秋 田大学教育文化学部研究紀要 人文科学 ・社 会科学部 門 62pp.71‑84 2007
伝 統 の 維 持 と 創 造
‑ 秋 田県角館 の歴史的環境 に関す る考察 ‑
和 泉 浩
Be t we e nCr e a t i ona ndCo ns e r va t i o n
‑TheHistoricEnvironmentof"Kakunodate"andtheTouristGaze‑
HiroshiIZUMI
Abstr礼ct
Thepurposeofthispaperistoconsidertheproblemsandparadoxesrelatedtotheconservationofthe
"historicenvironment"throughthecaseofKakunodate(AkitaPrefecture),whichisfamousforthe cityscaDeOfSamurai residentsandoneofthemostfamedtouristspotsinJapan.The"historicenviron‑
ment"isthebuiltenvironment‑buildingsanditssurroundings‑whichhaslonghistoriccontinuityandis regardedas"historicheritagel'.Aswellasmanytraditionswhichwethinkofasancientintheirorigins wereinventedrelativelyrecelltLy.thetraditionandvalueofKakunodateasaprecioushistoricenviron一 mentwasinventedinthelate1960sandearly1970S.AgencyforCultural Affairsselectedthedistrictof SamurairesidencesofKakunodateasoneof"PreservationDistrictsofGroupsofImportantHistoricBuild‑
1ngS"in1976.
Thispaperexaminestheprocessofthe"inventionoftradition"ofKakunodatethroughthe"autobio‑ graphicdiscourses"andthe"biographicdiscourses''onKakunodate.Theautobiographicdiscourseisthe narrative,explanationandplanaboutKakunodatebythosewhohavelivedorworkedinKakunodate,and thebiographicdiscourseistherepresentationofKakunodatebythosewhoare"outsider''ofKakunodate
,
forexamplethedescriptionsofguidebooks.ThevalueofKakunodate'shistoricenvironmenthasbeenfor‑ mulatedintheprocessofintertwiningofthesetwodifferentdiscourses,andtheyhaveinfluencedtheland‑ScapingforconservationofKakunodate,whichconfrontstheparadoxesbetweencreationandconservation
,
tourism andtradition.ThispaperalsomakesclearthelandscaplngforconservationofKakunodatehas beenconstructedbythe"touristgaze''.Thiscausestheproblemsoftheconservationofthecityscapeand SamurairesidentsaliveandweLLKeywords
Kakunodate,HistoricEnvironment,LandscapingforConservation,Tourism,Tradition
1. は じめに
「 創 られた伝統」。今 日の伝統, さらには歴史 につい ての研究 において,た とえ構築主義的な見解 にたい して 批判的な立場 に立つに して も,伝統の連続性や不変性 を 無批判 に前提 にす ることは もはやで きない。伝統が人間 社会の ものであるか ぎり,ある物事が 「 伝統」 として認 識 され,受け継がれ,流通す るためには,何 らかの契機 や仕掛 けが不可欠であ り,いかなるものであって も,あ る特定の社会的,歴史的背景のなかで構築 され, また時 代 とともにその姿や意味 を変 えざるをえない。 この こと はその伝統が建造物やモ ノなど有形の ものであって もか
わ らない。モ ノをとりまく社会 も,それを見て, さまざ まなや り方で消費す る人間 も同 じではあ りえないか らで ある。た とえ一人の人であって も, ものの見方が一変す ることもある し,一変 とはいわな くとも不変ではあ りえ ないであろう。伝統 とは, この個 々の人たちの見方を社 会的に方向づけるものであ り, したがって解釈の集合 的 な共有,つ まり意味の共有 としての 「 文化」のひとつで ある。 この意味では個人の見方 よりは固定的かつ継続性 を有す る可能性が高い とはいえ,変化す ること, また解 釈の対立の存在が前提 になるO
今 日の伝統 にかかわるさまざまな事象や事例 に関す る
研究 において,伝統が 「 近代」のある時期にいかに創造 された ものか を明 らかにす る研究は,かな り定型化 され た常套手段 と化 している感は否めない。 しか し,個別的 な事象 について考察す る場合,伝統の季 む問題点,伝統 にたいす る解釈の対立関係 などを見出すためには有効 な 手法で もあるため,本稿では, この 「 創 られた伝統」 と い う視点か ら,1
976年 ( 昭利51 年)
9月に 「 重要伝統 的建造物群保存地区」 に選定 された秋 田県仙北市角館の 武家屋敷 を中心 に した歴史的環境 について,伝統の維持 と創造 との間に横 たわるい くつかの問題点 を観光 とのか かわ りで考 えてみたい。
角館の武家屋敷の建造物群が,保有 されるべ き重要な
「 伝統」 として位置づ け られた契機 としては, 日本 各地 の歴史的環境が 「 重要伝統的建造物群保存地区」に選定 された頃の,特 に 日本の社会的,時代的背景が存在 して いるが, この点 については別稿 において,国鉄の 「 デ ィ ス カバ ー ・ジャパ ン」 キ ャ ンペー ン,近代都市計画 と
「ポス トモダニズム
」.「日本文化論」の変化 な どとのか かわ りか ら考察 したため ( 和泉
2005),本稿では, こう した大 きな文脈においてではな く,角館の歴史的環境が 観光 との関連で どの ように今 日の ような位置づけを得た のかを秋田の観光案内書や角館の保存計画書な どでの記 述 を通 して考察する。
2.
