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b 一 ・ 一 一 一 一 ‑

5

︵7︶主なる論文を掲げれば︑大石慎三郎﹃江戸時代における腿民の家とその相銃形態﹂︵日本法社会学金網︑家族制庇の研究L

上七九頁以下所収︶︑大竹秀男﹁近世末期の腱村における家相続﹂︵﹁神戸経済大学五十周年記念総文築L法学綱Ⅱ﹁民法

及び法学一般﹂一○九頁以下所収︶︑同﹁江戸時代における腱民の家の相銃形態1分制相綻と単独相綻IL︵可神戸法学雑

誌﹂第七巻一号一頁以下︶︑同﹁江戸時代における農民の相続序列﹄︵可同上﹂第九巻一・二号二四頁以下︶︑熊谷開作

﹁江戸時代における農民相続篭の展開L︵﹁阪大法学﹄第二九号七九頁以下︶︒

︵8︶わずかに石井良助司長子相続制﹂︵﹁法律学体系L第二部法学理現趙篤型九二頁以下︑︶藤井幸可徳川時代における庶民の

遺言﹂︵可日本法学L第二四巻三号三九頁以下︶等が存する程度である︒

︵9︶可法と政治﹂第一三巻三号一四七頁以下︑同巻四号一四五頁以下︒

︵m︶可阪大法学﹂第四四・四五合併号︵故武藤智雄教授追悼論文集︶一八一頁以下︒

︵皿︶従って︑単に相続の問題に限られず︑あらゆる分野において︑町人の研究は百姓のそれに比すれば立ちおくれているのであ

デ︒︒

︵狸︶例えば︑中田易直﹁享保期における三井同族組繊の成立﹂︵﹁社会経済史学﹂節二十巻一号︶三九頁以下︑足立政男﹁近世

京都室町における商業経営l法衣装束商千切屋吉右衛門商店における場合I﹂︵立命鮒大学﹁人文科学研究所紀要L節5号

﹁家業l京都室町織物問屋の研究lL所収︶六五頁以下︑北島正元絹著可江戸商業と伊勢店l木綿問屋長谷川家の経営を中

心としてIL等︒

︵過︶尤も︑それだからといって︑明治初年以来直ちに町人相続法が支配的に施行されたと考えられるわけではない︒絶対主義的

な明治政権の下では︑それを望むことは到底不可能なことであり︑武士的な相続法は依然根強く残存した︒

︵皿︶明治期の相続法に関する主たる研究としては︑乾昭三・中川淳司室町織物問屋における家業の承継と分・別家L︵註⑫所掲

﹁家業L︶三一○頁以下︑石井前掲﹁長子相続制L︑石井﹁明治前期の分家法L骨法学協会雑捻﹂第六二巻五号︶︑同﹁明治

文化史L2法制絹︑原田慶吉可日本民法典の史的素描L︑高柳典三句明治家族法史﹂︵﹁法律学大系L第二部法学理諭薊8︶︑

同﹁明治前期の後見と仲継相続﹄︵司法律時報﹂第一五巻一号︶︑中川誇之助﹁末子相続し︵﹁家族制度全築LV相綻︶︑同

司姉家督﹂︵同上︶︑神谷力﹃明治民法施行以前における相続人の鯛飲制度について﹂︵司法制史研究し皿︶︑前田正治﹁明

治初年の相統法﹂︵家族問題と家族法LⅥ︶︑熊谷側作句家族法︵法体制邸側期︶﹂︵旬日本近代法発連史L3︶︑向井他﹁江

藤主催司法省民法会磯における相銃篭争し︵﹁法学研究L第三二巻四号︶︑同﹁ポアソナードの家督相続見込について﹂︵﹁同

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︵⑲︶木摘で使用する﹁全国民班佃例額築Lは︑すべて日本呼論社刊﹁法学錨瞥LM︵風早八十二解題︶のものである︒

︵卯︶例えば︑後述の如く︑加賀藩ではおそくとも元職十年閏二月以降は︑相統と同時に新司亭主Lに遺簡状の提出を命じている

が︑加賀国石川郡の憤行にも︑矢張り︒戸主ハ必ス存生中遺言状ヲ組合頭へ差出シ漣ノ俄例&︵﹁全開民蛎慣例類築﹂︵九七

頁︶とあり︑封建領主の規制はその侭慣習法となっている︒

︵劃︶前稿︵第三巻一号︶三頁︒

翁︶例えば︑可全国民事悩例類集L一○二頁所掲加賀国石川郡の慣行は︑可凡ソ家鵜相統スル者︿必ス遺言状ヲ差出ス例規ナリ

同居借主ノ者ハ此限ニアラスLと述べており︑遺言状の提出を命ぜられたのは︑家持町人に限られ︑同居借家の町人にはそ

の裟務はなく︑両者は全く別の取扱をうけた︒尤も︑地借の者︵家屋は自分所有︶については︑享和三年亥閥正月廿八日の

法令に︑﹃本町裏地借之分週番之投唯今迄町々作法揃居不申段二付相闘理候処河原町之鑑肴先述而御述申上肝煎ハ指竹共外

都而家持遺書之通相改瞳候間此度河原町之通都而相改可申侯但封通害可指出者二而茂大隈之指図ナラハ披遺番二為調可申侯

郡陛︵﹁町格﹂第一本所収︶とある故︑少くとも享和三年以降は︑家持と同様に過言状を差出さねばならなかったわけであ

デ︵︾︒ ︵蛆︶本稿で屡々引用する司町格L・司町会所覚書L・可町規秘録L・﹁司農典Lは︑何れも金沢市立図書館所蔵﹁加越能文庫﹂ へ ハ ヘ

171615

シ ー " ー﹁同上﹂第三巻一号二1三頁︑特に五頁以下︒ ﹃金沢法学L節三巻一号一頁以下︑同巻二号六○頁以下︒ ︵﹁法制史研究L蝿︶二一六頁以下の﹁引用研究文献一覧﹂参照︒ 号︶等を掲げ得る︒なお︑詳細については︑山中永之佑︑向井健︑利谷侭装﹃戦後における明治家族法史研究の問題点﹂ 上L第三二巻五号︶利谷侭義﹁塁審制度の榊造と槻能﹂︵二・︵二︶言︵﹁社会科学研究し節一三巻二・三合併号︑同巻四

