五 四 三 二 一 <近世史料論
‑ >
「 御 用 留 」
の性格と内容( 二 ) ‑ 武
州荏 原
郡上野
毛村
「御 用 留 」
の検討‑森安彦
目次はじめに‑史料論の一視点‑「御用留」の機能と成立上野毛村「田中家文書」と「御用留」
享保五年〜寛政六年「御用留」の検討寛政七年〜文化四年「御用留」の検討文化四年〜文政四年「御用留」の検討(以上第一九号)
六
文政四年‑文政二二「御用留」の検討 六文政四年〜文政二二年「御用留」の検討(一)「御用留」の存在状況(二)「御用留」からみた農民夫役(三)文政期農民支配の周期性(四)小括(以上本号、未完)
(
一
)「御用留」の存在状況前稿では'享保五年(1七二〇)から文政三年(一八二〇)までの1
0 0
年間の「御用留」四六冊を対象に、その存「御用留」の性格と内容(蘇)
史料館研究紀要第二1号
在状況や記載内容を検討してきた。
そこでは一応'「御用留」の性格規定として'次のように概括した0「御用留」は領主から村落農民に対する多様な「御用」を書き留
めたものである。「御用」とは、領主から農民に背負わされた諸負
担のことであり、それは大別して田畑にかかわる本年貢と農民の労
働力(夫役)を徴発する諸役負担、その他領主の生活上必要な諸物
資の微速の三通りがある。年貢関係については'「年貢割付状」「年貢皆済目録」「年貢勘定帳」などの一連の年貢関係文書が作成
されるのに対して'労働力や諸物資の収奪については、特定の形式
や固有の文書は存在せず、まさに'この「御用留」の中に記録され
ているのである。それ故'「御用留」は本来年貢以外の諸負担の記
録簿という性格をもつものなのである。勿論、「御用留」には'こ
れら諸負担の記載のはかに、領主の触書や手配書としての「人相書」、
村方から領主に提出した願書など多彩な記録が満載されている。
さて'本稿では'文政四年(一八二一)から同一三年(一八三〇)ま
での一
〇
年間の「御用状留記」一〇
冊と「諸事御用留記参」一冊の(‑)合計一一冊を検討対象とした。この一一冊の「御用留」の表題年月〜収載年月'収録項目数等を1覧表にしたものが第1表である。
第1表 文化14年〜文政13年 武州荏原郡上野毛村 「御用留」
番号 表 題 年 月 表 題 ̀.収 載 年 月 収 録r=≡う,
備 考
1 文化14年〜文政13年 法事軒用官記参 文化4年12月〜カ馳3 年12月 65 2 文政4年正月 釦用状官記 文政4年正月〜12月 .10
7 文政3年12月分1項目含む 3 文政5年正月 御用状官記 文政5年正月〜12月 94
ヌ政4申明分l項目.同6年正月分1項目含む 4 文政6年正月 御用状留記 文
政6年正月〜12月 85 文政5年12月分項E]含む 5
文政7年正月 御用状留記 文政7年正月〜12月 108 6 文政8年正月 御用状留記 文政8年正月〜12月 88 文政7
年12月分2項目含む 7 文政9年正月 卸用状留記 文政9年正月〜12月 92
8 カ改10年正月 御用状留記 文政10年正月〜12月 108 文政9年11月分l項目.同12月 分2項目含む 9 文政11年正月 御用状留記 文政11年正月〜12月 78 文政1
0年12月分2項目含む 10文政12年正月 卸用状留記
これによると']「諸事御用留記参」と他のニ
ー
Hr「御用状留記」とは、その内容が異なるといえるOすなわち、一「諸事御用留記参」の内容は'文化一四年二八一七)から文政二二(一八三〇)迄の一四年間分が一冊に
収録されており、主として'争論(出入)'村方騒動'年貢減免厩等の「事件簿」的性格を有するものである。それ
故、ニー一一「御用状留記」の内容を補充する貴重なものである。ここでは、「御用状留記」を中心に「諸事御用留
記参」で補足しながら'文政四年から同1三年までの、いわゆる文政期の支配と農民状況について'農民夫役と支
配形態の二つの側面から検討してみよう。
(こ)文政四年
〜
同二二年の農民夫役文政四年から同11]毎までの一
〇
年間の農民夫役負担の動向を表示すると、儲2表のとおりである.良民夫役は'領主井伊家関係の夫役と幕府関係の夫役に大別できる.
