特集夏の日の親子対話のために一一
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いつの頃からか私たちは、実体の伴わないものについて
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考えたり語ることをやめてしまった。
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たとえば、誇り、蓑術、死、家族、夢など。
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その結果、出現した効率的で合理的な祉会は、
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何故か、利己的で冷酷な人聞を生み出している……。
世界遺産に認定された
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酬にみる自然
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標友クラブ主催の
イベント案内・
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めのランチをとって、読書をし | ていたら、いつの聞にか眠って | しまいました。火照った体を冷 | やすために、ブールに飛び込み | 上がってみると、脱ぎ鎗ててお | いたはすのピーチウ工アtiテi'YI キチェアにさり気なく掛けてあ| りました。タイのサムイ島。パ|色
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すがわ5・れいこ/1966年 東京生まれ。力ラアナリ スト、イメ ジコンサルタ ント。米国にて同資格取得。 現在、(株)インフレッショ ンにて色を通して衣食住の菅原令子
トタルコンサルティング (平1英) を行う。同社取締役。置三三三三三
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カラーコンサルティングでお客さまに似合う色を診断する 時、私はよく「好きな色」を向う。好きな色と似合う色は 必ずしも一致しないが、似合う色は周囲からの評判がよい ので好きな色であることも多い。またそれ以上に、「好き な色」はその人自身の性格や、心の状態をある程度、物語 る。短時間で、相手の方の人柄やニーズを把握するには 貴重な情報である。日本人は育好きな民族といわれる。企 業のコーポレートカラーにも、政治家のイメージカラーと してもたくさん存在するし、私のお客さまにも青系統の色 1Obl.
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を好む方は多い。水や空を連想、させる澄んだ印象の青。色 の中で最も人を緊張させるのは赤だが、青は一番リラック スさせる色。内臓の働きを司る自律神経の働きを抑え、血 圧、呼吸、筋肉緊張が減少するためだ。 青を見たり、身に 着けた人聞は、平和で穏やかな気持ちになる。現実を醒め た目で見つめ、自制を促す青はダイエットに最適の色とい われるが、青い食器は、食物に多くみられるオレンジ色や 茶色とはお互いを引き立てあう補色関係にあり、実は食事 をおいしそうに見せる効果があるので、油断静吻である。 Photographer/Jun Abe1998.7 .25 COVER 巨石に刻まれた、キリン、サイ.シマウマ これはアフリカ大陸南丙部の国ナミピアの ナミプ砂漠で発見されたもの。当時、 大自然に生きる動物は神だったのでしょうか.
Composition of Photographs/Takeshi Higo
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CAMERA )UN・ABE MASAYUKl・EGAWA KAZUHIKO・MATSUSHIM A TAKEO・HAYASHI HIROAKl・TSUKAMOTO ILLUST YU)I・H旧AYAMA FUMIEヘハ;ADA YUKISABUROH・WATANABE LAYOUT artpost (KIMIKO・TAKIGUCHI YUKl・SAEKI) EDITOR YUKO KUDOHKAORU・SUZUKI SPECIAL-THANKS
FU)INGAHO SHA CREATION I SAY
CONTENTS
特集
夏の日の親子対話のために一一
君よ「抽象概念」を語れ
黛
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海外帰国子女は日本を変えられるか?
一一国際文化交流学部を擁し、この春スタートした学習院女子大学にみる 国際化時代の教育の果たす役割 ・楽園の色(3)「青」菅原令子
・地球快適講座/豊かさのできること(9)@
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クリスティーナ・ノーブル財団子供基金
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・オフリージ・エッセンス[演劇]池田有希子
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[医学]中原英臣
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[スポーツ]佐々木明子
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・人物クロースアップ池坊保子
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・OB・O G・エアメール(3)フィンランド・ヘノレシンキ
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・雪三郎イズム(3)流行の方法論渡辺雪三郎
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・食卓の四季(3)マッ、ンュノレーム江上種英
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誌上夏期講座/経済より人を豊かにするもの世界遺産に認定された
白神山地にみる自然と人間の共生江川正幸
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クロアチア探訪記ここは、かつて戦場だった−
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座談会編集ボランティア奮闘談
OBLIGE CLUB楼友クラブからのお知らせ
TOPICS楼友クラブ運営委員会音江隆信
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本誌拘載の写真イラスト記事の無断転載および被写を禁じます三 縁
