金 光 男
(目次) 独立運動期,ダウド・ブルエ反乱期,スカルノ時 1:はじめに 代,スハルト時代を通じてずっと,中央国家権力
〈課題〉 から「治安対象」として見なされてきた地域だと 2:植民地アチェ 言えよう。
〈スルタン,ウレーバラン,ウラマ〉 またアチェは胡椒,ゴムなどの商品作物や石油,
〈オランダ統治政策〉 金などの鉱物資源にも恵まれている地域である。
〈プサ設立〉 石油多国籍企業のロイヤル・ダッチ・シェル社は
〈日本軍政〉 この東アチェの石油開発から生まれて成長していっ 3:アチェ社会革命 た会社である。現在では国営のプルタミナ石油公
〈スカルノ・バッタ独立宣言〉 社とモービル石油の合弁によって,ロクスマウェ
<独立精神とイスラム的社会主義運動(Pesindo 近郊のアロンLNGが大規模に開発生産され,そ とPemuda PUSA)〉 の液化天然ガスの大部分は日本に向けて輸出され
〈チュンボック事件〉 ている。さらに近年においてはエビの養殖も盛ん 4:共和国樹立とアチェ省 に行われている。こうした産業はすべて外部地域
〈アチェ地方行政〉 への輸出向けに発展してきたものである。
〈地域社会経済〉 この比較的豊かな地域アチェにはイスラムを信
〈プロピンシ問題〉 仰する人々が暮らしている。半世紀前,彼らはイ 5:おわりに ンドネシア共和国の独立をめざして戦った。ジャ
〈参考文献・資料〉 ワ島以外の地域では,アチェが共和国独立運動の 強力な拠点となった。
1:はじめに そこでここでの課題は,アチェにおけるインド
現在インドネシア共和国の27省の一つとなって ネシア独立運動がどの様に展開されていったかを
いるアチェ特別省(Propinsi Daerah Istimewa 明らかにすることである。その独立運動が主とし
Aceh)は8県2市をかかえ,オランダ王国(4 てどの様な人々,グループによって担われ,彼ら
万1千㎞弱)よりも広い5万5千平方キロ強の面 が何を考え,どの様に行動していったか考察した
積と約300万人の人口をもつスマトラ西北端の省 い。この問いは,現代インドネシア共和国の政治
である。エスニック・グループとしては,およそ 的統合と開発にも連なるものであると筆者は考え
人口の90%がアチェ民族である。 ている。すなわち,1945年から 50年頃までの間
アチェでは1998年5月のインドネシア政変の後, にインドネシア共和国としての国家構成原理の基
軍の作戦地域(DOM:Daerah Operasi Militer) 礎が作られていったのではないかと考える。アチェ
を解除され,駐留軍部隊の撤収が発表された。ま という一つの地域でジャワを政治の中心とする共
たアチェでは現在までおよそ800体を数える処刑 和国体制がどのように作られていったのか,そし
死体の遺骨が発見されている。アチェは19世紀後 てまたその体制に軍の「二重機能」がどのように
半のオランダによる植民地戦争以来,日本軍政期, 組み込まれ,新しい国民国家建設の理念としてイ
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出所:T.アブドゥルラ編『インドネシアのイスラム』p.32
スラームでなくパンチャシラが掲げられていった とになる。すなわち,
のはどのような歴史的経緯によるのか,といった チェ」においてオランダ植民地期から日本軍政期 問題を考えるための一つの手がかりとなるのでは までを一括して考察したい。
ないだろうか。さらに,ここでの議論は1953年か 1945年8月17日の独立宣言以後,アチェ社会が植 ら56年頃まで,そして1970年代半ば,1990年から 民地時代を通じて受けてきた
1992年のそれぞれのアチェ地方反乱を考察する場 をいかなる形で「清算」していったか考察する。
合にも,留意すべき問題ではないかと思っている。 第4章では,アチェ社会の内部運動を経た後に,
アチェの植民地からの独立運動は,オランダ植 インドネシア共和国として
民地支配から日本軍占領期を経て,再支配を試み 骨をなしたアチェの独立運動を見ていくことにし るオランダとの闘争が一定の成果をみた1949年12 たい。この独立運動の過程において,独立後の争 月27日のハーグ円卓協定まで一連のものとして続 点となるアチェの自治権問題あるいはプロピンシ いている。したがって,ここでは日本軍政期をオ (省レベル)としての
ランダ植民地時代からの連続において取り扱うこ める要求が生まれてくる背景を探ってみたい。
2:植民地アチェ 1969,pp.2−3;Siege1,1969, pp.4−5]
<スルタン,ウレーバラン,ウラマ> 17世紀末にはスルタンは象徴的存在となり実効 すでに13世紀以来,アチェ各地では交易品とし 的な支配力は衰えていった。こうしてイマム,ウ てコメ,胡椒,樟脳(カンフル),ビンロウ樹の レーバラン,マントゥル(mantroe→menteri)
実が取引されていた。これらの商品はすべてアチェ と呼ばれた階級が世襲的権力をもち,それぞれの の人々によって栽培されていた。アチェの人々は 領域の首長となった。ウレーバラン階級は自ら治 こうしたコメ,胡椒,ビンロウ樹の実の生産者で める領国で直接に交易事業に乗り出し,スルタン あると同時に,それを販売する商人でもあった。 の交易独占は崩壊した。[Siegel,1969, p.5]
