茨城大学教育学部紀要(教育科学)42号(1993) 1−18 1
学習者,教育者・研究者としての40年(4)
一私の社会科体験史一
中川浩一*
(1992年10月7日受理)
My 40 Year History as a Student, Teacher and Researcher of Social Studies(Part 4).
Koichi NAKAGAwA
(Received October 7,1992)
東京都公立学校教員に採用され,渋谷区立代々木中学校に勤務を命じられて,俸給を最初に受け とって驚いたことは,六級七号俸と裁定され,月額9,700円と記憶する給与が,2回にわけて支払わ れたことである。ところで採用の辞令は,昭和29年4月1日付で「三級に叙する」となっており,
通知書の六級とは相違する。そうして半年後の昭和29年10月1日付による通知書は,小教三級七号
給となっている。
半額ずつ支払われる俸給は,支払い事務簡素化のためか,100円未満の端数金額は,郵便貯金に預 入の形で支給された。どこの学校でもこの様な措置をとったのではなく,代々木中学校としての慣 習だろうが,このとき作らされた郵便貯金通帳は,現在も継続して使い続けている。
1.地域素材発掘の教材研究に同行
林間学校(7月26日〜29日)に率先参加し,教員数名がチームを組んで交代で行うプール当番,
それに野球部の「部活」に参加しても,50日ほどの夏休みには,けっこう自由に使える日が残って いた。現在の様に各種のレジャー施設が整っていたわけではなく,それよりも庶民の生活は一般に 貧しく,親は仕事に追われて家族旅行などはままならぬ状況だったからだろうが,夏休みでも登校 してプールで泳ぐのは,かなりの生徒にとっては楽しみのひとつであった。そのため,事故防止の 目的で教員がプールサイドや水中で,監督にあたっていたのである。
学級担任にせがんで,京王帝都電鉄京王線利用で手軽にでかけられる多摩川へ,水泳にでかける 例もあった。現在は,多摩川での水泳は,衛生上から禁止されている筈だし,教師の側では事故発 生への懸念から同意しないだろう。私自身も学級担当当時,多摩川ゆきを生徒からせがまれて実行 していたけれど,大学院修士課程に入学して身分が非常勤講師にかわった翌年の夏休みに,授業担
*茨城大学教育学部社会科教育講座社会科教育研究室(〒310 茨城県水戸市文京2丁目1−1),
当となった1学年のある学級の担任に頼まれて,教員2人(学級担任と私)・生徒9人で京王多摩 川(東京都調布市)へでむいた折の記念写真が手元に保管されている。
日付の記憶がないけれども,旧制中学校,新制高等学校,大学とあわせて10年間も同期生であっ た佐藤仁朗君(当時は都立町田高校で社会科担当)から,相模川総合開発事業の一環として進行中 の畑地潅概施設の実地探索にさそわれた。相模川河水統制事業の名称により,1940(昭和15)年に 開始された歴史を持つこの企画は,相模川中流の渓谷部にダムを建造し,貯水によって農業用水を 確保するのを当初の目的とした由であるD。しかし太平洋戦争開始に伴い,京浜工業地帯での電力 需要が高まり,また人口増加に備えて上水道用水確保の必要も生じたため,計画は多目的開発の色 彩を帯びるに至った。
事業推進の核心をなす相模ダムは1944年に完成して貯水を行い,発電は翌年から始めたが,一応 の完成をみたのは1947年で,このとき相模ダムサイトで挙行の式典には,天皇・皇后が参列して,
国土復興の象徴として祝意を表している2)。佐藤君が実地探索に私を誘ったのは,相模ダムによる 放水の逆調整用として下流寄に建設された津久井ダムから取水する用水の一部を利用のうえ実施さ れる相模原畑地灌概事業の状況確認だったのである。
相模川河水統制事業については,相模ダム建造に必要な大量のセメソト供給に関連して,浅野セ メント(現・日本セメント)の中堅社員としての父がかかわりを持ち,自宅に関係書類をおいてい たのを読んである程度は知っていた。しかし私の関心はもっぱら発電事業におかれ,農業開発につ いては注意を払ってこなかった。
河水による灌概は,水稲栽培に個有のシステムで,温帯多雨気候の日本では畑作物に灌概する必 要はないとの固定観念がしみついていた私にとって,地下水位が低い相模原台地では,畑作物でも ひでりの害を受けることが多いので,畑地灌概は生産力向上に資するところ大きいと告げられて,
非常に驚いた。その実情を実地に歩いて見聞しようという佐藤君の申し出は,全くありがたかった。
今日ならマイカー利用の巡検となるわけだが,昭和20年代末では夢のまた夢,佐藤君が用意して くれた自転車利用で,都立町田高校を出発点に干天で土ぼこりのたつ田舎の未舗装道を夕方まで走 りまわった。最初に訪ねたのが,台地に厚く堆積する洪積層(関東ローム)中に,レンズ状に滞水 する浅深度地下水(宙水)の存在によって,江戸中期に新田が立地した大沼新田であった。武蔵野 台地の宙水については知識があったものの,地下水位が最も浅い部分は,台地上にもかかわらず湿 地が存在するのを実見して非常に驚いた3)。
虹吹分水池で横浜水道から分派した灌概用水路幹線に接続しているコンクリート水路にサイホン を設置し,無動力で畑地に給水するシステムの見学も目新しかった。いまにして思えぼ佐藤君は,
「人文地理」教授に際しての地域素材の発掘に努力していたのである。国土開発の事例は,戦後の 日本で民主主義の典型と喧伝されたTVAや,北上川流域総合開発が教科書に取りあげられ,多くの 地理教師が 見てきた様なことを言って 授業をしてきた中にあって,佐藤君は生徒たちに,国土 総合開発の具体的事例は,生徒たちの居住地域で身近かに進行しているのだという事実を理解させ ようと志したのだろう。今日では,都市化の著しい進行によって,相模原畑地灌概事業は歴史の一 コマと化してしまった。
中川:学習者,教育者・研究者としての40年(4) 3
2.教師自作スライドの映写見学で強い刺激を受ける
佐藤仁朗君から受けた示唆のひとつに,東京都内の公私立高等学校で「人文地理」を担当してい る教師が中心になって,東京都地理教育研究会(都地研)が結成され,定例の研究会が開かれてい るから,参加しないかと誘われたことがあげられる。確か秋になってからと覚えているが,その会 合に参加して,教師自作スライドによる視聴覚教材が都立小松川高等学校教諭山本稚子先生によっ て上映されたのをみて,非常に大きな刺激を受けた。山本先生が扱われた題材も地域素材の開発に かかわるもので,当時は千葉県東葛飾郡浦安町を名乗り,貝と海苔の生産を主体とする漁師町の実 態を,鋭いカメラアイでダイナミックにとらえた成果である。
浦安へは小学校中学年当時,家族で潮干狩に訪れたことがあった9そのおりは,深川区(現・江 東区)高橋と浦安を結ぶ巡航船(水上パス)を利用しているが,昭和20年代末の浦安は,荒川放水 路(現・荒川)と江戸川を結ぶ運河の新川沿いに位置するバスターミナルの三角で都営バスを乗り 継いだ後,やっとたどりつく僻遠の地であった。浦安の存在は,山本周五郎が『青べか物語』を