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はたして﹁誇り﹂が、今回の特 集 企 画 で あ る と こ ろ の ﹁ 抽 象 概 念 ﹂ の 範 時 に 入 る か ど う か 、 い さ さ か 疑問視される危倶がないとはいえ な し し か し 今 日 、 た と え ば z 援 助 交 際 u をする女子高生たちに、﹁誇 灯 台 向 い 人 生 に つ い て ﹂ 問 い た だ し た時、質問の意味を正確に把握す る 割 合 は 、 き わ め て 低 い の で は な か ろ う か 、 と い う 仮 説 の も と に 、 こ の 諾 に 抽 象 概 念 の 仲 間 入 り を さ せ て み る こ と に す る 。 ﹁ 誇 り ﹂ に つ い て 思 い を め ぐ ら す 時、まず立ち現れてくる光景があ る 。 場 所 は 学 留 院 初 等 科 の 聾 豆 、 時は昭和三十年代中頃の、天皇誕 生日の日の午前中である。整然と 起立した我々生徒たちの正面の演 壇に、司会役から紹介された、当 時 の 学 習 院 院 長 ・ 安 倍 能 成 氏 が 、 ス テ ッ キ を 手 に ゆ っ く り と 進 ん で く る 。 せ き 向 髪 向 哲 の 氏 の 全 身 か ら 、 広 い 講堂をしんとさせる厳かなものが 放射されている。それまで騒いで い た 生 徒 も 、 も は や 二 一 面 も 発 さ ず 白 い 歯 す ら 見 せ る 者 は い な い 。~~
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い こ ら は し と し た 、 可 す せ は の も も た 栄 倍 は 、 直 私 き せ っ 的 と わ と れ 、 て 。 な 。 演 物 衰 ら 当 以 す 、 二 を 雪 、 と で は ろ た と な と ね が た そ 、 そ い ョ 壇 か 轡 れ 時 外 れ 大 東 夢 計 池 。 あ 了 、J
深 戒 い ば で の の 閉 し 、 岐 fを こ は ば き 京 み 画 田 る 解 と ず い め う な き で 後 会 て 正 を 繰 、 は は す 意 、 な オ て の 勇 こ し い ち 何 を 言 る た 、 し と 天 直 つ り そ る ず で 味 経 弾 リ 遁 た 人 と て う 云 か 施 策 ま の 氏 ば な 皇 」 か 返 こ か だ に を 済 み ン 進 だ 内 を い こ ぞ を し は い は の ら る 誕 こ な し に に が か 失 発 を ピ し 目ー 」一 一 一 一 一 一 一 二;ー ー− = 註茸 草ァ三一 十世寸 い 、は 凌 、な 万 展 与 ツ てぇ ク い ー ・圃圃圃・・圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃園・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 園 田 園 圃値 比田園F臨
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瓦 量 」 こ あ 鷲i--'.a_顧問う っ す 年 旦齢 高 ※3 しがなおや 1883年∼1971年没。 小説家。学習院高等科在学中から劃作を 始める。1910年に有島武郎、里見 、武 者小路実篤らと同人雑箆「白樺Jを発刊。 感情的、感覚的把握に優れ、特に短編の 完成度は高く近代日本文学を代表する。 1949年文化勲章受章。主主E著作は、『織 の崎にてj、I網走までif小僧の神犠i 『暗夜行路j等。 ※2 しまざきとうそん/1872年∼19 43年没。詩人小説家。初期の別号に古 藤庵無声(ことうあんむぜい)、無名氏芯 どがある。1893年創刊の「文学界Jにお いて、初期浪漫主義文学運動に参加し、 その後『若葉集』及び『一葉舟j所収の 詩編を制作、散文作家の道を歩みはじめ、 田山花袋と共に自然主義の代表作家と目 されている。その他主芯著作には『破戒』、 『桜の実の熟する時j等。 ※1 どもん・けん/1909年∼1990年没。 写真家。報道写真の鬼と呼ばれた、リア リズム写真を確立した写真界の巨匠。19 59年に『日本風土記j、『古寺巡幸は、 『民族の美jの一連の写真で芸術選奨を 受賞。出身地山形県酒田市に、日本愚初 の写真専門美術館として土門拳記念館が 訟立された.個人の写真記念館としては 世界でも唯一である。 代 に な り 始 め て い た 。 明 治 生 ま れ の ︷ 車 問 氏 の 、 哲 同 孟 伯 、 教育者としての一徹な思考、生き 方 は 、 当 時 に あ っ て 既 に 、 今 日 の 異様な文化的、教育的行き詰まり を予見されて、我々生徒に警告を さ れ て い た の で は な い だ ろ う か 。 繁栄のもたらした幸福を実感した の も 束 の 間 、 い ま や 日 本 人 は 、 引 き 換 え に 手 放 し て し ま っ た も の の うろた 大 き さ に 狼 翠 え て い る 。 失われたものーーその最たるも の は 、 ﹁ 誇 り ﹂ な の か も し れ な い 。 冒 頭 、 現 代 の 女 子 高 生 に 批 判 的 な 餌 説 を 立 て た け れ ど も 、 被 女 た ちは﹁誇り﹂を持って生きる親や 教師や大人たちを日頃見る機会が な い か ら 、 抽 象 概 念 と し て し か 、 こ の 語 は 存 在 し な い だ ろ う 。 彼 女 たちにとっては、白分の身体を売 っ て で も ブ ラ ン ド 商 品 を 手 に す る こ と が ﹁ 誇 り ﹂ な の だ ろ う か 。 ひ とたび手放したものは、そう簡単 に は 取 り 返 す こ と が で き な い 。 かつてこの同に﹁誇り﹂が存在 し た こ と す ら 、 忘 れ 去 ら れ よ う と していると断ずるのは悲観的にす ぎ る か ? ※ 1 私 の 手 元 に 、 写 真 家 ・ 上 門 拳 の ﹃ 風 貌 ﹂ と い う 写 真 集 が あ る 。 v h 2 ※ 3 島崎藤村、志賀直哉らの写真に 続 い て 、 裁 ら が ︷ 査 問 能 成 氏 の 姿 を 見 る こ と が で き る 。 モ ノ ク ロ ー ム の フ ィ ル ム に 写 し 撮られた、これら明治生まれの作 家、文化人、畳歪台、芸術家たち 院 の 風 貌 は 、 我 々 が 失 っ て し ま っ た 梢 も の に 満 ち て 、 今 な お 、 輝 い て いO