秋田の観光における角館
‑ 伝記的表象 と自伝的表象
ある地域の特色,特徴がそれ として意識 されるように なるためには,そ うした ものを対象化す る視線が必要で ある。つ まり,地域の 日常のなかに埋 もれているものが, 他の地域 と異 なるその地域の特色 とされるには, 自らの 住 む場か ら距離 をとって眺める,あるいは他の地域の人 の 目を介 してながめる とい う比較 の視点が必要 になるO
この比較 には他地域 との比較 とともに , 「 かつて」のそ の地域 との遡行的な比較 もある
。いかなる地域の景観や 人 も月 日とともに変化 してい くものであるが , 「 かつて」
と 「い ま」が対比 されるのは,その変化が急激 な場合, それ も何 らかの意味において変化がマイナスの もの とし て とらえられるような場合である。 また他地域 との比較 は, ヒ トやモノ,情報 などの移動性が増大 した場合 に生 じるものであ り,歴史的に見 ると,鉄道網の発展 とそれ に伴 う ( 大衆)観光の進展 によって今 日の多 くの地域の 特性や伝統が形成 された といえるであろう。 また交通や 観光は,社会,技術 ,考え方な どの変化を背景に した も の‑ それ らとの相互作用において存在す るもの‑ で あるため,地域 の急激な変化 とも結びついている 山。
角館の武家屋敷 も.武家屋敷が形成す るまちなみ も, 当然の ことなが ら.昔か ら観光の対象,地域の誇るべ き
特色, まちづ くりの資源 などとして位置づけ られていた わけではけっ してない。立派なものであろうとなかろう と,人びとが 日常の生活を営 むふつ うの 「 住居」 は,塞 本的には建設時点でそ うした特別な意味づけを与 えられ てはいない。角館の武家屋敷 も建築物 としての重要性が 認識 されるようになったのは1
960年代 頃 になってか ら の ことであ る。 こう した位置づ け には,上述 の ように
1976年 の 「 重要伝統 的建造物群保存地 区」選定が決定 的な契機 になったのであるが,それでは,保存地区選定 以前 は,角館 の特色や観光は どの ようにとらえられてい たのであろうか。 この ことをい くつかの資料 を用いて考 察 してみたい ( 2 1 0
地域 の特色 についての記述 は, さまざまな分類が可能 であろ うが , 「うち」 (自己) と 「そ と」 ( 他者) とい う 区分 をもとにすると次の ような区別 も可能であろう。 ま ず, 自分の住む地域 についての記述 ,つ ま り地域の 自伝 的な表象。そ してその地域 に住 む人以外 の人による記述, つ ま り地域の伝記的な表象。この 2つの表象のあ り方は, 相互に影響 しあい,地域 の特性の 自伝 的表象 において,
「 そ と」( 他者)の視点がかな り重要 な意味 を持っている。
自伝的表象 としては,当該地域 に暮 らす人によって,あ るいはそ こで働 く人によって書かれた地域の歴史につい ての本や資料,あるいは都市計画や まちづ くりについて の資料 などをあげることがで きる。 また伝記的表象 とし ては,地域の 「 そ と」の人による歴 史についての資料や 研究 をは じめ,観光案内書 な どがあげ られる。 また伝記 的表象 としては,人 々の帰属意識 , 「うち」 と感 じる領 域 をもとに,県内 と県外 ( 全 国) に分けることがで きる であろ う
(3)L , この伝記 的表象 と自伝 的表象 とい う区別 は , 「 住 む」 とい う基準 に もとづ き,地域‑ の関心やか かわ り方が異 なるとい う前提 に立った区分である。 しか し住んでいるか らといって,その地域 についての理解が 探いか といえば必ず しもそ うとはか ぎらない点は上述の 地域の特性 と比較の視点 と共通す る。 こうした 「うち」
と 「 そ と」 とい う二項対立的な区分 は窓意的なものであ り, またこうした単純化 されたカテゴリーによって抜 け 落ちて しまう事象の性格 もあるとはいえ,同時に, こう した悪意的カテゴリーによって明 らかになることもある ため,本稿ではこれ らの区分 をもとに,特 に角館 の 自伝 的表象 と秋田県での角館 についての伝記的表象のい くつ か を取 りあげ,そのなかで角館が どの ように位置づけ ら れているのか検討する
。日本 において大衆観光
(4)が始 まった明治か ら大正 に かけ, 日本各地の観光案内や紀行文が多数出版 されるよ うになったが,た とえば1
924年 ( 大正
13年) の 『 秋 田 麟案 内』では , 「角館駅付近」 として 2頁程度,物産や 寺院,名家,文化 を紹介す るとともに,その景観につい
‑72‑
和泉 :伝統 の維持 と創造
て次の ように書いている
。角館町は山間の都合であって‑‑秋田の京都,京都の高倉 家より佐竹家に入 り角館城主となった義隣は京洛の故都を偲 び角館の形勝は京都に酷似して居る庭から地名に小倉山,加 茂川の名を附した又角館は梅花の名所であって,垂枝橡の種 類に屈して答を破らんとする頃は珠の玉を綴って花の角館と 栴される程であったが,明治二十三年の災禍に逢ひ,僅か田 町の一隅に残って居る丈けである。
( 東北之産業社
1924:163‑164)ここには , 「 秋 田の京都」 な ど今 日の角館 の特徴 とし て用い られている表現 と重 なるような表現 も用い られて いる。ただ し,今 日有名 な枝垂桜 , 「 花の角館」 は,明
治
23年の火 災によ りわずか に残 ってい るだけ と,過去 の もの として表現 されてい る。角館 の枝垂桜
153本 は,
1974年 ( 昭和49 年)1
0月に国の天然記念物の指定 を受 けたが,武家屋敷のある地域の一部である東勝楽丁の枝 垂桜 は,そ こにあった角館の 「 親木」 といわれていた枝 垂桜 とともに , 「 大方の もの」が1
900年 ( 明治33 年)の
大火で焼失 し
(5),今 日の枝垂桜の景観 は焼失 を免れた もの と新たに植栽 された ものによ り構成 されている ( 角 館町教育委員会
2002:7‑8)。この 『 秋田願案内』では,は じめに県庁,秋田市役所, 秋 田鉱 山学校,竿灯,秋 田市や横手の まちなみ,鉱 山, 公園,名所,神社,温泉 , 「 秋 田美人」や樺細工,金銀 細工,秋田杉 な どの名産など,秋田を紹介す る多 くの事 物や 自然の白黒写真が掲載 されている。 しか し, このな かに角館 の写真 は一枚 もお さめ られていない。 「 名所」
のは,十和 田湖,男鹿半島,田沢湖の
3箇所であ り,当 時の秋 田の観光地は,温泉は別 としてこの
3箇所が有名 であった と考 えられるであろう。
『 角館誌』の 「 明治時代 ・大正時代」編では,昭和 は じめの角館周辺 の観光 について , 「 昭和
2年の観光客の
統計 は田沢湖
6.613人,抱返 り5.
