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蒙古軍政府 の研究

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蒙古軍政府 の研究

森 久 男

は じめ に

1関 東 軍 の 内蒙 古 独 立 計 画 II察 東 特 別 自治 区 III蒙 古 自治 運 動 IV蒙 古軍 政 府

(1)察 恰 爾 盟 公 署 の成 立

蒙古 軍 総 司 令部(蒙 古軍 政 府)の 成立 (3)蒙 古 軍 の 編 成

(4)財 政 ・経 済 政策 V綴 遠 省へ の 進 出

(1)綴 遠 事 件

察a爾 作 戦 (3)蒙 彊政 権 の成 立

む す び

は じ め に

本 稿 の 課 題 は,将 来,蒙 彊 政 権(関 東 軍 の 内蒙 工 作)に つ い て 本 格 的 研 究 を お こ な うた め の 予 備 作 業 と して,蒙 彊 政 権 の 前 身 で あ る蒙 古 軍 政 府 の 全 体 像 を 描 き出 す こ とに あ る。 従 来,蒙 古 軍 政 府 に つ い て は,日 中 戦 争 史 研 究 の 中 で,関 東 軍 に よ る華 北 分 離 工 作 ・内 蒙 工 作 につ い て触 れ る 際,付

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随 的 に 論 じ られ る こ とが 多 い が,本 稿 で は,日 中政 治 関 係 史 の 叙 述 を 最 小 限 に 止 め,関 東 軍 に よ る{鬼偶 政 権 樹 立 工 作 に重 点 を 置 い て 考 察 を す す め る 。

蒙 彊 政 権 の研 究 に お い て,日 本 語 ・中 国 語 両 方 の 資 料 を 用 い な け れ ぽ, 到 底 十 分 な考 察 は で きな い 。 そ こで,本 稿 で は,日 本 側 ・中 国側(蒙 古 側) の 資 料 を 比 較 ・対 照 しな が ら考 察 を す す め る。 関 東 軍 の 内蒙 工 作 ・蒙 古 軍 政 府 の 研 究 をす す め る際,確 実 な 一 次 資 料 が 乏 し く,当 事 者 の 回 想 録 を 多 用 せ ざ るを 得 な い と い う資 料 上 の制 約 が あ り,と くに 人 名 ・地 名 ・日時 で 不 確 か な 場 合 が多 い の で,で き る だ け これ ら の情 報 を 詳 し く記 す よ うに 努 め る。

資 料 の 引 用 にあ た って は,原 文 の 記 述 の 誤 りを随 時 訂 正 しな が ら利 用 す る が,紙 数 の都 合 上,訂 正 個 所 は原 則 と して 注 記 しな い 。 ま た,す べ て の 利 用 資 料 を 紹 介 す る と,あ ま りに も煩 雑 に な るの で,代 表 的 文 献 の み を 注 記 す るに 止 め る。 資 料 利 用 上 の 問題 点 につ い て は,将 来 発 表 を予 定 し て い る各 論 で 詳 細 に考 証 す る こ と に した い 。 本 稿 の 内 容 は既 存 の 研 究 文 献 と比 べ て,か な りの 異 同 が あ るが,こ の 点 も 同様 の 理 由 に よ り,一 切 そ の 根 拠 を 明 示 せ ず,結 論 の み を簡 潔 に記 す こ とに した い 。

1関 東軍の内蒙古独立計画

関 東 軍 の 内 蒙工 作 の 発 端 は1933年 春 の 熱 河 作 戦 で,当 初 の 意 図 は満 州 国 の 新 版 図(熱 河 地 方)と 中 国 察 恰 爾 省 東 部 との 隣接 国 境 地 帯 の 安 定 化 に あ っ た 。 初 期 内蒙 工 作 の 契 機 とな った の は,東 北 軍 の 湯 玉 麟 軍 崔 興 武 騎 兵 十 七 旅(の ち,李 守 信 軍)の 投 降 工 作 で,5月 初 旬 の 李 守 信 軍 の 察 恰 爾 省 多 倫 へ の 進 出 に よ り本 格 化 す る。 関 東 軍 参 謀 長 「関 電 第 五 四五 号 」(1933年5月

5日)1)は,李 守信 軍 の 多 倫 進 出 後 の 内 蒙 工 作 の 意 図 を,「 爾 後 同 軍 ヲ指 導 シ,既 定 ノ方 針 二基 キ察 吟 爾 東 境 一 帯 二親 日満 勢 力 ヲ扶 植 シ,以 テ反 動 勢 力 二 対 ス ル緩 衝 地 帯 タ ラシ ムル ト共 二,逐 次 其 勢 力 ヲ烏 珠 穆 沁 方 面 二拡 張 セ シ メ 〜」 と説 明 し,そ の現 地 指 導 機 関 と して,多 倫 特 務 機 関 の 設 置 を予

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定 して い る。

関 東 軍 参 謀 部 「暫 行 蒙 古 人 指 導 方 針 要 綱 案 」(1933年7月16日)2)は,初 期 内 蒙 工 作(察 吟 爾 工 作)の 方 針 と して,「 主 と して平 和 的 文 化 工 作,特 経 済 的 関 係 の 連 鎖 に依 り,自 発 的 に親 満 に 導 き,遂 に不 可 分 の 関 係 を生 ぜ しむ る如 く指 導 す る を 要 す 。 之 が 為 対 支 排 撃 の 色 彩 を有 す る 自治 政 権 の樹 立 を 促 進 す 」と述 べ て い る。 熱 河 作 戦 後,関 東 軍 は全 兵 力 を 分 散 配 置 して, 満 州 国 内 の 討 伐 作 戦 に 従 事 して お り,将 来 の塊 偶 政 権樹 立 を視 野 に 入 れ な が ら,当 面 の施 策 の 重 点 を満 州 国 と察 恰 爾 省 と の 隣 接 国 境 地 帯 の 安 定 確 保 (抗 日運 動 の粛 正)に 置 い て いた 。 当 時 の 内 蒙 工 作 は お も に満 州 国 内 の 東 部 内蒙 古 の安 定 化 を 志 向 し,関 東 軍 は 全 体 と し て 消 極 的 な 内蒙 工 作 の 方 針

を採 用 し て い た 。

熱 河 作 戦 に 先 立 ち,参 謀 本 部 支 那 課 長 酒 井 隆 大 佐 の 指 示 に よ り関 東 軍 司 令 部 に 赴 任 した 松 室 孝 良大 佐 は,内 蒙 工 作 の 責 任 者 とし て,1933年4月 承 徳 特 務 機 関 長 に就 任 した 。松 室 大 佐 の 蒙 古 独 立 計 画 は,「蒙 古 国建 設 に関 す る意 見 」(1933年10月)3》 で 詳 細 に展 開 され て い る。す なわ ち,「 蒙 古 国 は 満 州 国 の 姉 妹 国 」 と して 建 設 す る もの で,満 州 国建 設 に要 し た よ うに 多 くの 兵 力 を 動 か す 必 要 が な く,三 年 の準 備 期 間 で 蒙 古 国建 設 が 可 能 で あ る と想 定 して い る。 蒙 古 国 の 建 国 予 定 地(西 部 内 蒙 古)に は 二 案 が あ り,第 一 案 で は

,錫 林 郭 勒 盟 ・察 吟 爾 八 旗 ・烏 蘭 札 布 盟 ・伊 克 昭 盟 ・帰 化 城 土 黙 特 部 等 の 地 域 を,第 二 案 で は,第 一 案 の領 域 に加 え て,内 長 城 線 以 北(察 恰 爾 省 口北 道 ・山 西 省雁 門 道)を 含 む 地 域 を 予 定 して い る。

そ の後,松 室 大 佐 は 「満 州 国 隣 接 地 方 占領 地 統 治 案 」(1934年2月)4⊃ 中 で,日 ソ開 戦 の 際,日 本 軍 の 作 戦 に必 要 な 察 恰 爾省 北 部 ・外 蒙 古 を軍 事 占領 して,こ れ を統 治 す る の に 必 要 な政 治工 作 に つ い て論 及 し,中 国 に 対 し て,万 里 の 長 城 以 北 へ の 政 治 的 干 渉 を 許 さず,外 蒙 古 全 域 に統 治 区 域 を 拡 張 し,さ らに全 蒙 古 を 独 立 させ る場 合 を 想 定 し て い る。 将 来 の 政 権 構 想 と して は,「 内 蒙 古 を して 中 華 民 国 の,外 蒙 古 を して 蘇 国 の覇 絆 よ り脱 し, 親 日満 に 転 向 せ しめ 」,自治 政 権 の 樹 立 を 目指 して い る。関 東 軍 は こ の急 進

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的 な蒙 古 国建 設 計 画 に 危 惧 の 念 を 抱 き,1934年2月 に松 室 大 佐 を 斉 々恰 爾 機 関 長 に 左 遷 して い る。 松 室 大 佐 の 蒙 古 国 建 設 計 画 は 関 東 軍 に よ って 否 定 され た が,1935年 以 降 の 関 東 軍 自身 に よ る 積 極 的 な 内蒙 工 作(察 東 事 件, 繧 遠 事 件,蒙 彊 政権 の樹 立)を 展 望 す る時,そ の 構 想 は恐 るべ き正 確 さで 将 来 を 見 通 して い た の で あ る。

