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― ― 戦前から1950年代の映像にみる肢体不自由教育

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はじめに

 わが国で初めて,1932(昭和 7 )年に開校した肢体不自由児のための学校,東京市立光明 学校(現在の東京都立光明特別支援学校,東京都世田谷区)は,当初から入学した児童生徒 の教育についてさまざまな角度から研究を重ね,この分野のパイオニアとしての役割を果た してきた。たとえば,戦前は,開校 1 年目の1932年11月には『光明学校紀要』を創刊,1941 年までに第 7 号を刊行している。その内容は,肢体不自由児教育のあるべき姿を論じたもの や障害の状態や知能,学習状況などを追跡した調査,健康調査,医学的観点からの論述など 多様であり,当時の肢体不自由教育を知る上で貴重なものである。また戦後,昭和20年代は,

当時の校長であった松本保平氏が,東京都や文部省の依頼を受けて,始まったばかりの障害 児教育を開発すべく,各種の講習会において肢体不自由教育に関する講義を行っている1)  こうした光明学校の歴史と意義については,これまでの研究において論究されてきたとこ ろである2)

 本稿は,これまでの光明学校研究においてほとんどふれられることのなかった映像記録に ついて検討する。光明学校は,後の述べるように,開校初期に撮影機器を入手し,以後,1950 年代にいたるまで映像による記録を残してきた。その一部は,これまで数回にわたり,テレ ビ番組に組み込まれ放送されている3)

 映像記録は,出版,すなわち活字による文章や証言とは異なり,その意義を広く遍く伝達 することはできない。見た人にしかわからない記録である。しかし,「百聞は一見にしかず」

のたとえどおり,活字では伝えきれない時代の状況を一瞬で表すことができる。本稿は,こ の二つのメディアの橋渡しを試みようとするものである。現存する光明学校の映像に描かれ た場面を文字で記録することを目的とする。映像を今後の肢体不自由教育研究に生かすため の端緒としたいと考える。

戦前から1950年代の映像にみる肢体不自由教育

―東京都立光明養護学校の記録から―

An Early History of the Komei Special School for Children with Physical Disabilities in films;

From its prewar establishment to 1950s

中村 尚子

Takako Nakamura

*立正大学社会福祉学部社会福祉学科

キーワード 肢体不自由教育,光明養護学校,映像記録

(2)

1 .光明学校略史と映像記録

⑴ 1932年~1945年 8 月

 昭和初期,東京市教育当局は市内の肢体不自由児の実態調査など実施し,教育への関心を 強めていた。東京市立光明学校は,当時の東京市長永田秀二郎,市議会議員田代義徳(東京 帝大整形外科初代教授)らの後押しがあって,1932年 6 月,麻布区本村町(現在の港区)に

「小学校ニ類スル各種学校」として開校した。同年11月 1 日,開校記念式典が行われている。

同月18日には,高松宮,同妃が来校し,その後「金一封」が下賜された。これをもって「映 写機」を購入したことが光明学校映像が長く残される契機となった4)

 初年度,入学選抜を経て小学校 1 学年から 3 学年で始まった光明学校は,1936(昭和11)

年 3 月に第 1 回卒業式を行った。映像は,このころの校舎のようす,教職員や子どもの実態,

医療との関わりを含めた草創期の肢体不自由教育を伝えている。

 「中等部」設置や児童数の増加に対応するために,1939(昭和14)年11月,世田谷区松原に 新校舎を建設,移転。同時に在学児童の通学のため,それまでの麻布校は「分教場」として 継続する。世田谷の本校は,その後も増築工事を行い,1941(昭和16)年11月にに完成した。

 国民学校令の施行により,1942(昭和17)年から一般の小学校同等の「光明国民学校」と なる。

 世田谷に移ってからも撮影はつづけられた。新校舎,校庭などでの新しい試みも映し出さ れている。麻布校舎は,廃校になった小学校を補修して使用していたが,世田谷の新校舎は,

肢体不自由教育に必要とされる環境を整備しようと検討が重ねられたに違いない。当時の映 像は,そうした観点でみることができるものである。

 1944(昭和19)年 6 月,政府による「学童疎開促進要綱」が出され,「帝都学童疎開」に よって,東京においては国民学校 3 年生以上の児童の集団疎開政策が打ち出され,学校ごと の疎開が開始された。光明学校はこの疎開の対象から外されたため,やむを得ず,1944(昭 和19)年 7 月,世田谷本校を「集団疎開」の場所として許可を受け,校舎の一部を宿舎とし た。さらに,東京の空襲が激しくなるなか,1945(昭和19)年 5 月15日,疎開の場と定めた 長野県上山田温泉に出発した。

 『創立二十周年記念誌』にはつぎのように記されている。

 「昭和二十年五月十五日 全校疎開。空襲は夜を日につぎ,帝都に安住の地なし。戦火を避 けて,疎開先,長野県更級郡上山田温泉,上山田温泉へ。5)

