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古代文明における経理思想と会計教育

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(1)

古代文明における経理思想と会計教育

その他のタイトル Education in the Early Civilization

著者 冨山 忠三

雑誌名 關西大學商學論集

15

5‑6

ページ 398‑420

発行年 1971‑02‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00021162

(2)

古代文明における

経理思想と会計教育

冨 山 忠

I

序 言

人間の生存的営為において,生存経済への思慮が唯一至上のものたりえな いことは言うまでもない。しかし生活物資が人間の生物学的根本欲求の充足 に不可欠である限り衣食住に対する配慮は,時代や湯所の如何を問わず基本

(1) 

的かつ普遍的思考であったし,またあることも否定できない。

衣食住の欲求に対する充足行動が,自然発生的に,刹那的・衝動的に行なわ れる限り,そのための意識活動は動物のそれと大差がなかっただろう。彼ら の生活ほ,野に狩りし,海辺•河川・湖沼に漁りし,野生の草木・果実を採 取して生計を立てた。いわゆる採取経済の生活に終始したであろう。

しかし,生活環境の変化が生活条件の変化をもたらし,欲求の増大・拡大 が生存経済の多様化・複雑化を促進してくると,生活物資の獲得・調達をよ り能率的に合理的に展開せんとして,その管理方式を高度化せざるをえなく なったであろう。すなわち環境事態(客体)と思淮主体(主体)との交流な いし統一手段として,用具の発明・技術の開発を行ない,環境条件と積極的 な協働体制を形成したであろう。この協働作業は意思伝達の必要性から言語 の発達を促がし,人智の発達に寄与したにちがいない。その頃から除々に文 明の曙光がさしはじめ生存の経営思考は,一段と活澄化していったと推測さ れる。世代は石器時代

( B .C 6 , 0 0 0

年)から有史時代に移行してゆくのであ

(1) 

『少なくとも現在知られている限り,何処にも,如何なる時代にも,文化なら びに経済なき人類は存在しなかった。』と民族学者や考古学者は主張する。(杉浦健 ー著「原始経済の研究」

p . 6 )

(3)

ところで,民族学者は『民族の性質を知るには,その生活様式を理解する のが捷径であり,その生活様式は衣食住の必需品獲得様式ならびに技術に最 も端的に示される』ことを認めている。また『民族学者の多くが

Krauseの

いう所の衣食住を中心とする狭義の経済を原始経済研究の対象としたことは,

(3) 

それが未開人の生活の決定者と考えたことによる

o

』 とも言う。

しかし,この種の研究態度に対しては『経済生活の始原的・萌芽的形態を 全面的に取り上げるのではなく,単に衣食住の確保を重視し,その分配・交 易の面を軽視する』というそしりがある。また『考古学的な基準で経済発展 の段階を計るという方法自体の限界,とりわけ先史時代と有史時代との間に

(4) 

おける「文化」の価値内容の質的相違が見失われてしまう

o

』 という批判も ある。

第一の問題である経済現象の偏狭的な取り上げ方に対しては未開社会にお ける経済生活の単位は,家族・氏族(血縁関係あるいは血縁関係があると信 ぜられた人々の集団一筆者注)・小地縁集団の如き小さいもので自給自足の 傾向が強く,集団間に食物の交換・融通の相互関係ほあるとしても,それは 非常に限られたものである。故に未開民族を研究対象とした民族学において

(5) 

は,・経済の意味を狭義のものに限定するのが普通である。』 という反論がな くはない。

第二の問題である『考古学的研究における「文化価値の質的相違の看過」

の問題に対しては慎重な吟味を要するが,純粋に「経済的要素」だけを摘出 することが可能か,可能としても,その摘出たし純粋経済的要素だけで歴史

(2) 

『先史時代の事件の絶対年代については,専門家の見解の間に大きな開きがあ る。しかし人類が,およそどんな生活をしながら今日の文明の状態に達したかは遺

物(人間の遺骨•石器・骨角器や住居・墓・芸術品など)および遺物の出てくる地

層の形成などから,だいたい推測できるのである。』(村川堅太郎著「西洋史提要」

p p .   1 2) 。

(3)

杉 浦 健 一 著 前 掲 書

p . 9 

(4) 

内田芳明著「マックスヴェーバーと古代史研究」

p p . 1 9 ‑ 2 0  

(5)

杉 浦 健 一 著 前 掲 書

pp. 7‑8 

(4)

古代文明における経理思想と会計教育(冨山)

(6) 

が構成できるか否かの疑問に先決的に答える必要があろう。いずれにしても 厳密な研究を要する問題である。

さて,本稿の目標は,古代における経理思想と会計教育との接近を,史的 発展過程の中に見出そうとするにある。その限りにおいて,古代の生存経済 の管理様式にアプローチするので,その関係上,未開人の物質文化ならびに 技術の発達に触れることもあるが,それは経理思想を中心として,その背景 的あるいは関連的事項として交渉をもつまでであって,民族的もしくは経済 的発展過程を全面的に取り上げる試みでないことは言うまでもない。

I I  

計数観念と数詞

さきにも述べたように,人間の生活において客観的条件・主観的条件およ び技術的条件の相乗作用は,生活管理作業を複雑化・高級化したであろうが,

その管理操作の中に経理思考を内包し,またその用具的因子として「計数の 観念」が介在したことは推測に難くない。

(7) 

『計数の観念は有史以前より存在していた

o

』 ことは先史時代の遺跡によっ て実証されており,『未開人の生活においても自然数の観念なしに生活するこ とは不可能であったろう。人類が自然数の観念を得た時代は,有史以前に属

(8) 

する。』 という見解も無けいではあるまい。

ところで,先史時代の人間にとって算数は, 日常生活の直接的必要にせま られて日常的体験を基にして考え出されたものにちがいない。未だ数詞のな い時代では数値概念は,手指や足指で勘定できる範囲の数にすぎず『未開人 のなかにほ, 2以上の数を示すに,「たくさん」としか表現できぬものもい

(9) 

o

』 日常の会話には指でもって数を示し,記録には木片や石塊あるいは縄 結びを使用した。

(6) 

内田芳明著 前掲書

pp. 7‑8

に,それらの課題に関する見解が詳述されている。

(7)  H. G. W e l l s ,   t h e   O u t l i n e  o f  H i s t o r y   pp.  97‑8; Wilmer L. Green, History  and Survey of Accountancy  p .   2 1  

