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イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年―1879年

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(1)

イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年―1879年 19

イギリス資本主義経済の変動と植民地 インドの鉄道建設 1844年―1879年

(1} はしがき

② イギリス綿業資本と旧元利保証制鉄道会社

(3)インド政庁財政と政府鉄道の展開

㈲ 結びにかえて一「自由貿易帝国主義」論争とインド鉄道建設

(1)はしがき

 19世紀イギリス資本主義の歴史的発展において,植民地インドの経済的役割の主な点は,

端的に,最も確実な商品市場,原料の供給地,資本輸出先であった,と云うことができ よう。そして,それらの要因の確実さは,アメリカやヨーロッパと異り,イギリス帝国の 強力な植民地経済政策によって獲得されたものであった。その植民地政策は,どのような 動因によって,どのような形態でなされ,どのように変転していったのであろうか。本稿 は,その問題を,その政策の基軸とみなされている鉄道建設政策から考察してみようとす

るものである。むろん,その問題の全てを鉄道建設政策の考察のみによって明らかにしう るわけではないが,鉄道建設が,市場開拓,原料獲得,資本輸出のどの要因にも密接にか かわるかなめ石的存在であることを考えれば,それはこの問題の解明にとって極めて有効 な対象とみなしうるであろう。この考察において特に注意を払った点は,イギリスの産業 循環,イギリス資本家の要求,イギリス本国政府とインド政府の態度,といった諸事象と インド鉄道建設との関係である。そして,そこには,資本主義社会の展開の典型とみなさ れている時代において,自由競争下での資本主義社会の発展(より具体化された形におい ては産業循環)と国家の経済における役割,および非資本主義的地域の役割をどのような 関連において,考えるべきかという理論的関心が伏在している。

 わが国における19世紀インド鉄道建設史にかんする重要な業績は,松井透,牧野博,角        (注ユ)

山栄の諸氏によって発表されている。それらはいずれも,ほゴ鉄道建設史第一期(旧元利 保証制鉄道建設期)の1860年代までを中心とする考察であるが,それぞれ独自の史料と論 点を持って居り,本稿も多くの示唆を得ている。

 私の見ることのできた限られた範囲の外国文献の中で,重要と思われるものは,C. P.

      (注2)

Tiwari, N. Sanya1, R.Dutt, D. Thorner, W. J. Macphersonの諸氏のものである。

殊に,全インド鉄道会議会長(1921年)Tiwari氏の著作は,その序文に云うように,イン

(2)

ド人による最初の本格的なインド鉄道史研究書であり,一次資料を豊富に使った内容のあ る労作である。また,Calcutta大学交通論講師(1930年)Sanya1氏の著作(London大 学博士論文)は,やはり豊富な一次資料に依拠して,詳細でかつ整理されたモノグラフで

ある。本稿もこの二二に依るところ大きい。

注(1)松井透「イギリス帝国主義とインド社会一鉄道建設を焦点にして一」『世界歴史』22,岩波講   座(1969年)

   牧野博「イギリスの対インド鉄道投資一1849−1868年一」『経済学論叢』 (同志社大学)第   19巻第14号(1970年)

   角山栄「『自由帝国主義』時代におけるインド・ルートおよびインド鉄道建設とイギリス資   本」『経済理論』(和歌山大学)第126号(1972年)      ・

 (2)C.P. Tiwari, The Indian Railways :Their Historical, Economical and Ad−

  ministrative Aspects.(Almer 1921)

   N.Sanya1, Development of Indian Railways (University of Calclltta l930)

   R.Dutt, The Economic History of India in the Victorian Age(Routledge&

  Kegan Paul lst ed.19Q3,1906, rep.1950)

   Daniel Thorner, Great Britain and the Development of India s Railways   ノ。π撒αZo∫Ecoηωπゴ。 H∫5オorツ, XI(Fall l951)

   W.J. Macpherson, lnvestment in Indian Railways l845−75 Tん6 Ecoηo而。

  H∫5≠orッR6窃θω, Second Series, Vo1.㎎ (19S5)

② イギリス綿業資本と旧元利保証制鉄道会社

 イギリスはインドにおいて,18世紀末より,主として政治力と領域の拡大および軍事的 支配の要請から,道路建設に力を注いでおり,1840年代には約3万マイル建設されたとい

う。この道路に沿って馬に引かせる軌道がMadrasに現われたのは30年代初めであり,

30年代後半に鉄道建設にかんする政治的,経済的,技術的な様々な観点からの論議もインド        (注1)

で始まるのである。同じ頃,イギリスは既に「鉄道時代」が開幕しており,フランス,ド イツ,ベルギー,アメリカ,ロシア等でも鉄道建設が開始され,イギリス,フランス,ア        (注2)

メリカでは蒸気力による鉄道が出現していた。

 インドにおいて,本格的な鉄道建設計画が出現するのは1840年代初めであり,1844年は The East Indian Railwayの設立者Mr. M. StephensonがCalcuttaから西北辺境地 域へ向う路線計画をBenga1政府へ提示した年であった。その他Bombayなどでも様々 な形での計画が東インド会社(The East India Cornpany)や地方行政当局へ出され,

       (注3)

40年代半ば頃から,それらインド支配機構の中にも鉄道熱が高まっていったのである。

 これらの動きは,1845年10月次降,実験的鉄道計画の具体化のため東インド会社により インドへ送り込まれた技術者Mr. F. W. Simmsの活動開始と共に具体的な姿をとり始

(3)

イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年〜1879年 21 めた。東インド会社は,Mr. Simmsの46年の「覚書」に示されているように,イギリス 政府のインド監督局(Board of Contro1)へ土地の無償三三,無税など多くの援助を要請

しながら,会社の運営については,鉄道会社が自主的に行う形を提示していた。また,東 インド会社取締役会が特に強く要請していたことは,資金を集めるために不可欠の手段と して,出資者に対するイギリス政府の一定の利子保証であった。しかし,インド監督局は,

政府経営でない会社形態での鉄道建設については認める方向へ動いたが,高率の利子保証 制度には強い異議を唱え,東インド会社と真向うから対立し,建設計画は容易に進展しな       (注4)