 出発から10日後の 5 月25日,空襲によって世田谷本校はほぼ全焼した。

 映像は,上山田温泉に到着したようすも記録している。

 なお,戦前の校長は,つぎのとおり。

 初 代 結城捨次郎 開校~1939年 6 月  第 2 代 喜田正春 1939年 6 月~1942年11月

(3)

 第 3 代 松本保平 1942年11月~(戦後,1958年 3 月)

⑵ 1945年 9 月~1957年 3 月

 学童集団疎開から取り残された光明学校は,戦後,これを解消する政策がとられた際,岐 路に立たされる。東京に戻っても校舎も寄宿舎もないという現実に直面し,「戦災孤児等学童 集団合宿教育所」の適用をうけ,上山田に残って,教育活動を継続する道を選んだ。その間,

新制中学が発足。上山田ホテルにて中学校の開校式を挙行し6),学校教育法の下,東京都立光 明小・中学校として再出発した。学校教育法に「養護学校」は規定されたが,敗戦直後の財 政事情を理由にこれを義務教育として拡充するための法整備まではできなかったため,「都立 小・中学校」という位置づけがとられたのである。上山田での生活は1949(昭和24)年 5 月 まで続いた。上山田での生活は,時期が特定できないが,東京に引き上げるまで,「学寮」と 呼ばれていた宿舎内はもちろんのこと,千曲川のほとりや遠出の遠足など,多くの映像が残 されている7)

 戦後,東京・世田谷の地では,まず「寮舎」(寄宿舎)の新築から始まり,上山田からの子 どもたちを迎え,焼け残った校舎の一部と寮を使い教育活動が再開された(1949年 6 月)。新 校舎の建設に三カ年計画が立てられ,徐々に治療室や校庭なども整備されていく。

 1956年,関係者のねばりづよい運動がみのり,公立養護学校整備特別措置法が国会で成立 した。これによって,少なくとも養護学校建設と教職員給与等の費用の国庫負担が定められ た。光明小・中学校は,1957(昭和32)年 4 月より,東京都立光明養護学校(小学部,中学 部)となった。ちょうどこの年,創立25周年を迎えた。このころまでの映像が多く残されて いる。

2 .映像にみる光明学校

⑴ 現存する映像

 開校初期から16ミリ映写機で記録をつづけてきた光明学校には,そのフィルムが残されて いると聞くが,ここでは,現在,VTR や DVD によって再現可能となった 3 つの映像を分析 する。いずれも16ミリの元映像から編集したものである。

 ①「肢体不自由教育の50年―光明養護学校の記録」

 1982年,光明養護学校創立50周年記念事業の一環として,学校で制作されたもの(NHK の協力)。1982年の映像,校長をはじめとする当時の教職員や卒業生の話などで構成され ている。30分。本稿ではこの中から1957年までの映像のみを検討対象とする(「50年映 像」と略記)

 ②「光明のあゆみ」と「映画記録 光明学校」

 後述するように,最初のワンシーンと最後の部分のみ異なるが,「光明のあゆみ」と

「映画記録 光明学校」のふたつは同じ内容で,「1959年編集」とある。1957年ころまで

(4)

の映像で,①には使用していない映像が多い。文字入り,無声,30分。

 ③波田野所蔵のカット映像

 筆者が1977年頃,波田野忠雄(次節)から譲り受けたもので,断片的映像。②と同じ 映像と②に収録しなかった映像がある。

⑵ 波田野忠雄について

 本稿で検討の対象とする映像は,上記で述べた,開校当初から1957年までのものである。

戦前から1950年代まで撮影と編集を中心となって担当してきたのは,波田野忠雄である8)。波 田野は,開校間もない1935(昭和10)年 4 月,光明学校に入職,1962(昭和37)年 3 月に退 職するまで27年間にわたり光明で教鞭をとりつづけた教師である。入職初年度発刊の『光明 学校紀要 第三号』において,「授業嘱託」という肩書きで「図画,手工の関する職業に就 て」と題して,肢体不自由の特徴と図画,手工科,卒業後の職業の関係について執筆してい る。『創立十周年記念誌』には,「図画,工作」の「専科訓導」とある。

 戦後の上山田では,困難な中,ほぼすべての校務分掌において重要な役割を果たしている9) 上山田のようすを伝える貴重な資料である謄写版印刷の『学寮通信』を,資材入手困難な中,

波田野が責任者となって発行しつづけた。その傍ら,肢体不自由児教育のあるべき方向を問 い続け,世田谷に戻ってからは教頭として,光明の復興と肢体不自由教育に尽力した。1949 年 2 月から 9 月にかけて,「肢体不自由児の学校と教育」というガリ版刷りの冊子を10号まで

図 1  登校風景(麻布校舎)

図 3  看護婦による朝の健康調査

図 2  麻布校舎

図 4  校庭から校舎内へ(世田谷校舎)

(5)

作成している。「この貧しいプリントは私がこの学校教育に従事した13年の日月を通じ,見聞 きし,感じ,考え,記録し,希望し,夢見ることを記述して置きたい希望から始めたもので あります」と記した冊子は,児童の障害の詳細や治療法,学習能力,学校の構想など多岐に わたって記されており,『光明紀要』が発刊されていないこの時期の貴重な資料である。

