フィールドワークから人間関係を捉える
伊藤 哲司
路地の風景
「バイ・ミー・ノン・ナーオ!アイ・バイ・ミー・ディー!(暖かいパンだよ一!,誰かパンを買
いなよ一!)」
まだ夜が明け切らぬ頃から,独特の調子を伴った物売りの声が響く。6つの声調があるベトナム 語の音楽的な響きが心地よい。焼きたてのフランスパンの入ったかごを頭に載せた女性達の声だ。
中年の女性もいれば,まだあどけなさが残る少女もいる。彼女らはみな,背筋をピンと伸ばし,片 手を頭上のカゴに添え,ビニール製の草履をちょっと引きずるようにして路地を歩く。
2階建てから5階建ての家々が隙間なく立ち並ぶ。どれも細長い縦長の家だ。白塗りの壁が多 いが,中身はすべて赤煉瓦。大きな地震があったらひとたまりもないと思うのだが,ハノイには 地震がないといわれる。建築基準は日本よりずっと緩やかなのだろう。1ブロック20軒ぐらいの家 がひしめくようにそびえ,その間をやや荒い舗装がなされた路地が走る。
朝の運動のために小走りに路地をゆく年輩の人がいる。ちょっと立ち止まって軽い体操をする 人もいる。市場から早々と買い物をして帰ってきた女性は,急ぎ足で路地を通りすぎていく。家 の前で七輪に火を入れ,煮炊きの準備をし始める人の姿。東の空にようやく日が昇る頃である。ハ ノイの朝はとても早い。
朝食を家で作る習慣のあまりないハノイの人々は,路地に面した簡素な店で,フォー(ベトナム うどん)やソイ(蒸した餅米)などを朝食に食べることが多い。人気のあるフォー屋では,席が すっかり埋まっていて,回転も速い。プラスチック製の小さなテーブルに小さな椅子。路地に面 した店先で,おばさんが忙しくフォー・ガー(鶏肉入りうどん)やフォー・ボー(牛肉入りうど ん)を作り,おじさんや娘さん達が,忙しくそれを各々のテーブルに運んでいる。ハノイの学校 は二部制が基本で,午前の部は午前7時から始まるから,早くから学生達や子どもたちの姿も見 かける。清楚な白シャツの制服が感じよく,子どもたちが首に付けている赤リボンも爽やかだ。大 人の姿ももちろん多い。食べ終わると急いで日本製のバイクに乗り,職場に向かう人もいる。
夜明けとともに,物売りの人達の数もだんだんと増えてくる。かなり遠方からやってきたのだ ろう,もぎたてのバナナやパパイヤを自転車で運んできて売っている少女がいる。古ぼけた自転 車の後輪脇に大きなカゴが2っっいていて,それに果物が山のように積まれている。日本の絹ご
し豆腐よりもさらにきめの細かい独特の豆腐を売り歩く若者もいる。斜に構え天秤棒を担いだ独 特のスタイル。頭には緑色の地味な硬い帽子をかぶり,その豆腐の名前を長く引きのばして
「フオーオ!」と,よく通る声を上げながら路地を歩く。自転車の前カゴにその日の新聞を入れて売
『人文学科論集』32,pp.1−23. @1999茨城大学人文学部(人文学部紀要)
り歩く人もいる。たいてい自転車の後部にバッテリーが積んであって,宣伝文句を大きな音でス ビーカーから流している。ちょっとうるさいのだが,これもまた路地の風景の一部である。
路地に面したカフェでコーヒーを飲む人たちの間を,靴磨きの少年達が巡っている。カフェと いっても,普通の家の間口をちょっと開放し,家の前の路地のスペースを少し拝借して,小さな テーブルと椅子を並べただけ。でも,そこで注文するエスプレッソ風のベトナムコーヒーがまた 美味しい。出勤前の人々が一息つく場所だ。靴磨きの少年達は,なかなか客が取れずあきらめ顔 だが,たまに仕事ができると,一一心不乱に靴を磨いている。
暑い昼間は,路地を行き交う人の姿もまばらになる。日陰になった場所で,プラスチック製の 椅子や水くみなどを自転車に山と積んだ少女達が涼を取っている。シクロ(3輪自転車タクシー)
のドライバーも,日陰でシクロの座席に座り,ゴロンと昼寝をしている。小さな商店は開いては いるのだが,店番のおばさんは店の床にゴザを広げて一休み。とくに日差しの強い日は,無理し て出歩く人は少ない。
