「生と死」について学ぶことの意義とは何か
―「わかる」ことの多層性に基づいて―
尾 崎 博 美
1. はじめに
本論文の目的は、教育の営みにおける「生と死」を学ぶ実践の検討を通し て、「生と死」について学ぶことの意義を提示することにある。教育哲学の 問いとして捉える場合、「生と死」について「学ぶ」「知る」「わかる」とい う行為や状態自体がどのようなものであるかが大きな問題となる。本論文で は、特に「わかる」という行為・状態がもつ多層性を踏まえたうえで、「生 と死」をわかろうとする営みがそのプロセスにおいて示唆する事柄を抽出す ることを目指す。
そもそも「生と死」が教育の問題となるのはなぜであろうか。教育基本 法第一章「教育の目的及び理念」第二条「教育の目標」には、その四とし て「生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと」
が掲げられている。つまり、日本の教育が目指す最も根本的な目標の一つ に「生命を尊ぶ」ことがあり、このことは、学校教育における様々な教科の 学びにも影響を与えている。例えば、2011 年施行の学習指導要領では、小 学校・中学校・高等学校のそれぞれにおいて「生命の尊さ」「生命への畏敬」
といった文言を含む「生命尊重」に関する記述がみられる。最も明確に表れ るのは「道徳」であるが、そのほか、国語、公民、理科、生活、技術家庭・
保健体育といった科目においても、「生命」に関連する記述がなされている
(文部科学省 2010)。さらに 2017 年改訂の学習指導要領においても、道徳 科・生活科・理科の相関に基づき、「生命を尊重する教育」の実施が図られ ている。
それゆえ、教育現場において実践される「生命尊重」を目的とする授業、
課外活動等の実例は枚挙にいとまがなく、教育学分野の研究においても様々 な知見が蓄積されている。近年の研究から事例を分類的に挙げるならば、最
も散見されるものは道徳教育における生命尊重の教育実践である。これは例 えば、1)絵本や映画といったメディアを活用する生と死の学び、2)動物 の飼育・植物の栽培等の教育環境を活用した生と死の学び、3)対話型・ア クティブラーニングなどの道徳の授業方法に焦点化した生と死の学び、4)
いじめ、災害などの社会問題を題材とした生と死の学び、などがある。ま た、生命尊重の教育実践の基盤となる理論研究も様々に展開されている。代 表的なものは、子どもたちの「生命尊重」という道徳性がいかに「発達」す るか、といった道徳性発達理論に関連する研究である。
しかしながら、こうした膨大な量の「生と死」の学びに関する教育実践、
教育理論に接する際には、「生と死」は学ぶことができる4 4 4 4 4 4 4 4という前提がある。
言い換えれば、「生と死」とは教育や学習を通して人間の前に現前するもの である、という捉え方がここには提示されているのである。そこで本論文で は、人間にとっての「生と死」を学ぶ対象として見る場合に、それが人間の 成長や成熟にとっていかなる意味をもちうるのか、ということを問うていき たい。人間にとって「生と死」とはなんであるか、という問い自体は極めて 深淵であるが、あえてそれを「学ぶ」対象として見る際に得られる視点を明 らかにすることを目指す。
上記の目的を達するため、本論文は以下の構成をとる。第一に、「学ぶ」「わ かる」ことの多層性を検討する手がかりとして、アメリカの教育哲学者であ るイズラエル・シェフラーの理論に着目する。次に、「命の大切さ」を学ぶ ための教育実践の事例を取り上げ、その中で「生と死」を学ぶことの基本原 理となる要素を抽出する。ここで特に着目するのは、自己と他者の関係性に 基づく「生と死」の捉え方である。そのうえで、「生と死」が「わかる」こ とのモデルとして、ネル・ノディングズの提唱する「ケアリング」論に基づ く説明を試みる。最終的には、「生と死」を学ぶことによって、人間が教育 を通して目指しうる状態とはいかなるものか、それはいかなる自己–他者像 を想定しうるのか、という点を提示し、結論とする。
2.「わかる」ことの多層性
―「生と死」をめぐる知識とは何か
(1)「教える」と「わかる」の関係性
教育とは、「教える」営みであると同時に、その過程において子どもたち が「わかる」営みである。「教える」と「わかる」との関係を改めて考える とき、生と死を「教える」とはどういう行為を指すのかを考える必要が生 じる。ここで、アメリカの教育哲学者であるイズラエル・シェフラーの議 論に着目してみたい。シェフラーは、動詞の「告げる(tell)」と「教える
(teach)」との違いを以下のように説明している。
告示は通常、教授と同じく、試行を意味していると言われるであろう。
