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チャイコフスキー・コンクールの政治力学 ──対外文化政策の一事例として──

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──対外文化政策の一事例として──

半 谷 史 郎

はじめに

 チャイコフスキー・コンクールは、フルシチョフ時代に始まった、ソ連初の 国際的な音楽コンクールである。その記念すべき第回は、195818日 から月14日まで、約カ月間にわたってモスクワで行われた。前年10月の 人工衛星スプートニク打上げ成功によって一躍、科学技術大国に躍り出たソ連 が、今度は自国の音楽技能の高さを世界に発信しようとしたのである。コン クール実行委員会の議長は、ソ連を代表する作曲家ショスタコーヴィチ。バイ オリンとピアノの部門のソ連人審査員にも、当代切っての名演奏家や著名作 曲家が綺羅星の如く名を連ねている。ソ連音楽界の主だった人々を総動員した この豪華な顔ぶれを見ただけで、コンクールにかけるソ連側の意気込みは明ら かだ。しかしコンクールの話題は、「敵国」アメリカから参加したピアニスト、

ヴァン・クライバーンに独占された。彼の演奏は聴くものを虜にし、熱狂的な クライバーン旋風が巻き起こった。ともあれ、逆説ではあるが、コンクール は、クライバーン優勝によって不動の名声を確立し、音楽大国ソ連の権威を高 めることに大きく貢献した。

 これまでチャイコフスキー・コンクールは、もっぱら音楽ジャーナリズムの 話題とみなされ(日本では、中村紘子のエッセイが特に有名)1)、学術研究か ら等閑視されてきた。しかし、近年、ソ連の文化政策が研究対象として注目を 集めているが(例えば、ロスペン社の「スターリンからゴルバチョフまでの文 化と権力」シリーズ)、コンクールも大きく言えば文化政策の一種とみなすこ とができるのではないか。もちろん、チャイコフスキー・コンクールは、ソ連

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国内で完結する通常の文化政策とは異なり、国際的な音楽コンクールという性 格上、ソ連の内向きの論理と衝突しかねない外的要素(外国人の参加者・審査 員の存在、対外的な国威発揚など)を含んだものとして考察する必要があるの は言うまでもない。

 以上のような問題意識を踏まえて、本報告ではチャイコフスキー・コンクー ルをソ連の対外文化政策の一事例として検討する。音楽文化を題材にして、フ ルシチョフ時代のソ連が外の世界とどのように向き合っていたのか、考えてみ たい。

 まず本論前半は、音楽ジャーナリズムの蓄積に基づいてコンクールの経過を 振り返る。クライバーンについての関係者の回想を引用しながら、コンクール が人々を興奮させた一大事件であることを確認したい。次いで後半は、文化政 策としてのチャイコフスキー・コンクールの検討に移る。公文書史料に基づい て、開催に至る経緯や運営の舞台裏を考察したい。特に、音楽を通じたソ連の 国威発揚の場で、敵国ピアニストの優勝を容認するに至った論理をたどること が中心となる。

1. 「クライバーンは、陰鬱な時代の暗雲に差し込んだ一筋の光明でした」

――記憶の中のチャイコフスキー・コンクール

 チャイコフスキー・コンクールは、月18日の開会式と記念演奏会で幕を開

けた。翌19日には、まずバイオリン部門から審査が始まる。ソ連側は、周到

な準備を重ねてコンクールに臨んでいた(事前の猛特訓は、スプートニク打ち 上げと時期が重なったせいか、宇宙飛行士の訓練なみの厳しさだったとの回想 が目につく)2)。その成果を遺憾なく発揮し、バイオリン部門はソ連勢の圧勝 に終わる。位のクリモフ、位のピカイゼンを筆頭に、上位人のうち人 をソ連勢が占め、実力の差をまざまざと見せつけた。

 番狂わせは、コンクール後半のピアノ部門でおきた。米国のヴァン・クライ バーンが、あれよあれよの快進撃を続けたのである3)

 ロシア人好みのロマンチックな演奏は、まず聴衆を魅了した。コンクールの 選考は段階で行われたが、早くも第次予選から、親しみを込めた「ヴァー

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ニャ」「ヴァニューシカ」の声援が客席から沸き起こる。第次予選から聴衆 の殺到が始まり、本選は入場できなかった数千人の人々が会場のモスクワ音楽 院大ホールを取り巻くほどだった。運良くホールに潜り込めた人々は、舞台に 花束を投げ入れ、贈り物を差し出し、演奏に熱い拍手を送った。また、テレビ とラジオの中継によって、クライバーン旋風は国中に広まっていく。

 一方、審査員の一部には戸惑いもあった。クライバーンの採点を低く抑え、

逆にソ連のピアニストに下駄を履かせる工作があったとの噂もある。こうした 裏工作に対抗するため、審査員だったリヒテルが採点規程を無視し、クライ バーンなど数名に25点満点、その他には零点をつけたという4)

 だが、クライバーンは、そうした小細工をものともしない、他を圧倒する抜 きん出た演奏を披露した。本選最後の曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第番 を弾き終えると、人々の興奮は頂点に達する。会場は審査員も含めて総立ちの 拍手喝采。「等賞」の掛け声が会場にこだまし、興奮した審査員の人が舞 台袖に駆け寄ってクライバーンと祝福の抱擁をする5)(本選はまだ日残って いた)。鳴り止まぬ拍手に応えて、コンクールでは異例のカーテンコールも行 われた6)

 このように、会場を埋めつくした人々は、誰もがクライバーンの優勝を確信 していた。にもかかわらず、芸術に容赦ない政治介入が繰り返されたスターリ ン時代の記憶が生々しいだけに、ソ連当局が本当にアメリカ人に勝ちを譲るの か、懐疑的な見方も一部に根強かった。音楽関係者のあいだでは、問題は最終 的にフルシチョフの裁可を仰いだと語り伝えられている。報告を受けたフルシ チョフは、「専門家は何と言っているのだ」と問い、クライバーンが最高の評 価を得ていることを確認すると、「では位にすればよい」と答えたという7)。 フルシチョフが文化関係の最終決定に関与した例はいくつか知られているが

(1962年のソルジェニーツィン「イワン・デニーソヴィチの一日」の雑誌掲載 許可8)1963年の第回モスクワ国際映画祭でのフェリーニ「8 1/2」へのグ ランプリ授与9))、クライバーンの位授与は、事実なら、その最も早い事例 だろう。

 クライバーンの優勝は米ソ両国で大きな反響を呼び起こしたが、仔細に見る

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と、その色合いには明確な違いがある。アメリカのクライバーン旋風は、「ア メリカ製スプートニク」とのクライバーン評があったことからもわかるよう に、ソ連に出し抜かれた宇宙開発の鬱屈を音楽分野で晴らし、溜飲を下げた側 面が強い。帰国した空港でのアイゼンハウアー大統領の出迎え、60万人を集 めたニューヨークでの凱旋パレードといった熱狂ぶりは、敵地での快進撃を成 し遂げた国民的英雄に対する喝采、敵の鼻を明かしてやったという冷戦下の政 治的な対抗意識の表れと見るべきだろう10)