関 東 軍 参 謀 部 「対 察 施 策 」(1934年1月24日)5)は,満 州 国 に住 む 蒙 古 人 の 離 反 傾 向 を 懸 念 し て,蒙 古 独 立 に消 極 的 で あ った 。 しか し,察 恰 爾 省 に 対 して は,「昭 和 八年 七 月 十 六 日決 定 せ し軍 の既 定 方 針 に 基 き工 作 を 進 む る の 外 」,将 来,察 東 ・錫 林 郭 勒 盟 を 満 州 国 と経 済 的 に 密 接 不 可 分 な 行 政 地 域 に して,満 州 国 統 治 と国 防 を 容 易 に し,華 北 ・外 蒙 古 に対 す る諸 地 域 とす る予 定 で あ った 。 し か し,内 蒙 工 作 の 実 施 方 法 と して は,「 国 際 の情 勢 を 無 視 して 露 骨 な る工 作 に 走 り,内 外 の視 聴 を 惹 くが 如 き急 進 的 施 策 の 実 施 は 厳 に 戒 む る を要 す 」と釘 を 刺 しつ つ,「 其 主 眼 は 主 と して経 済 的 文 化 的 施 策 に よ り,同 地 方 蒙 民 を して 不 知 不 識 の 間 附 満 親 日た ら しむ る に あ る」 と述 べ て い る。 将 来 の 目標 と して は,施 策 範 囲 を さ ら に西 方 に 拡 張 す る こ と を 考 慮 し て,所 要 の 軍 政 工 作 を 隠 密 裡 に す す め,そ の 際 の 主 要 な工 作 対 象 と

して,李 守 信 軍 を 予 定 して い る。

満 州 国 内 の 治 安 が 確 立 す る につ れ て,関 東 軍 は 華 北 ・西 部 内蒙 古 へ の 野 心 を 強 め て い った 。1935年1月,関 東 軍 は大 連 会 議 を 召 集 し て,華 北 分 離 工 作 ・内 蒙 工 作 を 積 極 的 に 推 進 す る方 針 を 決 定 した 。 関 東 軍 参 謀 部 「対 内 蒙 施 策 要 領 」(1935年7月25日)6}は,内 蒙 工 作 の 方 針 と して,「 親 日満 区 域 の 拡 大 強 化 を 図 り,北 支 工 作 進 展 に 伴 ひ 内 蒙 を して 中 央 よ り 自立 す る に 至 ら しむ 」 とそ の 意 図 を 明 確 化 し,施 策 の 重 点 を 多 倫 ・西 蘇 尼 特 方 面 に志 向 し て い る。 そ の 際,政 治 的 ・軍 事 的 施 策 は 関 東 軍 が担 当 し,文 化 的 ・経 済 的 施 策 は 満 州 国 機 関 ・満 鉄 ・そ の 他 の民 間 機 関 を利 用 す る こ と と し,政

治工 作 の 面 で は,土 肥 原 ・秦 徳 純 協 定 の履 行 問 題(保 安 隊 の 配 置 問 題),対 傅 作 義 工 作,蒙 古 自治 政 府 の 育 成 とそ の対 中 央 離 反 工 作 を 予 定 して い る。

と くに察 吟 爾 保 安 隊 問 題 に つ い て は,多 倫 ・張 家 口 ・西 蘇 尼 特 の 各 特 務 機

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関 が 厳 重 に そ の実 行 を 監督 ・強 要 す る と主 張 し て い る。 内 蒙 工 作 の対 象 と して は,徳 王(徳 穆 楚 克 棟 魯 普)・ 卓 世 海(卓 特 巴 札 布)・ 李 守 信 の三 者 を 結 合 して 工 作 を す す め る基 本 構 想 を 明 ら か に し,さ らに 外 蒙 古 の活 仏 デ ロ

ワ(廼 魯 瓦 呼 圖 克 圖)を これ に合 流 させ る こ と に して い る。

陸 軍 中 央 部 は 関 東 軍 の 独 走 を牽 制 して,軍 務 局 長 「北 支 及 内蒙 に 対 す る 中央 部 の 指 導 」(1935年8月28日)7)を 示 し,華 北 政 策 の 一 般 方 針 と して,

「天 津 軍 の 立 場 も充 分 尊 重 」 し,「 外 務 側 を も充 分 活 動 せ しむ る」よ う注 意 を 促 し,対 内 蒙 施 策 に つ い て は,「依 然 従 来 の 方 針 を堅 持 し,独 立 政 権 の樹 立 の 如 きは 寧 ろ之 を 急 ぐの要 な か るべ く,現 下 の 情 勢 に於 て は,主 と して 文 化 経 済 工 作 に重 点 を志 向 し,其 目的 を達 成 す る こ と可 な りと認 め あ り」

と主 張 して い る 。

しか し,関 東 軍 は そ の後 も華 北 分 離 工 作 ・内 蒙 工 作 を 積 極 的 に推 進 し, 1935年12月 に翼 察 政 権 を樹 立 す る と と もに,察 東 事 件 を 引 き起 こ して,李 守 信 軍 を 外 長 城 線 以 北 の 口北 六 県 に進 駐 させ,1936年1月 か ら察 北 で{鬼偶 政 権(蒙 古 軍 政 府)の 樹 立 工 作 を本 格 化 し,さ ら に繧 遠 省 へ の進 出 を 予 定

して い た 。

関 東 軍 参 謀 部 .「対 蒙(西 北)施 策 要 領 」(1936年1月)8)は,「 北 支工 作 の 進 展 に 伴 ひ,内 蒙 を して 中 央 よ り分 離 自立 す る に 至 ら しむ 」 とい う方 針 の 下 で,施 策 の 重 点 を軍 政 府 の管 轄 区 域 内(察 吟 爾 盟)の 重 要 部 門 の 整 備 に 置 き,こ れ を 根 拠 地 と して 繧 遠 に勢 力 を 扶 植 し,さ ら に外 蒙 古 ・青 海 ・新 彊 ・西 蔵 等 へ と拡 大 し よ う と企 図 して い る。 軍 政 府 の 管 轄 区 域 は,当 面, 錫 林 郭 勒 盟 ・察 吟 爾 盟 ・伊 克 昭 盟 ・阿 拉 善 旗 を 予 定 し,察 恰 爾 盟 以 外 の 行

政 組 織 は漸 次 整 備 す る こ とに して い る。 蒙 政 会(国 民 政 府 直 轄 の 内 蒙 自治 組 織)に つ い て は,対 外 的 考 慮 か ら,た だ ち に 解 消 は せ ず,お もに 対 中 国 交 渉 機 関 と して一 定 期 間 存 続 させ る こ と と し,さ らに 傅 作 義 懐 柔 工 作 につ い て 論 及 して い る。

陸 軍 中 央 部 「第 一 次北 支 処 理 要 綱 」(1936年1月13日)9)は,関 東 軍 に よ る越 権 的 な 華 北 分 離 工 作 を禁 止 し,そ の 施 策 範 囲 を外 長 城 線 以 北 に 限 定 す

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る と と もに,察 吟 爾 右 翼 四 旗 へ の進 出 を 禁 止 して い る。 関 東 軍 の 綬 遠 進 出 計 画 に 対 して,陸 軍 中 央 部 は「対 内蒙 施 策 実 施 要 領 」1°》を 指 示 し,関 東 軍 の 内蒙 施 策 の 範 囲 を 当 分 の 間 錫 林 郭 勒 盟 ・察 吟 爾 盟 ・烏 蘭 札 布 盟,可 能 な 場 合 は 阿拉 善 旗 を 含 む 地 域 と し,こ れ ら地 域 を 国 民 政 府 の 実 質 的 政 令 の 及 ぼ な い よ うに す る こ とを 目標 と しな が ら,実 際 の工 作 区 分 と し て は,「繧 遠 省 南 部(察 吟 爾 転 属 四 旗,土 黙 特 旗 及 伊 盟)並 寧 夏 方 面 に 対 す る施 策 は 北 支 工 作 との 関 係 等 に 鑑 み,主 と して支 那 駐 屯 軍 之 に 任 ず る も の とす 」と定 め, 関 東 軍 の 介 入 を禁 止 し て い る。

1)「 日中 戦 争e」 現 代 史 資 料8,み す ず 書 房,1964年,444頁 2)同 上 書,447〜448頁

3)同 上 書,449〜464頁 4)同 上 書,472〜485頁 5)同 上 書,468〜471頁 6)同 上 書,492〜500頁 7)同 上 書,501頁 8)同 上 書,540〜546頁 9)同 上 書,349〜350頁 10)同 上 書,547頁

II察 東 特 別 自 治 区

1933年2月14日,新 京 で 関 東 軍 情 報 主 任 者 会 議 が 開 催 さ れ,斎 藤 弥 平 太 第 一 課 長 ・喜 多 誠 一 第 二 課 長 は松 室 大 佐 に対 して,熱 河 作 戦 の 前 に 開 魯 ・ 林 西 地 区 に 駐 屯 す る 東 北 軍(湯 玉 麟 軍 ・劉 桂 堂 軍 等)の 切 り崩 しを 命 令 し た 。 松 室 大 佐 の 区 処 の下,通 遼 機 関 長 田 中 久 少 佐 ・錦 州 機 関 長 松 井 源 之 助 中 佐 が帰 順 工 作 に あ た っ た1)。

