ヤ ハ ウ ェ と カ イ ン
ー 聖 書 に お け る神 義 論 の一 考 察 一
立 花 希 ‑
YahwehandCain:A Reflection ontheBiblicalTheodicy
KiichiTachibana
Abstract
WhenyoureadGenesis4,itmayseem toyouthattheGodisnotwhollygood.Therearethree argumentsagaintthegoodnessoftheGod.FirsttheGodfavorsAbelandhisofferingsoverCainandhis.
ThereforetheGodisnotfair.SecondlyCainkilledhisbrotherAbelwithmurderousintent.Thenhe deservesacapitalpunishment.Inspiteofthis,heescapesthedeathpenaltyandliveson.Thereforethe sentencepronounced by theGod isnotjust.Thirdly iftheGod isomniscient,omnipotentand benevolent,HecanpreventCainfrom killingAbel.However,theGodoverlooksCain'scriminalactand HedoesnotsavethelifeofinnocentAbel.ThereforeHeisnotbenevolent.
Asforthefirsttwoarguments,whenyoureadtheHebrewBiblecarefullyandconsiderwell,youwill beconvincedthattheGodisfairandjustinHisjudgments.Ontheotherhand,itisveryhardtosay somethingfororagainstthelastargument.Fortheargumenthasbearingonthefundamentalproblem oftheodicy,thatistheproblem concerninghowtoexplaintheveryexistenceofevils‑ sufferingsand moralsins.Onthisproblem mypersonaltentativeopinionsareexpressed.
Ⅰ は じ め に
ユ ダヤー キ リス ト教 の伝 統 で は,神 は全 知 (omniscience),全 能 (omnipotence)で 遍 在 (omnipresence)し, しか も書 きもの (goodness)であるとい うことにな っている。近代 において もデカル トの議論か らも伺 え るよ うに 「邪悪 な神」とい うのは形容矛盾であ り,「神」で はあ りえな いのである(1)。 ユダヤ教, キ リス ト教 に関す るどん な書物 に もそ う書 いてある し,信仰の有無 にか かわ らず,当然 の ごとくそ う教え られて きた し, そ う教 えて もいる。歴史的には, プラ トンの 「神 は真 に善 さものである」とい う考 え(2)と,聖書 にお ける 「ヤ‑ ウェは義である」とい う考え(3)とが結 びついて生 じた ものであ り, それが公理 のような ものにな って今 日まで続 いているのである。
ところが他方 において,神 は本 当に書 きもの,義 なるものであるのだろ うか とい う問いは絶えず 問われ, この問 いをめ ぐる議論,すなわち神義論 (theodicy)は,永遠 の問題 として論 じられ続 け ているのである(4)0
抽象的,一般 的には神義論 は,一方 における神 は全能で善 さものであるとい う信念 と,他方 にお ける悪 の存在 との間の矛盾, あるいは一見 した ところの矛盾 (apparentcontradiction)か ら生 じ る。すなわち, もし神が全能であ るな らば,悪 を根絶す ることがで きるはずである。 もし神が真に 善 さものであるな らば,悪 を根絶 す ることを望む はずである。 ところが悪 は現実 に存在す る。 した
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が って神 は全能ではないか,真 に善 さものではないかのどち らかであるとい うデ ィレンマに陥 いる ことになる。 このデ ィレンマをどう解決す るか,あるいは解決不能 の もの として しまうか という議 論が神義論である(5)。
単純 な解決 の仕方 は,悪 は幻想 にす ぎないとしてその実在性 を否定 して しまうことである (ある いは悪 は善 と比べ ると二次的で,部分的であ り,全体 と してみれば善であると結論づ けることであ る)。もう1つ は,神 の全能 については全能ではない人間 には測 り知れない ものであ るとし,それ と 共 に神 の義 も測 り知れない ものとして棚上 げ して しまうことである。