(8) 

高崎昇著「古代エジプトの数字」

p .3 

(9)  W e l l s ,   i b i d . ,   p .   1 1 8 ;   Green, i b i d . ,   p .   22 

(5)

先史人の数観念の発生理由については確言はできないが,次のような推測 ができよう。彼らは,その思想や行為を記録するには,草木・きん獣・物象 などの絵画でもって表現し,それを隧石(すいせき一石英の一種)のような石で 岩石に記画した。この種の絵画は種々に組み合わされて後代のいわゆる古代

1

I I

  I l l   1 1 1 1   ' l l   ! i l  

I    I  i I

4  5 

,  l o  

1 n   1 1 n   nn 

n n n n ' l a n   ,    , , , 

J  J  12  20  40  70  IOO  200  1000  10,000 

第 1

図ほ,エジプトの絵文字の数字を示すものである。この図ほ

(B. C.12

世紀)の時代に建設された「ルクソール寺院」の壁に発 見したものである。 (高崎昇著「古代エジプトの数学」より引用)

(6)

78 ( 4

古代文明における経理思想と会計教育(冨山)

絵画を形成することになるが,また象形文字として意思伝達の媒体ともなっ

( 1 0 )  

たのである。そうした記画の間に,生物等の肢幹や員数を表わすために必然 的に計数の余儀なきに至ったものとおもう。そして,はじめは絵によって数 を表わしたものが,やがて数詞に進化したのであろう。

象形文字は,絵文字から派生し,表意文字・楔形文字・表音文字と進化したのであ る。はじめは解読ができなかったが『1

7 9 8

年に

R o s e t t aStone

が発明せられて以来英 国の

ThomasYoung.仏国の Champollion独逸の L e p s i u s等の苦心の結果,ょう

やく読解できる9ようになった。』(京口元吉著「西洋史概説」

p .1 0 )  

ちなみに, トーマス・ヤングは,物理学者であって,光の震動の研究者として有名 であったが,後にロゼッタ石に興味をもち,その解読を志したのである。シャンボリ オンは仏国の大学の歴史教授として在任中,エジプト人でキリスト教徒であるコプト 人の言語を研究していたが,このエジプトの象形文字の判読に努力した。そして20 のオ月を経て漸く

1 4

箇の文字の意味を理解することができた。

1 8 2 3

年にエジプトに渡 り研究の結果,象形文字に関する最初の研究書を著した。これにはロゼッタ石が手引 となった。これらの研究者の努力によって今日では考古学者が容易に象形文字を判読 できるようになり,古代史研究に寄与すること頗る甚大となったのである。 (高崎昇 著「古代エジプトの数学」

p p .1 1 ‑ 1 3 )  

有史時代になると,バビロニア人は簡単な算術をもつようになった。彼ら

( 1 1 )  

1 0

進法のほかに

6 0

進法も知り,分数も平方ももった。さきにも述べたよう に彼らにとって算数は日常生活の直接的必要から, 日常的体験を基にして生 まれたものであった。例えば『

1 0

進法は穀物の計量に適しているところから 発した。それは生産物の

1 0

分の

1

が国家すなわちウルク時代には最高の領主 であったに違いない,神に支払うべきであるという

1 0

分の

1

税に由来してい

( 1 2 )  

また

6 0

の数字は,

4 • 3

2

で割り切れる

1 2

の倍数として特に有用で,

( 1 0 )  

絵画を意志の伝達媒体とした史実は,発掘された粘土板

( c l a yt a b l e t )や岩石の

彫刻などの豊富な資料で実証されている。組み合わされた絵は,例えば「口の絵」

と「パンの一片」とを結びつけて「食う」ことを意味し,「口と水」の絵で「飲む」

ことを表わすというような具合である。

( 1 1 )

高 崎 昇 著 前 掲 書

p .3 

( 1 2 )  ( 1 3 )   M. E .   L .

マロワン著杉勇訳「メソボタミアとイラン」

p p .67‑68 

(7)

古代文明における経理思想と会計教育(冨山)

家庭生活での日用品の配分や土地の分割のためには,この上なく貴重なもの

(13) 

であった。』 幾何学発生の由来についても同様なことが言いうる。すなわち バビロニア人は実用のために円周を

360

度に分けたが,エジプトではナイル 河の氾濫による被害地の面積を測定することから幾何学が生まれたと伝えら れている。

エジプトでほ,数学が早くから利用され,研究も積まれて数多くの数学書

( 1 4 )  

が文化遣産として残された。数詞は,はじめ 9までの記号が発明されたが,

やがて

1 0

以上の記号も案出された。それは後世にローマ数字に引継がれたの

( 1 5 )  

である。

今日,全世界に使用されているアラビア数字は,紀元前

1 5 0

年 頃

Indo B a c t r i a

(北印度)のアルファベットの頭文字から発明されたと伝えられてい

る。それがアラビアに伝達され,

9  • 1 0

世紀頃にはアラビア民族の問に一般

( 1 6 )  

的に使用されたのである。そして『

1202

年に, ピサの

Leonardo

によってイ タリアに輸入されたのであったが,それより

133

年後においても,なお,こ れが充分に実践化するにいたらなかった。その理由の一つは, ローマ数字が 改さんできにくいということであったが,いま一つの理由は,アラビア数字 は庶民の数字であって,公用数字に用うべきでないという根づよい思想に基 づいて,当時の銀行ギルドの規則が元帳の金額表示にアラビア数字の使用を

( 1 7 )  

禁じていた事情にもよるのである。』

アラビア数字は,イタリアから,通商関係のあった仏・西・独・英に商路 を経て逐次伝幡していき遂に世界各国に広く使用されるに至ったのである。

( 1 4 )  

それらの数学書に関する著書のうち次の三書が最も有名である。

( 1 )   E i s e n l o h r ,  Ein mathematisches Handbuch der a l t e n  E g y p t e r .   1 8 7 7 .   ( 2 )   P e e t , T .  E . ,   The Rhind Mathematical P a p y r u s .   1 9 2 3  

( 3 )   Chace,  A.  B . ,   The Rhind Mathematical  Papyrus第一巻 1 9 2 7 , 第二巻 1 9 2 9

(高崎昇著前掲書

p . 1 7 )  

( 1 5 )  