「文藝春秋」に連載し,ついで単行本化されてからは多くの人に知られるようになったけれど,そ れは昭和30年代の後半になっての話と指摘しなければならない。
山本稚子先生は,漁業集落としての浦安を,35ミリフイルムのカラースライドに収めて紹介され るのだが,そのナレーションはテープに吹きこまれ,バックグランドミュージヅクを配するアイ ディアー杯の存在であった。この様な形での教材提示の方法があろうとは,それまで考えてもみな
かったのである。
代々木中学校に勤務して割りふられた校務分掌のひとつが,視聴覚教材の管理であったから,
フィルムストリップ(ロールフィルム)形式の既製教材が説明台本付で,各種教科ごとに使われて いるのは知っていた。そうしてだれのアイディアかは知らないが,1階と2階を結ぶ直線状の階段 の前後を暗幕で遮蔽し,階段のふみ板に生徒を腰かけさせる文字通りの「階段教室」が,原始的な 視聴覚教室として愛用されてきた。この転用教室で既製教材のスライドを授業に多用していたの は,後に漫画研究家として名を知られる様になる藤島宇策先生(国学院大学卒業)であった。しか し当時の私は,商品化され,映写順序が決っているフイルムストリヅプを,これも既成の台本棒読 みの形で授業に使うことには,強い疑問を抱いていた。
それゆえ,スライドをコマスライドの形で自作し,台本も現地調査のうえ自分で書く山本稚子先 生の方式は,新鮮な感動をよびおこした。けれども山本先生の方式を見習うためには,まず35ミリ フイルム用のカメラを入手しなければならない。この当時,35ミリ方式のカメラは高価で,新任教 諭の俸給では簡単に買えなかった。母に俸給から食費を3,000円支払うだけで良いといわれたのを 幸い,2ヵ月分の俸給の残金1万円ほどを投入して,「セミミノルタP」を買ったのが,5月26日に 実施した校外学習(遠足)の前日であった。しかしこのカメラでスライドを写しても,サイズちが いでスライド映写機(プロジェクター)には使えないし,フイルム代も高すぎた。
そこでまず考えたのは,既製のフイルムストリップをコマごとに切りはなし,台本は自分で書い てナレーションをテープに吹きこむことであった。バックグランドミュージックに用いるメロディ の選曲は,台本をみせて同じく視聴覚教材管理を分掌し,音楽科を担当されていた南保瑛先生(東 京第一師範学校一現・東京学芸大学卒業)のちえを借りることにしたのである。
35ミリフイルムによる自作スライドに手を染めるのは,昭和30年になってからで,以後今日まで 外国旅行には必ずスライドフイルムをけい帯し,いまでも授業に時おり自作スライドを取り入れて いる。しかしナレーションをテープにバックグランドミュージック付で吹きこむ方式は,代々木中 学校に勤務した当時限りであった。ナレーションの吹きこみに率先協力してくれた生徒有志の協力 が,なつかしく想いだされる昨今である。
3,中学校社会科担当教師としての素養不足に気づく
大学院を受験してみようと思いたったのがいつごろであったか,正確に覚えていないけれど,多 分夏休みがあけてしばらくの時点だった様であった。教職についてみると,大学で受講した内容が 授業にはほとんど役立たない事実に気付かされた。地誌にかかわる素養が全くといってよいほど欠 けていた。大学での地誌は日本地誌,外国地誌各2単位だが,浅香幸雄先生担当の日本地誌は,歴 史地理学特講に類するものであった。青野壽郎先生担当の北アメリカ地誌は,アメリカ合衆国の地 域区分が核になっていた。だが,中学校では世界の全地域を扱わねばならず,アメリカ合衆国内を 等質地域に細分して取り扱う必要は存在しなかった。
地誌の素養が全くといってよいほど欠除していたのは,国民学校第6学年で「大東亜」を学習し て以来,アジア地誌を学習する機会がなく,中学でのそれがヨーロッパ地誌,アフリカ地誌で終っ てしまったのと,旧制中学校第4学年での「地理」が,新制高等学校用に編集されたr人文地理』
を使用しての系統地理になっていたからである。地誌を徹底的に勉強しないと,中学校の社会科指 導に対応しがたい事実を,いやというほど確かめさせられた。
一方,系統地理については,大学1・2年次の時点で,人文地理学会が高等学校社会科「人文地 理」の教材研究用を想定のうえ編纂したと思われるr人文地理新書』全5巻のうち4冊を購入し,
ノートをつくりながら自学自習したために,体系的な知識が身についていたρしかしその素養を中 学校では役立てる余地がほとんどない。加えて中学校では,学級担任は持ち上り方式で2年生,つ いで3年生の授業もやがては持たなければならないけれど,そこで扱われる歴史,さらに政治,経 済,社会的な内容についても,知識は決定的に不足していた6)。
こうした状況から,中学校社会科担当教師としての資質に欠けるところが多い反面,高等学校は 科目別の授業担当ゆえ,素養の特性を生かし得る様に思われた。こうした発想にのっとって,大学 院修士課程で系統地理としての人文地理学をより深く学習したうえで,高校教師として教職をみつ めていくのが良策ではないかと考えたわけである。
両親からは,授業料を自分で支弁するのなら,進学しても差し支えないと言われたのが,受験決 意の背後事情になっていた。教員免許状は保持するから,非常勤講師をアルバイトにすれば,授業 料支払いに窮する筈はなさそうだし,奨学金の給付が受けられれば,経済的には安定できる筈とも
考えてみた。
大学院受験を決心すると,たちまち困まるのが2科目受験を要求される外国語である。大学での 受講とのかかわりから,英語とフランス語にせざる得ないけれど,どちらも2年次で受講終了でそ の後は全く学習していないのだから,付け焼刃でも多少は復習しておかねばならない。
中川二学習者,教育者・研究者としての40年(4) 5
英語は,英字新聞を毎日少しずつでも読んで,頭をならすのが得策と考えたが,The Japan Timesに比べるとThe Mainichiの文がやさしい様に思えたので,これを講読することにした。それ が思いがけない手がかりになって,野外学習指導の状況をThe Mainichiの紙面から切り抜いて保存 できる結果を生みだした。具体的ないきさつは後述する。
専門科目として要求される地理学の受験勉強は,なにもしなかった。系統地理は,大学4年次ま でに身につけた素養に依存し,地誌は日々の教材研究で代替しようと考えたし,地理学教室の先生 がたのご専攻からみて,出題の可能性は低いとみこんだのである。
4.生徒と一緒に自作スライドの編集にはげむ
募集要項に現職教員は,所属学校長の受験承諾書が必要との記載があったので,大高常彦校長に 申し出ると,驚かれた様だったが,すぐに承諾のうえ捺印して下さった。校長が受験を承諾したの に不合格になったら面目がたたぬと緊張したが,結果は合格であった1)