このような解決 に反対す る者 は,前者 に対 しては悪 の実在性 を主張 し,後者 に対 しては, それで は解決 にな っていないと主張す ることになるであろ う。 こうした抽象的,一般的な議論 は多分 に言 葉上 の問題 (verbalproblem)とな り,善,悪 とい った具体的で実践的な問題 と大 きく懸 け離れて
しま う恐れがあるので はないだろ うか(6)0
本稿で は, ユ ダヤ教 とキ リス ト教 にとって共通 の聖書である旧約聖書で描かれている神 の言動 の 具体的な分析を通 して 「神の義」 について考察 してみたいと思 う。
Ⅲ 創世記4章1‑ 17節
神の義 に関す る問いは,旧約聖書 に登場す る人物 によって もすでに問われている。例えば, アブ ラ‑ ムと神 との論争 (創世記18章), モーセの同様 な問 いかけ (出エジプ ト記5章22節), さ らに 単刀直入な問 いとしては, エ レミヤ書12章1節 の言葉がある(7)0
裁 きにつ いて私 はあなたと話 を したいのです。 なぜ悪者 たちの道が栄 え,裏切 りを働 く者 たちが みな安 らかなのですか。
また,知恵文学 の1つ ヨブ記 は,全体 のテーマが神義論 であるとい って過言ではないのである。
神義論を扱 っているとみなす ことので きる聖書 の箇所 をすべて取 り上 げて,考察す ることは今後 の 課題 とし, ここで は創世記4章 に登場す る神, ヤ‑ ウェに限定 して考察す ることに したい。
それは, この箇所が旧約聖書 の中でヤ‑ ウィス トに属す る古 い時代 の ものであ り, しか も聖書 の 中では最初の議論であると思 われ るか らである。 また,一般 にヤ‑ ウィス ト資料 はエロヒス ト資料 と比べ ると倫理的な問題 に鈍感であ り, そ こで描かれる神の言動 は暴君的な専制君主 のそれである といわれている(8)が,必ず しもそ うではないか らである。
伝統的にカイ ンとアペルの物語 は,一部族内において,遊牧生活を守 ろうとす る集団 と定住農耕 生活 を営 もうとす る集団 との争 い及 びそれ 自身 の葛藤が反映 されてい るもの と して解釈 されて き た(9)。初期 は遊牧生活が優勢であ った (神が アペルの献 げ物 に目を留 めた ことに象徴 されている) が,結局 は農耕生活を営むようにな り,農耕派 が勝利 を収 めた (アペルの死)とい う具合 にである。
他方,新約聖書 にみ られ るよ うに(10),カインを悪 の陣営 にお き,他方 アペルを予言者,義人の系列 におき,さらにアペルをイエスの原型 (prefiguration)とす るよ うな神学的 アプローチ もある。 し か し, ここではそのよ うなアプローチは採用せず, カイ ンとアペルの言動 とそれに対す るヤ‑ ウェ の対応 にのみ注 目 し, それを倫理的に検討す るとい う倫理学的 アプローチをとることに したい。
(1) 神の義 の否定 の議論
4章 を一瞥 した限 りで は, ここに登場す る神, ヤ‑ ウェは 「義」か らははど違 いという印象を受 けるであろう。第1に,カイ ンとアペルの献 げ物 に対 し,ヤ‑ ウェはアペルとその献 げ物 だけに 「目 を留 める」 ことによって, アペルをひいき し, カイ ンをないが しろに しているよ うに受 けとられる
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か らで あ る。「差別」(discrimination)は,「正義」,「公正」と相反 す るもので ある。 したが って 「神 は義 で あ る」 とい う命題 は成 り立 たない とい うわ けであ る。
第2には,判決 が応報原理 に基 づ くとす るな らば一 旧約聖書 は基本的 にそ うな ってい る(ll)‑,殺 人 に対 して は死刑 が相 当す るはずで あるが,ヤ‑ ウェはアペル亡 き後今度 は,カイ ンをひい き して, 死刑 を宣告 せず,将来 カイ ンを殺すか もしれない者 (仮想殺人者) に対 して は「7倍 の復讐 を受 け
る」 とい う不公正 な判決 を行 ってい るよ うに思 われ る。 したが って, ここで も 「神 は義 であ る」 と い う命題 は成立 しない と。
第3に,一般的 にい って,罪 な き人が殺 され るとい うことは悪 であ る。 4章 に措 かれてい る限 り において は, アペルの言動 に罪 を認 め ることはで きないであろ う。 したが って, そのアペルが殺 さ れ るとい うことは悪 であ る。神 は全知,全能 であ るか ら, アペルが カイ ンによ って殺 され るであろ うことは予知 で きたであろ うし, また殺人 を未然 に阻止す ることもで きたで あろ う。 ところが,神 はアペルが殺 され るのを見過 した。 したが って,この点 において も,「神 は義 であ る」 とい う命題 は 成立 しない ことにな るので はないか。
第3の議論 は,神義論 の中心問題 ともい うべ き大問題 であ り,肯定 的 にせ よ,否定的 にせ よ決着 をつ け ることは私 の能力を超 えてい るので,最後 に若干 の考察 を行 う程度 に留 めざるをえない。第 1,第2の議論 につ いて は,聖書 のテキス トを丁寧 に読 めば,答 え ることがで きるよ うに思 われ る。
(2)第1の議論 の反論