ローマ数字は,

1 4

世紀から

1 5

世紀にわたり,イタリアの実業界に使用され,簿 記にも採用された。英国では

1 6

世紀まで部分的ではあるが用いられた形跡がある。

( G r e e n ,  i b i d . ,   p .   2 3 )   ( 1 6 )   Green, i b i d . ,   p .   2 3  

( 1 7 )  

リトルトン著,片野一郎訳「会計発達史」

p . 5 0 8  

(8)

古代文明における経理思想と会計教育(冨山)

アラビア数字が会計に採用された史実について, リトルトンは次のように 述べている。 『イクリア商人の帳簿で金額欄にアラビア数字を使用した最古 の例は,

1382

年トスカニの無名の商人

P a l i a n od i  P a l i a n iのつけた V a c c h e t t a

(備忘帳)と名づけた帳簿のうちに発見する。夫の有名なパチオリの著書に

( 1 8 )  

もアラビア数字が用いられている。』

l l I  

会計の記録と用具

『未開社会における物質文化は,衣食住の生活必需物資の獲得およびその技

( 1 9 )  

術と密接な相関関係をもって変化する。』 と言われ,また『先史時代を区分 するにも人間の使った道具による方法がもっばら行われている。だいたい歴

( 2 0 )  

史時代は金属時代であり,先史時代は石器時代である。』 ともいう。

さらに用具とその生産地との物理的関係

( p h y s i c a lr e l a t i o n s h i p )

換言すれ ぱ用具と自然環境との相関関係も看過できない。例えば記録用紙として,バ ビロニアでは

c l a yt a b l e t(粘土板)を,エジプトではバビルス ( p a p y r u s )が

使用されたように。

クレイクプレットというのは,粘土を材料としたもので,印刻を受けるに足る湿潤 さと,不明・いん滅を防ぐに足る硬度を保つ土板であった。面積は

6

X 9

吋,厚さ は怜吋ないし%吋のものが普通で,形は楕円形のものが最も多く,長方形や四角形の ものもあった。色は黒色・褐色・暗黒色などで,文字は楔形(せっけい)文字で書か れた。これを書く者をスクリプ (scrib) と呼び, s~lus という一種の器具を使用して 粘土板に印刻したのである。重要事項を記載したものは,焼いたり天日に乾燥したが,

たいてい気温の変化によって自然に堅くなった。しかし安全を期するためには,特別

( 2 1 )  

の容器に納めて保存した。この粘土板こそ,今日のいわばルーズ・リーフあるいはカ ード式帳簿の紙葉に相当するものとみてよかろう。

数の勘定に,種々な計算器を使用したことも実証されている。例えば,沖

( 2 2 )   ( 2 3 )  

縄の縄結び,南米ペルーの

quipu

がその好例である。今日なお使用されてい

( 1 8 )  

リトルトン著前掲書

p . 5 2 4  

( 1 9 )

杉浦健一著前掲書

p .60 

( 2 0 )  

村川堅太郎著前掲書

p . 2 

( 2 1 )   G r e e n ,  i b i d . ,   p .   28 

(9)

古代文明における経理思想と会計教育(冨山)

る算盤(そろばん)は,木片と小石から作られた計算器であったが,その歴 史も古い。また中国では『文字が使用される以前に

k n o t

(ひもの結び)によ

( 2 4 )  

る記録方法が使用されていた

o

』と

L.

Chen~まいう。

そのほかにも諸種の用具が計算に使用されたであろうが,それらに関する 知識や技術が文化遺産として後世に伝わらないのは,それを伝承する手段に

( 2 5 )  

欠けていたからだ。』と

H.G. Wells

ほ述べている。

バビロニアにおいて,会計に関係ある記録として最古のものとみなされる のは.

1920

年に

T e l lSeba

HenryF .  Lutz

博士(当時加州大学教授)に 発見された粘土板上の記録である。それは紀元前

3,600

年頃のものと推定さ れている。

その後にも,紀元前

3 , 3 0 0

年以後のものと推定される数百個の粘土板が発見された。

最近では,『ハーバード大学の考古学研究チームが今夏

( 1 9 7 0

年)の調査旅行で,イラ ン南東部の遺跡において,紀元前

3 , 5 0 0

年に栄えた未知の文明のものと推測されるタ プレットを発見した。遺跡が発見されたのほ,過去

4

年間発掘が続いているイラン南 東部のゾグン渓谷のある高さ約20メートルのテペ・ヤヒアの丘で古代の行政府あるい は高位の人間の邸宅だった建物の跡とみられる。イーラム(バビロニアの東部,ペル シャ湾北方にあった王国)時代の楔形文字の初期の形の文字が記されたタブレットな どがおもな発見物。タプレットに書かれた文字は,バビロニア東部にあった古代王国 イーラムの遺跡から発見された人類最初の文字による記録といわれているものと同じ ものとみられる。』(大阪毎日新聞,昭和45年1

2

2 1

日発行)

バビロニアとアッシリアから発見された粘土板にほ,商業および会計に関 係あるものとして,物々交換・売買・金銭貸借・財産譲渡のほかに財産収支 に関する記録があった。またクプレットの色々な

Vaucher

(証票)から商取 引の事実や原料品・製品に関する事項が判明した。硬貨の存在については記

( 2 2 )  

田代安定著「沖縄縄考」

p . 1 

( 2 3 )  

『ペルーにおいては,計算や記録には

quipu(古代ペルー人の結縄文字)が使

用された。それは色や形で種別し,赤は金を黒は家畜を表わし,また「ひも」の結 ぴ方で諸種な意味を示したのである。法律や注文でさえ,このコードで伝達した。

( G r e e n ,  i b i d . ,   p .   2 2 )   ・ 

( 2 4 )   ( 2 5 )   H. G. WELLS, i b i d . ,   p .   154 

(10)

古代文明における経理思想と会計教育(冨山)

録はないが金や銀の小片については記録がある。信用貸がかなり広い範囲で 行なわれ,手形の振出しが実業界で認められていたことを物語っている。ま

1 9

世紀後半に発見された数個のタブレットによって紀元前

1 , 0 0 0

年頃バビ ロニアに

Egibiand Sonという金融業者のいたことが分かった。同商会は約 5 0 0

年以上存続したが, 国王や個人に融資するほか,国税の徴収や国庫支出

( 2 6 )  