本である︒ 同上︒

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7

私は前稿で加賀藩百姓相続の本質を高の相続に求め︑百姓の相続とは高支配者l貢租拠出貴任者lの交替であると

一4︵す且︶断じた︒然らば︑町人相続の本質は何であったか︒

町人相続の本質を見定めんとする場合︑封建社会において町人階級がどの様に処遇され︑それに対し︑町人がどの

棟に対処したかを明らかにしておかねばならない︒

封建領主は封建財政の基礎をなす米の生産者として︑百姓に対しては多大の関心を寄せ︑従って又︑その生活全般

に対しても厳亜な干渉を加えた︒これに反し︑専ら商品流通に桃わり︑精々加工品の生産にしか従事しない町人に対

しては︑封処剛主は極めて冷淡・無関心で︑その生活についても︑武士・百姓に悪影響を及ぼさない範囲であれば︑

略放任主義の立場をとった︒

ところで︑﹁世事見聞録﹂の著者は︑﹃商人は年貢も出さず︑国役も助ずして︑世間広く徳分取次第に成り︑世に難

有業也︒尤其筋に依て︑運上と云事もあれども︑夫は総徳分の百分の一にも当る秘の事にて︑武家・百姓の振合とは

︵⑳■︶絡外の述いなり︒﹄と説き︑町人が封処財政とは全く関係のない極めて気楽な階級であったことを指摘しているが︑か

かる事憎は︑別に加賀藩についても異なることはなかった︒加賀藩の財政についてみれば︑その収入の七・八割迄は

︵︒②︶農民が拠出する租米︵蔵入米︶︑即ち﹃物成﹂で占められており︑﹃物成﹄以外の収入といえば︑﹃定小物成﹄・﹃散

︵4︶小物成﹄なる雑税︑及び塩専売の収益がわずかに存したに過ぎない︒そして︑加硬藩財政の基礎をなした﹃物成﹄は

勿諭のこと︑﹃物成﹂以外の収入も︑実はその大半が股民によって拠出されたものであった︒町人が拠出したものといえ

︵α︾︶1ば︑近世後半期に﹃定小物成﹄の中に含められた﹃町役銀﹄︑及び﹃散小物成﹂の中に含められていた﹃地子役﹄︑

当豆腐役﹄・﹃室役﹄・﹃紺屋役﹄・﹃鍜治役﹄.﹃澗役﹄・﹃畳役﹄・﹃薄縁役﹄・﹃紙役﹄・﹃酒運上銀﹄︒

︵6︶﹃油振売役﹄・﹃茶代役﹄・﹃味噌醤油酢役﹄・﹃米売役﹄・﹃太物役﹄・﹃瀬戸役﹂・﹃伝馬役﹄等︑極くわずか 一相続の本質

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8

︽羽︶︲4乗り越え得たかは図り知れない︒

更にかかる御用金の賦課以外に︑なお封建領主が町人の富を頼りにした場合が見られた︒所謂﹃大名貸﹄といわれ

るもので︑大坂等の富豪商人よりの借銀︵調達銀︶で︑別に加賀群だけに見られた現象ではなく︑周知の如く︑広く 御用金の賦課は︑単に町人のみを対象として行われたものではない︒農民に対しても︑又同様にその上納が命ぜら

︵肥︾れ︑又武士に対しては︑借知という方法により上納が命ぜられた︒しかし︑御用金の賦課において︑封建領主が汲も

︵︶期待したのは︑何といっても町人であり︑町人がその大半を負担したといっても過言ではない︒しかも︑藩財政が窮

︵釦︾乏を告げた近世中期以降においては︑臨時の出費がある度に︑必ずといってよい程頻繁に御用金の賦課を命じ︑甚し

い場合には︑わずか十数日のうちに七千貫目に上る癌大な金額の上納さえ命じている︒周知の如く︑この御用金は後

︵瓢︶︵錘︾

に述べる借金とは異なり強制的なものであり︑かかる意味において︑封建倣主が町人の富により︑如何に旗々急難を ︵︒︐︾秀回︾な営業税に過ぎなかった︒土屋喬雄氏は加賀藤の財政収入に娩明を加えた後に︑﹃商工其他雑業がこの藩の財政に寄与する所いかに小なりしかがわかると思売︾﹂と指摘されているが︑正にその通りで︑加賀藩財政は一に農民によって支えられていたといっても過言ではない︒

しかし町人が近世全期を通じ封建財政に貢献したものが︑上述の如きわずかな税の上納に尽きたわけではない︒幕

末にいたる迄︑これといった商業的作物を有せず︑飽迄米に頼らねばならなかった加賀藩では︑その収入は近世全期

︵︑︶︵蛇︶

を通じ殆んど固定的であり︑それに反し︑物価の高睦︑家臣団の慶誕︾天災の続発による農民の疲弊︑度重なる冠婚

︽蝿︶︵M︾︵猶︶

葬祭︑幕府よりの土木工事︑遁大な参勤交替費用等により︑既に六代藩主吉徳の頃には藩祖利家以来貯蔵してきた巨

︵鴉︶︵w︾

額の取用金も消班し尽し︑藩財政は早くも窮乏を告げ︑支出は術に収入を上廻るという邪態に追いこまれた︒そし

て︑これが打開には︑最早や貢租のみをもってしては到底不可能であり︑勢い御用金の賦課という非常手段に訴えねて︑これが打開﹄

ぱならなかった︒

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1 − I一

9

諸藩において行われたものである︒加賀藩は既に早くより大坂蔵屋敷の手元で︑米を担保に大坂町人より莫大な借銀を

一釦︶していたが︑かかる領外よりの借銀が︑ただに大坂町人のみに限られたわけではなく︑江戸︑京都等の町人からも又

︵器︾多額の金額を借りうけた︒しかし︑これ等領外の町人よりの借銀はしばらく拙くとして︑領内の富豪町人からも御用

︵調︶金以外になお莫大な金銀を借り入れている︒勿論これは御用金と異なり︑決して強制的なものではなかったが︑富有

︵︾な町人達は雛のこの要諦に応ずることにより︑藩権力との結びつきを図り︑今その金額を洋かにすることは川来ない

が︑可成りの額に達したものと思われる︒

上述より明らかな如く︑町人が藩財政に貢献したのは︑決して経常的なわずかな﹃町役銀﹄・営業税等に尽きたわけ

︵詔︾ではない︒町人を主たる対象として行われた強制的な御用金︑更に常豪町人を対象として偕銀等において︑町人も又

百姓に劣らず大いに封述財政に寅献した︒しかし︑これ淳御用金にしろ︑又借釧にしろ︑それは飽迄臨時的・非術手段

︽︶としてのものであり︑決して好ましい方法ということは出来なかった︒何故なれば︑これ等は貢租と異なり︑無条件に

︵鋤︶藩収入となすものではなく︑やがては危大な利息を付して支払わねばならない厄介な存在であり︑むしろ︑これ等は藩

一狐︶財政を一胸窮乏化せしめる亜大な契機とさえなったのである︒要するに︑封巡航主は万止むを得ない場合は︑この梯

に町人の富に頼ったが︑それは飽迄臨時的・非常手段に過ぎず︑幕末にいたる迄︑股民の拠出する貢租こそ藩財政を支

︵型︶える唯一・最大のものであるとの観念を︑決して捨て去ることはなかった︒

本来町人の富は封建領主の雌も忌み嫌った収利行為により蒋積されたものであり︑これを斑視する思想は封建道徳

として確立されていた︒利潤をもって生計を立てる卑しむべき階級の宿に頼るが如きは︑封述支配者として我慢のな

らないことであった︒上述の如く封建領主は︑万止むを得ない場合は︑町人の富に頼らなかったわけではないが︑そ

れでもなお町人を蔑視し︑金銀を蔑しむ思想は捨てなかった︒金銀の不足に泣き︑喉から手の出る程金銀を希んだ封建

領主が︑極端に金銀を蔑視するという︑一見極めて矛盾する態度を︑封建傾主は平然としてとったのである︒封建領

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主は町人の蓄蔵した金銀を蔑視すると共に︑この金銀に対し兎や刈の干渉を加へることを︑鮫も恥ずべき行為と観念