合格した旨を大高常彦校長に報告すると,3月末で退職しなければならないが,それ以後の学資 が必要だろうから,4月以降は非常勤講師として引続いて勤務する様にと言われたので,ありがた くお受けすることにした。ついで大高校長は,君の後任を採用しなければならないが,東京教育大 学出身を補充してまた1〜2年でやめられては困まるから,今度は東京学芸大学から新卒を補充する つもりだと告げられた。
詳しいいきさつは知り得ないが,大高校長は東京学芸大学にでむかれ,東京高等師範学校での後 輩にあたる岩田孝三先生(東京文理科大学卒業)に相談のうえ,高山昌之さんの採用を決められた 様に思われる。高山さんは東京学芸大学に入学前,出身地の北海道で高校卒業の資格によって助教
● o の ・
諭となり,1年間の教職を体験済であった,)そのうえでの教員養成大学進学なのだから,でもしか 教師となった私とは,状況が全くちがっていた。平成4年3月に定年退職するまでに,高山さんは 杉並区教育委員会指導主事,区立中学校長を勤め,文部省関係の委員としても活躍されたのだか
ら,大高校長の見立ては真に確かだったことになる。
秋のシーズンが終わり,冬を迎えると,グランドは霜でぬかるみ,野球部の練習はできないか ら,放課後の時間は校務分掌の一環である視聴覚教材管理に力を入れることにして,自主教材作成 を手がけることにした。ここでも大高常彦校長が配慮されて,カラースライドフイルムの購入に,
校費を割りあてて下さった。
題材になにを選ぶかいろいろ考えたすえ,関東地方の地誌学習に使用できる様に考えて,南房総 での花卉促成栽培をとりあげることにした。冬季無霜で北に丘陵を配し,南は太平洋にのぞむ房総 半島南端では,戦時中の栽培禁止はあったにしても,京浜市場を対象にマーガレット,菜の花など が,年末から出荷され続けていたのである。
そのうえ,まことにタイミングよく,前年に旅客列車を全面的にディーゼル動車におきかえて,
フリークエントサービス(ひん発運転)とスピードアップに実効をあげていた千葉鉄道管理局が,
観光開発を狙って,新宿始発で房総半島を一周のうえ新宿に帰着する臨時快速列車を,日曜ごとに 走らせると公表した。この列車を利用すれば,花卉栽培地域を効率的に見学できる筈である。
「花園列車」を名乗る臨時快速列車の運転開始日にあたる昭和30年2月13日,スライド上映のと きに使う台本用の文章は,生徒の作文で組みたて様と考え,見学旅行への参加を授業担当のG,H,
1,Jの各組生徒によびかけてみた。社会科学習に関心のある生徒の作文指導で思いがけぬ実績を前 年にあげえて,自信を持ちだしたからである9)。
運転初日の目的地は,房総西線(現・内房総)和田浦駅で,列車到着と同時に花火が打ちあげら れ,南斜面の花畑へは,観光協会役員が乗客一同を案内した。一面の花畑で喚声をあげ,観察やイ ンタビューを始めた中学生たちが,同じ列車に乗り合わせた新聞社のカメラマンに好写材とみたて られたのだろう。画面のモデルになる様に頼まれるハプニングがおきたりした。毎日新聞社系列の
「サン写真新聞」の翌日分に使うとのことだったが,The Mainichiの誌面への転用も行われたの を,翌日に「発見」し,それから20年近く継続することになる「新聞スクラップ」の第1冊巻頭に それを収めたのも,いまになれば懐かしい思い出であるlD)。
色とりどりの花畑を鑑賞してから列車にもどり,次は安房小湊駅で下車して誕生寺と鯛の浦を見 学した。下車見学中,「花園列車」は側線に駐車させ,不要の手まわり品を車内に保管の措置をとる など,この日の気くぼりは,民営化後の昨今をしのぐほどであった。
5.日本の農業にかかわる基礎的理解を志す
昭和30年3月31日付で「願により本職を免ずる」の辞令が東京都教育委員会から交付され,続い て東京都渋谷区教育委員会から,職名:非常勤講師 給与:月手当六千円也 職務内容:第1学年 社会科指導 服務の態様:毎週3日出勤10時間授業と記載される辞令が渡された。受け持ったのは
2学級,1学級の週当たり配当時間は5単位時間だから,同一学級に2単位時間ずつ教える日が2 回ずつあるしくみとなる。生徒には気の毒な時間割だが,4日以上勤務することは,大学院での受 講に支障をきたすのでできかねた。次年度も同じ時間割りだったが,不平もいわずに学習してくれ た生徒たちに感謝すべきだろう。
再び1学年の学習担当だったので,今度は昨年一杯かかって作った教材研究ノートがあったか ら,読み返すだけで対応でき,教材研究に充てる時間は昨年に比べると大巾に減少した。それなら ば,次には板書原稿を事前に書きあげ,思いつき(出たとこ勝負)で書くその場限りの板書はやめ るべきだと,今ならば書くし,また学生には同一学年担当になったら2年目には板書原稿を作りな さいと指導しているのだが,当時は教材研究の負担軽減を単純に喜ぶ始末であった。
大学院に入学すると,修士論文は対象地域を極限しての微細な事例研究ではなく,巨視的観点で 現地調査にあたらねばならないと青野,尾留川両先生から指導を受けた。当時の東京教育大学大学 院は,博士課程1年次,修士課程1・2年次に学生が在i籍のうえ,人文地理学講座(青野壽郎教授,尾 留川正平助教授),自然地理学講座(石川與吉教授,町田貞講師),地誌学講座(福井英一郎教授,
幸田清喜教授,浅香幸雄助教授,関口武助教授)のいずれかに分属するしくみであった。私は学部 での卒業論文指導を尾留川先生から受けたから,人文地理学講座を選択した。
中川:学習者,教育者・研究者としての40年(4) 7
麓・ 峯 廷 ・ ・ 邑 囁
@ + 纏鍵 磁
恥灘1耀 嫉 華 {‡
昭和31年度渋谷区立代々木中学校教職員
前回に記載分を含めて,本文中に氏名を記載した教職員の内訳は下記の通り 前列中央が大高常彦校長,その左が安村四郎教頭
前列左端・丸山弘平,3人目・森田京子,9人目・清水康博,右端・増田茂 第2列左端・石川礼子,8人目・南保瑛,9人目・石川悦子,11人目・藤島宇策 第3列3人目・筆者,8人目・三芳瑛,右端・上谷謙二
最後列7人目 ・高山昌之
、v¶
左 渋谷区教育委員会が交付した非常勤講師任用辞令
@前年(昭和30)度分は,服務の条件が明示されてお
六 」 四 ニ ニ ー らず,月手当は6,000円であった。
鎚硫商 1勃問奪観洛o・ 仕
月惣 笹・・接
蔵灘楽 月嵩日聾/ 火
P撫事等 1∵ 浩
言 葺羨 一
麟ξ認 1ヤ
卒業論文が長野県産高原野菜(白菜, キャベツ)の市場選択と輸送事情を究明する内容であった から,今度は東京市場に出荷される白菜に焦点を合わせ,その出荷圏の実態調査を志した.東京中 央卸売市場への白菜出荷県を統計面で把握のうえ,次には県庁で出荷町村や出荷組合を調べたうえ