こ の頃,崔 興 武 騎 兵 十 七 旅 の李 守 信 団 長(連 隊 長)は 通 遼 機 関 長 田中 久 少 佐 を訪 ね て,旅 団 長 崔 興 武 の投 降 の 意 を伝 え た 。2月 下 旬,熱 河 作 戦 が

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開 始 さ れ た が,東 北 軍 に は戦 意 が な く,関 東 軍 は3月2日 に赤 峰 を,4日 に 承 徳 を 占領 した 。25日,崔 興 武 は下 野 し,陳 宝 泉 参 謀 長 ・劉 継 広 団長 ・ ヲ}宝山 団 長 等 の 要 請 で 李 守 信 が 旅 団 長 に就 任 し た 。4月 初 旬,赤 峰 機 関長

田 中 久 少 佐 は李 守 信 を 興 安 遊 撃 師 の司 令 に任 命 し,部 隊 は20日 余 の 休 養 ・ 整 備 を お こな った 。 この 間,李 守 信 の 部 隊 は2000人 か ら8000人 に 膨 張 し, 漢 族 の 二 支 隊(6300人),蒙 古 人 の 一 支 隊(1700人)が 編 成 され た 。 李 守 信 は 満 州 国 中 将 に 就 任 した が,他 の将 兵 は 満 州 国 軍 に 収 編 され ず,漢 人 部 隊 は 謀 略 部 隊 と して 察 恰 爾 省 多 倫 へ の進 出 を 命 じ られ た 。 蒙 古 人 部 隊 は林 西 守 備 の 留 守 部 隊 と して 残 留 した2》

5月 初 旬,興 安 遊 撃 師 は 多 倫 に 到着 し,先 に 同 地 に進 出 して い た 劉 桂 堂 軍 と小 競 り合 い が 生 じた が,同 月 末 劉 桂 堂 軍 は 多 倫 を去 った 。 そ の後,興 安 遊 撃 師 はL玉 祥 の抗 日同 盟 軍(吉 鴻 昌 軍)の 反 撃 に あ っ て,7月11日 多 倫 を 放 棄 し,囲 城 に 後 退 した が,1ヵ 月後 ふ た た び 多 倫 を 回 復 した。 多 倫 攻 防 戦 の最 中,第 三 支 隊 の 烏 古 廷 は蒙 古 人 部 隊 を 率 い て 満 州 国 興 安 軍 に 身 を 投 じた。 多 倫 奪 還 後,興 安 遊 撃 師 は察 東 警 備 軍 と改 称 され,多 倫 県 は 察 東 特 別 自治 区 と 称 して,国 民 政 府 の 支 配 権 が 及 ば な い 特 殊 地 域 とな っ た3》

1933年6月,関 東 軍 は 多 倫 特 務 機 関 を 開 設 し,浅 田 弥 五 郎 少 佐 が 機 関 長 に 就 任 した 。8月,西 烏 珠 穆 沁 特 務 機 関 が 開 設 され,民 間 人 の 盛 島 角 房 機 関 長 の 下 で,錫 林 郭 勒 盟 長 索 王(索 諾 木 拉 布 坦)へ の 工 作 を 開 始 した 。 当 時,関 東 軍 は 副 盟 長 徳 王 を あ ま り重 視 して い な か った 。12月,多 倫 特 務 機 関 長 は 浅 田少 佐 か ら宍 浦 直 徳 大 尉 に 交 代 した 。1934年5月 末,宍 浦 大 尉 は 西 烏 珠 穆 沁 特 務 機 関 長 に 転 出 した。 この 頃,盛 島 機 関 が 貝 子 廟 方 面 に進 出 し,ア パ カ特 務 機 関 と称 した 。8月,張 家 口特 務 機 関 が 開 設 さ れ,松 井 源 之 助 中 佐 が機 関 長 に就 任 した 。

熱 河 作 戦 後,満 州 国 と察 吟 爾 省 との 隣 接 国 境 地 帯 で 抗 日運 動 が 活 発 化 し た。1934年10月 に 第 一 次 張 北 事 件 が,12月 末 に 第 一 次 熱 西 事 件 が 発 生 し, 1935年6月 に は 第 二 次 張 北 事 件,第 二 次 熱 西 事 件 が 相 次 ぎ,日 本 軍 は 中国

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側 に強 硬 な 抗 議 を お こな った 。6月18日,察 吟 爾 省 主 席 宋 哲 元 が 更 迭 され て,秦 徳 純 が 代 理 主 席 に 就 任 し,宋 哲 元 軍 の 外 長 城 線 か らの 撤 退 が 決 ま っ た 。23日 夜,奉 天 特 務 機 関 長 土 肥 原 賢 二 少 将 は 秦 徳 純 を訪 問 し,日 本 軍 の 要 望 事 項 を 提 出 し た 。27日,秦 徳 純 は 北 平 陸 軍 武 官 を 訪 問 して,遺 憾 の 意 を 表 明 し,日 本 側 要 求 に 対 す る正 式 文 書 の 回 答 を 提 出 した 。これ が 土 肥 原 ・ 秦 徳 純 協 定 で あ る。 協 定 の 骨 子 は,宋 哲 元 軍 の 外 長 城 線 か らの 移 駐,排 機 関 の 解 散,謝 罪,責 任 者 の処 罰,山 東 移 民 の 察 吟 爾 通 過 中 止 等 で あ り, そ の解 釈 と して,日 満 の 対 蒙 工 作 の 承 認,特 務 機 関 の 活 動 や 日本 の軍 事 諸 設 備(飛 行 場 の 設 備,無 線 電 台 の設 置 等)へ の 援 助 が 非 公 式 に 合 意 され, 宋 哲 元 軍 の撤 退 地 域 に は 停 戦 区 域 に 準 じて 軍 隊 を 入 れ ず,保 安 隊 に よ り治 安 を維 持 す る こ とに な った4》

8月5日,張 家 口 で 松 井 ・張 允 栄協 定 が 調 印 さ れ,中 国保 安 隊 と蒙 古 保 安 隊 が 共 同 で 察 北 の 治 安 維 持 に 当 た る こ と とな り,察 吟 爾 省 保 安 処 長 張 允 栄 が漢 族 居 住 地 区 の 治 安 を担 当 し,蒙 政 会 察 吟 爾 部 保 安 長 官 卓 特 巴 札 布 が 蒙 古 人 居 住 地 区 の 治 安 を 担 当 した 。 関 東 軍 は 蒙 古 保 安 隊 を 口北 六 県 に 入 れ る よ う要 求 した が,察 吟 爾 省 代 理 主 席 張 自忠 は,蒙 古 人 が い な い各 県城 内 へ の蒙 古 保 安 隊 の 進 駐 に反 対 した。 土 肥 原 ・秦 徳 純 協 定 の 締 結 後,外 長 城 線 以 北 と満 州 国 との 往 来 が 自由 とな り,関 東 軍 の 内 蒙 工 作 は飛 躍 的 に進 展 した 。11月7日,土 肥 原 は宋 哲 元 に華 北5省 で 自治 政 府 樹 立 を 勧 告 し,25 日 に股 汝 耕 は 翼 東 防 共 自治 委 員 会 を 設 立 した。 関 東 軍 は 華 北 分 離 工 作 の 促 進 を は か って,11月15日 まで に一 部 の 兵 力 を 長 城 線 上 に 集 結 させ る と と も に,こ の機 会 を 利 用 し て,蒙 古 保 安 隊 の名 目で 察 東 警 備 軍 を 口北 六 県 に 進 出 させ る こ と に し た5)。

察 東 特 別 自治 区 の 所 在 地 多倫 は,外 蒙 との 交 通 ・交 易 の 要 衝 で,外 蒙 古 貿 易 の 途 絶 後,ダ ブ ス ノ ー ル の青 塩 ・牧 畜 毛 皮 移 出,日 用 雑 貨 移 入 の 中 継 場 所 と して,細 々 と命 脈 を保 って い た 。 察 東 特 別 自治 区 の 行 政 長 官 に は 李 守 信 司 令 官 が 兼 任 し,満 州 国 に準 じた 県 政 を布 い た。 察 東 特 別 自治 区 に は 日系 顧 問 が配 属 され,参 事 官 安 斎 金 治 の 下 で,佐 伯 弘 ・朝 場 秀 二 ・小 野 勲

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等 が 県 政 を 指 導 した 。 通 貨 は満 州 国 幣 を 使 用 し,年 号 は康 徳 を 用 い,主 要 財 源 は対 満 州 国 交 易 の 青 塩 税 で あ っ た。 察 東 警 備 軍 の 軍 事 費 は 地 方 税 収 を

