アジア、中近東諸国、遠くはアフリカ、およびヨーロッパの諸国と 太平洋に面した東南アジア:および極東諸国間の貿易における重要な拠点としての役割を長 い間にわたって果たしてきた。この近代的シンガポール市は1819年(文政二年)イギリス の東インド会社のスタンフォード・ラッフルズ卿がアジア仲継貿易の基地として目をつ け・ジ・ホPルのサルタンから邸。万ドルで買収し翻學来・勅交通腰躍占める 地の利を得て、今日の繁栄を見るに至った。ビクトリア記念劇場の前にはラッフルズ卿の 銅像が立っている。島の住民の75%は中国人が占め、経済上の実権を握り、事実上シンガ ポールを動かしているのは中国人だといえる。こうした背景から、1965年8月にマレーシ        (注2)

ア連邦から独立して、リー・クワン・ユー(Lee Kuan Yew)氏が首相となり、共和国 となった。意地悪くいえば、シンガポールはマレーシアから、ていよく切離されて、やむ

(2)

を得ず独立したのだからであって、一つの民族的目標のもとに独立をたたかい取ったので はない、この点に関して、リー(Lee)首相はつぎの如く述べている。 われわれの場合、

  (注3)

マレーシア連邦成立後2年間に、不幸にも生活観やいかなる社会を作るべきかの理念につ いて、連邦政府の当局者との間に、相違が生じた。また社会、経済、政治上の諸問題を解 決するためのアプローチについても、深刻なギャップが生じた。これがわれわれが分離し た理由なのである。将来、ジョホール水道が両国の橋渡しとなるかどうかは、この二つの 政府とその指導者の間にどのような社会を作るべきかについて合意ができるかどうかにか かっている。しかし当面は、われわれは自らの生活信条が自分たちにとって価値あるもの であることを示す以外にない。 と。

 更らに、シンガポールにとっての基本的な問題は、狭い土地に多くの人口を、いかに養 うかということである。わずか540平方キロの土地に200万人の人口、しかも年々2.5%の 増加である。

    (注5)

 この難問題に対して、リー(Lee)首相は、つぎのやうな抱負をもっている。 もし統

ブキ・テマの岡(1968年3.月筆者写す。)

ジュロン工業団地(Jurong Industrial Estate 1968年3月写す。)

計だけを見るならば、われわ れの仕事はとてつもないこと で、ほとんど解決不可能であ ろう。なぜならば、シンガポ ールはおそらく、世界でも第 二の人口密度を持っているか らである。香港は一平方マイ ル当り9000人、シンガポール は8400人である。もし200万 人の人口が、生きるために過 去のやり方を変えて行けない 人々だとしたら、私はとっく に、あきらめているところ だ。第二に、この島は幸いな ことに、アジア大陸の南端に あり、太平洋とインド洋の中 心をなし、また南北両半球を つなぐ国際航空路の中継地で ある。最後に、ラッキーなこ とには、われわれは過去の遺 産として、よい港湾、よい空 港、いよ行政庁健全な下部、

(3)

構造、銀行業、保険業、進んだ倉庫業と貿易業などを持っており、これらは、他の地域と くらべて工業化にとっては、きわめて、有利な条件となっている。 とし、シンガポール の三大政:策は仲継貿易と観光事業とジュロンの工業団地である。と筆者は、昨年1968年3        (注4)

月末から4月上旬にかけて、シンガポールを訪問した機会に、シンガポールの各方面を視 察したが、リー首相のいうように、ジュロンの工業団地は、日本の企業も誘致され、まさ にシンガポールの将来の命運が、これにか\っている感がした。本稿では、シンガポール の経済構造と職業会計士制度について述べたいと思う。

(注1)シンガポール(サンスクリット語でSinga−puraと呼び、英訳するとLion City一獅子 の都一を意味する)はシンガポール年鑑(1966年版)によると、初期の時代は、依然として推測の 域を出ない。しかし、ある歴史家の記録によると、シンガポールは、シユリ、ヴイジアヤ(Sri Vijaya)帝国の三王国の一つであったといわれているが、この帝国は、スマトラとマラヤ間の海 峡を通る貿易に重税を課し、その重要な収入としていた。その建設の日は1299年としてある。

 その細隙星霜1819年元ジャワ司政官であったスタンフォード・ラッフルズ卿(Sir Stamford Raffles)はペナンを出発し、シンガポールに到来し、イギリスの自由貿易の拠点の建設をはかっ た。1819年1月30日ラッフルズ卿はその他の事実上の統治者であったテメンゴン:司政官と条約を締 結し、貿易拠点の建設権を獲i得した。この条約は、その後更新され、シンガポールは、イギリスの 支配下におかれることになった。

(注2)シンガポールは重要な貿易の拠点としての長い歴史から世界各地から諸々の人種系の人々が 集まっている。総人口約200万人の75%が中国系であり、マレー系はおよそ14%、インド、パキス タン系は約8%で、これらの人種系が主要なものである。この他の人種系としてはヨーロッパ系、

及び少数のアジア系民族がある。旧マラヤ連邦のように、いわゆる「土着民」と称されるマラヤ系 が殆んど総人口の半数を占め、中国系及びインド、パキスタン系のような「移民」がそれぞれ37

%、11%を占めている社会と異なって、シンガポールの最大人口を代表するのが中国系である。

 今日みられるシンガポール人口の人種別構成は今世紀の当初からほとんど不変である。1957年の シンガポール国勢調査によれば、総人口の約75%を占める中国系は1921−1957年の期間に、その総 人口比率において3%以上の変化もなかったようであり、マレー系も12ないし13%をほとんど動か なかったようであって、同様のことはインド、パキスタン対人ロ比率でもいえたようである。この 点については第1表を参照。