「差別」とい うのは同 じ事態 あるいは同 じ行為 に対 して異 な った対応 を とることであ るが,ここで のカイ ンとアペルの行為 は同 じもの とみなす ことがで きるであろ うか。 ヘ ブライ語 の原典 に即 して 読 む と(12),アペル は羊 の 「初子」で しか も 「肥 えた もの」を もって きた と書 かれて いる。カイ ンの献 げ物 が アペルのそれに匹敵す るものであ ったな らば,良 い 「初穂」(bikarim)と書 かれていなけれ ばな らないのであ るが,単 に 「地 の果実」 と しか書 かれていない。 この ことか ら, カイ ンとアペル の献 げ物 に質 的 な差異 が あ った ことがわか るで あ ろ う(13)。 したが って,神 の対応 の仕方 の相違 は
「差別」 とはいえないので はなか ろ うか。
これ に対 して は次 のよ うな反論,再反論,再 々反論 ‑‑・が考 え られ るであろ う。
〔反論〕神 は献 げ物 の中身で人 を区別す るのか。 もしそ うであ るとす るな らば,神 は 『忠 臣蔵』に登 場す る吉良上野介 のよ うな振 る舞 いを してい ることにな るので はないか。
〔再反論〕いや,それ は誤解 で ある。献 げ物 の内容 で はな く,心 の問題 なのであ る。神 は人 の心 の中 まで見抜 くことがで きるか ら, カイ ンとその献 げ物 には気持 が寵 もっていない ことを洞察 した。
尊敬 の念 を もって忠実 に (faithfully)神 を崇拝す ることが肝要 なのであ る。
〔再 々反論〕とす るな らば今度 は,神 は自分 に対 す る 「忠実 さ」の度合で人 の行為, さ らには内心 を 測 り, それ に序列 をっ けるとい うことにな る。 そのよ うな神 を 「書 き神」 と呼べ るか どうか はな はだ疑 問で あ る(14)0
この議論 には際限がな く,決着 はつかないで あろ う。 ところが, この問題 を解 くカギが聖書本文 にはあ る。 すなわち,6‑7節 のヤ‑ ウェの言葉 で ある。 カイ ンは自分 の献 げ物 が 目を留 め られな か った ことで,「非常 に怒 り」,「顔 を伏せ る」 とい う行為 に至 ったが,それに対 し,ヤ‑ ウェは次 の よ うに述べてい るのであ る。「もしあなたが正 しく行 ったので あれば,受 け容 れ られ る(15)」と。すな わち, 目を留 め られ るか否 か とい うことは,形 にせ よ,心 にせ よ,神 に とっての問題 で はな く, カ イ ン自身 の問題で あるとい うことであ る。預言者 な どで は明確 に述 べ られてい るが, そ もそ も 「献
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げ物」 は神 に とっては無意味なので ある(16)。 この考 え方 は, ヤハ ウィス トとといわれ るこの章 に も 潜んでい るので はないだ ろ うか。 カイ ンが 自分 の良心 に照 らして 自分 で正 しい と思 われ ることを 行 っていたのであれば,怒 る必要 も,顔を伏せ る必要 もなか ったはずである。 カイ ンが怒 った り, 顔を伏せた りしたのは,心 にやま しい所があるか らであろう。神 は真実 に従お うとす る態度 として の 「誠実性」(Wahrhaftigkeit)を強調 しているのである。先のヤ‑ ウェの言聾 は,カ ン ト的にいえ ば,「形式的良心性」 (dieformaleGewissenhaftigkeit)を要求 した もの と解釈で きるか もしれな い。形式的良心性 とは, 自分が正 しいと信 じている判断ではな く, 自分がほん とうに正 しいと信 じ ているか どうか とい う意識である。因みにカ ン トによれば,この 「形式的良心性」が先の 「誠実性」
の根拠 となるのである(17)。
もしこう解釈 で きるとす るな らば, カイ ンが 自分 の献 げ物 を献 げ物 と してふ さわ しい と考 えて 行 ったのであれば,受 け容 れ られた ことであろう。さらに敷桁すれば,自分で正 しいと思 うな らば, 献 げ物 を全 く行 わな くて も受 け容れ られるはずなのである(18)0
ここで注意 しておかなければな らないのは, この議論 は倫理的主観主義 のそれで はないとい うこ とである。個 々人が 自分 の良心 に照 らして正 しい と信 じる事柄 はつねに正 しいとか, あるいは正 し さとは個 々人が正 しい と信 じることであるとい うことを主張 しているわけではないか らである。 こ れは 「申j断の内容」 と 「意識」の混同か ら生 じる誤解である。私が本当に正 しい と信 じているか ど うか とい うことは, 自分の意識 において絶対 に確実であろう。 しか し, 自分が正 しい と信 じている 判断の内容が正 しくないことは当然 あ りうる。正 しくないことを,誤 って正 しい と主観的に思 い込 んで しまうことがあるか らである。すなわち,正 しいとい う主観的確信が,正 しさ(Recht)の根拠 とはな りえないのである。