 こうした米国の戦勝気分を単純に裏返せばソ連の敗北感となるが、ソ連側に そうした重苦しい空気はない。アメリカで出たクライバーン伝にはロシア人の インタビュー(実施時期は1991年〜92年)が数多く収録されているが、ロシ ア人の回顧談は、いずれも明るい幸福感に満ちている。「クライバーンは、陰 鬱な時代の暗雲に差し込んだ一筋の光明でした」11)。これは、クライバーンに 敗れてピアノ部門第位となったヴラセンコの言葉だが、人々の気持ちの素直 な代弁だろう。明らかに、スターリン時代との訣別が、幸福感を下支えしてい る。もう少し若い世代のピアニスト、ガヴリーロフ(1974年の第回チャイ コフスキー・コンクール優勝者)は「ペレストロイカが始まった時と同じ気持 ち」12)と喩えたが、言わんとすることは同じだろう。クライバーンは、重苦し いスターリン時代が過ぎ去って新しい幸福な時代が到来したことを告げる象徴 として記憶されているのである。

 スターリン時代との訣別を人々に実感させた要因は、まず何と言っても、ク ライバーンに対する公正な判断だろう。すでに指摘したように、誰もが優勝は クライバーンしかないと思いながら、土壇場での当局の横車を恐れていた。だ が、そうした懸念が杞憂に終わったことで、「自分たちの希望がとおることも あるのだ」という満足感を味わい、初めて民主主義を実感したのである(1952 年生まれのピアニスト、トラッゼの言葉)13)。また前述のガヴリーロフも、「政 治が少しはよくなる、指導者が賢明になり人々の苦しみを少しは和らげてくれ る」と、よく似た感想を漏らしている14)。芸術への恣意的な政治介入というス ターリン的な手法にようやく幕が下ろされた。こう実感できたことで、人々は より良い社会への変化を期待したのである。

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 またアメリカ人に人間的魅力を発見したことも、ソ連の人々に時代の変化を 強く感じさせたはずだ。

 戦後スターリン期のソ連は、冷戦の高まりもあって極端な愛国主義が跋扈 し、外国との些細なつながりすら政治弾圧の対象となる病的な排外主義がはび こった。こうした記憶がまだ生々しい1954年のことだか、スターリン死後は じめて西側のピアニストがモスクワで演奏会を開いた際、聴衆の中には「大 ホールに座って、資本主義の国から来た音楽家の演奏を聴くなんて、妙な気が しない?」と戸惑いを口にし、西側のピアニストを「別世界から来た神秘的な 生き物」のように感じる人もいたという15)

 だが、それから数年の後、アメリカ人が憧れの的になったのである。クライ バーンがレニングラードで優勝の記念公演を開くと、一目見ようと押しかけた ファンが宿泊先のヨーロッパ・ホテルを取り囲んで騒然となり、通り一本隔て た目と鼻の先のフィルハーモニー大ホールへ行くのに、裏口からこっそり車で 移動したとの逸話も残っている16)。テレビ中継でコンクールを観戦したピアニ ストのフェリツマン(1952年生)は、「ヴァンは、ロシア人が心を通わすこと のできた初めてのアメリカ人だった」と語っているが17)、体制の違いにかかわ りなく、同じ人間として共感できる対象が現れたことで、外国人を異質視する 心理的な「鉄のカーテン」に風穴があいたのである。効果としては、1959月のフルシチョフ訪米がアメリカ国民に与えた印象に近いかもしれない18)。  コンクールの閉幕レセプションで挨拶したフルシチョフは、アメリカ、ソ 連、中国のピアニストが上位に名を連ねたことを指して「これこそ平和共存の 理想像だ」と述べた19)。ソ連の人々がアメリカ人の演奏に酔いしれ喝采の拍手 を送るなど、スターリン時代には想像もできない光景である。これは、東西両 陣営が深刻な敵対状態にあったスターリン時代から、平和共存のフルシチョフ 時代へと国際環境が変化したことと切り離しては考えられまい。してみれば、

フルシチョフのこの発言も、単なる社交辞令の美辞麗句ではなく、一端の真実 を語っていたと言えよう。

 クライバーンは、音楽家として成熟することに失敗し、本国アメリカでは、

1970年代には過去の人として忘れ去られた。だが対照的にソ連では、明るい

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幸福な時代の象徴として輝き続けた。例えば、ニキータ・ミハルコフの映画

「五つの夜に」(1979年)では、クライバーンのコンクール優勝の映像が、

1958年を象徴する記号として使われている20)。また同じ79年製作の映画「モ スクワは涙を信じない」でも、1958年のモスクワを描いた第部に、「クライ バーンの切符が枚手に入ったんだ」と喜んで電話する声が聞こえる(21分 45秒〜2211秒)。一度引退したクライバーンが1989年に復帰公演を行った 時も、アメリカでの冷淡な反応とは裏腹に、「感傷旅行」の月のソ連公演は 多数の聴衆を集めた。ゴルバチョフ夫妻も演奏会に足を運んだという。ペレス トロイカが社会混乱を引き起こしつつあった頃であり、「クライバーンは束の 間、苦しみを忘れさせてくれた」との感想も聞かれた21)

 このようにソ連の人々にとって、クライバーンは閉ざされた社会に吹き込ん だ一陣の涼風として心に刻み込まれ、明るい幸福感を喚起する時代の象徴とし て長く命脈を保ち続けたのである。

2. 「クライバーンへの1位授与の決定は、ソ連の演奏芸術の権威を何ら損ね るものではない」――歴史としてのチャイコフスキー・コンクール 一 コンクールの開催経緯

 まずチャイコフスキー・コンクール開催に至る経緯から話を始めたい。コン クール実行委員会の記録22)が未調査のため、まだ仮説の域を出ないが、ソ連が 国際的な音楽コンクールの開催に踏み切った背景には、大きく言って二つの要 因があった。一つが国際コンクールの成績伸び悩み、もう一つがグリンカ生誕 記念祭の教訓である。順に見ていこう。

 ソ連の音楽界は、自国の国際的名声を高める機会としてコンクールを重視し てきた。このため、権威の高いコンクールへ派遣する場合、国内では時間をか けた入念な選抜が行われた。例えば、ショパン・コンクール派遣者を決める国 内選考は、各地の音楽院での選抜試験、全国レベルの本選と年近く時間をか け、「死闘」とも形容される厳しい選考だったという23)

 一方、派遣するコンクールの選択にも、冷徹な計算が働いていた。象徴的な 例を挙げよう。1954年初め、在イタリアのソ連大使館から同国で二つの国際

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コンクールが開催予定との情報がもたらされた。しかし、ソ連文化省は不参加 を決め、党文化部に事情を報告している。三点に要約されるその理由が、興味 深い。第一に、コンクールに冠された音楽家が、「三流どころの作曲家」(カ ゼッラ)や「イタリア国外では無名」のヴァイオリン教師(セラート)では、