の代理業務を行ない,手形や小切手も発行していたことが判明した。

エジプトでは,バビロニアで使用された粘土板と

s t y l u s

に代って,パビル スと

calmus

が使用された。バビルスというのは,当時・ナイル河畔に叢生 していた葦で作られた紙である。英語の

p a p e r ,

その他の欧州各国における 紙の語は多くがこのパピルスを語源としている。

パビルスの長さは長短種々あった。通常

2

択ぐらいであったが,接ぎ合わして5

0

に及ぶものもあった。英国博物館に所蔵しているパヒ勺レスは,『1

8 5 8

年英国のエジプト

学者 A.Henry Rhindがテーベの廃墟で発見したもので,その名をとって「リンド

・パビルス」と名付けられている。それは紀元前1

6 5 0

年頃の作と推測されている。僧 侶文字で右から左に書いてあって,一つの巻物にしてあり,長さは約1

8

呪,幅約1

3 吋

である。』(高崎昇著前掲書

p p .7 ‑ 8 )  

ギリツアにおいては,後期ミノア時代

(MinoanP e r i o d )の初め以来,印授

の記号から象形文字の発達をきたし,この期の末期にキプルス文字と非常に 類似し,おそらく同様な音標文字に形象的・限定的記号を含む羅線文字が発 生した。筆記の用具には,バビロニアの手本に基づき小さい粘土板が使用せ られたもので, クノッスス

( c n o s s u s )

第二王宮の大図書室に発見された。発

( 2 7 )  

見された多数の計算書ほ,財産目録および勘定書等であった。

VI  会計の対象と会計人の出現

『古代経済社会の分析的視角として, もっとも基礎的に重要な方法概念は,

「家族共同態」ー「氏族」・「部族」ーという社会組織であって,これが古代経 済の土地占有の基礎単位をなしており,したがってまたその経済的土台の上

( 2 6 )   G r e e n ,  i b i d . ,   p p .  2 8 ‑ 3 1  

( 2 7 )  

浅野利三郎著「西洋史観」

p . 1 0 2  

(11)

に立つ政治組織や社会的文化的諸形態がそれのあり方によって深く左右され ているのである。そしてこのことは,「共同体」

(Gemeinde)

という視角で追 求することもできるところの同じ問題である。古代経済史,ならびに社会史

( 2 8 )  

及び政治史はこの分析視角を除外してほ.とうてい研究しえないであろう。』

先史時代において,会計的処理を必要としたのは,個人の財産についてよ りも,むしろ集団社会(血縁もしくは地縁集団などの原始共同体)の財産に 関するものが主であった。その理由の一つは,財産の多くが,それらの共同 体に所属し,個人の財産は会計的処理を必要とするほど大量でも複雑でもな く,財の増減変化の頻度も数多くなかったからと推測される。さらに考えら れることは,彼らの意識が,個別表象よりも集団表象で構成されていたこと にもよるとおもう。すなわち『原始民にはまだ個の自覚とか自由の意識とか いうものほ成立しない。彼らは唯過去の習俗や伝統にしたがって共同体的に 判断し情感し意欲するにすぎない。彼らを規定するものは種であって個では

( 2 9 )  

ない。」 しかし,そのことをもって必ずしも民間における会計現象の存在を 絶体的に否定することはできない。発掘された多数の粘土板によって『かな りの量の個人的な仕事が国家のものとならんですでに行なわれていたと思わ

( 3 0 )  

れる。』 ただ民間で発生した会計現象は,よしんば粘土板に記録されたとし ても,保存管理の不十分から長年月のうちに,その多くがいん滅して伝えら れなかったのではなかろうか。これに反して玉侯または国家の財政に関する 会計記録は石碑または墓石等に彫刻され保存のよろしきをえたので,今日ま で存続して当時の史実を実証しているのだと考えられる。

バビロニアの会計と会計人

既述のように先史時代における会計は主として共同体の財産収支にかかわ ったが,バビロニアの文明社会においては,商業もかなり発達をみせてきた 一後述ーので,それに関連する会計の対象が目立ってきた。当時の商業の特

( 2 8 )   内 田 芳 明 著 前 掲 書 p . 46 

( 2 9 )   柳田謙十郎著「西田哲学入門」 p . 1 6 0  

( 3 0 )   M. E .   L . マ ロ ワ ン 著 杉 勇 訳 前 掲 書 p .6 8  

(12)

古代文明における経理思想と会計教育(冨山)

徴は,商取引の大部がその取引の場所を神殿に定めたことである。神殿に持 ちこまれる物資ほ,可及的に早目に利益を得て処分できるように,品種別に 宝石は宝物庫,穀物は穀物庫,家畜は家畜置場というように種別に搬入され た。そして,その物資の収支を計算し記録する会計人が,スクリブであった。

記録は粘土板に行なうのであるが,その仕事は職業的に一定していて,この 職業的会計人が,ここにいうスクリブであった。

スクリブの職能は多岐にわたったが,最も重要な業務は会計的仕事であっ た。またスクリブほ,公用私用を問わず,いかなる契約の締結にも立会を要 求され,契約当事者の面前で当該契約者の姓名・支払金額・支払期日・利率 ならびに契約不履行に対する罰則等を規定し,これを粘土板に印刻して証文 を作成した。従ってスクリブの資格には,商業および法律知識のほかに文書 作成の技能も必要なので,それに適合する教育が要請されたのである一後で 詳述。

会計官吏としてのスクリブは,国庫の収支を記録計算する職務を担当した。

会計は極めて正確を期せれら,スクリブ自身も自己の職務を神聖視して,その 職責を完遂すべく努力したと伝えられる。このいわば官庁会計

(government a c c o u n t i n g )

の会計官吏の仕事は,エジプトやギリシアおよび印度にも見出さ れるのである。

『インドの太初的な共同体においても,既に農業上の簿記が行なわれていたことは本 書第一巻

( 3 3 8

頁)に述べた。この簿記は独立して,共同体の一吏員の専務となったも のである。』(マルクス資本論高畠素之訳第二巻

p . 1 0 2 )  

次にニジプトの会計,それも主として官庁会計の対象と,会計人の出現に 接近していこう。

エジプトの会計と会計人

エジプトの官庁会計の会計制度を,職制の上から考察すると,財務官とし ての第一人者は

V i z i e r(首相)であった。財務官としての首相は各方面から

提出された財務報告に基づいて,一国全体の財政状態を把握し,これを毎月,

国王

( p h a r a o h )に報告し,課税の方針を決議した。

(13)