︵鋤︶し︑全く放任主義の立場をとった︒

かかる封建領主の観念は︑町人相続についても当然その侭貫かれた︒藩財政に対し何等の貢献をもしないのみか︑種

しい収利行為により蓄秋された町人の宙が︑どの棟に町人間において相続されようと︑それは封建航主にとり全く関

係のないことであり︑又それに干渉するが如き行為は︑支配者の体面を穂すものとされた︒かくして︑ここに百姓相

続につき徹底した干渉主義の立場をとった封建領主も︑町人相続に対しては全く放任主義の立場をもって臨んだ︒同

じ庶民の相続とはいえ︑百姓相続に対しては干渉主装︑町人相続に対しては放任主義という︑封姓価主の顕蒋な差別

町人相続に対する封建領主の放任主義の立場は徹底している︒相続形態につき全く干渉を加えなかったのみなら

ず︑相続人の資格︑相続人の選定についても町人の自由に任ね︑何等の干渉をも加えていない︒担税能力の維持︑開

作能力の確保という封建領主にとり危急存亡の亜大事項のため︑相続全般につき厳枯な規制の加えられた百姓相続に

対し︑封建財政上さしたる利害関係を持たなかった町人相続については︑後述の如く︑例外的に遺言状の取扱という

形式的な事柄につき︑可成り厳璽な規制が見られたのみで︑相続の璽要な部面については全く町人の自由に任ねた︒

︵郭︾中田易直氏は︑﹃町家の相続については︑直接に封建法の影響をあまりうけず︑比較的慣習や遺言に従う場合が多﹄

かつたと指摘されているが︑蓋し当然のことといわねばならないp

ところで一方︑封建領主により上述の如き処遇を受けた町人は︑これに対しどの橡に対処したか︒彼等は武士によ

り蔑視されればされる程金銀に執着し︑金銀の蓄積に骨身を砕いた︒西餌は﹃金銀が町人の氏系図なるぞかし﹄︵﹁日

︵鋸﹀本永代蔵﹂︶と説いているが︑正に﹃死ぬまで金銀を神仏と尊ぶ︑これが町人の天の道﹄︵近松﹁山崎与次兵衛寿の門

︵露︶松﹂︶であったわけである︒従って︑町人の致富の手段として︑﹇義理をかき︑噸をかき︑恥をかく﹄所調﹃三角の じ庶民の相続とはいえ︑蕾的待遇はかくして生れた︒

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この様な町人の金銀に対する極端な執着が︑町人相続の上に反映された場合︑町人租統がどの様に観念されたかは

︵鋼︶自ら明らかであろう︒町人相続の本質は︑正にこの町人の氏・素姓とされた金銀の相続以外の何物でもなかった︒加

︽㈹︶賀藩町人相続法では︑﹃家財﹄という淡現が使われているが︑要するに﹃家財﹄も金銀の別名に過ぎない︒百姓は封

︵伽︶建領主の規制により高の相続から抜け出ることが出来なかったが︑町人は脚由に封建価主の蔑視した金銀の相統に没

頭し得た︒巧みな収利行為により祷積した莫大な金銀の相続を︑町人は誰に仰ることもなく自由に行い得た︒町人社

会で艇々見られた寓豪町人の二代目・三代目の大尽遊びは︑労せずして机統により縦にころげ込んだ金銀の浪班によ

り行われたものである︒中田博士等により︑京都地方等に﹃死後談﹄な為独特な町人の籾続形態が見られたことが指

︵蛇︶︵棚︶

摘されているが︑かかる慣行が発生したのも︑その元を正せば︑町人相続の本質が金銀の相続であり︑この金銀を巡

る相統紛争が︑如何に激烈を極めたかを如実に雛するものといえよう︒

町人相続の本質を金銀相続と見倣す以上︑町人相続につき家督相続︵家相続︶と遺産相続︵財産相続︶の別をそれ

︵︶程亜視する必要はない︒中田博士は徳川時代の庶民の相続には︑一応家名相続・祭杷相続・跡式相続及び家督相続の

︵妬︾¥四種の観念が存したが︑これ等のうち﹃家将ナル譜ハ︑武士ノ間ニアッテモ平民ノⅢニァッテモ︑邪実上遺跡又ハ跡

︵侭︶︵鞭︶︲

式ノ意味二外ナラズ﹄︑それは中世にみられた如き﹃家長権﹄を意味するものではなく︑結局徳川時代の庶民相続は

︵柵︶家名相続・祭杷相続及び跡式相続の三種相続の結合に過ぎなかったと税かれているが︑正にその通りであったといわ 法﹄が強調された︵とも思わなかった︒

ねばならない︒

しかし︑金銀︵跡式︶の相続をもって町人相続の本質と解する私には︑中田博士の主張される︑家名相続が主にし

て︑跡式相続・祭杷相続が従なりとの鐇蔭賛同することは出来ない︒中田博士は︑武家法においては跡式相続が主に

︽︾︵詔︾

が強調されたのも蓋し当然であり︑金銀を得るためには︑盗賊・泥棒・乞食と罵られても︑別に何等恥ずかしい

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12

0

︵帥︶して家名相続は従であったが︑庶民法ではこれと逆に︑家名相続が主で跡式相続が従だったと説かれ︑その根拠とし

て︑庶民階級では侍階級にその類例を見出すことの出来ない︑辿産のない純然たる家名ばかりの相続が存したことを

︵郭︶掲げられているc中田博士の掲げられるこの類例は︑百姓に関するもので︑町人相続の本質を見極めんとする現在︑

それは別に何等妨げとはならないが︑少くとも町人相統については︑金銀を伴わない相続といった如きものは︑全く

︵陀︶無意味なものに過ぎなかった︒

町人相続においても︑相続人は被相続人の称した名前をその儘鐘りうけ︑又屋号︵店名︶をも合せ継承するのが一

︵錘︶般であった︒しかし︑かかる製名・屋号の継承をもって︑相統の本画と解することは出来ない︒それは飽迄金銀を得

るための手段に過ぎず︑名前・屋号そのものは極めて空虚なものでしかあり得なかった︒中田博士は︑この家名相続

をもって︑唯蝋に文字の示す如き名字の相続につきるものではなく︑それは﹃祖端﹄相続を意味したものであると主

︵鈍︶張されるが︑武士階級ならいざ知らず︑たかが町人の名帥がそれ程尊い価値あるものであったわけではない︒町人の

名前︑屋号を尊亜する思想は︑一にかかって︑それが町人の信用の度合を示すバロメーターとされたからに過ぎず︑

所詮それは金銀を独得するための手段でしかあり得なかった︒さきに家督は徳川時代には酬実上跡式︵金銀︶に包択

されたと説いたが︑この一事からも窺える如く︑金銀の相続を度外視して︑町人相続の本質を探ることは出来ない︒

中田博士は︑﹁徳川時代の親族法相続法雑考﹂の中で︑諸種の証文文例染に収められた適言状の雛形を掲げられてい

︵出︶るが︑それ等の大半は︑﹃鍍状之難一我等跡式之内︑何町居宅屋敷壱ヶ所土蔵諸道具何品別紙目録之迦金子

何百両其外商売取引借付金銀一式帳面之通者︑惣価誰江誠置申候処実正也︑並何町掛屋敷壱ヶ所金何両次男誰江譲

申侯︑且又何町掛屋敬壱ケ所ハ娘誰江為取申候︑右之通二而賭親顛中沙遮乱申者一人も無之候︑万一何灼と申者出来

︵︾候者︑此証文御取捌被成可被下侯︑為其誠状如件﹄といった如く︑家財の該渡・分配に関することで占められてお

り︑家名の相続のことが記されているのは︑わずかに弘化元年﹁東都藤岡屋板手形証文﹄に収められた一通に過ぎな

(13)