コンクールの国際的権威が疑わしい。第二に、コンクールの審査員がイタリア 人主体で、ソ連人審査員は参加できないため、審査結果に「客観性」が期待で きない。そして第三が、イデオロギー的な反発である(「作曲家のカゼッラは 形式主義者で、かつてファシストに同調した人物」「実行委員会に反動的人物 が多い」)24)

 このうちイデオロギー的な拒否反応は、その後、国際コンクールを評価する 尺度から消えてゆく。おそらく、フルシチョフの平和共存外交が文化面にも浸 透した結果だろう。だが残る二点は、コンクール派遣の可否を判断する絶対の 基準であり続けた。コンクールが「ローカル」で「国際的な権威がない」は、

文化省が派遣の見送りを決める際の常套句である。また審査員にソ連人がいな いことを、「客観的評価に疑問」とあげつらう姿勢も変わらなかった。1957年 のジュネーブ国際コンクールは、その最たる例だろう。ソ連文化省は、ソ連人 を審査員に受け入れるとの情報を得て、当初は派遣に前向きだった。しかし

「政治圧力」によるソ連人審査員の排除が伝えられると、「審査結果が客観性を 欠く恐れがある」と一転して派遣取りやめを決定している25)。このような「客 観性」(含意は事実上のソ連びいき)への強いこだわりは、国外の審査にはソ 連に対する色眼鏡がつきものという固定観念にソ連当局がとりつかれていたか らだろう。

 選りすぐりの人物を権威あるコンクールに派遣して優勝させ、ソ連の名声を 高める。これがソ連のコンクールの基本戦略だが、1950年代半ば頃から成績 に陰りが見えはじめる。転機は、1955年の不成績だった。この年に開催され たショパン、エリザベート王妃、ロン = ティボーの三大コンクールで、ソ連 勢はすべて優勝を逃した。1955年の国際コンクールの結果を総括した党文化 部は、かつてのように国外のコンクールで間違いなく位を占める状況でなく なった、「全体水準が落ちている」と警鐘を鳴らし、関係者を招集して対策会

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議をひらく。ソ連国内での準備の手抜かりや外国の審査員の身びいきの影響

(特にショパン・コンクールとロン = ティボー・コンクールが槍玉にあがった)

などが原因として指摘されたが、とりわけ要望が強かったのがソ連人審査員の 強化だった。芸術的権威とソ連人参加者の擁護とを両立できる有力な審査員を 送り込み、現地の世論を動かす。これが成績回復の即効薬として期待され た26)

 このようにソ連当局の見方には、審査員の人選がコンクールの結果を左右す るとの発想が強く感じられる27)。ソ連音楽界の国際的名声を高めるには、国際 コンクールで成果を挙げなければならないが、国外で開催されるコンクールは ソ連勢に対する「客観的評価」に疑問の余地が残る。ならば、国際的に権威あ るコンクールをソ連国内で行って、このジレンマを解消してはどうか。こうし た形でチャイコフスキー・コンクール開催へと議論が盛り上がっていったので はないか。これが、筆者が考える第一の推論である。

 もう一つの契機、グリンカ生誕記念祭の教訓は、話が少し入り組んでいる。

 グリンカは「ロシア国民音楽の父」と呼ばれる作曲家だが、1954年 日が生誕150年の記念日にあたっていた。しかし、この記念日は直前まで忘れ られていた節がある。文化省から党に記念行事の細目が報告されたのは、記念 日を目前に控えた11日だった(党文化部は17日付で提案を承認)28)。 音楽学者のサクヴァが、記念日の日にマレンコフ首相に送った手紙の中 で、「やっとグリンカ生誕150周年記念委員会の設立の知らせに接することが できた」と書いていることも傍証になろう29)

 グリンカ生誕記念祭で興味深いのは、記念行事の内容をめぐる議論である。

党文化部は、11日付の文化省提案を大筋で受け入れたが、「提案はソ連国 外での社会的反響を考慮していない」と注文をつけた。そして、グリンカの名 を冠した国際コンクールの開催を提案している。1957年月15日がグリンカ 没後100年にあたることから、開催は56/57年度でどうかとも付言していた30)。  グリンカ記念行事としての国際コンクールは、決してとっぴな発想ではな い。先のサクヴァのマレンコフ首相宛ての手紙にも、記念行事をもっと盛大に 行うべきだとして、秋の記念コンクール開催が一案として提言されている。サ

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クヴァは作曲家顕彰の手本を1950年に東ドイツで行われたバッハ没後200年祭 に仰いでおり、このバッハ記念祭でコンクールが開催されたことが提案のヒン トになったのだろう。グリンカの名を冠した国際コンクールは、東欧の先例を 思い出せば、必然的にたどりつく発想だった(戦前からあるショパン・コン クールも当然念頭にあったろう)。

 サクヴァ提案の検討を命じられた党文化部は、文化省の提案とあわせて没後 100年の記念行事に盛り込むべく、生誕150周年記念委員会に重要議題として 検討させることを決定した31)

 こうしてグリンカ生誕記念祭の対応遅れから三つの教訓が引き出された。記 念年の顕彰、外国向けの発信、記念行事としての国際コンクールである。この うち記念年の顕彰は、重要な記念日を見落とさないため、年鑑「音楽カレン ダー」の創刊へとつながった。手始めの『1957年度音楽カレンダー』には、

もちろん月15日のグリンカ没後100年も採録されている32)。また外国向けの 発信も、1957年のグリンカ没後100年祭の記念行事を見ると、格段に強化され ている。没後100年祭は、1956日のソ連閣僚会議決定で設置された記 念委員会によって盛大に祝われたが、世界平和委員会と連携しながら、世界規 模で記念行事を行ったり、グリンカの評伝や宣伝写真の世界的な普及に努める など、国外発信にも目配りが行き届いている33)

 しかし最後の記念行事としての国際コンクールだけは、実施された形跡がな い。ここから先は筆者の仮説だが、グリンカ記念国際コンクールの構想は、先 述の国際コンクールの成績不振を受けた「ソ連で国際的権威あるコンクール を」との願望とあいまって、チャイコフスキー・コンクールに発展解消したの ではないだろうか。状況証拠はそろっている。「チャイコフスキー・コンクー ルは、1956年の政府決定で準備が始まった」(『1978年度音楽カレンダー』「 月18日、チャイコフスキー・コンクール開催から20年」)34)と言われるが、国 際コンクールの成績不振を取り上げた先述の党文化部の報告書が195510月、

グリンカ没後100年記念委員会の設置が1956月なので、辻褄は合う。また 1957年のグリンカ没後100年祭、その翌年のチャイコフスキー・コンクールと いう順番とも、矛盾はない。