かったのである。このような計画の停滞に強力な圧力を直接に加えたのは,当時のイギリ        (注5)

スの政治,経済に大きな主導性を確保していたイギリス綿業資本であったが,今少し広い 視野からイギリスの圧力をみておくことにしよう。

 1840年代前半のイギリス経済は,アヘン戦争(1840〜42年)で得た最恵国待遇などの利権 を踏台に,中国市場への輸出拡大とその他のアジア市場の拡大によって,綿業に主導され た活況を呈していた。この綿業の好調を基礎に,既に30年代の第一回の鉄道ブーム以後投 資対象としての有利性,安全性を獲得しつつあった鉄道会社への期待が膨脹し,44〜46年 に第二回の一大鉄道ブームが出現する。このような好況を1847年の恐慌に向わしめたもの は,次の諸要因であった。(1)アジア市場への輸出の鈍化,②アメリカの綿花不作を主な原 因とする原綿価格の高騰,(3>45〜46年の激しい凶作による穀物価格の高騰と穀物輸入投機 が47年置伶予想により崩壊したこと,(4)鉄道株投機が鉄道認可に必要な政府供托金納入の       (注6)

ための追加払込の困難を契機に崩壊へ向つたこと。

 このような状況の中で,アメリカ綿花に原綿の約80%を依存(付表3)していた綿業資 本は,綿花供給の安定,特に価格安定のための追加的供給源としてインドの開発を本格的 に開始するのである。そのフ。ログラムは,1848年2月Lancashireを主軸とするイギリス 綿業資本の要求によって設置され,その先頭に立っていたJ.Brightを委員長に据えた

「インド綿作調査特別委員会(Select Committee on the Growth of Cotton in India)」

の報告書において提示された。このようなインド綿花の開発は,当時の綿業の動揺に決定 的影響力を持っていた原綿価格を安定化させるという,一つの「恐慌対策」の意味を持つ       (注7)

ていたのである。そしてインド内陸運輸手段の開発,特に鉄道建設は,そのプログラムの 重要な柱であった。

 さらに,綿業資本のインド鉄道建設の要求は,単に原綿供給源の開発にとどまるもので はなく,綿製品輸出総額の約去を占めるインド市場が,40年代後半停滞していることに対す        (注8)

る対策でもあった。インドの民衆に真に必要なものはむしろ灌概のための運河であったが,

イギリスの資本家はインド内陸へより早く大量に生産物をばらまくために鉄道建設を優先      (注9)

したのである。このように,インド鉄道建設は,ユ9世紀後半のイギリスのインド支配の第 一の経済的動機とも云うべき原料と市場の開拓に不可分の形で登場したことが留意されね

ばならない。

(4)

 さらにまた,前述したイギリスの鉄道ブームと恐慌におけるその崩壊は,インド鉄道建 設の本格的開始を促がすものであった。というのは,鉄道ブームはイギリスの中産階級投 資家に鉄道株への志向を強めさせ,その崩壊は対外投資への意欲を高めたと考えられるか らである。加えて同じ頃,ヨーロッパ大陸への投資も,その政治的混乱の故に減少しつつ

  (注10)

あった。また,後述するように,1850年代以後の本格的なインド鉄道建設の土台を築いた Lord Dalhousieの次のよう・な事情にも注意したい。彼は,1840年代半ばの鉄道ブーム;期 に商務長官(Pres.of Bord of Trade)として投機的拡大を鉄道局を通して抑制し,政府 介入のもとで実質的な鉄道拡大政策を展開しようとしたが,自由放任主義者の反対で果せ なかった。彼は,その「鉄道マニア」としての志向をインドにおいて現実化させるのであ

(注11)

る。この,1848年インド総督(the Govemor−General of India)着任後の事情は,1840年 代のイギリスの鉄道ブームがインド鉄道建設に直接的な影響を与えていることを象徴的に 物語っている。

 さて,以上のような1840年代後半におけるイギリス資本のインド監督局への圧力によっ て,監督局はしぶしぶ,利子保証の条件を出資に対し5%に,その継続期限を25年にそれぞ れ引き上げて,計画は実現にふみ出した。こうして,1849年The East Indian Railway Co.(The East India Co.の小会社)とThe Great India Peninsula Railway Co.が設 立され,後者が1853年4月BombayとThana間20.5マイルに,インド最初の鉄道を開

        (注ユ2)

通させたのである。

 更に,1848年1.月Lord D alhousieの総7督着任によって,インド鉄道建設は,藩王国併 合政策の強行と共に,単なる植民地特権会社の事業としてでなく,政府の植民地政策の重 要な一環としての展開を始める。Lord Dalhousieは,1850年に鉄道政策に関する基本方 針の要点を明らかにするが,更に整理して,1853年「覚書」を提示している。そこで示さ れた鉄道建設の目的はほゴ次のようなものであった。

α)インド帝国のあらゆる地点に対して,軍事的即応力を著るしく高めること。

② イギリスの資本と企業をインドへ運ぶこと。

(3) 「現在の見通しが立たない」状態のインドに商業的,社会的有用性を作りあげること。特に次  の点に注意しつつ一

 (a}インドの大きな輸送路に溢れて処理できないような生産物を運鍛すること。

 (b》イギリスがその工場のために声高に要求して来た綿花の生産を増大させること。

 (c) 「インドの最も遠方の市場に」そして「我々の開拓線を超えて」,ヨーロッパの商品を広く   送り込むこと。

      (注ユ3)

 (d)世界の各地から生産物を求めて来た船のひしめく港へ,内陸から生産物を運び出すこと。

 Lord Dalhousieは,このような鉄道政策を西洋世界で起ったような社会改善と類似の        (注14)

進歩をもたらすものとみていたが,それがいかにイギリス支配者の独善的な考え方であり,

(5)

イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年〜1879年 23 むしろ,イギリス資本の強い要求を担ったものであったかは,その後の展開がよく示して いる。この点で特に注意すべき点は,この方針には,インドあ産業と民衆の貧困の中につ つ走る巨大な鉄道が,インド経済の再生産にどのようにかかわり,ひいては,鉄道企業の 再生産,運営維持,定着がどれほど可能であるか,といった配慮が殆んどなされていない ということである。インドの実態を無視し,インド経済の再生産や鉄道企業の再生産を度 噛外視した,植民地支配者の全く独善的な方針であった。