しかし一般には、告示は教授とは異なって、X が Y に学ばせようと試 みることは意味していない。したがって、X がコロンブスがアメリカ大 陸を発見したということを Y に教えるのに成功するならば、Y はコロ ンブスがアメリカ大陸を発見したということを(ある時点で)学ぶので ある(シェフラー 1989、156 頁)。
ここで、シェフラーは「教える」という営みは、その主体の行為だけを指示 するのではなく、その対象となる相手が「学ぶ」かどうかという点をも指示 すると主張する。端的に言えば、「X は Y に教えたが Y は学ばなかった」と いうのは語義矛盾となるのである。つまりそのとき、Y は「教える」ことに 失敗しているのであり、「(Y が学ばなかったならば)X は Y に教えること ができなかった」となる。
さらにこのことは、「教える」がもたらす「学ぶ」に内包される「わかる」
についても特定の指示をなす。シェフラーは、「告げる」結果としてもたら される「わかる(理解)」と「教える」結果としてもたらされる「わかる
(理解)」の違いを次のように指摘する。「告げる」ことが成功するためには、
Y は X が「告げる」言葉を聞き、理解していなければならない。しかしな がら、「告示が成功するには、現在においても未来においても、Y が X が伝 えようとしていることを学ぶことは確かに必要ではない4 4 4 4 4 4」という(前掲書、
157 頁。傍点は引用者)。つまり、「告げる」結果としての「わかる」は伝え
られた内容そのものにとどまるのに対し、「教える」結果としての「わかる」
は教えられた内容そのもの以上の何ものか4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4を含意している。これを整理する と以下のようになる。
① X が Y に A と「言う」
⇒ Y の反応によらず、X の行為だけで成立
② X が Y に A と「伝える」
⇒ Y が内容(A)に何らかの理解をすることで X の行為は成立
③ X が Y に A と「教える」
⇒ Y が内容(A)に何らかの理解をし、それ以上の何ものかを学ぶこ とで X の行為は成立1)
以上のシェフラーの議論を踏まえると、日常的に使用する「教える」という 言葉・概念は、その営みの成立条件として教える人(教師)だけではなく、
教えられる人の営みや状態が前提されていることがわかる。つまり、「教え る」という営みが成立するためには、教えられる人が「理解する」「学ぶ」「わ かる」という何らかの変化を経験することが暗に含まれているのである。端 的に言えば、「私はあなたに生と死について教えた」と適切に言うためには、
ここでの「あなた」が生と死について「理解する」「学ぶ」「わかる」といっ た何らかの変化を経験することが必要なのである。
(2)「いのちの大切さがわかる」が包含する要素
次に、「わかる」ことの意味に注目する。「教える」ことが成立するための 条件として、教えられる人が「わかる」ことが必要であるとするならば、そ れはいかなる変化を意味するのだろうか。たとえば、以下の問いを想定して みよう。
【問い 1】 「わかる」のが 1 番難しいのはどれか?また、その理由は?
①「学」という漢字がわかる ②二次方程式がわかる ③おしゃれがわ かる ④接客の仕方がわかる ⑤優しさがわかる ⑥友だちの作り方が わかる ⑦ 生活習慣がわかる ⑧いのちの大切さがわかる ⑨礼儀正 しさがわかる ⑩「個性」がわかる(尾崎 2018a、一部改)
【問い1】に対する受講生の回答は様々であるが、一つの傾向として「⑧い のちの大切さがわかる」は常に上位に含まれることを指摘できる。逆に、「①
「学」という漢字がわかる」や「②二次方程式がわかる」が最も難しいと答 える受講生はほとんどいない。また、「いのちの大切さがわかる」ことが難 しい理由には様々なものが挙げられる。代表的な表現を挙げると以下のよう になる2)。
a. 「命」については人それぞれに考えがあり正解がないから
b. 言葉で「いのちは大切だよ」と言っても、わかっていることにはな らないから
c. 事実殺人に繋がる犯罪がなくならないのは、言葉ではそういった事 がわかっていても、心の中できちんと理解をできていないから d. 「命」を大切にする気持ちが芽生えなければ「わかる」とはいえな
いから
e. 命の尊さは想像したり実感したりすることが困難だから f. 人の死は身を持って体験することができないから
上記の回答を踏まえると、「いのちの大切さがわかる」ことの困難さには、
何をもってして「わかった」といえるのかどうか、という基準が大きく関係 していることが示される。つまり、漢字や二次方程式が「わかる」ことは、