1 − − = 一

13

︽駒︶い︒遺言状は勿論相続の実態を最も端的に表明したものと見なければならないが︑家名の譲渡について一言も触れて

いない遺言状は極く普通に見られるが︑家財の謎渡・分配について記していない遺言状を︑私は曽って見たことがな

家名が相続の本質と考えられなかったと同様︑家業も又相続の窮極的なものと考えることは出来ない︒石井良助博

︽鑓︶︵認︶

士は家業︵商事︶の相続をもって町人相続の本質と解されているが︑私は直ちにこの説に賛成することは出来ない︒

町人にとって︑家業が何であるかはそれ自体としてはそれ程賦要な小柄ではなかった︒家業も又金銀を得るための手

段に過ぎず︑金銀が多く得られる可能性の下に︑一般的に同一家業が継承せられた迄である︒

以上︑私は封建頒主が町人をどの様に処遇し︑又金銀に対しどの様な観念を懐いたか︑更にはかかる封建領主の処

遇・観念に対し︑町人がどの梯な態度をもって臨んだか︑特に金銀に対し如何なる観念を懐いたかを検討しながら︑

町人相続の本質を探ってみた︒私は金銀こそ町人相統の本質と解することにより︑娘も的碓に封廸社会における町人

の姿を把え得るのではないかと考えている︒

哲学史学篇9︶一二三頁︑﹁石川県史L第参縄一四九・五○頁参照︒ ︵5︶同上六二頁︑及び水上一久司城下町金沢の職業栂成l文化八年金沢町方絵図名張による考察lL︵金沢大学﹁法文学部論集L

︵6︶土風前掲密六一・二頁︑水上前掲錨文一二三頁︑可石川県史L節参縄一五○四頁参照︒ ︵4︶同上六一・二頁︒ ︵1︶前稲鯏三巻一号一○頁以下︒︵2︶可近世社会経済窺笹L節一巻一九二頁︒その他︑同上︑一五六・一八八頁等参照︒なお︑大坂・江戸等における町人の具体

的な税負担等については︑隈崎渡﹁江戸時代商人の経済的負担i近世商人法の一鮪IL︵﹁法学新報L第五七巻三亘畢二

二頁以下︑野村兼太郎﹁江戸﹂︵﹃日本歴史新書L︶九○頁以下︑幸田成友﹁江戸の市制﹂重ロ波講座﹁日本歴史L︶二五頁

以下︑宮太又次﹁大阪L︵﹁日本歴史新害L︶二四頁以下︑黒羽兵治郎﹁況枇の大阪﹂二二五頁以下等参照︒

︵3︶土屋弼雄﹁封建社会肌蝋過程の研究L八六頁︒

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14

︵7︶な稔これ等以外に周知の如く︑町人にも夫役が課せられ︑後にはこの夫役は叩ら銀納で行われ︑藩収入となった︵﹁石川

県史﹂第参網一四八・九頁︒︲

︵8︶これ等町人の負担する税のうち︑その主要部分を占めた﹃町役銀Lについても︑司覚一︑五十五貫目計本町役銀一ヶ

輔罐町重盈式手両璽七十#︶此分伝馬役銀等︑其外駅役に拘り候入用銀︑本文之通︒L︵同上一五二頁所掲︶とあるより窺える如く︑農民の負

担する貢租に比すれば微々たるものに過ぎず︑しかも︑それも磁接藩財政を洲すものとして使用されたわけではなく︑伝脇

役等に当てられたのである︒

︵9︶前掲書八六頁︒

︵皿︶加賀藩の武士が朔乏し︑藩皿より金銀の催用を受け始めたのは︑既に四代藩主光商︵唖癖式︷癖嘩︶の時代であったが︑五

代綱紀の世︵証岬に粋垂朋︶にいたり一届甚だしくなり︑慶安三年︑寛文二年︑寛文四年と相次いて借銀が行われたが︑特に

延宝四年に行われた所謂﹃巳年の大借銀Lは特に有名なものであった︵﹁石川県史L第弐絹四三二−五・四九四・五頁︶・

これ以来武士は蕪末にいたろ迄︑絶えず困窮より脱することが出来なかった︵同上五○一・二頁︶・

︵鯉︶特に般初の凶欽は︑五代藩主綱紀の元醗八年に訪れたものであった︵同上四四三六頁︶・

︵蝿︶特に延享二年六代藩主吉徳が死亡してから宝歴三年にいたるわずか九年間に︑吉徳の子宗辰︵七代︶・璽熈︵八代︶・重端︵九

代︶の三人が相次いで相続するという有様で︑︵何れも十九才から二十五才の若さで死亡︶︵﹁石川県史L第弐縄五五五頁以

下︶︑その間における邪式と相続の儀式に賀した金は莫大なものであった︒

︵皿︶所削司御手伝Lと称せられるもので︑外棟政大の藩であった加誕藩に対しては︑幕府は殊更に過敢な役を課している︵﹁石

川県史L第弐編七二頁参照︶︒就中︑万治元年の江戸城天守台の築城には︑在々より五千人の人夫を徴発し︑銀五千賞を

費している︵土屋前掲書七○・一頁参照︶︒

︵躯︶例えば︑延宝七年三月十四日御算用場より林十左エ門等︵郡邪行︶へ下された番付︵﹁改作所旧妃﹂上組三二九頁所掲︶に

は︑司殿棟近々江戸御参勤に而候所︑道中御入用銀不足被遊候︒近々にも上方にて成共︑御借可v被y成倹得共︑俄之邪二而

候へぱ︑当町並御郡方より御借不ソ被y成候はでは︑御参勤手間申侯ざとあり︑既に近世中期には参勤交替費用の捻出に手

を焼いており︑その後は一願この蜜用の捻出に苦瞳するのである︒文化十一年上街道を通っての参勤に費した金額は一万五

千両といわれ︵﹁加賀藩経済小史﹂︵﹁郷土シリーズL1︶一二九頁︶︑それが如何に施大なものであったかが窺われる︒ ︵︑︶同上︒

(15)

r 一

15

申六月

当時における農村と町方における人口捌合より推察すれば︑如何に段村に比し町方の負担が大であったかが︑容易に窺われ

よう︒なお︑この表に︑能美郡・ロ郡の名が見られないのは︑両郡は未年︵天保六年︶の司御当用方冥加銀指上候者共Lが

多かったとの理由で︑この際の御用銀賦課からは除外されたからである︒

罰︶御用金の賦課は︑近世期を通じ前後数十回に及んだといわれているが︵﹃石川県史L第弐編六九二頁︶︑特に寛政八年から ︵躯︶﹁石川県史﹂第弐網五六一賀︒︵Ⅳ︶同上︒︵昭︶例えば︑弘化元年九月に江戸城炎上につき御用金の賦課を命じているが︑その賦課荊合は武士に対しては︑百石に付き六十

目の割合で三カ年間の借知を命じ︑町人に対しては︑家一軒につき一カ年十二匁宛三カ年間︑農民に対しては︑一軒につき

六匁宛三カ年内の上納を命じている︵可加賀藩史料L節拾五網五九六頁所掲司賭事要用雑記﹂︶・

︵四︶例えば︑天保七年六月碩内に対し向う五カ年内に四千五百貧目の用銀の上納が命ぜられているが︑その内訳は次の通り︵﹁加

賀藩史料L第拾四綴六七五頁所引司郡方御触L︶・一︑四千五百賞目天保七年御領国御用銀惣高但五ヶ年に御取立之事内二千七百八十賞目御郡方此内千五百六十六貫百六十九匁七分四厘去未年諸郡より御当用之方江指上銀高残而千二百十三貫八百三十目今般御用銀高

此割

九百八十笈目五十二賀目五十獄目 五百貨目五十八賞目五十貫三十目 石川郡砺波郡松任

魚 換 金

六十賃目六十五批目

五十五箇目 百五貫八百目 四百四十貢目

雷腰

小松安宅所口 河北郡射水郡 五十貫目十賞目

八 八 六

獄慈

目 目 目

遠所寺社 今石勤三ケ所 本吉 新川郡 奥郡

(16)
(17)