16世紀初頭スマトラ島を訪れたトメ・ピレスの アチェの中心都市コタラジャ(現在バンダ・ア 記録によれば,アチェにはペディル(現在のPidie チェ)をかかえる地域アチェ・ブサールでは,領 近辺),プルラック(Perlak),パサイ(Pasai, 区ムキムがいくつか集まってサギ(Sagi)と呼ば 現在のLhokseumae近辺),アル(Aru)など多 れた連合体が作られた。このサギを構成するムキ
くのイスラム王国が栄えており互いに戦争を繰り ムの数によってサギ26ムキム,25ムキム,22ムキ 返していた。またそれら王国では物資豊かで取引 ムと名称化され,それぞれアチェ川の右岸,左岸,
が盛んであり,人々は誇り高き民であったという。 後背丘陵地を統治した。このムキム連合体である 港にはあらゆる国の商人が集まり,胡椒,生糸, サギを政治軍事的に指揮統率するために選ばれた 安息香,コメ,蜂蜜,樟脳,ロタン(籐),果物 者がパンリマ・サギ(Panglima Sagi)と呼ばれ など極めて多種多量の食糧や熱帯物産および奴隷 た者で,彼はスルタンを守護する地位にあり代々 などが取引されていた。[東方諸国記,pp.257一 世襲されていった。時代とともにこうしたウレー 275] バラン階級が特権的権力を掌握し,19世紀にはス
1530年頃アチェは一つの王国として統一された。 ルタン王位継承問題に発言権をもつようになる。
マラッカを占領したポルトガルに対抗して,イス それぞれのサギから4名つつ出された 王子を就 ラム交易および支配の求心力としてのスルタンの 任させ,また退位させる12人のウレーバラン が 権力は拡大していった。スルタンはアチェ地域の 構成された。これ以降スルタンは主だったウレー 輸出商品を独占し交易を管理しその富を蓄積して バランの同意を得ることなくして臣下に服従を求 いった。そしてスルタンは西洋の交易勢力を撲滅 めることはできなくなった。[Reid,1969, pp.4一 する戦いを百数十年にわたって続けていく。 5]
スルタンの権力が最も大きくなったのは17世紀 19世紀ヨーロッパの進出に対して,かつてのよ 前半のスルタン,イスカンダル・ムダ(嬉kandar うにスルタンが主役となってアチェ対抗勢力を組 Muda;1607〜36年)の時代だと言われている。 織することはなくなった。アチェの人々は各地で 彼はスマトラ東岸のアサハン(Asahan)からマ パンリマとして尊敬されたウレーバランや,イス レー半島のパハン(Pahang)に至るまで勢力を ラム教指導者であるウラマの指導の下に結束する 拡大し,その領域を複数の行政区画に分けウレー ようになった。そして人々はアチェ語を話し,精 バラン制(uleebalang)あるいはムキム制(mukim) 神的にはスルタンの正統性を認め,イスラムに熱
を作って統治した。ウレーバラン制あるいはムキ 心で,自らを「アチェ人」と考え,異教徒オラン ム制とはいくつかの領区(mukim)(1)をウレー ダに対する「聖戦」を信仰的使命として捉えるよ バラン(2)と呼ばれた世襲の軍事・行政的貴族層が うになった。
統括した自治領国の制度である。ウレーバラン階
級はスルタンの臣下であり,いくつかのムキムを
スルタンからの報酬として受け取った。[Reid,
〈オランダ統治政策〉 配の中心的道具として支援していくことなどを,
1871年の英蘭協定でスマトラ島はオランダの勢 フルフローニェは提言する。またアチェ戦争の後 力下におかれた。マラッカ海峡はスエズ運河開通 半には,指導的役割を担うウラマを軍事的に圧迫 によりヨーロッパ勢力にとってますます重要な意 して,ウラマの活動を純「宗教的」分野に封じ込 味を持つようになった。イギリスもオランダもこ めることを主張する。こうした彼の提言はオラン のマラッカ海域の支配権を確保するためにアチェ ダのアチェ植民地政策に採り入れられ,それから の脅威を取り除く必要があった。また,イギリス 数年の後にアチェ戦争は終わった。[Siegel,1969,
を英蘭協定に引きつけた要因の一つに新興勢力ア p,9]
メリカのアチェへの接近があった。北スマトラの オランダは広大な植民地スマトラの開発,道路 コショウやゴムの生産以外にも19世紀半ばから後 や鉄道の建設などに地域住民の労働力を必要とし 半にかけて,石油,石炭,スズ,金などの鉱物資 た。アチェでも強制労働(herendienst)が賦役 源が発見された。資源に対するイギリス,アメリ として課された。人頭税も徴収された。1917年の カの関心にも刺激されて,オランダは一層強固な 場合,住民一人につき1年間1ギルダー程度納めた。
領域支配へと向かうことになった。[Wertheim, アチェの人々が最も嫌ったことは,オランダの企 1959,pp.63−66.] 業による土木建設工事への賦役だったという。そ オランダは1873年にアチェに対して宣戦布告す れは年間一人につき24日間の労働賦役を会社側に る。この戦争はオランダ軍とパンリマ・サギ等に 提供しなければならなかった。この賦役を避ける よる大規模かつ組織的な戦闘という点では1910年 ために大勢のアチェ人が対岸のマレー半島に移り 頃に終了した。だがその後,殉教者としての死を 住んだという。[Reid,1979, p.9]
選ぶ「聖戦」を唱えるウラマに率いられたアチェ