その漢字が読めたり書けたりすること、二次方程式を解いて正答に至ること でそれを証明できる。これに対して、「いのちの大切さ」が「わかる」こと は、どのようなことができれば、あるいはどのような状態になればそれを達 成したといえるのかが不明瞭なのである。
この「いのちの大切さがわかる」ことの不明瞭さは、換言すれば「いのち の大切さがわかる」ことが包含する要素の多様性を示唆する。例えば回答 a. は端的に「いのちの大切さ」に対する考え方が多様でありうることを示 している。これは、様々な考えがありうる、という種類や量の多さを示すこ とにとどまらず、むしろ「正しい」と思えるような判断の基準や土台そのも のが多様でありうることを意味している。さらに、回答 b. は「言葉でわか る」ことと「いのちの大切さがわかる」こととの間にある差異を指摘してい
る。それは、回答 c. が示すように、言葉では「いのちは大切である」と言 いながらも、実際の行動においては他者のいのちを奪うような場合が起こり える場合からも明らかである。
さらに、回答 d. e. f. では、「いのちの大切さがわかる」ために必要とな る、「言葉」以外の要素が提案されている。回答 d. における「大切にする気 持ち」、回答 e. における「想像」「実感」、回答 f. における「体験」といった 要素がこれにあたる。ここにおいて、私たちは、日常において当たり前に使 用する「わかる」のなかには、単純な情報を得るという意味での理解以上の ことを示す場合があることに気づく。それはつまり、何らかの行動と結びつ くような価値や能力、あるいはより感情や感覚と結びつき、それらを複合す るような「わかる」の在り方である。
(3)「生と死」が「わかる」における「知識」・「知能」
「教える」と「わかる」の関係性を踏まえたうえで、「いのちの大切さ」を 事例に「わかる」がもつ多層性を捉えるとき、いわゆる近代の「教育」に 前提されてきた二元図式の存在が浮かび上がってくる。その二元図式とは、
精神-身体、思考-行為、理性-感情といった二元図式である。ジョン・
デューイが新教育を提示する際に批判した旧教育は、まさにこの二元図式を 前提し、それを強化する営みに他ならない(デューイ 1975)3)。この二元図 式は、事例1の問いに対する受講生の回答の中にも散見される。たとえば、
「いのちに関することは知識ではないから」「頭でわかっていてもだめだから」
といったような記述が挙げられる。ここには、「いのちの大切さがわかる」
ことと「知識」とを切り離す見方、あるいは「頭でわかる」と、「行動する」
「気持ちをもつ」とを切り離す見方が前提されている。その結果、前述の
「いのちの大切さ」は「知識ではないから教えることができない」「いのちに ついてはわかるのではなく感じることが大事」といった、教えることの否定 や偏った心情主義につながりかねない危険性が生起することになる4)。
「教育」において前提される暗黙の二元図式を指摘したギルバート・ライ ルは、著書『心の概念』において「知る knowing」にはいくつかの種類が あることを指摘している。ライルは、「knowing that」(命題に関する知識)
が当該の対象に関する情報(命題)を得ることであるのに対し、「knowing how」(方法に関する知識)は、当該の対象に対する何らかの行為や働きか
けをすること、さらにはそのための能力を持つことを意味するという(ライ ル 1987)。ライルの指摘は、デカルト以来の心身二元論への批判であり、「何 かを知る」ことと「何かを行う」こととを分離されたプロセスとしてみなす 捉え方が持つ危険性の指摘である。なぜならこの分離によって、知識は単な る情報と同一視され、それにも関わらず、行為は知識の下におかれる、とい う誤った主知主義的な見方が強化されるからである。
上記の点を踏まえるならば、「いのちの大切さがわかる」ことは「知識」
ではない、と単純に言い切ることもまた危険性を持つことが明らかになる。
そうした見方は、「いのちの大切さ」がわかるためには知性や理性ではなく4 4 4 4 感情や感性の問題であるとすることで、近代的で限定された知識観の中に
「生と死」の問題を閉じ込めてしまうことに他ならない。それゆえ、ここで
「生と死」に関する「教える-学ぶ」営みを適切に捉える上で、「知識」その ものの捉え方を再構築する必要性を指摘したい。先に挙げたライル、シェフ ラーらの指摘に基づくと、「知識」には以下の 3 種類があると整理すること ができ、また、それぞれの「知識」を「教える」という行為についても同様 の区別を提示することができよう(シェフラー 1987、生田 1992 参照)。
① 命題的知識:「AはBである」ということを知る :命題的知識を「教える」=知っている情報量を増やす
② 方法的知識:「Aの仕方」を知る(Aができる)
:方法的知識を「教える」=行動できる選択肢を増やす