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か れ こ れ 七 、 八 年 前 の こ と に な る が 、 ド イ ツ の 映 画 監 督 ヴ イ ム ・ 31 ヴ エ ン ダ h ス の 映 画 の メ イ キ ン グ ︵ 撮 影 プ ロ セ ス を ド キ ュ メ ン タ リ ー と し て 追 い か け る ︶ を し た こ と が あ る 。 ※ 2 彼 は 小 塗 安 二 郎 監 督 を 神 の ご と く 信 奉 し て お り 、 自 作 の 映 画 ﹁ ベ ル リ ン ・ 天 使 の 置 の 最 後 に 、 ﹁ こ の 映 画 を 小 津 に 捧 げ る ﹂ と い う 献 辞 を し た り 、 小 津 映 画 に 関 す る ド キュメンタリーといえる室尽直 の 中 で は 、 鎌 倉 に あ る 小 津 の 墓 に 詣 で た り 、 小 津 映 画 の キ ャ メ ラ マ ン だ っ た 原 田 雄 春 に イ ン タ ビ ュ ー を し た り し て い る 。 小 津 安 二 郎 は 、 日 本 の 市 井 の 家 族 の 日 常 を 淡 々 と 見 つ め な が ら 、 そ の 家 族 の ゆ る や か な 崩 壊 、 喪 失 を 繰 り 返 し 描 き つ づ け た 映 画 作 家 で あ る 。 ご く あ り ふ れ た 家 族 を 題 材 に と り な が ら 、 し か し 、 小 津 の 映 画 が 日 常 性 を は る か に 超 え て 、 神 話 的 で さ え あ る こ と が 、 ヴ エ ン ダ l ス を は じ め 、 多 く の 小 津 フ ァ ン の 心 を と ら え て 離 さ な い 魅 力 で あ り 、 謎 で あ る 。 小 津 映 画 が 神 話 性 を 持 つ 理 由 を 恐 れ ず い え ば 、 そ こ に は 、 神 話 的 次 元 で の ﹁ 家 族 ﹂ が 存 在 す る か ら だ 、 と 私 は 田 ザ っ 。 小 津 映 画 に 描 か れ る ﹁ 家 族 ﹂ で は 、 守 る べ き 一 ら か さ 、 と も い う べ き ﹁ 心 ば え ﹂ が 首 尾 一 貫 し て 持 続 す る 。 た と え ば 、 嫁 ぐ こ と が 決 ま っ た 娘 の 、 孤 独 な 老 父 に 対 す る い た わ り と 感 得 、 娘 を 嫁 が せ る 父 親 の 複 雑 な 思 い な ど が 、 ほ と ん ど 近 親 相 姦 ぎ り ぎ り の 線 ま で 高 ま っ て ゆ き 、 の ち 、 い い よ う の な い 無 常 が 観 る 者 の 胸 に 迫 っ て く る 。 家 族 が 家 族 で あ る た め の 、 さ ま ざ ま な ﹁ 心 ば え ﹂ 、 ﹁ 心 掛 せ ﹂ は 、 日 本 の 家 庭 か ら 急 速 に e ※1 ドイツの映画!!ii督。19 45年∼。ロードムービー3部 作と呼ばれる、 『都会のアリ ス』、『まわり道j、『さすらいj で若手映画監笛として注目を 集める。その後フランシス コッポラに呼ばれて渡米。87 年には、『ベルリン天使の 詩』で2度目のカンヌ映画祭 グランプリを受賞した。91年 東京国際映画祭では f夢の涯 てまでもjを出品、ハイビジ ョン妓術を融合させた函期的 な映画として話題を呼んだ。 ※2 おづやすじろう/19 03年∼ 1963年没。映画監督、 脚本家。松竹キネマ蒲団煩影 所にて撮影助手、助監督を経 て映画監舗となる。63年没す るも、 70年頃より国内のみな らす海外においても再び注目 を集め始めている。主主E作晶 として『東京物語』、『早春j、 『秋日和ι
『秋刀魚の昧』等。 ※3 夫婦とその子供のみで 構成される小家族。意味合い としてあらゆる家族形態の基 本単位という主張を含んでい る。近年日本における家族形 態はほとんどがこの種類。 小 津 映 画 を 観 る こ と は 、 も は や 存 在 し な い 聖 な る も の 、 存 在 し な 戸 い 家 族 と い う 神 話 に 触 れ 、 癒 し を 附 受 け る こ と で あ る 。C
ー上 家 族 と い う 神 話 を 喪 失 し た 我 々 は 、 ど こ へ ゆ く の か ? 前 述 の ヴ エ ン ダ1
ス の ﹁ パ リ 、 テ キ サ ス ﹂ で は 、 家 族 を 捨 て て 旅 立 っ た 妻 が 、 風 営 店 の マ ジ ッ ク ミ ラ i ご し に 亭 王 と 対 面 す る が 、 も は や ふ た り は 家 族 と し て 復 活 す る こ と が で き な い 。 家 族 を 喪 失 し た 者 は 、 個 の レ ベ ル で さ ま よ う し か な い 。 さ ま よ 、 つ こ と を 出 発 点 に す る し カ な し 。 当 時 の ヴ ェ ン ダ l ス は 、 世 界 中 を さ ま よ っ て 究 極 の ロ l ド ム ー ビ ー を 創 る 、 文 字 通 り 旅 人 だ っ た 。 聞 け ば 彼 白 身 、 離 婚 経 験 者 で 、 恋 人 で あ っ た 女 性 と も 、2
ま く い っ て い な い 様 子 だ っ た 。 彼 は 向 作 の 中 で 、 人 の 心 の 内 の 嘆 き を 聞 く こ と が で き る 天 使 を 登 場 さ せ た が 、 家 族 を 失 っ た 者 は 、 ぶ つ ぶ つ と 、 ひ と り 密 か に 見 え な い 天 使 に 向 か つ ぷ っ て 肱 き 続 け る し か な い の で あ る 。 多 か れ 少 な か れ 、 我 々 現 代 人 は 荒 野 を さ ま よ 、 つ 旅 人 で あ る 。 8嫌々妓i去を併用した。l9Eの島jはペック リンの作品の中でも最も人気のあるもの のひとつで、全部で5点 の パ ジ ョ ン が あるが、そのうち1点は所在不明。 ※6 1997年7月に公開された長編アニ メーション映画。監督は宮崎駿。山神を めぐる人間と獣の争いから、獣に育てら れた「もののけ姫」少女サンと少年アシ タ力がそれぞれの信念を見出していくス トーリーは、宮崎監督の集大成。入場人 員1200万人、配給収入約97億円の日本記 録を樹立。 Textby Yoshiko Kaji 的芯作品が多い。『夢魔』はフユースリの 名を高めた代表作。 ※4 1840年∼1916年没。フランスの 箇家・版箇家。もっぱら木炭素描と石版 画という、白と黒のみによる独創的芯表 現で、 『夢の中で』は、巨大な眼球が陪 閣に浮かび出る『幻Iほか13葉のルドン 最初の石版画集である。 ※5 1827年∼1901年没。スイスの画 家。技巧に優れ、色彩感覚にも恵まれて いたため、絵画の技法や、構図について 種々の実験を試み、油彩、テンペラなど ※1 源義家の孫義康を祖とする、清和 源氏の流れを汲む。足利尊氏の時、後醍 醐天皇に対抗して光明天皇を擁立し、室 町幕府を開設(南北朝時代)。 3代将軍義 満の代には南北朝の合ーに成功、足利氏 が天下を握るところと怠る。 ※2 紫式部蓄の、平安時代を代表する 物語の主人公・光源氏の本妻。左大臣の 娘で、光源氏が元服後政略結婚した。 ※3 1741年∼1825年没。スイスの画 家。ミケランジェロに多大芯影響を受け、 強迫観念や幻想性を強く表すロマン主義