夕方になると,また路地は息を吹き返したように活気を取り戻す。一日の労働を終えた男性達 が,ビアホイ(ベトナムの生ビール)でのどを潤している。楽しく酔っぱらってだらしなくなっ た男性達の間を,店の若い女性がキビキビと注文を聞き,ビールやつまみを運んでいる。商店の 前では,馴染みの人たちがひょいと立ち寄り,小さな椅子に座って井戸端会議が始まる。こちら は,夕涼みをかねて,たわいのないおしゃべりが続いているようだ。昼間は暑くて発散できなかっ た子どもたちは,細い路地を勝手に占領してネットを張りバトミントンをしたり,決して上等と はいえないプラスチック製のボールを蹴ってサッカーに興じたりしている。開け放った家の床で は,車座になって家族が揃って夕食を食べている。今日の物は今日中に売ってしまおうというこ
とだろう,物売りの声は,ちょっと焦り気味に路地に響きわたる。
ハノイは,朝早いわりには夜が遅い。子どもたちや物売りの声がなかなかやまないまま,路地 の夜は更けていくのである。
路地の再発見
1998年9月下旬の現在,このハノイの路地に身を委ねて生活するようになって5ヶ月近くがた とうとしている。今年度(1998年度)在外研究で10ヶ月間ベトナムに滞在できる機会に恵まれて,
ハノイのある路地に面した家を借り,そこで妻と2歳の娘とともに生活をしている。もとより路 地の研究をしに来たというわけではないのだが,ベトナムに滞在しベトナム人の生活世界をフィー ルドワークするというのが目的であったから,見られるものは何でも見てやろうという気持ちが ある。私は心理学研究者として,現在はハノイにある社会人文科学国家センターの心理学研究所 に籍を置いている身である。研究所で行われる研究会などにも参加はするのだが,関心はむしろ 日常の生活の中にある。いわゆる異文化の中で暮らすその日常の中に何を見いだせるのか,心理 学には様々な方法があるが,科学的と呼ばれることの多い実験的な方法とはある意味で対極的な
フィールドワークという方法で何ができるのか,それを私なりに模索してみたいと考えた。
ハノイに10ヶ月間滞在するにあたって,家探しはひとつの大きな課題であった。ハノイに渡っ てきたのが1998年5月1日。それからしばらくは,ハノイの中心にある旧市街と呼ばれる地域の あるミニホテルに滞在した。その間に,ベトナム関係の様々なサービスを提供している日本のあ る企業の方に手伝ってもらいながら,いくつかの家を見て回った。比較的安い間借りの部屋もあ るらしいのだが,家族で住む予定だったので一軒家を希望した。外国人の借り手が減ってきてい るので家賃も下がってきているらしいが,それでも1ヶ月1000ドル以上という物件が少なくない。
(ベトナムでは現地通貨のドンよりも米ドルの方が通用しやすい場面がいくらもある。)出張費は もちろん出ているものの,あまり贅沢ができるほどではないので,できれぼ安いに越したことは ない。3階建てで1ヶ月600ドルという物件があって,いったんはそれにしようと決心したのだが,
その後大家さんとの交渉過程で,相手方が「日本製のテレビを買って残していってほしい」など といった条件を後から出してきたりしたので,そこはやめることにした。
ベトナムの生活世界を見たいのだからと思い直し,市場に歩いて不自由なく行ける場所という ことを条件に,あらためて家探しをした。2つ候補が挙がった。ひとつは屋上からの見晴らしがよ く,大家さんの感じも良かったのだが,市場には大通りを越えないと行けないということでやめ ることにした。その結果選んだのが,いま住んでいる家である。
家は5階建て。細長いちょっとしたオフィスビルのような外観で,1階にバイク・自転車置き 場を兼ねた玄関とキッチン,2〜4階は,南に面した10畳ぐらいの明るい部屋と北側の6畳ぐら
いのちょっと暗い部屋がある。5階はテラスとバスタブのあるお風呂と,ベトナムの家ならほとん どあるらしい神様を祭った祭壇の小部屋。トイレ・シャワーは各階にある。屋上からは,ハノイ の中心地まで見晴らしがきく。前に住んでいた人が日本の商社勤めの方だったということもあっ て,テレビ・ビデオ・オーディオ・机・椅子・ソファー・洗濯機など,ハノイで生活を始めるに あたっては十分すぎるほどのものが揃っていた。サーカス関連の仕事をしているという30歳代の 男性の大家さんも,スポーツマンらしく感じが良くて好感が持てた。1ヶ月850ドル。円安の現状 からすれば,決して安くはないと感じるが,設備などの割には安いと言っていいようだ。市場に も近いということで納得した。