民衆は,1930年代後半にいたるまで,オランダ人 オランダ領植民地インドネシアの輸出入 に対するゲリラ戦あるいは個別的襲撃を繰り返し 期間 輸入 輸出 貿易収支 た。この猛烈なアチェ民衆の襲撃を恐れたオラン 1876.1880(平均) 129 180 +51
ダ軍が女性子供を含む村落を全滅させることもあっ 1881_1885 〃 142 189 十47
た。アチェの中心部アチェ・ブサール(県レベル
1886−1890 ク 130 185 十55に相当する領域)の人口が戦争前の1/4にまで激
減したと言われる。この戦争はアチェ人にとって 1891−1895 162 206 +44 半世紀以上にわたって続いた過酷な戦争だった。 18964900 ク 170 227 +57
また,オランダにとってこの戦争は長期にわたり 1901−1905 〃 197 275 +78 消耗の激しい,多額な戦費を要する植民地獲得戦 1906−1910 258 414 +156
争であった。 1911_1915 〃 407 643 十235
アチェ戦争を終わらせる為に,オランダはイス 1916_1920 〃 685 1339 十654
ラム学者フルフローニェ (Christian Snouck
1921_1925 〃 817 1417 十600Hurgronje)をアチェに派遣する。彼はアチェ社
会で影響力をもつウレーバランに注目した。ウレー 19264930 994 1501 +507 バランは形式的にはスルタンの臣下であるが,実 出所;Wertheim,1959, p.101.(単位100万ギル 態はスルタンの政治的支配を受けておらず独立し ダー)
た特権階級であると見た。オランダはこのウレー
バラン階級を支配することに力を集中し,彼らに
オランダへの忠誠を求め,そして彼らをアチェ支
オランダ領インドネシアに対する は農民を土地に縛り付けて年貢を徴収するような 1939年度国別資本投資 封建的関係ではなかった。17世紀後半以来,多く オランダ 1536(75) のウレーバランは自らの経済的基盤を交易活動お イギリス 278(13,5) よび交易に対する課税においていた。
特に18世紀末から19世紀前半にかけて,ウレーフランス・ベルギー 112(5)
バランの資本によって,ウレーバランが指導したドイツ 18(1)
胡椒栽培の開発・交易が発達した。アチェ・ブサー
日 本 20(1) ルからの一団の移住者がアチェ西海岸へ移住し胡
アメリカ 53(2・5) 椒の栽培生産が盛んとなる。アメリカ商人も直接 スウェーデン 5⇔ に胡椒取引のためアチェにやって来るようになっ 合計 2064(100) た。19世紀後半には胡椒開発はアチェ西海岸の南
(単位100万ギルダー),O内は% 部から北部へそしてアチェ東海岸に移行していっ 出所;Wertheim,1959, P.102. た。アチェ西海岸や東海岸地域においては胡椒開
発をすすめた資本家としてのウレーバランが経済 アメリカ,ヨーロッパを中心に20世紀初頭から 的基盤を確立する過程において移住開発区域の政 現れた石油ブームと自動車などのタイヤに用いる 治権力をも形成していったと考えられている。
ゴムの需要増大によって,オランダのアチェ支配 [鈴木,1976,pp.62−77]
は一層重要となった。上表の1939年の投資額の内, こうした胡椒交易などに関わるウレーバランの イギリス,アメリカ,フランスの総資本の47%が 独占資本家としての特権は20世紀に入ってもオラ スマトラ島におけるゴム産業への投資だった。ま ンダの会社の利益を害さない限り保持された。こ た,イギリス,アメリカ資本は石油採掘分野で極 の交易による富に加えてオランダ政庁からの莫大 めて重要な役割を担った[Wertheim,1959, p. な供与手当もあり,アチェのウレーバランはもっ 102.]。このように欧米の石油会社やプランテー ぱら土地に縛られた農民に経済的基盤を置くこと ションが広大な土地を囲い込み開発利権を取得し, はなかったと考えられる。もちろんアチェ第一の その操業地域の治安を確保し一層の開発を推進す 米作地帯ビディエ県ではウレーバランが農地をほ るためにも,ウレーバランはアチェ植民地統治の とんど独占的に支配していた。この場合にも軍事 中心的要として重視された。ビディエや東アチェ カを背景に持つ封建領主的な土地所有ではなくし では,ヨーロッパ人の経営するゴム・プランテー て,アダットといわれた慣習法を悪用し,あるい ションや石油会社からのローヤリティ(土地・鉱 はアダットの自己中心的解釈をして土地所有を拡 区使用料)が領国支配層のウレーバランに対して 大していった。その農地の運用は地主・小作関係 支払われた。また,オランダ政庁は国庫経費を計 に近いものではなかったかと考えられる。また,
上してウレーバランに植民地官僚としての給与手 J・シーゲルの研究によれば,ビディエ県におい 当を出した。いわゆる領国行政(zelfbestuurder) てすら,ウレーバランの経済的基盤は交易支配と を有力なウレーバランに運営させ,領国内でのよ 胡椒生産への投資をはじめとする経済活動にあり,
り低い地位のウレーバランやウラマや民衆を統率 領国の土地支配とか潅1既施設の独占などによるも し治安の維持をはかった。アチェではこうしたウ のではなかったという[Siegel,1969, pp.14−29]。