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 問題は、国際コンクールの冠がなぜグリンカからチャイコフスキーに変更さ れたかである。まず純音楽的な観点から言えば、レパートリーの問題が見逃せ ない。コンクールの冠に戴いた作曲家の作品を課題曲に指定するのは自然な発 想だが、グリンカにはそもそもバイオリン協奏曲やピアノ協奏曲がない。これ は致命的だ(チャイコフスキー・コンクールは後にチェロと声楽の二部門が増 設されるが、チャイコフスキーならこの両部門にも課題曲に指定できる名曲が ある)。また、グリンカは「ロシア国民音楽の父」ではあるが、一般的な知名 度や作品の人気はそれほど高くない。「国際的権威あるコンクール」が求めら れているのに、グリンカでは肝心の国際的な求心力に欠けるのである。このた め、外国人も納得できるロシア音楽のシンボルはチャイコフスキーこそ相応し い、という判断が働いたのではないか。その証拠に、ミハイロフ文化相は、

チャイコフスキー・コンクールの開会式で次のように述べている。「チャイコ フスキーは最も敬愛される作曲家である。だからわが国最初の国際コンクール にその名を冠したのだ。チャイコフスキーの作品は、深く民

ナ シ ョ ナ ル

族的でありなが ら、その一方で人間性にあふれ喜びに満ちた民

イ ン タ ー ナ シ ョ ナ ル

族を超越する存在である。誰に もましてチャイコフスキーは世界の音楽文化と結びついている」35)

 このように、ソ連は、国外の「客観的評価」に対する不信感と自国文化の対 外発信の意欲をきっかけに、国際コンクールの開催に踏み切ったのである。

二 コンクールの運営

 すでに述べたように、チャイコフスキー・コンクールはソ連で初めての国際 コンクールである。このためソ連側は、これまでの国際コンクールの形式を出 来る限り踏襲し、権威あるコンクールとして国際的に認知されるよう腐心して いる。とはいえ第一の関心事が国威発揚にあったのも否定できない。

 審査員の人選は、コンクールの帰趨を決める大問題である。自国開催の利点 を生かしたソ連人演奏家の「客観的評価」(露骨に言えば、自国有利の裁定)

への期待は高かった。党文化部の1958年日付の報告書は、審査員は「ソ 連人演奏家に対する好意的・客観的態度」を基準に選んだと明言している。ま たコンクールの権威を高めるため、著名審査員の獲得も重視された。前年

(11)

月、文化省から審査員候補の素案を示された党文化部は、文化省案を「人選が 不十分」と批判し、「外国の著名演奏家が候補に入っておらず、これではコン クールの権威を落としかねない」とくさしている(党文化部は代わりの招聘候 補として、ハイフェッツ、シェリング、フランチェスカッティなどを列挙し た)。なお審査員は、ソ連・社会主義国・資本主義国に各々三分の一づつ割り 振るやり方を採った。先の58月の報告書には、この配分は「国際コンクー ルの実情を考慮した」と記されている。西側では、東側陣営が審査員の三分の 二を制する不当な配分と評判が悪いが、モスクワの論理では、外国の先例に 倣った決定だった36)

 ちなみにコンクールでは、審査員のほかに、世界25カ国から来賓が招待さ れた(日本からの招聘候補は作曲家の山田耕筰だったが、最終的に音楽評論家 の山根銀二に変更)。党文化部の報告書には、文化省から「来賓招待はこの種 のコンクールの慣習」と説明を受けたとある。馴染みのない外国の慣習に戸惑 う党官僚の様子が目に浮かぶが、大勢に影響のない瑣末なことなので不問に付 されたようだ37)

月18日の開会式も、事例として興味深い。党文化部は、事前に提出され た式次第の文化省原案について、二点の修正を命じた38)

 一つは、開会の辞である。文化省は、「外国では、コンクール開幕の挨拶は 開催地の市長が通例」との理由で、モスクワ市ソヴィエト議長のボブロヴニコ フに開幕の辞を割り振っていた。しかし議長本人が固辞したため、党文化部 は、ミハイロフ文化相を代役に指名する。ボブロヴニコフは結局、モスクワ市 民の代表として、来賓挨拶の中で祝辞を述べるに留まった。ソ連の市ソヴィエ ト議長は、いわばお飾りの役職で、西側の市長のような政治権限を持たない。

文化官僚は国際コンクールの瑣末な慣習を機械的に踏襲しただけだが、当のモ スクワ市ソヴィエト議長は、国の威信をかけた一大行事の大役を任されそうに なって面食らったのである。

 もう一つは、記念演奏会の人選である。開会式は、一連の式辞に続いて、

チャイコフスキーの作品を並べたオーケストラ・コンサートを行うことになっ ていた(プログラムは、交響曲第番、ソリストを迎えた曲目、イタリア奇想

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曲)。このうち、党文化部はソリストに難色を示した。モスクワ音楽院在学中 のソプラノ歌手ミラシキナと「衰えの目立つ」チェロ奏者クヌシェヴィツキー

(この時50歳)では「不十分」と指摘し、「演奏家の強化」を命じたのである。

結局、当日のソリストは、ボリショイ劇場の看板バス歌手ペトロフと絶頂期の ピアニスト、ギレリスに差し替えられた。特に後者は、ピアノ部門の審査委員 長がコンクール課題曲のピアノ協奏曲第番を弾く事態になった。そもそも記 念演奏会のソリストを歌手とチェロ奏者にしたのは、コンクールの実施部門と 重複しないための配慮だったはずだ。チェロ奏者を売り出し中の若手ロストロ ポーヴィチに変更することも検討されたようだが、最後は、開会式でピアノ部 門審査委員長が「模範演奏」を披露することになった。露骨なやり方だが、自 国の演奏技術の高さをアピールするという点では、たしかに絶好の機会だっ た。ソ連当局が、国威発揚の場としてのコンクールにこだわっていたことを如 実に物語るエピソードである39)

 このように、チャイコフスキー・コンクールの運営は、国威発揚の観点と切 り離して考えることはできない。審査員の人選は典型例だし、開会式の記念演 奏会も同様である。来賓や開会の辞といったコンクールの帰趨とは無縁の瑣末 な点では、外国の先例を無条件に踏襲しているが、国威発揚に資するものに は、強いこだわりが見られた。

三 コンクールの審査

 前述のように、コンクール前半のバイオリン部門は、ソ連勢が圧勝的な力の 差を見せつけた。しかし、これは手放しで喜べることではなかった。まず、本 選に残る最終人の枠すべてをソ連勢で独占しかねない勢いだったため、コン クールの国際性を保つために、急遽、両部門とも本選出場枠を12人に拡大し た(バイオリン部門のファイナリストは、次予選の採点結果の都合で13人)。

さらに、「外国人バイオリニストの入賞が人、人では、コンクールの結果に 国外でつまらない憶測が飛びかねない」との意見が審査員から出たため、ミハ イロフ文化相は、賞の追加を党側に打診している。さすがの党文化部も、この 提案には良い顔をしなかった。バイオリン部門の参加者24人のうち、「半分が

(13)

入賞」となっては「高水準のコンクールに傷がつくのは必至」だったからであ る。このため党文化部は、位までに入賞できなかった本選出場者は「入選」

почетный диплом)扱いが妥当だろうと回答した。最終的に、位までが当初 規定どおりの「入賞」(記念メダルと賞金)、入賞から漏れた残る本選出場者が

「入選」(級と級に区分、賞金あり)となったのに加えて、次予選敗退者 にも「記念賞」(почетная грамота、賞状のみ)を与えることになった40)。  国威発揚に資するというコンクールの目的から言って、ソ連人の優勝が求め られたのは当然である。それでも国際コンクールと銘打つ以上、ソ連勢の賞独 占がコンクールの権威を損なうことはわきまえていた。別な言い方をすれば、