       第1表 シンガポール人口の人種別構成

総:       数 申   国   系 マ  レ  イ  系 インド・パキスタン系 そ   の   他

1921

人 数

418,358 215,151 53,595 32,314 17,298

100.0 75.3 12.8 7.7 4.2

1931

人 種

1947

557,745 418,640 65,014 50,811 23,280

人 種

100.0 75.1 11.6 9.1 4.2

938.144 729,473 113,803 68,967 25,901

100.0 77.8 12.1 7.3 2.8

1957

人種「%

1,445,929 1∫090,596  197,559  24,084  34,190

100.0 75,4 13.6 8.6 2.4

(出所) State of Singapore, Report on the Censtls of Population,1957

(Singapore, Government Printer,1964), Chapter 12, Summary Table 12.1, p.68.

(4)

(注3)シンガポールは、すでに1959年6月3日、新憲法の分布と同時にイギリスの直轄植民地から 独立した。しかし、1963年8月マレーシアの誕生とともに、マラヤ連邦、サバ、サラワクと並ん で、新独立国マレーシア連邦の一部となった。1965年8月9日シンガポール州政府は、マレーシア 連邦中央政府「との協議の上再度マレーシア連邦誕生前の地位に復帰し、独立国となった。今回のシ ンガポール独立は、一方ではマレーシア連邦によるシンガポールの追放の結果であるといわれ、他 方ではシンガポールのマレーシア連邦からの脱退の結果であるといわれるが、旧マラヤ連邦との間 にマレーシア連邦誕生以前から横たわっている人種的、政治的、経済的対立が大きく左右したこと は事実のようである。

(注4)リー首相は「サーバイプする生きのこるためにはシンガポールの三大政策は、中継貿易、観 光事業とジユロンの工業団地である。」と 1968.9.10毎日新聞 動くアジア.より

       2.DEMOGRAPHY          SINGAPORE

2.1SUMMARY FICURES:POPULATION

      Females T…llM・1eslF・m・1・・(Per1・…

       Males

POPULATION  POPULATION AS PERCENTAGE OF I957 PERIOD

THOUSANDS Total Males Females 1901 Census 227.6 170.0 57.6 339 15.7 22.3 8.4

工911  〃 303.3 215.5 87.8 407 21.0 28.3 12.9

1921  〃 418.3 280.g 137.4 489 28.9 36.8 20.1 1931  〃 557.7 352.1 205.6 584 38.6 46.2 30.1 1947  〃 938.2 515.0 423.2 822 64.9 67.5 62.0 1957  〃 1,445.9 762.8 683.1 896 100.0 100.0 100.0

Mid 1961 Estimates 1,687.3 881.2 806.1 915 116.7 115.5 118.O

〃 1962  〃 1,732.8 903.3 829.5 918 119.8 118.4 121.4

〃 1963  〃 1,775.2 922.7 852.5 924 122.8 121.0 124.8

〃 1964  〃 1,820.0 944.9 875.1 926 125.9 123.9 128.1

〃 1965  〃 1,864.9 967.5 897.4 927 129.0 126.8 131.4

〃 1966  〃 1,913.5 991.1 922.4 931 132.3 129.9 135.0

〃 1967  〃 1,955.6 1,012.9 942.7 931 135.3 132.8 138.0

PERIOD

1958 1959 1960 1961 1962 1963 1964 1965 1966

CRUDEBIRTH RATH

(Per 1,000 population)

41.3 39.5 37.8 35.5 34.0 33.5 30.0 29.9 28.6

CRUDE DEATH RATE

(Per 1,000 population)

7.0 6.4 6.2 5.9 5.9 5.7 5.7 5.5 5.5

INFANT MORTALITY

RATE(Per 1,000 Hve。

births)

43.7 36.0 34.9 32.3 31.2 28.1 29.9 26.3 25.8

(出所)monthly Digest of Statistics 1968.2月号

(5)

  第2章 戦前におけるシンガポールの経済状況

 通常国民経済の成長及び発展は、国民総生産あるいは、国民所得の推移で表示するので あるが、シンガポールの場合、不幸にも戦前はもちろん、戦後においても国民総生産ある いは国民所得のデーターは存在しない。故に国民総生産の構成要素たる国内総生産の産業 別構成も、分配国民所得統計も要素別国民総支出統計も知ることはできない。戦前から存 在する統計資料としては、輸入統計と国勢調査があるだけである。そこで国勢調査によっ て産業別就業構成の変化から、産業構造ないし経済構造を戦前から戦争直後にかけての変 化をみようとするものである。

 戦前から、シンガポールは、その地理的条件の故に、地域間ならびに地域内貿易の中継 地としての役割を果してきた。その結果、シンガポールの主要産業は早くから商業、金融 業、運輸通信業を中心とし、それらを補完する産業としてサービス業、製造業(特にゴ