063人 とある。 この期 に は各地に狭小地域の名除宣伝が頼 りであった。た とえば 旧角館 町有志による花場 山公園,雲沢地域有志 による小 倉 山顕勝会がある」 ( 角館史編纂委員会
1973:447)と書かれているが, この頃,角館のシダレザ クラと武家屋敷 は今 日のような位置づけをまった く獲得 してお らず,角 館 も秋田を代表す るような観光地 どころか,統計に出て いないことか らも,観光地 としてす ら認識 されていなか ったと言 えるであろう。
当時の角館 の 自伝 的表象 であ る1929 年 ( 昭和
4年) の武藤践城 『 角館の歴史』で も,義隣 と京都 の話 は出て
くるが,建築物, さらに枝垂桜 についての記述 はない。
地域 の特色 を表わす ような記述 としては , 「 其外 .寺 院
其他 に依って経営 された寺子屋の数 も多 く共 に角館 をし て軍 に山水明姫の土地 としてばか りでな く又文化の都 と してその盛名 をうたわれる様 に したのであ ります」 ( 武 藤
1929:46)とい うように , 「山水明楯の土地 」 「 文化の
都」 とい う表現が用い られている
。自伝 的表象 と して は,時代 が下 るが,1963 年 ( 昭 和
38年) の富 木友 治 『角館 の話 』 で は, は じめ に武 家 屋敷 の写真 が掲 載 され , 「 住 まいの こ と」 とい う章 で は,角館 の家の建て方 を農家 と商家 に分 け,武家屋 敷 につい て次の ように述べ られて い る。 「この農家 か ら,作 業場や馬小屋 を とって,水屋 に小部屋 を建 て ま LLた り,二 階 をあげた り,玄関 を別 に座敷 の まえに つ け た の が , 角館 町 じまん の武 家 屋 敷 です 」 ( 富 木
1963:189)。 ま た枝 垂 桜 に つ い て も, 写 真 つ きで
「い ま名物 になっている枝垂桜 も‑‑京都 か らうつ して 植 えたものが,だんだんふえて,春 ごとに美 しく垂れる ようになったといいます」 ( 富木
1963:62)。 また,角館 中学校校長 ( 戸沢繁雄) による 「は しが き」で も 「 武家 屋敷 に咲 く 『しだれ桜』や,桧木内川堤の 『 花の トンネ ル』は桜の名所 として知 られ,わが国三大 ばや しの一つ である 『 おや まばや し』や,画壇,文壇 に著名の人材 を 輩出 していること,それに樺細工など,わが町の代表的 な もの と言って よい」 と書かれている ( 以上,傍点引 用者)0
『 角館の話』は, 自伝的表象のなかで も 「 角館中学校 お よび同校 PTAの依頼 によっ て,生徒の社会科 の教材 資料 として」書かれた ものであるとい う点が重要である
。とい うの も, この角館の特徴が次の世代へ と教育を通 し て受け継がれてい くか らである。 日頃あま り意識 してい な くとも, 自慢の 「 武家屋敷」 , 「 桜の名所 」 , 「 おや まば
や し」 , 「 樺細工」,文化が角館の特色 ということを学 び, それを自らの経験や 日常 と結びつけた角館の中学生たち が,その後, まちに さまざまな形でかかわってい くか ら である
。ところで,この 『 角館 の話』 には.「 観光」や 「 観光 地」 とい う言葉は,カバ細工についての箇所で 「 観光宣 伝」 とい う言葉が用い られているだけで,他 にはない。
また校長のは しが きでは , 「人は誰 しも他郷 を訪ずれ る と,その土地の 自然や歴史や文化のことな どを聞 きたい ものだ。わが町を訪ずれる方 も,県の内外 を問わず益 々 多 くなることと思われる。町のことを聞かれたら誰で も 説明で きるように したい ものである」 と書かれている
。1964
年
8月に角館町観光協会発足 し,羽後交通が 田沢
湖 一盛 岡間のバ ス路線運行 を開始 し,1
967年
3月 に雑
誌 『 旅
』 4月号 に,武家屋敷や桧木内川堤 の桜が紹介 さ
れ るが
(6).角館が本格的に観光の町 になるのは, もう
少 し後 になったか らの ことである
。た とえば,武家屋敷が雑誌 『 旅』に紹介 されたの と同 じ1
967年,秋 田県教 育委員会か ら 『ひ らけゆ く秋 田』
とい う冊子が発行 されている。 この冊子のは じめに,当 時の県知事が 「 本書は秋田県の生んだ先人の偉大 な業績 と現状,そ して将来の展望 をあます ところな く編集 され ています‑・ . ・ 県民が期待 している青少年 に本書 をとお し て郷土の正 しい理解 と郷土愛 をつちか うために,その効 果的な活用 を期待 してやみ ません」 と書いている。 この 冊子の 「のぴる観光」 とい う項 目には , 「十和 田湖の観 光開発」 とい う項があ り , 「 本県の拠点観光地である十 和 田八幡平,男鹿,田沢湖 な ど‑
‑」 ( 秋 田県教育委員 会
1967:65‑66)と書かれている。 しか し, ここに角館 は入っていない。十和 田,男鹿,田沢湖, これは大正の
『 秋 田牒案 内』 と同 じ名所 であるO この冊子で角館 は, 県内の行事の一つ として 「 角館小山ばや し」が記載 され ているだけである ( 秋田県教育委員会
1967:67)0
1960
年代,武家屋敷 はまちの 自慢 とされ, また桜 の 名所 とされていたが,秋田県内においては秋 田を代表す る観光地 としてはまだ認識 されていなかった とい うこと であろう。 ここには当然,当時,何が観光の対象 とな り えたのか,あるいは何が将来,観光の対象 とな りうると 期待 されていたのか, とい う問題 もある。「デ ィス カバ ー ・ジャパ ン」 キャンペー ンをは じめ , 「 古 きよき日本」
を再発見す るとい う観光のあ り方が社会的に形成 される ようになるのは,数年後の ことであった。この点か らも, 観光の対象 をめ ぐる社会的認識のあ り方の占める重要性 がわかるだろう。つ ま り,社会的認識が何 らかの形で形 成 されなければ,ある場所 は観光地 としての意味づけを 与えられることはないのである。
角館の枝垂桜 は,1