井伊家関係の夫役では、領主井伊家の当主や家族の他の大名家の訪問や社寺参詣の折に供人足として動員されるも
のである.この供人足動員が回数・人数とも1番多いものである.
文政四年一月九日の事例では次のとおりである。
覚
一㌧四人
右は大御前様南部様へ御出御供人足二俣間、明十日夕方迄桜田留所へ髭月代いたし細帯不〆様申付可披出'早々
相廻し留村方可披返候、以上'
「御用留」の性格と内容(蘇)
EJF■
第2表文政4年〜同13年上野毛村「御用状留」からみた夫役負担の動向 ‑∴領主井伊家関係耳府関係合計供人足豪徳寺江戸屋敷その他鷹揚助郷用水 回数人数馬数文政4年回10人29局回8人35局4回20人60局5回人局回1 人3局回人局回人局39127951967518210374241511 38132661873ll3812419 3636136、127268810181051923626 461371287352354143ll4171 37117159251062922・191044413 451751510135792831050 7122104939156°10ll135877ll7201024298921
巳正月九日御代官所印
上野毛村で四人割当てられているが全体では一
〇 〇
人から一四〇
人が動員されている。領主の菩提寺である世田谷村の豪徳寺参詣の際の夫役動員へ江戸屋敷の米拍人足'千田谷屋敷の垣結人足・茅刈人
足等も膨大なものである。
文政一
〇
年1月二五日の項には'米抱人足等諸御用人足の扱い方が非常に苛酷なものであり、ぜひ改善してほしいという歎臆が世田谷御領分村々惣代として世田谷村ほか四か村の名主の連名で代官宛に提出されている。
乍恐以書付奉厩上候
1世田谷御領分村々名主共1同率中上候'当御領分之俵は御府内近在之儀二付、前々占諸御用人馬等被為仰付'
則旧来相勤申候'右之内米損御用人足二相語罷有候者共朝拍・夕番と相定'右朝番二相当り候者は夜九ツ半時
二御番屋方江罷出候様右御掛り御役人様方御申渡しこ付、右刻限古相始メ明朝五ツ時頃ニハ番仕舞、夫占代り
合夕拍之者昼八ツ時頃迄二是又番仕舞申候事二付'1日分之仕菜を三四時之内二拍立申候二付'依之1ト通り
之人夫二而は中々相勤り不申'村々二而撰人工而差出し申候儀二付代り合之人足無御座、名主・手前井触当テ
仕候者共迄甚以難儀仕候、元来御百姓共自分之宅二而番申候節は'壱俵四斗入之米を二日相分ケ朝
方
夕迄之菜二漸以白米二抵申候儀御座候'然ル処御用二而詰居候槻りは前文之通仕候事故'実二難渋之御用向二御座候趣
承知仕候'依之今般恐をも不顧奉殿上ハ'何卒自今は朝拍・夕番と申事を卸止メニ披成下置'夜分ハ相休候而
御百姓共在郷二而番申候振合ニ'四斗入壱俵之米を一日之仕業二白米工場立申候様披為仰付披下置候様奉願
上候、
1御用多之節披召呼相語罷有候人足之儀'御台所板之間二夜分ハ相体中候所二へ去ル成年十二月中も御餅番相始
「御用留」の性格と内容(蘇)九三
史料館研究紀要第二一号畠
リ候節古御台所土間江御おろしこ付'銘々江御渡し被置候薄縁壱枚宛敷申候而立之橿二而伏リ申事故'下夕冷
仕、其上夜中も明ケ通シ之大戸口古夜風吹込候得は'惣身冷渡り寒気相凌兼熟睡等は曽以不相成'右二付夜明
ケを相待旭影江罷出漸少々も相暖り候趣二而、既二代り合帰村之上も聞々は相煩申候人足も有之'誓其節煩不
申候共厳敷寒気を請居候而ハ、以後為方二不宜農業稼之障りこも相成可申哉二奉存候'依之奉願上候'何卒格
別之御慈悲之御賢慮を以寒中之分ハ語人足御赦免被成下置候様'是又奉腰上候
右之趣共御慈悲を以夫々御聞済披成下置候ハ、一同難有可奉存候'以上
