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舅 篭 蕊 霊 雲 窪

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25

文化求年の十返舎一九の合巻の一傾向として︑黄表紙的趣

向への似州がみられること︑またそれが︑たんなる往年の茨

表紙の復活ではなく︑すでに﹁敵討物﹂企擬の一時期をこえ

てのものであるため︑当然︑これがさまざまの点で作品の上

に影響し︑﹁敵対物合巻﹂の創作をとおして︑その柵想がか

なり賀的にも変化し︑合巻の棟式を多分にふまえての﹁合巻

的黄表紙﹂の出現が一九の作品にみられたこと︑を指摘した

のである︒︵式亭三馬にもこの傾向は幾分みられるが︶そし

て︑それ群の傾向を︑一九の作品のなかでもとくに﹁敵討物﹂

のパロディ・逆鋭化した作品を中心にして考えてみた︒

(

十返舎一九の合巻

はじめに

l文政期を中心としてI

︵その二︶

もちろん︑﹁敵討物﹂のパロディや逆挽化が黄浅紙期に全

くなかったわけではない︒むしろ渋表紙的発想の骨絡ともい

うべき﹁穿ち﹂が宵本以来の﹁敵討物﹂に作用すれば︑これ

を椰撤し︑戯画化する作品があらわれてくる︵京伝や馬琴に

おけるごとく︶のは当然のことといえるだろう︒しかし前回

くりかえしたように︑文化末年に一九がふたたびこのような

方何に華をむけたこと︑それを考えてみたかったのである︒

くりかえすならば︑いわゆる黄表紙としての典型的作品が次

々にだされている天明および寛政初年の時期における敵対物

のパロディと︑以後十年近く︑その間には寛政の改革を契機

とした﹁敵対物﹂の盛行があり︑その後ふたたび盛場した敵

討物のパロディとは︑よしそれが︑同一の発想ではあり︑榊

想上にはさして懸隔をみとめられなかったにしても︑個々の

池正胤

(2)

24

文化末年の一九合巻における黄表紙的傾向については︑

﹁敵討物﹂のみならず︑たとえば﹁磯ぜせりの癖﹂︵文化十年

刊︶﹁黄金蔓掘出分限﹂︵文化十一年︶﹁手造気利酒﹂︵文化十

一年︶のように︑﹁敵討物﹂とはやや異なった題材の作品に

も︑ひとしく黄表紙的傾向がみられたことは︑すでにのべた

とおりである︒︵黄表紙化とはいいながらも︑﹁敵討物﹂にお

けるように︑多分の変質がみられることもいった︶

これ塀のほかになお︑別菰の共通的な傾向のみられる作品

として︑次のような一群がある︒﹁往古春こんな物藤﹂︵文化 作品とその周辺の傾向を考えれば︑たんに天明期の傾向にもどったというだけでは事足りぬように思われる︒

なぜそのような結果になったのか︒その原因の説明は前回

の論旨ではいささか不徹底であったかもしれない︒それは︑

前回の作品の対象が﹁敵討物﹂を中心としたため︑一九の同

時期の他の作品に対する検討に充分には至りえなかったため

でもある︒今回は以上の愈味において︑前回を袖足しつつ︑

さらに文政期における十返舎の合巻の特色について考えてみ

たい︒

(二)

ふたたび文化末年の傾向について

l噺本的合巻I 十二年歌川国直画︶lこれは外題だけは前回にあげたl﹁鮒運牡丹餅男﹂︵文化十三年歌川国直画2冊︶﹁茶番狂言初子待﹂︵同年刊彩霞楼国丸画2冊︶﹁不死無止欲世界﹂︵同年刊同画2冊︶﹁はえぬき力男﹂︵文化十四年刊勝川邪亭画3冊︶﹁寂助風話﹂︵同年刊歌川国丸画3冊︶羅岬耶沖天御覧﹂︵同年刊勝川券亭画3冊︶愚機嫌上戸﹂︵同年刊歌川鬮丸画3冊︶などである︒﹁往古者こんな物語﹂は序文に○故人不入物をさして長物といふ︒瓦なる哉︒長居は恐あ

り︒長口上は退屈なり︒しかれども長くして奇とするもの

は坂東秀佳が十二月の所作蕊︒故人全交が鼻の下の長いもの語︒さては大津絵の座頭の繩I︵後略︶l

と﹁弁慶の仕度﹂﹁正成の雪陣﹂﹁椛町の井戸替﹂など︑

長いものの例が挿絵入りで示され︑本文は・奥州合戦の際︑

敵味方が礼節を尽しすぎて間が抜け︑それぞれの伏勢には近

在から物売りがで︑戦場に捨てられた首は拾い集められて︑

手柄をたてなかった武士に売られ︑またその武具は古金買が

目方でひきとる︑それぞれが︑オムニバス風に描かれてい

る︒これは一九自身の﹁前度往昔派﹂︵寛政十年刊自画

3冊︶と趣向はほぼ同じであるが︑詞杏や挿絵ははるかに綴

密になっている︒恋川券町の﹁無益委紀﹂を過去に求めたよ

うな作品であるが︑場面ごとの可笑味は邪町のように一批し

(3)