 このことは,この方針の具体的な表現である,政府と鉄道会社との間に交わされた「契 約」内容にも示されている。この「契約」は,1849年に主要な内容歩作られ,以後59年ま でこの前例に沿って会社設立が行われた。この「契約」を認める法のもとに設立された鉄 道会社が,いわゆる旧元利保証制鉄道会社(01d Guaranteed Railway Co.)であり,

1860年代にこの会社制が一旦停止され,80年代に再導入されるといった,あまぐるしい変 転をみせたインド鉄道史上最初の鉄道建設・運営主体の形態であった。そして,その「契 約」内容はほぼ以下のようなものであった。

(1)政府(直接にはインド行政当局)は全ての鉄道に土地を準備し,99年間地代をとらない。

(2)鉄道会社は資本を全額払込まねばならない。それに対し政府はLondonにおいて年々支払われ  る5%の利子を保証する。

(3)鉄道会社は,ロンドンのそして一部インドの国庫に資本を支払うべきこと,そして,政府は,鉄  道設営目的のためにイギリスとインドで要求される貨幣を融通すべきこと,貨幣の全額は1ルピー  一1シリンダーQペンスの交換率で支払われ,引き出されること。

(4}イギリス人資本家のインド鉄道投資をすすめるため,インド政府は,インドの納税者が負担する  ことになる確かな財政的義務を約束すること。

⑤ 鉄道会社の諸業務は,政府の指揮,統制のもとにあるべきこと。

(6)鉄道によって出された純利益は経営費用(working expenses)を差引き後,まず最初に政府に  よって支払われた保証利子の弁済にふりむけること。その場合,1ルピー一1シリング10ペンスの  固定交換率で計算される。いかなる余剰利益(surp!us profits)もこの利子にふりあてられた後  は,全て諸会社で自由に使いうるものとなる。

(7)政府の郵便は無料で運び,政府職員の運賃などには特権を与える義務を負うこと,即ち   ㈲ 官職にあるものは2等料金で1等に,

  (b}軍人やヨーロッパ技術者は拝撃料金で2等に,

  (c)他のものは最底料金で乗ることができ,

  (d}貨物の運搬の場合も,食料品や設備は最低の料金とする。      1

(8)鉄道会社が一般に鉄道の使用を弱るす場合は,政府の認可した期問,料金,運賃であるべきこと。

⑨ 99年間の期限終了時には,鉄道と不動産は全ての負債から解放されて政府の財産となる。そして,

 鉄道会社は政府に売却されることになり,政府は,全ての機関車,貨車その他の可動的な財,機械,

 鉄道施設を審査人(referees)によって評価された価額で買入することを義務ずけられる。

(1① 最:初25年或は次の50年間の期限後,政府は鉄道を買収する権利を持つ。その場合,当該会社の全

(6)

 ての証券や株式の価額への支払いは,買収日の前3年間のロンドンの平均市場価値によって計算さ  れる。

(11)諸会社は,また,鉄道線が少くとも3ケ月間稼働した後は,政府に鉄道を譲渡し,棄権する権利   (注15)

 を持つ。

 後の展開との関連でこの「契約」の次のような特色に注意を向けておきたい。一つは,

イギリス資本の投資条件が法外な有利さで設定された点についてである。争点となった保 証利子率5%は,当時のイギリス資本にとってアメリカへの投資などに比べれば最高の条 件ではなかったが,イギリス国内鉄道会社の配当率が下る傾向を持っていたG847年普通        (注16)

株7%,保証・優先株lL8%,1852年普通株3%,保証・優先株5.4%)事情を考えれば,

極めて好条件であったと考えられる。また,インドの悪条件のもとでの利益実現の可能性 からみれば,全く法外な率であったことはその後の状況が示している。

』二つは,鉄道会社の損失が当初から予定され,政府によるその損失負担があらかじあ制 度化された点である。保証利子は政府によってまず立て替えられ,もし鉄道会社が立ちい かなくなった時は政府がしかるべき値で買収に乗り出すという形で,イギリス資本の利益 は政府の負担において確保されることが制度化されたのである。後に述べるように,イン ド財政の支出項目は,公共事業支出項目の中に巨額の鉄道保証利子支払いの項目をこの時 以来持つことになる。ここで特に注意しておくべき点は,旧元利保証制鉄道会社という企業 形態或は鉄道政策は,インドにおける原料と市場のルートの早急な建設と投下された資本 の利益を確保するという,イギリス資本の当面の要求を優先し,その会社の採算,いわば       (注17)

企業の再生産は一応度外視されていたという事である

 三つは,インドの経済および民衆の利益は軽んじられたばかりでなく,上記のような施 策はインドの民衆の租税負担,主として地税一地代,アヘン収入,塩収入によって支えられ      (注18)

た点である。46頁の図1に示されているように,ユ849年以降インド財政の収入は急上昇し,

54年より支出の増大と共に更に著しい増大をみせている。57年以後の急激な支出の増大は,

云うまでもなく「大反乱(the Mutiny)」 (セポイの反乱)対策によるものであるが,

Lord Dalhousieの藩王国併合,軍事力増強,鉄道や電信の拡充,イギリスのための自由 貿易の推進,等を独善的な方法で強行する政策は,それまで蓄積された民衆の不満を一層 高め,分散的だった暴動を全面的な形にするのに大きな影響を与え,「大反乱」勃発の一 誘因をなしている。鉄道建設が,民衆の負担増大と民衆間の伝達手段の拡大の二面におい        (注19)

て,この誘因としての少からぬ役割を果たした事に注意を払っておきたい。

 上に述べて来たように,インド監督局はインドの鉄道会社の不可欠の構成要素であった が,それは必ずしも監督局の会社に対するリーダーシップが存在したことを意味しなかっ た。「実際は,鉄道会社はインド政庁のうまみのない決定に対して,Whiteha11のイギリス 政府に反対の訴えをすることができたのであり,また,:LondonのCityにおける彼等の

(7)

イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年〜1879年 25

インド鉄道地図(1882年)

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XXXXXXkX インダス蒸気フロティラ Beypore

1868年までに開通した 旧保証制鉄道会社線

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Bangalorg Mysore IV

 MADRAS Pondicherry Cuddalore Negapatam

Tinn6velly uticorin

I

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x

Eas亡Indian Ry.

