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(1)

茨城大学教育学部紀要(教育科学),28号(1979),153−16g.      153

デューイ教育思想における「状況」(Situation)

について(その2)

関     勤

(1978年10月16日受理)

On the Concept of Situation

in Jolln Dewey,s Educational Thought(No.2)

Tsutomu SEKI

(Received October 16, 1978)

W デューイにおける状況の意味(補足)

小論(その1)において,デューイにおける状況の概念は,次の三つの意味をもつものとして捉 えられている♂)

第一に,最も根元的な意味での状況,原型としての状況という意味で,生物学的な次元での生命の 過程における,生物と環境,有機体と環境との,分けられえない関係,一つの統一の状態にある関係,

相互作用を為す関係として捉えられるものを意味している。

第二に,経験という次元における,人間と環境(まわりの人々や事物)との間に成立する能動的関        卍 W,相互作用を為す関係,一つの統一の状態にある関係,不可分離性にある関係として捉えられるも のを意味している。

第三に,学習における,子供のもつ能力や活動と教材(材料)との間に成立する関係,両者の間に 存在する能動的関係,相互作用を為す関係,一つの統一の状態にある関係,若し両者を分離せしめる ならば,即座に学習そのものを不成立におちいらしめる関係として捉えられるものを意味している。

(その1)においては,以上に述べられた状況についての三つの意味にかかわるものとして,更に,

状況の概念と相互作用の概念との関係,ある吋ま,経験の概念と状況の概念との関係については,次の ように要約されている。 「状況の概念と相互作用の概念とは,離れ得ないものであり,相互作用が状 況を形成するものである。経験の概念も,状況の概念も,二つの分離し得ないもの,一つの統一の状 態にあるもの,相互作用を為すものを,本然のその姿のままに,総合的に統合的に捉えようとする,

理解しようとする,それなりに完成させようとする意味をもつものである。」 この要約の示すところ によれば,状況といっても,相互作用といっても,経験といっても,その意味するところは殆ど同じ ものであるように思われる。あるいは少なくとも,類縁的関係のきわめて深い意味をもつものである ように思われる。

三重大学教授 杉浦美朗氏は,昭和51年に著わされたデューイ研究の成果『デューイにおける探究       、

の研究』(風間書房刊)において,「状況とはいかなるものであろうか。デューイ自身は状況につい て体系的説明は行なっていない。しかし,彼の状況についての多くの言葉の中に,我々は,状況の意

(2)

味を解明して行くための,いくつかの手懸りを見い出すことができるであろう。」と述べた上で,デュ 一イにおける状況の意味を,8項目に分析されている。以下しばらく,われわれが(その1)におい て述べた状況の意味の不備を補うものとして,それの要点を引用してみることにする。

(1)まず,第1に,状況は,1つの単一の事象ないし対象が孤立した形において存在しているもの

■   ■   o   ●   ●   ■   ●   ●

ではない。そうではなくして,それは,1つの脈絡的全体(acontextual whole)である。デューイ は言っている。すなわち,「状況という言葉によって表示されているところのものは,1つの単一の 対象ないし事象,あるいは,1組の諸対象ないし諸事象ではない。なぜならぽ,我々は,決して,孤 立した形における対象や事象を経験したり,それらについて判断を構成したりすることはない,我々

o    ・    o    o    ●    ・    ●    ●

は,1つの脈絡的全体との関連においてのみ,対象や事象を経験し,それらについて判断を構成する

・     ●    ・    ●    ・    o     .     ・       ●     ●

が故である。この1つの脈絡的全体が,いわゆる状況と呼ぼれるものである。」(五・g ・:7加7んθ・7γ

・μ・q脇γ,,P.66)2)

●    ■    ■     ●     ●    ■    ●     ■     ■    ●    ●    ●    o

(2)このような状況の全体性は,それの直接的に広く行き渡った性質(immediately pervasive quality)によって可能になる。デューイは言っている。すなわち,「状況が1つの全体であるのは,

●    ●     ●    ●     ■     ●    ●     ●    ●    ○     ●    ●    o

それの直接的に広く行き渡った性質による。それを心理学的側面から記述するならぽ,我々は,状況

.    ・    o    .    ●    ●    ●    ●

は1つの性質的全体(aqualitative whole)として感じられる,と言われなければならない。」

      3)(・乙ogie:Tん召 7軍んeory oノ『Inguirツ, P・68)

・    .     ■    ●     ●    ●     .     ●    ●       ●    ●     ●    ●    ●

(3)したがって,また,このような広く行き渡った性質は,状況を独特な状況(an individual situation)たらしめる。デューイは言っている。すなわち,「広く行き渡った性質は,すべての構 成要素を1つの全体に纒めてくれるところのものであるばかりでなく,それは,また,独自なもので

●   ●   ●   o   ■       ●   ■   ●   ■   ●   ●   ●   o   o   ■   ●   ●   ■

ある。それは,それぞれの状況を独特の状況,すなわち,分割することのできない状況(an indivi一

●     ●    ●    ●    o     ●    ●     ●     o    ●     ■    匿     o

sible situation),ないし,複製することのできない状況(an unduplicable situation)たらし

      4)める。」(Logie:Tんe Tん召oγy o/1nguirツ, P.68)

●  ●   ・       ■   ●   ・      o   ●   ●   ●   ●   ●

(4)第4た,状況は,時間的にも,空間的にも限定されていない。それは,いわゆる地理的な舞台

@「状況は,広汎な空間の領域に,長期の時間の間隔に亘って存在するところの,非常に多数の,し かも多様な諸要素,だが,それにも拘らず,それら自身の統一性を持っているところの諸要素,その ような諸要素を包含しているあるものを表わしている。我々がここにおいていま行なっているところ の論議は,正に,ある状況の1部分である。私に対する貴方の手紙,私がいま書いているところの返

o     ●

事,これらのものは,明らかに,私が状況という名前をそれに対して与えたところのものの1部分で ある。これらの事柄は,その状況の顕著な様相であるけれども,しかし,それらは,唯一の様相でも なければ,主要な様相でもない。私に対する貴方の手紙にも,私がいま書いている返事にも,それに 先立つ,長い間に亘っての研究がある。この研究の中には,先生も,書物も,論文も,そして,いま 一致しないことがはっきりとして来た,お互いの意見(貴方と私の)を形成したところのすべての関