ム、精製業及び修理業)から構成されていた。

 次の第1表は、戦前から、戦争直後にかけてのシンガポールの産業構造の推移を示した          第1表 シンガポールにおける産業別就業者数の推移

漁       業 農       業

鉱業・採石業

製造・修理 業

運輸・通信業 商業・金融業

公       務

専門的サービス 娯楽・スポーツ 個人サービス業 その他および不明

1931 1947

人釧矧人到%

  15,115  1.42

23,568  6.58 2,083  0.58

41,007U.50

謂診:嘉

6 60^1●85   i2.659,5261,3151。.37

11:lll::融

1931(1) 1947

人釧引入数十

  i4,823  0.93

20,789i 4.02 1,151  0.22

聯11:£

76,56014.80 51・123P9・90 55,1071 0.99 3,2221。.62

  1

27,545  5.33 9,461  1.83

 43

1,955

 6

2,392  236 1,908  259 2,314  365 8,191  385

0.02 0.99

1.14 0.11 0.92 0.12 1.10 0.17 3.91 0.17

 58

3β60

 96

7,780 1,452 6,489 3,187 2,451  957

8・7 4p

2・507P

0.01 0.79 0.02

L84

0.34 1.53 0.75 0.58 0.23 4.42 0.59

漁業有業者数(2)i256・2πi71・6131・・妃4i6・・1[18,・2718・6{47・・51i11・1 1・L414128・4!2・6,・31139・91191・735igL4[377・258[88・9

357,69111・…1516,51511・…}2・9,7621・…}424,3・911・…

(出所)The Governments of the Federation of Malaya and the Colony    of Singapore, A Report on the 1947 Censu.s of Popuユation

(Singapore, Government Publications Bureau,1949),Chapter X,P.104.

(6)

ものだある。

 第1表で見るように、1931年当時のシンガポール経済は先進工業国における金融経済恐 慌の影響をすでに受け、収入を目的とする仕事に従事する稼ぎ手として多少とも安定的な 仕事をもった、いわゆる有業者数は平年に対比するとかなりの高率(対馬人ロ)を示して いた。そして総数25万6千人あまりの男子有業者数の24.2%が商業、金融業に、18.3が運 輸、通信業に、その他不明をあわせて26.9%サービス業(但し公務員を含めると29.5%)

に従事しており、第三次産業有業者数は全産業の72.0%を占あていた。製造、修理業はわ ずかに16%を占めていただけであるが、この膨大な第三次産業人口をかかえ、すでに都市 経済化していたシンガポールにとっては、最低不可欠の業種別人口配分であると考えられ

る。第二次産業従事者も漸次増加し、エ947年戦後まだ不安定期においても、男子の場合、

その全産業有業者に占める比率は19.4%と上昇している。1931年当時は、一方ではシンガ ポール経済の発展段階の未熟を反映し、またシンガポー社会の不完全さを反映し、他方で は、世界恐慌の衝撃を反映して、農漁業従事者は全産業人口に対し19.2%となっている。

しかし他の東南アジア諸国のいすれに対比しては、その比率は極度に低い。これはシンガ ポールが、一種の都市国家であり、都市経済を構成していることからして、当然の帰結と いえよつ。

 シンガポールは戦前古くから旧マラヤ連邦、インドネシア及び旧英領ならびに旧蘭領ボ ルネオからの第1次産品の輸入欧米先進国および東南アジア諸国をはじめとする地域への 再輸出(主要産品として、ゴム、コブラ、香料、木材、茶、錫など)ならびに東南アジア 諸国及び欧米先進工業諸国と日本からの食料品と工業製品(主要産品としては繊維製品、

機械類、その他の各種工業消費財など)の輸入と近隣諸国への再輸出という伝統的な中継 貿易の上に自国の産業基盤を築いていったのである。

 シンガポールもその中継貿易は先進工業諸国の景気の変動の影響から免れることは、戦 前といえども、不可能なことであったが、一般的には、持続的な成長発展を遂げてきた。

これは基本的に三つの理由が考えられる。その第一は、欧米先進工業諸国ならびに第一次 産品に対する需要の増大である。

 第二の理由は、これらの工業原料供給地域における需要増大に見合った輸出余剰の生産 と工業製品に対する需要増大である。また、かかる工業製品の大幅な需要増は、一方では 先進工業諸国における生産拡大および競争の激化に伴う価格下落の結果、工業原料供給地 域の実質購買力の上昇があったからであり、他方では、この地域における所得増の結果も たらされた生活様式あ変化及び消費パターンの変化を部分的に反映したものである。ま た、戦前の長い期間に徐々にみられた局地的工業化の影響による資本財に対する需要増も 見逃すことができない事実である。

 第三の理由は、シンガポールの中継貿易の発展による立派な港湾施設整備、商業、金融 業及びサービス業等貿易関連業者の技能と熟練並びに自由貿易政策の堅持、換言すれば中

(7)

継貿易の直接間接当事者による効果的かつ能率的なサービス提供を指摘しなければならな い。もしシンガポールがかかる中継貿易の合理化、総合化に失敗していたならば、シンガ ポールの経済発展は今日程ではなかったであろう。

 以上のように、シンガポールが中継貿易の中心地であり、したがって中継貿易関連産業 が、その国民経済に占める比率が大であるため、シンガポールの長期的発展の背後には苦 難の道があった。それは国内的理由よりも外的理由の方がより大なためである。

 シンガポールの輸出入貿易の一部は自国輸入や自国輸出であったが、その各々の商品輸 入額の10%〜30%、全輸出額の3%〜6%であって、ほとんど大したものではなかった。

1962年シンガポール及び旧マラヤ連邦、サラワク、及び旧北ボルネオ植民地を訪問した世 界銀行調査団の報告によると、1961年のシンガポール輸出入貿易額に占ある中継貿易の割 合は次のとおりである。

(単位:100万マラヤ.ドル)

自 国 輸 入 再輸 出 輸 入

 (1)マラヤ連邦及び    ボルネオ薩州(1》

 (2)近隣…諸国(2)