文政十亥年正月廿五日 世田谷御領分村々惣代世田谷村名主代安治郎印弦巻村名主安太郎印野良田村名主与一右衛門印猪方村名主善治郎印和泉村名主伝三右衛門印御代官様
これら夫役負担問題については'すでに前稿で詳述したので'ここではこれ以上立ち入らないこととする。
(三)文政期農民支配の周期性
「御用留」は一年ごとに作成され'一冊にまとめられている。それ故、毎年繰り返えし同一事項が同一時期に記載
されていることが多いOすなわち農民支配の「御用」も周期性をもって存在しているのである。それは恰も良民生活
が四季に合せて農業経営を展開して'1定の周期性をもっているのに対応するかの如くである。とくに夫役徴発は農
繁期を回避し'農業経営に支障をきたさないような配慮が当然ながらとられているのである。
ここでは'「御用留」の記載の周期性に着目して、年間の農民支配がどのような周期性=リズムをもっているかを
みることとしたい。
川一月の鹿場取締巡村
新年を迎えて農民たちが最初に支配者からの触書を受け'対応するのは御鷹揚役人の鷹場内村々の取締りの廻村で
ある。この記事は文政四年・五年・六年・九年・十二年の各一月にみられるものである。
文政四年では'幕府代官中村八太夫手附御普請役格軍野繁太郎が「我等儀此度御挙場内為御取締在町共廻いたし候」
として、武蔵国・下総国の御料・私領・寺社領役人中宛に回状を出している。同五年一月一八日には中村八太夫手附
太田源助からの回状で「我等義此度御場所為取締明十九日碑文谷村出立二而其村々廻村候条、村役人之内壱人罷出案
内致差支無之様可披取計候」'「右は当村御泊り披仰付、上下弐人翌廿日昼迄御逗留二付休泊共相勤、昼Ac御出立'
瀬田村へ御順村也」とある。このことから'廻村は代官手附等二人で'村では宿泊の用意も必要であったことがわか
る.同六年では、「正月七日御鷹野役所Ac鈴木八十五郎様御場御取締として御出役被遊、則受印形率差上候'当村占
しもの毛村へ御越披成候」とあり'廻村の証拠として「印形」を提出している。同九年一月二八日には「御場御取締
御出役御両人御巡村'野良田村A
JD
当村、夫古瀬田村へ御越披成候」として石川庄三郎・小笠原虫吉の両名の巡村があったことを記載している。同1二年では「御鷹野御取締御用街出役西村啓蔵様'右は正月十日御廻村野良田村
古
当村御「御用留」の性格と内容(蘇)九五史料館研究紀要第二一号
出役御受印形差上'夫古瀬田村へ御越披成候」とある。
^ほ二月の庸場内農耕開始許可令
11月に入ると、やはり鷹揚に関することで'冬鳥の鷹狩御用が終了したのて'田場に水を入れ'耕返し等の農作業
の開始を許可した触書が出される。文政五年・六年・七年・九年・1
0
年・二年に記載がみられるが'同九年のみ三月四日に出されている。
文政五年では二月1三日に鷹揚役所の山内助次郎から上野毛村が所属している鷹揚組合村触次猪方村名主善次郎宛
に「当春冬鳥御用相済候間、田場水掛井耕返共勝手次第たるへく候」との「御触」が出され'触次名主善次郎から組
合村々の名主へ「此御触早々相廻し留り村
方
直二御返し可被下候」と廻遷されているのである0各年ともほぼ同文であり'いずれも山内助次郎から触次名主宛に出されている。鷹場内農民はこの「触書」が出されてから春の農作業に
取りかかるのである。
仰三月の「宗門改」役人の出張
三月の大きな行事は「宗門改帳」の作成である。これに関する記載は文政八年を除いては'各年にみられる。
文政四年三月一二日附で世田谷代官所から彦根漕世田谷領二
〇
か村へ次の「触書」が廻達されている。「当人別廿一日頃より相初メ可中二付'村々入抜取調例之通り帳面二仕立'来十六日迄二可出候、吾人之義は追而可申達候'早々相廻留村