この考察か らわか ることは, 自分の良心、に照 らして正 しいと思 うことが必ず正 しいとい うわけで はないが, 自分 の良心 に照 らして正 しくない と思 うことを正 しいと申 し立てた り,正 しいかのよう に装 った り,振 る舞 った りす ることは正 しくない とい うことである。 カイ ンの犯 した過 ちはまさに 後者 のそれであ った。 したが って第1の議論 による 「神 は義で はない」 とい う命題 は否定 された こ とになるであろ う。
(3)第2の議論 の反論
反論 を行 う前 に,第2の議論 を もう少 し詳 しく述べてお こう。 自分で正 しいとは思 っていないこ とを して しまったに もかかわ らず, その ことを反省せず, アペルやヤ‑ ウェに対 し敵対的な態度を とったカイ ンは, ヤ‑ ウェの適切 な忠告 (7節) に もかかわ らず,罪が罪を呼び,殺人 まで犯 して しま うことにな る (8節)0
カイ ンのアペル殺害 は故意であ り,計画的犯行であることは一 目瞭然である。聖書 にはこう書か れている。
〔新改訳〕
しか し, カイ ンは弟 アペルに話 しかけた。「野 に行 こうで はないか。」 そ して,ふた りが野 にい た とき, カイ ンは弟 アペルに襲 いかか り,彼を殺 した。
〔新共同訳〕
カイ ンが弟 アペルに言葉 をかけ,二人が野原 に着 いた とき,カイ ンは弟 アペルを襲 って殺 した。
すなわち,新改訳で明 らかなように, カイ ンは最初か らアペルを殺害す る意図を もって,両親 の
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目の届かない野原 にアペルを誘 い出 し,襲撃 して殺害 した とい う事実が浮 かび上 が って くる。また, 自首す るどころか当初犯行 を否認 した (9節)。 したが って,殺人罪 が成立 し,また情状酌量 の余地 もないか ら,死刑 に相 当す るであろ うとい うわ けであ る。
新改訳 は特 にそ うで あ るが,新共 同訳 で も上 の よ うな解釈 が当然 で あ るよ うな訳 が な されて い る。 しか し, ヘ ブライ語 の聖書 を読 む と大分 ニ ュア ンスが違 って いるのであ る。
カイ ンは弟 アペル に言 った。彼 らが野 にいた とき, カイ ンは弟 アペルに向か って立 ち上 が り, 彼 を殺 した。
「野 に行 こうで はないか」とい う言葉 は70人訳聖書 (Septuaginta)か らの もので,ヘ ブライ語聖 書 にはない ものである。 したが って,本文か らはカイ ンが アペル に何 を言 ったか は全 くわか らない ので ある。殺害計画 を実行す るために誘 い出す言葉 を述 べたか もしれないが,事件 とは全 く無関係 の言葉 を述 べたか もしれないのであ る。 また, カイ ンが アペルに話 を した ときと彼 らが野 にいた と きとの間 には時間的 な隔 た りがあ るか もしれず, この2つの状況 は全 く無関係 とい うことも考 え ら れ るのであ る。意図的,作為 的 に読 み とれ る 「襲 いかか り」 とか 「襲 って」 とい う言葉 も使 われて いない。そ こで は 「起 きる」とか 「立 ち上 が る」 とい う言葉 にあた るqQmのwaw‑conversive(こ の場合 は末完了 を完了 にす る機能 を果 た して い る) で あ るwayy云qomが用 い られて い るので あ る。 この言葉 か ら 「故意」 を読 み とることはで きないであろ う。
神 によ って戒 め られ, い ったん は心 の平静 を取 り戻 した カイ ンで あ るが, アペル と二人 き りに な った とき,ふ と した ことか ら‑ もしかす るとその原因 はアペル に もあるか もしれない一再 び怒 り が爆発 し, アペルを誤 って殴 って しまった。す ると不幸 な ことに,打 ち処 が悪 くアペルが死 んで し ま った とい うことも考 え られ るのであ る。少 な くともヘ ブライ語 の原典 を読 む限 り, こうも考 え ら れ る。 この場合 には,殺人罪 で はな く,過失致死罪が成立す るで あろ う。死刑 よ り刑 が軽 い ことは い うまで もない。「疑 わ しさは被告人 の利益 に」とい う原則 か らみれば,殺人罪 が成立す ることは難 しいので はなか ろ うか。 したが って, カイ ンが減刑 され,死刑 を免 れたのは神 による公正 な判決 で あ った といえ るであろ う。
さ らに, アペルの死 は, カイ ンの 「過失」であ った ことを裏付 ける有力 な議論 があ りうる(19)。 当 時,世界 にはカイ ンの他 には,両親 のアダムとエバ と,弟 のアペル しか存在 しなか った。事件以前 の彼 らは健在 で未だ 「死」 とい うものは現実 の もの とはな っていなか った。 アペルは羊 を飼 ってい たのだか ら,彼 らは身近 な所 で,「動物 の死」 は目撃 していたか も しれない。 しか し,「人間 の死」
が どうい うものであるか,ど うした ら死 ぬのか とい うことにつ いて は,誰 も知 らなか ったのであ る。
このよ うな状況 の中で,カイ ンが殺害計画 を立 て,手段 を講 じ,実行す ることがで きたであろ うか.