一 一=一一一一一 一 一 一一一一一 ‑− ー 一

17

︵︶例えば︑加孤の磁牽銭屋五兵衛についてみても︑彼が藩椛力と結びつき︑掴に活剛し禅たゑ初の勤観は︑御用金の上納から

内五十曲目

一︑百五十賀目

一︑百五十貫目

一︑百五十貧目

一︑百五十批目

一︑百批目

一︑百貨目

一︑百貨目

一︑五十貫目

一︑六十世目

一︑百蹴目

一︑五十貫目

一︑百貫目

一︑七十画目

一︑五十戯目

一︑五十撒目

一︑五十批目

一︑五十貫目

一︑百五十貫目ゞ

一︑七十画目

一︑百五十貫目〆二千六百四十貫目

とある︒なお︑前註参照︒ 外二万両

外二万両三

照 柵 本 湊 同 淡 同 本 湊 同 大 同 金 安 所 金 粟 金 伏 放

蝿 川 吉 吉 野 沢 屋 口 沢 崎 沢 木 津

浜 小 紺 熊 橋 魚 尾 加 熊 丸 丸 中 桜 小 越 田 木 才 能 綿 同

岡 泉 田 本 山 登 田 坂 中 中

展 鴎 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 神 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋

国与兵衛

h 弥三兵衛 太三郎 三郎兵衛 吉左ヱ門 寛次郎 八郎兵衛 勘兵衛 九兵衛 八郎兵衛 伝右ヱ門 伝四郎 茂兵衛 理兵衛 半左ヱ門 久左ヱ門 弥兵衛 次助 孫太郎 三右ヱ門 彦九郎 喜太郎分

(18)

18

であった︒特に天保の大蝋蛾に際し︑御用金の上納と引替に彼が狸得した加賀藩御用船の主附役︑即ち︑司御手船扱許座の

役は︑後年彼をして海上に活剛せしめる契機となったのである︵鏑木勢岐﹁銀蝿五兵衛の研究﹂五○頁以下参照︶・

翁︶なお︑これ等御用金・借銀以外についても︑例えば︑御用金の上納が思わしくなくなった文政元年十月より始められた可仕

法調達銀&なる取除無尽に類似した仕法︵﹁石川県史L第弐編六九二頁︶︑更には︑同八年七月より行われた河御召米L︵同

上六九三頁︶なる仕法等︑封建領主は次々と新手を考え︑藩財政の窮乏打開のために町人の富を願りにした︒

︵豹︶このことは︑近世初期藩財政の均衡が保たれていた時代には︑御用金・借銀蛎は見られず︑専ら武祖のみに頼っていたこと

より明らかである︒なお︑近枇後期に健全財政簸が樹立された場合︑必ず司物成鵬︵貫租︶と支出の一致が強調されている

こと︵註︵躯︶︶等参照︒

︵釦︶例えば︑元藤十六年十二月現在で︑江戸・京都・金沢での借入元高が一万九千八百五十貫八百九十九匁一厘であったが︑こ

の利息は二千三百三十三獄七百五十三匁六分の多きに上っており︵土屋前掲番七七頁︶︑又明和四年には︑江戸・大坂のみ

の惜金元商三万二千七百六十八曲七百八十目︑その利恩が三千五百十六批四面二十目であった︵同上七八頁︶・因みに︑延

享四年における加賀藩の入用は︑伺元入用三千二百六十世目︑江戸表入用六千画目︑京都入用七百八十微目︑大阪入用二百

五十批目︑都合一万三百箇目であった︵同上一○二頁︶・

a︶前註より既に近世中期において︑加賀藩の借金が如何に巨額なものであったかが推察されるが︑その額は時代を経るに従い

期しこそすれ一向減少することはなかった︒例えば︑安永四年正月に提出された木屋孫太郎の司上杏﹂︵﹁加賀藩史料﹂第九編

一○頁所掲︶によれば︑司既大坂前々御仙銀間凡六万批目L︑司当町︵金沢︶井粟崎・本吉郡米・銀惣御かり入商︑凡一万

批目録出と記されている︒そして︑かかる施大な借金の返済方に関し藩当局者は随分苦麗している︒﹃泰霊公御年譜﹂宝歴

十年三月の条︵﹁同上﹂第八編一五一頁所掲︶によれば︑御銀方御隠密御用として藩吏を大坂に派遣し︑大坂表の借銀三万

撒目余につき︑鴻池等の銀主に対し五十カ年賦償運の要諦をしているが︑銀主共はユ円承引不仕︑前月廿四.五日頃は毎

日人数四・五百人充御屋敵へ訪懸︑必寛之所御国へも罷下︑夫に而埒明不申節は江戸評定所を歴可申旨に而︑殊之外騒敷に

付︑又三家之者へ申波︑今一往遂愈鏡可申旨申渡︑一先相紗慨候由︒此儀に付御払米入札仕候者無之︑惣体大坂表浜相甥引

下げ申由︒﹄と云った有様で︑借銀の弁済の見通しが立たないため︑払米の入札者もないという非荊時さえ引き起している

のである︒なお︑可司農典﹂第三本所収天保元年二月改作奉行への申渡に︑句大坂御廻米御指止候而者江戸表御仕送指支睡御

借金之取捌一円難相成左候得者無拠御借金之分は不得止事公訴にも及可申彼是御外聞にも拘り候御難渋共可致出来侯Lとあ

ること零参照︒

(19)

「 一 − ー 一 一 ー 一 一 一 g T

19

翁︶例えば︑中田博士所引の小説・院本の類からも︑町人相続において金銀が如何に大きな比重を占めたかを親うことが出来

る︒今︑その二・三を掲げれば︑地友作︑当世銀持気質Lには司畏者二代なしといふたとへあれど︑家賃針つかふて仕廻ふ

てからが︑残った家屋敷と有銀で︑十代や二十代は蕪される家督﹂︵前掲私法二○○頁︶とあり︑又﹁本朝藤陰比聯Lには︑

可惣じて養子の金銀持参するは︑養父の方に家屋敷か落着きたる家督を的にして︑敷銀持参すると見へたりし︑︑︵同上二○○

・一頁︶とあり︑更に西餌作司日本永代蔵Lにも︑司今時の後家立るは︑其死跡に過分の金銀家督ありて︑欲より女の親類

異見して云々し︵同上二○一頁︶とある等参照︒

︵︶第六節所引司譲り状L・﹃譲り請状L等参照︒

a︶百姓は否応なしに商の相暁を行わねばならず︑特に加賀藩では司二升高と︵昂名高L︶なる制度が存し︑百姓が商を売側す

る場合にも︑可二升商Lは是非践さねばばらなかったため︵前稿︵第三巻一号︶二七頁︶︑わずか司二升高Lでも相続せね

ばならない場合さえ見られた︒ ︵調︶同上一七六頁︒ 翁︶例えば︑寛政六年二月十三日の申渡︵可加賀藩史料L第拾輻五○八頁︵﹁政隣記し︶︶に︑可御勝手御運方種々御愈鍍被仰付侯