      5)係者が入っている。」(Knowiny αnd tん召 .Known p.315)

・   ●   ●   ●   ●

(5)したがって,第5に,状況は,いわゆる意識の領域(the field of consciousness)に限ら れるわけではない。デューイは言っている。すなわち,「状況そのものは,陳述されてはいないし,

陳述され得るものでもない,明白にされてはいないし,明白にされ得るものでもない。それは,正に,

qセ 狽≠汲?氏@for granted されるのであり,Q㌔nderstood  されるのである。……状況は,話想宇宙 がその当の話想宇宙の中における論議の構成員として現われて来ることができないと同様に,ある命 題の中に1つの要素として現われて来る,といったことはない。」(Philosophy and Civilization,

(3)

関:デューイ教育思想における「状況」(Situation)について(その2)    155

     6)PP・97−98)

・    ●      ●    幽      ●    ●      ●    ●

(6)第6に,「状況という言葉は,自然,存在,環境といった言葉との関連において理解されなけ

.     ●     ●     o     .

ればならない。既に明らかなように,デューイは,知る者からは独立であるところの,自然的世界を 想走している。しかし,彼は・それを,経験されるものとしてのみ,人間に関係のあるものである,

と考えている。それは,諸事象,素材,経験の限界を設定する枠組である。しかし,これらの諸事象 は,ある個人がそれらとのなんらかの関係に入るまでは,可能的にしか,彼の環境の1部分ではない。

.    ●       ●    ■    o    ●    ●

したがって,環境という言葉は,自然という言葉よりは,もっと限定された言葉である。存在的なも●の……についても同様のことが言える。……個人のある特定の行動ないし経験の中に含まれていると

ころの自然的環境の,その部分が状況である。状況は,経験の素材を切り取って,生きることという

●    ●    .    ●    ●     O     o    ●     ●    ■     ●    ■     ●     ○

相互作用の役立つ部分たらしめる。それは,行なうことと受けることの舞台(the scene of action 一unde rgo i㎎)である。」(」πE㈱03記z侃oプノoんπ刀¢ω¢y 300π06ρ診oプ伽Pγoゐ♂6ηα≠甜

5伽伽,P.85)7)

(7)しかし,状況は環境ではない,ということは,いうまでもない。すなわち,デューイは言って

●    9    ●    ●    0    9    ●

いる。「……状況は,(interactionallyに捉えるならば),ある対象の環境(the enviro㎜ent of an object)を意味するか,(transactionallyに捉えるならぽ),いかなる対象がそれの中におい

■    o    ●    ●

て選別されようとも,そのいかなる対象をも含んでいる状況全体(the full situation)を意味する かのいずれかであるが,……我々は,状況という言葉を,後者の意味において使うことに決めたい。」

(1(πoω πg απ4  診ん6 1【πoωπ, pp.69−70 )

すなわち,状況は,相互作用をしている諸事物の置かれている場所ではなくして,有機体と環境と が働き合っている姿そのものである♂)

(8)すると,当然に,状況とは,聖璽the total organie−enviro㎜ental transaction そのもの,

言葉を換えるならぽ,経験そのものに他ならない,ということになる。ロスの言葉を借りてみよう。

「……したがって,デューイにとっての出発点は,彼が経験と呼んでいるところのもの……である。

あらゆる経験は,主観と客観を含んでいる。それが,真に経験であるのは,それが,両者を含んでい

●   ■   ●

る時においてのみである。現実の出来事,事象,経験を記述するための唯一の適切な方法は,相互作■用(interaction)という言葉によって記述することである。だが,この言葉が,全く独立した諸事物

が相互に作用する,という意味に解され得ることは,不幸なことであり,したがって,デューイが後 になってこの言葉を放棄したのもよく分ることである。しかし,この言葉が強調していることは,両 者を共に含んでいるところの1つの過程であり,それぞれ独立した一方ではない。実際,デューイは,

この物事の状態を伝えようとして,多くの異なった言葉を使ってみている。q望1(π・加叩α裾伽

.    ●     ●    o

κ初ωπ において,彼とベントリーは,〈相互作用は,諸事象はそれらの結合関係についての探究 が構成される前に既に充分に記述されている,という仮定の下において,諸事象について行なわれる 型の探究を表わしている〉(Knowing and the Known, p.122),と言って,この言葉の不充分性 を訴えている。この故に,彼等は,問題の過程の全体性と全幅性をより上手に記述してくれる,と彼

o    ●    ・    q    ・    O    o    ■    ●

等の感じているところの言葉,トランズアクション(transaction)を採用するに至っている。デュ

■    ●

一イ自身は,また,探究の脈絡の中において同じ素材を表わすために状況という言葉を用いている。」

(7ん¢ pん乞♂030ヌ〜んッ o∫ E岬)βγ乞θπoθ, pp。36−−37 )

ロスは,また,言っている。「いかなる場合にも,私は,問題の事物の状態,すなわち,いろいろ の区別が探究のためにその中において為されるところの枠組全体,有意味な探究の脈絡として役立ち

・    ●    ・    ●         o    ●    o    ●    o    o    ●    ●    ●         ●    ●

得るところの最大の話想宇宙を,相互作用,トランズアクシ・ン,状況として記述することにしよう。

(4)

       ■   ●   ●   ●

怐@     ・

経験の範疇,すなわち,デューイが経験宇宙(the un重verse of experience)と呼んでいるところ の相互作用ないし状況は,文化的,社会的,直接的な諸要素がその中においてそれらの真の関係にお いて見られるところの聖曜the broadest perspective possible である。」(Tん6・P競♂・30Pんy o∫

∠「卿)¢γ乞θπ08, pp. 37−38 )

すなわち,ロスによれぽ,経験一トランズアクシ・ンー状況である,ということになるのであるが,

我々も,経験を最も正しい意味において理解するならぽ,このロスの見解に同意することになるであ ろう。端的に言えば,経験は状況である,あるいは,状況は経験である,ということになる。