首相の下に,中央政府にあっては会計検査長官とも称すべき会計官がおり,

地方には地方長官がいて,それぞれ所管の財務を監理した。とくに会計検査 長官ほ,中央政府において国庫の収支および保管に関する一切の支配権を有

( 3 1 )  

し,また国家的祭典や王室の会計等に関して最高の監督権を与えられていた。

会計検査長官の下には, これを補佐する検査官がいた。検査官は,その検 査する財貨の種類によって,宝石・金銀・織物等の高価物資の収支を検査す る役割と,穀物等の収支を検査する役割とに区別された。後者は,本来の役 務以外に税金の徴収および官吏の俸給支払に関する会計事務も担当した。両 者とも会計検査官として重要な地位を占めていたが,官位の上では高価物資 の検査官が上席にあったという。

国庫に納入され,あるいは,それより支出される財貨ほ悉く検査官に検査 され,その結果は逐ースクリブ(書記官)によって記録された。その間の会 計は,まことに厳正に行なわれ,万ー会計官の会計に甚大な不正。誤謬が発

( 3 2 )  

見されると死刑に処せられることもあったという。このことは会計の公正性 に,いかに腐心したかを示唆するとともに,会計には誤謬不正が発生しやす い傾向を暗示するものと言えよう。

なお,当時の会計検査官の執務振りを房欝させるものとして,アーマン教

(AdlfErman

ー執筆当時ベルリン大学教授)著「古代エジプトの生活」の

中から一節を引用しよう。

『左の建物は宝物庫であって,そこでは受け入れた宝物を勘定中である。検 査官のベイクは椅子にかけて,その仕事を監視しており,書記官(スクリブ)

のネテルナットは,その勘定の結果を記録している。この建物の近くに穀物 庫があるが,そこは特に忙しい。丁度収穫が終った頃なので,穀物がどしど し倉庫に持ち込まれている。書記官のスタルボップが,その勘定の結果を几 帳面に記録している。ここでは会計は実に厳正に行なわれていて,いかなる

( 3 3 )  

官物流用も厳禁され,役人達は相互に監視し合っている。』

( 3 1 )   Green, i b i d . ,   p .   3 3  

( 3 2 )   Green, i b i d . ,   p .   3 3  

( 3 3 )  ( 3 4 )   Green, i b i d . ,   p .   36 

(14)

古代文明における経理思想と会計教育(冨山)

上記のように,会計監査の方法として、、役人相互間に,いわゆる内部けん 制方式を採用していることは注目に価することだと思う。

当時ほ,今日理解されるような貨幣は未だなく,宝石・金・穀物・織物・

家畜等が受払の客体になっていた。納入物資の中には,加工を要するものや 腐敗し易いもの長期保存に堪えるものなど異質の物資があったので,それぞ れ種別の倉庫に納入させて適当な手当をした。そのため数多くの倉庫を要し.

人手も要した。また納税に限らず,一般の交換用や収支決済にも物品が使用 されたので物量計算が甚だ煩雑となり,結果的には,それらの収支に当って 記録計算を担当するもの.すなわちスクリプに対する需要が増大したのであ る。いま一つ注目することは.従来,静的資産としていた倉庫が加工を行な

う機能的資産の意味・内容を含むものとなったことである。

なお,エジプトの官庁会計では,統治上いくつかに分割された地方の課税 の適性を図るために各地方のそれぞれの財産について記録(財産目録)を作

( 3 4 )  

らねばならなかった。この仕事もスクリブに委譲されたのである。

上記のように,スクリプの会計的職能は相当に複雑・多量化してきたので,

その教育が重視されてきたのである。ー後で詳述。

古代ギリシアの会計と会計人

元来,ギリシア国は狭小な半島と若干の島しよから成り,山脈が縦横に連 らなって境界を劃しているので,独立自治の統治体を群生させるに好都合で あった。そのためか,古代ギリシアは部族的にも政治的にも多様に岐れた独 立国家が併立して,いわば

GreekWorldを形成していたのである。

概括的にいって,政治組織は王政にはじまり,後に貴族等が立って政権を

Assembly(議会)の手におさめ,共和政体をつくった。 Assemblyは,長老

および神官を代表する王と,武士を代表する王とから構成され,最高執行機 関として

C o u n c i l

(審議会)を設定した。

ギリシアの法律ほ,この

Assembly

に対して徴税権を与えたが,実際の徴 税的役務は

C o u n c i l

に委譲され,その会計的な仕事ほ,政府の会計官が遂行

( 3 5 )  

したのである。すなわち各地方の税収が

C o u n c i l

の支配下にくると,会計官

(15)

古代文明における経理思想と会計教育(冨山)

ほ,それを記録し数個の財庫に収めた。また国庫からの支出を厳重に管理し たのである。徴税の困難な場合や遠隔地から徴収せねばならぬ場合には,徴 税の特権を特定価格で払い下げることもあったという。しかしこの政策は,

一時的び縫策にはなったとしても,後になって国家の利益に反する経済的・

社会的事象を招来することになったのである。

国庫に納入された財貨は,すべて国家の管理する神殿に保管された。夫の

( 3 6 )  

有名なパルテノン

(Parthenon)

も貴重な財貨の国庫になっていたのである。

神殿の財産については,会計官は,毎年棚卸を行ない,適当な財務報告書を 作成した。その表には貸付金に対する賃貸料や利子も記戴した。他方,支出 ほ神への祭典費が主であって,次いで給料や興宴費の支出であった。

紀元前

3 0 0

年頃になると,

Council

Treasurer

(財務長官)を任命して,国 家財政の責任を専門的に担当させた。夫の有名なデモステネス

(Demosthe‑

( 3 7 )  

n e s s )

も,この財務長官の一人であった。

なお財務報告に関連して特異な点は,その公告の方法である。ギリシア人 ほ,財務報告書の公開を有益と信じていたので,法律でその旨を規定し,石 に刻みつけて屋外に出し,一般の供覧に付したという。

上記ほ,国家財政に関する会計事項であるが,民間の会計についても規定 するところがあった。例えば,財産譲渡や遣産相続の場合には,財産目録の 提出を命じたのである。そのほかにも今日の会計問題で,その起源を古代ギ

( 3 8 )  

リジアに発するものが少なくない。

そこで会計を飼育した当時の商業経済的背景について要約的に触れてみよ

ギリシアの社会構成を発展段階に分けると

( 1 )

英雄時代 (B.