εasセern Bengal Ry.

Calcu雛a & So吐h Eastern Ry.

Madras Ry.

Great Indian Penmsula Ry.

Bombay Baroda and Central India Ry.

Scinde Ry.

Punjab & Delhi Ry Indus Steam Flot111a Great S川them of India Ry.

N.Sanyal, OP. clt., P.3ユ, P.112より

       R.Dutt, op. cit, p 212, p 373より

      亀

       (注20)

本拠と共に,一大勢力を構成していった」ことに留意しなければならない。

 こうして,旧元利保証制鉄道会社による建設と開通が進められていくのであるが,この 旧元利保証制鉄道会社と呼ばれるものは表1の10社である。 (また上記の鉄道地図も参照 されたい。)そのうち幹線鉄道を中心とする4社と綿花地帯との関係を簡単に記しておこ

う。

(8)

表ユ旧元利保証制鉄道会社

A

i認可と 第一着工 開通マイ ノレ i1868年終1りに建設 1880

瓜   社   名 契約の }イ

N 部分の開ハの年 1858 1863 1868 障摩可[)コス

・.G一・㎞d㎞㎞融1 1849 53年4月 1941 553 875 乙  400 1.

2. East Indian      …  !      1 1849 54年8月 141 937 1353 147 2.

3.M。d,a,    ..■      1

1852 56年7月 95 447 678 185 1.

4. Bornbay Baroda and

@ Central India. 1855 ,60年2月 ● ● ● 185 305 78 1.

5. Scinde Punjab and Delhi. 1855 61年5月 曾 o o 150 408 266 1.

6. Eastern Benga1    … V. Great Southern of Irldia.

1858 (62年4月62年9月61年7月

::: 110

V9 114 P68

45 Q10

2.

8. Calcutta and Sollth East−

@ ern.

1859 62年1月 ・  o  . 28 28 ・ ・ ● 2.

9. Oudh      _ 1867 27 69 630

10. Carnatic      … 1870 o ・ ・ ● ● 9 19 80 計     … . , ・ ・  ・  9 430 2,156 4,017 2,041

1880年夏で1 マイル当りの コスト(ルビ     *

1.95,945 2.19,643 1.29,572 1.86,582 1.66,470 2.08,035

2.37,137

  9.10については,30〜31頁のような特別な事情があった。

  N.Sanyal, op. cit, p.35

*のみ,C. P. Tiwari, oP.cit, P.217.

1. The East Indian Railway Co.。

 Calcu七taを中心に,止e Uni士ed Provinces(連合州)の綿花地帯の中心Cownpore,更に  Delhiへ向う幹線やその周辺の支線。

2. The Great Indian Peninsula Railway Co..

 Bombayを中心に二方向へのびる幹線。一方は,インド最大の綿花地帯Berar地方,更に,Na−

 gpurへ向う線。他方は, Bombay Presidency(ボンベイ管区)南の綿花地帯中心地Sholapur  へ向う線。

3.The Madras Railway Co.

 Madrasを中心に,南下して綿花地帯を通りCoinbatoreへ至る幹線。

4.The Bombay Baroda and Central Indian Railway Co.

 Bombayを中心に, Kathiawar地方の綿花地帯へ接続するため北上し, Ahmedabadへ向う幹

(注21)

 これらの路線は,インドにおける大商業港Bombay, Calcutta, Madrasを起点に,綿 花地帯や軍事的重要地帯にのび,原綿や食糧,嗜好品などを港へ運び,同時にイギリス商       (注22)

品を内陸市場へ運ぶ,いわば「港市志向性」の構造を持っていたのである。

 また,鉄道の型をきめる軌間(gauge)は,イギリスや他の洗進諸国の標準4 8垂 り大きい5/6 (広軌)が採用された。それは,インド特有の強風対策上のバランスとエ ンジンの余力をつけるという理由が示されていたが,経済的にはより大きな負担と機材の

(9)

イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年〜1879年 2ワ イギリス従属を意味していた。また,後の狭軌採用への政策転換は一層インド鉄道の混乱       (注23)

と負担増を促進しイギリスへの機材等の従属を強めるのである。

 このような形で,1850年代の鉄道建設と開通が進められていくのであるが,それはイギ リスの資本家を満足させるような速さでは進行しなかった。そうした状況のもとで出現す る1857年のイギリスの恐慌と「大反乱」は,それ以後の鉄道建設の早急な拡充をイギリス 資本に要求させることになるのである。

 1840年代末から50年代前半に,資本主義はイギリスのみでなく,ヨーロッパ,アメリカ などの諸国でも,鉄道業,綿工業,鉄工業,石炭業などを基軸として,離陸を開始しつつ あった。その発展を基礎として世界の貿易は急速に増大し,イギリスの輸出もアメリカ向 けを中心に急上昇していた。カルフォルニア(1848〜49年)やオーストラリヤ(1851年)

の金鉱発見はそれらの状況を一層促進せしめるもめであった。そのような好況を,1854年 以降の後退をステップとして57年の恐慌に向わしめた諸要因は,イギリスに限って云えば,

次のようなものである。(1)イギリスの当時の主導産業綿工業は,54年以来の国内および先 進国市場充溢による不振を続けていたが,加えて,世界的綿花需要の拡大による原綿の不 足と価格騰貴,更に,増大しつつあったアジア市場,とりわけインド市場拡大の「大反        (注24)       /

乱」による頓挫(付表1),これらが一層綿工業を窮地へ追込んだ。この状況を直ちに崩 壊に直結させなかったのは信用の膨脹であった。(2)イギリスの信用制度に多かれ少かれ依 存していたアメリカにおける鉄道投機,土地投機,海外商業投機の崩壊にはじまる信用恐 慌(1857年9月)は,イギリス,次いで,既に好況末;期の不安定な状態にあったヨーロッ パへ波及した。(3)アメリカの恐慌の波及によるイギリスの信用崩壊(57年ll月)は,イギ       (注25)