レーバランの統治する領国が103カ所あった。 いずれにせよ,アチェでは一般に土地所有に関し だが,ウレーバランはヨーロッパや日本で見ら てはイスラーム法(Hukum)が適用されており,
れた様ないわゆる封建領主ではなかった。彼らの そこでは農民個人の土地の所有権は認められてお
経済的立場は領主の農奴に対するような,あるい り,土地を自由に売買することも可能だった。
もともとウレーバランはオランダがやって来る ともあっただろう。だが一般の人々は生活するこ 以前から,港や河川そして市場を支配し,胡椒, とそのものが先立つのであり,切実なる止むにや ビンロウ樹,コメなどを自ら交易していた。当時 むを得ない事情があってはじめて「蜂起」するの アチェではジャワ島やメダン近郊のデリー,ラン ではあるまいか。暮らしむきが確実に向上すると カット,スルダン地方とは異なって,華人商人が イメージさせた言葉「100%独立」という世俗的 地域経済に介入することが出来なかったインドネ なスローガンにも人々は引き付けられていった。
シアでは数少ない地域である。オランダはこのウ そしてより深刻な「利害」をアチェの人々が共有 レーバランの伝統的支配権を自らの植民地支配に していたからこそ長期にわたるイスラームの旗の 利用したのだ。またオランダの植民地政策でコメ 下での連帯感が生じたと筆者は考えている。この の生産と流通が重要なものとして挙げられる。労 汎アチェ的な「利害」を若いイスラム教師達は身 働力の食糧としてコメの確保が重要であった。蘭 をもって感じていたに違いないと推測する。彼ら 印政庁の農業政策により,アチェでは華人ではな は村落の民衆農民たちと日常的に接しており,ま くてウレーバランが精米業を独占した。アチェに た自ら村落の農民や商工人出身であったり,村の おけるコメ,すなわち食糧生産に大きく関与する イスラム的公民館ムナサ(meunasah)のリーダー,
ことになったウレーバランは,農民との軋礫もい テゥンク・ムナサの子弟であったりした。彼らイ ままで以上に強く経験せざるを得なくなる。こう スラム教師(ウラマ)達は,アチェにおいて唯一 して徐々に,ウレーバランはオランダの権力に依 ではないが極めて大きな独立運動の求心的勢 存する間接統治者としての立場を明確にしていく。 力(3)となっていったのである。
ところで,インド洋に面したアチェ西海岸のタ
〈プサ設立〉 パックトゥアン(Tapaktuan)にはミナンカバウ ウレーバラン階級はオランダ植民地支配に対す 人の大きなコロニーがあった。このミナンカバウ るアチェ民衆の独立運動の求心力にはなりえなかっ 人の定住地を通って西スマトラのイスラム改革主 た。独立運動の求心力は,出生から割礼,コーラ 義がアチェに伝わっていった。イスラム改革主義 ン暗唱,日々の祈り,結婚,家庭生活,死,相続 と共にナショナリズム,共産主義といった思想も といったアチェ人の人生のフルコースを規定して この西スマトラからタパックトゥアンを経て西ア いたイスラームにあった。イスラームの旗の下に チェへ伝わっていったと考えられている。
人々は結集した。結集する素地をつくったのはウ 1920年代スマトラ・タワリブ(Sumatera Tha ラマによるイスラム教育,すなわちアチェ全域の walib)が西アチェに影響力をもつようになる。
農村部に普及していたプサントレンだった。この. スマトラ・タワリブは1920年に西スマトラ,ミナ アチェ全域に広がったイスラム教育機関はそれぞ ンカバウで創設されたイスラム改革主義の教育組 れがウラマ達を介したネットワークを形成してい 織で,その理念はイスラムとナショナリズムの結 た。それは単なるウラマの師弟関係などの個人的 合にあった。メッカから帰郷したハジ・アブドゥ な人間的な繋がりのみでなく,イスラム教育改革 ル・カリム・アムルラ(ハムカ)らがアラビア語,
運動という広い文脈に於ける情報ネットワークで 一般教養,クラス制などを導入してイスラム学校 ある。 を改革した[間苧谷:インドネシアの事典]。
だが,一般のアチェ住民は各地域各階層の政治 1926年に西スマトラに隣…接するアチェ南部のバコ
経済的利害を乗り越えた宗教的・理想的なイスラ ガン(Bakongan)でオランダ当局に対する「反
ム共同体(umma)を実現するために結集したわ 乱(1926〜27年)」が起こった。 A・リードによ
けではなかった。一部の宗教的エリートや知識青 れば,この事件は同時期のジャワ,西スマトラに
年などは理想的社会の実現のために立ち上がるこ おけるインドネシア共産党(PKI)の蜂起に刺激
を受けた結果発生したという。アチェ中部山岳地 となったチュッ・ハッサン(Teuku Cut Hasan)
帯ではPKI党員がアチェ・ムスリムにむかって, は蘭印政庁の役職を拒否し反植民地主義を明言し 共産党はアチェ,スマトラのコンペー二(オラン たナショナリストであった。オランダはムハマディ
ダの会社)を粉砕しいかなる強制労働課税から アを単なる宗教組織として見ておらず,民族主義 も人々を解放し自由をもたらすと演説した。これ 的な性格の強い政治団体として警戒していた。
を聞いたムスリムはかつてのアチェ戦争の時のよ アチェ農村部のイスラム教育を担っていたウラ うにi聖戦(Perang Sabi1)として応答していっ マ達は,ムハマディアの教育改革運動ならびにオ たという[Reid,1979, p.10]。 ランダの国民学校(volkschoo1)によって危機感