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出 1 数 年 前 、 室 町 時 代 の 足 利 将 軍 の ド ラ マ を 監 督 し た こ と が あ っ た 。 ま た 最 近 、 必 要 あ っ て ﹃ 源 氏 物 語 ﹄ の 一 部 を 再 読 し た 。 こ れ ら の 時 代 、 ﹁ 夢 ﹂ に は 現 実 に 影 響 を 及 ぼ す 力 が あ る 、 と 考 え ら れ て い た 。 ﹁ 夢 ﹂ の 力 と は 、 ﹁ 目 に 見 え ぬ も の ﹂ を 信 じ 、 恐 れ る こ と で あ る 。 中 世 で は 、 死 霊 の み な ら ず 生 き 霊 も 登 場 し 、 生 き て い る 人 間 に と り 窓 き 、 狂 わ せ 、 暴 れ 回 る 。 有 名 ※ 2 な 源 氏 物 語 の ﹁ 葵 の 上 ﹂ な ど そ の 典 型 で あ る 。 ま た 、 ヨ ー ロ ッ パ 絵 画 の 世 界 に ※ 3 日を転じても、フユスリの婁塵 ※ 4 ゃ 、 ル ド ン の ﹃ 夢 の 中 で ﹂ 、 ベ ツ 出 5 クリンの﹃死の阜など有名な作 品 が す ぐ 思 い 浮 か ぶ 。 ﹁ 夢 ﹂ の 力 と は 、 意 識 の 閣 に 意 味 を 与 え る こ と で あ る 。 意 識 の 閣 を 駆 逐 す る こ と が 、 近 代 と い う 時 代 だ っ た 、 と 独 断 す れ ば 、 現 代 は 、 ふ た た び 意 識 の 聞 に 人 々 の 関 心 が 向 い て い る 、 と い え る の で あ ろ う 。 オ ウ ム の 問 題 に し て も 、 ア ニ メ 出 水 日 ﹃もののけ症の大ヒットにして も 、 近 頃 は 、 可 視 的 な も の よ り 不 可 視 的 な も の の ほ う が 、 人 々 の 心 を 吸 い 寄 せ る 呪 力 が あ る 。 そ れ は 、 現 実 の 生 活 に 夢 が な い 予 ﹂ と の 裏 返 し で あ る 。 や は り 人 は 、 現 実 原 則 だ け で は 生 き ら れ な い の だ ろ う 。 い じ め も 、 家 庭 内 暴 力 も 、 夢 を 持 つ こ と を 禁 じ ら れ た こ と に 対 す る 暴 発 の よ う に 思 え て な ら な い 。 こ と に 子 供 に と っ て 、E
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は と て も 重 要 で あ る 。 か つ て 初 等 科 時 代 、 私 は 決 し て で き の い い 生 徒 で は な か っ た が 、 あ る 理 科 の 先 生 の 霊 来 だ け は 面 白 く 、 一 時 的 だ が 成 績 が グ ン と 上 が っ た こ と が あ っ た 。 そ の 授 業 は 、 予 想 実 験 学 習 と い っ て 、 ま ず 生 徒 に 予 想 を 立 て さ せ 、 し か る の ち に 実 験 を し て 、 予 想 が 的 中 し た か ど う か 、 な ぜ 的 中 し た か 、 は た ま た な ぜ 的 中 し な か っ た か 、 を 論 議 す る 方 式 だ っ た 。 な ぜ こ の 授 業 が 面 白 か っ た か 、 今 に な っ て わ か っ た 。 そ の 授 業 に は 、 ﹁ 夢 ﹂ が あ っ た の で あ る 。 そ の 先 生 は 、 我 々 生 徒 た ち の 想 像 力 を 喚 起 し 、 期 待 を 膨 ら ま せ た の で あ る 。 教 科 書 を な ぞ る 学 習 に う ん ざ り し て い た 生 徒 た ち は 、 一 気 に 魅 了 さ れ た 。 同 時 に 、 そ の 先 生 自 身 の 魅 力 も 忘 れ て は な ら な い 。 そ の 先 生 は 、 い か に 生 徒 の 心 を 掴 む か 、 い か に 夢 の あ る 授 業 を 実 現 す る か 、 情 熱 を 傾 注 し て お ら れ た に 違 い な い 。 我 々 生 徒 は 、 そ の 先 生 の 夢 の 力 に 動 か さ れ た の で あ る 。 つ い 二 年 前 、 な ん と そ の 先 生 か ら 私 の 仕 事 場 に 電 話 が 入 っ た 。 た ま た ま 私 の 名 前 を テ レ ビ の 画 面 に 発 見 し 、 連 絡 を く だ さ っ た の で あ る 。 数 日 後 、 お 目 に か か る こ と が で き 、 私 は 初 等 科 時 代 の 授 業 の 話 を 申 し 上 げ た 。 氏 は 、 何 と 現 在 も 、 別 の 学 校 で そ の 方 式 を 実 行 さ れ て お り 、 高 い 評 価 を 得 て い る こ と 、 さ ら に 全 国 の 学 校 や 教 育 機 関 に 、 請 わ れ て 講 演 を 続 け て お ら れ る こ と な ど を 話 し て く だ さ っ た 。 三 十 年 経 っ た 今 も 、 氏 が 教 育 者 と し て 夢 を 燃 や し 続 け て お ら れ る こ と に 、 私 は 感 動 し た 。 同 時 に 氏 の 若 々 し さ に も 驚 か さ れ た 。 と う に 六 十 歳 を 過 ぎ て お ら れ る は ず で あ る に も か か わ ら ず 、 氏 の 瞳 は 輝 い て お り 、 全 身 か ら は 青 年 の 持 つ エ ネ ル ギ ー が 発 散 さ れ て い た の で あ るo
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中 世 の 閣 を 支 配 し た ﹁ 夢 ﹂ も 魅 瑚 力的だが、人に希望を与える﹁O
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~)初夏の白神山地最高峰、向白神岳(l.243 m)を付近の吉ヶ峰から望む。左手|こは 青森県側のブナ原生林樹海が広がり、奥 に秋田県側の山が見える。(97年7月6目 録影) 白神山地でのヲマゲラの繁殖は長い問、幻と怠っていたが、この10年問、少数芯がう観察してきた。(日日年5月29日撮影)
左/白神山地は岩木川など大き芯 川の源流域となり、流れる水は清 測を極める。(93年7月8日撮影) 下/渓谷深く生息するシジミチョ ウ科のオオゴマシジミ。稀少種。
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在は世界自然遺産となってい 官事忌, る著名な白神山地も、かつて1
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ぱ青森県と秋田県の県境に広 が る だ け の 細 川 名 な 秘 境 の 山 地 だ っ た 。 今からお年前、私は動物写真家にな る こ と を 目 指 し 、 日 目 歳 で 北 海 道 小 樽 市 から青森県弘前市に大学進学をきっか けに移住した。弘前市は集同地にリン ゴ園が広がり、奥地に白神山地があっ たので、私はよく、カエルやサンショ ウウオなどの撮影に自転卓で出かけた も の だ 。 その当時からクマタカが飛ん でいたり、トウホクノウサギの子供に も出会ったし、初夏になるとタニウツ ギ の ピ ン ク 色 の 花 が に ぎ や か に 咲 き 、 川 の中ではカジカガエルの美しい声を 聞 い た 。 生 ま れ 育 っ た 北 海 道 と は 、 一 味違う 本州特有の自然のにぎわいと、安らぎ がその山ふところにあり、いろいろな 花や、生き物たちとの対話を求めて山 地 の 一 角に分け入り、自然観察をする ことが多くなり、下宿もより山に近い ところに引越した 。 ヤマセミのような 美しい鳥の巣を初めて見て感激したの も、乙の山中だ っ た 。 しかし、白神山地の広さは、弘前市 南部から、日本海側の西海岸線に至る 一 帯の約日万ヘクタールであり、当時 の私にとってはそのほとんどが、入り うっそう 込むことのできない欝蒼とした森の H 暗黒山地\だった 。 山間部は弘前市の 約 2 倍の豪雪地であり、そこに住む人 た ち は リ ン ゴ 園 や 水 田 を 営 む 傍 ら 、 熊 ︵ ツ キ ノ ワ グ マ ︶ を 狩 り 、 山 菜 を 採 っ て生活を支えている 。 その姿は今日も変わらないが、私が 青森県に移住した当時、マタギが熊の 刺し身を食べてかかる奇妙な寄生虫病 左/源流域の花トガクシショウマ。 中/初夏に源流域の岩場に咲く、“白神”の 名がつけられたシラカミクワガタ。右/岩 場に咲く珍種、アオモリマンテマ。(92年 2月2日撮影) Ohl主~e 12が発見され、白神山地に暮らすマタギ の 野 人 ぶ り に 驚 か さ れ た ・ も の だ っ た 。 マタギの存在は白神山地特有のもの ではないにしろ、その存在感は大きい と 感 じ た 。 白神山地でその本質を撮影 するには、自分向身もマタギにならな ければならないと私は考え続けていた 。