リスの産業恐慌を一気に顕在化させ,主要商品の価格を暴落させた。

 この1857年のイギリスの恐慌は,40年代後半と同じように,イギリス綿業資本による原 料と市場のための鉄道建設推進の要求を再び噴出させるが,これと前後して勃発する「大 反乱」も,インド民衆の支配の徹底という点から,鉄道建設推進へ影響を与えるのである。

 セポイの反乱にはじまるインド全土での民衆の反乱は1857年6月から58年末頃まで続く のであるが,これを契機に,それまでの東インド会社取締役会とインド監督局とのいわゆ る二重統治機構は,5$年8月の「インド統治改善法the Act for the Better Government of India」によって,ヴィクトリア女王の直接支配の統治機構に一本化された。即ち,イ ンド担当国務大臣(the Secretary of State for India)一インド省が設けられ,同時に 15名からなる在ロンドンインド参事会(the Council of India)一女王指名による8名,

東インド会社取締役より7二一がこれを補整する制度が作られたが,国務大臣は特種な 事項以外は参事会の多数に反して事を行いうる強い権能を持っていた。また,インド総督       (注26)

は副王となった。このような機構変化は必ずしもインド支配の実質的な変化を意味したわ けではなかったのであるが,鉄道建設に関連して云えば,Lord Dalhousieの個人的採血 の色彩を持っていた,それまでの鉄道政策を,女王のもとでの政府,議会のおしす\める

(10)

より拡充した政策として展開させる契機をなしたと云えよう。そのような状況は,以下に 述べるように議会の委員会を通しての鉄道建設推進の要求に示されると共に,ロンドン での鉄道会社重役会とインド大臣との直接的接衝により,しばしばインド政庁の意見と勧       (注27)

告に反して会社優先の政策を強行しようとする事態を生み出していくのである。

 Manchester商工会議所と「綿花供給協会Cotton SupPly Association」は,1857年の 恐慌による企業困難の加重に対する重要な対応策として,「大反乱」の最中であるにも拘

らず,インド鉄道建設推進の要求を再び強力に開始する。彼等を主力とするイギリスの資 本家,商人の要請によって,1857−58年,「インド鉄道建設の遅れの原因を究明する下院 委員会」が設けられ,その遅れは,本国より遠く離れた事業への政府監督がむつかしいこ と,「反乱」や自然的条件の困難さ等に依るものであることがあげられ,更に次の点が強調 された。鉄道建設に必要な資本への保証利子は,この巨大で冒険的な事業に貨幣を導入す るには不可欠のものであった。だから,インドの財政を莫大な支出から守るためには,政 府の鉄道経営への充分な監督が要求される。それは株式保有者自身の利益にもなること

  (注28)

である,と。このような表明は,元利保証制による鉄道政策の議会による確認を意味し,

インド財政の窮迫(図1を参照)にも拘らず,その後のこの形での鉄道建設推進を方向づ 表2 インドの鉄道投資

一門元利保証制鉄道会社一

糧道会社の資本畑

1850−51  51−52  52−53  53−54  54−55  55−56  56−57  57−58  58−59  59−60 1860−61  61−62  62−63  63−64  64−65  65−66  66−67

*175,156  351,323  427,560  670,649 1,730,156 3,366,411 3,5=L5,100 3,423,068 5,492,108 7,171,464 7,578,715 6,602,212 5,863,344 4,755,653 4,122,240 5,636,866 7,297,703

*1850〜51年までの累計

 Third Report of the Royal Co−

mmission ApPointed to Inquire into the Depression of Trade and In−

dustry,Appendix B, Statement F,

by India Office,1885. PP.387〜8.

けるものであった。

 こうした状況の中で1858年秋,「綿花供給協 会」は,インドの運河や道路そして鉄道建設な どの建設費用として20万ポンドの国債発行を提 案し,最初のインド大臣:Lord Stanleyはこれ を実現しようと計る。しかし,インド政庁はこ れを拒否したのである。それは,主として,

「大反乱」のような緊急事態が起きているた め,そのような特定の限られた目的に国債発行       (注29)

を限定するのは困難だとみたからである。

 しかし,「大反乱」後の秩序維持とイギリス 綿業資本の執拗な要求に対応するため,鉄道建 設は促進されねばならなかった。そのために は,結局,従来の元利保証制による資本導入よ

り外に途はなかったのである。1859〜61年のイ ギリスからの鉄道投資は急増した。 (表2)

Lancashireなどの綿業資本は,この鉄道建設 に圧力をかげながら,自らこれに投資するには 5%の保証利子では妙味がないとみていた。こ れに投資した人々は,主に堅実で安全性を重ん

(11)

イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年〜1879年 29 じる中産階級投資家,即ち,未亡人,弁護士,牧師,未婚夫人,銀行家,退役軍人達や銀         (注30)

行,保険会社であった。

 このような元利保証制鉄道の投資と建設の増加は,インド政庁財政の保証利子負担の増 加に直結していた。産業の未発達と民衆の貧困という条件のもとで,しかも,輸送量拡大の ために料金を引き下げるといった方策に鉄道会社が抵抗する状況では,鉄道会社の純利益 が5%の利子をこえて上昇するどころか,付表2に示されているように,巨額の赤字の累積 が常態であった。また,利益計算が半年毎に行われたため,例えば,前半期に費用を少な くして保証利子をこえる会社利益分を稔出して取得し,後期に費用部分を集中して保証利        (注31)

子と赤字補填を政庁にゆだねるような放漫経営が行われていたのである。

 さらに,前述した「契約」に定められた固定為替レート1ルピー一1シリング10ペンス は,1856年以降変動レートの年平均が2シリング代(表3)になったため,保証利子支払 や借入返済をインドに割高にし,保証利子率はインド通貨では10%近くにさえなったので

 (注32)

ある。こうして,保証利子制は幾重にもイギリス資本の利益追求に利用され,そこに生み        表3 ルピーとポンドの為替レート       出された鉄道会社の赤字

睡鞠レー■ 年平均レート

1849〜50  50〜51

51〜52}

52〜53i  53〜54  54〜55

S.

2 2 1 2

].

d.

10・500 0・250 0・125 11・875 0・125 11・125

ユ855〜56  56〜57  57〜58  58〜60  60 61  61〜62

S.