バコガン反乱の後,オランダ政庁は西アチェで を高めた。若手ウラマ(kaum muda)は西スマ の政治的宗教活動を一切禁止した。そこでムハマ トラのタワリブ学校で学んできたイスラム教師も ディア(Muhammadiah)が西スマトラ(ミナン いて改革派と呼ばれていた。彼らはイスラム教育 カバウ)においてスマトラ・タワリブの影響を引 のシラバスをより広範なものにし近代的な教育方 き継いだ。ムハマディアは1920年代後半にインド 法を採用していった。若手改革派ウラマによる学 ネシア全土に学校とそれを支える組織のネットワー 校はアチェ農村部で大きな影響力をもった。
クを作った。1928年クタラジャにてムハマディア 1930年ビディエ県シグリ近郊のガロット(Garot)
の学校が初めて開校されると,それがアチェの最 に設立されたジャミアトゥル・ディニヤ(Jamiatul も重要な全国的な組織となった。ムハマディアは Diniyah)がこの若手ウラマの新しい運動の母胎 急速にシグリ(Sigli),ロクスマウェ(Lhokseum となった。ジャミアトゥル・ディニヤの指導者は awe),ランサ(Langsa)に広がった。だがムハ ダウド・ブルエ(Teungku M. Daud Beureueh)
マディアの都市的性格やメナンカバウとの関係に である。ジャミアトゥル・ディニヤのはじめての よって,アチェの農村部ではそれほど広まらなかっ 学校がピヌエン(Pineueng)のプラン・パセ たという。[利光,1995,pp.76−95] (Blang Pase)で1931年に開校された。後のプム
ムハマディアは主として都市部で広まり,アチェ ダ・プサ(Pemuda PUSA)代表で,アチェ社会 農村部には浸透することができなかった。これを 革命の中心的推進者の一人で,なおかつ北スマト 克服するため,アチェにおけるムハマディアは著 ラ・アチェ石油事業の管理責任者になったことの 名なウレーバラン知識人をその後援者とした。ア ある人物,フセイン・アルムジャヒッド(Teungku チェで最初のムハマディア・コンスル(全権代理) Hoesain Al Mudjahid)もこの学校で1931年か はグルンパン・パユンのテゥク・モハンマッド・ ら1933年まで学んでいる。またジャミアトゥル・
ハッサン(Teuku Mohammad Hasan)だった。 ディニヤは後にイ・ルブェ(Ie Leubeue)とクラ ムハマディアはアチェの若いウレーバラン知識人 パ・サトゥ(Kelapa Satu)にも学校を開設して をインドネシア民族主義運動へ引きつけていった。 いる。このジャミアトゥル・ディニヤの教育改革 オランダ植民地時代には植民地議会フォルクスラー 運動が一部の保守派ウラマを巻き込んで政治団体
トの議員を勤め,日本軍政期にはアチェ州参議会 としての性格を持つ集団に成長していく。
議長であり,そして独立宣言直後アチェ州知事と 1939年5月5日は予言者マホメットの誕生を祝 なって活躍したウレーバランのナショナリスト, う日だった。プサガン・ビルエン地区(Peusangan一 ニャ・アリフ(Nya Arief)は,ムハマディアの Bireuen)のマタン・グルンパン・ドゥア(Matang オランダ語学校を支える奨学基金委員会の委員長 Glumpang dua;地名)のテゥンク・アブドゥル・
となってムハマディアのアチェに於ける活動に協 ラフマン(Teungku Abdul Rahman)が呼びか
力した[利光,1995,p.82, p.87]。また, T. M. けて,アチェ全域の保守派ウラマと改革派ウラマ
ハッサンの後継としてアチェ・ムハマディア代表 がマタン・グルンパン・ドゥアに集まった。この
大集会で,全アチェ・ウラマ同盟(プサ:PUSA, ちなどの若者を大勢プムダ・プサに組織した。こ Persatuan Ulama Seluruh Atjeh)が結成され の時からプサの評議会(Madjlis Tanfidziah)
た。議長にダウド・ブルエ,副議長にアブドゥル・ や婦人会(Barisan Muslimat PUSA),農村部 ラフマン,第一書記ヌル・エル・イブラヒミィ や地方都市の支部組織などが次々と作られていっ
(Tgk. M. Nur el Ibrahimy),第二書記イスマ た。この婦人会の代表者はダウド・ブルエの妻ニャ・
イル・ヤコブ(Tgk.lsmail Jacub),会計幹事T. アスマ(Teungku Nja Asma Daud)である。農 M.アミン(T.M. Amin)が選ばれた。議長, 村部を中心としてアチェ全域に広がったプサ組織 第一書記,会計幹事がともにビディエ県出身であっ は「民衆の団体」としての様相を呈していた。
たためプサ本部はシグリに置かれた。このウラマ 「プサの会員はアチェ住民であり,アチェ住民は 大集会呼びかけ人でもある副議長アブドゥル・ラ プサの会員である」と言われていた。[Arif,1950,
フマンおよび第二書記兼プサ発行誌『プニュル pp.21−22]
(Penjoeloeh)』編集長のイスマイル・ヤコブは北 プサやプムダ・プサは経済的分野においても活 アチェ県のビルエン(Bireuen)出身である。 動した。サカ(SAKA:Sjarikat Kemakmuran