充 て た が,1935年7月 以 降,満 州 国 軍 政 部 が 負 担 した8)。

察 東 警 備 軍 の編 成 は二 個 師(支 隊 を 改 称)・ 砲 兵 隊 ・通 信 隊 ・憲 兵 隊 か ら な り,そ の 主 要 幹 部 と して は,司 令 官 が 李 守 信,参 謀 長 が 陳 宝 泉,作 戦 主 任 参 謀 が 劉 星 寒,師 長 が劉 継 広(第 一 師)・ サ 宝 山(第 二 師),砲 兵 隊 長 丁 其 昌 で あ っ た。 人 種 構 成 は 李 守 信 司 令 官 の み が 蒙 古 人 で,部 下 の 将 兵 は す べ て 漢 族 で あ った が,察 吟 爾 部 の騎 兵500人 余,烏 古 廷 部 隊 か ら700人 が 合 流 し,蒙 古 兵 が ふ え た7)。

察 東 特 別 自治 区 の 政 治 ・軍 事 指 導 の 中 心 は 多 倫 特 務 機 関 で あ り,1934年 4月 に植 山 英 武 少 佐 が 第 三 代 機 関 長 に就 任 した 。1935年4月,関 東 軍 は53 名 の 除 隊 兵 で 特 設 装 甲 自動 車 隊 を 編 成 し,多 倫 に 派 遣 した。特 設 隊 員 に は, 浅 沼 ・天 野 ・山 口等 の 幹 部 の ほ か,助 平 辰 雄 ・合 志 法 竜 等 の 一 般 隊 員 が 参 加 した。他 方,満 州 国軍 政 部 か ら派 遣 され た 下 永 憲 次 中佐 を責 任 者 と して, 7月 に顧 問 部 が 開 設 され て の ち,特 務機 関 は察 東 警 備 軍 の 軍 事 指 導 を 顧 問 部 に委 ね て,政 治 指 導 に専 念 した 。 察 東 警 備 軍 の 教 官 に は,田 古 里 直 少 佐 (卓 長 官 工 作 に 従 事),煙 草 谷 平 太 郎 大 尉(承 徳 特 務 機 関 よ り転 任),高 中 尉 等 が い た。 この 他,助 平 ・合 志 等 の 特 設 隊 員 十 数 名 が 察 東 警 備 軍 教 官 と して 配 属 され た 。8月,浅 海 喜 久 雄 少 佐 が 第 四 代 機 関 長 に 就 任 し,松 井 忠 雄 大 尉 が補 佐 官 と して配 属 され た8)。

多 倫 に駐 在 す る民 間 団 体 と し て は,善 隣協 会 多 倫 支 部 が1934年6月 か ら 活 動 を 開 始 し,満 州 航 空 は 多 倫 飛 行 場 を 拠 点 と して,広 大 な蒙 古 草 原 で 航 空 輸 送 に従 事 した 。 顧 問 部 の 設 置 後,大 蒙 公 司 ・日本 人 歯 科 医 ・料 理 屋 等 が 開 設 さ れ た 。 大 蒙 公 司 は 蒙 古 貿 易 ・兵 姑 工 作 等 の 経 済 工 作 を担 当 した 。 そ の ほ か満 州 国 中 央 銀 行 多 倫 出張 所 ・満 州 汽 車 公 司 ・満 州 電 信 電 話 株 式 会 社 ・満 州 国郵 便 局 ・満 州 日 日新 聞 が あ った9)。

1935年 末,土 肥 原 ・秦 徳 純 協 定 の 履 行 問 題 を 口実 と して,内 蒙 工 作 を 一 挙 に推 進 す るた め,関 東 軍 参 謀 部 第 一 課 か ら武 居 清 太 郎 参 謀 が 多 倫 に 派 遣

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され た。 多倫 で の 作 戦 会 議 の 際,武 居 参 謀 ・浅 海 機 関 長 ・松 井 大 尉 等 は 途 中 で の作 戦 中 止命 令 を 恐 れ て,宝 昌 ・沽 源 は 必 ず 取 る こ とを確 認 した 。12 月7日,察 東 警備 軍 は 作 戦 行 動 を 開 始 し,顧 問 部 は 大 灘 で 全 軍 を 指 揮 し, 宝 昌 ・沽 源 の攻 撃 を 指 導 した 。9日 早 朝,第 二 師 は 宝 昌 を 奇 襲 ・無 血 占領

し て,中 国 保安 隊 を 武 装 解 除 し た 。 同 日,満 州航 空 の ス ー パ ー機 が 沽 源 を 威 嚇 爆 撃 した が,こ の 爆 撃 の 報 は教 会 の無 線 で た だ ち に 外 部 に伝 わ り,中 央 で 問題 とな った 。 第 一 師 は 沽 源 攻 略 に難 渋 し,第 二 師 が 砲 兵 隊 と と もに 宝 昌 か ら沽 源 へ と増 援 に 向 か っ た 。11日,軍 司 令 部 ・顧 問 部 は 沽 源 に転 身 した が,騎 兵 に よ る 沽 源 県 城 の 攻 撃 に失 敗 し,陳 参 謀 長 は 流 れ 弾 に 当 た り 戦 死 したio)。

当 時,中 国側 は 関 東 軍 の 南 下 を 恐 れ,華 北 で 自治 政 権 の 樹 立 に 同 意 し, 12月11日 に 翼 察 政 務 委 員 会 の 人 員 が 発 表 され た。 関 東 軍 の示 威 は 十 分 に

目標 を達 成 した が,察 東 警 備 軍 の 作 戦 継 続 は 華 北 談 判 を 破 裂 させ る危 険 が あ り,関 東 軍 は 作 戦 中 止 を 決 定 した 。 多 倫 に 到 着 し た磯 矢 伍 郎 参 謀 は沽 源 攻 略 の 中 止 命 令 を 下 した が,松 井 大 尉 は 独 断 で 作 戦 を 続 行 した 。12日,満 州 航 空 の ス ーパ ー機 は沽 源 を 爆 撃 し,大 砲 で 突 撃 路 を 開 い て の ち,察 東 警 備 軍 は 沽 源 を 攻 略 した 。13日,武 居 参 謀 は 沽 源 で 正 式 に 作 戦 中 止 を命 令 し, 察 東 警 備 軍 の 司 令 部 は 多倫 に 撤 収 した11}。

察 東 事 件 の 際,関 東 軍 は 陸 軍 中央 部 の 許 可 な く,独 断 で 独 立 混 成 第 十 一 旅 団 を 満 州 国 か ら多 倫 に進 駐 させ た 。 松 井 大 尉 は 特 務 機 関 補 佐 官 の 身 分 で 作 戦 を 指 導 して,顧 問 部 の 権 限 を 侵 害 した の で,特 務 機 関 と顧 問 部 と の対 立 が 生 じ,李 守 信 の 部 下 が 動 揺 した 。 そ こで,松 井 大 尉 が 関 東 軍 司 令 部 で 協 議 した 結 果,下 永 顧 問 は 軍 政 部 弘 報 課 長 に 転 任 し,以 後 浅 海 機 関 長 が 顧 問 を 兼 任 した12)。

12月18日,翼 察 政 務 委 員 会 が 成 立 して,宋 哲 元 が 委 員 長 に就 任 した 。土 肥 原 少 将 は 中 国 側 に 対 して,土 肥 原 ・秦 徳 純 協 定 の 区 分 線 を 張 家 口以 北 の 長 城 線 上 に 延 長 して,口 北 六 県 に蒙 古 保 安 隊 を 入 れ る よ う要 求 し,秦 徳 純 との 間 で 交 渉 が 妥 結 した の で,蒙 古 保 安 隊 の 口北 六 県 へ の 進 駐 を 命 令 した。

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蒙古軍政府の研究

29日,関 東 軍 参 謀 部 第 二 課 主 任 参 謀 田 中 隆 吉 中 佐 が 新 京 か ら 多 倫 に 飛 来 し,浅 海 機 関 長 ・松 井 大 尉 と共 に,張 家 口 に 飛 び,張 家 口機 関 長 大 本 四郎 少 佐 と察 東 警 備 軍 の 口北 六 県 へ の進 出計 画 の 細 目 に つ い て 協 議 した。 そ の 後,察Aq爾 省 主 席 張 自忠 の 招 待 宴 で,察 東 警 備 軍 の 進 駐 区 域 と察 吟 爾 省 と の 境 界 に つ い て 合 意 が 成 立 した。30日,田 中 参 謀 は 松 井 大 尉 に 対 して,口 北 六 県 の 施 政 方 針 を 指 示 した13)。

12月29日,察 東 警 備 軍 は 宝 昌 ・沽 源 の線 を 出 発 し,31日 ま で に 口北 六 県(宝 昌 ・沽 源 ・張 北 ・商 都 ・康 保 ・化 徳)に 進 駐 し,さ ら に 崇 礼 ・尚義 も接 収 した。 当 初,中 国 側 の 行 政 権 ま で接 収 す る 意 図 は な か っ た が,中 国 保 安 隊 と一 緒 に 政 府 の 役 人 の 多 くが逃 げ た の で,自 動 的 に 行 政 権 も 同時 に 接 収 さ れ た 。 関 東 軍 に 報 告 され た 接 収 状 況 は 次 の 通 りで あ る。 第1,商 会 を利 用 し,県 組 織 は 多 倫 県 を基 準 と して 簡 素 化 し,県 長 以 下 は 現 地 住 民 を 採 用 す る。 第2,逃 亡 県 長 以 下 の 財 産 は 逆 産 と して 県 に 押 収 し,税 制 は 従 来 通 りとす る。 第3,通 貨 は満 州 国 幣 と し,満 州 国 よ り600万 円 を送 付 し,収 入 に 旧慣 に よ る。 第4,電 信 ・電 話 は満 州 電 々 の 出 張 所 を 利 用 し, 当面,各 県 公 署 間 の 連 絡 を 確 保 し,引 続 い て根 本 的 対 策 を た て る。 第5, 郵 便 は 満 州 国 交 通 部 奉 天 郵 政 管 理 局 に 依 頼 す る14)。