ソ連の中心性を前提とした上で、国際性に配慮する必要があったのである。表 彰状の大盤振る舞いは、「コンクールのレベルの高さの反映」(ミハイロフ文化 相の総括報告)と言うより、外国に開かれたコンクールを演出する配慮と見た い。

 しかしピアノ部門では、アメリカ人のクライバーンが独走し、ソ連の中心性 が脅かされる事態が生じる。バイオリン部門では、ソ連勢の絶対的優位が揺る がないだけに、ソ連当局もまだ鷹揚に構えていたが、ここに至って真剣な対応 を迫られる。

 クライバーンの本選演奏の翌日の12日、カフタノフ文化次官が党中央 委員会に対して、クライバーンへの位授与を答申する部外秘の至急報告を提 出した41)。言わずもがなのことだが、こうした報告書の提出そのものが、クラ イバーン優勝に対する少なからぬ困惑の証明になっている。

 まず報告書は、クライバーンが予選から一貫して抜きん出た実力を発揮し、

聴衆も審査員も彼の才能を高く評価したと指摘する。外国の審査員からは、特 例としてクライバーンに「大賞」を授与すべきだとの意見も出たという。ま た、審査員やソ連の有力音楽家が口をそろえて「クライバーンへの位授与 が、最も公正な結論」と述べ、審査委員長のギレリスは「位をクライバーン とヴラセンコで分け合うことすら、公正さを欠く」と語ったとも記している。

こうした発言は、関係者の間でソ連人の優勝(おそらく本命はヴラセンコ)が 暗黙の了解事項だったこと、にもかかわらず、クライバーン独走でシナリオが

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狂ったことをうかがわせる。

 また審査の公正さに疑問の声が出て、話はいっそう混乱した。報告書は、次 のように記す。クライバーンの演奏が「客観的に評価されないかもしれない」

との噂が一部でささやかれている。こうした疑念は外国人審査員にも広まって おり、クライバーンを位に押し上げるためなら、公正さを二の次にして、ソ 連勢に意図的に低い点をつける可能性もある。このように、審査の公正さが損 なわれることを当局は強く危惧していた。

 そこでソ連文化省はクライバーンへの位授与を党中央委員会に答申した。

興味深いのは、その理由付けの部分である。

  クライバーンへの位授与の決定は、ソ連の演奏芸術の権威を何ら損ねる ものではない。バイオリン部門ではソ連勢が上位を独占したし、ピアノ部門 でもヴラセンコが位になると思われる。

  こうした決定は、世界の音楽界で賞賛の声を呼び起こし、チャイコフス キー・コンクールの権威をいっそう高めることだろう。

 クライバーンの快進撃をうけて、文化官僚は発想を転換した。ソ連人優勝を 強要すれば、コンクールの公正さを疑問視する「外」の厳しい批判は避けられ ない。せっかく自国開催した国際コンクールの権威に傷がつくだけでなく、ソ 連の演奏芸術に対する不当な審査をはびこらせ、「客観的評価」を確立するこ ともできなくなる。偏狭な自国優先は逆に自国の権威を貶める。ソ連人の優勝 だけがソ連の国威発揚をもたらすと考えていたが、むしろ外国人に勝ちを譲る 方が自分たちにプラスに働く。こうしたいわば「負けるが勝ち」の判断に立っ て、文化官僚はクライバーン優勝を決断したのである42)

 なお、まことしやかに語り伝えられるフルシチョフの英断だが、管見の限り では、これを裏付ける証拠はない。カフタノフ次官の報告書は、ファイルの綴 じ込み先が党文化部でなく党総務部だったので、通例の処理ルートである党文 化部を飛び越えて、党の幹部が直々に目を通したと思われる。しかし、報告書 の書き込みには「フルツェワ書記に報告」とあるだけで、フルシチョフの決裁

(15)

は確認できない。またフルシチョフの回想録にも相応する記述は確認できな かった43)。現在の史料状況から言えるのは、クライバーンへの位授与は党幹 部の承認の上で行われたこと、党幹部の中ではフルツェワ書記がこの問題に関 与していたことまでである44)

 ともあれ、クライバーンへの位授与は、文化次官の予想どおり、チャイコ フスキー・コンクールの国際的名声を定め、音楽大国ソ連の地歩を固める大き な一助になった。また人々にスターリン時代が過去のものになったことを実感 させ、明るい幸福感を印象付けることにもなった。コンクール成功を高らかに 歌い上げたミハイロフ文化相の閉幕挨拶は、そうした好結果を生み出したこと への自信に満ち溢れている。「チャイコフスキー・コンクールは世界の芸術生 活の一大事件だったと確信を持って言うことができる。この間、モスクワは、

チャイコフスキーの音楽を通じて、ふたたび音楽芸術の中心地になった」45)

四 コンクールの総括

 チャイコフスキー・コンクールは、そもそも開幕前から評判が高かった。国 外からは「インツーリストに期間中の訪ソの問い合わせが相次ぎ」、国内も

「首都の団体(工場、文化施設、学校)から見学申し込みが毎日のように届く」

状況で、当局も手ごたえを感じていた46)。だが蓋を開けてみると、盛り上がり は予想をはるかに上回った。このためミハイロフ文化相は、早々にチャイコフ スキー・コンクールの定例化をぶち上げた。まだバイオリン部門の次予選も 終わらない月22日、党文化部に意見書を提出し、コンクールを今後も定期 的に開催し、年に度の恒例行事化すること、実施部門も拡大し、チェロ、

声楽、指揮者を加えることを提案する。こうすることで、「古典ロシアやソ連 の音楽芸術を国外で大々的に宣伝する後押しとなろう」と考えたのである47)。 党文化部は、この性急な提案に戸惑ったようだ。コンクール定例化に原則同意 しつつも開催間隔は後日再検討すると即答を避け、また実施部門の拡大は「 部門の同時開催は非現実的、世界にも前例がない」と却下した(29日付 の報告書)48)。結局、月15日のコンクール閉幕レセプションで、コンクール を年に度、定期開催することがミハイロフ文化相から発表された49)

(16)

 ミハイロフ文化相は、コンクール総括報告書を月22日に党へ提出した50)。 報告はまずコンクールの結果について、ソ連のバイオリン楽派は「世界最強」

であることを示したし、ピアノ部門はアメリカ人のクライバーンに優勝をさら われたが、その師匠(亡命ロシア人のロジーナ・レヴィン女史)がモスクワ音 楽院の卒業生なので、「つまるところ、彼もロシア・ピアノ楽派の門下生だ」

と強弁した。チャイコフスキー・コンクールは、ソ連側が自己中心的な姿勢を 抑えることで国際的権威を勝ち得たわけだが、成功裏に閉幕した後は、そうし た姿勢は後退し、再び国威発揚の場としてのコンクールが前面に出てきた印象 を受ける。