[Arif,1950, p.17] Atjeh:アチェ繁栄同盟)や商業組合(Koperasi プサが設立された当初,オランダが最も警戒し Dagang)などがプサの経済団体として設立され ていたのはプサではなくムハマディアだった。ム ている[Arif,1950, p.23]。こうした団体や組 ハマディアはインドネシア民族主義の運動を担っ 合の活動は太平洋での戦争により中途で挫折し見 た非アチェ人の組織だった。それは容易にジャワ るべき成果を生んではいないが,プサやプムダ・
その他の地域と連帯することができた。ところが, プサがアチェ社会の経済問題に関心を持ちそれに スマトラの西北端アチェしかも農村部に根ざすア 取り組もうとしたことは注目に値する。
チェ人の地方的性格の色濃いウラマ主導の団体に
対しては,オランダ植民地当局は比較的寛容だっ く日本軍政〉
た。当初オランダにとってプサは,ミナンカバウ 植民地体制に対するアチェ社会の不満が直接ウ やジャワなど全国的なナショナリズムと一定の距 レーバランに対して強く向けられるようになった 離をおいていたと見られていた。 のは,1939年頃からだと言われる。このウレーバ プサ結成後の最初の「プサ書簡文」で[Arif, ランに対する不満は,ウレーバランの司法権力独 1950,pp.18−19],プサの設立目的がアチェにお 占への批判とスルタン制復活要求となって現れた。
けるプサントレンの教育科目の標準化とイスラム 反体制勢力のほとんど全てがプサやプムダ・プサ 教育の統一にあるのであり,プサは政治的領域に. のまわりに集まった。プサは宗教教育分野におけ は干渉しないしその意図もないことなどを表明し る 原住民首長 ウレーバランの司法権力を否定 ている。このダウド・ブルエとヌル・エル・イブ していた。ウレーバランの側は自らの既得権益を ラヒミィ連名の書簡は宛名が閣下(Paduka)と 守るために結束する。その際,彼らはムハマディ なっているだけであるが,その内容から明らかに アの組織を利用した。ウレーバラン系の人々は領 オランダ当局に対して書かれた書簡だった。 区(mukim)あるいは行政領国(zelfbestuurder)
プサの青年グループ,プムダ・プサ(Pemuda の住民全員がムハマディアに加入するところもあっ PUSA)は1940年4月20日から24日にかけて開か たという。[Reid,1979, pp.27−31]
れたプサ・シグリ大会で設立された。本部は東ア プサを中心とする対オランダ反乱は,このアチェ
チェ県のイディ(ldi)におかれた。指導者はイ 社会内部の状況と国際的状況とが重なって起こっ
ディ出身の若いウラマ,アミル・フサイン・アル た。1941年12月19日に日本軍がマレー半島ペナン
ムジャヒッドだった。彼はイスラム学校の生徒た を占領し,F機関と呼ばれた藤原機関の対北スマ
トラ工作が反乱の重要な契機となった。[白石さ 軍に対して反乱蜂起に立ち上がった[Alfian,
や,pp.133−134] 1982, p.23]。ロクスマウェ近郊におけるアブドゥ アチェではすでに1940年4月のプサ会議におい ル・ヤリル(Teungku Abdul Jalil)のバユ反乱 て,第二次世界大戦がインドネシアを巻き込むご (Bajoe),ムルドゥ(Meureudu)におけるアブ
とがあればアチェはオランダへの反乱に立ち上が ドゥル・ハミッド(Teuku Abdul Hamid)義勇 ることが決められていた。この決定の後にプサ派 軍反乱,ユニッブ(Jeunib)のパンドラッ事件 のアブ・バカル(Said Abu Bakar)がマレー半 (Pandrah)などである。これを契機として日本 島のケダーに上陸し,そこでの移住アチェ人社会 軍は本格的にイスラム政策に乗り出す。アチェ社 でウラマとして活動する。日本軍がマレー半島に 会の軍政協力をとりつけるためには影響力をもつ 進駐すると彼はF機関と接触をとった。また,東 イスラム指導者ウラマを取り込み利用することが アチェのイディ(ldi)からプムダ・プサのアル 長期的にみて望ましいことだった。 43年3月に ムジャヒッドが人をペナンに送っている。プサや 大東亜共栄圏イスラム会議(MAIBKATRA:
プムダ・プサだけではなくて,東スマトラのゲリ Madjelis Agama Islam untuk Bantuan Kema ンドや共産党(PKI)もペナンの日本軍と接触を kmuran Asia Timur Raya)が日本軍の宣伝機 とった。[Reid,1979, p.85] 関として作られた[RISU, p.21.]。この宣伝機i
プサは日本軍上陸に協力して各地でオランダに 関はプサ系とムハマディア系の人々から構成され 対して反乱を起こした。プサは日本軍の約束を信 ていた。これにより,ダウド・ブルエは公に各地 じて全面的な協力をしたという。その約束とは, で宣伝演説をおこない,アチェ民衆を引きつけて 占領後アチェに関する政治をプサに委ねるという いった。
約束で,地方政府機構や法律をイスラム法に基づ また太平洋での戦局悪化によって,1943年を境 いて編成することを認めるものであった。[lnsider, に日本軍政のアチェ統治方策が変わった。日本軍 p.67:Arif,1950, p.27.] はインド・セイロン方面からイギリス軍が反撃し