12月28日,察 吟 爾 盟 公 署 新 設 の た め,5名 の 新 日系 顧 問 が 熱 河 経 由 で 多 倫 に 到 着 した 。翌 日,多 倫 で 編 成 され た 新 旧 日系 顧 問 か らな る接 収 要 員 は, 北 行 組 と南 行 組 に 分 か れ,各 々赴 任 地 へ と向 か っ た 。 日系 顧 問 の配 置 は, 北 行 組 が,宝 昌(佐 伯 弘),沽 源(塩 沢 富),康 保(小 野 勲),徳 化(上 田 長 造),商 都(朝 場 秀 二),尚 義(大 坪 隆 哉)で,南 行 組 が,張 北(安 斎 金 治 ・

岡 上 広 吉 ・簡 牛 耕 三 郎),崇 礼(福 間 武 雄)で あ った 。 当 時,察 北 の 通 信 設 備 は 各 県 か ら張 北 に 集 ま る電 話 線 が 一 本 の み で あ った 。 張 北 入 城 後,日 顧 問 は 県 長 を 訪 問 し,協 力 を要 請 した 。 当初,張 北 県 に は 武 装 力 が な く,

県 城 に駐 屯 す る蒙 古 軍(察 東 警 備 軍 を改 称)に 依 存 した が,治 安 は 良 好 で あ ったis》

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1)稲 葉 正 夫 「内 蒙 工 作 」(「 日中 戦 争 ←う」 解 説)。

2)劉 映 元 編 李 守 信 自 述 」 内 蒙 古 文 史 資 料,第 二 〇 輯,1985年,124〜125頁 3)同 上 書,133〜135頁

4)軍 令 部 「支 那 特 報 第 一 三 号 」(「 日 中 戦 争e」,74〜75頁)。

5)軍 令 部 「支 那 特 報 第 一 七 号 」(同 上 書,597‑598頁)。

6)簡 牛 耕 三 郎 「草 原 の 夜 が 明 け て 」(ら くだ 会 編 「高 原 千 里 」1973年,83頁)。

7)「 李 守 信 自述 」136頁

8)助 平 辰 雄 「在 蒙 の 思 い 出 」(「高 原 千 里 」,501〜502頁)。

9)音 尾 秀 夫 「回 想 善 隣 協 会 」(善 隣 会 編 「善 隣 協 会 史 」 日 本 モ ン ゴ ル 協 会,1981 年,27頁)。

10)11)12)13)「 李 守 信 自 述 」144〜146頁 。 松 井 忠 雄 内 蒙 三 国 史 」 原 書 房,1966 年,第 二 部 「察 東 事 件 」。

14)中 嶋 万 蔵 蒙 彊 回 顧 録 」(「高 原 千 里 」,57頁)。

15)「 草 原 の 夜 が 明 け て 」(同 上 書,84‑85頁)。

m蒙 古 自治運動

清 朝 時 代,蒙 古 人 の 勢 力 分 断 の た め,理 藩 院 の 下 に盟 旗 を 通 じた 中 央 直 轄 統 治 が 実 施 され,王 公 を 盟 長 ・旗 長 に任 命 した が,か つ て 清 朝 に抵 抗 し た 察 吟 爾 部 は 王 公 が 不 在 で,平 民 の 総 管 が 置 か れ た 。 清 末 期,漢 族 に よ る 蒙 古 へ の 入 植 が す す ん だ が,遊 牧 民 族 で あ る蒙 古 人 に は 土 地 所 有 の 観 念 が な く,漢 族 の 入 植 に よ って,蒙 古 人 の土 地 は 侵 食 され,し だ い に北 方 へ と 追 わ れ て い っ た。

辛 亥 革 命 後,中 華 民 国 は 少 数 民 族 統 治機 関 と して 蒙 蔵 院 を 設 置 した が, 清 朝 以 来 の 蒙 旗 行 政 の 特 殊 性 を 配 慮 して,熱 河 ・繧 遠 ・察吟 爾 に特 別 区 を 施 行 した 。蒋 介 石 に よ る全 国統 一 後,国 民 政 府 は1928年9月 に 内 蒙 古 の 三 特 別 区 を 廃 止 して,省 制 を 施 行 し,哲 里 木 盟 ・卓 索 図 盟 ・昭 烏 達 盟 を 熱 河 省 に,錫 林 郭 勒 盟 ・察 吟 爾 部(左 翼 四 旗 ・四 牧 群)を 察 吟 爾 省 に,烏 蘭 札 布 盟 ・伊 克 昭 盟 土 黙 特 旗 ・察 恰 爾 部(右 翼 四旗)を 繧 遠 省 に編 入 した 。1929

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蒙古軍政府 の研究

年2月,国 民 政 府 は 蒙 蔵 院 を 廃 止 して 蒙 蔵 委 員 会 を 置 い た 。 省 制 の 施 行 は 蒙 古 人 の 大 き な反 発 を招 い た の で,国 民 政 府 は1931年10月 に 「蒙 古 盟 部 旗 組 織 法 」 を制 定 し て,蒙 古 の 各 盟 部 旗 は 現 有 区 域 を 治 域 とす る と定 め, 盟 旗 に 省 県 と同 等 の地 位 を 与 え た 。 しか し,統 一 自 治 組 織 を もた な い の で, 省 県 の 強 大 な 圧 力 に対 抗 で きず,他 方,盟 旗 の支 配 者 に関 す る明 確 な 規 定 を 欠 き,封 建 的 王 公(盟 長 ・札 薩 克 等)の 地 位 は そ の ま ま温 存 さ れ た1》

蒙 古 盟 部 旗 組 織 法 」 の制 定 後,省 政 府 は 依 然 漢 族 の 入植 を 奨 励 し,条 文 に よ る 現 有 区 域 は 守 られ ず,蒙 古 人 は 自 力 で 窮 状 を 打 開 す る ほ か 活 路 が な くな った 。 ソ連 の 援 助 に よ る外 蒙 古 の独 立 は 蒙 古 人 の民 族 主 義 を 高 揚 さ せ た 。 満 州 事 変 の 際,東 部 内 蒙 古 の 一 部 の 蒙 古 人 は 関 東 軍 の 援 助 を 得 て 独 立 運 動 に 立 ち上 が った 。 清 朝 の後 商 で あ る満 州 国 執 政 薄 儀 に 蒙 古 人 は親 近 感 を抱 き,満 州 国 は 東 部 内 蒙 古 に4つ の興 安 省 を 新 設 して,蒙 古 人 を 省 長 に任 命 した 。 こ うした 状 況 下 で,徳 王 を 中 心 と して,西 部 内 蒙 古 で 蒙 古 自 治 運 動 が 盛 ん に な った 。

熱 河 作 戦 に よ る赤 峰 入 城 直 後,松 室 大 佐 は 田中 久 少 佐 を 西 烏 珠 穆 沁 に 派 遣 して,錫 林 郭 勒 盟 長 索 王 と連 絡 を 取 り,4月 に 赤 峰 で 錫 林 郭 勒 盟 八 旗 代 表 を 集 め て蒙 古 代 表 会 議 を 開 催 した 。 会 議 終 了 後,代 表 一 行 は 新 京 を 訪 問 して,博 儀 に満 州 国執 政 就 任 祝 賀 の 挨 拶 を し,関 東 軍 首 脳 部 と会 見 した2)。

松 室 大 佐 は 錫 林 郭 勒 盟 と察 吟 爾 部 の王 公 ・総 管 を 招 待 し て,1933年10月1 日に 多 倫 で 蒙 古 王 公 会 議 の 開 催 を 計 画 した が,参 加 者 の 到 着 が 遅 れ た の で, 旧 暦 の10月1日 に 会 議 を 延 期 した 。 しか し,王 公(盟 長 ・札 薩 克)は 参 加 せ ず,代 表(管 旗 章 京 ・梅 倫 等 の 役 人)の 参 加 に 止 ま った 。 松 室 大 佐 は会 議 参 加 者 に ジ ン ギ ス カ ソ の偉 業 を 讃 え る と と もに,満 州 国 との 提 携 を 呼 び 掛 けた 。 松 室 大 佐 は 徳 王 の代 表 に 手 紙 を 託 し,徳 王 の 内 蒙 自治 運 動 に 賛 意 を 表 明 した 。 当 時,徳 王 は百 霊廟 で 自治 会 議 を 主 催 して お り,多 倫 の 蒙 古 王 公 会 議 に は 関 心 を示 さ な か った3)。

1933年7月26日,徳 王 ・雲 王(雲 瑞 旺 楚 克;烏 蘭 札 布 盟 長)は,内 蒙 各 旗 を 召 集 して,内 蒙 自治 準 備 会 議 を開 催 し,国 民 政 府 に 内 蒙 古 の 高 度 自治