以上,状況の意味について,いくつかの観点から考察して来たのであるが,けっきょく,状況とは,

最も正しい意味における経験,すなわち,有機体と環箋とのトランズアクシ・ンとしての経験に他な

      9)らない,ということになった。これが,我々の状況についての基本的な理解である。

これまで,煩をいとわず引用してきた杉浦美朗氏におけるデューイの状況の意味の把握について,

われわれにおけるデューイの状況の意味の把握と一致すると思われるのは次のこ点である。①すな わち,状況は,相互作用をしている諸事物の置かれている場所ではなくして,有機体と環境とが働き 合っている姿そのものである。②基本的な理解として,状況とは,最も正しい意味における経験,

すなわち,有機体と環境とのトランズアクシ・ンとしての経験に他ならない。

さて,デューイにおける状況の概念は,冒頭に挙げた三つの意味として捉えられる場合でも,ある いは,杉浦美朗氏のように「……有機体と環境とが働き合っている姿そのものである。」,また,「有 機体と環境とのトランズアクションとしての経験に他ならない。」と捉えられる場合でも,いずれに しても,状況の概念の基本構造は同一であり,有機体と環境とが不可欠の,しかも,不可分離性の要 素であることに変わりはない。われわれは,これから,もう少し考察をすすめて,デューイにおける

「環境」の概念の特質を明らかにし,それが「状況」の概念とどのようにかかわるものであるかを,

解明したいと思うのである。

Vl【デューイにおける環境論の特質と状況

デューイの教育学の主著『民主主義と教育』において,環境について比較的にまとまった論及がな されているのは,次の諸章,諸節である。第二章「社会機能としての教育」,第一節「環境の本質と 意味」(The Nature and Meani㎎of Environment),第二節「社会的環境」(The Social

Environment),第三節「教育的なものとしての社会的生活環境」(The Social Medium as Edu一 cative),第四節「特殊な環境としての学校」(The School as a Special Enviro㎜ent),第 三章「指導としての教育」,第一節「指導的なものとしての環境」(The Enviro㎜ent as Direc一

tive)1曽これらによって考察をすすめることにする。

環境・生活環境一一個体の活動的傾向と周囲の事物との特別な連続関係

デューイにおける環境の概念の本質は,「覗環境 生活環境 という言葉は,個体を取り巻い ている周囲の事物というよりも,それ以上のものを意味している。それらの言葉は,その個体独自の 活動的傾向と周囲の事物との特別な連続関係を意味している。」(The words enviro㎜enゼ,

medi㎜ denote somethi㎎more than surroundi㎎s which encompass an individual.

They denote the specific continuity of the sorroundings with his own active ten一 dencies.)11)という叙述に最も簡潔に,しかも核心をついて表現されているように思われる。物理 的に有機体の周りに,ただ事物が存在するというだけでは,言葉の真の意味において環境とはいえな

(5)

関:デューイ教育思想における「状況」(Situation)について(その2)     157

い。有機体(この場合正しくは個体独自の活動的傾向)と周囲の事物との特別な連続関係があるとき,

その状態を環境と名付けるわけである。したがって,デューイにおける環境の概念は,有機体(個体)

を含み,周囲の事物を含み,しかも,両者の特別な連続関係を包含するところの,包括的な,しかも,

機能的な概念であることが認められるのである。この点において,従来の,常識的な,一般的な環境 概念との著しい差異が識別せられるべきであろう。デューイが言うように,無生物は,自己に影響を およぼす力に対して,無関与であるから,無生物がその周囲の事物と物理的に連続していても,比喩 的に言う場合のほかは,それを取り巻く周囲の事物は環境にはならない。

本当の環境一人の方も,それとともに変わるもの

デューイは,無生物には環境と呼ばれるべきものが無いのに対して,生物(とくに人間)の場合の 環境の特別な意味を次のように述べている。「生物,とりわけ人間の場合には,彼から空間的にも時 間的にも遠く離れている事物が,彼の身近にある事物よりも,より確実に彼の環箋を成すことがある のである。人の方もそれとともに変わって行くようなものこそ,その人の本当の環境なのである♂2)」

この叙述の特色は,「人の方もそれとともに変わって行くようなものこそ,その人の本当の環境なの である。」にあることは明白であろう。従来の,常識的な,一般的な環境概念においては,有機体の 周りに,ただ物理的に事物が存在するということだけで,その事物が環境であると考えられてきたが,

デューイにおいては,それを改めて,有機体(個体)と周囲の事物との特別な連続関係のあることが,

環境構成の重要な要件とされている。先の説明に用いられた「特別な連続関係」ということが,この 説明においては,更に具体化されて,「人の方もそれとともに変わって行くようなものこそ,その人 の本当の環境……」と表現されているのである。

生物(人間)と周囲の事物とが静的に対置されているのではない。また,周囲の事物の方のみが,      ヒ

時々刻々に変わって行くのでもない。あるいは,また,反対に生物(人間)の方のみが,時々刻々に 変わるのでもない。周囲の事物が変わることによって,生物(人間)の方も変わり,生物(人間)が 変わることによって,周囲の事物の方も変わる,というこの力動的な相互作用の関係こそ,デューイ における環境の真の意味であるに違いない。デューイの示す例によれぽ,天文学者の活動は,彼が注 視したり,それについて計算したりする星とともに変わる。彼を直接に取り巻いている事物のなかで は,彼の望遠鏡がもっとも密接な彼の環境である。星とともに彼の活動が変わり,望遠鏡の使用とと

もに,また,彼の活動が変わるからである。一人の古物研究家として,考古学者の環境は,彼が関心 をもっている遠い昔の時代の人間の生活や,彼がその時代と関係をつけるために用いる遺物や碑文な どから成り立っているのである。何故なら,考古学者の活動は,遠い昔の時代の人間の生活や,遺物 や碑文とともに変わるからである。

杉浦美朗氏は,デューイにおける環境の意味を明らかにするために,「環境は,外面的意味におい

■     ●     o    ■     ●     ○     ●    ■     ●     ●    ●     ■    ●

て,人間の活動の周りにあるもの(somethi㎎around the h㎜an activities)で}まない。それは,

medium が人間の活動の遂行に当って intermediate である……という意味において,正に,

       13)璽雫medium ないし milieu である。」      というデューイの所論を借用されているが,このことも,

今までに説かれたデューイにおける環境の概念の一層深い理解に資するものであると思われる。

更に,デューイは,以上の意味における環境の概念を要約して,「要するに,環境は,ある生物に 特有の活動を促進したり,妨害したり,刺激したり,抑制したりする諸条件から成り立っているので ある。……生活は,単なる受動的な行動(そういうものがあると仮定してのことだが)にすぎぬもの ではなく,行動の仕方を意味するものであるから,環境,または生活環境とは,この行動の中へ,そ