③ 規範的知識:「Aであること」を知る
:規範的知識を「教える」=感覚・状態を変える
上記の整理は、人間の「知る」「知識」「知性」に対する捉え直しの一事例に すぎない。しかしながら、教育現場や教育実践を考える上で、「知」なるも のが包含する範囲を限定したり分離したりすることが持つ問題点は極めて重 要である。なぜなら、上記に示した通り、それは「教える」ことそれ自体の 限定や分離、より強く言えば「教える」の矮小化をもたらすからである。そ れゆえにこそ、「生と死」を考える上で対峙せざるをえない、情報の獲得や 心情の動きに還元しえない包括的な学びの可能性は、むしろ、既存の教育観 そのものの捉え直しとして検討する必要があるのである。
3. 「生と死」を学ぶ実践―体験・ディレンマ・他者
(1)「知育-徳育-体育」モデルのもつ問題点
前章において確認した「生と死」に関連する「わかる」に要する知識の捉 え直しは、その学びがいかに生起するか、という問いを提示する。「生と死」
に関する学びの実践を見る視点として、本章では体験を通しての学びとディ レンマを通しての学びについて論じていく。ここで注意が必要となるのは、
教育における「体験」の捉え方もまた、先にあげた二元図式の影響を受けて 成り立っている、という点である。こうした影響は、教育において「体験」
の重要性が強調されるような場合に明確に表れる。たとえば、以下のような 言説がある5)。
体験は学びの土台・出発点であり、五感を通して対象を知る体験的な活 動は、子どもたちの思考を活性化させ、学ぶことの喜びや意欲を生み出 すことにつながっていく(国立青少年教育振興機構 2010、11 頁)。
上記は学校教育における「体験」の重要性を指摘するものであり、その主旨 自体は有益な示唆となりうる。しかしその一方、逆に学校教育における「体 験」の在り方を限定する危険性も存在する。それは、「感覚(体験)が出発 点であり、その土台の上に思考(概念化、知性)が育まれ、それが実践(行 動、自己実現)につながっていく、というように3つを分類、分担して捉え ている」点であり、それゆえに「感覚と言語、身体と思考を分ける考え方」
が土台となっている点である(生田 2017)。この問題がもつ深刻さは、一 方では教育における「体験」がもつ効果や意義を強調し、他方では「体験」
を通した学びを「ただ体験させるだけの活動」へと陥らせる危険性を誘発す る点にある6)。
ここで、「体験」を通した学びを捉える視点として、ハワード・ガードナー の多重知能(Multiple Intelligences)の理論に着目する。ガードナーは、
人間がもつ知能は「多様な顕れをする」ことを指摘し、①言語的知能、②論 理数学的知能、③音楽的知能、④身体運動的知能、⑤空間的知能、⑥対人的 知能、⑦内省的知能、⑧博物的知能の 8 つに分類する(Gardner, 1999)7)。
たとえば、「身体運動的知能」は「体全体や身体部位を問題解決や創造のた めに使う能力」として説明され、ダンサー、俳優、スポーツ選手、工芸家な どに顕著な知能であるという。こうしたガードナーの指摘を踏まえると、特 に従来の教育言説における「知能」「知性」の見方が、「言語的知能」「論理 数学的知能」「博物的知能」に偏って論じられてきたことが明らかになる。
前章において論じた「知識」の問題と同様に、「知識ではなく体験が大事」「知 育も重要だが体育も重要だ」といった切り離しや付け加えの見方ではなく、
知のなかに体験を、体験のなかに知を見出すような、新たな知と体験の在り 方を模索することにこそ、「生と死」の学びの可能性があると捉えることが できるのである。
(2)『ブタがいた教室』にみる「生と死」の学び
教育現場における「生と死」の学びの実践として代表的なものに、「動物 を飼う」ことが挙げられる。なぜ学校にはウサギやニワトリなどの小動物が 飼育されているのか、「いきものがかり」のように子どもたちが小動物にか かわることが教育実践とみなされているのか、これらの問い自体が「生と 死」の学びの提示として様々な示唆を有している。なかでも特に、大阪府豊 能町立東能勢小学校における黒田恭史教諭の実践は、『ブタがいた教室』と して映画化もされ、広く知られている8)。この実践では、小学校 6 年生の 1 つのクラスにおいてブタを飼育し、最終的にはそのブタを食育センターに送 るかどうかを子どもたちが議論していく。そのプロセスにおいて、子どもた ちは、自分たちが「P ちゃん」と名付けたブタを食肉センターに送るのかど うか、という問いに対峙する。その過程でいかなる「生と死」の学びが得ら れるのかについては様々な議論があるが、ここでは特に、教師の働きかけの もとに「いのち」が提示される点に着目したい。
【問い2】 ブタの「P ちゃん」をどうするのが良いと考えますか?