方
可返候」これによると'「宗門改帳」作成の第一段階は各村ごとに「入抜取調」といって'村に入った者、村から出ていっ
た者'生まれた者、死んだ者等を調査した「帳面」の提出である。
同年の三月一八日には次の記載がある。「明十九日、同廿日両日之内村々共人別帳'宗旨帳二人抜雷入罷出可申候'早々順回留村方可返候'尤廿二日改奉
行出郷二相定候間其旨相心得'廿三日より改初メ例年之通り廻村致候」
この代官所からの「廻達」でも判明するように、一九・二
〇
日の両日のうちに各村ごとに「人別帳」「宗旨帳」に「入抜」を記入し代官所へ提出させ'「宗門改奉行」は二三日より廻村するという段取りになっている。文政五年の事例では'三月八日に代官所からの「廻達」で「当巳年宗門人別之義釆十五・六日頃占相始可中二付、
村々人別人技等取調、入抜帳釆十二日迄二大場弥十郎方へ可出候」とあり、三月1五日には代官所より、「釆十七日・
十八日両日之内人別宗門控供書入可被罷出候」とある。さらに三月二一日には代官所より'「人別宗門改之儀来廿四
日改役衆世田谷へ出郷之積り相定メ'廿五日古初宗旨改候間'其旨相心得廿四日は村々上町へ可披罷出候」とある。(2)上町とは代官屋敷の置かれたところであり、この時期の代官が大場弥十郎である。
文政六年の場合も'同形式であるが、「寺院入抜有之村々は本寺手形取之可申事」の一項目がみられることが注目
される。
文政九年三月の記載では「人別人抜帳」は「半紙桟帳」とすることと、「当番三ケ村中談、例え通品々調物十一・
二日頃可罷出候」として'これは改奉行に対し村方から贈物の用意をしている').とが判明する。
文政1
0
年三月では'「改役衆定役衆定日晴雨こか〜わらず出郷可致候」とあり'奉行名とその日程等が記載されている。「宗門人別御改御奉行
「御用留」の性格と内容(蘇)
Eil i:司
史料館研究紀要第二言で
大久保兵司
松宮豊三郎様
亥三月廿二日
廿五日
廿六日
廿七日 千田谷御住居
御中屋鋪御住居
世田谷徹出郷
当村人別御攻
上町二而寺判御改
御奉行様御帰府
年番は岩戸・猪方・和泉」
これによって「宗門人別御改奉行」は二名で二二日から二七日まで正味四日間で廻村し、最後は上町の代官屋敷で「寺判衡改」で一日を費Ltこの間、村方からは年番として三か村が担当していることが判明する。
文政11年三月二六日の記載では、「人別改日、惣而目立候着服着用無用可為候」という追記がみられる。
文政1三年では'二月段階から「宗門改帳」作成の準備にとりかかっている.すなわち'二月1九日には'当番の
野良田村名主から'「当宗門人別御改帳替‑ニ付'前剖金左之通り明後廿一日(中略)御持参披成御渡可披下候」と
して「一金式朱也上野毛村」となっている。これは'「宗門人別御改帳」を新規に作成するための紙代などの費用
である。彦根藩世田谷領村々では'「宗門人別御改帳」は毎年新規に作成するのではな‑'数年間は同一帳面を使用
し、年ごとの移動を記入していた。この文政二二年は新規に作成する年に当ったのである。三月四日の代官所の廻達
では、「明五日人別帳紙頬受取二昼九ツ時頃迄二自身可披罷出候」とあり'三月九日には「当寅年人別人抜帳、釆十
三日迄二可被出候'本帳・五人組帳・宗門帳等釆十五日迄清帳致持参可被出候」とあり'「清帳」の提出を求めてい
る。こうして同年閏三月三日には、「当春人別宗門改明後五日改メ奉行衆武川氏・佐藤求馬、世田谷へ出郷二日限相
定メニ付'村々得其意'六日Ac改初二成候、例年之通り上町へ相揃可被申候」とある.現在これ等の「宗門改帳」は(3)旧上野毛村田中家文書・旧鎌田村橋本家文書等に残存している。
㈹三月