かくして日本軍が北スマトラに上陸した。1942 てくることを予想して,アチェに飛行場や防衛施 年3月12日のことだった。作戦は成功し,アチェ 設を整備建設した。そしてアチェ青年を特別警察 に軍政が布かれた。日本軍政はウレーバランを役 隊( 43.2月設立),兵補( 43.5),義勇軍 人として用いた。オランダ時代からの行政機構を ( 43.11),特別飛行場勤務隊などに組織し訓練し 引き継ぎ,郡長や村長といった新しい役職名でウ た。戦争前はアチェでも他の東南アジア地域と同 レーバランが任命されていった[早大社研,p. 様に,ヨーロッパの大国ロシアに勝った黄色アジ 210]。こうしてムハマディアのリーダー格のチュッ・ ア日本に対して好感をもっており,オランダ支配 ハッサンやモハマッド・ハッサン(Glumpang から解放される望みを抱いていた青年が大勢いた Payung)たちの反プサ派の人々が郡長に任命さ [Aziz,1955, p.147.]。しかし,1943年のアチェ れた。 は状況が違った。アチェの人々は日本軍政の一貫 F機関,治安維持会,インドネシア委員会 した目的すなわち戦争遂行と日本の国益追求を知
(Komite Indonesia)などの独立を準備するプサ らなかったわけではないだろう。この目的追求の
派の団体を日本軍は解散させた。プサの指導者た 為に時々刻々と変わっていく情勢に対応していっ
ちやプムダ・プサの青年たちが憲兵隊に逮捕され, た結果,ウラマ重視策,義勇軍創設,独立準備策
拷問を受け死亡する者も出た。逮捕者の中にはダ などが出てきたことを,一部のアチェの人々は知っ
ウド・ブルエ,T. M.アミン,アブドゥル・ワ ていたのではないだろうか。民族的社会主義者の
ハブ,アルムジャヒッドたちもいた。 ナタル・ザイヌディンやイスラム的社会主義者の
期待を裏切られたアチェの人々は,今度は日本 アルムジャヒッド等は親日的ではないにも拘わら
ず,日本軍政に協力しその関係を利用してインド 年代オランダ植民地期に現れた改革派イスラム運 ネシア民族主義者たちと接触していったのである 動の若手グループ,プサだった。
[Reid,1979, p.111−112]。 しかし歴史はそれほど単純明快なものではない。
1943年から日本軍政は各州ごとの自給自足防衛 植民地時代を通じて,インドネシア・ナショナリ 体制をとるようになる。アチェ沿岸地帯では日本 ズムが育んできた思想的土壌といえるものが,こ 軍が増派され食糧としてのコメが徴収されたため, こにきて人々の思想と行動に複雑な影響を及ぼす 米作地帯のビディエですら深刻な米不足に陥った。 ようになった。アチェにおいてもしかりである。
また,アチェ民衆は飛行場などの防衛土木工事に イスラームのしっかりした信仰的伝統をもつアチェ 大量動員された。こうして,、食糧危機や労務者使 社会にも,新しい時代の波が打ち寄せることになっ 役に直面したアチェの農民民衆にも日本軍政の た。それは, スカルノのパンチャシラに代表され
「本音」が見えてきた。 る思想ではないかと考えられる。すなわち,イス ラームの信仰,神への従順という人間の生き方に,
駐} 統一インドネシア社会の全民衆を対象とする社会
(1)アチェ語の名詞ムキムは,本来一つのムスジッド 正義の実現を融合した思想である。
を支えていくために礼拝を先導する宗教的指導者イ アチェのムスリムにとって,イスラム的社会主 マム(Imam)の下で,数個の自然村落が連合した 義は比較的容易に受け入れることの出来るもので もので,金曜の礼拝を執り行うのに最低限必要とさ はなかったか。彼らにとっての生活感覚はイスラー れている40名の男性を出すことが出来る規模のムス ムと経済的公正と平等の実現ではなかっただろう リム教区である。これはスンナ派のシャーフィイー か。本来イスラームの信仰は,人間は神の御前で 法学派の影響を受けており,ムスリム商人のインド 平等であり,日常生活において富の公平な分配を 洋貿易とともに東南アジア地域にも広まっていった。 説く宗教である。まさにイスラム的社会主義とい rイスラム事典』平凡社 う言葉が矛盾なくアチェの人々に受け入れられた
(2)マレー語ではhulubalangと呼ばれており戦闘指 のではないだろうか。
揮者という意味である。アチェではウレーバランは
teuku chik, teuku, keujruen, rajeなどの位階 くスカルノ・バッタ独立宣言〉
称号(身分の高低を表す尊称)をもつ世襲貴族層全 さて,日本軍降伏以後アチェではどのような政 体をさす。蘭領時代にはこの階級から地域の様々な 治状況だっただろうか。少し細かく日を追って戦 レベルにおいて各種の行政官吏が任命されていた。 争終了前後の出来事を,主としてアルフィアンら
(3)ウラマ達の独立運動以外にも,アチェ・ブサール の研究やインドネシア情報省の記録などに基づい 地域を中心としてウレーバラン出身者や都市部アチェ て見てみよう。[Alfian,1982;RISU;Insider;
人ナショナリストによるイスラム改革グループ, Modal Revolusi 45]
Serikat Pemuda Islam Atjeh, Pergerakan 1945年8月7日,インドネシア独立準備委員会 Angkatan MudaIslam Indonesia(Peramiindo), スマトラ代表としてMr. T. M.ハッサン(Mr.
Pemuda Aceh Sepakatなどオランダ植民地から Teuku Mohammad Hasan),アミル(Dr.