 また,図画担当という専門性を生かして,上山田の生活や学校のようすなど,数多くのス ケッチを残している。

⑶ 「肢体不自由教育の50年―光明養護学校の記録」

1 )麻布校舎

 「50年映像」は,最初に表題が出た後,「光明のあゆみ―肢体不自由教育五十年」というタ イトルがあって具体的な映像に入る。開校時の入学式の写真が映し出された後,映像は麻布 校舎の登校風景からはじまる【図 1 】。1982年に編集されたものであるから,随時解説が流れ るのであるが,ここでは「明治時代に立てられた古ぼけた校舎でしたが,いままで見捨てら れていた子どもたちは希望に胸をふくらませて通学しました」と説明されている【図 2 】。

 つづいて学校生活が映し出され,第四代校長小野勲(1935年 4 月~38年 6 月,1958年 4 月

~72年 3 月在職)が草創期の肢体不自由教育について述懐している。

 「なにしろ日本に一つしかない学校でございますし,『肢体不自由教育』という参考の本も ございませんし,指導してくれる先生もいないわけです。外国から本を取り寄せまして,そ れを訳してもらってそれで勉強するといった,たいへん試行錯誤といいますか……。だけど 学校そのものは,何とかこの教育を開拓していこうという開拓者精神に燃えていましたね。」

 映像では,麻布校舎の前景,朝礼と体操,1 時間目の看護婦による健康調査【図 3 】,つづ いて音楽,裁縫,治療体操,校庭での自由な時間,マッサージほかの治療場面,校医による 診察(整形外科医,竹沢貞女。1932年11月~1940年11月まで校医),市電などを使った下校の ようすが描かれている。

2 )世田谷校舎

 つづいて世田谷の新校舎の映像である。新校舎での朝礼や体操風景,そこから子どもたち が教室へと入っていく。そこで「新しい校舎はこの子たちのためを考えてつくられたので,

校庭から直接教室は入れます」と解説される【図 4 】。

 「水治室」の表示とその実際,マッサージ,日光浴などの映像をバックに,これらは麻布時 代と変わらず大事にされていたと解説される。特別に開催された整形外科の権威であった高 木憲次の診察場面も映されている10)

 つづいて戦時下の光明学校である。松本保平第三代校長のインタビューとともに,これま でたびたびテレビ放送でも流されてきた,松葉杖を鉄砲に見立て隊列行進する男児のようす

(詳細後述),もちつきの映像,飛行機の模型をつくる男児,畑作業の映像で「現地疎開」の ようすが描かれ,つづいて上山田の生活と移っていく。

(6)

 1949年に東京に戻ってからの映像は,整備された校庭と野球に勤しむ子どもたち,歩行訓 練にもなるように工夫された歩道,畑などで活動が描かれ,大川内英一郎元教諭(1948年10 月~1975年 3 月在職)がインタビューに答えている。

 1957年度に公立養護学校整備特別措置法によって「光明養護学校」となった。創立25周年 記念式典(同年10月 3 日)には高松宮をはじめとする来賓が多数訪れたことが伝えられる。

 「50年映像」は,ここまでに約13分を充てて編集されている。

⑷ 「光明のあゆみ」と「映画記録 光明学校」

 先に述べたように,「光明のあゆみ」と「映画記録 光明学校」はほぼ同じで30分ほどある が,後者は最初に「映画記録 光明学校」のタイトルがあり,わずかに学校前の通りに自動 車が走る場面を入れている。また最後に,「終 映画記録 光明学校」「撮影と編集 波田野 忠雄」とエンドロールが入る。「光明のあゆみ」は最後の画像が乱れているため不明である。

 具体的な映像は,学校の「東京都立光明養護学校」の表示と小田急バスのバス停「光明学 校前」がアップから始まる。このバス停は,1954年11月に設置されたものである。「創立25周 年記念誌」には「渋谷-経堂間運行の小田急バスが生徒通用門のなだらかなスロープを降り たところに停留所を設けてくれた」とある11)

 以後,麻布時代の映像から始まる。いずれのシーンも「50年映像」よりも長く,当時のよ うすをより詳しく伝えている。スタートは登校する児童,校庭から見える校舎の前景,校庭

図 5  麻布校舎内の廊下

図 7  行進に敬礼する児童

図 6  母親によるマッサージ

図 8  松代大本営遠足

(7)

で遊ぶ児童と映したあと,以後,場面ごとに文字が挿入されている。「 」内は字幕である。

年代順に編集されていると思われるので,本節でも麻布校舎と世田谷校舎に分けて記述する。

順を追ってみていこう。

1 )麻布校舎

・「ベルがなると」 校庭での朝礼体操のシーンにつづき,なだらかなスロープをたどって校 内へ入っていく子どもたち。校内も緩やかな傾斜があり,手すりがついている。そこを手 動式の車いすや松葉杖をついた子どもたちも歩いていく【図 5 】。