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を要 求 した 。10月9日,百 霊 廟 会 議(〜24日)が 正 式 に 開 催 され,軍 事 ・ 外 交 を除 い た 高 度 自治 を要 求 す る電 報 を 国 民 政 府 に 送 る と と も に,「自治 政 府 組 織 大 綱 」 を採 択 した。 蒙 古 側 の 高 度 自治 要 求 に 対 して,国 民 政 府 は 黄 紹 雄(内 務 部 長)・ 趙   廉(蒙 蔵 委 員 会 副 委 員 長)の 百 霊 廟 派 遣 を 決 定 した 。 11月10日,黄 趙 一 行 は 張 家 口・繧 遠 を 経 由 し,傅 作 義 軍 の護 衛 を 伴 って, 百 霊 廟 に 到 着 した 。12日,蒙 古 側 と国 民 政 府 側 との 交 渉 が 始 ま り,省 政 府 か ら独 立 した 自治 政 府 樹 立 の 可 否 に つ い て 議 論 が 紛 糾 した が,妥 協 案 が 成 立 した 。1934年1月17日,国 民 政 府 は 「蒙 古 自治 弁 法 」を 採 択 した が,盟 旗 と省 県 の 権 限 を め ぐ って 蒙 古 側 の 不 満 は 大 きか った 。2月28日,蒙 古 側

の批 判 に 譲 歩 して,国 民 政 府 は 「蒙 古 自 治 弁 法 原 則 八 項 」 を 採 択 した 。 蒙 古 代 表 は 行 政 院 長 注 精 衛 と会 見 して,中 央 政 府 の 方 針 を受 諾 した の で,3

月7日,国 民 政 府 は 「蒙 古 地 方 自治 政 務 委 員 会 暫 行 組 織 大 綱 」 「蒙 古 地 方 自 治 指 導 長 官 公 署 暫 行 条 例 」 を 採 択 ・公 布 したu。

4月23日,百 霊 廟 で 蒙 古 地 方 自治 政 務 委 員 会(蒙 政 会)の 開 幕 式 典 が 挙 行 され,蒙 古 人 の 統 一 自治 組 織 が 誕 生 した 。 委 員 長 に は雲 王 が,副 委 員 長 に は 索 王 ・沙 王(伊 克 昭 盟 長)が,秘 書 長 に は 徳 王 が就 任 した 。 式 典 に は, 王 公 ・総 管 の ほ か,包 悦 卿 ・宝 道 新 ・陶 克 陶 ・陳 紹 武 ・関 翼 郷 ・韓 鳳 林 ・ 雲 継 賢 ・丁 我 愚 等 が 参 加 した 。 蒙 政 会 成 立 後,国 民 政 府 は 数 万 元 の 開 設 費

しか 支 給 せ ず,事 務 経 費 や 職 員 手 当 を 支 払 う と何 も残 らず,保 安 隊 の維 持 費 も確 保 で き な か っ た。 そ の た め,蒙 政 会 は 実 質 的 な活 動 に 着 手 で きず, 徳 王 は進 退 に 窮 した5)。

徳 王 は 側 近 の韓 鳳 林 ・陳 紹 武 と相 談 し て,8月 中 旬 に陳 紹 武 を盧 山 に 派 遣 し,蒋 介 石 に経 費 ・武 器 を 請 求 させ た 。 そ の 際,西 部 内蒙 古 へ の 日本 人 の 接 近 問題 に 対 す る蒋 介 石 の 指 示 を 請 い,そ の 譲 歩 を迫 る取 引 材 料 と した 。 蒋 介 石 は 蒙 政 会 へ の 経 費 ・武 器 の 供 給 を 約 束 し,日 本 人 の進 出 に は,「 高 ぶ

らず,へ つ らわ ず,様 子 を み て こ とを 運 べ 」と指 示 を 与 えた 。10月,蒋 石 は 張 家 口経 由 で繧 遠 を 視 察 し,雲 王 ・徳 王 と会 見 した。11月,陳 紹 武 ・ 補 英 達 頼 は 百 霊 廟 か ら南 京 に 向 か い,経 費 と武 器 を受 領 した6⊃

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蒙古軍政府の研究

蒙 政 会 成 立 後,察 恰 爾 省 ・繧 遠 省 政 府 との 間 で,税 収 ・管 轄 権 の 問 題 を め ぐ って 常 に問 題 が 発 生 した 。 察 恰 爾 省 主 席 宋 哲 元 は 西 蘇 尼 特 東 北 の湧 江 に兵 力 を 駐 屯 させ て,徳 王 府 に常 時 見 張 りの 将 校 を 派 遣 し,1934年 に 化 徳 (チ ャ プサ ル)に 設 治 局(県 政 の 準 備 機 関)を,翌 年 県 政 府 を 設 置 した 。 綬 遠 省 主 席 傅 作 義 は,巨 額 な 西 北 阿 片 通 過 税 を 独 占 して,蒙 政 会 に 与 えず, 西 公 旗 札 薩 克 石 王 の罷 免 問 題 で は,蒙 政 会 の 意 思 に反 して 石 王 を 援 護 し,

そ の 威 信 を 傷 つ け た7》

善 隣 協 会 の 創 設 者 笹 目恒 雄 は1932年 頃 か ら徳 王 と交 遊 関 係 が あ り,百 霊 廟 会 議 に 参 加 した唯 一 の 日本 人 で あ る。 当 時,笹 目は 関 東 軍 か ら要 注 意 人 物 とみ な され,松 室 大 佐 と も連 絡 が あ っ た8)。1934年1月,陸 軍 ・財 界 の 援 助 で 善 隣 協 会 が 設 立 され,多 倫 支 部 ・西 蘇 尼 特 班 ・ア パ カ班 が 編 成 さ れ た 。

7月,西 蘇 尼 特 班 が現 地 に 到 着 して,医 療 ・教 育 事 業 が開 始 され た 。 善 隣 協 会 の 現 地 職 員 に は 関 東 軍 特 務 機 関 の 蒙 古 研 究 生 中 嶋 万 蔵 ・山 本 信 親 等 が 参 加 して い た9)。

1934年 夏,盛 島 は 中 嶋 と一 緒 に 百 霊 廟 西 方 の 外 蒙 難 民 部 落 で,韓 鳳 林 を 通 訳 と して 徳 王 と会 見 し,関 東 軍 が2000丁 の 小 銃 を 供 給 す る 旨 を伝 えた 。 盛 島 は 新 京 に 帰 って の ち,今 後 の 蒙 古 工 作 の 対 象 は 徳 王 以 外 に な い 旨 を 関 東 軍 に報 告 した1°。9月,韓 鳳 林 が 憲 兵 第 三 団 に よ って 逮 捕 ・暗 殺 され,徳

王 は 国 民 政 府 へ の 不 信 感 を 強 め た 。 同年 秋,奉 天 機 関 長 土 肥 原 少 将 が 西 蘇 尼 特 を訪 問 し,徳 王 か ら韓 鳳 林 の 行 方 の 調 査 を 依 頼 さ れ た。 こ の接 触 が機 縁 とな って,徳 王 は しだ い に 関 東 軍 へ と傾 斜 して い っ た。 徳 王 は 自己 の武 装 力 を 強 化 す るた め,宝 貴 廷 を 秘 か に 満 州 国 内 の 東 部 内 蒙 古 に派 遣 して, 兵 馬 を 整 え,察 東 警 備 軍 の 李 守 信 司 令 官 の 下 で,宝 貴 廷 を 団 長 とす る一 個 団(連 隊)を 編 成 した11》

1935年4月 末,関 東 軍 は西 蘇 尼 特 特 務 機 関(機 関 長 宍 浦 少 佐)を 開 設 し, 無 線 機 を 設 置 して,連 絡 を 強 化 した 。 当 時,宋 哲 元 は 見 張 りの 将 校 を 徳 王 府 に 派 遣 し,徳 王 の 日本 へ の 接 近 を 監 視 して い た の で,西 蘇 尼 特 機 関 は 善 隣 協 会 を 隠 れ 蓑 と して,非 公 式 に活 動 を 開 始 した 。1935年5月,関 東 軍 の

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石 本 寅 三 大 佐(第 二 課 長)・ 田 中 隆 吉 中 佐(第 二 課 主 任 参 謀)は,西 蘇 尼 特 で 徳 王 と会 見 し,蒙 古 国 建 国 に 協 力 す る 旨 を提 案 した 。6月27日,土 肥 原 ・ 秦 徳 純 協 定 が 成 立 す るや,湧 江 に 駐 屯 す る宋 哲 元 軍 が 撤 退 して,中 国側 の 徳 王 へ の 圧 力 は 弱 ま り,西 蘇 尼 特 機 関 と徳 王 との連 絡 が 円滑 とな っ た。7 月,関 東 軍 は ス ーパ ー機 を 徳 王 専 用 機 と して 贈 呈 し,満 州 航 空 を 通 じて 燃 料 ・操 縦 士 ・機 関 士 を提 供 した 。9月,板 垣 征 四郎 参 謀 副 長 ・河 辺 虎 四 郎 大 佐(第 二 課 長)・ 田 中参 謀 は西 烏 珠 穆 沁 王 府 で徳 王 ・索 王 と会 見 し,関 東 軍 の 方 針 を 正 式 に伝 達 したiz>。

