論 説
嘉禾四年〜六年 (235 237)
長沙の婚姻慣行:婚姻と年齢
鷲 尾 祐 子
序
本論では, 嘉禾四年〜六年における長沙の婚姻慣行の一端につい て, 年齢の問題を中心に, 住民家族名簿を史料として検討する。
夫婦とは, 社会・国家の細胞である。 第一に, 夫婦は経済的な単 位であり, 夫婦一組はそのまま耕作の組織とされた(1)。 国家の制 度上では, 夫婦は分割すべからざる共財の単位とされた(2)。 さら に, 夫婦は地位の単位でもあり, 国家の制度上で妻は夫の地位に準 じて処遇された (保科季子2004)。
また, もとより夫婦とは, 家族の基層単位でもある。 漢代では, より多くの家族員による共同生活が賞賛されたが, 大家族の維持は 生育した男子が結婚後も独立しないことにかかる。 もし息子夫婦が 分家すれば, 新たな核家族が誕生する。 このため, 男女がいつどの ようにして婚姻するか, その実態についての考究は, 当時の家庭の 規模や構成を考察する端緒となる。
しかし, 古代中世における結婚の実態について考察しようとする と, 史料上の制約に逢着する。 個人の伝記や説話に見える家族の記 述は往々にして断片的であり, 全体像を把握することが可能な具体 的な記述は, 典籍に少ない。 また家族の具体例となる史料も, 著名 な人物の事例にかたより, 勢い階層としては上層の史料が多く, 圧 倒的多数を占めるそれ以下については不足している。
本論では, この弱点を克服し, 一般的な傾向を知るために, 三国 呉・長沙郡臨湘侯國 (現在の湖南省長沙) の住民家族名簿である 「吏 民簿」 に依拠する。 近年陸続と出土している簡牘に記された戦国〜
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第 九 十 七 巻
一 三 四
晋の公文書は, 家族に関して国家における制度的側面の解明に大き く貢献した。 しかし, そこに居る家族の具体的な状況そのものを記 した史料は稀であった。 これに対し, 郷に住む多くの家族を記録す る 「吏民簿」 には, 史料的な空白を埋める大きな可能性がある。
結婚の実態について, とりあえず最初に解決すべき問題は, すべ ての男女が結婚したか否かである。 戦国時代・漢については, 原宗 子1994 ( 256) や彭衛1988 ( 134 150) が, 経済的な理由から結婚 できない男女が相当数存在したと指摘する。 当時の制度の前提は, すべての成年男女が夫か妻であることだとしても, 実際にそうであっ たとは限らない。
男女が皆結婚したか否かを確認した上で, 次いで問題となるのは, 彼らがいつ結婚するかということである。 経済的理由から, 著しい 晩婚傾向が引き起こされる可能性も存在するからである。 標準的な 初婚年齢に関しては, おおよそ, 漢代〜南北朝にかけて, 初婚年齢 は低下傾向にあり, 十代前半から後半くらいになったというのが, 従来の研究の一致した見解である。 漢代については, 男性は十代後 半に婚姻し, 女性はそれよりやや早く13歳ごろから適齢が始まると される(3)。 また, 漢から唐までの流れを視野にいれると, 多くの 論者は三国時代以降婚姻年齢がしだいに下降すると述べる(4)。
さらに, 配偶者と何らかの理由で離別した場合, 再婚は一般的で あったと考えられている。 宋代以降の厳格さに対して, 戦国〜唐代 五代までは貞節観念のゆるやかな時代であり, 再婚は社会的に容認 されていた(5)。 しかし, 女性の場合何歳ぐらいまで再婚可能であっ たのかは, あまり検討されていない。
総じて従来の研究によれば, 十代で結婚し, 死別・離婚後の再婚 は許容されていたというのが, 三国時代の婚姻の実態と考えられる が, 本論では, これを長沙走馬楼出土の呉簡 「吏民簿」 によって再 確認し, あわせて女性はいつまで再婚の対象とされるかを検討する。
婚姻が可能な年齢がいつまでかは, 結婚の意義に関わるからである。
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一 三 三 嘉 禾 四 年
〜 六 年(235-237)
長 沙 の 婚 姻 慣行:
婚 姻 と 年 齢 鷲 尾
1. 吏民簿について
1996年, 湖南省長沙市走馬楼古井群中のJ22より出土した簡牘群 (通称 「走馬楼呉簡」)(6)中に, 個人の状況を戸単位で記載した竹簡を 多数含む。 例を挙げる。
a東陽里(7)戸人公乘謝高年廿六盲左目 ( 3791) b 高男弟專年廿一盲左目 高從兄公乘至年廿□
( 3783 □は一字不明) c 右高家口食五人 其四人男/一人女 ( 3790) d高 里戸人公乘苗覇年十七 一給郡吏 (壹10048)
各戸の冒頭に戸人 (a・d) の簡が置かれ, 主に里名, 爵位・姓名・
年齢・「 」(8)が記載され, そのほか特定の徭役に就いている者や 官吏である者の場合はその旨が記され (d), 疾病障碍を有する場 合はそれが記される (a)。 以下各成員の記述が続くが里名は書か れず, 「某の男弟」 のように他の成員との親族関係が最初に記載さ れる (b)。 各戸の記述の最後に, 戸の口数などを集計する簡が置 かれる (c)。
このような名簿 (通称 「吏民簿」(9))は, 後掲する表題簡や集計簡・