 (3)他の諸国(3》

1,361,4 2,601,9

自 国 輸 出

再   輸   出  (1)マラヤ連邦及び    ボルネオ諸州(1)

 ②近隣諸国②

 (3>他 の 諸 国

 224.6 3,083.9

 887.4

輸入総額 3,963.3 輸出総額 3.308.6

 (注)(1)ブルネイを除く

   ② ビルマ、カンボジア、ラオス、タイ、ベトナムをいう

(出所)  Repot on the Economic Aspects of malaysia, P.78

 中継貿易は、それが第1次産品の輸入、再輸出であれ、工業製品の輸入、再輸出であ れ、中継貿易商品の需要者ならびに供給者側両方の自国経済活動の動静に作用されること が大で、特に欧米工業諸国の景気変動は大きく影響した。最:も典型的には1930年代初期の 世界恐慌はゴムおよび錫の市況の暴落と停滞を通じてシンガポールの中継貿易に多大の被 害を与え、よってシンガポール経済のこおむつた被害は大なるものがあった。先進工業諸 国の中継貿易に対する影響は二重的である。一つは中継貿易における再輸出輸入が減退す ることであり、これは再輸出自身が減退するからである。すなわち、先進工業国のゴム及 び錫をはじめとする第1次産品の輸入減は、国際価格を下落させ第一次産品供給地域から のかかる輸出を役割を果たす。これはシンガポールにとっては、再輸出入の減少を結果す る。この場合、市況の暴落は短期的と予測される場合には、シンガポールによる第一次産 品需要はそれほど低下しないが、供給地域もそれを見越した場合には、価格の下落は先進

(8)

工業国ほどでない。逆に市況の暴落が長期的と予測される場合には、シンガポールによる 買付は、極度に低下し、その結果供給地の価格下落は先進工業国以上となる。

 事実そうであったが、シンガポールの場合においても先進工業諸国における、かかる短 期的な景気変動による経済的損失は、一般的には部分的にせよ第一次産品供給地域におけ る、しわ寄せが行なわれることにより、また景気の回復過程ならびに、その後の好況現象 における第一次産品市況の回復により補われることが常であった。そこにシンガポールが 戦前、諸種の外的理由により景気変動に直面せざるを得なかったにも拘らす、中継貿易依 存経済から、脱却することができなかった原因の一つがあったように考えられる。

第3章 戦後におけるシンガポールの経済発展

 第2次世界大戦が始まるまで、シンガポールは、イギリスの植民地であったことは衆知 の通りであるが、第2次世界大戦が勃発すると、まもなく日本軍の占領下におかれて、こ の状態は1945年9,月5日まで続いた。それが、1945年9月から1946年3,月までイギリス軍 政府下におかれたが、1946年4月民政府に移管された。民政府はシンガポール住民の協力 を得て、経済回復と自治政府の樹立を最終目標として立法議会の設置を急務とした。占領 中になおざりされた社会資本の充実はシンガポールのように中継貿易を主産業とするとこ ろでは、最も重要な課題であった。又戦時中物資不足のために充足されなかった住民の消 費財ならび役務に対する需要は、戦後早急に充足されなければ、経済混乱は倍加する状態 にあった。

 これが戦後2ケ年も経過すると、1947年には、戦争の禍根を殺することができ輸出入貿 易量も戦前の水準を凌駕することができた。これは一つには、戦後心配されたアメリカ経 済の軍事経済から平和経済への転換が比較的順調に行なわれ、ゴムや錫をはじめとする第 一次産品に対する需要が急速に伸びたこと。他にもう一つの理由は、第一次産品の供給地 域即ち旧マラヤ連邦はじめ他の原料供給国に輸出余剰ができ、先進工業国への再輸出のた めの輸入が、シンガポールにできたことである。このようにシンガポール経済は、第2次 世界大戦以後独立に至るまで、(多分今後もそうであろうが)、その中継貿易量の変動を 通じて、世界経済、特に先進工業国の経済変動の影響を受けることは必至であろう。

 1947〜60年の期間にシンガポール経済は3回の経済拡大期を迎えて成長した。第一回 は、1950〜51年にみられる。これは1950年6月の朝鮮動乱に基づく、ゴムや錫のような戦 略物資の需要の増大があげられる。シンガポールのゴムの平均価格が1949年にポンド当り 38セントから、1950年の108セントと始んど3倍に騰貴した。1951年には、更らに170セン

トと、4.5倍に上昇し、錫の値段も1949年にはトン当り606ポンドから、1950年には745ポ ンド、1951年には始んど倍近い1077ポンドに達した。このようなゴム及び錫価格の急騰及 交易量の増大は、両産品のシンガポール中継貿易に占める割合が高いために中継貿易を急

(9)

増し、シンガポールの経済活動は活況を呈した。

 1951年夏頃から、アメリカは錫の戦略調達を停止したり、使用の制限をしたため価格は 下落した。ゴムも同様に価格は急激に下落した。かくして1953年から1954年半、シンガポ ールにとって明白な景気の後退;期であった。それが1955〜1958年;期にかけてシンガポール には、第2回目の景気の好調が生じた。その第一の理由は、1955年〜1957年の日本の神武 景気といわれる影響であり、その第二の理由は、アメリカにおいても自動車年間生産台数 が史上最高といわれる500万台を突破したこと等である。

・第3回目の景気循環は、1959〜1962年におとつれた。この第3回目の景気循環は、すべ       (注1)