C . 1 ,  000700  ( 3 5 )   G r e e n ,  i b i d . ,   p .   3 7  

( 3 6 )  

この神殿は,アテネ女神を祭るドリック式建築の神殿であって,ペルシア戦争 の時,クセルクセス王

( X e a x e s )

に焼き払われたのを,ペリクルス

( P e r i c l e s )

が当 時の巨匠カリクラテス

( C a r i c r a t e s )

.イクチノス

( I c t i n o s )

等に命じて再建させたも のである。 (本多浅次郎著「批判的西洋時代史」

p . 132 

( 3 7 )   Green, i b i d . ,   p .   38 

( 3 8 )   Green, i b i d . ,   p .   39 

(16)

古代文明における経理思想と会計教育(冨山)

) (

2

)アテネ=スパルク時代

( B .C .  700350

) (

3

)マケドニア時代

( B .C. 

350100

年)に区分できる。

「英雄時代」とは,有名な二大叙事詩,イリアドとオデッセイに語られた時 代である。もちろん,これは完全な意味での史実としては認め難いものであ るけれども,当時の社会状態を知るには充分に役立つ。既にこの時代には鉄 の使用が知られ,奴隷を使役し富と権力をもつ貴族が「王」を取捲いて生活

( 3 9 )  

していた。

英雄時代の末期にアテネでは『土地は既に分割されて私有財産に移ってい た。これは未開の上段の終りに既に比較的発達していた商品生産及びそれに 相応する商品取引に適合するものである。』(マルクス・エンゲルス全集第

1 2

p .

760) そして『小規模の自営農業ならびに独立した手工業経営ば••本来 東洋的であった共有制の分解後,未だ奴隷制が真剣に生産を支配するに至ら なかった当時における,全盛期の古代ギリシア・ローマ的共同体の経済的基 礎となっていたものである。(マルクス資本論第

1

巻第

1 1

p . 3 1 4 )

その後 商業関係が発展したのは主として海上貿易によるのであって,国内商業は陸 上交通が不便困難一既述の如く山岳地帯が多くーなため振わかったのである。

古代のギリシア人は,商工業によって生計するものを,べっ視し,商業的 意欲に乏しかったので,商工業の経営は次第に,外人・解放された奴隷およ ぴ被征服民族の手に移っていった。そこで簿記会計も彼らによって行なわれ

るようになったのである。

商業は,家内工業や生産者と消費者との間の直接交換時代から市場売買時 代に進展し,貨幣の流通と相まって発展していった。それらの諸経済事情は,

( 4 0 )  

銀行の出現を促進したのである。

アテネ

( A t h e n s )

に銀行が存在していたことは考古学的に文献的に証明さ れている。はじめ神殿内に設立した国立銀行は,特権階級に対してのみ融資 して一般庶民には利用を認めなかった。そこで後年には民間事業としての庶

( 3 9 )  

早川次郎著「古代社会史」

p . 1 4  

( 4 0 )   CHEESMAN A HERRICK, HISTORY OF COMMERCE AND IN‑

DUSTRY, C h a p .  IV Greek I n d u s t r y  and Commerce, p .   5 6 ‑ 6 8 .  

(17)

民録行が生まれた。その業務は両替と財産保管の取扱いであったが,収入源 の主要なものは融資であった。利率は相場の変動があるので法律では規定し なかったが,『

10%

2 0

%が普通であって,海上取引のように危険の大きい場

( 4 1 )  

合には

36% 48

%にもなった』という。 『手形や信用状の使用は日記帳や元 帳の使用と同様に一般化してきた。組合

( P a r t n e r s h i p )

や会社は,既に紀元

( 4 2 )  

4 0 0

年頃ギリシアでは営業していたのである。』おもうに有史時代になると 官営・民営を問わず会計的処理を要する事項が多量化し多様化していき,結 果的には会計の知識技術の発達を促進したであろうが,それらが学問的に形 成されるには,経済的条件の強化が必要だったし,条件の成熟には時間がか かったのである。

古代ローマの会計と会計人

古代ローマ共和国

(RomanR e p u b l i c )

時代になると,会計現象も注目に価 するものが出てきた。このことは, ローマ人が管理者として優れた素質の所 有者であったことを示すと同時に,会計の知識・技能の高度化を要求する強 力な経済事情が生じたことを賠示する言えよう。

官庁会計において,すべての歳入は

AerariumS a t u r n i

(サターン神殿)に 納められた。財務管理者には

q u a e s t o r

(勘定奉行ーはじめは犯罪を審問する 判官であったが,後に国庫管理を担当した)がいて会計事務官の会計を検査

し,また地方長官の会計も監査した。そのほかに

Censor

(人民の財産や人口 を調査し,かつ風教の取締にも任じた役人)がいて,彼の調査が課税の基礎 資料に寄与したのである。彼はまた徴税の役務も担当した。

歳入面において税収の増大を図るために,間接税に依存する必要から港税

( P o r t   d u e s )

を徴収したり,戦争によって没収した土地や

b o u n t i e s

(貢物)

を売却して財源にあてたこともあった。歳出面において,国庫より支払を受 けんとする者は,財務長官

( m a g i s t r a t e )

の支払命令書を得なければならなか った。そのためには,債権者は,予め自己の債権を証明する適当な書類と仕

( 4 1 )   C .  A. HERRICK, i b i d . ,   p .   64 

( 4 2 )   G r e e n ,  i b i d . ,   p .   3 9  

(18)

事の完成を立証する書類とを添付した勘定書を財務長官に提出する義務があ った。長官がその勘定書を容認すれば,

q u a e s t o r

から支払を受けるように支

( 4 3 )  

払命令書が交付されたのである。

q u a e s t o r  

tま,すべての会計上の記録を完全に保持し,退官のときは,自己 の取扱った会計記録を後継者ばかりでなく

s e n a t e

(元老院)にも提出せねば ならなかった。そしてその会計処理が正確と判明した後に,はじめて辞任が 認められたのである。そのように古代ローマ共和国の初期においては,検証

( 4 4 )  

制度が確立していたので不正行為がよく排除されたという。

ローマ帝政時代になると,共和国時代に採用された財政制度は,侵略的帝 政の政策には適合しなくなった。財政政策の変更ほ

J u l i u sCaesar

に帰せら れるが,彼は自ら財政事項を監査し,収入・支出が適正に計上されているか 否かを検査した。.従って彼の在任中は,嘗てないほど国庫は収支のバランス がよく保持されたという。