 続いて報告は、今後の巻き返しのために様々な問題点を指摘する。ソ連の演 奏家が技術偏重で個性に乏しいこと、音楽教育に欠陥が多いこと(才能のある 若者は国中にいるのに、地方の音楽院は教員が能力不足、首都の音楽院は有名 教授が教育を助手任せで、育成が低調)、国内外での無計画な演奏活動が学生 の成熟を妨げていることなどが、原因として列挙された。そのうえで、チャイ コフスキー・コンクールを頂点とする国内コンクール制度の体系化の必要性を 強調する。久しく行われていなかった連邦コンクールを復活させるだけでな く、共和国や地域(中央アジア、ザカフカス、バルト)単位のコンクールも整 備して、コンクールを通じた体系的な才能発掘システムを確立する。さらに国 外コンクールも、量より質を重視して参加を絞り込み、成績アップを目指す、

とした。このため国内外のコンクールを管轄する専門組織の設立も提案してい る。

 こうしてコンクールは、音楽を通じた対外発信、いわばソ連の音楽大国化の 中核政策に位置づけられるようになった。時にコンクール・マニアとも揶揄さ れたソ連のコンクール重視の体質は、チャイコフスキー・コンクールの成功を きっかけとしている。例えば、ミハイロフ文化相は1958年10月、グリンカ国 際声楽コンクールの新設を提案した。1960月に第回を開催し、以後 年に度づつ、チャイコフスキー・コンクールと隔年で行うというのである。

党文化部は、ほぼ毎年コンクールの準備に忙殺される煩雑さや国際コンクール の多額の出費(第回チャイコフスキー・コンクールは160万ルーブルを要し

(17)

たという)を理由に、承諾を渋った。しかしこの提案は結局、グリンカ連邦声 楽コンクールとして196012月に実現する51)

 コンクール重視の方針が定まったにも関わらず、その後、コンクールの成績 が急激に好転することはなかった。党文化部は、コンクールの成績低迷に警鐘 を鳴らす報告書を毎年のように提出し(1959年月17日付、1960年日 付)、文化省に原因追究と対策のとりまとめを指示している52)

 だが音楽の才能は長年の教育の積み重ねによって花開くものである以上、上 からの命令一つで、外国でのコンクールの成績が簡単に上向くはずもない。即 効性のある手段として、自国開催のコンクールで目先の成果を挙げることに目 が向くのは自然の流れだ。第回チャイコフスキー・コンクールでは、ピアノ 部門の栄冠を外国人から奪還するため、有望視されたアシュケナージに当局の 強い圧力が加わったという53)

 チャイコフスキー・コンクールの実施部門の拡大も、そうした国威発揚の試 みの一つだろう。第回コンクールの最中に文化相から提起された実施部門の 拡大は、ひとまず党文化部がストップをかけたが、その後なし崩しに進行し、

回(1962年)でチェロ部門が、第回(1966年)で声楽部門が新設され、

部門体制の世界でも有数の巨大コンクールが誕生する。ちなみに声楽部門の 増設は、196212月のフルツェワ文化相提案を受けたものだが、この時の提 案には弦楽四重奏部門の新設も盛り込まれていた。しかし、参加者急増が運営 を難しくするとの理由で却下されている(実際、コンクールの参加者は第回 の21カ国62人が、第回は31カ国131人に増加し、第回も300人強の参加者 が予想されていた)。ともあれ、文化相が提案書の中で「ソ連にはこれら分野 に優秀な演奏家がたくさんいる」と述べていたように、コンクール開催部門の 拡大は、自国の演奏技術の高さを世界に発信する重要手段と位置づけられてい たのである54)

おわりに

 ソ連初の国際コンクールの企画は、国外コンクールでソ連人演奏家が「客観 的評価」を得られない不満から始まっている。そこに対外的な文化発信の思惑

(18)

も重なり、東独のバッハ記念祭を手本に、国際的に知名度の高い「最も敬愛さ れる作曲家」チャイコフスキーの名を冠したコンクールが誕生した。

 チャイコフスキー・コンクールでは、ソ連の国威発揚の観点から、ソ連人の 優勝が暗黙の了解事項になっていた。しかしアメリカ人のクライバーンが他を 圧倒する演奏を披露し、目論見が外れる。文化次官がクライバーン優勝への同 意を求める意見書を党に提出しているように、当局側に戸惑いがあったのは確 かである。だが、目先の偏狭な自国中心主義にこだわるより、外国人の才能を 公正に評価する方が、むしろコンクールの権威を高めることにつながるとの判 断が下された。かつて外国の審査員をイデオロギーで拒絶したり、外国のコン クールに「客観的評価に疑問」と難癖をつけていたのとは、大きな様変わりで ある。

 チャイコフスキー・コンクールは、ソ連の音楽風景も一変させた。モスクワ の聴衆は、戦後スターリン期の記憶が生々しい間は西側のピアニストによそよ そしく、「別世界から来た神秘的な生き物」のように接したこともあった。し かし、チャイコフスキー・コンクールではクライバーンを熱狂的に歓迎し、憧 れの対象に祭り上げた。わずか数年で、まさに隔世の感がある。

 文化省の官僚がクライバーン優勝への戸惑いを克服できたのも、ソ連の人々 が外国人に開放的に接することができたのも、大きく言えば、フルシチョフの 平和共存論と切り離しては考えられまい。資本主義国の異質視や猜疑が後景に 退いたからこそ、体制の違いを超えた公正な競争が可能になったし、人々は外 国人への憧れを屈託なく表現することができたのである。

)中村紘子『チャイコフスキー・コンクール:ピアニストが聴く現代』(中央公論社、

1988年)、同『コンクールでお会いしましょう:名演に飽きた時代の原点』(中央公 論新社、2003年)。中村は、1982年から計回、審査員としてチャイコフスキー・コ ンクールにかかわった。次の金子一也も、コンクール関係者である(第12回チャイ コフスキイ・コンクールの予選会を兼ねた2002年の「日本チャイコフスキー・コン クール」実行委員長)。金子一也『チャイコフスキー・コンクール:神話の終焉』(早 稲田出版、2004年)。欧米文献では、クライバーンの伝記を挙げておく。Howard

(19)

Reich, Van Cliburn. (Thomas Nelson Publishers: Nashville, 1993). このほかチャイコフス キー・コンクールに言及した音楽関係者の回想は数多く存在するが、これは以下の叙 述で適宜引用する。

)中村紘子『コンクールでお会いしましょう』、62〜63頁。ガリーナ・ヴィシネフス カヤ『ガリーナ自伝:ロシア物語』(みすず書房、1987年)、260〜261頁。

)クライバーンは全くのノーマークだった。ソ連文化相が日付の報告書で挙げ た注意すべき外国の有力候補に、彼の名前はない。РГАНИ, Ф. 11, Оп. 1, Д. 243, Л. 59.

