◎論説
中 国 婚 姻 法 五 十 年
回顧と展望巫昌禎
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中華人民共和国が成立して五〇年︑婚姻法は紆余曲折を
経ながら発展してきた︒
中国における婚姻家族制度の歴史
中国では紀元前約二千年に遡る夏代以来︑奴隷主貴族に
よる宗法等級制度が行なわれていた︒宗法制度とは︑奴隷
主階級が血縁の絆を通して同姓の貴族と結びつき︑皇帝を
大宗︑諸侯を小宗として大宗と小宗が巨大な宗族体系を築
く一方で︑異姓の貴族との結婚によって広範な親族ネット
ワークを形成するものである︒これは宗法に基づく家族組
織であり︑国家組織であった︒奴隷主階級はこのような宗
法制度を維持するために︑名目上多くの﹁礼﹂を設けた︒ またこの﹁礼﹂は法的性格を有していたため︑人々の社会
的行動規範を調整した︒﹁礼﹂の内容は主に﹁婚礼﹂と﹁家
礼﹂である︒﹁婚礼﹂とは︑嫁入りと嫁迎えの﹁礼﹂︑すな
わち結婚における﹁六礼﹂(納彩︑問名︑納吉︑納徴︑請
期︑親迎)をいい︑﹁家礼﹂とは︑冠︑葬︑祭等の﹁礼﹂を
さした︒
その後︑春秋戦国時代に封建社会へと移行してからは︑
封建統治階級は封建的宗法制度を維持するために奴隷社会
の礼制度を継承し発展させる一方で︑封建的法制度を大幅
に強化した︒例えば中国の封建社会において最も完備され
た法典とされる唐律では︑戸籍や婚姻家族関係等を調整し
た規範を第四編に列記して﹁戸婚﹂と名付け︑戸籍や土地︑
納税︑婚姻家族に関する主婚権や結婚の条件ならびに手順︑
中国婚姻 法五十年
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ム ﹁七出﹂や﹁義絶﹂等に対して具体的な規定を設けた︒
このように奴隷社会から封建社会にいたる時代において
は︑婚姻家族関係を調整した礼と法は︑その繋がりが非常
に密接であったため︑統治階級は一貫して礼を主とし法を
補とすることを主張した︒例えば︑礼において子が父母に
孝行することを説く一方で︑法律では扶養を怠った者に対
して処罰を定めた︒また礼の﹁七出﹂(﹁七棄﹂﹁七去﹂とも
いう︑一に子を生めない︑二に淫らである︑三に舅姑に従
順でない︑四におしゃべりである︑五に盗みをする︑六に
妬み深い︑七に治りにくい病をもつこと)に対応して︑法律
ハ ではこれを夫が妻を離縁できる条件とした︒すなわち婚姻
家族に関する立法は︑礼に基づいてなされていたといえる︒
さらに一八四〇年のアヘン戦争以降︑中国が帝国主義の
侵入をうけて次第に半植民地半封建社会へと転落していく
過程では︑封建的大家族制度が徐々に衰退して小家族制度
が発展し︑一部の若者や知識分子は自主的な結婚や恋愛結
婚を望むようになった︒しかし封建的な婚姻家族制度を支
えていた経済的基般皿には変化がなかったため︑社会全体か
らみれば封建的婚姻家族制度が依然として継続されていた︒
また立法においても︑当時の統治階級は改良主義的立場を
とって旧来の婚姻家族制度には触れないことを原則とした
ため︑資産階級国家の親族法がほぼそのまま踏襲された︒
ただしこの時期には︑異なる分野の法律を合体させるとい う方式はすでに行なわれておらず︑婚姻家族関係を調整し
た法律は民法に分類されてその一部とされた︒例えぼ一九
三〇年の国民党政府の民法では︑親族は第四篇にまとめら
ム れている︒
総じていえば︑旧中国では封建的婚姻家族制度が依然と
して行なわれていたといえ︑その基本的特徴は︑以下の三
点にまとめられる︒
I親や親族が決める強制的な婚姻
ー婚姻の自由の欠如
奴隷社会や封建社会︑半植民地半封建社会では︑婚姻の
締結や解消に関して当事者には全く自由がなかった︒
婚姻の締結については︑﹁父母の命︑媒酌の言﹂が合法的
な形式であった︒﹁父母の命﹂とは婚姻の決定権が父母にあ
ることをいうが︑それは男性中心の宗法社会においては︑
実質的には宗族長の命令を意味した︒﹁媒酌の言﹂とは︑婚
姻の締結過程では媒酌を通じてすべてを行なうことをいう︒
﹁父母の命︑媒酌の言﹂は︑本来は礼制から発したもので
あったが︑後に統治階級によって法律とされた︒例えば唐
律の規定では﹁婚姻はすべて祖父母や父母がとりしきり︑
バヨ 祖父母や父母のいない者は余親が行なう﹂とある︒﹁余親﹂
とは祖父母や父母以外の宗族内の親族であり︑﹁伯︑叔︑兄﹂(父の兄や弟︑宗族内の目上の男性)などをさす︒
jag
婚姻の解消においても同様に自由がなかった︒旧中国で
は︑夫は妻を離縁する権利を有したが︑妻は﹁従一而終﹂(節を守り再婚しない)であった︒﹃礼記﹄昏義篇には﹁婚
礼なる者は将に二姓の好ましきを合し︑上は以て宗廟を祀
り︑下は以て後世に継がんとする者なり﹂とある︒すなわ
ち婚姻の締結は両姓(両家)の合意によって決定され︑そ
の目的は宗族の継承にあるとする︒よって婚姻の締結にお
いて考慮すべきことは﹁門当戸対﹂(家柄がつりあうこと)