で,個々の産地へ出むいて実態を聞きとる手筈である。現地調査にかなりの旅費を必要とするわけ だが,代々木中学校での非常勤講師手当と幸いにも貸与を受けた奨学金月額6,000円のおかげで,
金銭的に困窮したりはしなかった1D。
直接的な教材研究の必要がなくなったので,修士論文作成への準備もかねて,日本農業の社会構 造を基礎から勉強してみようという気になった。卒業論文が長野県産高原野菜の市場選択と輸送事 情のかかわりであったから,高冷地農業についての専門書は,いくつか読んでいたけれど,鹿追う 猟師は山をみずの類で,日本農業の根幹をなす稲作農業についての基礎知識が欠除していだ2)
正確に書けば,学部学生2年次から3年次にかけての段階で,岩波新書に組みこまれていた福島 要一r米』(1952年),河合悦三r農村の生活一農地改革前後』(1952年)をそれぞれ発売直後に購入 して読んでいたけれども,問題意識を持たない読書のゆえに,基礎的な素養を培い得なかったので ある.とはいえ,r米』での結論には驚かされた。この書物の最後の章は,「せまい土地,たくさん の人口」と題され,日本の稲作が零細な存在で,農家単位の肉体労働に依存しているのは,農民1 人当たりの耕地面積が少ないゆえではなく,社会構造のしからしむるものであり,宿命的な事項で はないとする結論になっていた。協同化による経営規模拡大化,機械化の可能性が示唆されていた
のである。
教材研究から離れて最初に手がけたのは,近藤康男編著r共同研究・貧しさからの解放一農村・
漁村・山村問題入門』(1953年・中央公論社)の読書であった。この書物は,私が購入したのではな く,発売直後に父が入手していたものを,借用したものである。序文についで共同研究者34名の名 簿が収められるが,その全てが執筆にあたったのかどうかは判らない。
共同研究者は真に多彩で,参議院議員,学術会議会員,大学教員,研究所員,ジャーナリストの ほか,劇作家(村山知義)も加わっている。序文によると,昭和27年4月からr中央公論』に連載
したものの集成の由である。
6.強い影響を受けたr貧しさからの解放』とr市場』の読書
r貧しさからの解放』から受けた影響は,真に大きかった。マルクス主義経済学の方法論を根幹 にすえての著述であると判断できるが,常識と考えていたことがらが,次々に打ちこわされるのは ショックであると同時に,眼からうろとが落ちる想いを味わった。
前述した「人文地理新書」の読書では, 農民が耕地の零細化によって貧しき生活水準に置かれ ざるを得ない と教えられ,工業化の未発達により全人口の約半分が農業で生活している以上,そ れは当然と考えていたことに対し,独占資本による農業からの収奪こそが,農民の貧しさの根本的 な原因と説く論旨は,驚きそのものであった。そうして,農村の過剰人口を低賃銀と労働強化の臨 時工として雇傭する体制の中で〜独占資本による資本蓄積と利潤確保があるとの論旨についても,
深く感じさせられるものがあった。
r貧しさからの解放』からの読書は,続編としてのr続・貧しさからの解放』(1954年),ついで
『第三・貧しさからの解放』(1955年)の読書へと私を狩りたてた。前者はその4版を入手してのも の,後者は昭和31年の入手である。この2冊はそれぞれ協同組合,農民運動を扱うが,その双方に
中川:学習者,教育者・研究者としての40年(4) 9
ついての知識に欠けるため,理解不充分で終ってしまった。
もう1冊,強い影響を受けたのは,岩波書店が刊行した「村の図書室」シリーズの1冊である御 園喜博r市場一野菜・果物』(1953年)であった。著者の御園喜博氏は,大正14(1925)年長野県生 まれで,昭和24年に東京大学農学部を卒業され,大学院を経て昭和31年に大阪府立大学に赴任され た。昭和41年にr農産物市場論』(東京大学出版会)を刊行されている。
ところでこめ書物を読むに到った動機は,東京中央卸売市場を対象とする白菜の出荷圏を調査し てみようと考える以上,市場の有する社会構造,経済構造を具体的に理解する必要を感じたからで ある。著者の御園喜博氏は,この書物執筆当時,東京大学農学部農業経済研究室にて研究中と紹介 されるから,旧制大学院に在籍し,近藤康夫教授の指導を受けられていたのだろう。大正14(192 5)年生まれと紹介されるから,r市場』刊行当時は30才に達していない。だが年少の著者とはい え,内容は力作と評しえよう。
論旨は,野菜や果物を農民が出荷して利益を得るためには,産地での集荷にあたってきた商人に よる支配から脱脚する必要があり,それには農業協同組合,出荷組合を介しての共同出荷の確立が 望まれるとの展開になっていた。共同出荷が,市場にかかわる情報の積極的な収集を介して有利に 機能する事実は,卒業論文での調査によって知っていたから,充分に納得のいく結論であった。し かし,共同出荷を行い,消費地での価格決定に強い力を発揮する商業資本(卸売会社)に対抗でき る組織を持ち得ても,それが根本的な解決にはならないと『市場』は解説した。これから先の論旨 は,『貧しさからの解放』と同じである。農民の多くが零細農である様にしむける日本の社会構造を 変革することなしに,真の解決はあり得ず,国家独占資本による収奪の打破が,基本的には必要と の最終結論にたどりつくことになる。低米価に代表される農産物価格の低い位置づけ,そうして低 い農産物価格によって保障される労働者の低賃金というメカニズムをこわす努力をすることなし に,問題の解決は存在しないのだと,私は読みとってみた。
こうした読書の結果,大学院修士課程を修了して高等学校教員になるとしたら,学校卒業後の進 路が農家の後継者であるにちがいない農業高等学校で教鞭をとることが,人文地理学を修める自分 の使命と考えるに到った。そのためにも,日本農業についての基礎的な学習をつみあげねばならな いとも考えたのである。
農業を中心にすえた日本の社会構造,経済構造に対する自学自習を進めていくと,産地の分布と その成立要因の分析に主軸をおいてきた地誌学習を,地域ごとにくり返してゆく方式を守ってきた ことの空しさが次第につのってくる様になる。どこになにがあるか,それはなぜかについて生徒に 説きあかすのに重点をおくよりも,地域の事象が日本の社会構造や経済構造のゆえにどう対応させ られているのかを,生徒に説き聞せるほうが,はるかに社会科らしいと思う様に,考え方が変って
きたわけである。
そのことをふまえた典型的な学習指導が,昭和31年度になってまた担当した中学校第1学年で,
北海道を対象地域とする冷害の学習となるのだが,そのことへの具体的な言及は,項を改めて記述
しよう。
7. 「学習指導案」の書き方が判らずに独狽する
代々木中学校での身分が,教諭から講師(非常勤)になると,校内での扱われ方が一変した。教 諭であり,学級担任であると,大小二つあった職員室の中でも,校長,教頭の席に近い位置に専用 の机,椅子があてがわれるけれど,非常勤の講師は,大部屋の片隅に移動させられた。そのうえ,