2 2 2

d.

0・125 1・125 G。625

「反乱」のため停止 1 11・867 1 11・920   Third Report of the Royal Comrnission, op. cit,

 pp.387〜8。

道の拡大をインド財政を一層危機におとしいれるという理由で認めなかった。新設会社に        (注34)

ついては非保証制とし,代わりに補助金を出す政策を採用した。この形で後述する二つの会 社が出現する。このようなインド政庁の財政改善の動きは,インド総督Lord Canning の1859年の関税引上げ政策の導入,インド総督参事会財務委員J.Wilsonの1860年の所 得税導入,関税引上げ等のインド税制改革の形で本格的に展開された。CanningやWood,

Wilsonがイギリス綿業資本から激しく非難されたことは云うまでもない。殊に,アメリ カ南北戦争に伴うイギリス綿業の困難はインド綿花への要求を一層激しいものにして行き,

      (注35)

この圧力によって上記の政策路線は大きく後退し,1862年4月関税引下げが実現する。し かし,インド鉄道建設については,以下に述べるように,綿業資本の要求はインド大臣と インド政府の強い抵抗にあい,容易に進展しなかったのである。

 アメリカ南北戦争(1861〜65年)に伴う綿花飢僅と市場の急激な収縮は,イギリスに

「綿業恐慌(61〜63年)」をひきおこし,イギリス綿業資本のインド綿花と市場の要求に新 たな切迫さを加えた。この「綿業恐慌」はほぼ次のような諸要因によってひきおこされた。

は,インド政庁財政から の融資で埋められていた ため,投資の増加は財政 負担の増加に直結してい      (注33)

たのである。

 当時のインド大臣Sir Charles Woodは,1860

〜61年における保証制鉄

(12)

(1)1860年の綿業を中心とする好況は,海外市場の好調,殊にインド市場の拡大に依るとこ ろ大きかったが(表1),60年をピークとして61年には既に市場充溢による輸出停滞の段 階に入っていた。(2)その61年に南北戦争が勃発し,アメリカへの輸出(全体の約13%)が 激減する(61年のモリル関税の影響もあった)と共に,アメリカへ80%も依存していた原 綿(付表3)の価格が2倍以上に急騰した。③この原綿価格の高騰は,綿業の利潤減少と綿 製品価格高騰によるインド市場をはじめとする全ての市場の停滞を招き,綿業を恐慌へ導 いた。(4)更に,綿花への投機が上記の状況を促進した。しかし,綿業以外の産業の打撃は

ヨーロッパ市場の拡大等によって小さく,産業全体としては64年のピークに向って循環の 上昇過程の状況を呈する。(5)しかし,綿花を中心とする輸入急増に伴う銀貨流出防止のた め64年に:England銀行は公定歩合を引上げる。これの産業への影響はアメリカへの輸出 が回復し始めたこともあって軽いものであったが,景気の上昇を挫折させ66年恐慌への一       (注35)

つのステップをなした点は見逃せない。

 この「綿業恐慌」のインド鉄道建設への影響はどのようなものであったろうか。南北戦 争勃発の直前の1861年1月に,Manchester商工会議所は,再びアメリカへの大きな原綿 依存の危険性と持続の困難さを表明し,他の商工会議所や議会関係者の参加を求めた会議

を開いてインド開発促進の一大キャンペーンを開始する。このよな運動を背景に,Man−

chester商工会議所会頭はインド大臣Woodに,インドの交通機関の未開発が,港への原 綿輸送を阻んでいること,唯一の対策は早急な鉄道建設であり,これは個人企業では不可 能であるから,政府融資を3千万ポンドから4千万ポンドへ増額することなどを要請して いる。しかし,Sir Woodはインド財政の破産同様の状態と既に多額の融資が行われてい

るという理由でこの提案やその他類似の要請を受け容れようとはしなかった。そして,原 綿対策の力点は私的企業のリードによる当面の原綿栽培の拡充,原綿の質的向上を政府が 援助することに置かれ,鉄道建設や運河のような金のかかる長期開発事業は除外される形 で進められたのである。Manchester綿花供給協会を拠点とする綿業資本は,その程度の 対策では満足せず,土地所有制の改善を含むより抜本的対策を政府に要求し続けた。だが,

Sir Woodは,自由放任主義の原理を拠に原綿価格が上昇すれば自からインド綿花生産量 は上昇すると主張して,綿業資本の圧力に抵抗し,輸送手段の改善への政府の積極的な関       (注36)

与は抑制されたのである。とは云え,63年には彼の弾劾さえ主張し始めたLancashireの 圧力をかわすため,綿花地域と港を結ぶ道路と運河(Godavari河の開発による中央イン       (注37)

ド綿花地帯へのルートが重視されたが,結局中途で挫折する。)の開発に力が注がれた。

こうして,綿業資本の強い圧力にも拘らず,1867年までは旧元利保証制鉄道会社の新設は なかったのである。

 ただ,非保証制の次の二つの鉄道会社が認可され,補助金が融資された。

1.The工ndian Branch Railway Co.1862年認可,

 20年間年1,000ルピーの補助金。その他鉄橋への援助。

(13)

イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年〜1879年 31  軌間4 で,NalhatiからMurshidabadまで27マイルを1863年12月までに建設。 Cawnporeか  らLucknowまで64年より建設。

2.The Indian Tramway Co.1864年認可,1マイル当り年125ルピーの補助金。

  軌間3/6 で,ArkonamからConjeeveramまで18量マイル,64〜66年忌建設。

 しかし,これらは政府保証のない資金を充分に集めることが出来ず成功しなかった。結 局,この試みは放棄され,1は1867年忌The Oudh and Rohilkhand Railway Co.,2

は70年にThe Carnatic Railway Co.(74年にThe Great Southern Indian Railway Co.