(6)

れを維持したり,挫折させたりする条件として,入り込むものを意味するのである。14)」と述べている。

この説明は,環境についてのこれまでの概念規定「個体の活動的傾向と周囲の事物との特別な連続関 係」,あるいは,「人の方もそれとともに変わって行くようなものこそ,その人の本当の環境なので ある」に比べて,やや,周囲の事物の方に重味をおいた述べ方であるようにも,思われるが,しかし,

環境の本質,あるいは,生活環境の本質や意味の把握においては,いささかも変わるものではない。

環境,あるいは,生活環鏡を,有機物(生物とくに人間)から遊離させて静的に対置させるのでは なくて,両者のますますの固い結合関係,特別な連続関係を強調しているのである。生命活動(生活)

を有機体と環境との特別な結合関係,あるし轄,連続関係と見るデューイにとっては,環境は,生命活動

(生活)に,時間的には後から,空間的には外部から,入ってくるものとしては考えられないのであ る。生命活動そのもの,生活そのものは,有機体(生物一人間)と環境との合成物であり,両者の力 動的な統一関係,不可分離の関係の上に成り立つものであるから,両者はあくまでも特別な連続関係 をなすもの,両者あいともに変わり行くものとして捉えられているのである。したがって,環境は,

生命活動(生活)に,あるいは,生物の行動に,絶対に不可欠の要素として考えられているわけであ

る。

後年,デューイは,『経験と教育』を著わして,その中で環境の意味に言及して,「環境は,換言 すれば,どのような条件であれ,経験を創造するために,個人の必要,欲求,目的,および能力と相 互作用するところの条件である。人が空中楼閣を描く場合でさえも,彼が空想の中に築きあげる対象 と相互作用を行なっているのであ岩5㍉と述べている。この環境の説明の仕方も,これまでに,デュー イの環境の概念として,われわれが取りあげてきた内容,論理と少しも矛盾するものではない。「経 験を創造するために」という相互作用の目的が挿入されてはいるが,有機体(個人の必要,欲求,お

よび能力)を含み,周囲の事物(条件)を含み,しかも両者の特別な連続関係(相互作用)を含んで,

環境についての概念規定のすべての条件を満たしているのであり,環境についての概念の構造条件を 満たしているのである。ここにおいても,デューイの環境の概念は,「相互作用をする」という一点 に,焦点化せられた個人と周囲の事物(条件)との関係の規定として,表現されているのである。以        ■

繧フように,デューイにおいて,環境の概念の規定の仕方が,その表現について,(取り扱う次元の 異なるにつれて)多少の違いをあらわすことがあっても,その概念の本質についての捉え方が常に首 尾一貫して揺らぐことがないのである。

社会的環境

以上の論究によって,われわれは,デューイにおける「環境の本質」について明らかにしてきた。

それは,純粋に生物学的な次元で捉えられる場合には,「その個体独自の活動的傾向と周囲の事物と の特別な連続関係を意味している。」ものと規定されるのであり,人間の次元で捉えられる場合には,

「生物,とりわけ人間の場合には,彼から空間的にも時間的にも遠く離れている事物が,彼の身近に ある事物よりも,より確実に彼の環境を成すことがあるのである。人の方もそれとともに変わって行

くようなものこそ,その人の本当の環境なのである。」 というように規定されていた。いずれの規定 の場合にしても,そこでは,有機体と周囲の事物,人間と周囲の事物との特別な連続関係のあること が必須の重要条件であり,生物(人間)と周囲の事物とが静的に(物理的に)対置されているのでは なかった。周囲の事物が変わることによって,生物(人間)の方も変わり,生物(人間)の方が変わ ることによって,周囲の事物の方も変わる,という力動的な,相互作用の関係こそ,デューイにおけ る環境の真の意味として把握されているのである。

(7)

関:デューイ教育思想における「状況」(Situation)について(その2)     159

「環境の本質」に関するこれまでの説明,あるいは,解釈の中にも,人間の環境とは何かについて,

包括的な,また,基底的な論述はなされているわけであるが,デューイは人間独自の環境といわれる もの,すなわち,社会的環境(当然に文化的環境を含む)をどのように考えていたのか,それをどの ように具体的に把握していたのか,その点に考察をすすめることにする。

デューイは,前述したように,『民主主義と教育』の第二章「社会機能としての教育」において,

環境の問題を相当詳細に論じている。特に「社会的環境」と表題した第二節の冒頭において,彼は,

「自己の活動が他人との共同になっているものは,社会的環境を有する。彼の為すこと,および彼の 為しうることは,(彼に対する)他人の期待,要求,是認,非難に左右されている。他人と結合して いる者は,他人の活動を考慮することなしに,彼自身の活動を遂行することはできない。何故ならぽ,

それら(他人の活動)は,彼の活動的傾向の実現の不可欠の条件だからである。彼が動く時,彼は他人を動か す。そして,相互にまた自分も動かされる86)」と述べている。「環境の本質」の考察においては,有 機体(生物)と,または,人間と周囲の事物との特別な連続関係という,より包括的,より基底的な 叙述であったが,ここでは,「周囲の事物」は「他人」に置き換えられており,「有機体(生物)」

も「人間」に置き換えられている。

しかし,「環境の本質」(それをわれわれは言葉の形式上の斉合性から,本質的環境と呼びたいと 思うのだが)と「社会的環境」とは,環境の構造,あるいは機能,または,その必須の重要条件とす

るものにおいて,変わるところはないのである。本質的環境の場合には,「その個体独自の活動的傾 向と周囲の事物との特別な連続関係を意味する。」 と言われていたものを,「その人独自の活動的傾 向と他人との特別な連続関係を意味する。」と言い換えれば,それは,そっくりそのまま妥当するよう に思われる。「彼が動く時,彼は他人を動かす。そして,相互にまた自分も動かされる。」 という表 現内容は,「人の方もそれとともに変わって行くようなものこそ,その人の本当の環境なのである。」