953年 ( 昭和28 年) に秋 田県の天 然記念物の指定を受 けているが,記念物や 日本,秋田の 各地 にある多 くの桜 の名所 の一つに とどまらない ( 「 過 剰」 ともいえるような)「 意味」 を獲得 しうるようにな る,つ まり特別な観光の対象 とな りうるのは,それが武 家屋敷の価値の再発 見 と結びついた ときであった。1
974年 に武家屋敷内の枝垂桜が国の天然記念物 に指定 され,
1975年 に桧木内川左岸堤 防の ソメイヨシノが国の名勝 に指定 され
m ,1976年 に「 重要伝統 的建 造物群保存地 区」に選定 される とい うように,今 日の秋田に関する観 光のガイ ドブ ックのほとん どにのっている角館の観光 を 代 表す る ものたちが,1
970年代半 ばにまとまって国の お墨付 きを得 た とい うの はけっ して偶然 の こ とではな い。文化財の価値 には, ( 社 会的に付与 される)それ じ たいの価値の他 に,他の もの ( 文化財) との関係性 ( 物 請)が形成 されることによって生 じる価値 とい うものが ある。 まさに文化財 も差異の体系のなかの記号 として意
味を獲得 し,消費 され,時代 とともに変化す るのである。
角館が これ らの指定 を受 ける数年前の
1972年,秋 田 魁新報社か ら 『 秋 田 ドライブ紀行‑ ふ るさと再発見
』という白黒写真の多 く掲載 された新書サ イズの本が刊行 されたO この本 は ,r その 日の ドライブにす ぐ役 立つ」
と好評だった,1
971年4 月か ら1 0月まで計3
0回の 日曜付 けのカラーページとその裏面の2 ページを使 い, ロー ド マ ップな どとともに連載 された企画読み物 「 ふ るさと再 発見‑ 秋 E E lドライブ紀行」 を,携帯 に便利 なように一 冊 にまとめた ものである。その本のは じめには次の よう に書かれている ( 秋田魁新報社
1972
)。
ここ数年で,秋田県内の観光地は,驚 くほど華麗な変身を 遂げた。モータリゼーションの発達と,それに伴う道路の開 発によって,かつては徒歩でようやくたどり着いた目的地に, 今では,一気に自動車を横付けできるようになった。しかも, 昔はひとつの点でしかなかった観光地が,道路網と交通機関 の相関的な発展で } 線の観光' 'へと性格を一変したといえる。
県内にも日帰 りできるコースで,隠れた観光名所はたくさ んある。観光 ドライブは,ふるさとの再発見からはじまると いっても過言ではないだろう。
「ふ るさと再発見」。 自分が住む地域であって も,あ るいはまさに自らの住む地域であるがゆえに知 らない魅 力 とい うものが多 くある。有名な観光地は何かの折 に訪 れたことがあった り,テ レビなどで見て知 っているか も
しれないが,県内にわざわざ観光に行 こうとい うことも なかった人たちに,気軽 に旅行の気分 を味わい,秋田県 のすぼ らしさを再認識 して もらうこと。道路網の整備 と 車の普及, 自家用車による観光, ドライブという休 日の 過 ごし方の広 まりを背景に, また 「日帰 り」 しか時間 も 予算 もないが,それで も休みの 日にはどこかへ出かけな ければな らない とい う ( 強迫観念的 ともいえるような社 会的)意識 とともに,主に秋田県内の人たちに自分たち の住 む地域 を再発見 してもらお うとい うのが この連載記 事 をまとめた本の 目的である。 こうした記事や本は,莱 際に観光に行 く人の役 に立つ とい うだけでな く,今 日で も新聞の付録等 に見 られる 日本のみな らず世界の各地や まちか ど,文化 を紹介 した記事のように,読者たちがた とえ実際に行かな くとも,そうい うところがある という ことを知 り,思いをはせ るとい う点が重要である。 日曜 日の朝, 自宅で新聞を広げると,ふ るさとを再発見で き たのである。そ して,新聞に書いてあるコースや見 どこ ろにしたがい. 自動車でそれ を再確認 Lに出かけること もで きた。
この 『 秋 田 ドライブ紀行』には , 「 角館 と田沢湖」 と
一
7 4 ‑
和泉 :伝統の維持と創造 い う項 目があ り,そ こには 「 昔 を伝 える角館 町の武家屋
敷」 とい うタイ トルの付 け られた武家屋敷 の白黒写真 も 掲載 されてい る。 また この地区の地 図 には 「 武家屋敷」
とい う記載 と小 さな武家屋敷 の イラス トも載 ってい る
。そ して,桧 木内川の堤 は 「 サ クラの名所」 とい う説明の 他 に,角館 について次の ように書かれている。
いまでも屋敷町には昔をしのばせる武家屋敷が残 り,門の 前の馬つなぎ右,武者窓などが古い歴史を物語る。 しだれザ クラの巨木の名所 としても有名。その風格ある町並みから ' . 小京都' 'ともいわれる。ここを中心にした北浦地方が … 秋 田おばこ" ,秋田美人の " 原産地"とか 。 「 飾山 ( おやま) ばやし」の山車 ( だし)につれて民謡が盛んになった土地柄 がしのばれるようなたたずまいに,心がなごむ‑川。
( 秋田魁新報社
1972:101‑2)この ように1
970年代 の は じめには,県 内向けの ガイ ドブ ックに も武家屋敷が角館 の見 どころの ひ とつ とされ るようになっている。ただ し 「ガイ ド」欄 の 「見 どころ」
には角館 につ い て , 「 車 をお りて町 をめ ぐるの もいい」
とい う記述 もあ るが,古城 山公園か らの秋田駒 のながめ は 「 絶 品」,城下 町 と桜並 木 ものぞめ る とい うよ うに, 一押 しは山か ら眺望 した風景であ り,そ して 「 お 目当て」
は田沢湖 とされている。つ ま り,田沢湖 に行 くついでに, 古城 山公園に寄 って景色 を楽 しみ,時間があれば町に行 って もいい, とい うのがおすすめの コースである。 した がって,角館の武家屋敷その ものは, まだ今 日の ように それだけで も見 に行 く価値があるとい うような観光名所
として確立 してなかった ともいえるだろ う ( 8 ) 。
1980
年刊 行 の 『角館 誌 』 の 「衣 ・食 ・住編 」 には.