であり︑当事者の意向は顧みられなかった︒
口男尊女卑‑野蛮な一夫多妻制
封建社会では︑男性による統治を核とした宗法制度を維
持するために︑統治階級は一貫して﹁男女に別あり﹂(男と
女では守り従うべき礼式に区別がある)を主張してきた︒
では︑その﹁別﹂とは何であろうか︒それは男尊女卑であ
り︑男性が主で女性は従︑男性は天で女性は地︑男性は陽
で女性は陰である︒すなわち﹁夫為妻綱﹂は封建倫理の
ヨね﹁綱常﹂の重要な一部であり︑﹁君為臣綱﹂﹁父為子綱﹂とと
もに﹁三綱﹂とされ︑封建社会の縮図でもあった︒
封建社会の礼教では︑婦教や婦道に関わる内容は非常に
広範であり︑錯綜している︒総じていえばその思想は︑男
性が女性を統治し︑女性が男性に服従することである︒﹁三
従四徳﹂(コニ従﹂とは幼い頃は父に従い︑嫁いでからは夫 に従い︑夫が死んだ後は子に従うこと︒﹁四徳﹂は婦徳︑婦
言︑婦容︑婦功を指す)はまさにそれを証明するものであ
る︒封建社会の礼教のもとでは︑法律も男尊女卑を極力擁
護しており︑具体的には家庭生活における夫婦間の地位の極
端な不平等に表われている︒封建社会の法律の規定によれ
ば︑女性(妻)には人身権も財産権もなく︑完全に夫に頼るだ
けの何の権利も持たない存在である︒また妻は一人しか許
されなかったが︑妾の数に制限はなかった︒法律の解釈に
よれば︑妾を持つことは婚姻ではなく︑よって禁ずる必要は
ないとされた︒このように封建社会の一夫一妻制は︑実は
一夫一妻多妾制を特徴とする一夫多妻制であったといえる︒
日家父長制‑子女の権益の軽視
家父長制は封建的婚姻家庭制度の核心である︒それは小
農制経済の産物であり︑封建君主専制を反映するものであ
り︑宗法制度の必然的要求である︒封建社会では︑国家か
ら家庭にいたるまで家父長制統治が行なわれた︒家長は家
庭において最高権力を有し︑その権力は独占的で不可分で
ある︒封建社会の礼法によれば︑家庭内では子は父に従い︑
弟は兄に従い︑妻は夫に従う︑よって家族はみな必ず家長
おおもとに従う︒﹁父は子の綱為り﹂とは父母と子女との関係を規
定する原則であり︑子女は無権の存在である︒
このように︑父母の決定による強制的な婚姻や男尊女卑︑
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子女の権益の軽視は封建社会の婚姻家族制度を構成する三
つの重要な部分であり︑その基本的な特徴でもある︒このよ
うな婚姻家族制度は封建主義国家制度の派生物であり︑旧
中国では数千年もの間延々と続けられてきた︒よってこの
ような野蛮で生産力の発展を妨げる婚姻家族制度を改革す
ることは︑革命の事業のなかでも重要な任務の一つである︒
一九五〇年婚姻法の基本精神
新中国の婚姻家族に関する立法には︑自国の歴史的伝統
や鮮明な社会主義の本質的特性がみられる︒すでに建国以
前の革命根拠地時代に︑中国共産党に指導された民主政権
は婚姻家族に関する法制を作成し始め︑一九三四年から一
九四九年までに﹁中華ソビエト共和国婚姻法﹂や﹁陳西甘
粛寧夏回族自治区婚姻条例﹂︑﹁山西西北地域婚姻臨時条例﹂︑
﹁山西河北察吟ホ婚姻条例﹂︑﹁山東省婚姻臨時修正条例﹂等
ム が相継いで公布された︒これらの法律はすべて封建主義的
婚姻家族制度を廃止し︑新民主主義的婚姻家族制度を実施
することを基本理念とした︒またそれらは婚姻関係の調整
が主な内容であったため︑婚姻法という名称が用いられた︒
これらの法律は革命根拠地における婚姻家族制度の改革を
大きく進め︑新中国における婚姻家族法立法のための貴重
な経験となった︒ 9一九五〇年婚姻法の公布
中華人民共和国成立後︑一連の重要な社会改革が進めら
れたが︑婚姻家族制度の改革もその一つである︒
建国初期︑歴史的に踏襲されてきた封建主義的婚姻家族
制度はまだ全国的には廃止に至っておらず︑強制的売買婚
や婦女虐待などの事件が日常的に発生していた︒各地の司
法機関で受理された事件には︑婚姻に関する案件が最も多
かった︒例えば山西省五台等県の民事事件は大半が婚姻案
件であり︑夫や姑の虐待に耐えられない︑強制的売買婚に
不満があるなどの案件が全体の三分の二以上を占めていた︒
特に封建主義的婚姻家族制度によって迫害されて死んだ女
性の事件は非常に深刻であった︒このほか早婚や﹁童養嬉﹂
などの悪習が依然として存在した︒よってこのような状況
にあって封建的婚姻家族制度に対して根本的な改革がなさ
れなかったら︑それは必ず全国の人民とりわけ女性の革命
や建設に対する積極性に重大な影響をおよぼすと考えられ
た︒そのため建国前夜に公布された臨時憲法の﹁共同綱領﹂
には︑﹁中華人民共和国は女性を束縛する封建制度を廃止
し︑女性は政治︑経済︑文化教育︑社会生活の各方面にお
いて︑男性と平等の権利を有する︒男女は婚姻の自由を実
行する﹂﹁母親や嬰児︑児童の健康の保護に注意する﹂と明
バ 確に述べられている︒続いて一九五〇年五月一日には八章