に吸収された。)とい.うそれぞれ元利保証制会社に変わるのである。が,以前の保証制会 社への単なる逆戻りでなく,後者の保証制利子率は3%に下げられ,また,費用を節約す るため軌間が狭軌(4 8垂 以下)になっている。上記の非保証制の試み以後の一連の状況       (注38)

は,旧元利保証制鉄道会社から次の形態への過渡的状況とみることができよう。

 このように,1860年代は,鉄道会社の新設は少かったが,既設保証制鉄道会社の鉄道建 設続行のための投資(表1および表2)とそれによって累積するインド政庁の財政負担        (注39)

(付表2)はますます大きくなっていった。

 また,1860〜61年のNorth Western Provinces,65〜66年のOsrissa, Benga1,Madras       (注40)

などでの深刻な食糧飢謹は,その救済支出によって一層財政を悪化させた。尤も,飢謹対 策をすみやかにかつ抜本的に展開するには既に財政と行政組織の状況はあまりにも破局的 な状況にあった。また,この食糧飢謹は従来の悪い自然条件即ち凶作による食糧不足とは 違った性質の,イギリス帝国の直接支配による資本主義的な植民地政策に起因する部分の 比重を高めつつあったことに注意すべきである。つまり,市場,商業の発達,鉄道や道路 を主力とする交通手段の発達により,地方の穀物の基本的な部分が吸い上げられ輸出にま わされると共に,多くの食糧農地が綿花栽培に転化され,食糧価格は年々上昇していった。

更に,商人の投機的な在庫保持がこの事態を促進し,重層的な土地所有が要求する地代に 苦しむ民衆の上にこの食糧価格上昇がのしかかり飢饅においつめ,その範囲も拡大してい      (注41)

つたのである。鉄道建設は,飢鯉救済を一つの政策目標に掲げ,飢鯉時にその役割を果た したことも事実であるが,イギリスの利益を優先し,インドの実態を無視した交通手段の いびつな建設の在り方は,インド民衆にははるかに負担の方が大きく,二重,三重に植民 地的荒廃をひきおこす要因となったのである。

注(1}N.Sanya1,0P. cit, PP.3〜4.         ・

 ② 角山栄「19世紀イギリスの資本輸出と各国における鉄道建設一1つの序論的考察一」『経済   理論』 (和歌山大学)第127〜131合併号(1972年)98〜99頁。

 (3)N.Sanyal, op. cit, pp.4〜9,牧野博前掲論文,97頁,角山栄前掲論文17〜18頁。

 (4)C.P. Tiwari, oP・. cit, PP.205〜7.

 (5)P.Harnetty, Imeperialism and Free Trade::Lancashire and India in the mid一

(14)

 nineteenth century(Manchester University Press 1972)pp.77〜8.

(6)これらの点について詳しくは,藤川昌弘「1847年恐慌」『恐慌史研究』鈴木鴻一郎編(日本評  三社1973年)第二部。M. Tugan−Baranovsky, Studien zur Theoie und Geshichte  der Handelskrisen in England(Gustav Fischer 1901)SS.103〜120.三宅義夫『マルク  ス・エンゲルス,イギリス恐慌史論』上巻(大月書店ユ974年)第一編。

(7)吉岡昭彦編著『イギリス資本主義の確立』(御茶の水書房1968)U6〜119頁。

(8)K.Marx, The East India Company−lts history and results NθωY(派DαfJツ  丁訪観ε(July.11,1853)邦訳『マルクス・エンゲルス全集』9(大月書店1962年)148〜9

 頁。

(g) R.Dutt, op. cit, p.174.

(1① C.K. Hobson, The Export of Capital.(Corlstable.1914)P.118.

(11)J.H. Clapham, An Ecorlomic H:istory of Modern Bri七ain, The Early Railway  Age l820〜1850.(Cambridge U. P.1st. ed.1926,1959)PP.421〜3.

(12 C.P. Tiwari, oP. cit. P.1.

㈲ C。P. Tiwari, op. ci七. pp.2Q9〜10.

qのW.J. Macpherso11,0P. cit, P.177.

㈲ C.P. Tiwari, oP. cit. PP.211〜2.4のみD. Thorner, oP. cit. P.390.

(1③S.Broadbridge, Studies in Railway. Expansion and the Capital Market in  England 1825〜1873(Frank Cass 1970)pp.68〜9.

(1のWJ. Macpherson, oP. ci七, P.182.

      

⑬ 1853年時のインド財政の「純収入総額の約5分の3は地税収入であり,7分のユがアヘン収入,

 9分の1強が塩収入である。この三つの財源を合わせると,総収入の85%に達する。」K.Marx,

  The war quetion−Doings of Parliament−India エ〉伽yoブ々Dα吻7r∫ろ観e(Allg.

 5,1853)邦訳前掲書9,209頁。この時代のインドの租税とインド民衆の困窮との関係について  は,MarxのNεωyo漉DαfZッTr伽πθにおける多くのインド関係論説の迫力ある指摘を参照  されたい。特に「インドの租税」(マルクス・レーニン主義研究所でつけた表題)(July 23,

 ユ857)「インドにおける拷問について」(同)(Sep.17,1587)など。また,総合的な見地か  ら生き生きと歴史を伝えている,松井透稿『インド史』山本達郎編(山川出版社1960年)第四  章参照のこと。

(1㊥G.S. Chhabra, Advanced Study in the History of Modem India Vo1.∬(1813  〜1920)(Sharanjit.1962)PP.161〜2.「Lord Dalhousieの帝国主義的,攻撃的なインドで  の諸政策がなかったならば,1857年の反乱は起きなかったであろうという意見に同意するのは困  難だが,彼がこの国に来なかったならば,その反乱はかなりの時期遅れたであろうということは  全く疑う余地のないことである。」ibid. P.162.

⑳ D.Thorner, oP. cit, P.391.

(21)牧野博前掲論文に行届いた叙述がある。主要綿花地帯は,The Imperial Gazetteer of  India, The Indian Empire, Vo1.皿Economic(Oxford 1907)pp.44〜5.を参考とした。

(15)

イギリス資本主義経済の変動と植民地インドの鉄道建設 1844年〜1879年 33

⑫2)松井透前掲論文192頁。

(23)当初の計画での軌間は,418壱 であったが,当時急速な発展をみせていたイギリスのGreat  Western Railwayは7 であった。そこで,どちらを採用すべきかが問題になったのである。イ  ンド監督局の技術顧問W.Simonsは,機関車エンジンに余力ができることや強風対策として  横振れを少なくできる等の点から5 6 を採用した。東インド会社取締役会もこの意見であったが,

 :Lord Dalhousieは,6!を提案していた。結局,取締役会の意見に落着き,5 6 がインド鉄道  の標準的軌間となった。しかし,イギリス,ヨーロッパの軌間に比しての車輪径よりインドのそれ  は小さいため力のロスは22.5%にもなり,技術的にも経済的にもこの軌問はインドにとっては損  失であったと云われている。C. P.Tiwari, op. cit.pp.69〜71.