これ 以 後,特 務 機 関 の 活 動 は公 然 と な り,中 嶋 万 蔵 ・中 沢 達 喜 ・金 永 昌 ・ 干 蘭 斎 等 が 蒙 政 会 に 出 入 りし,中 嶋 は 百 霊 廟 に 包 を置 い て,蒙 政 会 の 関 東 軍 へ の接 近 を 促 した 。10月,第 二 回 蒙 政 会 委 員 総 会 は 日本 との提 携 を 強 化 す る件 を 討 議 した 。11月 末,関 東 軍 の招 待 に よ り,徳 王 は宍 浦 機 関 長 ・中 嶋 万 蔵 ・デ ロ ワ ・金 永 昌 ・陶 克 陶 と と もに 新 京 を訪 問 して,南 次 郎 司 令 官 ・ 西 尾 壽 造 参 謀 長 と会 見 し,板 垣 参 謀 副 長 は 徳 王 に50万 円 の 工 作 費 を 交 付 し た13)。帰 途,徳 王 は 多 倫 飛 行 場 で 浅 海 機 関 長 ・下 永 顧 問 の 出迎 え を 受 け,李 守 信 と初 会 見 した14)。

1936年1月25日,国 民 政 府 は 百 霊 廟 蒙 政 会 の 日本 へ の 急 速 な接 近 に 対 抗 して,中 央 恭 順 派 を 集 め,烏 蘭 札 布 盟 ・伊 克 昭 盟 ・帰 化 土 黙 特 旗 ・察 恰 爾 右 翼 四 旗 ・綬 東 五 県 を領 域 と して,綴 遠 省 境 内 蒙 古 各 盟 旗 地 方 自治 政 務 委 員 会(̀c境 蒙 政 会)の 設 置 を 布 告 したis)。綬 境 蒙 政 会 の 委 員 長 に は 沙 王(伊 克 昭 盟 盟 長)が,副 委 員 長 に は 巴 王(烏 蘭 札 布 盟 盟 長)・ 阿 王(伊 克 昭 盟 副 盟 長)・ 活 王(烏 蘭 札 布 盟 副 盟 長)が 就 任 し た。 国 民 政 府 は綴 遠 省 境 内 蒙 古 各 盟 旗 地 方 自 治指 導 長 官 公 署 を 設 置 し,閻 錫 山 が長 官 に 就 任 した16)。

1936年2月21日,百 霊 廟 蒙 政 会 に駐 屯 す る保 安 隊(隊 長 雲 継 賢)は,綬 遠 側 の 扇 動 に よ り兵 変 を起 こ し,中 嶋 万 蔵 の 包 に銃 弾 を 打 ち込 ん で,繧 遠 へ 逃 亡 した17)。4月8日,国 民 政 府 は繧 境 蒙 政 会 職 員 の 百 霊 廟 蒙 政 会 職 員 兼 務 を 禁 じ る と と も に,百 霊 廟 蒙 政 会 の察 恰 爾 移 転 を 命 じた 。 西 部 内 蒙 古 の 各 盟 旗 の 盟 長 は両 蒙 政 会 の委 員 で あ っ た が,兼 務 を 禁 じ られ た の で,百 霊

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蒙古軍政府の研究

廟 蒙 政 会 は 錫 林 郭 勒 盟 ・察 恰 爾 盟 関 係 者 の み とな っ た18)。7月27日,国 政 府 は百 霊 廟 蒙 政 会 の 廃 止 を命 じ,徳 王 の 蒙 政 会 は 察恰 爾 省 境 内 蒙 古 各 盟 旗 地 方 自治 政 務 委 員 会(察 境 蒙 政 会)と な った19)。 こ うして,百 霊 廟 蒙 政 会 は 日満 依 存 の 察 境 蒙 政 会(蒙 古 軍 政 府)と 中 国 依 存 の 緩 境 蒙 政 会 へ と分 裂 した の で あ る。

1)烏 蘭 少 布 「中 国 国 民 党 対 蒙 政 策(1928‑1949年)」(内 蒙 古 近 代 史 論 叢,第 三 輯, 1987年,217‑‑218,228〜232頁)。

2)・ 「蒙 彊 回 顧 録 」(前 掲 書,45頁)。 中 嶋 万 蔵 「内 蒙 古 自 治 運 動 か ら蒙 古 自 治 政 府 解 消 ま で の 年 表 及 関 連 記 事 一 覧 表 」(ら くだ 会 編 『思 出 の 内 蒙 古 」1975年,11頁)。

3)徳 穆 楚 克 棟 魯 普 「抗 戦 前 我 勾 結 日窟 的 罪 悪 活 動 」(文 史 資 料 選 輯,第 六 三 輯,1979 年,13〜14頁)。

4)蒙 古 自 治 運 動 の 全 体 的 経 緯 に つ い て は,以 下 の 文 献 を 参 照 。 方 範 九 蒙 古 概 況 與 内 蒙 自 治 運 動 」 商 務 印 書 館,1934年,下 編 「内 蒙 自 治 運 動 」。 盧 明 輝 『蒙 古'̀自 治 運 動"始 末 」 中 華 書 局,1980年,第 一 編 「百 霊 廟 蒙 古 自 治 運 動 経 過 」 5)「 抗 戦 前 我 勾 結 日窟 的 罪 悪 活 動 」16頁

6)陳 紹 武 「内 蒙 徳 王 和 蒋 介 石 的 関 係 」(文 史 資 料 選 輯,第 三 九 輯,1963年,118‑127 頁)。

7)「 蒙 彊 回 顧 録 」(前 掲 書,54‑55頁)。

8)瀬 川 敬 「塾 外 研 究 生 日 記 」(「善 隣 協 会 史 』158頁)。

9)後 藤 富 之 佑 「蒙 古 進 出 の 思 い 出 」(同 上 書,39〜41頁)。

10)「 蒙 彊 回 顧 録 」(前 掲 書,45頁)。

11)「 抗 戦 前 我 勾 結 日 冠 的 罪 悪 活 動 」(前 掲 書,16‑‑20頁)。

12)同 上 書(21〜25頁)。

13)同 上 書(25〜26頁)。

14)「 李 守 信 自 述 」141‑‑142頁

15)蒙 政 部 総 務 司 文 書 科 「中 華 民 国 治 蒙 法 令 及 決 議 案 集 」1937年,38‑‑41頁 16)「 繧 蒙 輯 要 」 発 行 所 ・発 行 年 不 明,中 文,211,261頁

17)「 蒙 彊 回 顧 録 」(前 掲 書,58頁)。

18)「 支 那 特 報 第 一 七 号 」(前 掲 書,599頁)。

19)黄 奮 生 編 蒙 蔵 新 誌 」 上,中 華 書 局,1938年,238頁

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IV蒙 古軍政府

(1)察 恰 爾 盟 公 署 の成 立

清朝 初 期,康 煕 帝 は抵 抗 す る 察 吟 爾 蒙 古 を 征 服 して,部 民 を 八 旗 に 再 編 し,平 民 出 身 の 総 管 を置 い て,旗 長 の職 に あ て た 。 察Aq爾 部 は 盟 を構 成 せ ず,王 公 は 不 在 で あ った 。 清 末 期,察 吟 爾 部 で は漢 族 の 入 植 が す す み,人

口の過 半 数 は 漢 族 が 占 め た 。1928年9月,国 民 政 府 は 察 吟 爾 部 の 一 部 を繧 遠 省 に編 入 して,察 吟 爾 左 翼 四 旗 ・四 牧 群(張 北 ・沽 源 ・多 倫 ・宝 昌 ・康 保)は 察 吟 爾 省 に,右 翼 四 旗(豊 鎮 ・陶 林 ・平 地 泉 ・興 和 ・涼 城)は 繧 遠 省 に帰 属 させ た 。

察 吟 爾 部 総 管 中 の 長 老 卓 特 巴札 布 は蒙 政 会 察 恰 爾 部 保 安 長 官 で あ り,関 東 軍 は 田古 里 少 佐 を 通 じて,卓 長 官 工 作 を推 進 した 。 関 東 軍 は 徳 王 ・李 守 信 ・卓 特 巴 札 布 の 三 者 を結 合 し て,独 立 政 権 の樹 立 を構 想 し,察 吟 爾 部 の 改 盟 と察 恰 爾 盟 公 署 の 設 立 を 急 い だ1)。当 時,察 恰 爾 部 の も う一 人 の有 力 者 尼 冠 洲(明 安 牧 群 総 管;国 民 党 中 央 委 員)は,蒙 政 会 の対 日接 近 に批 判 的 で,1935年10月 の 第 二 回 蒙 政 会 委 員 総 会 の席 上,呉 鶴 齢(蒙 蔵 委 員 会 委 員;蒙 政 会 駐 南 京 弁 事 処 長)と と もに,国 民 政 府 の 批 准 を経 な い で,察 吟 爾 盟 公 署 を 新 設 す る こ と に反 対 した 。 そ の た め,関 東 軍 特 務 機 関 は 尼 冠 洲