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た主題で貫かれてはいない︒ただ︑断片的ではあるものの︑

それなりの滑稽はあり︑見方によっては武士そのものへの軽

い皮肉も感じられるのである︒

﹁不死無止欲世界﹂は狂言の﹁宗八︵俄道心︶﹂の趣向をそ

のまま借りたものであり︑﹁はえぬき力男﹂は〃毛谷村の六

助″が主人公であるが︑これを﹁敵討物﹂として描かずに︑

その大力の様子の滑帯を似顔絵風に誇弧して描いたところに

特色がある︒﹁救助風譜﹂は﹁魂胆色遊俊男﹂の趣向を借り

て︑大無天の神通力をかりて豆男になった主人公の︑魂とし

て入った男の行動の不条理に渦稀を求めている︒

以上の作品は︑前回の黄表紙的作風に通ずるものを持つ反

面︑いわゆる﹁敵対物﹂のパロディのように首尼ととのった

主題がなく︑l外題としてあってもそれはたんに形倣だけ

でありl各丁毎にやや独立した︑断片的な活が︑主人公な

り外題なりで一応まとめられているだけで︑それなりの部分

のおもしろさを狙っているように思われる︒このような作品

が︑文化末年にでたことも︑とにかく記憶に残しておきたい

上宙警つ︒

ところで︑これらの作品にたいして﹁茶番狂言初子侍﹂は

o今の茶番は容言ともに兼補はりて滴脈の興とするもの是に

しくものなし︒去年正月初甲子の茶番連中皆ともに悉く妙

案にして手をつくせるその中に秀たるものをえらひて取あ へす初子待の表題を蒙らしめ︵後略︶と序にあるとおり︑﹁罪入﹂﹁風巾﹂﹁座頭花見﹂﹁傾城買﹂

﹁高師直﹂﹁仁王﹂﹁蚊遣﹂﹁王子詣﹂﹁野干﹂﹁鍼医者﹂

﹁狸腹鼓﹂など十番を︑挿絵は茶番狂言を演ずる舞台にみた

て︑全く会話のみの調書で綴っている︒

これと同種のものが﹁錯耶泳天御覧﹂で

ゆふくよみせへいって火をひとつかりやう

凸篭・一義蕊忌篭達 し な ば

舅篭蕊霊雲窪

入ました︒﹂

画ぱなしかくのごとくはなしながら面をかきて画と弁舌を

もってはなす︒落し噺なればちと新き趣向にして典あるこ

と限りなしそれに恩ひよりつつ著したるこの仕方ぱなしは

上にある文淡よく熟得してそのしかた身振を専一に考え合

す噺下手をして聞上手の菱をまぬかれしめんのみ

と︑○いきたいかのぼり○いもせ山三だん目○ゆずきのと

のさま○かるわざのうけとり○せつぶんの大どく○くげ衆の

年礼○しばひのしのびもの○きとう山ぷし○うをせつぽう○

竹のこあらそひ○びぜんどくり○なるかみ上人○つんぼうざ

とう○けいせいのうそ○せんさいのゆうれい○忠しんぐら七

(4)

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だん目︑などこれもまた前作品のように先行の噺本に多くと

られている題材を﹁仕方噺﹂として画文あわせて椛想してい

ワ︵︾○

﹁滑稽機嫌上戸﹂は︑﹁落咄屠蘇機嫌﹂の外題で再版されている作品であるが︑これも前作品の構想に準ずるものであ

る︒O近頃のおとし咄は其通行の内長々興あることをのみ専とし

てをちの所さしたる塀もなき顛多し︒是大人のはなす咄に

して︑子どもしゅの口にあはず︒これにはその両やうをか

ねて道行良く典あるも︑又みじかくておちの所を詮とした

るもはなし上手の仕かた身ぶりを加へなばかくくつに面白

からんと恩もあり︒すべて咄はよみておもしろきと恩ふも

咄して左もなき那有ものなればよくこの界を味ひて見たま

ふくしと序文にあるように︑これらの作品は一般の噺本のスタイ

ルとはやや別和のものを怠図していることが考えられるので

ある︒

一九はいわゆる一般の噺水の創作も多い︒﹁騰入茶呑噺﹂

︵寛政十二年刊自画︶をはじめとして︑その数はほぼ三十郡

があげられる︒これもまた他の作者にはあまり例のない︵作

品数において︶︑彼の特色であるが︑いまここにあげた三種

の﹁仕方噺﹂的作品は︑一般的な噺本とはやや異なる︒しか もこれらは︑すでにあげた﹁往古者こんな物語﹂﹁不死無止欲世界﹂﹁蕊助風話﹂のような黄表紙風合巻のでた同じ時期にだされている︒つまりこの時期にあってはいささか異種であるところのオムニ・ハス風の合巻がつづけて書かれているのである︒逆にいえば︑これら黄表紙風の作品も︑その断片的なスタイルという点では︑一種の落噺的性格をも持ちあわせているともいえるのである︒︵絵入り跳物のもつ形態上の必然性から︑それが長箭の伝奇的ストーリーであっても︑各而の絵にともなう場面的完結性はいかなる場合にでも要求されるので︑そのこと自体をあまり強湖することはできないが︶文化初年からの﹁敵対物の流行︑因果の照応が︑5冊6冊︑或いはそれ以上の災筋の中で︑前後に没定されねばならぬ作品が︑しばらく続出したあとに︑上述のような各場而娠に明硫な完結性をもつ︑落噺の嫌式を借りた作品が︑数的には必ずしも多くはないが︑いくらかでも出現したことは興味のあることといえるだろう︒

一九の一般的な噺本については︑各作品にのせる噺が︑他

作を引くものも多く︑彼自身のなかでも亜複するものが多い

ので︑逐年の噺本の出版数は︑黄表紙や合巻の出版数ほどに

意義のあるものとは思われないが︑いま文化年間の逐年の作

品数をあげると︑文化三年四穂︑四年一菰︑五年四薊︑六年

一顧︑九年一顧︑十三年四菰︑十四年は前記の仕方噺風のも

(5)

の二種︑のようになる︒つまり文化年間の噺本の作品数は︑

前にあげた噺本の総作品数三十種のうちの三分の二を占めて

いるのである︒

一方︑黄表紙体裁の噺本は︑すでに安永年間の﹁春遊機嫌

話﹂︵恋川春町画作2冊︶﹁風流はなし亀﹂︵富川吟雪画作

2冊︶が見られ︑一九自身も﹁鋳煎茶呑噺﹂や﹁江戸前噺饅﹂

︵文化五年刊2冊︶などを書いている︒しかしこれ等は題

材・話根など︑一般の噺本と重なるものもあるので︑特に目

立ったことではなかろう︒ただ黄表紙仕立の噺木は︑噺に絵を加えたものであり︑一般の噺本とのちがいは︑中本と小

本︑挿絵の有無というほとんど形体的な相違だけであるの

で︑黄表紙仕立︑そのものは格別に意味のあることではな

い︒しかし︑一九の仕方噺風の合巻は︑黄表紙風一般的噺本

と話根には同じものがあるにしても︑それが︑仕方噺として

の工夫がこらされているという点でこの時期独特のものでは

ないだろうか︒

すでに周知のことではあるが︑いわゆる一般的な噺本につ

いては︑すでに近世初期の﹁齪腱笑﹂﹁鹿野武左エ門口伝咄

し﹂以来述綿として続き︑殊に安永年間からは︑版木が続出

︵にI︶し︑さらに天明末年から寛政年間に至れば︑﹁咄の会﹂など

が姉年ひらかれ︑馬琴すら﹁笑府衿裂米﹂︵寛政近年刊︶を幻書いているのであるから︑一九の噺本ないしは噺本風の作品 が︑文化末年・文政初年の時点での時好を狙ったものと速断することはできないかもしれない︒

ただいますこし微視的にみるならば︑天明三年はじめて柳

橋河内屋の宝合わせの会で自作を披誠した烏亭鴛馬が︑以後

たびたび咄の会を開いたのも︑寛政十年岡本万作が︑神田豊

島町の藁店で︑寄席をひらくまでは︑いずれも一般の料亭

や商家の楼上を随時に借りて興行していたのであって︑常打

ちの定着した寄席を持って行ったものではなかったようであ

る︒これが完全に巷間に浸透し︑しかも経済的に独立した一

職業としての位慨を得るまでにはなお相当の時間がかかった

︵注2︶のかもしれない︒そして︑おそらくそれが決定的になったのは︑寛政末年から︑文化初年の三笑亭可楽の登場をまたな

ければならなかったのであろう︒式亭三馬は次のようにい

つつ︒O文化十一年の冬洩軍寺の奥山において謎坊主といふもの行

はる︑これは即座に謎を解くの妙あるよしあまねく江戸に

流布せり︵落語中興来由︶

そしてこの謎解きに妙を得たという可楽が﹁文化十二年に

は江戸中の寄席が七十流杯に激燗し︑門人もようやくふえた

ことからようやく琳弼一すじにうちこむ日をむかえることが

︵俺3︶できた﹂といわれるのである︒さらにこの時期が﹁文人趣味

的なはなしの会から大衆的な寄席落播への転換が要凱され

(6)