また、その理由は何でしょうか。
① 自分が教師の立場だったら、食肉センターに送る・送らないどちら を選ぶか
② 自分が生徒の立場だったら、食肉センターに送る・送らないどちら を選ぶか(尾崎 2018b、一部改)
ここで、実際に問い②に対する受講生の回答を見てみると、教師の立場と生 徒の立場とでは「食肉センターに送る・送らない」という判断自体において はそれほど差が見られないものの、その理由において違いが見られる。
たとえば、生徒(子ども)の立場から考える場合、「P ちゃん」を食肉セ ンターに送る場合も送らない場合のいずれも、理由として挙げられるのは
「自分と P ちゃんとの関係性」である。「P ちゃんに愛情をもっているから食 肉センターには送らないと思う」「最初から P ちゃんは食肉センターに送る と決めていたのだから、そうするのが P ちゃんのためだと考える」といっ た回答にあるのは、命としての P ちゃんに向き合う姿勢である。一方、教 師の立場から考える場合は、「P ちゃん」よりも「子どもたち」に対する言 及がなされる。「子どもたちに最初に約束したのだから、P ちゃんを食肉セ ンターに送るべき」「P ちゃんを大切に思う生徒の気持ちを考えると食肉セ ンターには送れない」といった回答に顕れる姿勢は、あくまで「教える」と いう営みのなかで「いのち」へのかかわりを試みる、というものである。
ここで「体験」を通しての「生と死」の学びがもつ二面性を指摘できる。
肯定的な側面から見ると、「教える」という意図性のなかで「いのち」と触 れ合う機会が子どもたちに提示されることは、単に「やっただけ」で終わっ てしまう「体験」にとどまらないことを示している。それは、前述の知識-
体験という二元図式を超えるために、「体験を通した知識」を獲得する学び を生起させる可能性をもつ。ありていに言えば、子どもたちの「体験」を
「経験」へと昇華するための働きかけがなされうるという点を指摘できよう。
その一方で、教師の「教える」という意図性のなかで「いのち」と触れ合 う機会を提示することは、その意図性のなかに「生と死」を閉じ込めてしま う危険性を有している。ホリスティック教育の視点から河野桃子は、以下の ような「いのちの教育」への問題提起を、教職課程の学生への問いとして提 示している。
もしある豚が、「いのちの大切さ」を教えるという目的のために4 4 4飼われ、
殺されるとするならば、結局そのいのちまでもが、すべて人間の管理下 におさまった目的-手段関係のなかに埋め込まれてしまうことになる
(河野 2015、209 頁、傍点原著)。
河野の指摘は「生と死」の学びの実践がもつ複雑性を指摘すると同時に、当 該の学びが狭い意味での道徳教育や倫理の問題にとどまらないことを示唆し ている。それは、人間存在としての在り方そのものを問う上で、「いのち」
とどう向き合うかという問いが不可避なものであることを明確に指示するか らである。
上記の視点を踏まえると、「体験」を通しての「生と死」の学びが、自分 とは異なる存在として「いのち」を有する他者との対峙の問題であることが 明らかになる。なぜなら、『ブタがいた教室』の実践が提示する論点のひと つに、「ブタに名前をつけること」がある。そして、河野の指摘もまた、自 分以外の「いのち」を目的-手段関係のなかに埋没させること、すなわちそ の名前を奪うことへの警告として捉えることができるからである。
(3)「ハインツのディレンマ」にみる「生と死」の学び
それでは、「生と死」の学びにおける「他者」の存在をどのように捉える ことができるだろうか。ここで、道徳性の発達理論として取り上げられる、L. コールバーグの「ハインツのディレンマ」問題に対する、キャロル・ギ リガンの議論から手がかりを得ることができる9)。
【問い 3】 ハインツのディレンマ問題
あるところにハインツという男性がいました。ハインツの妻は病気でこ のままでは命が危ない状態です。しかし、ハインツには妻の命を助ける 薬を買うお金がありません。どうしても妻を助けたいハインツは薬を盗 むことにしました。
① あなたはハインツの判断をどう思いますか?