山に入って知る本質
しかし、与え続ける 、 だ け で はh
神山 地の本質をとらえることはできない 。 かといって、すぐにマタギに会おうと しても他の若者を受け入れるほどマタ ギの世界は甘くないことは私にもわか っ て い た 。 当時は白神山地は ﹁近 く の 奥深い山﹂くらいの感銘で、私の本絡 右上入山は核心部で規制があるが周辺部の登山道は自 由に利用できる。これは県境の山頂。二ツ森へ行く登山 道。登山道以外へはガイドがつく工コ ツアーが必要だ が、白神山地でそのシステムは来整備。上/山菜を採る 人々。左はゼンマイで右はタケノコ。5月中旬∼6月中旬 がピークだが早春から盛夏までさまざまなものがある。 的 な 山 歩 き と 原 生 林 と の 付 き 合 い は 、 下北半島の最北の山地からスタートし た 。 サルやカモシカの暮す地でそれ以 後 、 ほ ぽ 叩 年 間 は 下 北 の 山 巾 で 過 ご し 、 私もいつしか道なき原生林歩きのスペ シャリストにな っ て い た 。 私が弘前大学探検部 O B 会 と 共 に 、 初めて本格的に白神の山中で源流探査 をしたのは乃年のこと 。 杢 雪 による川 の水の豊かさは、単独行では危険極ま りない、入山困難な山地であることを 改めて痛感させられた 。 し か し 一 方で、中に入って得られた 感動の質の高さには格別なものがあっ た 。 それはひと口には説明できないも の で あ る 。 写真はそのことを言葉ではなく、映 像で表現できることが利点だ 。 樹 々 の 原生的な生命感は 言 うに及ばず、生命 のないはずの水、そして石さえも、そ の巾では原生自然の力によって命ある ものに見えてくるのだ っ た 。 私門身も 1 匹のサル、−頭のカモシカにな っ て 周囲の風京を眺める || そんな野生の 感 覚 を 呼 び 起 ? ﹂ してくれる日本 で 数 少 な い と こ ろが向神山地た 。 い ま だ 知 ら れ ることのないそ の 内 部 の 価 値 は 、 回年ロ丹、ユネ スコの世界自然 遺 産 に 登 録され たことによ っ て 世界的なものと なり、白神山地 全 体 の 8 分 の l に当たる核心部 約 1万
7000 ヘクタールが、遺産登 録地としてそのまま永久に保存される と と に な っ た 。 これからもまだ成果の 不完全な自然調査や取M
存進めること を可能とすると同時に、周辺部の自然 を良好に保つことが国の責任となる 。マ
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回年秋、私は初めて青森県側西目屋 村のマタギと山中へ同行する夢がかな え ら れ た 。 マタギの名は工藤成元翁 。 当時ω
歳 近いお年だ っ たが、向神山地の −n
然保 護のために結成された、日本白然保護 協 会 の 調 査 行 の 案 内 役 を か つ て 山 山 て く れ た 。 白 神 山 地 保 存 の 功 労 有 で あ り 、 最後の本物のマタギだ っ た 。 前年に発表された、白神山地の青秋 林道計画による伐採から、この類い稀 なブナの原生林を守ろうと、まず地元 から調査し、その自然の質重さをアピ ールすることから、保護運動は開始さ れ、私も笠桑家の立場からその運動を サポートした 。 その時にいち早くクマゲラの巣が発 見され、その後の観察によ っ て 生 態 も 知られるようにな っ て保護運動に大き なはずみとなり、数年後には林道計画 が中止されることにな っ た 。 その問、いろいろないきさつはあ っ たが、私はこうして四半世紀の問、白 神山地の隣に住み、山中奥深くに入っ ていくなかで、山で生活するさまざま な 人 々 に も 出 会 い 、 学 び、保識を訴え て き た 。 その結果、世界自然遺産登録 という大きな成果を、同じ運動をして きた多くの人たちと心から楽しむこと ができた幸せを感じている 。 これからも私はこの大自然を専門に する多くの人々に出会い、時には 一 緒 に山に入り、困難をものともしない楽 しさやロマンを持ち統けることによっ て 、 こ の 壮 大 な 山 地 の 森 の 本 質 に 、 一 歩でも 二 歩でも近づくような仕事を発 表し続けていきたい 。 この生命力の盟かな白神山地は、幻 世紀の人々に渡すべき、未知の贈り物 なのである 。 世 界i
量 産 は 保 存 似 と も そ の 技 術 が な か っ たり、財政的に困難であったりします。その ため1970年の第16回ユネスコ総会後、「普遍的価値 を有する記念工作物、建造物および遺跡の国際的保 護に関する条約案jが準備されました。世界遺産は 文化遺産と自然遺産の2つに大別されます。文化遺 産は、 (1)独自の芸術的業績と天才的な創造の傑作、 (2)時間を越え、世界の文化の中で建築物、記念物、 都市計画、造園技術などの発展に大きな影響を友ぽ し、(3)失われた文明に無類の、あるいは特別な影響 を友ぼしたもの(。4)歴史のある重要な段階を示す構 造形式であり、(5)ある文化を代表する伝統的な住居 地の顕著な例で、(6)普遍的重要性を持っている概念 や信念あるいは出来事に関連し、デザイン、材質、 技量、配置の真正さのテストに合格したもの。 また自然遺産は、(1)地球の進化の歴史のある段階 を顕著に例示しており、(2)現在進行中の重要な地質 学的過程、生物学的進化、自然環境と人との相互関 係を顕著に例示していること。(3)すばらしい自然現 象や地形、稀にみる自然美の地I或を含んでおり、(4) 車E
減の恐れのある動植物であって、科学上、保全上 の観点から、普遍的な価値のあるものがそこで今も 生き延びている、意義深い自然生息地を含むもの。世 界 遺 産 と は
主な世界遺産 自然遺産としてクランドキャニオン国立公園(米)、 グレートバリアリーフ(豪)。文化遺産としては、エ ジプ卜のピラミッド、中国の万里の長域。複合遺産 としてはベルーのマチュピチュ遺跡などがあります。 13O b
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.,~__.重量唾官覇軍司 石井信平の トゥーラン村の、砲弾で破壊されたアパート。
日本が初出場を果たした