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た﹂時だったとつけ加えられている︒してみれば︑文化年

間︑ことに末年にかけては︑﹁落咄﹂の世界でも一つの転機

があったことはたしかであろう︒しかもその転機は︑従来の

グループ的な噺の披卿から広範︑不特定な聴衆にむかって語

りかける一睡のコマーシャリズムに乗った方向へ向う伝機だ

ったのである︒

してみれば︑一九が従来の咄本のスタイルに﹁仕形ぱな

し﹂の方法を文章として形象化し︑しかも﹁端耶津天御覧﹂

のように︑多分に謎解きの意も含めたことは︑やはり上記の

ような江戸の話芸の一つの転換期なり︑定着期︑さらにいう

ならば︑亭受層が拡大されようとするその時期をふまえての

ものであったと想像することも可能のようである︒

つけ加えるならば︑一九の噺本スタイルの合巻は単に目先

をかえただけのものではなかった︒﹁茶番狂言初子侍﹂・﹁耶

津天御覧﹂の名が示すように︑それはただ作品上の趣向の

変化にのみ薊ったものかもしれないが︑少くとも表面的な

意図としては座敬芸として実用化する︑或いは噺本の内容

そのものを︑現実化しようとする︑つまり晄者に常務した形

で組立てることに︑特色があったのではないかと思われるの

である︒文化十二年にすでに江戸市中において七十五軒の寄

席が存在︑あるいは復活したという覗実は︑たしかに︑かっ

ての咄の会的な同人組織︑グループから︑江戸市中へきわめ て大きく拡大拡散していったことを物語っている︒すなわち十六文という庶民が手がるに利用できる娯楽機関として︑はっきり経済的に独立したことを示すものであろう︒少しく愁恵的に考えるならば︑そこでの口演は︑聴衆自身の中に再現させる機会も︑また関心も充分に熟していたにちがいない︒﹁花暦八笑人﹂の中におけるそれのように︑そこで演ぜられる数々の狂爵は︑まさに世紀末的な恩行以外の何物でもなかったにしても︑少くとも娯楽lここでは仕形ぱなしが︑町人一般の間に再生産されるような気運があったことは事実であろう︒してみれば︑一九がただに読むためだけの旧来の噺水からさらに一歩進めたものとして︑仕形ぱなしの合巻化を用意したのも︑やはり彼なりの︑あるいはまさに彼らしい時好への敏感さの所産であった︑と考えてもみたいのである︒

このように︑文化末年の一九の合巻の黄表紙的なものへの

傾斜は︑いままでのべた噺本を発展させた仕形ぱなしの合巻

も含めて︑・たんなる黄表紙的趣向の復活ではもちろんなく︑

さればといって黄表紙的な要素をさらに綴密にくどく粉飾し

ただけのものでもなく︑従来の黄表紙には見られなかったも

のlそれは完全にオリジナルとはいえないがlを加えて

いたし︑それがまた︑時流の要求するものを予見しての所為

だったとやや憶断ながらいい得るように思うのである︒

(7)

三文政年間の傾向l伝奇的作品l

とくに文政期の合巻の一般的傾向を説いたものは管見にし

て近来ほとんど見られないようである︒したがってここでも

また﹁敵討物が︑その含む怖話︑巷税的分子をしだいに前而

に押しだしl歌舞伎的趣向を膨狼させてl正本製を頂上

︽座▲己に歌舞伎小挽にうつる﹂とまず引かねばならない︒このよう

な現象はたんに顧彦にとどまらず︑その他の作家にしても同

然であった︒忌恥蝿鋤杉洲屈妹脊山入﹂︵文政二年刊幽染

山人正二作敬川聞丸面6冊︶には序文に

oころは皐月の初つかた中村座にて大当亦も其後木挽町大入

なるも吟にあふ蝶や耽丹のしこなしをI︵後略︶l

とあり︑これは

O況月汎側より中村肥の﹁妹杼山蹄女庭洲﹂l瓜側目より客

研︒五十余H興行︒﹁妹背山﹂山の段︒格別の評判にて︑

二階三階とも冊々見物せしと高ふ︒︵歌舞伎年表文政元

年︶

に符合し︑前年の評判をとった歌舞伎のあてこみであるこ

とはたしかであろう︒柳亭祓彦の︑凧鐸道中双六﹂︵文政四

年刊敬川国直画6冊︶は﹁丹波与作待夜の小室節﹂の賊案雰であるが︑前年︑文政三年中村座の﹁忠孝染分綴﹂が O今年三月ありしみの吉殺しを仕組しなり︒

﹁狂言沿革集﹂に詳し︑初日より大入にて︑別て船中殺し

評判なりしに︑七月二十六日︑北町榊原主計役所へ勘三郎

呼出され︑狂言引替申旨にて二十七日︑二十八日休︑八郎

兵エを十郎兵エ︑おつまを斐吉に直し︑船中を茶屋場に改

め︑改正本を以て伺ひ出で︑二十九日より興行︒益々大当︒

と鈴木氏のさらにたしかな裏づけとなるものである︒人物

を鷲坂八平次のように同名にしたり︑鷺坂左中太が鷺坂左内

と僅かに変えるところもあるが︑とにかく前年興行大当りを

とった作品をそのまま蔀双紙にひきうつしているのである︒

︵硫案・盗作数しれず︑その典型のようにいわれ創激のなさ

がせめられる十返舎一九であるが︑草双紙の世界においては

それが︑餓双紙の本衝でもあり︑目的でもあって︑純者を拡

大していくための一つの有力な手段でもあったのであるが︑

いまはそれはいわない︒またこれが一九の採価をいささかで

も向上させるものでもないが︶そしてまたこのように戒接的

な硫案ではないにしても︑

O此さうしははつか三十丁のうちへ三世のきだんをつづりし

ゆゑ︑ひつこうもっともこまかにしてゑぐみのほかにすじ

がきおほし︒さくしゃのそろばんちがひにてやうやくかき

おさめたり︒︵梅桜対姉妹曲亨馬琴作豊国画6冊文

政七年刊︶

(8)

30

とあるのも︑合巻における物語性がより綴密になってきた

ことをいう例となるであろう︒

このような傾向に対して︑一九の作品のなかには︑それに

ならうものが比較的乏しいのである︒

湿湯尼峠孫杓子由来﹂︵文政元年刊歌川豊国画5冊︶

では︑この時期のものとして︑決して少部のものではないに

しても︑巷間俗侶として有名な越前湯尼峠の庖衛神を主趣に

して敵討を仕組んでおり︑

Oねんj\かはらぬくさぞうしのしゅかうなんぞめづらしき

ものとさくしやいろいろくふういたしてもはや何もこれぞ

といふおもひつきもなし︑はん元のちゆうもんにまかせl

︵後略︶l

とすでに文化初年以来くり返される口吻が全くそのままに

記されており︑椛想も︑その前期︑文化五・六年までの敵討

物とかわらない︒わずかに﹁初時雨矢口渡﹂︵文政十一年刊渓斉英泉画6冊︶が﹁神霊矢口渡﹂の顕案で︑序文が丸木

の体裁をそのままに借りて

O認序詞弱能強を制す例︑されば新田義貞公北国の雪と消失

絵ひ其後正平の頃かとよ庶子左兵ヱ督義興公終に義兵をお

こし絵ひければ︑譜代恩顧の人々馳あつまり︑中黒の籏風

になびかしI︵後略︶!