徴税権の賃貸ほ,ギリシアの例にならって古代ローマ帝国にも実施された が,この時代には,この特権を獲得するために大組織の株式会社が設立され た。通常,会社は

Censor t

こ,その要求額を支払い,その代償として,この 特権を与えるという契約の下に,徴税権を利用したのである。会社の事業収

( 4 5 )  

益ほ,株主の持株に応じて配当された。

この種の会計が,いわゆる組合簿記か,会社薄記か,そのいずれによって 処理されたかほ,詳らかでない。ただ,従来の個人資本に慣れた会計人にと ってほ,集団資本の会計処理や利益分配の公正性などに対して,適正な技法 の案出を迫られたにちがいない。それが会計手法の進展への契機ともなった のではなかろうか。

いま一つ注目すぺきことは,予算会計が生まれたことである。すなわち,

Augustus

国家活動の活澄化に伴う歳出増大に備えて,歳入増加をはか るため徴税権の賃貸制を廃止した。また,歳出面を緊縮したが,そうした堅 実財政策を合理化するため財政予算の編成に踏み切ったのである。この制度

( 4 3 ) ( 4 4 )   G r e e n ,  i b i d . ,   p p .  4 0 ‑ 4 1  

( 4 5 )   G r e e n ,  i b i d . ,   p .   42 

(19)

ほ,西暦

5

世記に帝政が崩壊するまで約

2 0 0

年間実施されたが,遂に暗黒時

( 4 6 )  

(DarkAges)になって消減した。

さて,民間における会計処理は,どうであったか。それはローマの家庭で 家長が使用していた会計方法の延長であるといわれている。すなわち,日々 の収支を日記帳に記入し,一月毎に,今日いうところの元帳に転記する方法 であった。

債権の確立には,債務者が元帳記入の事実を承認することを要すると法律 で規定した。債務の弁済には,通貨で支払われたが,債務者が富裕であれば 小切手で決済されることも稀ではなかった。

古代ローマにおいて,銀行はすべて国家の直接的監督の下にあった。銀行 の業務ほ両替•財産の保護預りおよび融資であったが,依頼によって財務代 行も行なった。これらの業務遂行には厳重な

a c c o u n t a b i l i t y

(会計責任)を保 持しなければならなかった。

銀行ほ,日記帳や元帳に加えて,各得意先につき,預り金と払戻し金を明 示する記録の整備を国から要求された。また紛争に際しては,日記帳,とく に元帳を

t r i b u n a l

(護民官一乎民より選出された人民保護の高官)の面前に

( 4 7 )  

提示して,問題の解決に努力しなければならなかった。

これを要するに,古代ローマにおいてほ,日常の経済生活の必要から,官 庁会計や商業会計に比較的高度の会計処理が行なわれていたとみて差支えな いだろう。とくに集団資本の会計一組合会計であれ会社会計であれ一の処理,

あるいは株主に対する事業利益の配分などに関して,従来にない複雑な会計 処理も実際的に施行していたと推測される。これが後年になってイクリアの 複式簿記の基礎になったものと考えられる。.

古代の会計教育

『教育は,人間社会に特有な「財産」「文化遣産」「文明」「文化」が,言語・

文字あるいは行動による伝達等の種々の様式で発展的に同世代・次の世代に

( 4 6 )   G r e e n ,  i b i d . ,   p .   43 

( 4 7 )   Green, i b i d . ,   p .   40 

(20)

( 4 1 6 )  

古代文明における経理思想と会計教育(冨山)

( 4 8 )  

語り伝え,書き伝え,そして教え伝えるところに発生するのである。』 ここ では,古代の代表的会計人,とくにスクリプを中心にして会計教育のあり方 を追究してみようと思う。

古代バビロニアの会計教育

古代バビロニアにおいて,代表的会計人であったスクリプ

( s c r i b )

は,社会 的に重要な職能を担っていた。従って,その社会的地位も頗る高く,神官一 王侯に次ぐ権勢家かつ最高の学識経験者・教育者ーに次ぐ権威者とみなされ

そこでスクリブの資格をうるには,相当の知識技能を有し,実践的経験の 所有者でもなければならなかった。その教育内容について言えば,幼少の頃 より在来の読み書き算数のいわゆる基礎教育においてすら,古典学習に使用 された伝統的アカデミックの言葉の代りに,勘定・収支・計算等に関する商 業用語に習熟すべく訓練された。次に専門教育としては,商業書類の意味内 容およびその作成方法を学習し,それに上達した後は,さらに会計技法およ び法律,とくに商業関係の法律に通暁すべく教育された。その最大の理由は,

当時のバビロニアには,既に売買契約その他の商取引に関する諸種の法律が 施行されており,スクリプは,その取扱う事件の法律問題には絶大の責任を

( 4 9 )  

負わされていたからである。

バビロニア第一王朝のハンムラビ

(Hammurabi)

(B.C.17281686)

は,世界 最古の成文法とみなされる法典を発布した。この法典は,モーゼの法典より古きこと 約千年,その

2 8 0

条の法文は高度文明を語り,バビロニアの通商貿易を知らせる無限 の価値をもつものである。ある古代法律学者は『ローマ法の法概念や法律行為の規定 の中に,バビロニアの法律に範をとらないものはなかった。』 とさえいう。

上記のように厳しい商業教育が実施された必要性ないし要求を知るために は,当時のバビロニア商業の経済状態を一べつする必要がある。

バビロニアの商業の中心地は

Babylon

であった。ここには,エジプトの麻・アル

( 4 8 )  

菅野芳彦著「教育史講義」

p . 1 6  

( 4 9 )   G r e e n ,  i b i d . ,   pp.  29‑30 

(21)

メニアの酒や油・中国の絹•印度の綿布や宝石・アラビヤの薬味や香料などが輸入さ れ,奴隷競売も行なわれていた。商業は陸上,河川および海上で行なわれた。

卸業および小売業に対しては別個の商業用語を使用し,商業資本の貸借も一般化し,

金銭貸借や利息に関する法律も施行されていた。契約上の債権・債務に関する商法規 定も,おそらくバビロニア人の商取引にえんげんすると言われる。会計事項は,スク

リプによって粘土板に刻まれ,署名・捺印一時には拇印を捺して一公共のかまで焼か れて契約当事者に交付された。この

c l a yt a b l e t

こそ,今日の

L o o s e ‑ l e a fl e d g e r

Card‑index systemの紙葉の先駆者とみなされるであろう。

上述のような商的環境において,バビロニア人が商業人として飼育された 中で彼らの指導的役割をもつスクリプが優秀な業績を挙げるにはそれ相当の 教育が行なわれたにちがいない。