て外的な理由によるところ大であった。景気上昇のおもな原因は、ゴムと錫の価格の急激 な騰貴であり、これは輸出入活動を活発化し、その結果経済活動が拡大し、諸産業におけ る資本形成が増大、消費者の購買力増大、政府の財政収入増大による支出増大が促進され る。また景気の下降は、国際市場におけるゴム及び錫を中心とする第一次産品価格の急激 な下落に原因し、これは、逆に輸出入活動を鈍化し、その結果、各産業の投資需要も雇用 も減退し、消費者の購買力も低下する。かくしてシンガポール経済は戦後を通じて常に中 継貿易の成行いかんにより、大きく変動してきたということができる。シンガポール経済 は、世界市場における第一次産品め需要の変動により大きく左右されてきたということが できる。

 (注2、)

 (注1)ゴムおよび錫の国際価格は1958年から1960年かけて、朝鮮動乱時ほどではないが、再度急騰し   た。これはヨーロッパ先進諸国特に欧州経済共同体(European Economic Community略  称E.E. C)諸国の経済活況をはじめとするアメリカその他の先進工業諸国の景気上昇に基づい   たものであった。1958年ポンド当り80セントだったゴム価格は1959年には102セントに急騰し、

  1960年はなお108セントと上昇した。同時に錫価格も1958年のトン当り735ボントから1959年には   785ポンドと6.8%上昇率を示し、1960年には797ポンドと錫価格を9ボンドも上回った。

  しかし1961年になるとゴム価格は反落し、1962年以降傾向が続いている。下表参照

シンガポールにおけるゴムおよび錫の輸出単価の推移 (11

1960 1961 1962 1963 1964

加 自製 生 ゴ ム

1…トン11000彫ヤマド銘1

583.2 664.0 644.1 606.6 419.6

1,393,487 1,116,216 1,068,219  957,340  636,449

2,389 1,681 1,658 1,578 1,517

錫塊、万棒、錫板 1…トン11000彫ヤマド脆1

 775 4,141 1,409 2,269  607

5,161 29,035 10,601 17,191 6,006

6.66 7.01 7.52 7.58 9.89

 (1)マラヤ諸州との貿易を含む(2輸出単価は輸出総額を輸出量で除したもの

(出所)Goverment of Singapore, Department of Statistics.

(10)

(注2)主要第1次産品別および国別年間平均変動率U)

商品および地、域

uう

イ ン ドネ シ ア マ ラ ヤ 連 邦 エカ フ ェ 地 域   糖

台       湾 フ ィ リ ピ ン プ ラ

フ ィ リ ピ ン

  イ ン ドネ シ ァ   マ ラ ヤ 連 三 石   油

フ  ル  ネ  イ イ ン ドネ シ ァ

ノレ

セ   イ   ロ   ン

輸出総額(2)

1948−5311953−6

40.5 37.7 42.6

28.1 23.8

35.0

21.2 18.3

20.9 15.9

11.7(5)

15.5

8.4

19.7 18.6 18.5

19.8 5,1

10.3

10.9 6.3

6.0 7.3

10.4 13。3

15.0

輸出価格(3)

1948−5311953−56

 d(4)

35.8  d(4)

23.7(5)

 5.6

23.9

 d(4)

15.2

13.4 9.9

13.5(5)

10.7

10.5号

 d(4)

18.8  d(4)

2.5 3.4

10.7

d(4)

3.9

1.1 5.2

17.8 11.5

12.6

輸 出 数 量 1948−5311953−56

14.0 3.4 6.0

46.7 20.9

13.2

5.2 14.5

12.3 16.5

15.9(5}

14.2

2.9

5.2 4.0 4.8

17.8 6.6

14.2

4.0 5.4

5.9 5.3

18.0 15.8

3.4

(注)(1)年間平均変動率はいずれの変数の場合でもある年次平均との変化を表わすもので      あり、統計的には低平均値/高平均値 ×百分率で示さ・れている。

   (2)米ドル表示の輸出総額に基づく。

   (3)石油についてはアメリカの国内市場価格に基づいているが、その他すべての産品      については輸出国の港における市場価格あるいは輸出単価(米ドル表示)に基づ      いている。1949年の価格あるいは輸出単価は1月一8月分のみ。

   (4)価格変動平均率についてはマラヤ連邦の変動率と同様として参照。

   (5)1950−53年間平均変動率。

第4章 独立後におけるシンガポールの経済発展

 1965年6月シンガポールはイギリス直轄植民地から独立し、リー・クワン・ユー(Lee Kuan Yew)氏が初代首相になったことは、既に述べたが、新独立政府は、多くの困難な 問題に立ち向はなければならなかったが、先づ第一に統一国家に築きあげ、多人種社会を

(11)

人劇的意識でなく、国家意識を高揚することであり、その二は、外的理由により変動する シンガポール経済を自立させ、経済の持続的成長をはかることであった。

 およそ植民地が独立して、一個の主権国家を形成すると、宗主国の利益第一主義から、

独立国の国民生活の安定繁栄、政治的独立の維持と国際社会における地位の獲得などが、

独立政府の基本政策を貫くことになる。このような独立政府の基本政策は、国民経済の 成長、発展、物価、物価安定、雇用拡大、輸出増進による外貨獲得などの基本的経済目標 に基づいた経済政策の推進なくして、その実現は困難である。しかるに新興独立国の殆ん どは、かっての植民地時代の経済体制を受けついでおり、そこでは、第一次産品集中のモ ノカルチャー経済が支配的であり、輸出産業が、国民総生産に占める割合が高く、故に先 進国その他海外諸国における需要変動は、その国の輸出所得に大きく反映し、これが、