と浄瑠璃の識案・ダイジェストを行っているだけである︒ 歌舞伎にはこれの上演に関する記述は︑種彦や正二にみられるような直接的なものとしては見当らない︒

総じて一九のこの時期のいわゆる伝奇的作品には︑種彦流

にならぶものはなく︑むしろ絵本風の主題をやや伝奇的に榊

成して複雑化したもの︑あるいはこの逆にかえって単純化し

て絵本風に仕組んだものが多いのである︒﹁大江山酒顛賦子縦﹂︵文政三年刊歌川隅直画6冊︶では

O序政聯略に云丹波の岡に強盗あり大江山に上里拙其党多

赤毛を被丹朱を面に没し鬼形を偽て邪を妖術に借却盗をな

し民人をなやます︲I︵後略︶I

ではじまり︑﹁しゅてん﹂なる佃侶が頼光の思いものであ

る﹁たまより姫﹂に仮想し︑心気みだれる︑あたかも消玄・

桜姫的な発端から︑妖術で庶民にあだし︑頼光に討れる筋

で︑従来の巷説に幾分伝奇的な創作を加えていることがわず

かに特色として認められる程度である︒﹁相撲勝負附﹂︵文

政三年刊歌川国直画1冊︶も︑紀名虎と伴良男の相撲を

中心として

O悪人滅びこれたか君も御身の不詳を後悔し給ひ︑今はまこ

とに発心し袷ひて御遁世御えんじつに見給ひて1︵後略︶

︵柱5︶と初期合巻か︑あるいは黒本・青本にみられるような結末

となっている︒

(9)

この時期の作品は以上のように︑外題でその内容が想像さ

れるものが多く︑それらのいずれもが軍記や巷間に伝わると

ころの歴史的伝説にのみ取材しており︑格別の創意のみられ

ないものばかりである︒以下の作品はすべてそれに準ずる︒

﹁商師直合伝小夜物語﹂︵文政四年刊歌川国貞画6冊︶

﹁木簡鋤錦斌揚﹂︵文政江年刊歌川豊国画6冊︶﹁魁武功之花﹂︵文政庇年刊勝川秤亭画3冊︶﹁風光白斌栄﹂

︵文政九年刊歌川盟岡画6冊︶﹁弓削通鏡潔﹂︵文政十年刊歌川悶安画6冊︶﹁甥明揃盤松﹂︵文政十二年刊

歌川盟阿・岡安・国芳画二四冊︶﹁神岡倭国功﹂︵文政十二年刊歌川貞陽画5冊︶

このほかに完全な子供向の絵本と思われるものが︑﹁昔噺

桃太郎﹂︵文政三年刊歌川国貞画2冊︶﹁昔噺舌戯雀﹂

︵文政三年刊歌川国貞画2冊︶﹁絵本勇見袋﹂︵文政十

三年刊渓斎英泉画2冊︶である︒これらについては︑そ

の内容を紹介するまでもなかろう︒いずれも合巻と呼ぶには

あまりにも無技巧であり︑挿絵を多くとり︑我々の知悉する

ところの童話が︑部分的に詞害などにやや綴密さを加えて描

かれているにすぎない︒

このように︑文政期の一九の作品には︑伝奇的な作品にお

いても︑柳亭顧彦に代表されるような合巻の傾向をもつもの

引が非常に少い︒ なにゆえに︑一九の合巻はこのような方向に移ってしまったのか︒長篇を構想する意欲も兼力もすでに失せてしまっていたのであろうか︒それがよし歌舞伎の硫案ではあっても種彦のようにより織密に︑しかも色彩豊かに綴る榊成力をこの時期の一九は妓早わかすことができなくなっていたのであろうか︒だが一九は文化初年には︑﹁敵討物﹂を主題にして﹁相馬太郎武醐斌柵﹂︵文化二年刊歌川豊鬮画加冊︶のような災筋を組織化させるだけの飛力をもっていたのである︒またこの時期には愚謝金草畦﹂は杵きつがれていたのである︒全く簸力が失せてしまったとは思えない︒これにはむしろ一九の作者としての本質がかかわりをもっていたのではないかと思う︒この点についてはいましばらくおく︒

文化末年に続いて︑文政期に入っての一九の作品に黄表紙

的傾向を踏襲した作品がみられることは当然かもしれない︒

この著しい例が﹁七福紙屑範﹂︵文政元年歌川国丸画2

冊︶である︒これは︑﹁貧福とんぼうがへり﹂︵寛政十二年刊

自画作︶の再案である﹁黄金蔓掘出分限﹂︵文化十二年刊

春亭画︶の参案ともいうべきものである︒主人公徳助が天邪

鬼に自分の本来願うことの逆を頼むことは同じであるが︑徳

(四)

文政年間の黄表紙傾向

(10)