② あなたがハインツの立場であればどうしますか?(尾崎 2018b、
一部改)
コールバーグは、上記の問いに対する子どもたちの答えを 6 段階に分け、人 間の道徳性の発達モデルを著した。その際、最上位に置かれたのは「普遍的 原理」に基づく判断であった。これに対して、ギリガンは「具体的な人間関 係」をおく。それはつまり、「名前をもつ他者」との関係性であり、当該の
関係性に基づく「人間関係の力学を理解する段階」を、ギリガンは道徳性の 発達として最も高い段階として位置づけるのである(Gilligan, 1982, p.73:
邦訳 127 頁)。
ギリガンの指摘を踏まえると、「ハインツのディレンマ」問題が提示する ディレンマが二つの種類のディレンマを提示する問題であることが明らかに なる。ひとつは、従来指摘されてきたところの、「妻の生命を優先するか、
それとも法律を優先するか」といった、価値基準同士の間に生じるディレン マである。もう一つは、たとえば「生命を優先する」と判断する際にも、そ れが私の生命であるのか、一般的な他者の生命であるのか、それとも自分に とって重要な関係性にある「名前をもつ他者」の生命であるのか、という点 から生じるディレンマである。
ここにおいて、私たちは本論文の冒頭で論じた「わかる」ことの多層性の 問題に一つの応答を提示することができる。それはつまり、「生と死」に関 して「わかる」とは、自分にとって「名前をもつ他者」の獲得と喪失という 視点から形成される「わかる」であるということである。「名前をもつ他者」
との関係性を踏まえると、本論文の 2–(3)で提示した「命題的知識」「方法 的知識」「規範的知識」もまた、それが個人のなかで想定されている知識で あるのか、あるいは他者との関係において想定されている知識であるのか、
という検討を要することが明らかになる。端的に表現すれば、「生と死」の 学びがもつ意義は、人間にとって「わかる」ということを、個人のなかでは なく具体的な「名前をもつ他者」との間に生起するものとして再提示する点 にあると言えよう。
4. 「生と死」の学びが示唆する「わかる」
―「他者」に基づく「自己」
(1)「生と死」の学びからみる自律的・合理的判断
「生と死」の学びは「名前をもつ他者」との関係性を通して形成されると みなすと、人間の「わかる」ということそのものを、「名前をもつ他者」と の関係性から再定義する可能性が生じてくる。それは、特に近代の教育にお ける目的の一つとして自明視されてきた「自律的」「合理的」な判断として の「わかる」に対する捉え直しの要請である。この点について、アメリカの
教育哲学者であるジェイン・ローランド・マーティンは、人間の完全な自立
/自律という理想像に対する疑義を投げかけている。その際、マーティン は、小説『この生命誰のもの』の登場人物であり、自殺を選択したケン・ハ リソンの事例をあげる。
ハリソンは、首から下が麻痺してしまったために、五体満足な人にはご く簡単な仕事をするのにさえ他者に完全に依存しなければならない。(中 略)しかしそれにもかかわらず、彼は、自分が生き続けるべきかどうか4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 という最も重大な決定に関してさえ、他の人と同様の自己統治能力が自 分にはあるということを証明する(マーティン 2008、201 頁、傍点引 用者)。
マーティンがここで議論にとりあげるのは、ハリソンの自殺を選ぶという判 断の是非ではない。そうではなく、当該の議論でマーティンが指摘するの は、第一に、人間が「一人で自分のことを決定するべきである(権利をも つ)」という見方がいかに浸透しているかを指摘すること、第二に、それに もかかわらず、実際には人間の判断は自分以外の様々なものに「依存」して いるという点である。マーティンの指摘を踏まえると、人間が自分で判断す ることの前提として具体的な「名前をもつ他者」との関係性がある。それ は、人間が一人では何もなしえないといったような情緒的な描写を喚起する ものではなく、むしろ、人間が「名前のある他者」との複雑かつ包括的な関 係性に基づく判断や思考をするという、高度な卓越性としての「わかる」の 提示であるといえる。
この卓越性について、マーティンはノーベル生理学・医学賞を受賞した科 学者であるバーバラ・マクリントックの事例を提示している。
仕事が核心をついているときには、私はまさに染色体のなかに入り込ん4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 でいました4 4 4 4 4。私は染色体の一部だった4 4 4 4 4 4 4 4 4のです。……染色体が友だちのよ うに感じられたのは驚くべきことでした(ケラー 1987、117 頁、傍点 引用者)。
上記は、マクリントックが自身の研究について語った表現である。一見する
と単なる比喩として捉えられるマクリントックの言葉は、自然科学の文脈に おいてさえも自律的・合理的判断の再考あるいは拡大が必要であるというこ との証左である。それは、科学の実践に携わる人々にとっては日常的に経験 されるかもしれない思考であり感覚であるものを、「教育」の言葉として共 有可能なものにする試みを要請する。何ものかが「わかる」ということは、
その具体的な何ものかとの間に「何らかの関係性を結ぶ」ことである、とい う視点を得るとき、「わかる」ことは人間が人間として存在する上での―