ひとつの机,椅子を出勤する曜日や時間帯がちがう他の非常勤講師と共用しなけれぼならない。そ れゆえ,私物を職員室内におくこともはばかられた。
非常勤講師としての2年目には,その座席も第一二職員室と称した小部屋に移された。この部屋 は,音楽科担当の女性教師3人の定位置で,みな20代の石川礼子(国立音楽大学卒業),石川悦子
(東京女高師卒業)のお二人は独身,南保瑛(東京第一師範卒業)先生だけが既婚であった。当時 は働く既婚者助成に対する社会的な受け入れ体制は整っておらず,保育所の存在も稀であった結果 と思うけれど,南保先生はどきどき幼い娘さんをつれて出勤した。多分,個人的な伝手で娘さんを 預かってもらっている家庭での手間不足とのかかわりでもあったろう。
こうなると,母親としての南保先生が授業にでかけると,娘さんは第二職員室に取り残される。
音楽教室はひとつだけだから,三人の女性教師のうち一人は必ず授業担当外となり,それで職員室 での「子守り」が成立したのである。私は,月・木・土の午前中12時間が拘束され,担当時間は10 時間だから,空時間に「子守り」の一員に加えられたりした。今日の学校では到底考えられない公 私混同だが,当時はやむを得ない事態と是認されていたのだろう。
実施された時期についての記憶がないけれども,東京都教育委員会による指導主事の一斉訪問が 行われた.私の出勤する曜日が一斉訪問の実施日と重なっていたのだが,大高常彦校長は事前に私 を呼びつけて,君は講師なのだから一斉訪問にもとつく研究授業の対象外だと告げられた。教材研 究に貴重な就学時間を割かなくともよいとの「親心」に相違ない。
ところが,親の心子知らずの類で,差別の必要はありません,研究授業の一員に加えて頂いて けっこうですと,私は即座に返事した。大高校長が時おり私を評した典型的な「坊ちゃん気質」が また顔だしした結果である。
大高校長は,ではそうしてもらうとして,学習指導案を事前に書いて提出する様にと申し渡され た。ところが,「学習指導案」がどの様なものであるのか,判らなかった。大学在学3年次のおりに 受講した佐藤保太郎先生担当の「社会科教育法概論」を無気力受講したむくいである。教育実習の おり,大沼一雄先生は,形式ばった学習指導案の提出を求められなかった。
まさか大高校長に学習指導案とはどの様なものですかと問いただすわけにもゆかず,やむを得ず 後任として勤務する高山昌之さんに質問した。大学で教えられなかったのですかとあきれられなが ら,それでも高山さんはひな型を示してくれ,それに合わせて「学習指導案」を書いて,一斉訪問 は,無事に切りぬけた。担当の指導主事がどなたであったかは記憶がないけれど,事後の講評のと き,講師の先生まで参加しての研究授業ができる代々木中学校の研究体制は立派であると言及され たのを憶えている。
そのことに限らず,確かPTAが旅費を負担しての夏休みの校外宿泊研修13)にも,そうして常勤 教職員全員参加の懇親旅行にも参加させて頂くなど,身内の一員として扱われた思い出が残ってい る。大高常彦校長の人徳と社会科担当教員のチームワークの良さによるのだろう14)。
中川:学習者,教育者・研究者としての40年(4) 11
8.生徒と旅した夏休み利用の実地見学
1年生の学級担任だった当時に手を付けたカラースライド作成と生徒の実地見学作文の組み合わ せによる自主教材作成は,非常勤教師に身分が変ってからも,継続して実施している。理由のひと つは,1年生当時,台本作成,実地見学に参加した生徒が,2年生になって地理学習から離れた後 にも継続して実施したいと強く希望するのに加え,大高常彦校長が見学旅行に必要な教員用旅費を 支出しようと手配して下さったからである。
こうして,昭和30年8月4日から7日にかけての3泊4日の信越周遊見学旅行が成立する。自主 教材作成の対象は,卒業論文の作成でいく度も足を運び,現地の事情を詳しく知っていた入ヶ岳東 山麓の野辺山高原(長野県南佐久郡南牧村)に展開する高原野菜栽培を選定した。男子8名・女子
3名の生徒に加えて,引率は私とこの年3月に実践女子大学を卒業して都立豊多摩高校に保健室担 当の常勤講師ユ5)扱いで勤務する様になった妹に参加してもらっての旅である。宿泊地は野辺山高 原,更植市八幡,直江津市と選定した。八幡を選んだのは,零細な水田耕作の典型といわれる「田 毎の月」媛捨の景観を生徒に実見させたかったからである。直江津は,日本海を見たことのない生 徒に対して見学の便を計ったのと,この地が大学3年次に実施された「人文地理学野外実習」「自然 地理学野外実習」でそれぞれ訪れ,忘れがたい思い出を持ち,旅館ともなじみになっていたのに
よっているユ6)。
どの旅館も,1泊2食で弁当付,1人300円で引きうけてくれ,おかずもけっこう豊富であったの には,今昔の感に耐えぬ想いがある。八幡の旅館で,広間のなげしに,日露戦争当時の日本海海戦 における戦艦「三笠」艦橋上の東郷平八郎大将を描いた有名な戦争画の複製が飾ってあったのを見 つけた男子生徒の1人が,「あっ,山本五十六」と叫んだのを聞いて驚嘆した。このとき連れていっ た生徒は,昭和16年か17年生まれで,終戦当時は5才である。東郷平八郎と山本五十六の見分けが つかないのは当然だが,平成4年度からどの教科書にも東郷平八郎が登場している現在の小学生が この絵をみたら,なんと発言するだろうか。
この旅行実施当時の野辺山では,駅前に雑貨屋を兼ねた旅館が1軒あるだけで,あとは農業倉庫 や開拓農協の早漬け沢庵加工場があるほかは,点在する森林と高原野菜の圃場,牧草地を配し,サ イロを備えて酪農も営む開拓農家をみかける牧歌的な風景が展開するにすぎなかった。今日の様に メルヘン風の駅舎が建ち,ホテル,ペンションが軒をつらね,世界一の高性能を誇る国立天文台の 電波望遠鏡が巨大な姿をみせる情景とは,遠く隔たる存在であった。この野辺山が,昭和40年代以 降に小学校第5学年の社会科(産業学習)に際しての典型教材にみたてられる事例を眼にすると,
自主教材作成に選びだしたのは,先見の明ある選択であったともいえそうに思われる。
八幡から直江津に旅する途中では長野で下車し,門前町の景観観察の対象として善光寺を選んで みた。直江津からは長岡にでて,清水トンネルを抜けての帰路をとった。このコースを選んだの は,当時は日本一の長大トンネルであり,教科書にもとりあげられる存在を,これも通過する体験 を持たせ様と配慮したからにほかならない。
このときの見学旅行に参加した生徒の数人に,ぜひまた連れていってほしいと頼まれて,2年後 の夏休みに,大学院修士課程修了後,教諭として勤務することになった茨城県立水戸第一高等学校 の2年生有志と合同の形で,完成間もない佐久間ダムの見学を行っている。この時は,東京一豊橋
颪. 聴・
@ 鼠 涛㌦.