という以前に述べられた叙述内容と符節を合わせたものであり,人間の環境の,いうまでもなく人間 の社会的環境の本質を明らかにするものであると思われる。

デューイは,人間の活動が,当事者の自覚の有無に関係なく,多くの場合,社会的環境の中での活 動,すなわち,社会的活動である所以を明らかにしている。われわれが,個人の活動を,彼の孤立し た活動として定義することが可能であると考えることは,あやまりであって,それは,商人が全く一

人で買ったり売ったりの事業をするのだと想像することが可能であると考えることがあやまりである のと軌を一にするものだ,と教えている。彼は,なお,このことを例示するために,製造業者が,彼 の帳場の人目をさけたところで,計画を立てている時ですら,彼が材料を買い入れたり,あるいは,

彼の製品を売りさばいたりしている時と全く同じように,彼の活動に関して,社会的に指導されてい るのだ,という具体的説明をしている。デューイの説くところの要点は,人間の活動が,人間の意識 する程度をはるかに超えて,社会的環境の中での社会的活動であることにある。にもかかわらず,わ れわれは,個人の活動を,彼の孤立した活動であるかのごとくに誤解をしているのである。

社会的環境における未成熟者の形成(共同活動の原理)

デューイにおいては,社会的環境の意味は,以上のように捉えられているのであるが,彼は,さら に,そこにおける未成熟者に対する形成方式についても,丁寧に論及をしている。社会的環境が,そ の未成熟者を形成する方式は,①訓練一外面的な行動の習慣の形成(traini㎎),②教育的な教

授一内面的な知的・情緒的な性向の変化(educative teaching)ひご区分される。      

①訓練(traini㎎)

(8)

社会的生活環境が,それに所属する未成熟者(子供)を形成する方式の第一のものは,外面的な行動 の習慣を形成する方法であって,それは「訓練」(traini㎎)と呼ばれているものである。それは,

人間が動物を支配するために用いる方法と同じものである。すなわち,動物の行動に影響を与える自 然の刺激を統制すること,換言すれぽ,一定の環境を造り出すことによって,訓練がなされるわけで ある。デューイの挙げる馬の訓練の例えによるならぽ,馬を制御する方法は,餌,くつわ,手綱,音,

車を利用することによって,馬の自然な本能的な反応の生じ方を方向づけることによってなされる。

一定の動作を呼び起こすように間断なく働きかけることによって,一定の習慣が形成されてしまい,

それはきわめて固定した画一性をもって機能するようになるわけである。迷路の中のねずみがたどる 経路の訓練の場合も同然である。一定の順序で一定の回数を曲ったときにだけ餌にありつけるように,

習慣を形成するならば,ねずみの活動は変革されて,空腹のときには,必ずその経路をたどるように なるわけである。

この訓練,すなわち,人間が動物を支配する方法として,外面的な行動の習慣を形成する方法は,

人間の行動の場合にも同じように用いられる。親が特別な条件設定をして,子どもがある玩具に触れ るといつでも火傷をするようにしておけば,子どもは,火に触れるのを避けるのと同じように自動的 にその玩具を避けることを学習する。あるいはまた,おそいかかってくる打撃から身をかわすように 訓練しておけぽ,いざというとき,打撃から自動的に身をかわすことができるようになる。

しかし,これらの訓練は,あくまでも外面的な行動の変化であって,外面的な行動の変化に対応す る思考や情動をほとんど伴わないものであることに,極めて明確な限界のあることが認められねばな らない。しかもこのことは,動物の訓練の場合は勿論当然であるとしても,人間の形成の場合には,

大きな問題を伏在させていることは言うまでもない。動物(例えば馬)の訓練の場合に,訓練された 馬は自分の行動が社会的に利用される過程に,本当の意味において参加してはいない。他の或る者

(人間)が自分に有利な結果を獲得するために馬を利用しているのであり,馬がその行動を遂行すれ ば,そのことが馬にとって有利(餌を得る)となるように条件を設定しているのである。この場合,

馬にとっては,終始餌に興味をもったままであり,餌以外のことに新たな興味をもつこともなく,ま た自分と人間との結合された活動の中で自分の行なっている奉仕に興味をもつわけでもない。人間の 幼児の場合も,動物と同様に訓練されるならぽ,彼の本能は最初からもっていた苦痛と快楽という目 的に結びつけられたままであり,あくまでも,外面的な行動の習慣を形成するのみであり,内面的な 精神的なもの,知的および情緒的な性向の変化,改変に結びつくものとはならないのである。

② 教育的な教授(educative teadhi㎎)

社会的生活環境が未成熟者を形成する方式は,①訓練にとどまるものではなくて,②教育的な教 授を含むものであり,実は,それにこそ最も重要性がおかれるものなのである。教育的な教授は,

行動の知的および情緒的な性質の変化をもたらすものであり,一定の願望や観念を未成熟者に直 接植えつけるものではなく,また,全く筋肉的な行動の習慣を未成熟者に確立することにとどまるも のでもない。教育的な教授は,人間が他人との共同の活動の仲間になるときに,それが教育的に 機能しはじめるのである。人間が,他人との連帯の活動に従事するとき,活動の完成についてその共 同者と同じ興味をもつようになり,その共同者と同じ観念,情緒を共有するようになる。人間が他人 との共同活動に関与するとき(参加するとき),彼の本来的な衝動は修正され,自分の行動が他の人 々の行動に調和するやり方で行動することが必要になり,他の人々を活動させている観念や情緒と同 じ観念や情緒が,彼自身の中に生ずるのである。

デューイは,社会的生活環境が未成熟者に教育的な教授を行なう段階として,換言すれば,共

(9)

関:デューイ教育思想におげる「状況」(Situation)について(その2)    161

同活動に参加させる段階として,「一定の目に見える,そして触れたりすることのできる行動の様式 を刺激するような諸条件を設定することが第一の段階である。そして,個人をその共同的活動の参加 者,すなわち,仲間にして,彼がその共同的活動の成功を自己の成功と感じ,その共同的活動の失敗 を自分の失敗と感じるようにすることが,完成の段階なのである。1功と述べている。未成熟者が共同的活動に参 加するこの二つの段階を通して,その所属集団の感情的態度によってとらえられるや否や,彼は,その 集団のめざす特殊な目的や,その目的を成功させるために使われている手段を理解しようとつとめ