⑳ 1857年のインド商品輸入は前年に比べて増大している。しかし,これは「反乱」鎮圧軍用の羊  毛製品,機械製品の増大によるものと考えられ,綿糸,綿製品は激減した。

㈲ 1857年恐慌は資本主義史上はじめて真に世界的性格を持った恐慌として知られているが,詳細  については,松浦克己「産業循環の過程1850〜61年」r恐慌史研究』前掲書 第三部,三宅義夫  前掲書 第二編,特に253〜318頁。

(2θR.Dut七, op. cit, p.229.松井透,前掲書233頁。

佗7)C.P. Tiwari, oP. cit, P.100.

㈱ R.Dutt, oP. cit, P.177。

(2g P. Harnetty, oP. cit, P.61.

(3①P.Harnetty. oP. cit, P.61. W.J. Macpherson。 oP. cit, P.181.

(31)C.P. Tiwari, op. cit, p.230.

働K.C. Srinivasan, The Law and Theory of Railway Freight Rates(Madras 1928)

 P.102,C. P. Tiwari, oP. cit, P.296.

(33}C.P. Tiwari, op. cit, PP.213〜14.

(34)C.P. Tiwari, op. cit, p.214.

(35)K.Marx, The Bri七ish cotton trade N脚yor々Z)α∫ZツTr∫6観θ(Oct.14,1861).

  Bri七ish Commerce ibid.(:Nov.23,1861) Zur Baumwollkrise Die Presse,(Feb.

 8,1962).邦訳前掲『全集』15299〜302頁,335〜40頁,439〜41頁。Das Kapita1, Bd. I  SS.457〜g, SS.477〜g SS.599〜602. Bd.皿SS.138〜9.邦訳前掲『全集』23a,

 566〜9頁,593〜5頁.25a,162〜3頁

〔3③ P.Harnetty, op. cit, pp.38〜51.

(37) P.H:arnetty, op. cit, pp.63〜フ7.

(3別 C.P. Tiwari, op. cit, p.214〜6,

(鋤 角山栄前掲論文32〜33頁。

(40}B.M. Bhatia, Famines in India 1860〜1965(Asia Pllblishing Ho1ユse 1963)PP.59〜

 70.The Imperial Gajetteer of India, oP. cit, P.369.

(41)B.M. Bhatia, oP. cit, PP.9〜工0.

(16)

(3) インド政庁財政と政府鉄道の発展

 前節でふれたように,旧元利保証制鉄道会社による鉄道建i設の進展は,1860年半ばには,

様々な点から障害を顕在化しつつあった。インド政庁財政への負担はますます増大しつつ あったし,また,保証制鉄道会社の経営もますます困難の度を増しつつあった。開通した 路線からの運賃収入ののびは,高運賃とイギリス綿業資本への優遇などで極めて鈍く,利 子支払を越えることは容易でなかった。また,たとえ利益が上昇し始めても保証利子が先        (注1)

取されたためその会社の株価に反映せず,企業努力のモメントは大いに削がれた。こうし て,鉄道会社は,母国よりはるかに高給で雇われたイギリス人社員やその他のヨーロッパ 人社員と出資者に奉仕するだけの機関となりつつあり,私的企業としての活力を失い始め ていた。60年代に入り路線の開通は増加していったが,66〜67年以前に純利益率が保証利 子率5%を越えた会社は一つもなく,インド鉄道全体をとった純利益率は,54年一〇.22%,

       (注2)

59年一L31%,64年一L98%,69年一3.05%であった。従って,財政負担の軽減どころか,

融資回収の見込みも立たず,財政への依存を高める悪循環を累積する一方であったため,

インド政庁もこの制度による将来の実際的見通しを立てることができなくなっていったの である。

 1866年春,イギリスでは,南北戦争終結以後急激に増加したアメリカへの商品と資本の 輸出を主導とする好況が,Overend and Gurneyの支払い停止を契機に,1866年恐慌へ 向いつつあった。これによる打撃は,鉄鋼業や造船業等で大きく,綿業は輸出に支えられ て動揺は少なかったが,69年には逆に綿業で多くの破産が出現し,重工業は回復に向うと いった状況であった。しかし,1860年代後半のイギリスは,「綿業恐慌」による綿業の大 きな打撃からの回復基調とヨーロッパへの輸出増加によって,70年代初めの繁栄局面まで        (注3)

概して全産業において好調であった。

 この状況は,イギリスのインドへの経済的かかわり方にどのような影響を与えたであろ うか。1862年にイギリスのインドへの原綿輸入依存は75%にも達したが,南北戦争終結後 再び良質のアメリカ原綿の輸入は増加を続け,付表3のように,70年にインドからの輸入 は26%,70年代末には12%まで下降している。また,イギリスからインドへの輸出は,付 表4のように,66年恐慌から不況局面にかけて上昇し,69年のスエズ運河開通にも拘らず,

67年をピークにイギリスの景気上昇に伴って下降し,総輸出の中のインドの割合も減少し ている。前節でも述べたように,60年代前半まで,イギリスとインドとの間には,イギリ スの恐慌から不況局面には,「恐慌対策」の性質さえ持っていたインドからの原綿輸入割 合が増大し,同時に,インドへの輸出も増大する,好況局面へ進むに従ってその割合は減 少し,輸出も減少するというパターンが看取された。しかし,66年恐慌時以降,殊に70年 代に入ると,原綿輸入における上記のような関係は顕著ではなくなり,輸出においては尚 上記の関係がみられる形への変化が看取される。云いかえれば,イギリス資本のインド原

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1 要 点

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年次 1794/5 1798/9 1804/5 1809/10 1815/16 1820/21

(1) イギリスで18世紀後半から19世紀のはじめにかけて起こった革命。 産業革命