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余名の − 人として、百都の ザ グ レ ブ に 向 か っ た の は 、 5 月末だった 。 成 田空港出発ロビーには、大きな横断幕がかか っ て い た 。 ﹁ ワ ー ル ド カ ッ プ 錦 フ ラ ン ス 大 会 、 がんばれ、日本代表チ l ム ! ﹂ 。 偏狭なナショナリズムと笑うこともできよ う 。 国際空港の玄関先に、身内だけへの応援 はみっともない、とも言える 。 しかし、かつ て カ l キ色の軍服で続々と外地の戦場に出掛 けたことを思えば、今は、いい時代になった のだ、と思いたい 。 飛行機をフランクフル卜で乗り換え、首都 ザグレブ空港に u 省 い た 。 ﹁ ク ロ ア チ ア が ん ば れ!﹂の横断幕はなかった。着いた翌日、ま ず案内されたのが郊外のミロゴイという墓地 だった 。 ちょうど 5 月初 日 、この国の独立記 念 日 に当たる 。 広大な墓地の 一 角に、人が多く集まってい た 。 先の戦争で死んだ若い兵士たちの墓だ 。 新鮮な花が飾られ、ロ l ソクが立てられ、初 老の夫婦や兄弟が相寄って、石や卜字架を布 で洗い消めていた 。 こちらの墓にはどれも写 真がはめこまれ、生年と没年が彫られている 。 イ ワ ン ・ ブ ラ ン コ ピ ッ チ 、 四 歳 。 軍帽をかぶ った少年の顔写真が笑っている 。 ここの墓地で印象的だったのは、墓石の足 元に、木のベンチが置かれているのを絞っか 見たことだ 。 遺族が、友が、恋人が、死者を 忘 れ ら れ ず に 訪 ね て 座 る ペ ン チ : : : 。 そ こ で 石に触れ、石に諮り、空を見上げ、木々の風 に吹かれながら、しばし死者に語りかける場 所である 。 墓地は、死者のためではなく、生 き残った者に残された安らぎの場所なのだ 。 今やコインロッカーと化した日本の墓は、そ のまま、そこで生きている日本人のありょう を反映している、と 一 百えないか?私たちは 木々の風よりも、すべてを効率第 一 で詰め合 わせた暮らし存選択してしまったのだ 。 ザグレブは活気ある首都で、街を歩く限り、 社会や商業の活動も同復したと見受けた 。 い や、旧ユーゴスラビアから独立し、徹底的な 西欧型 ・ 向由化路線を歩む今は、修正社会主 義のかつてとは比べようのない明るさと活気 を呈している、と言うべきだろう 。 街の至る ところに化粧品やコンピューターなどの﹁丙 側 ﹂広告があふれでいた 。 クロアチア版 ﹁ フ レイボーイ ﹄ 誌は、どこの新聞スタンドでも 売っている 。 ぷ紙には、サッカーw
杯のクロ ア チ ア チ l ムのシャツを着た、セミヌ l ド の グラマーな女が笑っている 。 私 が 見 た 、 唯 一 の﹁サッカー熱﹂だった 。 ここに戦争の跡を探すのは困難だ 。 雑踏の なかで、建物の角にうずくまっている少女が い る 。 片足を折り、伸ばしているはずのもう 一 方の足は、膝から下がない 。 切断された面 の白さだけがH
に焼き付く 。 布 で 隠 さ な い で 、 そこをあえて見せて投げ銭を待つ恥ずかしさ を選んだ 、 少女の選択O
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− − 首 都 で 見 た 戦 争 の傷跡はそれだけだった 。 サグレブの郊外、国道沿いにトゥ l ラ ン と いう小さな村がある 。 ﹁ ク ロ ア チ ア の ヒ ロ シ マ で す ﹂ 。 案内のブランコが言う 。 砲 撃 で 、 家々の屋根が大きく磁波され、治ちた砲弾で 4 階建てのアパートの床が、次々に抜けてい る綴子が今もそのままだ 。 墜に、無数の弾痕 い し い ・ し ん ぺ い / 出 版 & 映 像 プ ロ デ ュ ー サ ー − 1942 年大述生まれ川ぷ社大学卒業 後、筑摩 R U 川 師 、 テ レ ビ 7 ンユニオンを経て独 立 一 NTV ﹃ 歌 は 川 崎 川 を 越 え て ﹄ で ギ ャ ラ タ シ ! 賞 受 賞 イ ア ン プ ル 7 筈﹃戦争の記憶日 本 人 と ド イ ツ 人 ﹂ ︵ TBS ブリタニカ︶を鰍沢 Obli接
14 がある 。 ここで人が死に、傷つき、人の住め ない村になったまま放置されている 。 それでも、廃尾の傍らにパラソルが広げら れ、少女が 一 人、野菜と果物を売っていた 。 道沿いの露店売りは、大抵 ’ 反 性 だ 。 野 の 花 、 自家製のチ l ズやジャム、蜂蜜などを売って い た 。 この女性たちと大地は、生き生きと生 きること、生産することをやめない 。 そ れ が この国の希望だ 。 首都を述く離れ、ァドリア海の沿岸の街に 立って、戦争を怨起するのはむずかしい 。 ザ ダ l ル 、 ス プ リ ッ ト 、 ド ゥ ブ ロ ヴ ニ ク : : : こ れほど美しい街があったのか、というのが実 感 だ 。 街と海の調和、人々の明るさがいい 。 歴史ある石畳とエビ茶色の鐙物がいい 。 大 き な木陰でくつろげる、オープン ・ カフェがい い 。 海からの乾いたそよ風をうけながら 、 カ プ チ l ノをすすった 。 m m 年、セルビアの軍隊 が、世界遺産にも認定された、歴史ある街を 砲撃して、クロアチア国民の士気をそごうと した、それほど突出した美しさが、ここには あ る 。 美しさの中に傷は隠される 。 ナショナリズ ムの高揚の果てに、人は 他 国の人聞を殺すの だ 。 四 歳のイワンの命も少女の片足も、そう して奪われた 。 クロアチア国歌の冒頭は﹁美 しいわが祖国、英雄が生まれる国 : : : ﹂であ る 。 成田空港の﹁がんばれ日本﹂の的念が、 やがて武器を取らない保証はあるだろうか? 唐突だが、国のためではなく、ノ 1 プレス ・ オ ブ リ l ジのためならば、血を流したいと 思った 。 守るに足る美しさが、この世にはあ る、それを教えてくれた旅だった 。豊かさのできること
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キャリア・ウーマンのキャロ
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がクリスティーナ・ノーブル財団子供基金に見つけた喜び
ベトナムやモンゴルのストリート・チルドレンを救済するために子供基金を設立し、
積極的な救済活動を行っているクリスティーナ・ノーブル
。
そして日本でその
支援活動を行っているキャロル・ウォルフソンさんを紹介しよう
。
信念で愛を貫き通す人。
喜んでそれをサポートする人。
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か
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Text by Akemi Imamura Cooperation/Lorrain JoyceReinbold 上/ヲリスティーナ自身が資金 集めに来日した時のスナップ。 東京の清泉イン歩ーナショナル でキャロルたちは、 6ヵ月間で 600万円もの基金を集めた。右/ 『悲しみの向こう岸』(Bridge Across My Sorrows)94年に出 版されたクリスティーナ・ノー ブルの自伝。 − ヨ ハ 比 寿にある瀦酒なマンショ−
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刈 ンに、キャロル ・ ウ ォ ル フ ソンさんを訪ねた 。 お年聞東南ア ジアの各国で過ごす聞に蒐集した 趣味の良い骨董品が飾られたリビ ン グ ル l ムで、キャロルはクリス テ ィ l ナ ・ ノ l ブ ル ︵ 以 下CN