ることになる。彼のもつ信念や観念は,その集団の他の人々の信念や観念と同じ形のものとなるのだ。

以上に述べたところは,社会的生活環境が未成熟者に対してなすところの教育的な教授の方式 の説明である。外面的な行動の習慣を形成する方式としての「訓練」に対して,内面的な知的な情緒 的な行動の性向を変化させるものとしての「教育的な教授」の方式の説明である。それは,換言 すれぽ,社会的生活環境が,未成熟者に対して,欲求や信念や観念を伝達する方式の叙述である。欲 求や信念や観念は,パンや練瓦を人の手から他人の手へ物理的に手渡すようには,伝達されるもので はない。それは,共同活動への参加の原理にしたがって伝達されることの所以のものであることが,

明らかにされているのである。      −

社会的環境における言語・知識(共同活動の原理)

デューイは,社会的生活環境において,言語が意味をもち,また,知識が人から人へと伝えられる のは,人と人とが共同活動に参加することによってのみ可能であることを明らかにしている。彼は,

知識が人から人へ直接に伝えられると考えられていること,あるいはまた,知識を伝達することが純 物理的な過程と同じものと考えられていることは,知識を獲得する過程における言語のあまりにも重 要な働きに目をうばわれた結果として生じた俗説であると論難している。社会的生活環境が未成熟者 を形成する場合,外面的な行動の習慣を形成する方式としての「訓練」の場合は別として,内面的な 知的な,情緒的な性質を変革する場合,欲求や信念や観念を直接に植えつけること,物理的に手渡すご とは不可能であって,教育的な教授,すなわち,共同活動への参加によって,他人と連帯の活動に従 事することによって,活動の完成についてその共同者と同じ興味をもち,その共同者と同じ観念,情 緒を共有するようになる方式,を取るのと全く同じように,言語の意味の獲得,知識の伝達において

も,同じ方式がとられることを強調しているのである。

例えぽ,デューイは,次のような言語ないしは知識の意味の獲得の具体的な過程の説明をなしてい る。子どもが帽子の観念を獲得するのは,他の人々が為すのと全く同様に帽子を使用すること,すな わち,頭にかぶる,他人がそれをかぶるように手渡す,外出するときに他人からかぶせてもらう,等 のことを為すことによってである。「ボウシ」という音声が意味をもつのは,「帽子」というものが 意味をもつのと全く同じ仕方で意味をもつようになるのである。すなわち,一定のやり方(共同活動 の中)で使用されるから,成人にとっても,子どもにとっても,同じ意味が獲得されるのである。

「ボウシ」という音声と「帽子」というものが,成人と子どもの両方の共通経験の中でそれらが使用       

されるからこそ,言語の意味が獲得されるのである。物と音声とが,子どもと成人との間に能動的な 関係をうち立てる手段として,一定の共同活動の中で使用されるという事実こそ,言語と事物との意 味の発生および獲得を根本的に規定するものである。

以上のことを論理的に斉合して,デューイは,類似した観念ないしは意味の発生は,両方の人間が 共同活動に共同者として従事し,一方の行なうことが他方の行なうことに依存し,また,一方の行な うことが他方の行なうことに影響を与える場合であると述べている。デューイは,「事物は共同的経

(10)

験あるいは共同的行為において使用されることによって意味を得る♂判ということを一つの原理とす るものである,観念を伝達したり,獲得したりするために言語を使用するということも,この原理の 拡大であり,洗練であって,この原理に矛盾するものではないと主張しているのである。

デューイは,「教育的なものとしての社会的生活環境」において,それに先立つ諸節「環境の本質 と意味」,「社会的環境」等において論及したことの正味の成果は,「社会的環境は,一定の衝動を 呼び醒まし,強化し,また一定の目的をもち一定の結果を伴う活動に,人々を従事させることによっ て,彼らの中に知的および情緒的な行動の諸傾向を形成する。1%ということにある,と総括している のである。ここに主張されていることの重点は,要するに社会的環境のもつ意識的,無意識的の人間 形成力の重要性ということであり,また,社会生活への直接的参加ということのもつ人間形成力の重 要性ということである。したがって,デューイは,更にそのことを具体化して,「未開人や野蛮人の 社会では,そのような社会生活への直接的参加(これまでに論じてきた間接的ないし付随的教育はそ れによって成り立っているのである)の与える影響が,子どもたちを育てて,その集団の慣行や信念 を身につけさせて行くための,ほとんど唯一の作用である。今日の社会においても,学校教育の影響 を最も強く受けた若者でさえも,その基礎的養育を,そのような社会生活への直接的参加から受ける のである。20㍉と説き,社会生活への直接的参加という方式によって人間が基礎的に形成されることの 事実とその重要性とが,現代の社会においても無視されてはならない所以を明白にしているのである。

このことは,現代,われわれが教育の問題を考察するときに,意識的で計画的な教育,すなわち,

学校教育のみを意識しがちであって,より基礎的で根本的な人間形成が,無意識裡に,社会生活への 直接参加によって,より強力に行われつつあるという事実を無視しがちであることに,反省を促がす

ものである。

デューイは,現代社会においても,未成熟者がその基礎的養育を社会生活への直接的参加から受け ている様相を,次のように描写している。「社会集団内においては,その集団のもつ関心や業務に一 致するかどうかによって,あるものは高い評価を受ける対象となり,他のものは嫌悪される対象とな

る。共同生活が愛情や嫌悪の衝動を生み出すのではないが,しかし,共同生活が愛情や嫌悪の衝動を 起こさしめるその対象を与えるのである。われわれの集団や仲間が事をなす行動様式は,子どもに対

して,注意を向けるにふさわしい対象物を限定し,そして,観察や記憶のはたらく方向や範囲を規定 する傾向をもつ。その集団にとって,見慣れないものとか,異質なもの(すなわち,その集団の活動 の範囲を超える外的なもの)は,道徳的には禁止せられ,知性的には疑わしいものとされがちである。