ハノイの行政区は大きい順に「クアン」「フオン」「ト」と呼ばれるが,それぞれはおおむね「区」
「通り」「丁目」に相当する。この家があるのは,日本風に言えば,ハノイ市ドンダー区ランハー
通りll5丁目。(ただし住所がこの通りというわけでない。)ホワンキエム湖などがあるハノイの中
心地からは直線距離にして約4キロ,車やバイクで15〜20分ほどのところである。外国人も比較
的多く住んでいる住宅のある地域であるが,もちろん圧倒的に多いのはベトナム人。すぐ近くに
はかなり古い集合住宅が建ち並び,その中に食い込むように露天の市場が広がっている。少し離
れたところには,外資系の大きなホテルなどもあり,日本料理店や韓国料理店もある。近所で使
える公共のバスは本数が少なく不便だが,タクシーは電話一本ですぐに駆けつけてくれるし,バ
イクタクシーもすぐに捕まえられる。ハノイは比較的治安はいいと言われているが,この地域は
その中でも治安がいいと聞いている。
入居したのは5月17日。しぼらく時間をかけて家の中を整え,6月10日に日本から遅れてやっ て来た妻と娘を迎えた。ベトナム人の生活世界をフィールドワークするにあたって,家族が同居
しているということは重要な要因である。とくに2歳の娘の存在が,私の行動範囲を狭めたり制 約したりすることにもしばしばなるのだが,娘がいるがゆえにベトナム人と関係ができるという
ことが少なくない。まず娘に声を掛け,可愛がろうとするのが,出逢うベトナム人の多くに共通 しているからである。また妻は,現在はとくに仕事のない身であるが,私よりしばしば積極的に 近所の人たちと話をしたりして,それに乗じて私も話しに加わるということが少なくない。
家族がいるということがプラスに働き,我が家が面した路地に住む人々とは,ずいぶんと関係 が広がり深まりつつある。そんな中で私は,この路地の面白さをよりいっそう感じるようになっ た。生活に密着し様々な機能を果たしている路地そのものを再発見したと言ってもいい。この拙 論は,この路地の再発見が出発点になっている。ここに住み始めて2ヶ月ほどたったころ私は,
フィールドノーツにこう記している。
「家の前の小さな路地も,今ではバイクや車も通るのだが,基本的に住人の共有の場という感じ がする。ベトナムの家はどこでも厳重なシャッターがあって,寝るときにはがっちりと施錠をす るのだが,それ以外のときは,しょっちゅう出入りをしたり,開けはなっていたり。七輪のよう な道具がたいていの家先にあって,そこでちょっとした料理を作ったりお湯を沸かしたりもする。
近所に住んでいる外国人は,そういう路地にはほとんど留まらず,バイクですぐにどこかにでか けてしまったりするけど,ベトナム人たちは家先で赤ん坊を抱いてのんびりしたり,おしゃべり をしたり。この路地が,なかなか魅力的な場所に思えてくる。」(7月23日)
この路地での生活が,今の私にとっては日常である。しかし,日常ほど的確に捉えにくいもの はないかもしれない。あまりに当たり前すぎて,かえって気づいていないことが多いからである。
当たり前であることを対象化してみることは難しい。この「当たり前」で構成された物事を私た ちは文化と呼んでいるわけである。ただ,現在私にとって有利なのは,この路地の文化が私にとっ ては異文化だということである。日本にいるときとはまるで違うことが多いゆえに,ここに住む ベトナム人が気づきもしないことを,私なら気づける可能性がある。もちろん異邦人ゆえの制約 もあるが,異邦人ゆえのメリットを生かすことを考えたい。
ただし異邦人だから,異文化だから気づくことが多いというだけでは,そこから生み出される ものは,異文化の中で生活した体験記や異文化の中を旅行した紀行文と何ら変わるところがない かもしれない。(そのような体験記や紀行文を総じて低く評価するものではけっしてないが。)学 問としての格付けをするということでは必ずしもないが,そこにはやはり心理学研究者にこそ可 能な方法論的視点が必要であろう。