武家屋敷 についての説明 と門の写真や,青柳家,石橋家, 石黒家,松本家,河原 田家それぞれの武家屋敷の説明 と 写真があ り, また武家屋敷 を角館 の守 るべ き伝統 として 次の ように述べ られてい る
。昔の生活を偲ばせる古い伝統を残 してくれた先人に対 して 私達は古い敬意を表わさざるを得ない。これからも町民は誇 りをもって今後長い間保存に心がけなければならない義務が あるような気がする。あるものをそのまま保存することは一 見簡単のようであるがむずかしい問題である・ ・ ‑・ 町の誇りで ある伝統的建造物は町がこぞって守らなければいけないもの であろう。 ( 角館史編纂委員会
1980:282)資料 的にはよ り詳細 な検討が必要ではあるが, 今 日の ように角館 の武家屋敷 の織 りなす歴史的環境 が,角館.
秋 田県 内,県外 ともに,つ ま り自伝的表象 お よび伝記的 表象 において,観光で訪 れるべ き名所 , したが って他の
場所 とは異 なる特徴 を持 った まちなみ とい う位置づけが 重 な りあったのは,1
970年代 , さ らにい えば1
976年 に
「 重要伝統 的建造物群保存地区」に選定 された ことを考 え る と,1
970年代前 半 の数年 間の時期 においての こ とで あった ことがわか る。
現在の観光 ガ イ ドブ ックな どにおける角館 の武家屋敷 の まちなみの 「 売 り」 は , 「 武家」,つ ま り江戸時代か ら 変わることの な く守 り続 け られて きた とい う希少性 にあ る。 こうした今 日の ような角館 の まちなみの評価 は,そ の背景 に長 く続 くまちの伝統や生活がある とはいえ,長 期 間にわた り醸成 されて きた とい うよ りむ しろ.あ る特 定の時代,それ もわずか な期 間に作 り上げ られた とい う ことがで きる。 この ように建物 や まちなみ とその評価 と い うことを考 えた とき,評価,意味づ けは ともか くとし て,その対象 となる建物 はず っ と存在 して きて,その評 価だけが変化 した とも考 え られ るか もしれない。しか し, 評価 や意味づ けのあ り方 は,建物 じたい にも反映 され る
。そ して,角館の武家屋敷の場合 , この建物 を中心 に した まちなみの形成 において 「 観光 の まなざ し」が きわめて 重要 な役割 を果た しているのである
。3.
伝統 と観光の まなざ し‑ 保存 と修景
3.1「当初 の姿」 をめ ぐる矛盾
明治以後,著しい近代化の波を受けずに当初の姿をそのま まとどめ,現在の角館は当時の町割 り,武家屋敷 ( 内町)千 町人町 ( 外町)の雰囲気をよく保存 している・ ‑‑外町の活気 のある通 り,おっとりと落ち着きのある内町の通 り,このよ うに明らかに異なった
2つの空間の質をもった町,それが角 館といえる。 ( 坂田
1991:8)「明治以後 も著 しい近代化の波 を受 けず,その当初の 姿 を とどめて きた」 ( 角館 町教育委員会
1984:8)。 これ が角館 の武家屋敷 の まちなみの特徴 , したが って重要性 についての説明の仕方の基本的 なものであ り, また角館 につ いての一般的 なイ メー ジお よび認識 になっているこ とであろ う。
上の
2つの引用 はいずれ も, ガイ ドブ ックや角館 の宣 伝 的な冊子 な どの 「 一般 的な」資料 な どか らの ものでは な く
,1976年 の「 重 要伝統 的建 造物群保存地 区」以 降の 角館の武家屋敷 のまちなみの保存 と整備 に実際 にかかわ った人の著作 と資料 か らの引用である。前者 の引用の著 者で あ る坂 田泉 ( 東北大学名誉教授 ) は,1
976年 よ り 角館 の主要建築物 の実測調査 を行 い,1
983年か ら1
984年 に行 われた 「 保存調査」の保全 ・修景調査部 門会長 な
どを務 めた。 そ して,1
976年 か ら1
987年 までの調査 の
成果 をま とめたのが,上記引用 の出典であ る 『 図集 角
館 の建築』
(1991年)である。後者の引用 の出典である
1984年の 町 角館 町伝統的建造物群保存調査報告書』 は,
「 保存地区選定後の地 区の変遷状況 と, これか らの保存 計画 として,建築物群 の保全 ・修景,樹 木の保護 ・増植, 防災計画 につ いて検討」 した報告書 であ る。本節で は, これ らの今 口の角館 の武家屋敷 を形づ くって きた資料 を 用い , 「当初の姿 をその まま」 とどめ る とい うことにか かわる問題点のい くつか を考えてみたい。
角館の武家屋敷の重要性が改めて認識 されるようにな ったのは
,1960年代 頃か らの ことであるが,それ以前, またそれ以後 も角館の武家屋敷 は実際に人びとが生活 を 営 む場,住居で もある。坂 田の本のは じめには,角館教 育長であった藤井章一の次の ような言葉がある
。角館町の場合,保存するに値する建造物には,ほとんど全 てに 「 現実の生活者」が居るわけで , 「 生 きたままの保存」
が要求されます.「 文化遺産」として隔離することができず, 居住者の近代的生活の快適さと品格ある文化遺産としての価 値との両立を図り,時として,時流に迎合した観光の低俗化 に抗しながらの事業でありますO ( 坂田