・「毎朝の健康調べ」 「50年映像」で小野が語った 1 時間目の健康調査の時間である。机の並 んだ教室とは別室でベッドに横たわっている子どももいる。光明学校での看護婦の役割は 重要で,この健康チェックのほか,マッサージや治療を担っている。開校当初,『創立十周 年記念誌』上の職員名簿によれば,1932年の「看護婦」は 4 人,1942年には本校(世田谷)

7 人,分校(麻布) 5 人と記されている。

・「桐組の図画学習」 図画と思われる場面は一瞬で終わり,音楽の時間が撮られている。「桐 組」とは小学 2 年生である。光明では, 1 年を椿組, 3 年を藤組, 4 年を梅組, 5 年を桃 組, 6 年を櫻組としていた。

・「昼食前の治療体操」 立位や歩行が可能な子どもは校庭にて全員が体操をする。マヒがあ る子は椅子に座って脚の上げ下ろしなどである。看護婦や付き添いの親が補助をする。小 野が述べていたように,当時の文献などに学んで考案したものと思われる。

・「昼食は一緒に」

 昼食は持参した弁当を食堂でみんなで食べていた。中には座位が困難な脳性マヒ児もおり,

親が介助をしている。

・「櫻組の理科学習」 顕微鏡をのぞく子どもたち。『光明学校紀要 第四集』にはすでに第四 学年の「理科学習」の写真が付されており,「児童が身近にある材料を学習室に持込んで自 ら実験・実測・研究をしているところ」と解説されている12)。映像からも,こうした学習を 大事にしていたことがわかる。

・「裁縫の学習」 男女一緒に針を使って縫い物をしている。つづいて他のクラスの図画の時 間が映る。

・「楽しいおやつ」 ふたたび食堂でお茶とおやつが配られる。

・「マッサージ治療」 たくさんの子どもたちが同時にマッサージや機械治療を受けている。

母親と思われる女性もいる。同じく『光明学校紀要 第四集』では,「施療に当って,あら かじめ夏季は入浴,其の他の時は熱気浴(電熱器浴写真中央)により,患部を温め,後マッ サージを行って疾患を治療する」とある13)。熱気浴の器具が映像に出てくる。

・「砂枕治療」 拘縮した膝を伸ばすための治療法であったと思われる。

・「玩具治療」 現代でいう作業療法である。子どもそれぞれに合わせて,積み木やビー玉の ような玩具に取り組んでいる。『光明学校紀要 第三集』の口絵に玩具治療の写真が掲載さ

(8)

れ,「玩具はかくして不知不識の間に運動機能の障害を治療強制せんとするものである」と 解説している14)。このあと,昼寝のようすが入る。

・「診察」 「50年映像」と同じく竹沢貞女校医による診察場面だが,下肢変形の計測やコル セットや装具の調整など,「非観血的治療」を行うとした当初の光明学校における医師の役 割の大きさが伝わってくる映像である。

・「日光浴」「太陽灯照射」などのタイトルで治療場面が続く。そのまま,下校風景となる。

市電の乗車などは「50年映像」と同じである。

・「参籠」 児童,教職員,これに保護者が加わってがお寺に参拝し,本堂で僧侶の説教を聞 く映像である。参籠は開校当初から重視していた年中行事の一つであったと,『光明四十 年』で佐藤彪也(1944年~1968年在職)が述べている15)。『光明学校紀要 第一集』には,

「情操教育及び徳育の機会として,民間に於ける古来の年中行事は,本校に置いても重きを おき,児童をしてその境地に浸らしめ,祖先の尊崇,感謝心の要請,趣味生活の誘導,教 育的効果を収めているものである」として,「七月十五日(盂蘭盆会)仙峡寺参籠 三,九 月(彼岸中日)仙峡寺参籠」とある16)

2 )世田谷校舎

 映像はこの後,世田谷校舎が舞台となる。タイトル文字が付されていないので,以下の小 見出しは筆者による。

・新校舎のようす

 保護者とともに真新しい校舎に入っていく子どもたち,朝の体操,おはじきを使った学習,

機能訓練的な体操など,新築なった校舎のさまざまな場面である。朝の体操の前に,「皇宮礼 拝」の場面が映されている点が時代を反映している。

 「水治室」という教室表示が写り,治療の時間がまとめて紹介される。水治室の浴室から上 がってくる子どもの身体を拭く女性(母親か),つぎにベッドに横たわった子どものマッサー ジ(これも母親が施行【図 6 】),サングラスをつけての日光浴と治療の場面がつづく。細竹 をつなぐ工作のような場面も玩具療法である。

 このあと,特別に来校した高木博士による診察場面。母親の姿も見え,脳性マヒ児に対し て手腕の動かし方などを指導している。高木の周囲には背広姿の男性が数名,熱心に記録を とる。光明学校の教員だけではなく,高木門下の医師との推察できる。

・新校舎落成記念式典

 新校舎17)の建設作業がワンカット入ったあと,新校舎の落成記念式典の模様が映し出される。

「東京市立光明学校落成式々場」の看板,1941(昭和16)年11月18日のことである。続々と受 付に向かう来賓の中,開校当時から支援を続けていた岸邉福雄が脳性マヒの娘を伴って出席 する姿がある。新築なった講堂で,大久保東京市長をはじめ来賓がつぎつぎと祝辞を述べる。