記載内容から, 郷里に所属する吏民全員を対象とする名簿であるこ とが推測される。 また, 年に一度の戸口調査と関連する名簿であり, 上級機関への報告を前提として作成され, 正確な記載を義務づけら れている公文書である (鷲尾祐子2012)。 当時の長沙は臨湘侯國の領 域であり, 臨湘侯國は呉の長沙郡に属していた。 既発表の吏民簿は, 臨湘侯國に属する各郷を対象とした嘉禾年間 (232 237年)(10)の調査 記録である。
「吏民簿」 を構成する諸簡のほとんどは, 編綴が切れ簡相互の連 続が不明な状態で出土した。 このため史料化の前提として, 分散し た簡相互のつながりを, 書式や名前などによって復元し, どの簡が どの吏民簿の一部であるかを確定する必要があるが, その最大の手
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がかりとなるのは竹簡掲剥位置示意図 (以下示意図と略称。) から知 り得る簡の出土状況である。 中には, 簡冊の状態を維持して出土し ているものもあり, このような諸簡については, 簿の構成について の把握がある程度は可能である。 まず 「竹簡貳」 嘉禾六年廣成郷簿 ( 資料 【吏民簿2 ) の例によって, 吏民簿の基本的な構成を紹介す る。
吏民簿は, 郷の表題 (1) で始まり, 次いで里の表題 (2), さ らに各戸の状況を記載する簿本文の簡が続き (3), 里全体を集計 する諸簡が置かれ (4), 最後に郷全体の集計簡で締めくくられる (5)。
(1) 廣成郷謹列嘉禾六年吏民人名年紀口食爲簿
(貳1798 示意図207) (2) 廣成里謹列領任吏民人名年紀口食爲簿 (貳1797 示意図206) (3) 民男子楊明年八十六給驛兵 明妻大女敬年六十二
(貳1778 示意図179) 明子公乘禿年十一 明姪子女錢年十三
(貳1780 示意図181)
●右明家口食五人 (貳1790 示意図193 ●は圏点) (4) 右廣成里領吏民五十戸口食二百九十□人 (貳1671 示意図15)
●其五戸 羸老頓貧窮女戸 (貳1705 示意図67)
●定應役民廿戸 (貳1704 示意図66)
●魁 蔡 喬 主
(貳1700 示意図61)(侯旭東2009参照) (5) □凡廣成郷領吏民□□五十戸口食二千三百一十人 (貳2529) 示意図によって簡冊の状態を窺い得, さらに作成時期と調査対象 の郷とが特定可能な吏民簿が, 資料 の【吏民簿1 【吏民簿2】
である。 また,【吏民簿4 【吏民簿5 【吏民簿6】も, 示意図か ら簡冊の状態をある程度は維持して出土したことが明らかである。
吏民簿3】は, 表題簡や集計簡, 書式などによって吏民簿の一部 であると判断される。
本論では, 時期と対象が特定可能な二つの吏民簿 ( 吏民簿1】
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一 三 一 嘉 禾 四 年
〜 六 年(235-237)
長 沙 の 婚 姻 慣行:
婚 姻 と 年 齢 鷲 尾
吏民簿2 ) と, 同一ないし二つの吏民簿からなると考えられる簡 群 ( 吏民簿3】〜【吏民簿6 ) との二種類を資料として用いる。 す べて, 嘉禾四年から嘉禾六年の間に作成されている (各簿の詳細は,
資料 で紹介した)。
なお, 「吏民簿」 は, 簡相互の編綴が切れた状態で出土したため, 一戸全体の復元はおろか, 同戸構成員を二名以上把握することすら, 少数の事例を除き不可能である。 現在の研究状況では, 主にばらば らの簡に記載された人々の性別・年齢・続柄から, 家族の傾向を読 むことが試みられている。
従来の研究では, (A) 世帯規模 (B) 世帯構造 (C) 男女人口 の比率などが検討されている。 以下, 概略を紹介すると, (A) 于 振波2004 ・孫聞伝2010は, 一戸あたりの平均口数は漢における標 準 (5口) とほぼ同じであることを確認した。 (B) 町田隆吉2007 は, 名籍簡複数を接続して戸全体の簿を復元し, 核家族以外に多様 な家族形態が存在することを述べ, 于振波2007 は家族成員の続柄 (父・母・妻・子・兄・弟・姪など) ごとに人数を集計し, 当時の家庭 には直系家族や複合家族も多いが, 依然として規模の小さい家族が 多く, 相互扶助のために親族中の不完全な家庭の成員を収容してい る場合核家族以外の構成となるとする(11)。 また, 町田隆吉2007・
于振波2007 ・孫聞伝2010などは, 戸には孤児や寡婦などの身寄り のない親族を扶養する側面が存在したことを指摘する。 小林洋介 2005は, 当時の家庭に妻の親族などの外家を含むことを述べる。 一 方, 最も主流の形態はやはり核家族であったとする説もある (賈麗 英2010)。 (C) 男女人口の比率については, 于振波2004 ・高凱2003 に考察され, 男女の人口比が不均衡であったことが明らかにされ た(12)。
また, 婚姻に関しては, 初婚年齢と夫婦の年齢差(13)などが検討 された。 于振波2007 ( 45)(14)は, 「竹簡壹」 の師佐籍と吏民簿か ら, 当時の女性の婚姻基本年齢は15歳であると述べる。 しかし, 于 振波2007 は 「竹簡壹」 のみに依拠しており, その後出版・発表さ れた竹簡群は用いていない。 本論では, 「竹簡壹」 〜 「竹簡肆」 か
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ら集成した【吏民簿1】〜【吏民簿6】に依拠して, 女性の年代別 有配偶率によって, 当時の婚姻慣行について論じる。