1991:V) 角館 における 「 生 きた ままの保存」の問題点 について は本稿の最後 に検討するが,実際に人び とが住居 として 用いて きた ということは,文化財 に指定 され るまでは基 本 的 には普通の家屋 と同 じだったわけである。つ ま り, 角館 の武家屋敷 も生活の必業や防災,時代の変化 な どの なかで,改築や増築 などが行 われていた。坂 田は上の引 用で,角館 を 「 異 なった
2つ の空間の質 を もった町」 と 表現 しているが,これは角館の武家屋敷の空 間 ( 「内町 」 )
と町人町の空間 ( 「 外 町 」 ) の ことを指 してい る。それで は, この
2つの空間は.明治以降の 「 近代化の波」のな かで , 「 重要伝統的建造物群保存地区」選定当時, どのよ
うな状態 にあ ったのだろ うか。
角館 の調査等 にあたった坂 田は 卜記の引用で, 内町, 外町 ともに当時の 「 町割 り」 と 「 雰囲気」 をよく保存 し ている と指摘 している。注 目して もらいたいのは, ここ に 「 建物」が入 ってい ない, とい う点である。町割 りと 雰囲気 とい うかな り漠然 とした もの。 この
2つが客観的 に見た場合の角館 の まちなみの歴史的継続性 の物 的根拠 とい うことである。坂 田は外 町について次の ように述べ ている
。「 一部 には町屋 ,蔵 を備 えた商家,かつ ての町 屋形式 を残す妻入 りの家屋 な どが残 り,往時の名 ご りを とどめている。 しか し,それ らも周 囲の新 しい商店建築 に うず もれて,全体 として古 い町人町の様相か らは程遠 い」 ( 坂 田
1991:9)。家屋 が密集 していた町人町では, 江戸時代 よ り大小無数の火災が生 じていた ( 表
1)0
火災は , 「明治以降 もしば しば繰 り返 されて,藩政 時
‑
76‑
表 1 明治以前の記録に残る大火
午 .月 場 所 消失戸数
1697
年 ( 元禄
10年)
3月 外町南部 J約
122戸
1776年 ( 安永
5年)
3月 外町 /約
350戸
1779年 ( 安永
8年)
5月 外町 約
271戸
1784年 ( 天明
4年)
5月 外町 約
93戸
1798
年 ( 寛政
10年)
5月 外町 約
155戸
坂 田
(1991 ) ,角館市誌編纂委員会
(1980)をもとに作成 代の町屋の全てが焼失 した として も過言ではないであろ
う」 ( 坂 田
1991:14)。既 に述べ た
1900年 ( 明治
33年) の火災で も, シダ レサ クラ とともに外 町 内町 あわせ て
262戸が焼 失 しているO また時代の変化 とともに改築や 新築 も行われ.現在で もい くつか伝統 的建造物 は見 られ るものの,外町は 「 近代化の波 を受 けず に」 とい うわけ にはいかなかったo それでは,「 伝統的建造物保存地区 」 に選定 された武家屋敷のあ る内町は どうだったのであろ うか。坂 田は次の ように指摘 している。
[ 内町の町割 りは]城下町創設時とほとんど変わらないo Lかし,屋敷の住人の変化や,その経済的な内情などから, 屋敷の広さに多少の増減が生じた。また住民の住家は,住生 活の変化や火災などによって古い形態があらかた姿を消 し, 近世の面影の残影は石黒家,青柳家,岩橋家,河原田家,小 野田家にみられるにすぎない。 ( 坂田
1991:16)武家住宅茅葺寄棟道の屋根が塀越しに,うっそうと育成さ れた樹木越 しに見え隠れする。しかし,明治以降は茅茸が姿 を消して町屋風の木羽葦屋根となり.さらに鉄板茸に変わっ た‑‑藩政時代には土屋の台所に続いて馬尾も設けられてい たらしいが,それも現在は痕跡すら兄いだせない。
( 坂田
1991:16‑17)「 重要伝統 的建造物群保存地 区」 の伝統的建造物 とし
て指定 されたの は,建造物
5件 .それに門
7件 ,塀 ・垣
16件 にす ぎない。 また上 の引用 にあ る ように, これ ら
の
5作 について 「 近世の面影の残影」 というまわ りくど
い表現が加 え らj tているように,内町 も 「 近代化の波 を
受 けず」藩政時代そのままの建築物が残 されていたわけ
で はなか った。 これ らの建築物は まさに住居 をな してい
たため. またそ うした建築物 に価値 を見出 し,可能 なか
ぎ り当時の姿の まま保存する とい う考えが一般的になっ
たのは比較的新 しいことであるため, これは仕方が ない
ことではある。 ここには武家屋敷の数的な少 なさととも
和泉 : 伝統の維持と創造 に, この建築物 を生か して当時のまちなみを 「 復元」 し
ようとす る場合 における建設年代 に関する問題 もある。
武家屋敷の特徴としては
5屋敷を中心に考察をすすめざる をえない。その建築年代の最も古い例は幕末であって,それ 以前を知るべき具体的資料はほとんど残されていない。この ことから伝統的町並みの復元は,幕末から明治初期の景観に ならざるをえない。 ( 坂田
1991:14)たえず変化するまちなみに厳密性 をもとめることはで きないであろうが,角館の武家屋敷の まちなみは必ず し も藩政時代 の まちなみで はない。 この ことか ら , 「 近代 以前」の姿 をとどめている角館 とい う 「イメージ」や伝 統 の 「 説 明」 , 「 復 元」 と (とらえる こ との不 可能 な)
「 事実」 との間にギャップが存在せ ざるをえない ことに なる。それでは,以上の ような実情 にもかかわらず,そ もそ もなぜ角館の武家屋敷の まちなみは,地域の特色に な りえたのであろうか。