32

肋が妾を求めるところへ﹁磯ぜせりの癖﹂︵文化十年刊勝

川券亭画3冊︶の一部を挿入しているのである︒この例

は一九の黄表紙的合巻の一方の末路を象徴しているかもしれ

ない︒つまり駁の多寒はともかく文政期に入っての合巻に

はかっての一九の作品を暗案する例が多くみられるのであ

る︒

﹁色男大安光﹂︵文政三年勝川奔剛画5冊︶も︑古く伊庭

可笑の﹁平併列通風伊勢物語﹂︵天明二年刊鳥居消長画3

冊︶また京伝の﹁江戸生艶気樺焼﹂︑さらにこれを耐案した

﹁識辨通人寝言﹂︵享和二年刊北川喜久膳3冊︶を趣向

の素材にしている︒ただこれらの作品は︑一九のものもふく

めてうぬぼれ男の愚行を描いたものであるが︑文政期の一九

作品はこの裏返しであり︑そこに倣かながらも創意が認めら

れるかもしれない︒

Oゑん二郎ひやうばんの色男となり︑しだひにかくれなくせ

かいのどけむすめ下女までもひとたびゑん二郎をみそめて

たへかねふみをおくりける︒その中にいろよきへんじをし

てやるとまたことはりをいってやるそのへんじなかなかゑ

ん二郎かくばかりにては手がまはらず人をたのみてひとと

ふりのことはりのへんじはおなじ文どんなるゆへしたがき

一まいかきてそのとふりを何まいもかいてもらひたるがか

ききれぬゆへことはりのへんじははんかうにおこしておい てI︵後略︶lつまり﹁艶気梯焼﹂のパロディとしてここではそれなりの

渦稽味をだし︑しかもそれはゑん二郎が金あってのことで︑

勘当されるとこんどは女性に言い寄るゑん二郎を気狂い扱い

にするがゑん二郎はさらに愚行を亜ねて妓後に目がさめる

﹁落﹂ともいうべき趣向で︑とにかく一つの特色をだしてい

るのである︒

この作品が︑文政期の一九の黄表紙的傾向の典型ともいう

べきもので︑素材は兇なるが︑以下の附作品は︑すべてこれ

に単じているのである︒﹁息子穴迅入﹂︵文政元年刊歌川国丸画2冊︶.の冨当眼﹂︵文政二年刊歌川国貞画

3冊︶﹁普男癖物語﹂︵文政九年刊北尾美丸画3冊︶﹁忠

臣狸七役﹂︵文政十一年刊歌川安秀画2冊︶﹁串戯しっ

こなし﹂︵文政十二年歌川国丸画4冊︶などである︒

このように︑黄表紙的な傾向の作品は︑伝奇的傾向の作品

と数のうえではほぼ匹敵し︑当世的な素材︑内容であるため

に一応変化に富んではいるが︑作品の巧拙︑滑稽の独創性な

どについては︑﹁色男大安売﹂のような作品はあるにしても︑

必ずしもきわだった特色を求めることは困難である︒﹁昔男

癖物語﹂のように一編としての趣向はまとまっているもの

の︑これもまたすでに二回も︑かっての作品に利用されたも

のであってみれば一九は︑やはり次のようにいわざるをえな

(11)

かつたのだろう︒

O凡而著述は其人の器鼠をあらはすものにて︑轡はいにしへ

の︑孔明楠の躯跡を編るにその博才多芸の孔明楠もわづか

に作者の器量とひとしくなりゆくものなれば︑不才の作者

は加て其徳を掠るなるべし︒故に一時の戯作といへども︑

忽にすべからず︑予年々他邦を経暦し見るに戯作者に於て

は山東京伝・浮世絵師に︑喜多川歌臓︑此両子いかなる辺

鄙幽畔の地にても︑しらざるものなく︑其余はたまたま繁

花の地にはⅢしものありといへども︑山家にはまだしら

ず︑予もその錐にして海内の広大無賦なる猟︑井の中の蛙

の啼声︑天地の外に届ず︑去るに仏て予は名をもとめず︑

一己の戯れに巧拙の批誘を服ずして︑頓におもひいずるま

まを荻に任せて︑こんな邪ばかりをかくのみ︒

右の文は車双紙のみならず︑戯作全般にみられる常踏的な

兼辞であるが︑何故一九が同一の素材をくり返して作品とし

なければならなかったのか︑この一文は単なる謙辞ばかりで

なくその理由の一半を語っているように思う︒一九にとって

は︑黄表紙的な方法による以外に創作ができなかったのでは

なかろうか︒つまり長禰は構想しうるし︑また具体的に作品

化することはできたとしても︑それを徹底的に伝奇化して発

展させること︑それが彼の資質にとっては不適当︑不可能で

3はなかつたか︑ということである︒黄表紙的なものによらざ るをえなかったという点はまた一九における伝奇的作品の欠如ということが逆に考えられるのである︒

彼の作品をひとしなみにみた場合︑それは﹁浮世道中膝栗毛﹂11道中膝栗毛l︑あるいは﹁金草畦﹂など︑最長筋

といわれるものも︑内群は断片的な﹁噺﹂を菜積させたもの

にすぎなかった︒︵膝栗毛が︑妓初の彼の意図とは別に︑版

元・謎者の態迦によって書きつがれたという覗実はあったに

しても︶作品のなかにおける笑は︑どこで分断されても︑一

つの﹁噺﹂として成立すべき結椛をもっていたのである︒渋

炎紙が各丁喉分︑あるいは見開きの挿絵とともに一場耐が独

立したオムニバスの作品が多く︑またそれが蛍表紙の一つの

木鷺であったことは︑彼の好みにもっとも適した文学形式だ

ったということも云い得るのではないか︒壮年のうちは︑ま

だしも他作にならうことによって︑艮筋の﹁敵対物﹂を枇想

しえたのであるが︑晩年にちかくなって彼の作品の一部が絵

本的なものに変っていったのも︑たんに創作力の枯刈という

のではなしに実は彼自身のおおうべくしておおいきれぬ本盗

がみえてきた結果なのではなかろうか︒同様に彼の資質その

ものが黄表紙的形体の作品化に向いていたことも考えられる

のである︒しかも彼自身は充分にそれを知っていた︒﹁己の

戯れに巧拙の批誇を厭ずして︑頓におもひいづるままに筆に

まかせてこんな事ばかりかくのみ﹂とは︑その間の事情を語

(12)

到っているのではないか︑と考えたいのである︒

ところで︑上述の諸例は︑いずれも文化年間より引統いて

の傾向であって︑特にこれが文政年間にかぎってのことでは

なかった︒しかもそれは︑一九の創作力の枯渇化の総果と考

えられもする現象であった︒しかし以下の桁例は︑ほぼこれ

以前にはみられなかったものとして注意したいと思うもので

ある︒

文政十年より十二年の間︑きわめて短い一時期ではある

が︑一九は次のような作品を書いている︒﹁宝船桂帆柱﹂︵文

政十年刊歌川広亜両4冊﹂﹁蹄国豊年満作豆﹂︵同年刊

五雲亭貞秀画2冊︶﹁家財繁栄抄﹂︵同年刊歌川貞景画2冊︶﹁家内安全菜﹂︵文政十一年刊春斎英笑画3冊︶

磐喰草心租本﹂︵同年刊同画2冊︶﹁有喜世諺草﹂︵文

政十一年刊歌川国安画2冊︶﹁道外武者太平楽﹂︵同年

刊歌川国安・春斎英笑画2冊︶﹁金儲花盛場﹂︵天保元

年刊歌川安秀画2冊︶などである︒これらは一九の総作

品にたいしてはきわめて値かな部種でしかないが︑いずれも

同時期の合巻類とは著しく体裁・内容ともに異なったもので

ある︒

(五)

文政年間の往来物風の作品

以下上棚はこれに準じて︑家屋の諸部分が図示説明さ

れ︑下欄は︑〃大経師〃〃時計師〃〃袋物屋″〃扇折職・蒲

細工〃〃錺師・挽物師〃と三十二種の諸職が︑狂歌を副えて

示されている︒後篇は︑前篇と同嫌に︑上・下欄に分れ︑上

欄は﹁手製諸食品類﹂として〃醗手造の法〃から〃加須底羅

・煎餅〃まで十一種の製法︑下欄は〃呉服屋〃〃両替屋〃か

ら〃本屋″〃糸針屋〃まで三十八種の諸職が前篇と同様に描 ﹁宝船桂帆桂﹂はO日本記に神武天皇元年始て帝宅を概原の宮につくり給ふと

いふときは此時巳に木工あるか︵中略︶今聖徳太子を諸職

の祖とすることいまだ詳ならずといへどもまた拠あること

あれば強ち難ずるにあらず︒書難賀需を索るにまかせ諦職

の図に狂泳をそへて亜蒙のために誌す︒これ一時の戯れに

似てまたその益なきにしもあらず︒

の序文ではじまり︑一丁オモテは次のようになっている︒

鋸・引まはし

ねずみがかり

大鋸・前挽

合切・みな木

挽用也

推・三陵ぎり 具足師

世の中の金が敵を手にいれて

身をかためたる具足師の業 弓而師

金闘あたりはずさぬ弓師とて

矢よりもはやき立身の的

(13)