したが って,「過失」以外考 え られない とい うものであ る。
カイ ンは当初犯行 を否認 したので はなか った。「事 の重大 さ」がわか らなか ったのであ る。神 との 対話か ら次第 に,死,殺人 の意味を理解 す るよ うにな り, 自分 の犯 した罪(20)を悟 ってい った とい う 方が適切 であろ う(9‑ 14節)o因みに,13節 のカイ ンの言責 は 「罪 の 自覚」の表明であ って,「減 刑 の嘆願」 で はないで あろ う。
次 に「7倍 の復讐」につ いてについて は次 のよ うに考 え られ るであろ う。「7倍」とい うの は数学 的な意味で厳密 に使 われて いるわ けで はな く,漠然 と大 きな数 を表 わ した もので ある(21)。 また ここ での 「復讐」 は神 によ る復讐 すなわち法的罰一正 しい裁判 の応報 的機能‑ であ って,血讐,私刑で はないであろ う。 もしそ うであ るとすれば,「(カイ ンが受 けた刑 よ り)重 い刑 を受 ける」 ぐらいの 意味 にな る。 カイ ンが事件 を起 こす以前 には,殺人 が罪 であるとはどこに も述 べ られて いないが,
カイ ンの最初 の殺人事件以後,殺人が罪 であることは明白にな ったのであ るか ら, カイ ンの受 ける 罰 よ り刑が重 くなるのは当然であろ う。 これは 「罪刑法定主義」 の精神 に沿 うもの として解釈で き るか もしれない。す ると,神 のカイ ンに対す る最終的な判決 は,法的には 「無罪」 とも読 む ことが で きるのである(22)。とい うのは,カイ ンは追放 された,さす らい人(23)とな らずに,定住 し,結婚 し, 子供を もち,町を建設 しているか らである(16‑17節)。ヤ‑ ウェがカイ ンに与えた 「しる し」は, ホーソンの 『緋文字』にみ られ るような罰 としての しる しで はな く,保護,保証 の しる Lであろ う。
か くして この章のヤ‑ ウェは, まさに 「理想的な裁判官」であ り,公正 な判決 を下 しているとい う結論 を下せ るのではないだろうか。この意味で 「神 は義」(24)なのである。旧約聖書 の神 は しば しば 裁判官 (紬pet)にた とえ られ(25),また法的な正義の神 という性格が強いとい うのは通説 であるが,
この章 もこの ことを裏付 けているといえ るであろう。
Ⅲ 第3の議論 の考案
以上 の考察 は,人間の犯 した罪,悪行 に対 して神が どう裁 くのか とい う点か らの考察であ った。
ところが第3の議論 は,罪,悪 の存在 自体 を問題 にす るものである。 なぜ神 はカイ ンが罪 を犯すの を未然 に阻止せず,無実 のアペルが殺 され るとい う不幸,悲劇 を看過 したのか。 したが って
,
「神 は善 さものではない」とい う結論が下 され るので はないか とい うものであ った。残念 なが ら筆者 には, それに対す る肯定的な答 え も否定的な答え ももち合わせていない。 しか し,少 な くとも 「不幸,忠 は実在す る」 という命題 は否定で きないよ うに思われ る。無差別殺人 によ って子供 を殺 された親 と か,ガ ンの末期症状 で連 日連夜,地獄 の苦 しみを耐えている患者 に対 して, それ は悪 いことではな いとか, それは単 に幻想 で実在 しないなどと強弁す ることはで きないであろ うか らである。
「悪」(evil)は大 きく2つに分類 され る。自然的な もの‑ 死,病気,傷害 などの不幸 や苦痛‑
と人為的な もの‑ 人間の行為 によって引 き起 こされ る倫理的な悪 とか罪‑ である。先ず 自然的 な悪 について考 えてみ ることに しよう。
仮 に 「死」 とい うものがな く,人が永遠 に生 きることので きる世界 を想像 してみよ う。 そのよ う な世界 は書 き世界 といえ るであろうか。少 な くとも私 には退屈 な世界であるよ うに思 われ る。人が 永遠 に生 きることがで きるな らば,少 な くとも自分 にで きることは, どこか ら始 めたと して も,何 で も実現で きるであろ うか ら,取捨選択 した り,優先順位 をつ けた りす る必要 はな くなるであろう。
一般化すれば,意味づ けや価値判断を行 うこと自体が無意味になるのである。