漣咄@ 藁
昭和30年8月6日 夏休み利用の社会科見学旅行のおり直江津港岸壁で撮影縛
後列右端が 中川怜子,他は代々木中学校2年生
問を夜行列車に乗り,佐久間ダム見学後,八幡,野辺山に前回とは逆コースでまわって宿泊した。
その翌年度からは,生徒を引率しての宿泊見学旅行は,3校目の勤務校となる東京教育大学附属中 学校での年中行事になっていた。修学旅行を社会科主体の実地見学学習と定めるしきたりが,明治 30年代末以来,東京高等師範学校附属中学校から東京教育大学附属中学校へと受け継れてきたから
である1η。
9.冷害は独占資本主義にもとつく人災と教える
『貧しさからの解放』に始まった日本農業の社会構造,経済構造探究の成果を中学校社会科地理 的分野のi授業に具体的におりこむチャンスは,昭和31年度におとずれた. 8)前年のはじめ以来,私 は主として朝日新聞の紙面から,社会科の教材研究に役立つと思われる記事を切り抜いて,スク ラップブックに貼る作業を,日常的に行っていた。とはいえこの時の目的は,それらの記事を授業 の進行に合せて読解し,生徒に話して聞かせる素材にしようとするものであった。新聞記事を抜粋 し,書籍や雑誌から得た記事と合せて,手書きガリ版印刷による「資料集」を作成して生徒にくば ろうとするアイディアは,まだててこなかった。
この年,北海道を中心に発生した冷害は,東北日本の稲作に壊滅的な打撃を与えていた。とくに 北海道は収穫皆無を含めて,平年作の半分以下に収量がとどまる例が全道農家の三分の二をこえ,
農家経済の窮迫から商店の売り掛金こげつき続出という惨情と新聞は報じていた.
ところが,こうした状況にもかかわらず,米の収量は品種によって大巾に異なり,早生種の稲が 蒙った減収は僅かであるのに対し,晩生種の受けた被害は惨胆たるものと新聞は報じていたのであ
る。そうして,早生種を作った農家は少なく,中生種,晩生種に作付がかたよる原因は,単位面積 当たり収量が早生種で2〜2.5石なのに対し,中生種で3〜3.5石,晩生種ならそれ以上という条件に もとつくとの報道であった。
中川:学習者,教育者・研究者としての40年(4) 13
加えて,冷害によるダメージは,農家の階層によって非常に異なり,農業所得が平年でも少ない 小農や貧農は晩生種中心で全滅状態であるのに対し,気象長期予報によって冷害の危険を事前に 知った状況で,大農・富農は早生種中心の作付を選び,被害を最小限に喰いとめる事例が多いと,
知らされた19)。
こうした一連の新聞報道から,昭和31年に発生した北海道の冷害は自然災害ではなく,まさしく 人災と私は理解した。そうして,冷害を異常気象,とりわけ冷涼な北東季節風(やませ)とダイレ クトに結びつけて解説する教科書の記述に,猛烈な反発を感じたのである。そうしてここ1年半ほ どの研修の成果として,冷害の元凶は保守政権による低米価政策,不徹底な農地改革,そうして工 業によると書くよりは独占資本による農業からの収奪が原因との結論にゆきついた。
それゆえ,授業では冷害を自然災害と簡単に考えてはいけないこと,農家の階層によって被害は 大きく異なることを,生徒に話しかけてみた。貧しい農家がリスクを背おって晩生種で失敗し,豊 かな農家は安全性重視で被害を最小限でくいとめ,その結果として貧富の差はさらに開くと解説し たのである。しかしこうした冷害の社会構造にかかわる理解は,中学1年生の思考力をこえる内容 でどうやらあったらしく,授業を終えてから生徒に書かせた作文を読んだとき,当時の私は失望落 嘆を味わった。次項で具体的に言及する様に,感傷的な,そして事象に対する解決をボランティア 活動に求めるものが大半なのにがっかりさせられている。
冷害の学習を終ってまもなく,東京教育大学の大塚キャンパスで行われた秋の文化祭のおり,農 学部学生のサークルが,北海道の冷害を取りあげ,冷害で実のりのなくなった稲の実物を展示して いるのをみかけ,文化祭終了後に実物教材として授業で使いたいからと申しでてもらいうけ,教室 に持ちこんで生徒にみせたりした。
10.はね上り授業の失敗で落嘆を味わう
今日では,中学校の女子生徒に社会科ぎらいが多いと聞かされる。ところがこのとき,生徒に書 かせた作文P(感想文)では,なぜか女生徒のものが圧倒的によく書けていた。1枚1枚みな添削
し,教師の感想を書いて返却したものの中から,特に頼んでもらい受けた7枚は,なぜかみな女生 徒のものである。それらは以来36年もの歳月が流れる中で,茶色に変色してしまったが,熱心に授 業を受けてくれた生徒たちが懐しく思いだされたりする。その中から,野口敬子さんの作文を次に
引用してみよう。
冷害と北海道 1年H組 野口敬子
私は「北海道が冷害だ」と言うことを知ってたいへん驚きました。なぜなら私は北海道に何年も 住んでいたからです。私のいたところはあまり農業は盛んなところではありませんでしたので,私 の知人では害を受けた人は少ないだろうと思って,少しは安心しました。けれども母が知っている 人が大きな農家なのです。その方は一体どうなったのでしょうか。
自然の現象と言うものは,いつ何が起こるか予告してくれません。だから冷害が起こるのではな いでしょうか。毎年お百姓は「今年こそ良いお米を」と念をいれて作っているのに,お天気が悪く ては良いお米がとれません。こうして冷害は北海道の農民全体を困らせているのです。
私たちの学校では,文化祭にバザーを開きそこで集めたお金を気の毒な北海道の人たちにあげた のです。母も心配して衣類や食料を差し上げると言っておられました。私たちはなんとかして冷害 をなくして,北海道の農民を楽にしてあげたいと思います。
「北海道の皆さん,元気をだして下さい。これからも冷害はおこるかもしれません。だが冷害に なっても,力を落さず戦って下さい」