例えば,われわれが非常によく知っている事実が,昔は知られずにいたということを,われわれは不 思議に思う。われわれは,それを昔の人々が生来愚鈍であったからだとし,また,われわれ自身が生 まれつき優れた知性をもっているからだということによって,そのことを解釈しようとする。けれど も,それを説明する理由は,昔の人々の生活様式がそういう事実に対して注意することを必要としな かったこと,そして,彼等の精神を他の事実に集中させていた,ということなのである。丁度,われ われの感覚が,それらの感覚を刺激する感覚的対象物を要求すると同様に,われわれの観察,想起,

および想像という諸能力も,(対象なしに)自発的にはたらくわけではないのであって,現代の社会 的諸業務によって喚起された要求によって発動させられるのである。人間の性向(disposition)の 基礎的傾向は,学校教育とは無関係に,そのような影響のもとで形成せられるのである。2刊 この描 写は・せまいわれわれの教育的視野の拡大を要求するものであり,また,直接的には,学校教育ととも

に社会生活による教育の重要性を再認識することをせまるものである。無意識のうちに,社会生活に 直接参加することによってなされる人間形成の力の重要性を反省することをうながすものである。

(11)

P

関:デューイ教育思想における「状況」(Situation)について(その2)     163

デューイは,流石に教育の本質の底の底までを見透していた文字どおりの碩学であったと言うことが できる。彼は,『民主主義と教育』の第一章「生活の必要としての教育」,第三節「形式的教育の地 位」において,「教育哲学がとり組むべきところの最も重要な問題の一つは,教育の非形式的様式と 形式的様式,偶然的様式と意図的様式との間に,正しいバランスをもたせる方法の問題である♂2㍉

という洞察のよくきいた指摘を行なっている。彼は端的に言って,学校教育(形式的教育)のみを重 視している一般的考え方を批判したのである。更に言えば,非形式的教育(社会生活における教育)

の重要性に対して,あえて無視する態度に出ている教育研究者および教育実践者(教師)に対して,

その見識や認識の浅薄さを指摘し,今後の課題を示したのである。教育哲学の最重要課題の一つとし て,非形式的教育(社会生活に直接参加することによってなされる人間形成)と形式的教育(意識的 計画的教育一学校教育)とのバランスの問題をとりあげ,この指摘によって,非形式的教育の重要 性に対する,一般人および教育研究者や教師の注意を喚起しようとしたのである。

環境の本質論と状況論

これまで,デューイにおける環境の概念の特質を明らかにする意図をもって叙述を続けてきたので あるが,ここで,出発点に戻って,「環境」の概念と「状況」の概念とがどのようにかかわるものか について論究したい。小論において,デューイの環境の本質は,「環境,生活環境という言葉は,個 体を取り巻いている周囲の事物というよりも,それ以上のものを意味している。それらの言葉は,そ の個体独自の活動的傾向と周囲の事物との特別な連続関係を意味している。」 というデューイの所論 に,最も簡潔に,しかも核心をついて捉えられているとされた。デューイにおける環境の概念の特質

…      .    o    .    ●

は,有機体(正しくは個体独自の活動的傾向)と周囲の事物との特別な連続関係を意味していること にあることが注意されねばならないのである。したがって,前述したとおり,デューイにおける環境 の概念は,有機体(個体)を含み,周囲の事物を含み,両者の特別な連続関係を包含するところの,

包括的な機能的な概念であることが認められたのである。この場合,両者の特別な連続関係というこ とは,両者(有機体と周囲の事物)の相互作用をなす関係といってもよいだろうし,あるいは,一つ の統一の状態にある関係,または,分けられえない関係といってもよいものである。換言すれば,デ

ユーCにおける環境の概念の特質は,有機体と周囲の事物との特別な連続関係を意味するものであり,

両者の相互作用をなす関係を意味するものであり,両者が一つの統一の状態にある関係を意味するも のであり,また,両者の分けられえない関係(不可分離性の関係)を意味するものである。

さて,小論において,デューイにおける状況の概念は,(第一一に),最も根元的な意味での状況,

原型としての状況という意味で,生物学的な次元での生命の過程における,生物と環境,有機体と環 境との,分けられえない関係,一つの統一の状態にある関係,相互作用を為す関係として捉えられる

ものを意味している,とされた。

いま,デューイにおける環境の概念の本質として捉えられたものと,状況の概念として捉えられた ものとを比較すると,環境論の場合には,有機体のことを個体とか個体独自の活動的傾向とかと称し,

また,環境のことを周囲の事物と称している差異はあるものの,その論旨とするところにおいて,両 者ともに甚だしい違いは認められないのである。いや,むしろ両者は本質的には同じことを述べてい

るということを承認せざるをえないのである。小論においては,積極的に,テユーイにおける環境論 と状況論とは同じものだと主張したいのである。

また・デューイは,生物とくに人間の環境に関して,前述したように,「生物,とりわけ人間の場 合には,彼から空間的にも時間的にも遠く離れている事物が,彼の身近にある事物よりも,より確実

(12)

に彼の環境を成すことがあるのである。人の方もそれとともに変わって行くようなものこそ,その人 の本当の環境なのである。」と述べて,人間の環境の特質を明らかにした。本稿において,この叙述 の特色は,「人の方もそれとともに変わって行くようなものこそ,その人の本当の環境なのである。」

にあることが強調されたわけである。それは,生物(人間)と周囲の事物とが静的に対置されている のではない。また,周囲の事物の方のみが時々刻々と変わってゆくのでもない。あるいは,また,反 対に生物(人間)の方のみが変わるのでもない。周囲の事物が変わることによって,生物(人間)の 方も変わり,生物(人間)が変わることによって,周囲の事物の方も変わる,というこの力動的な相

互作用の関係こそ,デューイにおける環境の真の意味であると解釈されたのである。

デューイにおける,この環境の概念もまた,われわれがこれまでに捉えた彼の状況の概念と符節を 合わせるものであると思われる。それは,デューイにおける状況の概念の第一,「……生物と環箋,

有機体と環境との,分けられえない関係,一つの統一の状態にある関係,相互作用を為す関係として 捉えられるものを意味している」にも,もちろん一致すると考えられる。しかし,とりわけ,状況の 概念の第二のもの,「経験という次元における。人間と環境(まわりの人々や事物)との間に成立す る能動的関係,相互作用を為す関係,一つの統一の状態にある関係,不可分離性にある関係として捉 えられるものを意味している。」に完全に一致するものであるように思われる。周囲の事物の変化に つれて,「人の方もそれとともに変わって行く」ようなもの,という表現は,人間と環境との間に,