また、その独立新興国の国際収支のみならず、国内経済に対しても、同様に大きな影響を 与えているという現状である。

 シンガポールも、これら新興独立国の例外ではない。中継経済貿易依存型経済を脱却す るためには、工業化を必要とし、民生安定をはかるためには、国民経済の順調な成長を必 要とする。しかるに工業化を推進するためにも、国民経済の順調な成長を推進するために も莫大な人的、物的資本の投資が急務であり、そのためには国民全体による耐乏生活によ る資本蓄積では不十分であり、急速な資本形成を必要とする。また、工業化推進、経済の 順調な成長のためには、外国からの工業財、消費財輸入を必要とするが、それをまかなう ためには多大な外資収入が不可欠であり、そのため輸出を増進しなけれ ばならない。

 換言すれば、シンガポールの場合、中継貿易依存型経済から脱却するたあには、中継貿 易を含めた、輸出産業を振興しなければならないということになる。要は、中継輸出、自 国輸出の増大によって獲得する外貨および財政収入のできるだけ多くを、中継貿易産業に 打撃を与えることなく、工業化、民主安定投資に振り向けることが急務であることを意味

する。

 そこで、シンガポールは1959年独立すると間も・なく創始産業法(Pioneer Industries Relief from Incorne Tax−ordinance)略称PIOを制定し、これによって、工業開発を 促進し、経済の多様化及び雇用拡大を促進し、中継貿易依存型経済からの脱却を意図し た。この法律は、シンガポールにおいて製造工業に投資する国内および国外の企業に対し てては、一定の条件を具備した場合、設立後2−5年間は法人所得税を免除することを規 定した。この法律の制定により、1965年3月現在でシンガポールにおけるPIO産業は 113に達し、払込資本総額は1億2756万7000マラヤドルにのぼっている。

      (注1)

 工業開発の促進と国民の生活安定、向上を目的としたシンガポール政府はまた、1961年 シンガポール開発四ケ年計画(Singapore Development Plan、1961〜1964)を発表し,

直ちに実施にはいった。 (注2)は、この第一次四ケ年開発計画における開発投資の全貌          (注2)

である。

(12)

 シンガポール第一次開発四ケ年計画は1961年シンガポール議会により可決された。この 四ケ年計画は同期の政府部門による開発投資支出計画を含んだ綜合的計画ではない。ま たζ政府部門の資本支出計画といっても厳密なものでなく、毎年の詳細な資本支出計画 を立案する際に必要な方向と基礎を与えたものにすぎない。シンガポール政府による、

この開発投資計画の実施は、国内民間産業に対する需要を増大させ、.民間部門の経済活動 を刺激したが、同時に政府投資需要に誘発されて民間産業部門における需要の拡大は当然 のことながら雇用機会の増大、消費者購買力の増大をもたらし、同時に自国輸入の増大を もたらすこととなった。1960年になってや\景気の後帯気味であった。シンガポール経済 にとって、第一次四ケ年開発計画は、景気回復を早める働きをした。しかし、この第一次 四ケ年経済開発計画は、1950年の初め朝鮮動乱によりもたらされた投資支出の急増、高率 の経済成長率を実現するほどでなかった。

 また中継貿易依存型経済を多様化せんとするシンガポール政府は、1961年8月に経済開 発委員会(Econornic Developmeut Board,略称EDB)を設置した。 E D Bの主要な機能        (注3)

は、単に内外の民間投資家の助成策として工業立地条件、潜在市場力の調査の実施のみな らず、民間企業家に対する財政的、技術的補助を供与し、また必要な場合には、政府単独 であるいは、民間資本との共同で、企業を設置することもできる。

 EDBの他の一つの主要な機能は、必要なあらゆる設備を具備した工業団地を構成する ことであり、特に9.000エーカーの敷地を有するジュロン工業団地(Jurong Industrial Estate)の造成は、隣…接の完備した住宅団地と相まって、その成果は著しいものがある。

このジュロン工業団地には、ブリヂストンタイヤ、石川島造船、日産自動車等、日本の企 業の進出を眼前にみて、筆者は驚異の目を開いたほどであった。

 シンガポールの創始産業法の制定、第一次開発四ケ年計画の実施、EDBによる積極的 な工業開発政策は、序論にも述べた通り、短期的不安定要素をもつ中継貿易依存型経済の 是正をはかり、もってシンガポール経済が、自立化するための積極策であるが、同時に、

独立後における力纏る諸政策の早期立案、実施に拍車をかけたのはつぎの二つの理由によ るところが大である。その第一は、シンガポールの中継貿易活動の長期停滞傾向とその将 来予測であり、もう一つの他の理由は前述した国内における人ロの自然増及び社会増から

くる供給労働力の急激な増大である。

 シンガポールは戦から戦後にかけて、長期にかけて中継貿易に依存して来たが、中継貿 易は、長期的にみれば、今後も停滞傾向あるいは漸減傾向にある。その理由はつぎの四つ があげられる。

 (1)一方の主要産品たるゴム、及び錫等の原材料が貿易営業者間の直接貿易の傾向が進 行しつ\あること。これはマレーシア連邦、インドネシアならびにタイ国などでゴムや錫 の第一次産品の選別加工施設や各種工業製品の流通施設が整備され、その経済開発が進み つ、あることが第一の理由である。

(13)