)ソ連文化相のコンクール総括報告によると、リヒテルは第次予選の審査で、名 に満点、その他に零点をつけた。本選でもこの満点/零点方式で採点しようとした が、周囲の説得で通常の採点方式に改めた。РГАНИ, Ф. 5, Оп. 36, Д. 71, Л. 19; Афиани В.Ю. (отв. редактор), Аппарат ЦК КПСС и культура. 1958‒1964: документы. М., 2005.

С. 52. なおリヒテル本人は、満点をつけたのは人だったと後年になって語っている。

ブリューノ・モンサンジョン『リヒテル』(筑摩書房、2000年)、102頁。

)クライバーンの回想では、抱擁の相手はピアノ部門審査委員長のギレリスだが、ソ 連の公式記録ではイギリスの審査員アルトゥール・ブリスとなっている。РГАНИ, Ф.

5, Оп. 30, Д. 280, Л. 68; Афиани, Аппарат ЦК КПСС и культура. С. 47.

Reich, Van Cliburn. pp. 106‒116; ドミトリ・パパーノ『回想・モスクワの音楽家たち』

(音楽之友社、2003年)、178〜181頁。

Reich, Van Cliburn. pp. 116‒118.

)木村浩の邦訳解説を参照、ソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』

(新潮文庫、1963年)、213〜214頁。トワルドフスキー編集長がフルシチョフに掲載 許可を求めた手紙は、次の史料集に採録。Афиани, Аппарат ЦК КПСС и культура. С.

531‒532.

)息子セルゲイが、別荘で試写を見る父フルシチョフの姿を目撃している。セルゲ イ・フルシチョフ『父フルシチョフ:解任と死』(草思社、1991年)、上巻、303〜

305頁。

10) Reich, Van Cliburn. pp. 129‒131; 中村紘子『チャイコフスキー・コンクール』、19〜

23頁。

11) Reich, Van Cliburn. p. 110.

12) Reich, Van Cliburn. p. 117;ガヴリーロフは1955年生まれなので、クライバーン旋風

の直接の記憶があるとは思えない。また、ソ連崩壊前後というインタビュー時期も、

発言内容に少なからぬ影響を与えているだろう。以下、本論で若い世代のピアニスト の発言をいくつか引用するが、時代の雰囲気を直に伝える証言ではなく、ソ連の音楽 界に伝わる噂話を、ソ連崩壊前後の時代状況を投影させながら語りなおしたもの、と

(20)

して取り扱う。

13) Reich, Van Cliburn. p. 127.

14) Reich, Van Cliburn. p. 110.

15)パパーノ『回想・モスクワの音楽家たち』、140頁。

16)Лебина Н.Б., Чистяков А.Н., Обыватель и реформы: картины повседневной жизни горожан. СПб, 2003. С. 253‒255.

17) Reich, Van Cliburn. p. 112.

18)和田春樹「フルシチョフ時代」、和田春樹ほか編『ロシア史』(山川出版社、1997 年)、350〜351頁。チャイコフスキー・コンクールに参加したアメリカ人も、モスク ワでロシア人の人間味に初めて接したとの感想を漏らしている。しかし、これはごく 少人数の体験に留まり、「戦勝気分」に沸くアメリカ国内で広く共有されることはな かった。Reich, Van Cliburn. pp. 103‒105.

19) Reich, Van Cliburn. p. 136.

20) 2006年に東京で開催された「ロシア・ソビエト映画祭」で上映。梅津紀雄氏より

情報提供。作品解説は、http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2006‒07/kaisetsu_22.

html (最終確認2014年11月日)

21) Reich, Van Cliburn. pp. 328‒339. 引用は、p. 335.

22)公文書館の目録によると、モスクワ・フィルハーモニー協会のファイル(РГАЛИ, Ф. 2922)に関連文書が残されている。

23)パパーノ『回想・モスクワの音楽家たち』、110〜112頁、126〜133頁。パパーノは ショパン・コンクールの国内選考に1949年と1954年の度参加したが、スターリン の死後は、KGBによる非音楽面の素行調査(家族親族の逮捕歴など)が緩やかになっ たという。

24)РГАНИ, Ф. 5, Оп. 17, Д. 494, Л. 65‒68.

25)ジュネーブ国際コンクールの顛末は、РГАНИ, Ф. 5, Оп. 36, Д. 46, Л. 32‒38. その他 のコンクール不参加の決定は、РГАНИ, Ф. 5, Оп. 17, Д. 494, Л. 94‒95, 157‒163; Д. 545, Л. 95‒99.

26)党文化部の1955年10月日付報告書。РГАНИ, Ф. 5, Оп. 17, Д. 545, Л. 209‒211.

27)特にソ連文化省が審査員の影響力を重視していたようだ。後年、党文化部は同じく コンクールの成績不振を取り上げた1960年月の報告書で、「文化省は成績低下を審 査員の偏った意見のせいにするが、やはり国内の準備不足を指摘しないわけにはいな かない」と批判している。РГАНИ, Ф. 5, Оп. 36, Д. 127, Л. 168‒170.

28)РГАНИ, Ф. 5, Оп. 17, Д. 496, Л. 53‒66.

29)РГАНИ, Ф. 5, Оп. 17, Д. 496, Л. 89.

(21)

30)РГАНИ, Ф. 5, Оп. 17, Д. 496, Л. 65.

31)РГАНИ, Ф. 5, Оп. 17, Д. 496, Л. 89‒91.

32)Яголим Б.С. (сост.), Музыкальный календарь на 1957 год. М., 1956.

 この年鑑「音楽カレンダー」は、独立した考察に値する。戦後ソ連の音楽界(およ び音楽と政治の関係)を検証するための絶好の史料であるだけでなく、ある意味で は、フルシチョフ期以降のソ連さらには現代ロシアの音楽文化に陰ながら大きな影響 を与えた興味深い存在である。以下、本論の内容から外れるが、その概略を記してお く。

 嚆矢となった『1957年度音楽カレンダー』は、一個人が編集した全160項目の小冊 子だが、内容はお粗末と言うしかない。人物(作曲家、演奏家)の生没年や有名作品 の初演年、さらには音楽関連施設や政治的事件まで総動員し、項目の数合わせに躍起 となっている。このため100年、50年といったキリの良い記念年はむしろ少数派で、

年刻みのなんとも座りの悪い数字が頻出する。例えば、日にはロッシーニ生 誕165年が掲げられているし、日には、チャイコフスキーがグノーのオペラ

「ファウスト」を指揮して65年と、チャイコフスキーのオペラ「スペードの女王」ウ ズベク語版のタシケント上演から10年の二つが採録されている。しかも各項目に書 かれていることといえば、ごく簡単な事実紹介と引用句にすぎない。急場しのぎの突 貫作業でつくられたのは明らかだ。

 にもかかわらず、年鑑「音楽カレンダー」は大歓迎で迎え入れられた。1957年度 版の発行部数は5000部だったが、翌1958年度版は2000部に跳ね上がっている。

1958年度版の巻頭の辞がいみじくも指摘したように、演奏団体が演奏曲目を決める 際の手引きとして、また音楽関係の教育機関や専門紙誌の参考文献として重宝された のである。