 「展覧会」では書道,壁に貼った研究発表,工作,被服が並ぶ。展覧会は新築落成式典に合 わせて開催されたものと思われる。「日本刀大和魂」という文字に,当時の世相が子どもたち

(9)

に及ぼしたものの大きさが感じられる。在学生だけでなく,卒業生の作品も展示されている が,これは光明学校が卒業生の学びの場として「補習科」を設けていたことによるものだろ う。

・戦争

 「50年映像」とほぼ同じ長さで50秒ほどの隊列行進場面。先頭で指揮を執っている男性の右 脚の義足,行進のできない子どもたちや女児は校庭で敬礼したり座って見ている姿【図 7 】,

終わってから輪になって談笑している姿などがある。

 校内に掘った防空壕の入口18),もちつき,散髪。これらは1944年 7 月に始まった「現地疎開」

のようすである。

・上山田

 つぎに文字で「学寮生活余録 1946」のタイトル。敗戦後,上山田での集団合宿生活を伝 える 5 分弱のの映像である。

 「50年映像」と同じく,戸倉駅から上山田ホテルに向かう一団の場面から始まる。川岸で草 を摘む子ども,背中に負ぶさって川を渡る子どもと保母。

 「八王子山登山」(八王子山は上山田温泉近くの山)の文字があり,山道を登る子どもたち,

眼下に広がる上山田の家並み,それを見下ろす子どもたち19)。登山の帰路であろうか,上山田 を囲む山々を撮っている。庭で遊ぶ子どもたち,泣きじゃくる子どももいる。入浴場面がつ づく。

 「長野県」と書かれたトラックに乗る子どもたち。途中で下車して先生からの説明を聞く。

 そして目的地に着く。山裾に並ぶコンクリートの堅牢な建物。このシーンは,松代の大本 営跡に行ったときのものである【図 8 】。『学寮通信』にはつぎのような記録がある。

 「五年  高森昭雄  『松代の町は人口三千人くらいです』トラックは町の中を走って居 る。S先生が山の名をおしへて下さる。そのうちに山の麓に着いた。山の麓にコンクリート の建物が半分出ていた。その山はいらぢう穴があけてあった。大本営の予定の地下建築であ る。……(以下略) (『学寮通信』第十七号,一九四六年十二月)20)

 以下,学寮の日常といったシーンがつづく。畳の間で机を並べての学習,マッサージ,食 事,ひな祭りにひな壇の前で話をする松本校長。最後に,町を囲む山並みを撮し,上山田の 映像が終わる。

・帰京後の世田谷校舎

 東京に戻ってからの映像は,松本校長を囲んで新校舎を歩く子どもたちが,15秒ほどカラー で撮られている。カラー映像である点から考えると,昭和30年代に入ってからの映像を編集 したのではないかと思われる。

 つぎのシーンは「蓼科高原 第 1 回夏期施設の記録 昭和29年 東京都立光明小中学校」

という文字が入り,列車の出発(新宿駅),茅野駅,バスにて宿舎へと向かう21)。散策,植物や 馬の観察,丸木橋を渡る,登山など自然にふれ,挑戦する体験をさせているようすがうかが

(10)

える【図 9 】。

 最後のシーンは,「創立25周年式典記録 10.3 1957」という文字が入り,岸邉,高松宮と 同妃らの入場と式典のようす,終了後,松本校長の案内で校内を見学するが撮られている。

⑸ 「波田野映像」

 先にも述べたように「波田野映像」は,「映画記録」等を編集した波田野が所蔵していた フィルムで,数秒ずつ,25ほどのカットで,合わせて45分ほどである。これまで述べた二つ の映像と同時期の麻布,世田谷,上山田,戦後のもので,一部,1957年以降,退職前の1961 年くらいまでの映像がある。未編集である上,撮影の時期等の記録はない。これまでの二つ の映像や文献と照合することによって,ある程度時期が特定でき,かつ他の映像には取り上 げられていないものについて記述する。

1 )戦前の映像

 麻布校舎の 2 階から紙飛行機を飛ばす子ども,それを下で拾う子ども。子どもが楽しんで いることが伝わってくる。校庭ではゴロ野球。松葉杖をバットにして楽しむ男児たち。

 学習場面では,書字,紙折り,切り出し小刀や糸ノコ,かなづちを使って木工作品をつく る,「七夕祭り」の文字の後,短冊に筆で文字を書く子どもたちなど手を使った場面や,虫め がねで太陽光を集める場面(理科の授業か)など子どもの関心を高めるものが見られる。

 「校外教授」もいくつかある。「校外教授」の文字のあと池の畔を歩く場面。「秋の校外教授  図 9  丸木橋を渡る

図11 平行棒歩行練習

図10 歩容観察

図12 教師との歩行練習

(11)

