現代詩の教材性に関する研究
~「感動」・「認識」・「身体性」に注目して~
06GP201 石田 哲太 目 次
序章 研究の動機および目的 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
第一章 文学理論に関する基礎研究 ‐詩壇の動き‐ ・・・・・・・・・・3 第一節 「散文の言語」との比較による「詩的言語」の特徴 ・・・・・3 第二節 戦後の詩の展開 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7 一 現代詩としての戦後詩 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・7 二 教科書の詩教材 ‐詩誌『櫂』を軸に‐ ・・・・・・・・・14
第二章 実践理論に関する基礎研究 ‐現代詩教育の流れ‐ ・・・・・・17 第一節 現代詩教育の概要 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17 第二節 「感動重視型」の詩教育(1970 年代までの詩教育) ・・・18 一 文学性、芸術性と教育 ・・・・・・・・・・・・・・・・・18
(一)小海永二氏の場合
(二)武田常夫氏の場合
(三)市毛勝雄氏の場合
二 感動を教えるということ ・・・・・・・・・・・・・・・・24
(一)茨木のり子氏の論に注目して
(二)菅邦男氏の論に注目して
(三)茨木・菅両氏の共通点
第三節 認識を軸とした詩教育(1980 年代の詩教育) ・・・・・・32 一 「詩」から取り出せる確かな教材価値 ・・・・・・・・・・32 (一)「見方の詩教育」に注目して
(二)「見方の詩教育」への反響
二 「ものの見方・感じ方」に着目して ・・・・・・・・・・・50
(一)「見方の詩教育」の理念
(二)「詩的認識力」について‐作品を通しての具体的検討
(三)「見方の詩教育」実践の検討
(四)理論構築における注目点
第三章 詩教育の現代的展開 ‐ことばの身体性に着目して‐ ・・・・・72
第一節 「ことばあそび」の視点から ・・・・・・・・・・・・・・72
一 「ことばあそび」とは ・・・・・・・・・・・・・・・・・72
二 「ことばあそび」の位置づけについて ・・・・・・・・・・73 三 「ことばあそび」の意味と目的 ・・・・・・・・・・・・・75
(一)ことばあそびうた創作のきっかけ
(二)意味と音の切り離し
(三)日常の中のことばあそび
(四)ことばあそそびと国語教育
(五)ことばあそびと身体性
四 「ことばあそび」の教育的意義 ・・・・・・・・・・・・・81
(一)ことばあそびの教育的効果
(二)ことばあそびの本質
(三)ことばあそびが投げかけるもの
第二節 「詩のボクシング」の視点から ・・・・・・・・・・・・・84 一 「詩のボクシング」の意味と目的 ・・・・・・・・・・・・84
(一)「詩のボクシング」発案のきっかけ
(二)身体感覚の必要性
(三)「詩のボクシング」の実態
(四)「詩のボクシング」のいう「詩」とは
二 「詩のボクシング」の教育的意義 ・・・・・・・・・・・・90
(一)授業実践の分析
(二)ふたつの実践をふまえて
第三節 「のはらうた」の視点から ・・・・・・・・・・・・・・・97 一 詩集「のはらうた」について ・・・・・・・・・・・・・・97 二 「のはらうた」を用いた実践 ・・・・・・・・・・・・・・98
(一)授業実践の分析
(二)ふたつの実践をふまえて
(三)「のはらうた」に見出される教材価値
三 詩人「工藤直子」が投げかけるもの ・・・・・・・・・・113 第四節 詩教育の現代的展開と身体性との関連 ・・・・・・・・・115
終章 研究の総括と結論 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・117 第一節 研究の総括 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・117 第二節 研究の結論 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・119 第三節 今後の課題 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・120
参考文献・参考論文一覧 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・121
序章 研究の動機および目的