私たちもできるだけ,北海道の冷害で困っている人を助ける運動に協力します。そして来年は豊 作になって,北海道の皆さんも,また日本全体が明るく,おいしくお米が食べられるように祈って
います。
いまならば,中学1年生の発想はこれで当然,結局は相互扶助と精神主義の枠をでられないとし て,公民的分野の学習に依存しようとの立場にたてるけれど,当時は地理教育でなんとかしなくて と,はねあがっていたわけである。
2クラス合せて120人ほどの生徒の中で,教師が理解させたいとする意図に対応できたのは,同 じ1年H組の坂本道子さんただ1人,次に彼女の作文を引用しよう。
冷害と北海道 1年H組 坂本道子
北海道の冷害は,何も今年が初めてではありません。今まで何回もおこりました。
しかし私たちは同情あるばかりで何もしてあげられません。どうしてでしょう。結局,私たちの 家だって楽ではないからです。でも同胞が困っているのを,見殺しにするわけにもゆきません。だ が冷害はさけることのできる害のようです。もし北海道に貧しい人がおらず,生活にゆとりのある 人ばかりだったら,冷害はおこらないでしょう。
ゆとりのある人なら,危険な晩生は作らず冷い北海道の北東風に耐えたでしょう。だが貧しい人 が多いために冷害がおこるとしたら,一体どうすれぽ良いのでしょう。
北海道には昔から住んでいた人より,移民として渡った人の方が多いと思います。その人たち は,開拓者として,私よりずっと苦労してきたでしょう。その人たちへの贈物がこの苦しい冷害と は,余りにひどすぎます。ところが苦しんだ末にきたもの,それが今までにもまして苦しみである
とは,なんとしたことなのでしょう。私たちは一体,だれに訴えたら良いのでしょうか。
私たちは少しずつでも,気の毒な人たちのためになることをしようと言うので,お金や着物など をだしあって送っています。でも日本中の人が助け合っても,もしまた冷害がおきたらと考える
と,私は判らなくなってしまいます。
冷害をなくすためには,貧しい人がこの世からなくならなくてはなりません。けれどもそんなご とが出来るでしょうか。私には判りません。しかしどうにかしなくてはならないのです。だがこの ようなことは,私たちが大きくなっても解決しないようにも思えます。でもどうにかして同胞の苦 しみは救わねばなりません。それには,日本中の人が,冷害がおこらない世の中を作るように努力 する必要があると思います。
いま,当時の作文を書き写して,坂本さんが共産化社会を指向し,社会主義革命をおこさねば解 決はあり得ないなどと書かなかったことに,教師であった私は救いをみいだしている。生徒にその 様に信じこませ,また書かせたら,これは「政治教育」そのものである2°)。
中川:学習者,教育者・研究者としての40年(4) 15
11.農業高校赴任を希望してエリート進学校に着任と決定
修士課程2年次の半ばに近づくと,修了後の身のふり方を具体的に考えざるを得なくなる。博士 課程に進んで研究者の途を歩こうとは,考えてもみなかった。修士論文の指導に常時あたって下
さった尾留川正平先生からは,博士課程に進まないかとすすめられたが,高校教師の途を考えてい ると申しあげてお断りした。
前回とちがって,今回はでもしか教師ではなく,農業高校の教師になりたいと真剣に考えたので ある。低米価政策を打破し,日本の農業に明るい前途を開くためには,農業後継者の政治的自覚が 大切であり,農村を保守政党の政治基盤にはしない次代の農村青年を育てることが,教師の使命で あると,当時は大真面目に考えていた。とはいっても暴力革命を指向したのではなく,議会制民主 主義の枠内での発想であった。
とはいっても,どこの県でも良いというのではない。父方の先祖は飯田(長野県)で,学部の卒 業論文のフィールドも長野県内だったけれど,たまたまみかけた県立学校教員募集の要項が,群馬 県と茨城県で,試験期日がちがうため,この二県を受験してみようと考えた。だが,昭和30年代に 入ると教職は急速に買い手市場となり,大学で1期あとの人たちが教員採用試験に不合格となる事 例を聞いていたから,滑りどめのつもりで都立学校教員採用試験も受験した。
茨城県教育委員会から採用するので面接にくる様に求められたのが,昭和32年3月22日であった。
面接の内容については大半を忘れてしまったが,どの様な学校に赴任を希望するかとたずねられた ので,農業後継者の教育に関心を持っているから,ぜひ農業高校に勤務したいと返答した。不思議 な答えをするという様な顔付きをされたが,試験官はなにも感想を話さなかった。すでにこの当 時,茨城県の公立高校では,普工商農の序列が成立しており,農業高校第一志望という生徒は少な いという事態であったなどとは,全く考えてもみなかった。前年暮から定期講読を始めていたr農 業朝日』でみる農村青年は意慾にあふれ,農業高校生はその卵と,単純に考えていた。
農業高校に対して抱いていた幻想が崩壊するのは,その2か月後である。当時は,高等学校教員 実務講習会と称した初任者講習を受けたとき,農業高等学校に赴任した学部卒業のいく人かが話さ れた驚くべき体験談に加えて,講習会最終日に参観した茨城県立水戸農業高等学校の授業から,農 業高校に対して持っていたイメージが,いかに現実ぼなれしていたかを思い知らされるわけなのだ が,そのことについては,次回に具体的に書いてみよう。
数日後,茨城県教育委員会から,県立水戸第一高等学校に赴任する様にとの通知を受け,ことの 意外にがく然とした。県立水戸一高は名門水戸中学校の後身,県内きっての受験校とは,大学同期 で茨城県立土浦第一高等学校に赴任し,後に都立高校に転じた後藤秀雄君から聞いていたからであ る。ほとんど同時に都立の聾学校から採用するので面接にくる様にとの通知があったけれど,特殊 教育についての素養はゼロで,聴覚に障害のある人たちにどう対すればよいのか全く見当もつかな いので,この申し出は断るほかに方法がなかった。県立水戸一高赴任がきまっていなかったら,途 方にくれたはずである。