では病気や苦痛 はどうか。ヒュ‑ムは 『自然宗教 に関す る対話』(1779年)の10‑11章 で,フイ ロの口を借 りて, この世界 には幸福 (happiness),不幸 (misery),快 (pleasure),苦 (pain)が あるが,苦 や不幸 のない世界 もあ りうるはずであるか ら,神 は善 さものではないのではないか とい う議論を展開 している(26)。快,苦が二元論的な ものであ って,二分で きるのであるな らば,苦 をな く し,快だけを存在 させ ることがで きるか もしれない。 しか し,快,苦 は連続 的で相対的な もの, あ るいは表裏一体 の もので はなかろうか。快 も長 く持続す るとそれは快ではな くな り, さらには苦 に なるとい うことは心理的事実であろ う。 また同 じ事態が快 にな った り,苦 になった りもす るのであ る。そのよ うな事態 について,快だけを賦与 し,苦を除去す ることは論理的 に不可能であろ う。「円 い正方形」 を作 ることがで きないよ うに。 したが って,善 き神 な ら苦痛 なき世界を創造 したはずで あるという考えは,神 に対 し 「論理 的に不可能 な こと」 を行 うよ うに要求 していることになるであ ろ う。論理的に不可能 な ことは,神 にもで きないことなので はなかろ うか。 したが って, フイロの 先の議論 は成立 しない。 このようにフイロを批判 したか らとい って,私がデメア (有神論者) ある いはク レア ンテス (理神論者) を支持 しているとい うわけではないとい うこともお断 りしておかな ければな らない。論理的に不可能 なことは神 に もで きないとい うことによ って,神 の 「全能」が否
1 6‑
定 され るか どうか は議論 の分 かれ るところとな るであろ う(27)。
それで はそ もそ も快,苦 のない世界 を神 が創 ればよか ったので はないか とい う議論 について考 え てみ ることに しよ う。私 は幸運 な ことに,今 の ところ大病 も大 きな怪我 もした ことがない。「産 みの 苦 しみ」 を体験 す ることもないであろ う。 だか ら言え るのか もしれないが,痛 みを克服す ることは 不可能 で はないので はなか ろ うか。快苦 のない世界 はいわば死 んだ世界であ る。快苦 のない世界 よ り快苦 のある世界 の方 がよ り善 い世界であ るとも考 え られ るので はなか ろ うか (そ う考 え られ ると きも,そ う考 え られない ときもあ るので はあ るが)01つ いえ ることは,全体 と してみれば,快 あ る いは幸が苦 や不幸 を上回 っているとい う理 由で, この世界を善 しとす る見解 は とりた くない ことは 明 白であ るとい うことであ る。 た った1人 の人間 の不幸 です ら, もしそれが存在 す るな らばそれ は 悪 であ ると考 え られ るか らであ る。
それで は人為 的,倫理的な悪 につ いて はどうであろ うか。 ヒューム (フイロ)は,「自然 的な悪 に つ いて述 べた ことはほとん ど変更 を加 えず に, あ るいは全 く変更 を加 えず に,道徳的な悪 につ いて もあて はまるであろ う(28)」 と述 べ,「この宇宙 に何が しかの悪 (vice)があ る限 り,‑‑‑万物 の究 極 的な原因‑・‑‑に帰 せ られ る(29)」とい う議論 を展開 してい るが,これ は果 た して妥 当であろ うか。
カイ ンが アペルを殺 そ うと した とき,神 はそれを阻止 すべ きだ ったのであ ろ うか。 あるいはそ も そ も人間 を創造す るとき,悪 い ことを全 く行 わないよ うに創造すべ きだ ったので あろ うか。 ヒュ‑
ムのよ うにそ う考 え る人 もいるであろ う。 が, そのよ うに創造 された人間 は,万事親 が世話 を しな ければ生存 す らで きない 「新生児」のよ うな ものか,「操 り人形」のよ うな ものにな って しま うので はなか ろ うか。私 は, そのよ うな人間 よ り,善悪 を判断 し,困難 (不可能 ?)で はあ るが,慧 を避 け,善 を求 めよ うとす る自由な人間の方 を善 しと したい気 がす る。 もし人間がそのよ うな もの,す なわち倫理的主体であ るとす るな らば,個 々の人間 の行為 の原因(30)や責任 を,他人 に も,自然 に も, 神 に も帰 す ことがで きないのである。 とす るな らば,人間 に対 して干渉,介入 を全 くしない神 の方 が望 ま しいとい うことに もなろ う。極言すれば,神が存在 しない方 が望 ま しい とい う気 もす る ぐら いであ る。 しか し, それ はさてお き,倫理 的な悪 が存在 す るか らとい って, その責任 を神 に帰 す こ とはで きないのだか ら,神 は善 さもので はない とい う結論 も下 せな くな るで あろ う。