国語科教育で行われる詩の授業は、何を教えたらいいのかわからない、どう教えたらい いのかわからないと言われることが多い。詩は受け手に感動を喚起する言葉の芸術の一端 である。それを教育の場で教えようとするとき、何をどう教育すべきか、困惑するのはも っともであろう。また、その一方で、詩は比喩や対句などの表現技法を教えるためのもの だとする声もある。この場合、授業で扱われる内容ははっきりする。しかし、その授業の 中で、詩は表現技法という言語事項を教えるための道具として位置づけられているのであ り、純粋な意味での詩教育とは言い難い。そうした現状を踏まえ、詩教育、すなわち詩を 教えていくという営みはどのようであるべきなのかという問いが本研究の動機である。
詩教育の歩みは、詩をどのように教えるか、または詩で何を教えるかという試行錯誤の 歴史であったといってよい。「詩」という題材をもって「教育」を行うとき、どこに「教材 価値」を見出すのか、それは多くの研究者、実践者が常に持ち続けた問いであった。本研 究の目的は、従来の詩教育を振り返ることで、詩教育という営みの実態をつかむとともに、
現代における詩教育の可能性について考察を深めることである。
研究の流れは次のようである。第一章では、詩教育の題材とされる「詩」そのものにつ いての理解を深めるための考察をおこなう。「詩」が芸術の一端とされるその特質はどこに 見出されるのか、また、そうした「詩」と教育との接点はどこにあるのか、そうした観点 から考察を重ねる。第二章では、現代詩教育の流れを追う。戦後の詩教育が、詩のどこに 教材価値を見出し、何を教えようとして展開してきたのかを、主に理論の側面を中心に考 察する。第三章では、第二章の流れを受けて、詩教育の現代的展開についての考察を行う。
現代において、詩と身体性との関わりが注目されているのではないかという観点から三つ の試みを取り上げる。以上のような流れを組む中で、詩教育の実態と現代における詩教育 の可能性について考えていく。
第一章 文学理論に関する基礎研究
第一節 「散文の言語」との比較による「詩的言語」の特徴
本節では、広く「詩」と呼ばれているものが、言葉のどのような機能を有するものであ るかについて考察する。 「詩とは何か」というような漠然とした問いを立てることは哲学的 な思想へと発展してしまうので、ここではよく詩と対にされる「散文」を対立項に立て、
両者を比較する中で、「詩」の特質を見据えていきたい。
「詩」と「散文」との比較については、フランスの詩人ポール・ヴァレリーによるひと
つの定義があるが、以下にはそれを踏まえた小海永二氏の言を引用する。
フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、(中略)詩と散文の違いを、前者を舞踊に、後 者を歩行にたとえ、散文は歩行と同じく常に明確な一つの対象を持ち、ある対象に向け られた一つの行為であって、その対象に達することを目的とするのに対して、詩は舞踊 と同じく、それも行為の一体系ではあるが、むしろその行為自体を究極の目的とする、
と述べている。(中略)そして今、言語の機能を、対象の指示機能、意味伝達の機能と、
人の心を動かす情動的な(エモーショナルな)機能とに分けるとすれば(言語には少な くともその両方の機能がある)、散文の言語が前者の機能を主とする言語、いわば意味記 号としての言語、伝達を第一義的なねらいとする実用的な言語であるのに対して、詩で 用いられる言語、詩的言語は、後者の機能に主眼があって、読者の中にある種の感動状 態を喚起するために用いられる言語、感化的・情動的な機能を果たすべき芸術的な言語 なのである。
( 『現代詩の指導―理論と実践』 、小海永二、1986 年、明治図書、
13
頁
14行目~
14頁
6行目、傍線:引用者、以下同じ)
ヴァレリーは、詩を舞踏に、散文を歩行に例える。つまり、詩はそれ自体が目的である のに対し、散文はある目的のための手段であるということである。小海氏はその言を踏ま えたうえで、 「散文の言語」には主に「対象の指示機能」「意味伝達の機能」があり、「詩的 言語」は「人の心を動かす情動的な機能」があると述べている。さらに「詩的言語」の目 的を「読者の中にある種の感動状態を喚起するため」とし、「芸術的な言語」と呼ぶ。
さて、このような、散文と詩とを「実用的な言語」と「感動を喚起する言語」と位置づ ける捉え方は、V・シクロフスキーにも見られる。V・シクロフスキーは、ロシアフォルマ リズムを代表する思想家の一人であり、文学を文学的にする言葉の戦略に注目した人物で ある。詩作品において注目すべきは作者の主張ではなく、言葉の「仕掛け」であり、文学 研究を形式と手法の問題へと転換させる理論を打ち出した。その意味で、言語による表現 に究極の客観性を求めようとした理論であり、言語から喚起されるイメージの側面を強調 する。シクロフスキーは、「実用的な思考の手段、事物をいくつかのグループに統一する手 段としてのイメージと、印象を強める手段としての詩的イメージが存在する」 ( 『散文の理論』 、
V・シクロフスキー、1971