2. 孫呉嘉禾四年〜六年 (235 237年) における 臨湘侯國の婚姻実態
2―1初婚年齢と有配偶率
はじめに, 女子の初婚年齢を検討し, さらに女性のうちのどれく らいが結婚したかを検討する。 吏民簿には, 各人がいつ結婚したか は記載されないが, 女性の場合, 配偶者がいれば妻という続柄が必 ず記載されるため (鷲尾祐子2010 参照), 記載時点での配偶者の有無 は把握できる。 まず, 対象と時期が確定している【吏民簿1 【吏 民簿2】から, 女性の有配偶率を年代別に算出した (小・中妻など の庶妻も含む(15))。
把握可能人数が最多である【吏民簿2】嘉禾六年廣成郷簿から, 年齢の上昇にともなう有配偶率の変化を見ると ( 表1】参照。 婢は 除外する(16)), 二十代で84%に達し, 女性の8割以上が二十代まで に結婚している。 そののち, 三十代で93 7%と, 有配偶率はピーク を迎える。 一方,【吏民簿1】嘉禾四年小武陵郷の場合 ( 表2 ), 二十代で96 3%と, 有配偶女性の比率は100%近くにまで上昇して いる。
さらに,【吏民簿3】〜【吏民簿6】の例 ( 表3 ) では, 二十代 では90 9%と, 9割は二十代までに結婚しているようである。 三十 代では, 93 3%まで上昇する。【吏民簿1】〜【吏民簿6】全簿の 計数 ( 表4 ) においても, 十代では3割未満だが二十代で9割近 くになり, 三十代では94 1%となる。 また, 全簿【表4】三十代の
「妻」 人数に, 「母」 「寡女」 「寡嫂」 「嫂」 などのかつて結婚してい た人々を加えて, 結婚を経験していることが確実な者の全女性に占 めるパーセンテージを算出すると, 96 5%の高率に達する(17)。
このように, 当時の女性たちの9割は, 二十代までに結婚する。
また, 少なくとも全女性の約97%は, 三十代までには一度は結婚し ている。
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一 二 九 嘉 禾 四 年
〜 六 年(235-237)
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一 二 八 表1 廣成郷嘉禾六年女性有配偶率
年代 口数※ 有配偶者数 %
十代 57 14 24 6%
二十代 75 63 84 0%
三十代 63 59 93 7%
四十代 38 32 84 2%
五十代 36 32 88 9%
六十代 29 19 65 5%
七十代 23 11 47 8%
八十代 11 3 27 3%
九十代 1 0 0 0%
※戸下婢を除く (年齢・配偶の有無が 不明なため)
表2 小武陵郷嘉禾四年女性有配偶率
年代 口数 有配偶者数 %
十代 24 8 33 3%
二十代 27 26 96 3%
三十代 34 33 97 1%
四十代 13 12 92 3%
五十代 7 7 100 0%
六十代 21 9 42 9%
七十代 5 1 20 0%
八十代 2 0 0 0%
九十代 1 0 0 0%
表3 吏民簿3】〜【吏民簿6】
女性有配偶率
年代 口数※ 有配偶者数 %
十代 99 29 29 3%
二十代 99 90 90 9%
三十代 105 98 93 3%
四十代 56 48 85 7%
五十代 41 28 68 3%
六十代 44 23 52 3%
七十代 28 11 39 3%
八十代 8 1 12 5%
九十代 4 1 25 0%
百歳以上 1 0 0 0%
※戸下婢を除く
表4 吏民簿1】〜【吏民簿6】
全簿女性有配偶率 年代 口数※ 有配偶者数 %
十代 180 51 28 3%
二十代 201 179 89 1%
三十代 202 190 94 1%
四十代 107 92 86 0%
五十代 84 67 79 8%
六十代 94 51 54 3%
七十代 56 23 41 1%
八十代 21 4 19 0%
九十代 6 1 16 7%
百歳以上 1 0 0 0%
※戸下婢を除く
表5 吏民簿5】女性有配偶率 年代 口数※ 有配偶者数 %
十代 51 16 31 4%
二十代 36 31 86 1%
三十代 41 37 90 2%
四十代 20 17 85 0%
五十代 11 8 72 7%
六十代 13 4 30 8%
七十代 7 1 14 3%
八十代 4 0 0 0%
※戸下婢を除く
表6 廣成郷十代女性婚姻状況
年齢 女性口数 妻口数 %
10 11 0 0 0%
11 4 0 0 0%
12 5 0 0 0%
13 8 1 12 5%
14 4 1 25 0%
15 2 1 50 0%
16 12 4 33 3%
17 1 0 0 0%
18 4 2 50 0%
19 6 5 83 3%
では, このような状況は, 財の多少によって影響を受けるだろう か。【吏民簿5】南郷の簿は, 資産の多寡を示す 「 」 がすべて最 低ランクの50であり, 比較的財の少ない戸の集まりである。 この簿 に見える女性の年代別有配偶率は( 表5 ), 二十代で86 1%であり, 三十代では9割が配偶者を有しており, 財との関連は特に無いと考 えられる。
とすれば, 二十代に至るまでのどの時点で結婚するのだろうか。