と呉 鶴 齢 へ の 警 戒 心 を 強 め た2}。

察 東 事件 後,多 倫 特 務 機 関 は連 絡 所 に 格 下 げ され,西 蘇 尼 特 機 関 長 は宍 浦 少 佐 か ら浅 海 少 佐 に 交 代 し,新 設 の張 北 特 務 機 関 の機 関 長 に は 田 中 久 中 佐 が 就 任 した 。察 東 警 備 軍 の ロ北 六 県 進 出 に同 行 した 日系 接 収 要 員 の ほ か, 新 要 員 を 含 む 総 勢 二 十 数 名 が 日系 顧 問 と して配 属 され,察 吟 爾 盟 公 署 の 設 立 準 備 を 開 始 した 。 田 中 久 中 佐 の指 揮 下 に 入 った 察 東 警 備 軍 顧 問 部 の 日系 顧 問 も察 吟 爾 盟 公 署 に配 置 転 換 され た3}。1936年1月 初 旬,関 東 軍 は 蒙 古 保 安 隊 指 導 官 と して,除 隊 兵 ・他14名(佃 寅 佑 ・菊 岡 貢 ・柚 木 茂 ・内 山輝 男 ・ 戸 塚 金 作 ・原 川 康 男 ・小 倉 八 郎 ・宮 木 勝 弘 ・大 伴 八 良 ・小 林 政 光 ・今 野 卯

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蒙古軍政府の研究

一 郎 ・佐h木 源 九 郎 ・佐 藤 寅 之 助 ・酒 井 磧 二)を

,北 京 ・張 家 口経 由で 張 北 に 派 遣 した 。 こ う して盟 公 署 ・県 公 署 の 人 員 配 置 が 決 定 した4)。

1936年1月23日,張 北 で 察 恰 爾 盟 公 署 設 立 大 会 が 開 催 され,蒙 古 側 か ら は,徳 王 ・李 守 信 ・卓 特 巴 札 布 ・達 密 林 蘇 龍(正 黄 旗 総 管)・ デ ロ ワ ・郭 王

(東 蘇 尼 特 旗 旗 長)・ 包 悦 卿(蒙 政 会 駐 北 平 弁 事 処 長)の ほ か,国 民 党 系 蒙 古 人 で あ る呉 鶴 齢 ・尼 冠 洲 ・白雲 梯(蒙 蔵 委 員 会 委 員;蒙 政 会 委 員)等 参 加 し,関 東 軍 側 か らは,田 中 参 謀 ・田中 久 張 北 機 関 長 ・日系 顧 問 ・金 永 昌(蒙 古 人 通 訳)等 が 参 加 した 。 同 日午 後,尼 冠 州 は 卓 長 官 工 作 の障 害物 と して,関 東 軍 特 務 機 関 に よ っ て殺 害 され た が,呉 鶴 齢 は徳 王 の庇 護 に よ り,暗 殺 を 免 れ た5)。

察 吟 爾 盟 の 首 脳 人 事 は,盟 長 に は 卓 特 巴 札 布 が,副 盟 長 に は達 密 林 蘇 龍 が,主 任 顧 問 に は 西 崎(後 任,安 斎 金 治)が,総 務 庁 顧 問 に は簡 牛 耕 三 郎 が 就 任 した 。 各 県 公 署 は総 務 科 ・財 務 科 ・警 務 科 等 か ら な り,名 目上 県 長 を置 い た が,日 系 顧 問 ・保 安 隊 指 導 官 が 政 治 ・治 安 の 実 権 を 掌 握 した 。 察 吟 爾 盟 の管 轄 区 域 は,漢 人 地 帯 が 多 倫 ・宝 源(宝 昌 と沽 源 を 合 併)・ 崇 榿 ・ 張 北 ・商 都 ・康 保 ・尚義 ・徳 化 の 八 県,蒙 古 人 地 帯 が 正 藍 旗 ・正 白旗 ・席

白旗 ・廟 黄 旗 ・明 安 牧 群 ・商 都 牧 群 ・左 翼 牧 群 ・右 翼 牧 群 で あ った 。 察 吟 爾 盟 の 人 口構 成 は 漢 族40〜50万 人,蒙 古 人 約3万 人 で,盟 公 署 の 財 政 基 盤

は 漢 人 地 帯 に あ った6}。

察 吟 爾 盟 公 署 の 所 在 地 で あ る張 北 に は保 安 隊 司 令 部 が置 か れ,司 令 長 に は 卓 特 巴 札 布 盟 長 が 兼 任 し,保 安 隊 顧 問 に は 田古 里 少 佐 ・酒 井 磧 二 ・佐 藤 寅 之 助 ・石 原 忠 が,指 導 官 に は 菊 岡 貢 ・伊 藤 孝 一 が 就 任 した 。 田古 里 少 佐 は 司 令 部 直 轄 保 安 隊 の ほ か,各 県 に蒙 古 保 安 隊 一 個 中 隊 を 組 織 して,各 日系 指 導 官 を 配 置 し,保 安 隊 の 訓 練 を 開 始 した 。 察 恰 爾 保 安 隊 の定 員 は 2000名 で,当 時 の 蒙 旗 人 口か らみ て,定 員 ま で の 隊 員 募 集 は 困 難 で あ っ た η。

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(2)蒙 古 軍 総 司 令 部(蒙 古 軍政 府)の 成 立

口北 六 県 の 接 収 後,徳 王 ・李 守 信 ・卓 特 巴 札 布 の 三 者 の提 携 が 実 現 して, 新 た な{鬼偶 政 権 設 立 構 想 が 具 体 化 した 。 関 東 軍 参 謀 部 「対 蒙(西 北)施 要 領 」(1936年1月)は,施 策 の 重 点 を 「内 蒙 軍 政 府 」の 整 備 に 置 き,そ の 政 権 と して の 実 質 が 備 わ っ て の ち,独 立 を宣 言 す る 予 定 で あ った 。 軍 政 府 は特 務 機 関 長 を最 高 顧 問 と して,日 系 顧 問 の 指 導 下 に置 くが,そ の 実 力 に 鑑 み,民 間 機 関(満 州 国 諸 機 関 ・満 鉄 ・善 隣 協 会 ・大 蒙 公 司 等)の 協 力 を 予 定 して い た 。 内 蒙 軍 の 育 成 に あ た って は,兵 器 ・弾 薬 は で き る だ け 関 東 軍 が無 償 で 交 付 し,必 要 な 財 源 は 軍 政 府 管 内(と くに 察 恰 爾 盟)の 収 入, 満 州 国軍 政 部 か らの 支 出 を 充 当 し,不 足 分 は 関 東 軍 が 負 担 す る こ とに して

い る。

1935年12月,関 東 軍 司 令 部 は新 京 で 蒙 古 軍 政 府 の 日系 顧 問 団 を 編 成 し た。 翌年1月 中 旬,顧 問 団 は 北 平 ・張 家 口 ・張 北 経 由 で,西 蘇 尼 特 に 到 着 した。 当 時 の 蒙 古 軍 政 府(察 吟 爾 盟 公 署)の 日系 顧 問 団 は,主 席 顧 問 村 谷 彦 治郎 の 下 で,山 内 源 作 ・玖 村 勲 ・宮 崎 東 ・渡 辺 忍 ・奥 出 勇 ・稲 次 義 一 ・ 櫛 部 正 輝 ・堀 井 熊 雄 ・小 野 田長 右 衛 門 ・榊 原 文 史 郎 ・沢 井 哲 馬 ・沢 田哲 三 ・ 田川 博 明 ・渡 瀬 太 郎 ・中 川 義 治 ・山 本 孝 雄 ・有 田政 一 ・関 沢 乙 吉 ・板 谷 常 造 ・千 田 夏 冬 春 ・佐 田伍 三 郎 ・鬼 木 ・松 井 ・菅 野 ・青 田 ・鳥 羽,等 が 勤 務

して い た8)。

察 恰 爾 盟 公 署 は 一 地 方 政 権 で,他 盟 に 命 令 を 下 し て 軍 隊 を 拡 充 で き な か った。 そ こ で,徳 王 は1936年2月10日 に 西 蘇 尼 特 王 府 で 蒙 古 軍 総 司 令 部 の設 立 大 会 を 開 催 した 。 関 東 軍 側 か ら は,西 尾 参 謀 長 ・浅 海 西 蘇 尼 特 機 関長 ・前 川 坦 吉(善 隣 協 会)・ 日系 顧 問 等 が参 列 した。 こ の 時,西 尾 参 謀 長 は 「蒙 古 軍 総 司 令 部 」で は な く,「 蒙 古 軍 政 府 」 に祝 辞 を 送 った 。 蒙 古 軍 総 司令 部 は 徳 王 を 総 司 令,李 守 信 を 副 総 司 令 と し,そ の 下 に 軍 務 部 ・政 務 部 ・ 秘 書 処 を 置 き,顧 問 部 が 内 面 指 導 に 当た った。 顧 問 部 の 人 員 は,政 治 部 主 席 顧 問 が 村 谷 彦 治 郎,軍 事 顧 問 が 山内 源 作,財 政 顧 問 が 稲 次 義 一,文 教 顧

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参照

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