55

かれている︒︵なお本書は前後篇合冊で岩戸屋からだされて

いるが︑後篇だけが驫碑商人尽﹂と題されて森治錦森堂か

ら再版されている︒再版の年は不明である︒︶

この作品の構成は︑いちおう﹁和国諸職絵尽﹂︵貞享二年

刊菱川師宣画︶などの体裁に準じているようだが︑﹁和国

諸職絵尽﹂が︑八十三種の諸職に︑それぞれ歌合の様式を配

して︑やや典雅ともいえる趣をもっているのにたいして︑一

九の作品は狂歌であり︑これに添える詞も〃ゆみや八まんあ

たりははづさぬなんとしてJ︑″〃かってかぶとのおめでた

や〃〃ゑりはざしこあなざし三まいほぞありざしいろいろお

のぞみしだいひやうばんで入らつしやい〃と序文にいうよう

に︑あくまでも蔵幼むけの平易な往来物的な形式で説明され

ているのである︒諾職の数は︑師宣のものよりは少いが︑師

寛の作品のなかには〃うら人〃〃木こり〃〃山人″〃くさか

り″など︑淵職という範騨には入れにくいもの〃女めくら〃

〃文考″のようにやや暖昧で生活に密符した職業とはいい得

ぬものも数に入っているので︑典体的な職人の分頑としては

一九のほうが綴密であろう︒しかも︑一九の作品の上欄は〃

道典尽し〃や〃生活必露品の製法〃まで記してあり︑手軽な

節用染的な条件まで備えているのであって︑上下二十丁の小

冊ではあっても︑内存的にはかなり充火しているとみるべき

であろう︒ この作品には︑それぞれ狂歌が附され︑きわめて髄かでは

あるが︑それにつづいて会話体の詞書がつけられていること

を前に記したが︑その詞書のなかには︑当意即妙の滑稽も感

じられる︒しかしながら︑それらは︑この作品にあってはあ

くまでも副次的なものであり︑やはり一九が作品を記した主

意は︑童幼の啓蒙︑便宜を中心としていると思われる︒した

がって︑当然のことながら︑このなかから︑いささかなりと

も文学性を期待することはできないだろう︒さきに記した絵

本様のものもまた同断である︒してみれば︑これ等のいわば

埒外ともいうべき作品は︑ただ一九の晩年の一時期の特色を

示す以外に何等の意義ももちえぬし︑したがって︑ここに艮

々と述べることもまさに蛇足冗長の諦を受けるほかのもので

はないかもしれない︒ただ︑文政期にこのような薊類のもの

を何顧か︵それは一九のたんなる気まぐれではなかったとい

うことにもなる︶杏いたそのことは︑一九が戯作者であった

ということにおいて︑やはり今少し考えてみる必要もありそ

うに思われるのである︒

﹁淵旧盟年満作豆﹂はその序文に

O凡四民のうち膿業ほど身を労するはなけれども粒々辛謝は

則楽の郡を勝にして︵中略︶その生業のあらましを因にし

るして慰本となすのみ

とあり︑上欄は︑﹁柱船宝帆柱﹂のそれよりもやや大きく

(14)

蕊四分の一程をとって︑﹁田舎芝居﹂と題して︑やや﹁膝栗毛三編下﹂の﹁醒が井﹂の段の田舎芝居に似た内容が描かれて

いるが︑田舎らしい祝儀の品が並べられる部分以外は﹁膝栗

毛﹂とは異なり︑小噺風の簡単な滑稽課が記され︑下欄四分

の三には﹁籾蒔﹂より﹁御年貢納め﹂までの農家の年中行事

が狂歌一首ずつを挿入して描かれている︒その各場面はかな

り細かく記され︑しかも挿絵の人物の会話を中心として進め

られている︒特定の人物は登場しないが︑それなりに首尾は

まとめられ︑ことに上段のそれによって︑わずかではあるが

謎み物としての条件もととのえられている︒

﹁家財繁栄抄﹂の前筋は︑内容が外題に則したものであ

り︑後流は﹁からわたりせんにんそろへ﹂と別の外題がつい

ている︒内溶は

このような体裁で︑地口は︑青物の地口︑鳥づくし地口が

続き︑これに獣の前句築︑虫の前句集として

口 地 し く づ 魚

さわらにはぜかにつなぐ

ほうぼうにも誰のあやまりうなぎはさよりあなごうれ

ない

さけにするめはふなよくと

まる

いわしのかしらもしんじん

から

ここなくろだいものが 三升焚釜嶋知らかし強しと小営云ふ人はその身米くふ虫と知らずや鍋黒丸身のほどを汁の実にせよ破鍋に

とじ蓋せしぞこころ安かり ︵猪の画に︶瓜坊をふたりつれたる越後じし︵熊の画に︶山姥は熊こいこいとししをやり︵とんぼの画に︶とんぼうはもじ周衣に朱ざやなり︵馬おいの画に︶おじやれ女にいつか馬おい虫がつき二五例が響かれる︒前にあげた二作品とは︑またやや異なった椛想である︒後箭の﹁からわたりせんにんそろへ﹂は︑琴商・呂洞賓・張果・鉄拐など十人の仙人をそれぞれ黄表紙のオムニ・ハス風に詞杏をつけて描いている︒

﹁家内安全梨﹂は内題に愚燕勧稗懲悪児女鮒訓夷曲家内安

全梨﹂とあり︑序文は次のように記される︒

O︵前略︶此杏今流行の艸史の趣には異なりといへども神郷

の総る任せ︑上その主人より下奴僕にいたるまで誠となる

べき狂泳を添えて児茄の眠ざましに伽へんと頭桝には食物

餓成の伝を徽細にあらはし新製の数にいるる物ならし

一丁ウラニ丁オモテは見開きで家族の梨っている図があ

り︑二丁ウラから上棚には序文に記すように︑家庭用食品の

製法が説明され下棚には

O隠居祖父老いぬれば子に従ふのならひにて家につえつく

齢めでたき祖母手の届く丈は稼て今は世の世話をも棚へ上し気

楽さ主人繁昌は親の光りぞ今となりて頭の禿し身にぞし

(15)