【吏民簿】全体から言えば, 15歳未満で結婚する者は, 非常に少数 である。 たとえば,【吏民簿2】廣成郷嘉禾六年の例では, 妻の最 年少は13歳 (貳1749)(18)である。 この13歳を筆頭に15歳未満の妻が 二名存在する以外は, すべて15歳以上である ( 表6】参照)。 15歳 以上になると, しだいに有配偶者が増加する。 16歳では三分の二は 未婚だが, 19歳では6名中5名が結婚している。
単独の簿からは得られる事例が少ないため【吏民簿1】〜【吏民 簿6】全簿のデータを集計したのが,【表7】である。 15歳未満で は結婚している者は少ないが, 15歳になるとパーセンテージが5割 以上に上昇し, 19歳では8割近くにまで達する。
つまり, 臨湘侯國における女性の一般的な初婚年齢は, 15歳から 19歳という十代後半の間である。 これは, 先に紹介した漢代〜魏晋 の初婚年齢に関する文献史料に基づく従来の研究結果に, ほぼ一致 する。 しかし, 南北朝時代の初婚年齢は十代前半からであるという 説に比べると, やや高い。
また, 二十代〜三十代で未婚の女性はきわめて少数である。 この 年代の有配偶率は8割〜9割を越え, 小武陵郷では100%に近い数 字を示すように, 女性の大多数は二十代までに結婚したのである。
だが, 一つ問題が存在する。 それは, 二十代〜五十代では, 同年 代で比較すれば男性が女性より少なくなるため ( 表10 ), 夫となる 者の人数が少ないことである。 しかし, この問題は, 夫婦間の年齢 差から説明し得る。 鷲尾祐子2010 は吏民簿に現れた夫婦の年齢差 を検討し, 夫の年代によってそれが相違する傾向にあることを明ら かにした。 十代の夫はやや年長の妻を有し (夫を基準にすると夫の年 第
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一 二 七 嘉 禾 四 年
〜 六 年(235-237)
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婚 姻 と 年 齢 鷲 尾
齢が妻より平均0 28歳低い), 二十代の夫はやや年少の妻を有するが (夫は妻より平均1 76歳年長), 高齢になるほど夫婦の年齢差は拡大し, 夫に対し比較的若年の妻の組み合わせが多くなる。 特に夫二十代と 三十代, 四十代と五十代の間で, 年齢差が拡大する傾向が見られる。
夫三十代で年齢差平均は5 3歳であり, 夫四十代では年齢差平均は4 5 歳だが, 五十代では9 8歳である。 つまり, 男性は三十代以降, 同 年代ではなくより若い女性と結婚する傾向があり, 一方六十代以上 の女性は再婚しない (後述)。 それで, 二十代後半以上の有配偶女
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一 二 六 表7 吏民簿1】〜【吏民簿6】
全簿十代女性婚姻状況
年齢 女性口数※ 妻口数 %
10 27 0 0 0%
11 25 0 0 0%
12 16 0 0 0%
13 20 1 5 0%
14 12 4 33 3%
15 22 13 59 1%
16 24 11 45 8%
17 8 4 50 0%
18 12 7 58 3%
19 14 11 78 6%
※戸下婢を除く
表8 吏民簿1】
性別年代別人口構成
年代 男 女 計
一〜九 72 57 129
十代 31 24 55
二十代 30 27 57
三十代 20 34 54
四十代 10 13 23
五十代 11 7 18
六十代 15 21 36
七十代 6 5 11
八十代 2 2 4
九十代 0 1 1
計 197 191 388
表9 吏民簿2】
性別年代別人口構成
年代 男 女 合計
一〜九 195 109 304
十代 63 57 120
二十代 45 75 120
三十代 55 63 118
四十代 24 38 62
五十代 16 36 52
六十代 41 29 70
七十代 18 23 41
八十代 11 11 22
九十代 2 1 3
計 470 442 912
表10 吏民簿1】〜【吏民簿6】
全簿性別年代別人口構成
年代 男 女 計
一〜九 552 267 819
十代 249 185 434
二十代 164 204 368
三十代 156 205 361
四十代 79 112 191
五十代 69 85 154
六十代 96 96 192
七十代 43 57 100
八十代 25 21 46
九十代 5 6 11
百歳以上 0 1 1
計 1438 1239 2677
性と, 二十代後半以上の男性を比較すると, 男性の人数が有配偶女 性の人数を上回り ( 吏民簿1】〜【吏民簿6】全簿で, 十代後半以上の 小・中妻を除く有配偶女性の人数は617人, 男性十代後半〜九十代の人数は 728人), 夫不足の問題は解消されるのである。
2―2 再婚の一般性
実は, 日本古代の戸籍に, これと類似の現象が存在する。 今津勝 紀2003によれば, 大宝二年の御野国加毛郡半布里戸籍から夫婦の年 齢差の推移を集計すると, 夫を基準にみた場合, 低い年齢層では夫 婦間の年齢差に大きな開きは無いが, 高年齢層になるとその開きが 大きくなるのであり, また再婚も多く, 生き延びた高齢の男性が妻 帯しているのに対し, 女性には夫がいないことから, 妻をなくした 男性が若い女性と再婚することによりこのような現象が生じたと考 えられると述べる。
現在検討中の長沙二郷についても, 婚姻年齢差の拡大は, 配偶者 の交代によると考えられる。 特に, 年齢差が拡大する夫二十代〜三 十代の間と, 夫四十代〜五十代の間で, その配偶者の交替が推測さ れる。 夫五十代の妻は平均で十歳年下であり, 女性は再婚である可 能性が高い。