︶ 財 団子供基金と、その創設者クリ ス テ ィ l ナ ・ ノ l ブルについて話 してくれた 。 赤毛に明るい茶色の目をしたキ ヤロルはアメリカ人にしてはやや 小柄で、歯切れの良い少し早口気 味の話し方は、いかにも彼女が有 能なビジネス ・ ウーマンであるこ とを感じさせる 。 ﹁ マ マ ・ チ 1 ナ ﹂ 、 ﹁サイゴンの天使﹂と 呼ばれ慕わ れているクリスティ l ナ ・ ノ l ブ ルの、たっぷりとした体つきや母 牛のような優しい目、そしてのん びりとしたアイルランド詑りとは いかにも対照的である 。 アメリカやアジアのビジネスの 先端で仕事をし、また現在アイル ランド政府産業振興省の日本代表 である優しい夫マイケルにも恵ま れたキャロル 。 そんな彼女が諮っ てくれたクリスティ 1 ナ の 半 生 や 、 ベトナムやモンゴルのストリート ・チルドレンの現実は、あまりに も暗く重い。キャロルの東京での 生活と比べると光と影ほど違う 。称
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1961年、アメリカのシカコ生ま れ。ノース・ウエスタン大学でジ ャーナリズムと経済を専攻。80 年中国に渡り、輸出入のビジネ スを自ら始める。その後修士号 取得。アナリストとしての経験 もある。上海、台湾、香港など で16年間仕事を続け、現在、東 京でコンサルティング会社を経 営している。アイルランド人の 夫マイケルと2人暮らし。C
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ベ ト ナ ム で の ク リ ス テ ィ ー ナ と 子 供 た ち 。 C N財 団 子 供 基 金 は 、 長 期 的 医 療 、 栄 養 改 善 、 教 育 の 機 会 、 職 業 訓 練 、 就 職 斡 旋 、 そ し て 経 済 的 ・ 性 的 搾 取 か ら の 保 護 を 必 要 と し て い る 子 供 を 救 う た め 引 年 に 創 立 さ れ た 国 際 的 な 共 同 基 金 で あ る 。 ク リ ス テ ィ ー ナ は 、 虐 待 に よ っ て 人 間 不 信 に な っ て い る 子 供 た ち に 対 し て は 、 決 し て 無 理 強 い は し な い 。 病院(下)とその内部(左)。医療センヲーがホーチ ミン市に設立されたのが、 90年12月24日。週 3日 無料検診日があり、月600人の子供が診療を受けて いる。クリスティーナに救われて教育を受け、立 派に成長する子供もいるが、死ぬ間際に安らかに 死ねるように運び込まれる子供たちが犬半である。 4.
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財団子供基金の創立者クリ ス テ ィ l ナ ・ ノ l ブルは 1944 年アイルランドの首都ダブリンの スラム街に生まれる 。 父親はアル コール中毒で家庭を顧みず、母親 は病死o
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歳で孤児院に送られ、 弘歳でそこを避け出し、ダプリン す み か の公園に素子で掘った穴を住処と するストリート・チルドレンにな る 。 飢えと虐待の中で生き延びる だけが精 一 杯だ っ たクリスティー ナは、レイプされ妊娠してしまう 。 乙の壮絶な子供時代の体験が彼女 の運動のル l ツとなっている 。助
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四歳で英国へ渡ったクリスティ ーナは、その後結婚して 3 人の子 供をもうけたが、夫の暴力と、そ れが原因の流産に昔しめられ、精 神科で治療を受けるに至った 。 苦しみに哨いでいた、その年の ある晩、クリステ ィ 1 ナは夢を見 た 。 ナ パ l ム弾の鮮裂する中を子 供たちが逃げまどう 。 つ どうか 私を助けて!無事なとごろへ連れ て行って! H と懇願するような 目で少女が私を見つめていたの 。 その時よ、彼女の頭上に真っ白い 光が輝きわたり、ベトナムという 文字がはっきり見えたのは::﹂ 神の啓示ともいえるような夢が クリスティ1
ナにベトナム行きを 決心させた 。 それからm
年近くの 歳月を経て、クリスティ 1 ナは夢 を実現させたのである 。 ベトナムに到着した鈎年、クリ ス テ ィ l ナが持っていたのは、子 供たちを助けたいという溢れるば かりの熱い思いだけだった 。 当初 のクリスティ l ナには文字通り、 資金も人脈も信用も、何もなかっ たのだ 。 しかし、クリスティ 1 ナ が活動を開始するや否や、ある石 油会社が 1 万ドルの寄付金を提供 してくれ、また彼女自身も資金集 めのため、クラブで歌ったり、講 演を精力的に行ったりし始めた 。 現在では多くの寄付金や外国企 業からの支援に恵まれるようにな っ た 。 間 四 年 に は ホ l チミン市︵旧 サイゴン︶に、捨てられて栄養失 調にな っ た子供たちのための医療 センターが、また m m 年にはCN
財 団子供基金が設立され、学校や職 業訓練所の開設に寄与している 。Oblige
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恵まれた生活を送るキャロルた ちが、なぜクリスティ l ナに魅了 され、彼女の活動をこれほど親身 に応援するのだろう 。 キャロルによ
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内 的 可 震 唱F ·~_. .旬’,.,議・. 壬ンコルの下水(左)と、中で暮すストリート・チル ドレン(上)。モンゴルでは寒さをしのぐために 子供たちは下水の中に潜ってし唱。またここはコソ泥 描く子供たちの巣窟ともなっている。1990年以 来モンコルは共産主義から自由主義国に変わり、 この変化に伴い極度の貧困の増加を招いている。 クリスティ ナは、今年からこの子供たちの救 済や、貧困家庭の子供の教育援助に取り組むこ とを決めた。そのためにスポンサーを募っている (このスポンサーシップ・プbグラムについての詳細は DATA1をご覧ください。) 直接この活動に入った動機を聞い て み た 。 ﹁ 子 供の頃からずっとボランティ アをやってきたのよ 。 地球や人間 から与えられた恵みは、貰うばか りではなくて、お返ししなければ いけないのではないかしら﹂と彼 女はいう 。 クリスティ1ナとの出会いは、 m m 年 ベ ト ナ ム に い た 時 、 夫マイケ ルが同国人のクリスティ l ナ の こ とを聞きつけ、夫婦 2 人で会いに 行ったのが始まり 。 その時は寄付 金程度のささやかな援助だった。 その後マイケルの転勤により、東 京で暮らすようになったキャロル は 、 C N 財団子供基金のための寄 付金集めを思いついたのだ 。 F キャロルはクリスティ l ナ と い ふひとりの思いやりのある、独創 的巧信念を持 った女性に出会った こ む だ、自分たちの善行の場を見 つけととができたのである 。づ 古
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b いない、絵に描いたよう な豊通よ DINKS の 暮らしぶり の キ 叫 ロ ル 。 しかしクリスティー ナ に 北 日 、 す る こ と で 、 大 人 に 裏 切 ら れ 、 − 人を信用することができな くな 令ている、ベトナムやモンゴ ル の 吹トリ 1 ト・チルドレンの心 を関 でことができる。そして、彼 ら愈夫顔をひとつでも多く見たい と 、 皆 募金運動を続けているキャロ ル沼行動は 、 ノ l プレス・オブリ 坊 と 呼 ぶ べ きAZ