 (2)第二の理由は、ゴムや錫に対する国際需要の見通しが甘くないことである。先づゴ ムについてはその海外需要が、近年、先進工業国における合成ゴムの品質改良と新用途開 発ならびにコスト・ダウンにより相対的に低下しつΣある。

 錫については、その海外需要は世界供給量の絶対的制約から、ゴムほど市況悪化はみら れないが、代替用品たるアルミニウム、ステンレス、プラスチックなどの出現により、

伸び悩みの状態にあることである。

 (3)第三の理由として考えられることは、第一次産品供給諸国における先進工業国の工 業製品に対する需要の伸び悩みと原料生産国間の需要の伸び悩みの傾向である。その結果

として先進工業国も東南アジアの低開発国も、共に中間搾取を排除して直接貿易に移行す る傾向が強くなってきたという経済的事実を無視することはできない。

 (4)第四の理由として、インドネシアが1963年9月から開始した反マレーシア(シンガ ポールを含む)対決政策をあげうる。ナサコム体制を堅持してきたインドネシア政府は、

      (注4)

マレーシア連邦の誕生を新植民地主義者の策略として、連邦政府と同時に外交関係を断絶 し、新連邦を構成する旧マラヤ連邦、シンガポール、サバ及びサラワク諸州との貿易をい っさい禁止した。1960年春ら1964年のシンガポールの主要国別輸出入総額の別表に見る如 く、シンガポールの貿易総額は約五分の一突如として減少したことである。

 1962年現在でインドネシアは、輸出業者にとって最大の観客であっ:たが、1963年のマレ ーシア対決政策で第3位の顧客に転落し、1964年には輸出入とも零となった。

 さて、シンガポール政府によって、工業開発政策の早期実施にふみ切らせたもう一つの 原因は、インドネシアのマレーシア対決政策によって一層急性が増大したことと労働人ロ の急激な増大による雇用機会を造り出す必要性があったことである。戦前においては、人 口の社会増が著しく、高い死亡率にもか\わらず急激な人口増を可能にした。戦後におい ても人口増は急激であり、序章でも述べたように1947年から1964年末までの17年間にほと んど2倍にも増大している。この原因には、社会施設の充実や乳児死亡率の低下、平均寿 命の廷長など内的原因もあるが、シンガポールは一人当りの国民所得も生活水準も高い

し、賃金水準も高いので、近隣諸国とくに旧マラヤ連邦からの移入が多かったことに基因 している、といはれている。

 このように、シンガポール政府による工業開発政策は、シンガポールの国民経済の安定 と拡大のために推進されたものであるが、同時に、シンガポールにおいて増大する失業者 に雇用機会を提供することによって、単に生産要素としての労働力の完全な利用のみなら ず、民生安定、社会不安を拡大するのを防止せんとする経済政策であり、社会政策であ

る。

(14)

(注1) PIO企業の国別出資規模(1965年3月現在)

カ    ナ    ダ

日       本 ア  メ  リ  カ イ  ギ  リ  ス 香        港 パ    ナ    マ

台       湾 オース ト ラ リア 南 ロ  デ シ ア

ニユージーランド 南 ア フ リ カ

ベ   ト  ナ  ム ラ    オ    ス

レーシア運邦②

 払込資本金額(1)

(1000マラヤ・ドル)

66,014 20,500 16,412 10,000 6,499 2,348 2,111 1,075 1,000 1,425

 100   52   10

  5

127,567

52 16 13 8 5 2 2 1 1 1

100.0

(注)(1)1965年3月現在払込資本金総額は1億27556万7000マラヤ・ドルで公称資本金額7     億8685万マラヤ・ドルの16%である。

  ② この調査はシンガポールがマレーシア連邦から脱退する以前は実施されたがため     に「マレーシア連邦」のほとんど全額はシンガポール資本とみてよてであろう。

(出所) The Far Eas士ern Research Organization, The Capital Structure     of Pioneer Indtlstries in Singapore,1965(Singapore,1965)なおこ れは在シンガポール日本総領事館の委託で作成された報告書であり、引用につい ては当局承認済。(引用)東南アジア研究所発行第120集

(注2) シンガポール開発第1次4力年計画(開発資本支出計画)

       (単位:100マラヤ・ドル)

11961

1 経済開発

(1)

②工  業・農

(3)運  輸・通 皿 社会開発

土地造成、農業開発

119.04 10.9Q 77.36 30.78 83.79  6.12 22.04  0.26 34,60 15.72  0.57  4.48  4,03  3.89  0.14

1962119631964

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

(7)

健・衛

  コミュニティー・サービス   文  化  関  係 皿行   政

 (1}一         般

②国        防

206.86

120.80 16・191 11:艦

91:讐!

   125.77  0.51

40.70 12.31  1.94  4.62  4.07  4.0:Z

139.90 13.47 99,85 26.58 80.88  7.70 25.35 0.60 33.80  9.83  2.00

 L60

 2.88  2.88

128.21 12.71 90.68 24.82 89.58 12.20 21.32 0.40 44.50  9.50  1.56 0.10  2.21  2.21

22・・5・1223・66122・…

507.95

5327

337.36 117.32 349.88 35.80 94.48  1.77 153.60 47.36  6.07 10.80 13.19 13.05  0.14

87LO2

(出所> State of Singapore, State of Singapore Annual Peport,1961,

(Singapore, Governrnent Printing Office,1963),pp.104−105.