の独立をめざす青年グループが出現している。 Amir),アバス(Mr. Abbas)が昭南(シンガ ポール)経由でジャカルタに行く。彼らはサイゴ 3ニアチェ社会革命 ンから帰着する予定のスカルノと昭南で合流して,
インドネシア独立はアチェにおけるウレーバラ 8月14日にジャカルタ入りする。
ン制の終焉をもたらした。このウレーバランの統 8月17日,スカルノ,バッタ連名によるインド
治権力を打倒する中心的役割を担ったのは,1930 ネシア共和国独立宣言が発布された。
8月19日,後にスマトラ共和国軍第10師団長と 9月29日,スカルノがハッサンをスマトラ省長 なるユスフ(Hoesin Yoesoef)達一部の者がア 官(Gubernur)に任命する。10月3日,インド チェのビルエン(Bireuen)で「独立宣言」につ ネシア共和国の8省の一つスマトラ省管轄内のア いて知った。だが,アチェ民衆は未だそのことを チェ州(Keresidenan Aceh)政府が正式に発足 知らない。また,21日には,日本軍政の宣伝機関, した。65名の議員でアチェ人民代表議会(Dewan 同盟通信で働いていたユヌス(Ghazali Yunus) Perwakilan Rakyat Aceh:DPR Aceh)が招集 たち青年を通して「独立宣言」のうわさがクタラ され,議長にニャ・アリフ(Teuku Nyak Arief),
ジャ市中にでる。だが,多くの人はまだ半信半疑 副議長マッフムッド(Tuanku Mahmud)が選 であったとのことである。 ばれた。州行政府(Dewan Pemerintah Daerah:
8月22日,スカルノ大統領がスマトラ省におけ DPD)の首長すなわちアチェ州知事は,ニャ・
るインドネシア共和国代表にMr.T,Mハッサン アリフがスマトラ省長官ハッサンの指名により就 を任命する。8月24日にはハッサンー行がスマト 任した。10日にはニャ・アリフは州知事職に専念 ラ・パレンバンに到着する。ここでガニ(Dr. A. する為, DPR Aceh議長を辞した。後任は副議 K.Gani)と会い,インドネシア国家委員会 長のマッフムッドがなった。こうしてアチェに於
(Komite Nasional Indonesia:KNI)南スマト けるインドネシア共和国政府地方機i関の形が整っ ラ支部の設立を要請する。ハッサンー行はそのま た。
まジャンビ,ブキティンギ,タルトゥンへ立ち寄
り,「独立宣言」を伝え,地域のKNI支部を立ち く独立精神とイスラム的社会主義運動(Pesindo 上げながらメダンに到着する。それは8月29日の とPemuda PUSA)〉
ことだった。メダンに到着して直ちに,ハッサン ここでは「独立精神」に溢れ,過去に前例のな 等はスカルノ・バッタの「独立宣言」を公式に発 い「自由」を手にしたアチェ社会および人々のダ 表し,アチェを含む北スマトラのKNIを設立す イナミックな運動と社会変化の一端を考察したい。
る。 独立宣言直後のアチェ社会が抱えていた主要な アチェでは,1945年8月25日に,日本軍政支部 政治問題は三つあったと考えられる。=つは国防 アチェ州長官飯野が大東亜戦争の終結を報知する 問題であり,アチェ全域を守備範囲とする一元的 声明を出しており( ),ハッサンの到着前にすで 命令系統の下での軍隊を創設しなければならなかっ に戦争終了が公然のものとなっていた。ここに至っ た。第二は日本軍の撤退問題であった。日本軍か てはじめてアチェ社会が戦争終了の事実を知った。 らの武器装備などの入手および頻発する日本軍部 この日からアチェでは,日本軍政の行政機関,報 隊との衝突事件を処理することだった。三つ目は 道機関,経済施設,石油地帯,プランテーション アチェ地域内部の紛争を解決することだった。大 や食糧農園などで働いてきたインドネシア人,ア ざっぱに言えば,宗教,イデオロギー,政党,ウ チェ人の職員や労働者たちがストライキなどをし レーバラン対ウラマの階級的利害,土地や各種事 て,それぞれの職場の管理運営を徐々に日本側か 業所などの経済資産等々がアチェの内部紛争の火
ら引き継いでいった。当然に連合国側から現状維 種としてあったと考えられる。
持命令を受けていた日本側はそうした「接収活動」 経済的利害関係を背景としてもつ二つの要素,
に抵抗するものもあったが,「独立精神(Seman すなわち政党イデオロギーと伝統的なウレーバラ
gat Merdeka)」の嵐にあらがうことはもはや志 ン対ウラマ対立が織り重なってアチェ全域での内
気の衰えた日本軍には不可能であった。時代状況 戦へと発展する,と筆者は考えている。この内戦
はまさにアチェ人にとって革命的な展開を予感さ に日本軍の武装武器および撤退問題が関係してい
せるものであった。 た。また,アチェでの治安軍部隊の誕生もこの時
[アチェ内勢力関係略図: 1945年8月〜12月】
「インドネシア・ナショナリズム派」・対蘭独立志向 「イスラム的社会主義派」・対蘭独立志向
ウレーバラン多数派 改革派ウラマ多数派
主としてムハマディア(Muhammadiyah) 主としてプサ(PUSA)
都市部青年層
mjak Arief州知事 対
農村部民衆
sgk. Daud Beureueh(PUSA議長)
Ali Hasjmy(Semangat Merdeka編集長) Nathar Zainuddin(S. M. Xarim義兄弟・PKI)
Slammaun Gaharu(API・TKR将校) Tgk. Hoesain AI Mudjahid(Pemuda PUSA)
元義勇軍将校・元KNIL兵(特別警察隊) Yusuf(TRI部隊指揮官)・PRI(Pemuda
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