らるろ

妾何事も操正しくつとめなぱ宝の山の神といはれん

とそれぞれの挿絵に教訓的狂歌が附され︑以下嫡子・二男

・三男・末子・妾から按摩・髪結・米搗・日雇まで二八穂︑

ことに町人商家に類縁のある人種が羅列してある︒

序文にも記すように︑一九自身は︑このような体裁・内容

の作品を当時行なわれた合巻類とは異種のものと心得てい

た︒埒外の作品ではあり文学性を論ずることは到底できない

ものではあるが︑作者がそれを知っていたことそのことに一

つの意味を認めたいのである︒しかも﹁家内安全集﹂は﹁宝

船桂帆柱﹂における節用集的な構成から︑一歩進めて︑直接

的な教訓︵それは安易でありごく常識的ではあるが︶をくり

かえしうたっているのである︒

﹁讐諭草心種本﹂は﹁家内安全粟﹂とはやや異なり︑上棚

を﹁天象類略図﹂として〃流星〃〃虹螺〃〃雲〃〃霞″から

〃陰雨〃〃風〃に至る天候の図示・説明があり︑下欄には︑

﹁ものはづけのたとへ﹂として

Oただ見せてやりし芝居の評判をわるくいはるるを飼犬に手

をかまれたるとはうまらぬもの︒たとへば其命日に鞘進を

さへせぬものなり︒片身わけしたたかやりたるがごとし

と十二例の讐咄が続けられている︒きわめて断片的ではあ諏るが︑教訓的であると同時に幾分の滑稀味も感じられるもの

である︒

﹁有喜世諺草﹂では︑上欄は﹁世中謡鵡石﹂と題して〃や

かましい親仁〃〃おしゃべりの婆〃〃手まへがっていふ鴫〃

〃いくぢのない男〃〃きいたふうの娘〃〃きのみぢかい亭主

〃〃つよい自慢の男″が︑式亭三馬の﹁早変胸機関﹂や﹁人

間万事虚誕計﹂の趣向をきわめて簡略にした形で︑一人称会

話で綴られ︑下欄は

O蛙の面へ水甘口な母は蛙のつらへ湯をかくるはあつき慈

悲としらずや

と畦が道楽息子に説教する図が︑会話で描かれ︑以下〃破

鍋にとぢ蓋〃〃嗅いもの身しらず〃〃鬼の留守に洗濯〃〃良

薬口に苦し〃〃年寄の冷水″など︑巷間周知の諺の絵解きが

狂歌とともに十八例記されている︒

﹁金儲花盛場﹂は︑﹁宝船桂帆柱﹂の統筋ともいうべきもの

で︑O︵前略︶商人のおのがさまざま仕出料理新酒屋金のなる生

蕎麦濡手に抓む粟餅の曲搗をはじめあるとあらゆる売物に

花をかざる狂歌を加えて新撰となすものならし︒

と序に記し

O茶見世愛相もよし賛のちや屋のさかり場や黄金の花香山

ぶきの色とこれも狂歌・会話とともに︑〃見世物〃〃揚弓″〃口中

(16)

詔療治〃〃軽業〃〃落咄〃〃軍書講釈″〃辻卜逓〃と︑主として大道の荷い商いの職業を三十八種あつめている︒

このようにみてくると︑前記の紹介はいささか煩鎮に過ぎ

たかもしれぬが︑﹁宝船桂帆柱﹂以下七甑の作品が︑一九が

草双紙を書いたおよそ三十余年の間︑その特色がともかくも

認められた般後の作品群であったということができよう︒そ

れらの一つ一つは︑一九自身が認めたごとく︑当時の一般の

合巻類とは著しく異質のものであった︒一質した物語性もな

く︑滑稽的表現はあってもそれはあくまでも副次的なもので 天保元年以後︑一九のオリジナルな作品に︑目ぼしいものはなく︑わずかに﹁三国志画伝﹂︵初篇天保元年刊十篇天保六年刊歌川国安画︶﹁結神末松山﹂︵天保元年刊歌川国貞画6冊︶﹁御挑替島廻﹂︵同年刊歌川国安画2冊︶﹁新製小人島廻﹂︵同年刊歌川貞繁・貞房画4冊︶﹁武勇功亀鑑﹂︵同年刊春斎英笑画5冊︶﹁女眉間尺﹂︵天保二年刊歌川国安画6冊︶﹁義経越路松﹂︵天保三年刊歌川貞秀画6冊︶などがあるだけである︒これらは︑その外題から想像されるように︑オムニバス風の伝記物か︑たんなる軍記物であって︑この時期としての特色というようなものは認められない︒このほかには寛政・文化・文政間の作品が三顧再版されている︒ あり︑黄表紙︑あるいは彼の文化末・文政期の黄表紙的作品にみられるような主題にそった滑稽ではなかった︒そして︑これらの作品に共通するところのものは︑﹁宝船桂帆柱﹂にみられるような﹁物尽し﹂︑節用染的な︑きわめて即物的な便宜を目的としたものと﹁警諭草心穂本﹂のように︑この場合は︑人間の気質の類型性を描くことによって︑そこにかもされる滑稽はやや主題にかかわるものでもあったが︑主意はやはり直接的な教訓におかれていたのである︒

これらの作品は一見するにすでに文学的価値を云々するに

はあまりにも隔りがありすぎて購購されるものであり︑極言

するならばいっさい無視してもさしつかえないほどの片々た

る小冊であり︑雑書にも類するしがない作品にすぎない︒し

たがってそれを意義づけること自体が︑かえって一九の全体

的な正当な評価のバランスを無理にくずすのではないかとお

それさえするものである︒

しかし︑一九の最晩年において︑このような作品が続出

し︑以後没年までの三︑四年には︑一九らしい特色をもった

作品がみえなくなってしまった事実は︑やはりその理由とし

て何かを考えずにはおられない︒

その理由として第一にごく常識的に考えられることは︑文

政期に入っての創作力の枯渇化が目立ってきたことである︒

その結果断片的︑オムニバス風の黄表紙的体救にもどらざる

(17)

をえなかった︒最後の一連の作品も︑それが︑断片的である

という点では︑決して黄茨紙的傾向から全く切り離されたも

のではない︒しかも︑これらのきわめて即物的な︑事実・砺

物の羅列は︑創作力の衰えた一九にとっては︑すがるべき格

好の手段であった︒ただ︑もし車実性・模倣・誠案をいうと

すれば︑これはかならずしも一九の晩年に限ったものではな

かった︒

理由の二として考えられるものは︑主に文政年間に入って

彼がかなり多数の往来物・案文類を書いている事実である︒

︵注6︶このことについてはすでに別の機会に触れたが︑その折に

は︑主として案文類をとりあげ︑一般的な往来物については

ほとんどふれることができなかった︒次に示すのは文政六・

七・八年における一九の往来物である︒

文政六年

﹁家具名尽文章﹂﹁児女長成往来﹂﹁義経勇壮往来﹂﹁弓

勢為朝往来﹂﹁義仲戦功往来﹂﹁頼朝武功往来﹂﹁勇略木

簡往来﹂﹁楠三代往来﹂﹁栄達足利往来﹂﹁頼光山入往来﹂

﹁万福百功往来﹂﹁人倫品定文職﹂﹁菅神御一代文章﹂

文政七年

﹁諸国山人往来﹂﹁英将義家往来﹂﹁新撰曽我往来﹂﹁勇

烈新田往来﹂﹁万祥廻船往来﹂﹁親族和合往来﹂

調文政八年 ﹁三韓平治往来﹂﹁故実四季文章﹂﹁永久家宅往来﹂﹁至徳諸芸往来﹂﹁蒙古合戦往来﹂﹁冨商呉服往来﹂﹁五節諸説往来﹂﹁文葦早道往来﹂﹁幼学世話字往来﹂﹁秀旭清盛往来﹂﹁調理名歌往来﹂一九の往来物の総数は︑五十七・八種があげられるが︑そ