(15)

(注3) シンガポールの主要国別輸出入総額表

      (単位:100万マラヤ・ドル)

賢婦 1イギリスレメ州彩到籍ラ剤日本

1960

1961

1962

1963

1964

4,077.8 3,477.1 3,963.3 3,308.5 4,035.9 3,416.7 4,279.0 3,474.5 3,478.7 2,771.9

363.1 286.8 406.9 245.3 384.7 216.8 427.2 202.9 349.3 183.1

187●1 P

223●0

P

201.3i    l 283・6i 225.9 231.8 193,21 116.5

999。31

121.1 829.2 194.3 804.2 292.5 619.4 261.3

 853.1  842.9  723.6  886.2  727.7  941.5  756.6 1,011.1  791.9  925.5

298.1 156.7 339.0 175.2 366.7 160.6 407.9 136.7 64.4 95.0

(注) マラヤ諸州は旧マラヤ連邦をいう。サバおよびサラワクは含まれない。

(出所)Government of Singapore, Department of Statistics,

   Monthly Digest of Statistics, Vo1. IV, No.11, November,

   1965,Table 7.8, pp.48−49.

(注4)ナサムコ体制とは、Nationalisme(民族主義)、Agama(宗教)、Kommunisme  (共産主義)の略称。Nasacomの協力に基づいた体制をいい、インドネシア建国の5原則であ る「神への信仰」「入道主義」「民族主義」「民主主義」および「社会主義」に基づいたインドネ シア革命の現段階に適合した指導原則である。Nasacom体制は、1966年3月の新内閣の成立によ って非常に疑問視されていたが、その後スカルノ体制の崩壌によって、インドネシア建国の5原則 により置き換えられた。

第5章 最近におけるシンガー経済の動向

 1968年の速撃トロ(Jetro)の「海外市場白書」によれば、1967年のシンガポール経済 の動向について、次のように報じている。1967年のシンガポールの経済は、その支柱とも いうべき、中継貿易が輸出面で停滞しているため低調であることである。 次表参照  次表で判明するように、ます上半期の貿易の動きをみると、輸入が22億1,690万シンガ

ポール・ドル(以下ドルと称す)で前年同期比12,0%伸びているのに対し、輸出が17億 410万ドルで、前年同期比4.7%の低い伸びにとどまっている。

 このような輸出の停滞は、シンガミシンポールの二大輸出市場の一つであるマレーシア 連邦が、次第に閉鎖的になってきたたあで、その輸出が減少したことによる。すなわち、

マレーシアは1966年8月、自動車、繊維製品、テレビ、ステレオ、楽器、タイヤ、チュー ブ、酒、タバコなどの英連邦特恵関税を廃止した。そのためシンガポール品は、今まで受 けていた関税面での思恵を受けることができなくなり、他の英連邦以外の国と同条件でマ

(16)

IV一旦62表

      シンガポール 貿易の推移(単位:1,000シンガポール・ドル)

輸    出.

西マレーシア 日   本 インドネシア

輸    印 西マレーシア 英    国 日    本 インドネシア

1962年

3,416.ワ

 941.5  160.6  292.5

4,035.9  727.7  384.7  366.7  804.2

1963年

3,4ワ4.5 1,011.1  136.7  261.3

4,2ワ9.0  756.6  427.2  407.9  619.4

1964年

2,ワワ1,9

 925.5  95.0

3,478.ワ

 791.9  349.8  364.4

1965年

3,004.1  938.6  112.2

3,80ワ.2

 884.9  413.9  421.2

1966年

3,3ワ3.6  907.6  123.3

4,065.7  943.5  408.1  463.7

1967年

(1−6月)

1,ワ04.1

 435.9  70.6

2,216.9  457.4  189.0  257。8

レーシァ市場での競争を強いられることになった。その結果、66年半マレーシア向けの輸 出は、65年の9億3,860万ドルから9億760万ドルに減少した。そして1967年にはいって は、さらにマレーシア連邦の国産保護政策による輸入制限品目の増加も加って、上半期

(1〜6,月)では66年の4億3,990万ドルから4億3,590万ドルに低下した。マレーシアの 国産保護を目的とした輸入関税の設定、引き上げや輸入数量割当などの実施品目は、自動 車等多岐にわたるため、今後は今まで以上にシンガポールの輸出に大きな障害となって現 われるであろうと思われる。他方、もう一つの重要市場であるインドネシア向け輸出は、

1966年9月に貿易が再開されはしたものの、インドネシア側の外貨事情の悪化、華僑圧 迫、シンガポールを経由しない直接貿易への転換などで国交断絶前の水準までに回復する には、ほど遠いといわれている。対インドネシア貿易が公表されないので詳細はわからな いが、輸出入ともに断交前の半分程度ではないかとみられている。他方、シンガポールの 輸入の例をみると、工業化の進展につれて、関税の設置や輸入数量の割当制限など国産保 護政策が台頭して、シンガポールは次第に自由港としての特色が失なわれつつある。以下 工業化の進展の状態ならびに輸入制限品目などを調べてみよう。別表のように1966年の工 業生産高は前年比20.1%増の13億ドルを記録した。

 特にパイオニア産業法適用企業(111社)の生産の伸びは著しく、前年.比54%増の4億 9,000万ドルを記録した。総生産額に占めるシエァも前年の29%から38%に達した。そし て、これら111社がフル操業を行うようになりなれば、生産額は7億4,200万ドルに達する ことが見込まれている。また、この他に1966年12月末までに54社がすでにパイオニア産業 法の適用を受けることが決定しており、さらに1967年に22社が適用される旨政府から発表

されているので、近い将来、シンガポールにおいては、その工業化がさらに進展するもの

参照

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