 その後、内容は洗練を重ねていった。「音楽カレンダー」は立ち上げこそ大変だが、

雛形さえ出来上がれば、後は情報の補足や修正だけで事足りる。記念年の区切りは穏 当になり、複数の執筆者による分担制も導入され、充実した便覧の体を成すようにな る。例えば、1978年度版(発行部数万部)の「18日、チャイコフスキー・コ ンクール開催から20年」の項目は、1956年の政府決定で準備が始まったといった事 実紹介だけでなく、1930年代の国内コンクールや帝政末期のルービンシュタイン・

コンクール(世界初の音楽コンクール)など過去の伝統にも触れるなど、百科事典に 似た充実した解説文になっている。年鑑「音楽カレンダー」は、途中で名称が変更さ れたが、ソ連崩壊まで刊行され続けた。

 ちなみにソ連時代に音楽関係の百科事典が大小何種類か出版されているが、1959 年刊行の音楽小百科事典にのみ「音楽カレンダー」の項目がある。後年の巻本の大

(22)

百科事典(刊行は1973〜82年)や1990年刊行の小百科事典には項目がない。これは、

「音楽カレンダー」が1950年代後半に新機軸として歓迎されたこと、また、その後は 急速に新味が薄れ、平凡でありふれた存在になり下がったことと対応していよう。

 それはともかく、論証は容易ではないが、年鑑「音楽カレンダー」を通じて、音楽 関係者の間で記念日への関心が高まったと筆者は考えている。特に演奏会の曲目編成 には絶大な影響を与えたことだろう。現在でもロシアの演奏会のプログラムには、何 周年といった記念の区切りを冠したものが多い(われわれの目から見れば中途半端な 区切りも目立つ)。これは「音楽カレンダー」伝来の記念年を手がかりとした思考パ ターンのなごりに思えてならない。

33)РГАНИ, Ф. 5, Оп. 36, Д. 42, Л. 48‒53.

34)Сергеева Т. (сост.), Ежегодник памятных музыкальных дат и событий. 1978. М., 1977, С. 54.

35)Советская Культура, 20-го марта 1958 г. ちなみに、ここで用いられた「ナショナル

=インターナショナル」の構図(現在の日本にも「外国で太刀打ちできる本物の文化 は、日本的なものを極めたもの」といった主張がある)は、半ば形式化したソ連式賛 辞の常套句だが、その源流は1937年のプーシキン記念祭にあるようだ。ソ連の民族 政策を研究したマーチンによると、1937年のプーシキン記念祭では、「プーシキンは、

深く民族的(ナショナル)であったが故に、民族を超越する(インターナショナル)

詩人になった」という警句が頻繁に繰り返され、「同等の中の第一人者」たるロシア 人の主導的地位の確立に大きな役割を果たした、という。テリー・マーチン『ア ファーマティヴ・アクションの帝国』(明石書店、2011年)、第11章(引用文は548 ページ)。 民族政策の完成期における「民族詩人」の象徴利用と、ソ連初の国際コン クールにおける「大作曲家」の象徴利用は、比較事例として非常に興味深い。今後、

議論を深めるべき問題点だろう。

36)РГАНИ, Ф. 5, Оп. 36, Д. 42, Л. 104‒107; Ф. 11, Оп. 1, Д. 231, Л. 164‒166: 中村紘子『コ ンクールでお会いしましょう』、104頁。

37)РГАНИ, Ф. 11, Оп. 1, Д. 231, Л. 164, 171.

38)РГАНИ, Ф. 5, Оп. 36, Д. 71, Л. 3‒4.

39)РГАНИ, Ф. 11, Оп. 1, Д. 243, Л. 67; Советская Культура, 20-го марта 1958 г.

40)РГАНИ, Ф. 11, Оп. 1, Д. 250, Л. 141‒143.

41)РГАНИ, Ф. 5, Оп. 30, Д. 280, Л. 68‒69; Афиани Аппарат ЦК КПСС и культура. С. 47‒

48.

42)クライバーンの活躍を報じた『ニューヨーク・タイムズ』モスクワ特派員のフラン ケルも、同様の見方をしている。Reich, Van Cliburn. p. 123.

(23)

43)『フルシチョフ回想録』(タイムライフ社、1972年)、『フルシチョフ最後の遺言』

上・下(新潮社、1975年)。

44) 2013年月に亡くなったクライバーンを追悼するロシアの新聞記事によれば、米

国人の勝利に「イデオロギーの敗北」だと難色を示すスースロフにフルツェワが反論 し、カフタノフ次官の報告書を引用しながら、亡命ロシア人教師の教え子であるクラ イバーンはわれわれソ連楽派の一員だと説得した、という。Илья Карпюк «Для русских я всегда Клиберн», Полит.ру 28 февраля 2013. http://polit.ru/article/2013/02/28/

cliburn/ (最終閲覧2014年11月12日)

45)Советская Культура, 15-го апреля 1958 г.

46)РГАНИ, Ф. 11, Оп. 1, Д. 243, Л. 61.

47)РГАНИ, Ф. 5, Оп. 36, Д. 71, Л. 5.

48)РГАНИ, Ф. 5, Оп. 36, Д. 71, Л. 7; Афиани Аппарат ЦК КПСС и культура. С. 41.

49)Советская Культура, 17-го апреля 1958 г.

50)РГАНИ, Ф. 5, Оп. 36, Д. 71, Л. 17‒27; Афиани Аппарат ЦК КПСС и культура. С. 50‒58.

51)РГАНИ, Ф. 5, Оп. 36, Д. 72, Л. 135‒137; Д. 135, Л. 1.

52)РГАНИ, Ф. 5, Оп. 36, Д. 102, Л. 67‒70; Д. 127, Л. 168‒170.

53)ジャスパー・パロット『アシュケナージ:自由への旅』(音楽之友社、1985年)、

112頁。

54)РГАНИ, Ф. 5, Оп. 55, Д. 47, Л. 1‒2.

(24)

Международный конкурс имени П.И. Чайковского является первым в истории СССР музыкальным конкурсом мирового значения, который проводился в Москве с 18-го марта по 14-е апреля 1958 года (продолжается регулярно раз в 4 года и поныне). Он был намерен продемонстрировать высокую исполнительскую уровень советских музыкантов во всем мире, будто бы повторяя потрясающие успехи в запуске Спутника в октябре 1957 года. Однако, вопреки ожидания советских властей, первую премию получил американский пианист Ван Клиберн: его игра вызвала сенсацию как в публике так и в жюри. Парадоксально, но именно победа американца придала советскому конкурсу непоколебимый авторитет в мировом музыкальном круге.

В данной статье рассматриваем конкурс им. П.И. Чайковского как одним из внешне-культурной политики при Хрущеве, основывая на материалах Отдела культуры ЦК КПСС. Особенно обращаем внимание на то, как Советский Союз хрущевского периода стоял лицо к лицу с Западом.

Ханья С.

Политика вокруг конкурса им. П.И. Чайковского

в 1958 году

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