古代エジプトの会計教育

エジプトにおいても,バビロニアにおける如くスクリブの社会的機能の重 要性が認識されていた。従って,その資格をうるに適わしい教育が要求され たのである。

元来,古代ニジプトにおいては,義務教育制度は未だ設定されず,富裕な 家庭の子弟はなんらかの教育を受けたが,一般庶民の子弟は通学できずに,

鵞鳥を飼い,羊追いなど日常的な仕事に使役されていた。

概括的に言えば,ニジプトの教育は実用を目的とした教育(実用主義教育)

であって,真理探究には関心が薄いのであった。教育は神社と政府で経営し,

教師は大体に神官が担当した。教育内容は,神社経営の学校では,象形文字 の宗教的教典を筆写させたり,宗教文学・諸神の伝説・誅詞(故人の生前の 功徳を述べる言葉)などの釈義で構成された。政府経営の学校では,算数・

幾何.勘定・測量および記録術等で構成された。

スクリブを志ざす者は,国立の学校において,会計検査官たるスクリプの 指導の下に,読書・数学・記述技法を学習した。そして卒業後は,官庁の見 習書記となり,若干年の実施訓練を修了すれば,会計書記官に採用せられ,

( 5 0 )  

あるいは民間において職業的会計人にもなれた。

(22)

古代文明における経理思想と会計教育(冨山)

授業は朝から正午まで行なわれた。学習指導ほ極めて厳格で,遅刻したり,

不注意な生徒には体刑(笞刑)を加えることも稀ではなかった。非行少年を 神殿内の座敷牢に監きんすること 3月に及んだこともあったという。英国博 物館所蔵のパビルス製絵画に,「授業が終わって.学童たちが歓声をあげて学 校を飛び出していく光景」が描かれているそうだが,簿記学習の難渋さは今

も昔も変らぬもののようである。

上述のような教育と実地訓練を受け.さらに実務経験をつんだスクリプは,

有能な会計人として社会に重用され,優秀な者は,会計検査官・会計検査長 官と昇進し,首相に栄進する者も稀ではなかったと伝う。

他面,会計官吏に対する社会の期待も多大であって.国庫の収支会計には,

いかなる場合でも厳正公明を要求された。その会計の正否は会計検査長官に 監査されて,万一甚大な不正誤謬が発見されると極刑に処せられることもあ

( 5 1 )  

ったのである。

民間における職業的会計人は,単に商取引の記録計算事務に従事するだけ でなく,諸種の重要書類の作成あるいほ重要事件の指導的役目を引受けたの で,それに適わしい特別教育も必要となったであろう。

古代ギリシアの会計教育

古代ギリシア人は,独立自由の精神・美的情操・知性に富み,航海の利便を活用し て東洋諸国の文明を吸収し,古代において早くもけんらんたる文化の花を咲かせたの である。

『各都市国家が,それぞれの特色があるにせよ,共通する教育の理想は.人 間固有の諸性能を調和的に発展させ,国家有為の公民を養成することにあっ た。この教育政策は,一つには侵略防衛の国家主義と,二つには野蕃人に対 抗する同胞意識の喚起を志向したものである。

これらの埋想を実現するために,身体的鍛練をめざす体育と精神を養成す る音楽とが教育内容としてとられたのである。その代表的教育を行なったの

( 5 0 )   G r e e n ,  i b i d . ,   p .   34 

( 5 1 )   G r e e n ,  i b i d . ,   p .   34 

(23)

が,スパルタとアテネである。両国は,その国風が対照的であって,前者が 武を尚び,貨殖をいやしみ,文弱をしりぞけたのに対し,後者は優雅を尚び,

貨殖に長じ文芸を愛した。教育においても,個性を没却し,知育を軽視した 意志陶冶の尚武主義に対し,アテネでは,教育の形式的目的を心身の調和的 発達に実質的目的を国家公民的人格におき,方法的にも一方には国民的規範

( 5 2 )  

を認め,同時に,他方で各個性の自由な発展をめざしたのである。』

上記のような教育理念と教育内容の下で,商業教育にどれだけの期待がか けられたかは疑問である。ギリシア市民の一般的傾向であった商業を賤業視 する偏見は,ついに商事経営を奴隷や外人にまかせ,自らは,その果実だけ を奪取するという形態が生じたのである。

その結果,簿記会計を含めて商業経営上の知識・技法を経験的に習得した のは,解放された奴隷か外国人であった。そうした経験型教育形態と経験主 義学習方法によって会計技法や経営管理技法が,有能な実践家を通じて世代 に伝承されていったと推測される。・

同様な教育事情は,古代ローマにもみられるのであった。当時の簿記会計 が奴隷の手で行なわれたことは周知のとおりであって,奴隷と資本主との貸 借会計と,後年の複式薄記の貸借原理とは相即関係にあると言えるのではな かろうか。

あ と が き

本稿は,旧稿「古代会計史」(関西大学学報昭和

1 1

7

月)・「スクリブの会 計的職能について」(「会計」昭和

1 1

1 1

月)および「簿記の黎明」(「簿記」

昭和29

1

月)に発表したものに,若干の補筆と考証を加えてできたもので ある。

初稿から約30有余年の歳月は流れたが,その問,必ずしも本問題に取り組 み,調査研究を継続してきたとは言えない。そこで本稿に筆を進めるうちに,

史的現象を継起的に全般的に展開するには,それ相当の資料充実の必要性を 痛感した。さらにまた,つね日頃,概念的抽象化や普遍化になれた消費機能

( 5 2 )  

菅野芳彦著「教育史講義」

p p . 1 1 ‑ 1 3  

(24)

古代文明における経理思想と会計教育(冨山)

からは,単位現象の生成過程の認識には,現象分析の十全性・体系的叙述に は貫徹する論理性・一単位現象と他単位現象との連系追跡には厳密な関係概 念の構成など,数多くの注文を出されたのであるが,その注文に相応する購 買能力の関係から,要求項目の若干に縮減を余儀なくされた。そうした経緯 を経て,このような形態・様相の小稿になった次第である。

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Hoekstra, Hyams and Becker (1997) はこの現象を Number 素性の未指定の結果と 捉えている。彼らの分析によると (12a) のように時制辞などの T