「 現存す る武家住宅は少 ないにもかかわ らず,訪れる 人に武家屋敷の面影 を強 く感 じさせ るのは,広い屋敷割 りのなかに巨木樹木群が連続 しているか らである」 ( 坂 田
1991:14)。 これが上記の 「 雰囲気」 とい うことの意 味である。 まちのなかの多 くの樹木 と. ところどころに ある昔 なが らの門や塀,それ らの間か ら垣 間見 られる武 家屋敷。 また観光地 になる以前 には, 自然豊かな山あい の まちの,近代化 されていない一昔前の時代 に戻 ったか の ような雰囲気。 これ らがあわきって武家屋敷のイメー ジを演出 していたのであ り, したがって,伝統的建造物 群保存地区に選定 された とき,建物だけではな く,伝統 的建造物群 と一体 をなす樹木
153本 も保存すべ きもの と
して指 定 を受 けた。 まさに まちなみ , 「建造物群」 の
「 面的」保存であるo Lか し , 「 保存」 といって も
,1970年代 に残っていた まちなみの保存ではない。上記の引用 にもあるように 「 伝統的町並みの復元」が
1976年以 降, 進め られたのである。 この保存事業 について,上記の よ
うに角館教育長であった藤井章一 は , 「 時 として,時流 に迎合 した観光の低俗化 に抗 しなが らの事業」 と述べて いるが, この保存事業 はけっ して観光 に反す るものでは な く,む しろ 「 観光のまなざし」か ら行われたのであっ た。
3.2
修景 と復元
角館のまちなみの 「 保存」 とい う名の 「 復元」 は,明 確 に特定で きるある時代の まちなみを可能なか ぎり忠実 に復元す るのではな く,武家屋敷の まちなみにふ さわ し い 「 理念型」.あるいは資料 をもとに最大公約数的に抽 象化 され, さらにあるべ き姿 とい う価値観 と理想像 にも
とづ く 「 修景」,つ ま り 「 景観」 の改修 ,修復 ,整備 , 建設であ る
(9)。 た とえば,武家屋敷の特徴 は次の よう な もの として まとめ られている ( 表 2)。
表
2武家屋敷の特徴 屋根 ・寄棟の萱葺屋根
・切妻造木羽葺 ( 下屋 も木羽葺) 壁体 ・下見板貼 ,一部 しっくり塗 り
・袴月 琴がみ られ る ( 蔵)
壁 ( 戸袋等) ・戸袋が独特のデザイ ンでアクセ ン トに なっている○
土縁廻 り ・積雪対策 として,縁 と庭 との中間的空 間を構成
建具 ・雨戸は,土縁廻 りを一体で上部障子貼
・窓は,格子窓
出展 :角館町教育委員会 ( 1 984) この理念型 に もとづ き武家屋敷 は修復 され る ととも に,保存地区内にある建築物や新 たに建設 される建築物 等 もこの理念型 にもとづいて建設 される。 これは塀 や生 垣 な どにもあてはまる。具体 的に行われた 「 保存」事業 は,次頁の表
3の ようになっている。
表
3か らわかるように,角館の武家屋敷の保存事業は, 武家屋敷 じたいの修復 よ りもは じめ に, まず 「 塀」や
「 垣 」 , 「門」 な どの新設や工事 の 「 修景」が行 われ た。
全体的 にみて も , 「 保存事業」 とい うよ りむ しろ 「 修景 事業」 とい う方が適切 な事業内容 になってい る。1
997年 ( 平成
9年) と比較 的新 しい ものではあるが,図
1は
この修景の一例である
(10
)。
保存地 区に選定 された当時の まちなみ は , 「コンクリ
ー トブロック塀お よび貧弱 な生垣が多いのが 目立つ」状
態 にあった。塀の中の家屋 な どは,屋敷 内の多 くの木 々
によって さえぎられた り,あるいは塀の高 さと塀 か ら家
屋 までの距離 によって,道か らは屋根 しか見えない よう
な状態 になっていたO この ような状 況 にあ って, まず
道 を歩 きなが らみた ときの視点か らまちなみの整備が行
われ, また1
983年か ら1
984年の保存調査で も , 「 現段 階
で修理
・修景が必要 な箇所 は, コンクリー トブロック塀
と,車庫,店舗 などの建築物が道路 に直面 している部分
が残 されている」 ( 角館町教育委員会
1984:46)とい う
ように,道路か ら見た ときの景観が重視 されている。図
2は.保存地区選定の翌年の調査で修景の必要 とされた
箇所 と,1
983年 まで に修景 された箇所 ,それ以降,修
景が必要 とされた箇所である
Oまた樹木の植栽にあたっ
ては,当然のことではあるが,木が生長 した後の ファサ
ー ドも考慮 されている
。表
3重要伝統建造物群保存地区選定か ら昭和
60年度までの保存事業概要
( 単位 千 円)
自動火 災警報装置設置 工事 防災
1,712 856 428 428石橋家板塀 工事 高橋久二家 内塀 工事 修理 修景 」
石黒一郎家あずまや. 便所. 内塀他工事 修理 青柳家土蔵 .井戸屋館 .塀他 工事 修理
55
岩崎家屋根葺替 ( 小 田野家 主屋 .小屋等修理工事 小 田野家板塀 工事 陶家板塀 工事 高橋久二家一般住居修景工事 生垣設置 .復 旧工事 一般住居屋根塗装修景工事 木羽葺)工事
(8戸) 修理 修理 修景 修 景 修景 修景 修景 .
15,600 7,800 3,900 3,900河原 田家南側 内塀修景 工事
大滞家板塀修景観 工事 修景 修景
電力柱撤去工事
(17本)
電力柱撤 去工事 に伴 う宅内配線 工事
街路灯設置工事 西宮家寄贈 門移設 工事
(11基) 修景 修景 修景 修景 .