それにひとつの指針を与えてくれるのがエスノメソドロジーである。エスノメソドロジーとは,
社会学者ガーフィンケルの用語であるが,社会・文化の中で暗黙のうちに機能しているエスノメ
ソッド(文化の方法)の生態を明らかにしようとするアプローチを指す。エスノメソッドとは,「社 会成員にとって自明な現実を編婆出す暗黙の手続きであり,生の自然を人間生活の対象物へと変 換する文化の構成原理」(南1993)であり,それは普段はほとんど気づかれることはないが,通常 の感覚からズラしていく(異化する)ことによってしばしば明らかになる。要するに文化を構成し ている明文化されていないルールであり,同じ文化を共有している人が暗黙のうちに従っている ものである。
私にとって魅力が感じられるハノイの路地には,どんなエスノメソッドが隠されているのか,私 なりの観察によって,その一端を解きほぐしていきたいと思う。その手続きを経ることで,ハノ イの人々の生活世界,中でも人間関係の有様の一側面だけでも明らかにしてみたい。ただし,私 は単なる路傍の観察者ではない。そこに参加し,様々なことを感じ考える主体でもある。「感じる こと」などというのは, 客観 的でないとされて心理学研究では排除されがちだが,観察主体が
「感じる」ことでしかわからないこともある。この 主観 にできるだけ実直に向かい合い,相互 主観性という名の客観性がある記述を試みてみたい。
いま「参加」と書いたが,私はこの路地にすぐに「参加」できたわけではない。今でも十分に
「参加」していると言えない部分もある。ひとつの大きな要因はベトナム語の語学力である。
「良き隣人でありたいと思い,ときに商店の前に座らせてもらって,まだろくにできないベトナ ム語で,そこのご主人などとにこやかに会話しています。」(5月24日)
友人にあてた電子メールの一部である。「商店」というのは,家の向かいにある小さなもので,
そこにすでに「参加」しているとやや見栄を張って言いたかったのであるが,実際にはこの頃は まだベトナム語がほとんどわからなかった。「にこやかに」していたことは確かだが,5月下旬の 段階では,「会話」と呼べるものにはほど遠かった。
それでも私なりに努力していたことは確かである。
「来週,6月4日から7日までランソン(中国国境に近い街)に行ってくるというのを,何とか ベトナム語で彼女(向かいの商店の奥さん)に伝えることができた。「ディー・チョイ?(遊びに行
くの?)」と聞かれて,これはちゃんと理解できた。「ヴァン・ヴァン!(そうそう!)」(5月30日)
ベトナム語は,ハノイにやってくる前に,茨城大学人文学部で開講されているベトナム関連の 授業に少し参加させて頂いて勉強したり,あるいは独学で勉強したりしたことはあったものの,本 格的に勉強したのは今回ハノイに来てからである。5月下旬から,日本語のできるベトナム人学生
に家庭教師をお願いし,7月からはそれに加えて,ベトナム文化交流研究センターでベトナム語の 勉強をしている。(なお,妻も同様にベトナム語の勉強をしている。)現在はまだカタコトのべト
ナム語で日常会話がなんとかできるというレベルであるが,ベトナム語の語学力の進歩に伴って,
当然私の路地への「参加」の程度や質も変わってくる。
路地でベトナム人と話すときに,通訳を伴っているときはほとんどない。たまに,ベトナム語 の家庭教師をお願いしている学生が,少しその場に居合わせて通訳してくれることはあるが,そ れは例外的である。この拙論では,ベトナム語がほとんどわからなかった私が,どのような段階 を経てこの異文化に入っていきつつあるのかという点にも触れてみたい。
メンさん
この家に入居して以来ずっと,一番関わりの深いベトナム人がメンさんである。「向かいの商店 の奥さん」と先述したのは彼女のことで,今年38歳。(ベトナムは数え年で数えるのが普通なので,
メンさん自身は39歳と言っている。ちなみに私は満年齢で今年34歳,妻は33歳)我が家のお手伝 いさんでもある。娘もすっかり懐いていて,私も妻も全幅の信頼を寄せている。
ハノイ在住の日本人など外国人の多くがお手伝いさんを雇っていることは薄々知っていたが,