得共︑元来御取箇不致符合︑年々及御不足侯に付︑御取箇与致符合候繊被仰付侯催︑御治定被遊侯甘篭去午の年申波候

処︑右符合之処御図りも不被仰付故︑今次同扱之御迎方に而︑次第に御難渋深相成侯︒如斯に而者珊寛被成方も無之段に至

り侯事に付︑今般御出納符合永久全御運方之処格別御愈議被仰付侯︒︵下略︶しとある如く︑近世後半期にいたり藩財政の建

て直し策が辨ぜられた場合には︑必ず司御取箇﹄︵貢租︶との符合という漿が打ち出されているが︑これは封睡領主が結局

頼り得るものは年貢以外にないという観念を捨て切らなかった証拠といえよう︒なお︑﹁司農典﹂第五本所収天保七申年三

月広瀬平丞等より諸郡への申渡等参照︒

︵鍋︶拙稽可加賀藩家法の性格し︵金沢大学司法文学部趙築L法経筋5︶七四・五頁︒

︵認︶前掲鐙文五二頁︒

翁︶海保青陵は︑勺大坂ノ町人ハトント格式ハナシトシタルモノナリ︑・・・唯ノ素町人ノシラベナリL︵司諭民談L︶と説いている

が︑これが町人のいつわらざる姿であった︒

翁︶なお︑﹁商人平生紀﹂︵可日本経済大典﹂第十三巻所収︶に︑可商家に在ては金銀を畷け︑出世をおもふより外有まじき覗哩︵七

二六頁︶とあること等参照︒

︵説︶なお︑﹁惟塀見川録﹂︵﹁近世社会経済寵瞥L第壱巻所収︶一九三五︑一九七頁等参照︒

(20)

亀︶中田前掲可徳川時代の親族法相焼法雑考L六一二頁以下︑小早川同司司死後識し考L第四九巻五号三四・五頁︑及び山中同

君文一八一頁以下参照︒なお︑小早川氏の研究によれば︑この﹃死後識Lは京都・伏見q大津の諸地方に見られ︑同じ上方

でも大坂・奈良では見られないとのことである︵可可死後製し考L節四九巻五号三五・六頁︶︒

翁︶小早川氏は﹃死後識L證文の中心をなす文言は︑可譲主の死後︑客体なる跡式或いは家屋敷が特定の受瑚者に移転す可き旨

の文言程で︑可かかる文言の故ける溌文は此れを以って︑死後溌状と見る事を得ない︒L︵前掲﹁司死後謹L考L第五○巻一

号六六頁︶と晩かれているが︑﹁死後識﹄は︑特に町人相統においてその中心をなす﹃家財L︵金銀︶につき︑これが被相

焼人死亡の際︵相焼原因の発生の際︶に︑被相続人の意思に従って︑しかも円滑に議渡されるために絹み出された制度であ

唾︶従来近世期の町人相暁︵庶民相続︶について論ずる場合には︑この両者を区別するのが一般であった︒例えば︑石井前掲

﹁長子相続制﹂九九頁以下︑牧錘一﹁日本法制史概證﹄︵完成版︶三三○頁︑石井良助覇﹁日本法制史L︵法律学演習講座︶一

二九﹁家の相続﹂︵四一六頁以下︶︑一三○﹁財産相暁﹂︵四一言一頁以下︶等参照︒

︵妬︶中田前掲私法一九七頁︒

へ へ へ

474645

ー ー ー

同 同 中 上 上 田 二 二 荊

○ ○ 掲

○ 一 私 頁 頁 法

◎ ◎

︵妃︶同上二○一頁︒

︵鉛︶同上二○四頁︒

命︶同上二○三頁︑中田前掲可徳川時代の家督相続法L四九二頁︒

盆︶中田前掲私法二○四頁︒その史料は﹁地方間書﹂である︒

翁︶註亙︶で指摘した如く︑百姓は﹃二升高Lでも相続を拒否することは出来なかったが︑それは未だましな方で︑封建領主の

百姓株維持政筑のあおりを喰い︑たとえ商は完全に喪失していても︑百姓株だけの相焼は処が非でも行わねばならなかっ

た︒高の相続を迎命付けられていた百姓については︑この棟な状態であったが︑金銀の相統を木質とした百姓では︑かかる

翁︶加硬藩では一般に襲籍が行われている︵節六節所引句誼リ状$︒︑蹴り諦状﹄等参照︶︒なお︑中埜荊掲強文︵鯏三悪三

号︶一五九・六○頁︑︵同四号︶一五一・二頁参照︒

︵︶中田前掲私法二○六I八頁︒ った︒た︒高の相続を加束縛はなかった︒

(21)

21

百姓相続では︑相続の形態につき間接的に干渉が加えられていた︒即ち︑加賀藩においても︑幕府を始め諸藩に一

般的に見られた如く︑分地制限令︵﹁高分制限令﹂︶が施かれやその結果︑自ら無闇に分割相続を行うことは許されな

︵GB﹀かつた︒加賀淵では︑一時﹁禰分禁止令﹂も発せられたが︑元文元年以降は﹁間分制限令﹂に代わり︑これ以後は︑

︵御・︶︐五十石以上の高所持者のみが分割相続を行い得た︒尤も︑これには種々の脱法行為が行われ︑近世中期以降において

︿甸口﹀も︑実質的には可成りの分割相続が行われたと見なければならない︒

ところで︑かかる百姓相続法に見られた相続形態についての干渉的な態皮に対し︑町人相続法では如何●町人の相 ︵弱︶﹁法制史鎗築﹂郷一巻六○六九頁︒なお︑藤井削掲﹃徳川時代における庶民の通言L四八頁以下所引諦書式災の通言状︑

及び小早川前掲﹁旬死後澱L考﹄︵第五○巻一号六二・三頁︶所引﹁万案紙手形鑑Lの遺首状等参照︶・

︵弱︶﹁法制史論染L第一巻六○八頁所掲天保三年初坂慶応四年再刻﹁東都仙餌堂梓餌寿用文章L所収のもの︒

︵釘︶これには罰一我等名跡相続之儀︑惣領誰江相謹申侯︑依之居宅地面建家土蔵並何町之地面有来共相渡︑二男誰江者金何程何

町之地面並何店相識︑末子誰江者金子何程相識申侯⁝・・・Lとある︒

︵記︶前掲﹁長子相統制L九九・一○○頁︒尤も︑博士が家業の相続とされるのは︑単に町人相続のみであったわけではない︒武

士・庶民を問わず︑近世ではすべて家業の相統であり︑唯︑同じ家業の相統とはいえ︑家業が如何に外部に表現されるかは

農民と町人とで趣を異にし︑町人では家業は商事であったとされる︵同上一○○・一頁︶・

︵弱︶なお︑前掲﹁室町織物問屋における家業の承継と分・別家﹂の筆者達も︑家業をもって相続の本質と解されており︵三一○

・一頁︶︑山中永之佑氏も︑町人相続の実態は家業の相続であるとされている︵前掲證文二○○頁以下︶・私も町人相続に

おいて︑原則として家業が継承されたことを腿めないわけではない︒しかし︑町人が現実に相続に陳し問題にするものは金

銀︵家財︶であり︑町人相続を巡る紛争も︑究極的には金銀を巡る紛争であり︑決して家業を巡るものではなかった︒近世

封建社会における町人相続の特質は︑正に町人相焼の本質が金銀の相続であった点に存した︒

二相縦の形態

(22)