世界のなかで「生きる」上での―基本的な営みであることが改めて強調さ れるのである。
(2)「生と死」の学びからみる「教える」
以上のような、「生と死」の学びから浮かび上がってくる「わかる」の在 り方は、「生と死」を「教える」の在り方にも必然的に転換を求めることに なる。再び、冒頭の【問い1】に戻ると、「いのちの大切さを教える」こと の困難さは、その結果の不明瞭さだけではなく、その過程(方法)の不明瞭 さにもあることを指摘できる。さらに、『ブタがいた教室』の実践に対する 河野の指摘が示すように、「いのちの大切さ」を意図的に「教える」こと自 体に対する適切・不適切の問題もまた、当該の「教える」を困難にみせてい る要因である。
しかしながら、ここで注意したいことは、上記の要因をもって「命の大切 さ」は教えることができない4 4 4 4、あるいは「生と死」については教えたり学ん だりするものではない4 4、という見方がもつ陥穽である。その陥穽とは、第一 に「生と死」に関することは教えられないと見なすことによって、実際には 様々な形で実践されてきたはずの「教える」形を見落としてしまうことであ る。また第二に、「教える」には「生と死」に関することは含まれないと見 なすことによって、「教える」という営みを過度に限定してしまうことであ る。そして最後に、「生と死」を「教える」「学ぶ」の文脈から切り離すこと によって、それが何らかの神秘的かつオカルティックであるものかのよう に、偏った見方を提示してしまうことである。
この陥穽を避けるためには、「生と死」を人がどのように継承してきたか、
という文脈を注視する必要がある。たとえば、近代以前の生活には、人々の
「生と死」がリアルにあった、とする言説は多数存在する。しかし、それは
自宅や村のなかで、つまりは子どもたちの生活のなかに、人が生まれたり死 んだりするシーンがあり、子どもたちがその「生と死」を見ていた、という ことにとどまらない。そうではなく、むしろ、その「生と死」に対して、子 どもたちにとって「名前をもつ他者」である大人たちが、いかに向き合っ ているかを子どもたちは見ていたのである。つまり、そこにある「生と死」
は、子どもたちから切り離された「生と死」ではなく、自分自身にとって必 然的な結びつきをもつ「生と死」であった。そして、そうした子どもたちと
「生と死」とを結びつけている大人たちの姿こそが、「生と死」を「教える」
営みであったとみることができるのではないだろうか。
子どもたちと「生と死」とを結びつけるような大人のかかわりが、「生と 死」を「教える」であると見なすならば、先に挙げた「動物を飼育する」こ との教育的意義もまた、その「動物を飼育する」こと自体に教師がどのよう にかかわるか、という点が極めて重要になってくる。それは、意図-無意図 という二者択一的な「教える」の在り方ではなく、文脈に埋め込む・埋め込 まれることで効果を発揮する「教える」の在り方である。この意味におい て、「生と死」の学びはいかなる時代・生活においても可能であると同時に 必要である、といえる。それは、当該の時代・生活にたいする参加者を養成 するための基本的な関係性の構築なのである。
5. おわりに―人間観そのものを広げる/転換する学び
本論文では、「わかる」の多層性に着目することで、「生と死」の学びがど のような意義を持ちうるかを「教える-学ぶ」の視点から論じてきた。その 過程において明らかになったことは、第一に、「生と死」の学びが、思考-
行為、精神-身体を包括する「わかる」の在り方を要請する点である。それ は、命題的知識、方法的知識、規範的知識のそれぞれに焦点を当てるだけで なく、知識と感情・感覚との結びつきに基づく「わかる」の在り方である。
第二に、「生と死」の学びは「名前をもつ他者」との関係性に基づく「わ かる」を示唆する点である。この意味において「生と死」とは、常に誰かの 生、誰かの死なのであり、その誰かには、私・あなた・みんなという、第一 人称・第二人称・第三人称のすべてが含まれる。つまり、「生と死」の学び は、人間が第一人称・第二人称・第三人称のそれぞれの在り方を獲得し、か
つ、私-あなた-みんなのそれぞれの関係性を構築するプロセスとして機能 するのである。
最後に、「生と死」の学びは、文脈に埋め込まれた営みとして「教える」
を展開・転換する可能性を示唆する。先に、思考-行為の包括性の示唆を指 摘したが、このことは決して思考そのもの、行為そのものの独自性を否定す るものではない。そうではなく、むしろ思考や行為がその文脈が求めると ころの卓越性に応じて、様々な顕れをする点に視点を向けることに、「生と 死」の学びは開かれている。この学びを生起させる「教える」の構築を試み るとき、例えばアクティブラーニングのような実践が前提する「アクティブ active」の捉え方をより明確に検討することが可能になると考えられるので ある。これらの実践への示唆について、より精緻に論じることが次なる課題 である。特に、「名前をもつ他者」との関係性がもつ特徴を明確にすること で、本論文で論じた「生と死」を学ぶことの意義をより明示することを次稿 において試みる。
註
1) 本論文は言語学的な検討には立ち入らない。ここでは、「教える」という行為が教 師の側の行為のみで成立するものではないことを示すことに主眼がある。そのた め、「理解する」という営みの検討については他稿に改める。
2) 本論文に取り上げる受講生の回答は、いくつかの授業・講座において提出された回 答から要素を抽出し、再構成したものである。そのため、特定の個人の回答の引用 ではない。