先述のごとく, 吏民簿の記述により, 女性については配偶者の有 無が明らかである。 そして, もし男性の人口が低下しはじめても, 女性の有配偶率が低下しなければ, 夫との死別後再婚した女性が存 在すると推測することが可能となる。 そこで, 女性の有配偶率を集 計した【表1】〜【表5】と, 時期と記載対象が確定可能である
【吏民簿1】 吏民簿2】の性別年代別人口構成とを照らし合わせ, 男性人口の低下する年代と, 女性の有配偶率が低下する年代は連動 するか否かによって, 女性の再婚動向について検討する。
年度と対象の特定が可能な【吏民簿1】 吏民簿2】につき性別 年代別人口構成を求める ( 表8 【表9】参照) と, 三十代に比較し て四十代人口は大幅に少なく, 四十代以降で人口が減少しはじめる 傾向が看取される。 これは, 彭衛1988が前漢皇帝の平均寿命を算出
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一 二 五 嘉 禾 四 年
〜 六 年(235-237)
長 沙 の 婚 姻 慣行:
婚 姻 と 年 齢 鷲 尾
し, 41歳という数字を得たことと合致する ( 114)。 さらに, 当時 の長沙においては, 成人における男性と女性の人口を比較すると男 性が圧倒的に少なく, 総じて男性がより早く死亡している状況が存 在する (鷲尾祐子2012)。
では, 四十代の男性は何歳の妻を有しているのか。 夫が四十代に さしかかると, その妻である女性は, 先述の夫婦年齢差から考える と三十代〜四十代であるが, この年代で多くの女性がいったん寡婦 となるのであり, もし再婚しなければ有配偶率は低下するはずであ る。 では, 二郷の吏民簿にみえる女性の有配偶率は, 三十代から低 下するであろうか。
結論から言えば, 二郷の場合, 女性の有配偶率は五十代まで低下 せず, 六十代以降になってやっと低下しはじめる。【表1】の廣成 郷嘉禾六年女性有配偶率によれば, 三十代で93 7%のピークに達し た有配偶率は, 四十代で84 2%まで下降, しかし五十代では88 9%
まで上昇し, 二十代の有配偶率を上回る。 そののち, 六十代では 65 5%まで低下する。【表2】の小武陵郷では, 二十代で96 3%に達 した有配偶率は, 四十代で92 3%, 五十代で100%の高率を維持, 六十代に至ってはじめて42 9%に低下する。 このように, 二郷にお ける有配偶率からは, 五十代まで90〜100%の高率を維持し, 六十 代以降しだいに低下し始める傾向が看取される。
また,【表4】を見ると, 同じく三十代では94 1%の高い有配偶 率を示しており, 四十代で86 0%, 五十代で79 8%と, やや減少し ながらも五十代まで高いパーセンテージを維持している。
この数字は, 何を意味するだろうか。 まず, 三十代以降も女性の 有配偶率が高率であるのは, 夫と死別しても再婚していたことを物 語る。 さらに, 五十代の有配偶率の高さは, この年代に至っても夫 が死去すれば (五十代妻は一般的に六十代以上男性を夫としていると考え られる) 再婚を繰り返していることが推測される。
この集計結果は, 年齢が上がるにつれて夫婦の年齢差が拡大する 傾向とも符合する。 とくに男性が高齢になるにつれ, より年少の女 性と結婚する傾向にあることは, 日本古代の場合と同じである。
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一 二 四
2―3 女性の再婚年齢
しかし, 日本古代と嘉禾年間の長沙が相違する点は, 四十代以上 の女性についても, 有配偶率が高いことである。
女性の再婚可能年齢に関しては, 彭衛1988 ( 205 206) は49歳 (四十代) までであると述べる。 なぜならば, 当時の文献では49歳で 妊娠が不可能になるとされるからである( 黄帝内經素問 上古天真論 篇第一)。 唐律でも, 「嫡妻年五十以上の子無きは, 嫡を立つるに長 を以てするを得。」 (戸婚律)(19)とされる。 確かに49〜50歳は, 女性 の標準的な閉経年齢と一致し, 出産可能年齢上限の認識としては妥 当である。 49歳が再婚年齢の上限ならば, 結婚の最も重要な目的は 子をもうけることとなる。
しかし, 先述のごとく, 三国嘉禾年間の長沙においては, 女性の 標準的な婚姻上限年齢は49歳より上である可能性があり, これは出 産限界年齢を上回ることになる。 また, 49歳というのはあくまで上 限であり, もし本当に子をもうけることが目的であれば, 四十代で すでに結婚の対象とはならないと考えられる。 とすれば, 結婚の目 的として, 子を得ることよりも重要な何かが存したこととなる。 そ れはむしろ, 生産・家計や家事など, 生活上の必要ではないか。 次 章では婚姻と年齢について考察する。
3. 長く働く妻たち
前章で検討したように, 嘉禾年間の長沙において女性は十代後半 で初めて結婚したが,【表7】に見えるように, 最初の結婚を13〜
14歳 (満年齢で12〜13歳) で経験する者も少数ながら存在した。 女性 の14歳は, 漢から三国時代にかけての言説では, 出産可能年齢への 到達を意味する。 王肅 (三国魏) の説に引用される 孔子家語 は, 次のように述べる。