〜
田月千田谷屋敷の垣結人足三月から四月にかけては'井伊家下屋敷の千田谷(千駄ヶ谷)御屋敷の垣結人足の動員がある。これは彦根藩世田
谷領二〇か村で二五〇人がそれぞれ鎌持参で動員される大規模なものである。これについては'前稿にも述べたよう
に'文政二年まで三
〇 〇
人であったものが'農民の度重なる軽減運動で同三年には一七〇
人となったものである。文政四年三月一六日の項には上野毛村六人の動員が割り当てられ'二日間にわたり朝正五ツ時(午前八時)までに
現地に到着していなければならなかった。ついで同三月二七日には、二人の追加動員が命ぜられているが'その文中
に「先達而百七拾人割合いたし候而申触候得共'右二両は弐百五拾人工は不足二付又々八拾人割合致し申触候」とい
う代官所の弁明が記されている。前年の文政三年'三
〇 〇
人から一七〇
人まで軽減させた成果が'同四年には二五〇
人までは動員させようとした井伊家側の反撃により後退したことが判明する。この千田谷下屋敷の垣結人足動員は
'
九月から一
〇
月にかけて同所での茅刈人足と対をなしているのである。文政五年では'上野毛村は、三月一七日に四人'翌一八日に三人と合計七人が割り当てられている。毎日一
〇
人ずつの割で動員されていることは'「一日二弐拾人二二十人ツ〜不出様やはり一日拾人ツ〜之剖二無間遵可披指出候」
とあることから判明する。
文政六年では'四月八日に上野毛村では七人、小山村八人、野良田村で10人が割りあてられ合計二五人となり、「雨天日送り之積二心得(中略)'尤先年古人数高も相減候事ゆへ老人・子供除可出候」との代官所からの廻状が記
「御用留」の性格と内容(蘇)九九
史料館研究紀要第二一号
載されている。
文政七年四月二八日の項には'人足高二五〇人の内'上野毛村は七人で、五月八日に二人、翌九日に五人と割り当
てられ、毎日1五人ずつが動員されることとなっている.ところが実際は'「一日四、五人程ツ〜出候日も有之趣千
田谷元〆万古尋申来侯、如何之儀二而右様割合いたし申触儀不参いたし候村方有之、甚不時之至二候」とあり、農民
の抵抗により'割り当てても出動しない村があったことが判明する。これは前述のように三
〇 〇
人を一七〇
人とした農民側との約束を二五
〇
人に増加させた領主側に対する農民側の抵抗であった。早速代官所では各村の出勤人数の調査を実施した。
文政八年三月二六日の項では'上野毛村は五人となり、「日々拾人ツゝ」の動員となっている。
文政九年四月八日の項にも上野毛村は五人となり「近年人足減少致候得共丈夫成者勝り立'老人・子供相除可出'
若し用立不申人足有之候ハゝ差戻候趣昨年も中越候間'其旨相心得可申事」とLt農民の要求どおり人足を減少した
のだから「丈夫成者」を選んで出勤させるようにと述べている。
文政一
〇
年四月一八日の項にも全体では二五〇
人であり'上野毛村では五人となっているが、文政一二年五月九日の項では二五
〇
人中の七人となり四人・三人と二日にわたって出動させている。同二二年でも七人となっている。さて'五月・六月・七月は農繁期のもっとも多忙な時期であり、この期問には、楼・蛍等の「両丸御納戸'吹上御
用」程度のものである。
㈲八月
〜
九月の御鷹場法度証文と勧鷹場整備八月から九月にかけては再び鷹場に関することが毎年実施されている。1つは「御鷹場御法度証文」の提出であり、
もう一つは御鷹揚御場所持御用人足の出勤である。これは'秋の将軍の鷹狩準備として'鷹揚の整備を行なうことで
ある。
・文政四年八月三日の項に御鳥見手附五名連名で「例年之通り釆廿四日雨天共朝四ツ時役人相揃御法度証文落字・落