のうちの半数︑三十種はこの三年間に出版されている︒この

うちのすべてが一九自身の手によったか否かは定かではない

が︑右にあげた作品のいずれもに︑一九の署名が入っている

ことはたしかである︒

なぜ︑この時期にかぎってかくも多数の往来物を書いた

︵許7︶か︑その理由も既に考えたことがあるので︑くりかえさない

が︑いま︑文政末年の一連の合巻にやや関連のあると思われ

るものを左に抄出してみよう︒

O親族和合往来

︵序︶此頃書騨錦耕堂の需るに任せ初学の児童の為に往来

物と唱を青表紙の大本僕之不才を以て其事を教るにはあら

ず︵後略︶

上欄

ウオ45長翁幼弱の称

老人を翁と云︑是長老の称な

り︑人十通以下を童と云︑二十

下欄

上者曽祖父母︑下従弟に至る迄

肉類之親属とす︑擬凡而妻之方

之続者親類と称せず︑縁者と云

(18)

4を弱と云︑いまだ柔なり︑三十

を壮と云︑四十を強と云︒

︵末尾︶五雑砠に云︒師と友には服なし︒服せざるは非

ず︒義恩厚薄等しからざる故と有︒凡親族之親敬中にも礼

議有翼肝也︑相互に和合し信鎧ある時は其子孫永久繁昌疑

なし︑側而此需如シ件︒

o三韓平治往来

昭︵上棚︶O腿を去る法︑ねずみの通ふ穴蒟蛎玉を入れ慨ぱ

おそれてふたたび来らず︑又蓮の茎もよるし︑o斑を去る

法︑茄団その外しきものの下へ苦参を散おかばことごとく

去る︒

◎新撰稗我往来

皿︵上棚︶武用兵器尽︒母衣は大体迩幅五尺あるひは七幅七

尺八幅八尺︒近代六幅七尺なり︑

O故実四季文竜

2︵上棚︶天文書に云羅は空中の気なり︑日月の光に週囲抱

て環をなすものなり︑かならず望月の前後上下弓張月のう

ちにあり︒︵以下流星︑虹娩・雲・霞等がそれぞれ説明さ

れる︶

往来物はすべて右の例に準ずるが︑文政末のいわゆる雑書

的な一連の作品は︑いずれも︑往来物の様式をなんらかの形 或は外戒とす︒祖父祖母者父之父母を云︑母の父母をば外祖父

外祖母と云︒

で︑あるいは場所で利用していることが認められる︒ことに﹁讐諭草心顧本﹂の上欄は︑右にあげた﹁故実四季文章﹂の上棚の図示説明と︑措辞までが酷示し︑これにならって記されたことは明らかであろう︒

このように︑一九の作品は往来物と軍双紙の融合をはかっ

たような作品であった︒往来物に体裁は借りたが︑往来物そ

のものではなかった︒これを狂歌・会話.それに伴う滑稽

が︑具体的蛎実を包み︑挿絵とともに洸者にみせたのであ

る︒

いわゆる通端の往来物は︑右の一部分によっても知り得る

ように︑茄幼鮒女の日浦.あるいは将来の使揃を主として作

られたものであった︒その結果︑必要以外︵当時として︶の

紀述は全くなかった︒全禰すべて挑者の知識捜得につながる

紀邪であり︑また飛法を知らせることであった︒自然文衆は

生硬になり︑具体的記述そのものの内容は︑それぞれの往来

物によって異っていたであろうが︑きわめて顛型的であり︑

哉者の興味を強く引くものではなかった筈である︒

作品そのものから得るところの知識は︑一般の往来物に比

べれば幾分乏しいかもしれぬが︑読者の興味と関心をひき︑

︵それが草双紙であるがために︶しかも知識獲得なり実践倫

理を会得することにもなりうる作品︑それが一九のこの一連

の作品を書いた意図ではなかったのだろうか︒つまり一九持

(19)

41

ちまえの当てこみが︑ここでも発揮されたのである︒

そして︑いずれの作品の序文にもみられる﹁版元からの要

諦﹂ということは︑もちろん謙辞ではあったとしても︑全く

真実を伝えていなかったわけではないだろう︒往来物と同

様︑それを模倣した文政末年の作品も決して一九自身の盗意

にのみよったわけではあるまい︒

以上︑一九の文政末年の合巻の傾向を︑文化年間からの流

れと合わせて考えてみた︒そして般後の一連の作品の傾向か

ら︑この時期の一九の姿勢をも想像してみた︒

これらの作品は︑伝奇的なものを除けば︑それぞれきわめ

て断片的であった︒また︑作品の物語を通しての間接的啓蒙

ではなく直接的啓蒙を試みた作品もあった︒これらの事実

は︑それが彼の妓末期のものであるだけに一つの象徴的な意

味をもっているように思われる︒すなわち︑一九の本質にか

かわる二面がはしなくもあらわれたことである︒

一九自身はあくまでも﹁噺﹂の作家であった︒処女作が

﹁心学時計草﹂であり︑それが﹁吉原の袖手という名高い遊

女が︑心学に心深く︑新造や禿を集めて識釈し︑十二人の客

に一昼夜十二時を平分して一時づつ勤める﹂内容であり﹁山

(六)

むすび

東京伝の筆禍以来酒落本に飢えていた江戸人士には︑酒落本

︵徳8︶調の﹁時計草﹂はなにがしか歓迎されたであろう﹂と解説は

されているが︑その組成自体は一刻ごとの話であり︑その

中には物語としての発展や︑それに伴う重層化は全くみられ

ないのである︒並列・羅列的な作品であることは間違いな

い︒

そして最後の作品ともいえる﹁金儲花盛場﹂の上段の人物

は︑これまた会話のみで綴った︑いわば瞬間的な場面の繰り

返しである︒素材の条件から当然のことともいえるが︑およ

そ︑時間的︑空間的な拡大を期待することはできない︒

おもうに︑十返舎一九は︑人物の葛藤︑時間と場所の移動

から生ずる展開︑複層化を作品の上でたんねんに辿っていく

ことに非常な困難を感ずる作家ではなかったのだろうか︒文

化年間を中心として︑彼も多くの﹁敵討物﹂を書き︑それぞ

れに一応の結構を保ち得てはいる︒しかしそれは︑すでに他

作者によって試みられたものをただ人物︑場所を変えてはめ

こんでいるにすぎないものが多い︒一九の﹁敵討物﹂には︑

式亭三馬の﹁笛太郎強悪物語﹂などにみられる強烈な印象を

残す作品に乏しく︑類型に堕した作品以外の﹁敵討物﹂を一

九の作品にみることはむずかしい︒

文化末年に黄表紙的傾向へかえっていったのも︑原因は単

純ではなく︑また一九一人の例ではなかったかも知れぬが︑

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