3) 教育における二元図式がもつ弊害を指摘する研究は枚挙にいとまがないが、ここで は「経験」のもつ意味を強調することで二元図式を批判するだけでなく実際に超え る教育理論・実践を提示した事例としてデューイに着目する。
4) 特に道徳教育において偏った心情主義に陥ることの危険性は様々に指摘されてい る。例えば松下 2002 を参照。
5) 本稿における指摘は、教育実践における体験活動の意義や効果それ自体を批判する ものではない。むしろ、学校現場における体験活動の意義や効果を適切に捉えるた めに必要な課題の提示として、知育-徳育-体育モデルの再考を求めるものであ る。
6) 「体験」を通した学びをより適切に捉えるためには、体験とことばとの結びつきを 捉えることが必要である。この点については、尾崎 2017 において詳述している。
7) ガードナーの理論に基づく教育実践は多数行われているが、大学教育においては以 下のものがある。有賀 2015 また、池内 2014 を参照。
8) 本実践の詳細については、黒田 2003 を参照。
9) ギリガンの提示する「ケアの倫理」がもつ教育学的意義においては、以下において も論じている。尾崎 2015a、尾崎 2015b。
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Significant Features of Learning about Life and Death
from the Perspective of a Multi-Layered Realm of “Understanding (Wakaru)”
by Hiromi OZAKI
The purpose of this paper is to examine features of learning about Life and Death (Sei to Shi in Japanese) through some theoretical perspectives from the field of philosophy of education.
In the field of analytic philosophy, Gilbert Ryle (1900-1976) analyzed two kinds of knowing and knowledge. These he called “knowing that” and
“knowing how”, and “knowledge of theory” and “knowledge of practice”.
Through such analysis, he attempted to describe the multi-layered realms of knowing and knowledge, as some people have a tendency to take a narrow view of these concepts, as well as of the concepts of teaching and learning.
The focus of this article is the significance of understanding Life and Death from the perspective of his multi-layered realm of “understanding” (wakaru in Japanese), which includes both knowing and knowledge.
In order to do this, I firstly discuss the difference between “tell/telling”
and “teach/teaching” based on the theory of Israel Scheffler (1923-2014).
Secondly, I examine some educational practices aimed at understanding the value of life, for example, the 2008 Japanese drama film “School Days with a Pig (Buta ga Ita Kyoushitsu),” and “The Heinz Dilemma,” focusing of the theory of Carol Gilligan (1937- ). In conclusion, I propose a new idea of un- derstanding about Life and Death based on one’s relationship with significant others presented by Jane Roland Martin (1929- ). Through this, readers have the chance to reconsider human cognition and an alternative model of an educational framework. Thus, a potentially more effective educational model for learning about Life and Death is proposed.