魯哀公孔子に問う, 男子十六 じ, 女子十四にして化す, 是 れ則ち以て民を生むべし。 聞くならく禮に男三十にして室有り, 女二十にして夫有りと, 豈に晩からざらんや, と。 孔子曰く,
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夫れ禮は其の極を言い, 亦 ぐるを是とせざるのみ。 男子二十 にして冠するは, 人の父と爲るの端有り, 女子十五嫁を許すは, 人に くの 有り, 此れより以往, 則ち自ら昏す, と(20)。 ここでは, 男子の十六, 女子の十四は, 生殖が可能となる年齢で あるとされる(21)。 当時, 女子14歳とは出産可能時期として認識さ れ, この時期に達することがそのまま適齢期の到来とされたのであ る。 これは, だいたい十代後半に結婚するという長沙の状況に重な る。 つまり, 出産可能な身体になると結婚し, 速やかに子をもうけ るということが, 初婚年齢がこの時期であることの主な理由であっ た。
一方, 五十代まで再婚可能であることは, 何を意味するのか。 牧 野巽1944は, 漢〜魏晋における比較的高い結婚年齢についての説を 五種類挙げているが, その内の一つは 「成人としての仕事上の能力」
である。 この説明は, 周禮 媒氏賈公彦疏引く尚書大傳に孔子の 説として見える 「男子三十にして娶り, 女子二十にして嫁す, 女二 十にして織 任紡績の事, 黼黻文章の美に ず。 是くの若くならずん ば, 則ち上は以て舅姑に孝たること無く, 而して下は以て夫に事え 子を養うこと無し。」(22)に依るが, この説では糸を紡ぎ布を織る技 能の成熟を妻たる条件として重視している。 紡織の技能を重視する ならば, 比較的高齢でも結婚 (再婚) は可能なことになる。
生産の技能を妻となる資格として重視する傾向から, 十代の男性 の妻は, 夫よりもやや年上であるという, 先に述べた当時の長沙に おける傾向を説明することができる。 陳鵬1990 ( 390) では, 農家 は生産に従事するために, 年長の妻が労働を助けることを望むと述 べるように, 年上の妻は労働の補助となることを期待された。 当時 の女性が耕作にも従事していたことは, 劉増貴2009 ( 110〜112) が文献と画像石の双方を挙げて述べている。
また, 当時の女性はほかにもさまざまな仕事に従事し, 家計を実 質的に助けていた。 紙幅の都合もあり詳説できないが, 劉増貴2009 ( 106〜124), 彭衛・楊振紅2010 ( 12〜51)(23)によれば, 当時の女 性は履や席の製造, 酒の醸造, 布帛の製造を手がけ, またそれらの
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販売といった商業に従事することで利益を得ていた。 飲食店で働く 者, さらに経営する者も存在した。 彭衛・楊振紅2010は特に紡績職 の利益を強調し, 一家の収入の三分の一はこれに因ったと述べる。
そして本来的に妻の家への貢献として最も重視されるのは, 先述 の家計補助を含む 「家事」 の方面である。 家事は家に関する事全般 を指し, 家産の管理(24)や家内の重要事項の決定(25)などを含み, そ の統率者は主に夫や兄などの家長である(26)。 にもかかわらず, 日 常的な家計や家産のことについては, 妻や母が管理するのが一般的 であった。 三國志 魏書二十八鍾會傳裴松之注引く會の母の傳に は, 會の母の賈夫人はすでに高齢であった鍾 の正妻となった後, 家事を営んでいたとされ, 顔氏家訓 後娶篇に 「江左庶 を諱ま ず, 室を喪うの後, 多くは妾 を以て家事を終う」(27)と見え, 本来 正妻が担当する家事を, その死後は庶妻が担ったとされる。 また 後漢紀 孝明帝紀上の馬皇后の傳には 「 薨りし後, 客 早く死 し, 太夫人悲傷して疾を發し, 恍惚昏亂す。 后時に年十 , 家事を 幹治し, 僮僕を勅制し, 昆弟親屬, 各おの其の宜しきを得。」(28)と 記載され, 兄の死後母が正気を失ったため, 本来母の担うべき家事 は娘によって主管されたことが見える。
そして, その家事にはもちろん, 掃除や衣食の世話などのいわゆ る 「家事」 労働も含まれる。 列女傳 母儀傳鄒孟軻母に 「夫れ 人の禮, 五 を げ, 酒漿を羃い, 舅姑を養い, 衣裳を縫うの み」(29)と見えるように, 日常の細かい家事労働こそが嫁=妻の本領 とされた。 だが実際は, 前掲の家産経営を含む広義の家事も妻の仕 事であり, 大小二種の家事は, ふたつながらに妻の仕事であったの である。
家事の主たる負担者としての妻は生活上で必要であったため, 妻 を失った男について, たとえ年配ですでに子がいても, 周囲が配慮 して妻を世話することがあった。 後漢書 朱暉傳李賢注引く華 後漢書に, 「暉年五十にして妻を失い, 昆弟爲に室を繼がしめんと 欲す」(30)と見え, 五十歳ですでに子もいる朱暉のために兄弟が妻を 世話しようとしたのである。 五十歳男性と結婚する女性は, 前掲の
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夫婦年齢差からいって三十代後半〜四十代であり, 当然彼女も再婚 である。 また, 後漢紀 和帝紀下永元十六年・魏覇傳にも, 老い て妻を亡くした覇の新しい妻を兄が世話したが, もうすでに子がい るということもあり, 覇はこれを拒否するという記述がある。 これ らによれば年配で跡継ぎもいる男性でも結婚するのは当然であり, その理由は日常的な家事への必要性からくるようである。