能動的な関係が成立していることを示すものであり,両者の間に相互作用を為す関係が成立している ことを示すものであり,両者が一つの統一の状態にある関係をもっていることを示すものであり,両 者が不可分離の関係にあることを示すものである。したがって,デューイにおける環境の概念と状況 の概念とは,この論点から言っても,一致するものとして誤りないであろう。

デューイが「人の方もそれとともに変わって行くようなものこそ,その人の本当の環境なのであ る。」と捉えた,この環境の概念は,杉浦美朗氏が指摘したデューイにおける状況の概念,「状況は,

相互作用をしている諸事物の置かれている場所ではなくて,有機体と環境とが働き合っている姿その ものである。」に,とりわけ無理なく一致するものであるように考えられる。この場合のデューイに おける環境は,人間の環境であり,他方,この場合における状況は,有機体のそれであって,概念の 広狭から言えぽ,状況の方がはるかにその適用範囲を広くもつものであるけれども,環境の概念にお いて,人と周囲の事物とがともに変わって行く関係といわれているものが,状況の概念において,有 機体と環境とが働き合っている姿そのもの,といわれているものに,その意味するところにおいて,

無理なく一一致すると考えられるからである。

デューイは以上に述べられた環境の本質についての把握に関連して,環境の概念を要約して,「要 するに,環境は,ある生物に特有の活動を促進したり,妨害したり,刺激したり,抑制したりする諸 条件から成り立っているのである。……生活は,単なる受動的な行動(そういうものがあると仮定し てのことだが)にすぎぬものではなく,行動の仕方を意味するものであるから,環境または生活環境 とは,この行動の中に,それを維持したり,挫折させたりする条件として,入り込むものを意味する のである。」と述べていることは,すでにとり上げられた通りである。これについては,環境あるい は生活環境を,有機体(生物とくに人間)から遊離させて静的に対置させるのではなくて,両者のま すますの固い結合関係,特別な強い連続関係が強調されているのである,と解釈された。生命活動

(生活)を有機体と環境との特別な結合関係,あるいは連続関係と見るデューイにとっては,環境は,

生命活動(生活)に時間的には後から,空間的には外部から,入ってくるものとしては考えられない のである。生命活動そのもの,すなわち,生活そのものは,有機体(生物一人間)と環境との合成

(13)

関:デューイ教育思想における「状況」(Situation)について(その2)    165

物であり,両者の力動的な統一関係,不可分離の関係の上に成り立つものであるから,両者はあくま でも特別な連続関係をなすもの,両者あいともに変わりゆくものとして捉えられていることは,すで に前に述べた通りである。環境が,生命活動(生活)に,あるいは,生物の行動に,それを成立させ る絶対に不可欠の要素として考えられているわけである。

このように有機体と環境との関係を考察してゆくと,「主体(有機体)と環境とは分けられない3勉 として,以前に述べられたことが,ますます真実性をもって,われわれの認識の中に深化してくるこ とを実感するのであり,更にこれを強調するならば,デューイの所論として以前に引用された言葉,

「生きていくという過程は,有機体によって演じられるのと同様に,まさしく環境によっても演じら

       勿)      」 が,疑うことのできないれている。なぜなら両者は,現にひとつに統一されているからである。

真実を示すものとして,その真理性をますます顕在化してくるのである。このような認識に,われわ れを誘い導いてゆく,いまとりあげられたデューイにおける環境の概念は,これまでにデューイにお ける状況の概念として列挙されたもののいずれとも符合するものであり,特に総括的な状況の概念

「有機体と環境とが働き合っている姿そのものである。」 とは,全く完全に一致することに贅言を要 しないようである。

『経験と教育』において,デューイが特別に言及した環境の概念,「環境は,換言すれぽ,どのよ うな条件であれ,経験を創造するために,個人の必要,欲求,目的,および能力と相互作用するとこ ろの条件である。……」(前述)も,人間の経験の次元において,とりあげられた環境の概念規定で あるが,これも,これまでにデューイの状況の概念を規定するものとして論及せられたものと,いさ

さかも抵触するものではなくて,むしろ,完全に一致するものと考えられるのである。

これまで,環境の本質論として,デューイの所説を,断片的ながらいくつかとり上げて検討したの であるが,これまでの分析に関する限り,デューイにおける環境の概念は,デューイにおける状況の 概念と一致することが認められている。

社会的環境論と状況論

これまでの論究において,われわれは,デューイにおける環境の概念の本質は何であるのか,また,

その環境の概念の本質とデューイにおける状況の概念とはどのようにかかわるものであるのか,を明 らかにする作業を進めてきた。これからは,その基礎の上に立ちながら,デューイにおける社会的環 境の概念と,彼の状況の概念とのかかわりを明らかにしたいと思う。

前述したように,デューイは,社会的環境について,「自己の活動が他人との共同になっているも のは,社会的環境を有する。彼の為すこと,および,彼の為しうることは,(彼に対する)他人の期 待,要求,是認,非難に左右されている。他人と結合しているものは,他人の活動を考慮することな しに,彼自身の活動を遂行することはできない。何故ならぽ,それら(他人の活動)は・彼の活動的傾 向の実現の不可欠の条件だからである。彼が動く時,彼は他人を動かす。そして,相互にまた自分も 動かされる。」と述べることによって,その概念規定をしている。デューイにおいて,「環境の本質」

の考察の場合には,有機体(生物)と周囲の事物との特別な連続関係,または,人間と周囲の事物と の特別な連続関係として,より包括的に把握されていたのであるが,社会的環境の考察においては,

「周囲の事物」は「他人」に置き換えられており,「有機体(生物)」も明白に「自己(人間)」に       ト

置き換えられている。言うまでもないことだが,社会的環境とは,人間のみがもつものであり,しか も,その人間が他人(文化あるいは物質を介在させながら)とのかかわりとしてもつものである。

以上のように,デューイにおいて「社会的環境」が捉えられる場合,「環境の本質」論も,「社会

参照

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