若 くして兄 に殺 された不幸 なアペルの生 は空 しく(he‡?el),無意味だ ったのであろ うか。 また罪 を犯 したカイ ンの生 は悪 であ り,無意味だ ったのであろ うか。 アペル もカイ ンもまさに この世界 に 生 まれ, そ して死 んだ。 この ことは永遠 の真理 で ある。彼 らは死 ぬ までの間,考 え,選択 し,行為 を行 うことがで きた。真理 とか善 とかにつ いて も思 い悩 んだ ことであろ う。真理 や善 につ いて思 い 巡 らす ことがで きるとい うだけで も,人間 は善 さものであ るといいたい。 だか らとい って, この現 実 の世界が可能 な世界 の中で最善 の世界であ ると主張 してい るわ けで はない。個 々人 の レベルにお いて は,善 に対 す る報酬 は具体的 には存在 しない し,善行 に対す る報 いを求 め るべ きで もない。す なわち倫理 は応報原理 に基 づかないのであ る。 しか し,社会 の レベルにおいて は,応報原理 が貰徹 され る世界 の方 が望 ま しいであろ う。悪行 が看過 され ることは不公正 であろ うか らであ る。しか し, 現実 はそ うな って はいない。 したが って最善 で はないのであ る。未来 は開かれているので,人間 も 社会 も共 に倫理的 に進歩 してい くことは不可能で あると決 ま ってい るわ けで はない。世界が さ らに よ くな ってい く余地 があるのであ る。 その責任 は神 で はな く,人間 にかか ってい るといわざるをえ ないので はあるまいか。
註
(1) デカル ト,『省察』,岩波文庫,省察‑と三。
(2)プラトン,『国家』,3790
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(3)申命記,32:4, イザヤ,30:18など。
(4)「神義論」は ライプニ ッツの造語であるが,この議論 は古代 にまで さかのぼ るものであ り,また現代で も論 じられている問題で もある。
(5)「神義論」は 「弁神論」 とも訳 され,その場合,神 の義 を擁護す る議論 とい う意味を もつが, ここで は 「神 の義 に関す る議論」 とい う意味で用 いることにす る。 その方 が,擁護 す る側 を攻撃す る側 の どち らに もコ
ミッ トす ることな く,両者か ら学ぶ ことがで きるよ うに思 われ るか らである。
(6)例 えば,神 は自分 で持 ち上 げることので きないような重 い石 を創 ることがで きるか とい う問 いがあ る。創 ることがで きるとすれば, そのよ うな右を持 ち上 げることがで きないので全能で はな く,他方,創 ることが で きないとすれば, その点で はや は り全能 で はない とい う議論 である。 これによって神 の全能 を否定す るこ とは容易だが,余 りに容易す ぎるので はなか ろ うか。神 は,「そんな馬鹿 なことは しない」と答え ることもで きるだろ う。
(7) 聖書 か らの引用 は,BibliaHebraicaStuttgartensiaか らの私訳 によるO
(8)J.AlbertSoggin,IntroductiontotheOldTestament,Scm Press,London,1974,p.106,E.7tjjh,rl ダヤ教 の人間観』,河 出書房新社,1987年,32‑33頁。
(9)EncyclopaediaJudaica,KeterPublishingHouse,Jerusalem,1972,vol.2,pp.58‑9,̀Abel'の項 目。
(10)マ タイ,23:35, ルカ,ll:50‑51, へ ブル人,ll:4,12:24, ヨハ ネ1,3.'12‑15, ユ ダ,110 (川 ‑ ンス ・ケルゼ ン,『ヤ‑ ウェとゼウスの正義』,木鐸社,1975年,ll‑32頁。
n2) 日本語 の聖書 は訳 が不正確 な箇所があ るので, ヘ ブライ語原典 にあた って読 む必要がある。
(13) TheInterpreter'sBible,AbingdonPress,New York,1952,vol.1,p.518で は, そ もそ も家畜で はな く 農作物 であ ることが問題 であ った と述べ られてい る。歴史的 にはそ うであるか もしれないが,倫理学的 アプ ローチで は,それが良 い ものであ るか どうか,「初物」であるか どうかに着 目す る。とい うのは,歴史的 アプ ローチでは史実 との関わ りで評価 に変更が生 じる可能性 があ るのに対 し,倫理学的 アプローチで はその可能 性 はないか らであ る。