このような日常での 「妻」 の必要性のゆえに, 「鰥」 という人々 が憐れむべき存在とされ, 救恤の対象とされるのではないか(31)。 この語は通常 「鰥寡孤独」(32)の一部として用いられ, 父母妻子の揃っ ていることを当然視する意識を表す。 なかでもとりわけ 「夫婦」 を 重視することは, 匹夫匹婦という一般民衆を表す言葉が, 夫婦一対 を前提としていることにも現れている(33)。 夫婦一対であってはじ めて十全な生活を営むことができるという意識が, その背景には存 在している。
つまり, 当時の言説によれば, 結婚を出産と関連づける意識と, 生産や家事など生活上の要請を重視する意識との双方の観念が併存 したのであり, 後者の意識が女性の長い婚姻可能期間の裏付けとなっ ていたのである。
結 語
以上, 湖南省長沙走馬楼呉簡の吏民簿から, 当時の女性の婚姻年 齢の傾向について検討した。 三国呉嘉禾年間の女性は, 概ね十代後 半で結婚し, 少なくとも9割5分の女性が一度は結婚した。 夫と死 別後はすみやかに再婚した。 生き延びることができたら, 五十代を 過ぎるまでは再婚するのが一般的であった。
彼女たちは十代後半から五十代という長きにわたって, 求婚の対 象であり続けたが, 初婚年齢は出産可能年齢への到達と関連し, ま た, 比較的高齢でも結婚が可能であったのは, 生産や生活の上での 妻の役割の重要性による。
本論では男子の結婚年齢については触れていない。 男性の場合は, 個別の記述からは配偶者の有無が明らかにし得ないからである。 こ
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れについては, 検討方法を改めて考えてみたい。
今回年齢についてとりあげたのは, それ自体について考えること が重要であることはもちろん, 他の重要な課題について考察する糸 口ともなるからである。 一般的な初婚年齢は, 実は家族構成とも関 連する。 牧野巽1944は, 漢代の比較的高い初婚年齢の一原因は, 各 人異居する傾向があったことにあり, 若い夫婦が父母の厄介になら ずに或る程度独立の生活を営むとすれば, それは或る程度年齢が高 い必要があるからであり, 後世のごとく嫁は普通, 舅姑と同居する とすれば, 成人になるのを必ずしも待たないでよいと述べる。 呉簡 の示す初婚年齢は牧野のいう後世のケースに該当するのであり, 若 年の夫婦が結婚後父母と同居した可能性が存する。 家族構成の問題 については, またあらためて考察したい。
註
(1) 渡辺信一郎1978参照。 また漢代において, 田を授給する対象は一夫 一婦である (鷲尾祐子2010 )。
(2) 民の主要な財である田宅は, 戸を単位として所有され, 夫婦は必ず 同じ戸に所属しなければならなかった。《二年律令》345 (戸律)・ 二年 律令》323 324 (戸律) 参照。
(3) 牧野巽1944, 楊樹達1933第一章婚姻, 陳鵬1990巻八, 彭衛1988 ( 85 92) 参照。
(4) 陳顧遠1936 ( 125 129), 陳鵬1990 ( 385 389), 薛瑞澤2000 ( 109 123) 参照。
(5) 陳顧遠1936第六章, 史鳳儀1987参照。 劉増貴1980 ( 25) は, 漢代で は再婚の風が大変盛んであったと述べる。 彭衛1988 ( 195 202) は, 漢 代は後の時代に比較して貞潔観念が重視されず, 再嫁改嫁が一般的であっ たことを述べ, その社会背景を分析する。 閻愛民2005第一章 ( 54 55) は, 女子の再婚は一般的であり, 婚姻関係は不安定であったと述べる。
彭衛・楊振紅2010も, 事例を挙げて両漢時期の婦女の再婚は一般的であっ たことを述べ ( 133 144), 主流の世論は女子の貞潔を褒めるが, 再婚 の女子を譴責することもなかったとする ( 145)。
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(6) 現在 「竹簡壹」 「竹簡貳」 「竹簡参」 「竹簡肆」 「竹簡 」 まで出版さ れている。 本論では, 「竹簡 」 以外の四部を資料とした (「竹簡参」 ま での簡牘の総数は3万3663点)。 「竹簡 」 は本論では用いていない。
(7) 「竹簡 」 釈文では 陽里であったが, 「竹簡壹」 にみえる同一戸の 同年と考えられる記述 (壹10263) と写真によって, 東陽里に改める。
(8) 既往の研究ではおもに算賦と考えられているが, 徭役の可能性もあ り, 検討が必要である。 張栄強2004, 于振波2004 , 凌文超2011, 楊振紅 2011参照。
(9) 汪小 亘2004参照。
(10) 既発表吏民簿の戸人簡・表題・集計に記載されている年号は, すべ て嘉禾である。【吏民簿1】〜【吏民簿6】の例以外に, 壹8482・貳7957 参照。
(11) 孫聞伝2010もこれに類似する意見である。
(12) 他の成果では, 小林洋介2005が, 各戸簡の末尾に置かれる戸単位に 口数を集計する簡の中でも, 資産状況を付記している簡を用いて, 資産 額と戸の規模は対応するか否かを検討している。
(13) 黎石生2006, 彭衛・楊振紅2010は, 夫婦の年齢差について述べる。
(14) 黎石生2006も, 早婚傾向を指摘する。