修士論文を提出してまもなくであったと記憶するが,尾留川正平先生から頼みごとがあるからと のよびだしを受けた。内容は意外なことで,親しくしている文学部国史学科の芳賀幸四郎先生から 高校受験用の学習参考書をまとめるに当たって,地理の部分を受け持ってくれる者を世話してほし
いと依頼されているから,君がひきうけてほしいとの話なのである。中学生を3年間教えてきたか ら書けるだろうとの申し付けなのだが,4月までの2か月半を使えば,できるだろうと考えておう けすることにした。
現在の私は,修士課程の学生には,免許状はあっても非常勤講師のアルバイトはせず,1年次で 修士論文以外の単位は取得し,2年次は修士論文に専念する様に言うのだが,当時の先生がたは,
大学院生は授業にきちんとでて,演習での手をぬく様なことをしなければ,非常勤講師については とや角いわれず,私以外にも同様の仲間があった。
出版社である大和文庫は千代田区九段にある小出版社で当時,「ミニマムエヅセンシャルシリー ズ」全9巻と称する高校受験用参考書を準備中で,その社会科篇を作る要員にみこまれたのである。
18 地 理 編 H日本の緒地域 19 −一
く藍岬 と融飼A・ 配灘汎
㊦ 関粟地方(面積3亀099km1人自竃065万) 製糸箕熊谷 高崎 富岡 前橋など゜
@ 機藁(織物業)魁芋・徽.伊騎.纏.鞠など。
【1】 闘窟②位慶と自熱 ②緬髄讃野田・欝(し、5ゆ)・荊(みりん)・蹴(鰍)。
1.位置 日本の中央郎よりやや東にあり, ・ 脚 柳L ・腸 ぽに竃く轣@最鱗 畑作農葉がさかん 日本列島が東西から南北に向きを変えると ① 低地 米。水郷地帯では享場米。ほ■樗望も・
ころにある。 孕山響 灘《忙z 地形 北は八溝・三爾山膿,西は関東山
P献鰍状り騰・鰯鞘でかは
@れた中に,盆地状の広い闘粟畢 がある。
@悶稟耳罫O聴色 台地の部分が多く,大き 鱒9讐蓼 な川の流れる沖親但地は,・帯状に細長
轟〆 轡 ③ 吉地 東京・横浜の近くでは,野莱 2.
距署サ品などの鵬麟が行塊は ・ .コ なれると麦・さつまいも(南部)・たば し
@こ(北東部〉・麻(北部)などが作られる。 =詣軌 轟爾脚 C 養聾 北。西部の乾燥した台地や扇 望 歪
@状地で,桑を作り養蚕を行,ている。 皇祠榔肛 くつなカ㍉ている。
東京の位量 匙ξ竃 一 R. 水産藁 三崎(三浦)のかつお・まぐ
鞠無流噸鶴は躰鴫蝋鴨刎ヒ西から蔽に流れ,下流に確備 北浦付近の永郷がある。乱 気僕 衰日本式気候。晦部の半島は況暖であるが,北部はやや内陸的で,冬には ∩り E 諏遠融業・銚子のいわいさん蜘 κ、.職
@ 沿岸漁業が中心。ほかに東京湾沿岸のの 酪 轟駅『塁
@ 。り畿驚。。蝋徽細聯ε蝦ノ難輝
北製蝋し鳩(から・風)が強く吹く・【2】 暫郁寛京(23区の人口697万)
(茨城県北東部) がある。 悶巣 の童 藁 江戸時代の政治の中心で,明治に加うてから東京と改められ,甘都となった。日本 嘔■囮の政治・絶済・文化の中心で目本一〇六都臨穽蓬蔽。聾蓬競曲を通して世界の各 1・下の図は電開束地方の地形をかんたんにかいたものである。この地方にあてはまる
地とも強く結び付いている.まわ加こ多くの衛星都市がある。 ・ ものを・次のそれぞれの文からえらんで,記号で答えなさい。
【3コ 関軍の麿業 0う 滋岸線が単調であるのと,付近に寒流が流れているの 1・蹴歌工勲榊一つである鍛工業地秘あり旧本畷も顧な工親 で熱・土さかんでな・・
域である。 をf}この地方には一都六県がある。
①東繊鵜棘騨輔観開ヒ・川・(・も…贈(輌), 飢の地駄日本でも・とも早・蹴現在・もわ醐 東は千案(製飲),寓は平塚(機微)にのびる。 の政治霞済の中心である。 窟
棘鱒の工勲・さか鳳蝿肛岬刷製本などの艶のあ肛銚桑ま 偶この地方1よ・北と西が山にかこ瓢東と酬太平灘
,ている. 面しているので・代覆的な表日本式気候で,冬には寒いか 順東の尼矯ともい泌工業都礁魔僻工業の大工場醸ま.。いる。 ら・風激く・
。浜神恥つく娘購.翻・鰍・鉄鋼・金肛靴ど。 囲この地方は・蝉姻川が叙・ぜんたいに水田酢醗達しているめ・冶地に
③=鰍融鵬糧螺私外齢ら馴を輸入し,また蹴輸附・の めく熟なし覗畑儒ふるわない・ (・・京都)
T灘゜至鵬蹴潔惣鴛瓢識艶 ユ縦癬墜穐偶項の勅轍繊ら凱翻
た. 千葉県の利根川沿岸地域が〔11[コの産地であるのは,秋の②[コによる蔑蒙の前 に刈取りをすませることがその一因であり,また内湾の〔3}[コ製造は【4}⊂:コした冬 ェ鷲㍑鷺襯欝嫌鵠絶、灘罐鰭 ・北・…ロ・・…た・のであ・・て.水智蝸けやすい。 }酪農 (切あさり ㈲助 ω湿潤 ㈹乾燥 灼台風
【渕鵜激も焼い螂市鮒近にある港を柵する.棘嗣す微浜がそ (陣節風㈲早嚇 (千葉) の例.東京港ができてからこの不便は少なくなoた。
r中学社会の着眼点』ミニマムエッセンシャル・シリーズ第2巻の一部で筆者が執筆担当の部分
芳賀幸四郎先生とはこのときが初対面であったが,その後,昭和39〜41年度にかけて,東京教育 大学附属中学校で仕えた4人目の学校長として交渉を持たせて頂いた。現在も,附属中学校に勤め た教員のOB・OG会(桐鳳会)でおめにかかる機会をしばしば持っている。
芳賀幸四郎先生は,「はしがき」1ページを書かれただけで,地理的分野(5〜74ページ)を私が 担当し,歴史的分野(75〜144ページ)は長野正先生,政治・経済・社会的分野(145〜211ページ)
を吉田弘之先生がそれぞれ担当された。
当時はいろいろ工夫し,コンパクトにまとめたつもりでいたが,久しぶりに書棚から取りだして ページをくってみると,文章は冗漫,地図の扱いにミスがあったりで,経験不足はいなめない内容 構成と反省せざるを得ない。