櫻ケ丘 昭和十六年十月十四日」の文字のあとには,電車車窓から外を見る子ども,下車し たホームには「明治天皇御聖蹟記念館」の柱が見える(現在の「聖蹟桜ヶ丘」駅)。保護者と ともに目的地に向かって歩く。他のカットでは目的地について散策したり弁当を食べる場面 を含めて約100秒ほどである。つぎに,「校外教授 井之頭公園 17.5.29」の文字のあとは,

公園に入っていく子どもたち,その後ろから母親たち。1942(昭和17)年 5 月29日実施の校 外教授は井の頭公園であった。

 卒業式の模様が一つだけあった。映像から「第三回卒業式」と読み取れる。第三回卒業式 は1938(昭和13)年 3 月挙行。麻布校舎に紅白幕が張られ,家族が歩いている。岸邊福雄の 姿もある。来賓と教職員の会合の場面,教室には「神の国日本」「忠臣楠木正成」などの書道 作品が展示されている。卒業式と同日かは不明だが,別室には絵画,工作,被服などの作品 が展示されている。絵画は完成度が高い。

 光明学校は当初から肢体不自由という障害の実際,治療,教育について,研究を重ねてい る。当然,映像が活用される。「治療記録 東京市立光明学校 撮影16m/m 映画部」という 文字が残されている。そのあとには,独歩 3 人の歩容,三輪車を使う子ども,そこに個人カー ドも挿入した映像が編集されている。そのほか,下肢に焦点をあてた歩容,褌のみで円周を 歩く全身歩容,内側に変型した男児の足,その子の歩行のようす【図10】などがある。

 教育活動の中で治療効果をねらった「玩具療法」と思われる器具での手作業も意図された。

 大勢の子どもたちが校庭で10台以上の歩行器を使って歩行練習をしている(麻布校舎の校 庭)。恐る恐る歩く子,嬉々とした笑顔で歩く子,つまずく子。後ろから補助する看護婦や和 服の女性(おそらく母親だろう),全体を見ている教師たち。他のカットでは10人ほどが一列 に並んで競争のように歩く場面が約70秒ほどあって,歩行練習に力を入れていたことが推察 される。これだけの歩行器を備えていたことには驚くが,各方面からの寄付によるものと思 われる。

 世田谷本校については,農作業が特徴的である。室内で休憩し談笑する教員たちのカット につづいて畑に出てサトイモの収穫場面。「学校農園」と呼ばれる畑は1943年 5 月に完成した

22)。場面変わって,模型飛行機とばしに興じる子どもたち。競技会であったのか,最後に表彰 式の模様が撮影されている。

 「東京市立光明国民学校 終」の文字が回転するカットがある。これは映像を編集するさい に,これは戦前の国民学校の映像終了の区切りであろう。

2 )戦後の映像

・来賓の男女(夫婦と思われる)を案内し,他の教員や客と応接室にて談笑。教室を会場に したバザーで作品を手にとる二人。茶碗などの陶芸品が並ぶ。茶碗を手にとる。背景にの 黒板に「Seicho」の文字が読み取れるので,おそらく青鳥中学校が同じ敷地にあった時代

(1951年 9 月~1958年 3 月)に開催されたバザーの映像であろう23)。松本校長が当時飼育して いた山羊のところに来賓二人を案内し,山羊と戯れる子どもたちに声をかける24)

(12)

・世田谷校舎は,校庭でのようすが多い。歩行練習場を支えられながら歩く子どもたち【図 11】,「昭和32年小学部新入児童」という文字の後に,担任に先導されて歩く子どもたち。

数人は母親に支えられている。校庭で野球の試合をする子どもたち。歩行が不自由でも工 夫をしながら楽しんでいる。また応援に興じる子どももいる。

 校庭の舗装道で子どもに向きあって歩行練習をする教師【図12】。こうした歩行練習のカッ トは他にも数回出てくる。母親が付き添って歩く子どももいる。戦後も歩行練習には力点が おかれていたようだ。

 光明学校は上山田から引き上げて世田谷校舎での授業を本格的に再開した直後から,校舎 の建設とともに校庭の整備に力を入れている。1951年 5 月に完成した校庭を「治療体操遊園」

と呼び,積極的に活用した。そのことを伝えるために,いろいろな活動が撮影されている。

校庭での遊びは縄跳び【図13】,ジャングルジム,ドッジボールなど,じつにさまざまであ る。

 図14のボール回しのようすからは,校庭での活動が治療の一環としても考えられていたこ とがわかる。手を打ち合わせることやボールを隣の子に渡す遊びを白衣を着た女性が指導を している。当時,教師は白衣を着用することが多かった25)

 戦前と同様,映像は脳性麻痺などの研究上の重要なものであった。その中心を担ったのが,

1944年10月に校医に就任した伊藤京逸博士である。伊藤の診察場面はフィルム映像だけでな く,「創立25周年記念誌」(1957年)にも掲載されている。

 戦前,高木憲次から脳性麻痺の研究をすすめられた伊藤は,麻布時代から光明を「何度も 訪れ」,校医を委嘱される以前の1943年後半から関わっていた。以来,30年余にわたり校医を 続けた伊藤は,上山田にも出向き診察を行っている26)