(14) 全能 な力 を もつ神 を尊敬 し,忠誠 を誓 い,絶対的 に服従す る行為 を とるとい うこと自体,倫理的に善 い こ となのか とい う問 い もあ りうるであろう。
(15) 「受 け容れ られ る」と訳 されている言葉 は,na畠畠'の女性名詞由'eiであ るが意味不明瞭であ るoヨプ11:14
‑15との類比 で読 めば,「顔 を上 げ られ るで はないか」と訳せ るか もしれない。いずれにせ よ,「肯定的評価」
を意味す ることに間違 いない。
(16) アモス,5:21‑27, ミカ,6:6‑8, ホセア,6:6, イザヤ,1:11117,詩編,50:8115, 預言者 たちは,神 が望 んでいることは献 げ物や祈 りで はな く,正義 や善 の実践 であ ることを強調 している。
しか し,献 げ物 を全面否定 しているか どうか は疑問である。
(1n I.Kant,tJberdasMisslingenallerphilosophischenVersucheinderTheodicee,GesammelteSchriften, BandⅧ,1923,A267‑80
(18) この議論 は余 りに極端であ ると思 われ るか もしれないDしか し,形式的良心性 は不信仰 について も成立す るのであるか ら, カ ン トの議論 の方が さ らに徹底的であ る。(A268)
(19) TheInteゆreter'sBible,pp.516‑8の解釈 に啓発 された議論であ る。
GZO)「罪」にあた るヘ ブライ語 は,主 としてtlet',pe菖à,̀畠W6nの3つで,7節で は輿 'が,13節 で は̀awenが 用 い られてい る。E・Lipinskiは,聖書 で使 われている坤 '(459回),pe菖à(136回),̀aw6n(227回)をす べて考察 した うえで,全 く同義語 ではないが,意味の相違 を明確 にす ることはで きない と結論づ けている。
基本的 には 「何 らかの基準か ら逸脱す ること」であ るよ うであるoEncyclopaediaJudaica,vol.14,pp.1587
→貰il
任1)Ibid.,vol.12,p.1257。 このよ うな用例 は,例 えば レビ記26章 にみ られ る。
一一.8 ‑
田 モーセの十戒 の中の殺人 の禁止 に用 い られてい る英語 の̀murder'にあた るr畠甲中は用 い られてお らず, 一般的な̀kill'にあたるhara豆が用 い られていることも注 目に値 しよ う。
m) カイ ンの定住 した 「ノ ド」の他 の語源が,「さまよ う,さす らう」を表 わすnadであるとして も,カイ ンは 実際 に 「定住」 しているのであ って,さす らっているので はない014節 の 「追放」(g豆ra善のPielが使 われて いる) ち,条件法 として読 めば‑ 新共同訳で はそ うな っている‑ ,実際 には追放 されなか った ことも考 え られ る。Septuagintaにおいて も,14節 は 「もし」にあた る ̀8̀‥を用 いて訳 出 されてい る。3章24節で は,
「アダムを追放 した」とい う言葉が使 われているが,16節で は,カイ ンは 「追放 された」とは書 かれてお らず, ya申'が使 われているO カイ ンは自分 の意志 で 「家 を出た」 のか もしれないO
伽 「義」にあた るヘ ブライ語 は,主 と して,甲gaqah,号6卓eq,mi畠patの3つであ る。 これにつ いて は筆者 は 若干検討 した ことがあ る。『東北哲学会年報』5,1989年,研究発表要 旨,「アプラ‑ ムは義人 か」,53頁。
C5)詩編,7:ll,50:6な ど。
626) D.Hume,DialoguesConcerningNaturalReligion,HenryD.Aikened,HafnerPress,NewYork,1975, 特 にpp.73‑4.
m LouisJacobs,AJewishTheology,BehrmanHouse,New York,1973,5,9章参照。「全能」の概念 の拡 張 あ るいは縮少 によ って答え は変化す るので,一義的 には決定で きないであろ うとい うのが私見である。
㈹ Hume,op.cit‥p.79.
㈹ lbid.,p.80.
80)外的な原因が全 くないなどとい う主張 を しているわけで はない。人間の行為 には,物理的,化学 的,生物 学 的,生理学 的,心理学的,社会学 的,経済学的‑‑な原因で説明 し尽 くす ことので きない 「何 ものか」が 残 るであろ うとい う期待 の表明であ る。
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