5,26270 0
㌦ 262出展 :角館 町教育委員会
(1984,2004),
※ 平成
60年度以降 も事業は継続 され てい るが , ここですべて を記載 で きないため割愛 した。
‑78‑
和泉 :伝統の維持 と創造
小原銀平家門 と塀 ( 裏町 ・平成 9 年) 図
1修景の例
出典 :秋田県角館町教育委員会 ( 2 004)
ファサー ド現況図(昭52)
フアサ‑ ド現況図 (昭58)
図
2ファサー ドの現況 と修景
出典 :秋田県角館町教育委員会 ( 1 98 4)
「ファサー ド
」(fa与ade),つ ま り正面,表面 ( うわべ) ,
「 顔」や表情 ( フ アス
face)の改修 と整備,いわば まちなみの整形 ともいえるだろ う。その変わ りようは,図 1 の写真 で もわか るであ ろ うが , 「 別人」 になった とも言 えるのか もしれない。保存地 区選定以前 に角館 を離れ, 十数年後,再 び角館 に戻 った人 は,そ こにかつての もの
とは異なる姿 をみ ることになったであろう。 この フ ァサ ー ド,顔 は,誰 に向けての ものなのであろうか。 当然の こ とであ るが, (自分 自身で は鏡 な どを使 わないか ぎ り 見 ることので きない)顔,表情 ( フ アス)は,誰か見 る 人 に向け られた ものである。それは,地元 に住む人たち なのか,あるいはその家の住人なのかo 自分の誇 り, 自 信 とい う意味ではそ うした面 も重要ではあるが, この場 合 に も,見 られる相手 とい うものが想定 されている。坂 田は次の ように述べ ている
。内町は‑‑‑自然のあやなす絶妙な景観によって成立してい るので,すべてが無機質で人工的な乾燥 した生活を送ってい る都会人は,角館内町の魅力をこの点に見出すのである。こ のことから,内町には人工的な原色は無用となり,少なくと も人間の視界から無機物質をできるだけ排除さj tるべ きであ ることを示している
。( 坂 田
1991:16)見 られる相手 として想定 されてい るのは,無機質な都 会 に くらす都 会人,つ ま り観光客たちであ る。 したが っ て , 「 修景」 とい う事業 は,都 会人の視線か ら眺 めた と きに 「 望 ましい景観」,角館 にそ うあ って欲 しい とイメ ー ジす る まち なみ を創 出す る事 業 とい え るで あ ろ う。
1984
年の保存調査報告書で は,表通 りは , 「 武家屋敷 と しての落ち着いたたたずい まいの中に,現代文明 として の 自動車が侵入す る結果 となっている」 ( 角館 町教育委 員会
1984:1 ) と し, 自動車の問題点が指摘 されている ことか らもわかるように,武家屋敷の まちなみか ら無機 質 な 「 現代文明」 を可能 なか ぎ り排す るとい うのは,そ うした都会人の イメージに合致 させ ることが 目指 されて いるとい うことであ る。そ して, こうした他者 による評 価が,みずか らの 自信や誇 り,価値 の再認識,アイデ ン テ ィテ ィにつ なが るとい うのは 「自己」のあ り方 と同 じ であ る
oLたがって,角館 の伝統的建造物群保存事業は,必ず しも 「 時流 に迎合 した観光の低俗化 に抗 しなが ら」 とい うものではない。そ もそ も,無機質な都会の生活 と自然 豊かな情緒ある田舎 との対比で,観光の対象 として山村 地域 が位 置 づ け られ る よ う に な っ た の も, ち ょう ど
1970年 頃の こ とであ り り1 ) , 「 面」 としての歴 史的環境 の保存 とい う考 え方 とともに, まさに時流 にのった動 き といえるのである。しか し,この ように時流 にの ること,
‑80‑
観光客向けの 「 見 た 目」 を整 えることが悪 い とい うわけ ではけっ してない。そ うではな く,重要 な点 は,歴 史や 伝統の 「 保存」 を単純 に観光や時代 の流 れに反す るもの として とらえることはで きず , またその ように とらえて しまうことで問題の性格 をとらえ損 ねる可能性 がある と い うことである
。ところで , 「ファサー ド」の修案は , 「 観光の まなざ し」
とともに 「 生 きた ままの保存」 とい う武家屋敷の保存の あ り方 とも結 びついている。つ ま り観光者の 目にさらさ れ る観光の 「ステー ジ」 ( 表舞台) と,住民 の 日常生活 が営 まれ る 「バ ック ・ステー ジ」 ( 舞台裏) との分割 で ある。 これは観光客 に とって と同様 に,あるいはそれ以 上 に住民 に とって重要 な ことである。 そ して この点 に, 角館の観光における 日常 と非 日常 とい う問題 も存在 して い るのである。
3.3
観光 における 日常 と非 日常
ジ ョン・ ア‑ リは,観光の まなざ しは 「 反対概 念 との 関係性」か ら,つ ま り 「 非観光的社会行為 との対比」か ら構成 され る と指摘 してい る (
Urry1990‑1995:3)。 観光 には,近代 において もさまざまな形態があ り, また 変化 し続 けているが,ア‑ リは近代社会 における社会的 行為 としての観光 にみ られ る共通点 として,以下の9 つ の点 をあげている (
Urry1990‑1995:4‑7)0
1 観光は余暇活動であり,その対照物であり組織化された 労働を前提としているO
2 空間的移動と新規の場所での一定期間の滞在。
3
旅は一時的であ り , 「 家」へもどるという明確な意図が ある
。4
まなざしを向けられる場所は,賃労働と直接結びつかな い対象L ,
5
観光客のまなざしの大衆的性格に対処するため,相当数 の人が観光行為に関与しているっ
6
自分が習慣的に取 り囲まれているものとは異なる尺度や 意味を伴うものへの楽しみの期待。そうした期待はテレ
ビや文学など非観光的活動によって支えらj tている0
7観光のまなざしは,日常体験から区分される風景や町並
みに向けられるOこのまなざしは写真や絵葉書などで対 象化され,再生産される
。8
観光は記号の集積である。
9