(15) 妻を大妻・中妻・小妻と区別して記載することがあり, 大は嫡妻で あり, 中小は庶妻にあたる。 小妻については, 王子今2004, 高凱2008参 照。 なお, 小妻・中妻の割合は,【吏民簿1】〜【吏民簿6】全簿平均で 6 2%である。
(16) 婢は, この簿においては年齢が記載されない。 また, どの吏民簿に おいても奴婢については配偶者の有無が把握できないため, 婢は考察の 対象外とする。
(17) 吏民簿2】貳2439,【吏民簿3】壹9052,【吏民簿5】肆104,【吏民 簿5】肆492,【吏民簿6】肆2661。
(18) 「竹簡貳」 釈文には, 小妻十歳 (貳2117) が見えるが, 2014年8月の 調査によって, 十歳を二十歳に修正する。
(19) 「嫡妻年五十以上無子, 得立嫡以長」。 内藤乾吉1958 「敦煌発見唐職 制戸婚廐庫律断簡」 ( 213 214) によって, 通行テキスト 「立庶」 を
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「立嫡」 に改めた。
(20) 周禮 地官司徒媒氏賈公彦疏。 「魯哀公問於孔子, 男子十六 , 女子十四而化, 是則可以生民矣。 聞禮男三十而有室, 女二十而有夫, 豈 不晩哉。 孔子曰, 夫禮言其極, 亦不是 。 男子二十而冠, 有爲人父之端, 女子十五許嫁, 有 人之 , 於此以往, 則自昏矣。」
(21) 同様の記述は, 韓詩外傳 巻一, 大戴禮 本命篇にも見える。
(22) 孔子曰, 男三十而娶, 女二十而嫁, 於織 任紡績之事黼黻文章之美。
不若是則上無以孝於舅姑, 而下無以事夫養子。
(23) 秦〜漢代の例が中心だが, 劉備の母など三国時代に近接する時代の 事例も挙げる。
(24) 風俗通義 の佚文に 「儉府吏となり, 躬ら家事に親しみ, 行きて老 蒼頭の屬任に謹信なる を求む, 年六十餘, 直二萬錢, 牛馬・ 種を主 らしむ。」 と見える (王利器1982参照)。
(25) 魏書 五十七・崔挺傳 「始め挺の兄弟同居し, 孝芬の叔振 に亡 ぬるの後, 孝芬ら叔母の李氏を奉承し, 生に事うるが若くし, 旦夕
, 出入 覲し, 家事の巨細, 一に以て諮決す。」
(26) 三國志 呉書十陳武傳によれば, 兄の死後, 弟の陳表が家事を統括 している。 禮記 内則鄭玄注は, 「家事は尊に統べらるるなり」 とする。
註25の例では叔母が家長として家事を決しているが, これは死去した叔 父に代位する存在ゆえにである。
(27) 江左不諱庶 , 喪室之後, 多以妾 終家事。
(28) 薨後, 客 早死, 太夫人悲傷發疾, 恍惚昏亂。 后時年十 , 幹治 家事, 敕制僮僕, 昆弟親屬, 各得其宜。
(29) 夫 人之禮, 五 , 羃酒漿, 養舅姑, 縫衣裳而已矣。
(30) 暉年五十, 失妻, 昆弟欲爲繼室。
(31) 「爰及矜人, 哀此鰥寡」 (爰に矜人と, 此の鰥寡を哀れむ・ 詩經 小 雅・鴻鴈)
(32) 孟子 梁惠王下に 「老いて妻無きを鰥と曰う。 老いて夫無きを寡と 曰う。 老いて子無きを獨と曰う。 幼にして父無きを孤と曰う。 此の四 は, 天下の窮民にして告ぐるなき なり。」 と見える。
(33) 白虎通義 爵篇 「庶人匹夫と稱するは, 匹, 偶なり, 其の妻と偶を 第
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爲す, 陰陽相い成るの義なり。」
参考文献
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「壹」 長沙文物考古研究所・中國文物研究所・北京大學 史學系2003 長 沙走馬楼三國呉簡 竹簡壹 (上中下) 文物出版社
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「参」 長沙簡牘博物館・中國文物研究所・北京大學 史學系2008 長沙走 馬楼三國呉簡 竹簡参 (上中下) 文物出版社
「肆」 長沙簡牘博物館・中國文化遺産研究院・北京大学 史學系走馬樓呉 簡整理組2011 長沙走馬楼呉簡 竹簡肆 (上中下) 文物出版社
「 」 長沙文物考古研究所・中國文化遺産研究院・北京大學 史學系・故 宮研究院古文獻研究所走馬楼簡牘整理組2013 長沙走馬楼三國呉簡 竹 簡 (上中下) 文物出版社
日本語論文
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小林洋介2005 「正倉院籍帳と長沙走馬楼三国呉簡」 史観 第153冊 内藤乾吉1958 「敦煌発見唐職制戸婚廐庫律斷簡」 石濱先生古稀記念會編
石濱先生古稀記念東洋學論叢 → 中国法制史考證 所収 有斐閣 1963年
原宗子1994 古代中国の開発と環境― 管子 地員篇研究 第五章 「麻を めぐって」 研文出版
保科季子2004 「漢代の女性秩序―命婦制度淵源考」 東方学 108
牧野巽1944 「漢代の婚姻年齢」 支那家族研究 生活社 (本論では1979年牧 野巽著作集第一巻 中国家族研究 上を参照した。 御茶の水書房) 町田隆吉2007 「長沙呉簡よりみた 「戸」 について―三国呉の家族構成に関
する初歩的考察―」 長沙呉簡研究報告 第3集
諸橋轍次1940 支那の家族制 大修館書店 (本論では 諸橋轍次著作集 4 大修館1975年を参照した)
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