22

然らば︑かかる支配者の不干渉主義の下において︑町人自身は如何なる相暁形態を採用したか︒即ち︑町人の相続

形態として肌独柵統・分割柑統のうち︑何れがより一般的に採川されたか︒実はこの問題を解決するに充分なだけの

資料を︑私は現在侍合せていない︒相続形態につき規制した法令が存在せず︑それだけに数多くの相続事例を検討

し︑その上で一般慣行を見出さねばならないわけであるが︑特に近世前期の相綻班例は全く存せず︑近世後期につい

ても︑それ服多くの盗料は存しない︒然らば︑全く推察が不可能かというに必ずしもそうではない︒しかし︑その川

に先ず中田博士の説かれる町人の相続形態について触れておこう︒

中田博士が﹁徳川時代ノ文学二見エタル私法﹂で説かれるところは︑周知の如く︑主として大坂を中心に江戸・京

都等在住の浄珊璃・小説作家の作品を梁材にしたものであり︑従って︑博士の説かれる町人の相続形態は︑大坂を中

心に︑江戸・京都等の大都市の町人間に行われた一般慣行と見て差支えない︒

ところで︑博士の説によれば︑当時の町人相続法では︑原則的な相続たる遺言相統については勿論︑例外的な相続

たる法定相続においても︑分割相続が相統形態の本則であり︑単独相統は例外的な相続形態にしか過ぎなかったとさ

︵一回︺れる.即ち︑武家相続の場合と異なり︑町人相続︵庶民相続︶については︑大坂・江戸・京都等の大都市では︑分割

︵︽︒︶相続が一般的慣習であったわけである︒そして︑この分制相統における嫡子と他子との財産の分削割合は︑六分四分 続形態については︑封建領主は何等の干渉をも加えていない︒即ち︑間接的に町人の家財の分割につき何等の制限をも加えていないのみならず︑面接相銃形態についても︑何等の規制をも独けていない︒封処餌主にとっては︑町人の家財の如きは︑何等関心を引くものでもなければ︑又これに兎や角干渉を加えるといった如きことは︑支配者をもって任ずる武士の最も忌むべき行為とさえ考えた︒町人の財産がどの様に分割されようと︑又町人がどの様な相続形態を採用しようと︑それは全く封処政治とは無関係であった︒町人の相統形態については︑対処価主は全く不干渉主袈

︵■0﹀の立場をとった︒

0

(23)

『 − デ ー −

回諸番に収められた町人の遺言状︑並びに相続願︵﹃談リ状﹄等︶の雛形では︑何れも単独相続の場合のもの

い$

。¥

︵ワヮ︶というのが一般原則であったことを論証されている︒

私も博士のかかる考えは︑原則的には妥当なものと思う︒しかし︑私は近世全期を通じ大坂・江戸・京都等の大都

市の町人相統が分割相縦を原則としたとは考えない︒これ等の大都市で分刈相統が一般的に見られるようになったの

は︑近世封建社会において町人が撞頭し始めた︑即ち町人が可成りの金銀の祷秋に成功した明勝・万治以降ではなか

ったかと思う︒勿論これ等三都における商人致岱の手段は必ずしも同一ではなく︑大坂町人は相場︑江戸町人は公倣

︵︽巳︶の請負︑京都町人は大名貸といった如く︑同じく投機的商売とはいえ夫々趣を異にし︑従って又︑町人拾頭の時期

︵︑副︶にも若干のずれが見られたことは否めないが︑少くとも明暦以前の近世初頭では︑三都の町人についても︑単独相続

が原則的ではなかったろうか︒

それは兎も角として︑大坂・江戸・京都等大都市における町人の相続形態の一般慣行に対し︑加賀藩の町人相続で

は如何なる悩行が支配したか︒加置滞ではこれ弊大都市の仙行とは全く逆に︑肌独相続が近肚全期を通じ︑町人相続

形態の一般仙行ではなかったかと思われる︒即ち︑生萠相続の場合は勿論︑過蔵相焼の場合についても︑単独相続が

圧倒的に支配したと考えられる︒以下︑その根拠を示そう︒

︵︑︶㈹後述の如く︑町人相続では遺言状についてだけは価主法の規制が見られるが︑それは相続財産を巡る穂らわ

しい紛争を未然に防止せんがためであった︒従って︑遺言状に関する領主規定の中には︑町人相続の内容につき︑こ

れを規律した法令は見られないやしかし遺言状に関する領主法は︑一応単独相続を前提としたものであったと推察す

︵皿︶︵咽︾

ることが出来る︒なお︑﹁全国民事慣例類集﹂には若干の加賀藩町方相続の慣行が掲げられているが︑ここでも又︑

分割和統を思わせる何等の規定も見られず︑寧ろ単独相続をこそ前提とした佃行のみであったと見なければならな

(24)

︵硯︶しか見られない︒即ち︑これ等雛形には宛かも定り文句の如く︑﹃家財不残﹄誰に域る旨の文言が掲げられ︑家財を

︵鱈︺鍍り受ける相統人の名前は一名しか見られない︒

例単に雛形のみに止まらず︑相続願の実例︵相続駆例︶を徴しても︑これ叉﹁家財不残﹂誰へ譲り渡す旨の文

︵猫︶﹂書が掲げられ︑分割相続が行われている事例は一つとして見出し得ない︒

上述より明らかな如く︑加賀藩町人相続では︑単独相続が一般慣行であったと解して大過ない︒勿論︑だからとい

︵︶って︑単独相続のみが行われ︑又単独相続でなければならなかったと主張するわけではない︒単独相続の慣行は︑決

して俄主の規制によるものではなく︑専ら披相焼人の自由な恵志によるものであった︒従って︑そこで偶々分割相銃

が行われても︑決して違法でも殻ければ又何の不思議もなかった︒特に後述の如く︑町人自身にとっては︑出来れば

分割相続の方がより一層望ましい相続形態でさえあった︒しかし︑兎に角単独相続が一般的慣行であったのである︒

そして︑分割相続の事例が数多く見出せないことは︑勢い︑大坂等の大都市で︑分割相続の場合の一般的比率とされ

た︑嫡子六分︑他子四分という割合に対し︑加賀藩町方では果してどの様な比率であったかをも推察せしめることを

不可能にしている︒加賀藩では︑この分割相続の場合の一般的比率の偵行は存しなかったではあるまいか︒

ところで︑町人自身にとっては︑単独相続・分割相続の二緬型のうち︑何れがより一屈好ましい相続形態とされた

か︒勿論後者である︒金銀を二・三男に迄分割して︑なお嫡子が充分商売を維持し御るのであれば︑これこそ子孫繁

栄のため鮫も好ましい方法であった︒中田博士所引の﹃され共商人の出世といふは左にあらず︑随分商ひを仕広げ手

︹栂︶代数多使ひ︑我家名を譲り身代を仕分るこそ誠なれ﹄︵団水﹁日本新永代蔵﹂巻之三︶等より窺える如く︑町人の家

︵卿﹀の繁栄にとり︑﹁家名ヲ分ケ誼リ身代ヲ仕分クル﹄ことは︑肢も効果的な方法とされた︒分割相続が行い得ること

昂︶は︑既にそのこと自体が町人の成功を意味するものであり︑わずかな貯財では︑如何に希瓠しても到底分割相統は党

︵割︶束ない事柄であった︒

(25)