 「脳性麻痺 撮影 東京都立光明小中学校 1954~1955 指導 伊藤京逸 三楽病院 カメ ラ 波田野忠雄 都立光明学校」という文字カットが残されている。しかし,具体的な映像 記録はない。図10のような脳性麻痺の症状を記録し,事例研究や肢体不自由教育に役立てる 意図をもって撮影が行われてきたと思われる。記録の存在が掘りおこされることが期待され る。

図13 縄跳びをする子どもたち 図14 ボール回し(カラー)

(13)

 そのほか,時期は不明だが,壇上から卒業証書もしくは修了証書を子どもたちに渡す松本 校長とひとりずつ抱えられて段を上り手を伸ばす子ども(脳性マヒの子どもが多い),ニワト リに餌をやる子どもと松本校長,いもほり,プール開き27)などのようすを伝える映像も納めら れている。

 子どもの映像とは別に,「映画記録 光明学校 撮影と編集 波田野忠雄」の文字のカット とともにつぎのような「学校長挨拶」の文章が収録されている。

 「本校は身体の不自由な子供に普通教育,職業教育,身体欠陥の治療矯正,及び特別の精神 教育を施し以て善良なる国民を養成せんとするものでありますが,現在の状態は,甚だ意に 充たない点が多いのであります。/幸ひ特志家緖彦の御援助を得て益々実績を挙げたいと考 へている次第であります。」

 「映画記録 光明学校」の中に入れる予定のカットだったのか,あるいは他の記録映画を企 画してのものだったのかもしれない。

3 .光明学校映像をとおした肢体不自由教育 1 )教育と治療の記録として

 これまで紹介した映像は,1930年代に始まった肢体不自由児学校で行われていたことその ものを視覚的にとらえることができるという点において,何ものにも代えがたい意義がある。

看護婦による毎朝の健康調査のようす,教科学習の実際,学校施設などどれをとっても,写 真だけでは伝えきれない当時のようすを知る資料となっている。しかも,音声はなくとも光 明学校のめざした「教育」,「治療」双方の意図的試みとしてみることができるものである。

 特に初期の光明学校の医療面での人的物的配置は驚くほど手厚く,学校教育において非観 血的範囲での医療を重視していたことは明確である。また,手本とするものがないなかで,

身体を動かす体操などを工夫して毎日実施している点は興味深い。教育内容面でも,さまざ まに考えられている。理科の実験,校外学習など体験など重視した教育内容に取り組むよう すを映像は伝えている。大正新教育に学んだ初代校長,結城捨次郎が立てた開校当初の構想 を具体化しようと模索されていたのである。初期の「光明学校紀要」で論じられている教育 課程や教育内容を実際に展開しようとしていたことが映像からわかる。肢体不自由の障害が あるがゆえの経験不足で年齢を重ねた子どもたちが,生きいきと学んでいる。先例がないな かで,映像は記録として「残す」意義だけでなく,つぎにつづく教育に伝える啓蒙的役割が つねに意識されていただろう。

2 )肢体不自由児の学校の条件

 多くの場面に松本保平校長の姿があることからみて,見る者に対して伝えたいことがらを 意図的に撮影しているものと思われる。戦前の世田谷校舎の建設,あるいは戦後の再興にお いて,めざす教育が実現するよう校舎や校庭がつくられていったこともよくわかる。学校に 備えられるべき機能とそれを具体化した施設設備に焦点があたっているのである。

(14)

 特に戦後の校舎の構造と実際の利用,医療面での設備,診療行為,体操,歩行訓練等々職 員とその活動などを,研究集録など残された文献・資料と照合し,さらに整形外科学の到達 点とも引き合わせながら,光明養護学校の教育を明らかにしていく研究が求められている。

教育面では,映像で伝わってくる教材・教具の工夫,体験を重視した教育の実際の中に,普 遍的普通教育としての肢体不自由教育をつくりあげる努力が重ねられていることに注目すべ きだろう。この点でも,さらに文献・資料と照合した研究をすすめていかなければならない。

3 )障害に焦点をあてた教育の創造

 光明養護学校は,パイオニアとしての自覚のもと,肢体不自由という障害に関する研究を 重ねながら,その教育のあり方を模索してきた。運動障害の子どもをとらえる上で,当時,

映像は非常に重要な役割を果たしたであろうことは想像に難くない。記念式典や学校紹介,

教育の記録と広報といった性格とは異なる種類の,事例検討的な画像が「波田野映像」に残 されていた。こうした映像は,プライバシーにふれることもあって,「50年映像」や「映画記 録 光明学校」には残っていない。「波田野映像」の断片に残された事例検討に類する映像の 全体像の解明は大きな課題である。

 本稿執筆にあたって,松本昌介氏から資料提供,証言など多方面から援助を受けました。

また,「波田野映像」をデジタル化するにあたって」は,玉村公二彦氏(奈良教育大学)を代 表とする戦後教育福祉実践記録史研究会の基金に依りました。記してお礼申し上げます。