「そんなお手伝いさんなんて_」というのが当初の偽らざる思いであった。ベトナム人をお手伝い に雇うということは,そこに自分たちとベトナム人の間に必然的に上下関係を作ってしまうこと になるのではないかと考えていた。
それでも結果的にメンさんにお手伝いをお願いしたのは,我が家の前住人であった日本人のと きから彼女はこの家のお手伝いの仕事をしていて,私と入れ替わりに退去するときに彼が「5月分 の謝金はもう払ってありますから」と言ったのがきっかけであった。大家さんも彼女はとてもい い人だと言うし,ならば5月中はお手伝いの仕事をこれまでと同じようにやってもらって,それ で様子を見た上で6月からどうするかを考えようと思った。
「(朝御飯を食べて)家に戻ろうとしたときに向かいの商店を見ると,しっかりとシャッターが閉 まっていたので,「あれ,今日の午前中は(メンさんは)お出かけかな」と思った。(ところがそう ではなく)家の中に入ってみると,メンさんがすでに掃除洗濯を始めてくれていた。彼女にしたら,
○○さん(前住人)の時からの継続だから勝手知ったるものだろう。何となく自分の家に他人がい るということの違和感をまだ感じるし,掃除洗濯をお金でやってもらっているということが,ど ことなくしっくりこない。」(5月18日)
引っ越してきた翌日の感想である。メンさんは合い鍵を持っていて,いつでも必要なときには,
呼び鈴を鳴らしたりすることもなく家に入ってくる。始めはこういったことにずいぶんと違和感
を覚えた。ベトナム人にはあまりノックをするという習慣がないらしく,私が机に向かっていて
も,部屋にスーッと入ってきたりする。今の日本人が一応共通して持っていると思われるプライ
バシーが,ここでは破られてしまう。今ではずいぶんと慣れたが,違和感がすっかりなくなった
わけではない。冷蔵庫の中の果物が腐りかけているとか,ゴミ箱の中にあったレシートから外食
にいくらぐらいかかったとか,彼女はそういうことまでしばしば知っている。
そういう違和感の一方で,5階もある家の掃除は自分でやればかなり大変だし,洗濯もやってく れるのは有り難いものだと感じた。6月からお手伝いは要らないと言えば,彼女は職のひとつを失 うことになる。ちなみに1ヶ月の謝金は60ドル。週6日で日曜日はお休み。日本の物価水準から すれぼずいぶん安い額なのだが,彼女が我が家で仕事をするのは朝の1〜2時間ほどで,ハノイ ではフルタイムでお手伝いをお願いしても80ドルぐらいが相場だということだから,必ずしも悪 い収入ではないはずである。彼女もこの仕事を続けることを希望しているようだった,5月の彼女 の働きぶりがとても有り難かったので,すぐに6月以降も継続してお願いすることにした。
メンさんは4人家族で,ご主人で公務員をしている43歳(満年齢)のフンさん,それに娘さん が2人いる。高校生で16歳のザンちゃんと小学生で8歳のバーちゃんである。私の家族は,この 一家といわば家族ぐるみの付き合いをしていくことになる。
私は,メンさん一家と良き隣人でありたいと願った。実際それは,とくに6月10日に妻と娘が 日本からやってきてからは,かなり実現できていると言える。後に詳しく述べるように,娘はメ ンさんのところの商店にしばしば行きたがり(「おばちゃんとこ,いく一」というのが娘の口癖に なった),メンさん一家が夕食を食べているときだと,ちゃっかりそのご飯を少し頂いて食べさせ てもらったりする。私たちも,たとえばお好み焼きなどの日本料理を作ればメンさんところに持っ ていったりするし,商店の内外でときどきおしゃべりに加わっている。
ただ,当初抱いた下記のような違和感は,いまでも完全には拭いきれないままである。その日 はとても暑い日であった。
「2階の部屋にクーラーを入れてカーテンを開けた。そうしたら,メンさんと娘のバーちゃんが,
店の中の床のところでゴザを敷いて昼寝をしているところだった。何となくその様子を見ていた ら,自分が居るところの位置が何だろうという気がしてきた。メンさんのところには,当然クー ラーはないだろう。それで4人が暮らしている。ここにはクーラーが3つもあって_。」(5月22
日)