−
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ちリスティ l ナの子供たちを助 品たいという願いは、キャロルと マf
ケ ル の 現実的な支援によって 官化され、またキャロルの自分L
的受けた恵みを返したいという望 切 みも、クリスティ1
ナの夢に溢れ たアイデアによ っ て崇高なものへ と実現化されているのである 。里代カ
京 会
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CN 財 団 子 供 基 金 で は 、 ス ポ ン サ ー を 募 集 中 。 子 供 た ち 一 人 ひ と り に ス ポ ン サ ー を 見 つ け 、 自 立 で き る ま で 継 続 的 に 支 援 す る も の 。 毎 月 M ド ル ︵ 約 30 0 0 円︶の寄付金をお願いしている 。 有 志 の 方 は 左 記 ま で ご 連 絡 く だ さ い 。 東 京 都 品 川 一 以 上 大 崎 2 ・2 −m
−101 キ ャ ロ ル ・ ウ ォ ル フ ソ ン 803 ︵32 80 ︶ 4284o
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CN 財 団 子 位 進 委 に ご 守 麗 く だ さ る 方 は 左 記 の 口 康 に お 振 り 込 み く だ さ い 。 シ テ ィ パ ン ク 幕 張 支 店 名 義 人 / C A R O L W O L F S O N 普通口座/ 3 8 1 7 3 1 8 銀 行 コ i ド/ 0 4 0 1 0 3 2P
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池田有希子
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いけだゆきこ/!J:慢。1970年6丹東京生まれ。平成5年学 智院大学文学部哲学科卒業。アメリカ留学を終え、平成2 年3FI』l!ボク・ロープ座で初舞台。TVf);家族デカ2J、f緊 急 治 療 室 の1iiiJ,『お娘織は名探偵j、CMは「明治生命」 などに出演舞台では今夏、劇団食新感線公演に存滅。 さまの中には、役者に も 夏 休 み が あ る の や た ろ うか、なんてお思いの 方もいらっしゃることでしょう 。 これがあるといえばある、ないと いえばないといった感じで、私に もどうお答えしたらいいかわから ないのです 。 そごで、昔の日記を ひ っ ぱ 灼 山 出 し て 、 思 い 出 し て み る ことにしてみます 。 1990 年 7 月O
日 晴 れ 今日は私が学習院大学に入って から初めての夏休み 。 高校時代と 比べると休みのありがたさはいさ さか薄らいだ気もするけど、やは り嬉しい︵アメリカの高校では 6 丹からたっぷり 9 月まで夏を満喫 し た 私 で し た ︶ 。 今 日 か ら 、 6 月 中旬から始まった青山劇場 ﹃ぼ く のシンデレラ ﹂ のリハーサルに専 念できる 。 公演は 7 月下旬から 1 ヵ 月 弱 。 夏休み中の子供たちが観 客の中心となるから ﹁ 子 供向け夏 休みミュージカル﹂と呼ぶ人もい る 。 が 、 私 と し て は 、f
供だまし で終わらせたくない 。 めちゃめち ゃ気合も入り、帰国してから初の ミュージカルに臨むつもりだ。あ l どうぞ、風邪などひきませんよ う に 。 喉かれませんように 。 1993 年 7 月 × 日 商 大学生活も 4 年 目 を 迎 え 、 4 回 目の夏休み 。 私が休みに入ったか らといって、そう都合よく仕事が 舞い込むはずもない 。 暇な毎日 。 こんな夏はおとなしく自分を磨く しかないですね 。 大学もそろそろ 終わりなんだから、ちゃんと勉学 で も し て み よ う ︵ ? ︶ 。 1994 年 7 月 ム 目 曇 り 今、私は舞台﹃ステッピング ・ ア ウ ト ﹂ の地方公演で全国各地を 回っている 。 キャストm
名の小人皆
数で 1 ヵ月半の旅公演とくれば、 旅も半ばを過ぎると皆、家族にな る 。 全員で各地のおいしいものを 食べ、たまには明け方まで飲んだ くれたり、と楽しいことばかりだ 。 けれど、今回の旅公演で私たちを 悩ませたものがある 。 それは﹁水 不 足 ﹂ 。 北海道、仙台あたりは問 題なかったが、九州、凶国あたり はかなり厳しい 。 舞台が終わった 後だと、節水時間で水が出なくな るというので、福岡の会館の方々 は、洗顔用の水を汲み世きしてく ださった 。 四国では、地元の讃岐 うどんを食べたいと、ぷ不足で営 業できないうどん屋の連なる通り を歩いていると、﹁東京からわざ わざ芝居をしに来てくださったん だから::﹂と、店を開けてくれ、 とびっきりのうどん移出してくれ た 。 人の温かさが不便を魁える、 いい旅、いい夏だ 0 1997 年 7 月O
日 梅 雨 そういえば、フルタイムの役者 になってからというもの、ロクな 夏休みをとっていない 。 忙しいこ とは嬉しい乙となので、私はまっ たくかまわないのだが 。 私の休み は週末や盆暮れ正月とは関係なく ︵かえってそんなときこそ忙しか ったりする︶、仕事の入らないと き が 休 み な の で 、6
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月なん て中途半端なときに長期の休みが とれたりもする 。 今年は 4 月 、 5 月とテレビドラマの撮影の合間を ぬって休みが多かったので︵多す ぎ た の で ︶ 、 ﹁ こ ん な と き は 旅 行 料 金も安いし、ロンドンかニューヨ ークにでも行ってくるか!﹂など と計画してみたのだが、やめた 。 そんなときに、私のマネージャー さんは仕事やオーディションを見 つけてきてくれるのだ 。 で き る だ け東京にいたいと思う 。 で、ちま ちま東京でレ ッ スンしたり芝居や 映画を観たり、というお決まり パ ターンになってしまうのだ 。 そ れ が嫌いじゃないんだな、ま っ た く 。 1998 年 7 月 ム 日 晴 れ 今年の言休み﹂は、舞台 。 大 用車爪で劇団交新議のロック な芝居に出ます 。 夏 の 3 ヵ 月 間 、 それに専念です 。 暑い夏にぴ っ た りの舞台になるでしょう 。 私の生活は毎日仕事ともいえる し、毎日夏休みともいえるんです ね 。 だからなのかな、マネージャ ーさんと﹁暇は要らない!﹂、な ん て 話 し て ら れ る の は : : : と い い つつも、今年は行きたい 。 雨の烏 でバカンス!*
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町制肥釦量四殴肱』スケジューlレ 98年8月27日∼31日/大阪道頓網中座、 9月12日∼23日/東京サンシャイン劇場に てお|郎、合わせは、ヴイレソヂ!!00(377) 5451まで。 lllustralion/Yuji HirayamaObli
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