1 )松本保平は,1951年 2 月,文部省主催,CIE 教育指導者講習において,「肢体不自由児 教育概説」を講義した。東京都立光明小・中学校(1952)創立二十周年記念誌.p.20 2 )たとえば,村田茂(1997)新版 日本の肢体不自由教育.慶應大学出版会

3 )光明学校の学童疎開をテーマにしたテレビ番組に,「信濃路はるか」(NHK,1993年),

「松葉杖と戦争」(テレビ信州,1995年),「

戦闘配置

されず~肢体不自由児たちの学童 疎開」(NHK,2014年)などがある。このほか,学童疎開一般をテーマとして制作され た番組,「40万人の学童疎開~あれから50年」(1994年,テレビ朝日),「子どもたちの戦 闘配置~東京の学童疎開(1999年,東京都映画協会)の中でも光明学校が取り上げられ ている。いずれも本稿でとりあげる「50年映像」を用いて,初期光明学校のようすも放 映している。

4 )東京市立光明国民学校(1942)創立十周年記念誌.p.10 5 )前掲書 1 ),p.15

6 )前掲書 1 ),p.17

7 )上山田における光明学校疎開の詳細と体験者の証言は,光明学校の学童疎開を記録す る会(代表 松本昌介)編(1993)信濃路はるか,田研出版を参照。

(15)

8 )前掲書 7 )p.109,および松本昌介(東京都立光明養護学校旧教員)からの聞き取り 9 )前掲書 7 ),pp.174-178

10)高木が最初に光明学校での診察を行ったのは1933年 5 月,麻布校舎時代のことである。

前掲書 4 ),p.10

11)東京都立光明養護学校(1957)創立25周年記念誌.p.15

12)東京市立光明学校(1937)光明学校紀要 第四集.巻頭口絵解説 13)同上

14)東京市立光明学校(1935)光明学校紀要 第三集.巻頭口絵解説 15)佐藤彪也(1973)思い出すままに.光明四十年,p.19

16)東京市立光明学校概要 第一集.p.27(第一集のみ,「紀要」ではなく「概要」)

17)新校舎は,1938(昭和13)年12月~39年 8 月の第 1 期工事,1940(昭和15)年11月~

41年 5 月の第 2 期工事に分けて建設された。第 1 期,総面積1143.39㎡,工事費用69,327 円,第 2 期,総面積930.44㎡,工事費用49,358円。学習室,特別教室,治療室,日光浴 室,浴室,講堂などとともに寄宿舎が完成した。東京市立光明学校(1941)東京市立光 明学校新築落成記念誌.p.8

18)防空壕についてはつぎのような記述がある。「昭和19年11月15日 校庭に防空壕完成。

都内国民学校中,もっとも堅牢を誇る防空壕四ヶ所が校庭に並ぶ。豪内はベット式の長 椅子を置き寝ることも可能。この予算二万五千円。当時としては驚くべき額である。」東 京都立光明小・中学校(1952)創立二十周年記念誌.p.15

19)「歩行訓練として町の中をよく歩いたが,また,遠足として遠くに行くこともあった。

全員で行くこともあり,行動しやすい人数で行くこともあった」。遠足の行き先の一つと して,「八王子山」があがっている。松本昌介「疎開の記録」,前掲書 7 )p.123

20)同上書,pp.123-124。なお,松代大本営への遠出の冒頭,長野県のトラックに乗る シーンについて,「50年映像」では「昭和24年 5 月28日 四年ぶりに帰京」という説明が 文字で入るが,この映像が記録するように1946年の「遠足」であると思われる。

21)光明小・中学校の夏休みの宿泊行事の第 1 回である。「場所 長野県諏訪郡北山村渋の 湯鉱泉 奥蓼科高原 期日 七月二十日,二十一日,二十二日 三泊四日」小学部 3 年 から中学部 3 年まで58名と卒業生 2 名が参加した。東京都立光明養護学校(1962)光明 三十年.夏季施設の項,p.80

22)「昭和十八年五月二十六日 学校農園完成。松沢,北沢の名に負う昔ながらの沼沢地

―中等部建築予定地としてあれるがまゝにまかされた校地約一五〇〇坪は丈余に及ぶ

芦の原―こゝに明(ママ)渠を掘って排水をよくすれば,必ず食糧増産に役立つとの 学校側の要望は,学事係長本島寛氏の英断によって忽ち達せられる。」創立二十周年記念 誌,p.14

23)この間,1952年10月から 4 回,青鳥中学校のバザーが開催された。東京都立青鳥養護

(16)

学校(1957)青鳥十年.映像は,1952(昭和27)年の光明学校20周年記念大バザーであ ると思われる。

24)山羊の飼育を始めたのは,学校農園ができた時期と同じく1943年のことである。創立 二十周年記念誌,p.14

25)松本昌介からの聞き取り(2014年11月)

26)伊藤京逸(1962)あのとき.東京都立光明養護学校,光明三十年,p.10

27)プールは1961年 5 月29日に完成。広さ15m × 8 m,深さは1.2m と40cm,底面は緩や かなスロープになっていた。同年 7 月 1 日にプール開きを開催した。光明三十年,p.33

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