印無之様相改可差出候」という「触書」が鷹揚組合村々へ順達されている。この「御法度証文」は鷹揚管理に関する
詳細な規定である。
同年八月二八日には「場所持人足」の割当が上野毛村では次のように触次役から廻達されている。
「覚
一、人足三人九月三日出持物は銘々持参右は駒場原御場所拝御用人足二御座候間'右日割之通御用屋敷御門
へ相揃候様徹出し可披成候'雨天二俣ハ、衛出し可披成候二不及侯(以下略)」
持物としては「草かり鎌、と石」とある。この「御鷹揚御法度証文」と「場所掠御用」は一連のものであり'「御
法度証文」の趣旨にもとづき「場所掠御用」が実施されているのである。上野毛村では二人から三人が毎年人足とし
て割り当てられている。以下毎年同様の繰り返しであることを指摘するにとどめておきたい。
㈲九月の佐野奉行の世田谷領巡見
九月を中心とした大きな行事は、佐野奉行の世田谷領巡見と千田谷屋敷の茅刈人足の動員である。まず巡見からみ
ると'これは年貢査定と領内の情況把握を兼ねたものであり'受け入れの村方ではその対応に種々の準備をしなけれ
ばならなかった。
文政四年九月1五日の項には'次のような世田谷領代官所からの廻状が記載されている。「御用留」の性格と内容(蘇)
史料館研究紀要第二言ち萱一
当秋順見為御用佐野奉行三浦才記・岡本半右衛門、来十九日世田谷出郷日限相定侯、其旨相心得例年之通り道静
等迄無指支様可被取計
一小検見願村々小検見帳認釆十七日迄可披出候'村々共皆荒田有之分例年小検見受候様立札いたし候、尤小前帳こ
も皆荒脇書二可印事'右之外願有之分も願書十七日可出来
これによると、巡見のための佐野奉行は二名で、村方では道路・橋等を整備しておくこと。また年貢の「小検見」
を出願する村は「小検見帳」を事前に代官所へ提出しておくこと。このほかにも「願分」があれば事前に代官所へ差
出してお‑ことを命じている.巡見奉行の休泊日程では九月1九日・二〇日に世田谷村泊り'二1日瀬田'二二日猪
方'二三日世田谷の各村泊りとなっている。
文政五年八月二六日の項には「当秋為巡視如例年佐野奉行衆・御勘定人共二乗九月二日世田谷出郷相定申候」とあ
り、「小検見相願候村々ハ釆廿八日迄二小検見帳大場弥十郎方へ可出候」、このほかに「玉川通川除井用水路共御普
請願可申村方ハ、川除普請場所ヶ所付こいたし絵図面相添'釆ル廿八日又は晦日迄右同人方へ可出候」とあり、用水
路等の「御普請願」もこの時に出願していたことがわかる。巡見のための佐野奉行が「出郷」の折には各村の名主は
世田谷村上町の代官屋敷へ集合した。
文政六年九月八日の項には'佐野奉行衆等の「出郷」に際しては「村々通行筋道橋掃除等是又例之通り念入可申候'
其外見分場所等
有之
村々は尚又小道等草からせ候様可申付候」と清掃を行なわせている。文政七年閏八
月 1
五日の項には「当秋巡見御用佐野奉行衆井御勘定人江戸着'釆廿1日・廿二日頃世田谷出郷可致哉二申来候」とある。この佐野奉行衆・御勘定人は、遠く彦根から出立し、「十日又ハ十一日程江戸着」であり'そ(4)れから世田谷領へ「出郷」するのである。世田谷領が済むと野州佐野領の巡見へ赴‑のである。
「出郷」に際しては村方から迎人馬を桜田屋敷まで差出させるのである。その様子が文政八年九月三日の項に次の
ように記載されている。
覚
一、五人
一、拾人
案内内 上野毛村
瀬田村
御勘定笠持脇さし差直二御領内廻村
壱疋お勘定荷物付属
一'八人岡本
内壱人笠持人足瀬田村同断
〆弐拾四人案内之もの・馬士共
壱疋
此わけ奉行衆駕龍弐挺
御勘定同弐丁
分持三荷
笠持人足
案内
荷附馬
「御用留」の性格と内容(衣)
壱 弐 弐 六
六六
疋 人 人 人 人 人
⊂⊃