然らば︑大坂を初め江戸・京都鞭の大都市で︑極めて一般的に行われた分刈柵統が︑何故加賀滞では行われなかっ

たか︒しかも︑町人にとって︑家の繁栄のため蚊も好ましいとされた分割相続が︑何故金沢等では行われなかった

か︒この問題についても︑残念ながら明快な解答を与えてくれる資料を見出すことは出来ない︒強いて想像を過まし

くすれば︑次の二点が考えられよう︒

︒︵配︶㈹百万石を誇る加賀藩の城下町金沢であったが︑大坂・江戸・京都における如き宙蕊商人は殆んど存せず︑分

︵漣︶割相続を行い︑家門の繁栄を図り縛る町人は︑例外的にしか見られなかった︒即ち︑如何に分削相続が町人たるもの

にとって瓠ましい相統形態であったにしても︑これを行い得るためには︑杣当な家財が鍔縦されていなければならな

︵郡︶い︒商業の中心地大坂・江戸等より遠く離れ︑交通はいたって不便︑しかもめぼしい商品さえ存せず︑商業取引の極

めて低調な加賀藩の諸都市では︑如何に商才に恵まれた町人が出現しても︑巨大な窟を苔戯することは出来なかつ

︵蚕︶︵露︾

た︒﹁世事見聞録﹂の著者が︑﹃江戸大坂は大豪福の出来安き所なり︒﹄と説いているが︑正にその通りであった︒加

賀藩の町人は特殊な若干の商人を除けば︑単独相続により家を継承していくことが精一杯であったらしい︒

︵訂︶⑨加賀藩でも武家相続法では︑原則として服独相続であったが︑この武家の相統形態が︑町人相続の上に強い

︽調︶影稗力を与えた轡極めて強固な封弛支配体制を誇り︑支配新たる武士の椛力は藤だ強″であり︑その上︑北睦の隔離

された地域に閉じ範っていた加賀藩町人にとっては︑自ら椛力者たる武士の風習を見習う傾向が顕著であり︑大坂・

江戸等の町人に見られた如き︑進取的・革新的気風は薄弱であった︒保守的・伝統的な北陸町人気質が︑容易に分割

相続に踏み切らしめなかった主要な要因となったのではあるまいか︒

以上要するに︑加賀藩町人相続法では︑過産︵跡式︶相統につき中田博士が大坂を中心とする大都市の町人相続に

ついて指摘されている分割相続の脈則とは全く逆に︑単独相続が一般的憤行とされたわけである︒即ち︑加賀滞町人

相続法では︑家︵家名︶相続者が原則として遺産︵家財︶総ての相統人とされ︑家名と遺産とは宛かも表裏一体の如

(26)

ざるを得ないのである︒ 封建領主の干渉を蒙らなかった町人相続につき︑上述の如き顕著な地域差が見られたことは︑別に何等不思議なことではなく︑それは至極当然のことでさえあった︒そして︑町人相続法につきかかる顕著な地域的差が見られることは︑町人相統法の研究を極めて興味深いものにするわけであるが︑それと同時に我々は又︑封廸社会における百姓相続法と町人相続法は決して同日に論ずることの出来ない︑全く異なった範聡に属するものであることを︑強く認識せ き関係であった︒

︵5︶前掲私法二二六・七︑二三八二四一頁︑特に二四六頁参照︒

︵6︶江戸・京都等で刊行された避文文例災に戦せられた過筒状の雛形についてみても︑分劉相統を示しているものが一般的であ

り︵前節註︵認︶所引過首状雛形参照︶︑かかる点からも中田博士の説は首肯し御る︒

︵7︶前掲私法二三八二四一頁︒尤も︑博士自身も指摘されている如く︑これも絶対的なものではなく︵同上二二六︶︑現に年

月閑﹁跡式出入吟味心得之事L︵﹁徳川禁令考﹂後集第一・二七一頁所掲︶では︑司有金Lを七分三分に分つくきことを命じ

ている︵家財田畑は家督の伜︶︒なお︑藤井前掲可徳川時代における庶民の遺言L五○・一頁参照︒

︵8︶石田一良可町人文化l元緑・文化・文政時代の文化についてIL︵可日本歴史新書L︶一二六頁︒

︵9︶江戸の町人も︑明暦の江戸の大火を契機に︑急激に拾頭したと思われるが︑矢狼り古くから商業の中心地として栄えた大坂

・京祁の町人程ではなく︑従って︑江戸の町人間で一般的に分割相統が見られる橡になったのは︑大坂・京祁よりは若干後

れたのではないかと推察される︒ ︵4︶かかる私の請えとは全く逆に︑山中永之佑氏は封延髄主は町人相続に対しても極めて厳亜な規制を加え︑相続形態について

も︑単独相続を強制したと説かれるが︑かかる山中氏の説が殆んど根拠のないものであることについては︑第五節で詳説す ︵3︶同上二七・八頁︒ ︵2︶前稿第三巻一号二三六頁参照︒ ︵1︶尤も︑近世初頭には︽

第三巻一号二一頁︶︒

近世初頭にはかかる法令によってではなく︑百姓株の固定化という要請の下に︑単独相続が一般的に行われた︵前稿

(27)

ー −

︵︑︶例えば︑前註所引元職十年間二月十六日の法令の第一条︑同上元職十年三月廿八日﹁遺言状御定﹂の邦一条参照︒

︵皿︶第四・第五・第六節所引加賀国石川郡・同江沼郡・同能美郡︑能登国羽咋郡︑越中国射水郡・同砺波郡の慣行︒

︵超︶前註所引諸慣行参照︒特に﹁全国民邪俄例類集Lでは︑財産分与については﹁家督相続ノ事﹂の章︵第二嫡節二章︶の節三

款司相続人ノ外財産譲渡﹂に収録されているが︑加賀藩支配地域については︑ここには農民相続の場合の慣行のみしか掲げ

られておらず︵加賀国石川郡の慣行︵二○八頁︶︑能登国羽咋郡の悩行︵伺頁︶参照︶︑町方の悩行は一つとして見られな

い︒家仔相続の﹁願届手続﹂︵弗一敦︶については︑前註で示した如く︑町方についても可成りの数の慣行が掲げられてい

るに拘らず︑﹁相続人ノ外財産溌渡Lの款には︑町方の個行が全く掲げられていないことは︑町方には財戚︵分割相銃︶遡

渡の一般佃行が存しなかったと見て差支えあるまい︒

︵皿︶節六節所引司町規秘録﹂・﹁町会所覚書L第三本・﹁町格L節一本尋に収められた相暁に関する紺雛形紐文︒

︵巧︶従って︑この点江戸・京都等の遺言状雛形とは︑大いに趣を異にするわけである︵註︵6︶参照︶・

︵西︶第六節所引司町規秘録﹂・﹁町会所覚書﹂第三木.﹁町格﹂卵一本等に収められた相綻に関する諸実例証文︒

︵Ⅳ︶後述の如く︑加賀藩でも大商人の間では分割相続も行われている︒

︵氾︶前掲私法二○九頁︒なお︑同巻之五の文参照︵二○九・一○頁︶・ ︵︑︶﹁町格﹂第一本所収万治二年六月朔日の法令︑同上所収元職十年閏二月十六日の法令︑﹁町規秘録L五十所収元録十年三月

︵釦︶尤も︑﹁商人生業鑑﹂︵﹁日本経済大典﹂第十三巻所収︶の著者は︑で二代目の子供数多あらば︑幾株にも仕分け︑商の見立

相続すべ・し︑一所にかためて渡すはよろしからず︑其内に不仕合の人ありても︑互に助け合がよし︑ひとりにかためてわた

せば︑心おごり油断するものなり︑L︵五九二頁︶と説いており︑かかる説も又傾聴すべきであろう︒

︵副︶この点︑北島正元教授が︑木綿問屋長谷川家の分析において︑可分店・分家店の創出期は長谷川本家の総費脆の墹加期と全

く一致している︒L︵前掲密一五二頁︶と指摘されていることは︑特に注目せねばならない︒

︵理︶加賀藩にも︑例えば木屋藤左ヱ門・銭歴五兵衛・鵠崎徳兵衛といった如き︑京・大坂の大商人に比し決してひけをとらない

窟豪も存したが︑寧ろこれ等の者は例外で︑一般には京・大坂の町人に比すれば︑中・小商人に過ぎなかった︒このこと

は︑藩が凋連銀︵借金︶を行う場合にも︑その多くは京・大坂の町人に頼っていることにより明らかである︵前節註︵瓢︶︒ ︵四︶同上二○九頁︒ 廿八日﹁遺言状之御定﹂等︒例えば︑前註所引元職十年皿

同註︵鋸︶等参照︶︒

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