天朝﹁大清国﹂から国民国家﹁大清帝国﹂へ
清末における政治体制再編と多民族ナショナリズムの起源
千葉正史
はじめに
近代中国におけるナショナリズムの問題は︑既に論じ尽くされた観もあるが︑中国におけるナショナリズムの高揚と
民族問題が注目される中で︑今日なお改めて検討されるべき意味を有している︒まさに今日に至るナショナリズムの起
源がそこに存在しているのだが︑その形成過程をめぐっては清末の孫文ら革命派による﹁民族主義﹂の主張を原点とす
るというのが一般的な見方であると言える︒しかしながら︑﹁駆除 虜﹂のスローガンに象徴されるようにその内実は漢
民族による﹁種族主義(同PO一ω日)﹂という性格を色濃く有するものであり︑﹁五族共和﹂などといった多民族主義の理論に
立脚する辛亥革命以後のナショナリズムとは本質的な違いが存在する︒そのことは︑近年多民族主義がより強調される
流れの中で︑﹁清朝末期の革命派によって強調された﹁漢族11中華﹂という主張は中国の歴史的流れに逆行していること
つがわかる﹂といった批判が現在の中国ナショナリズムを是認する立場の論者より投げかけられたことにも示されている
が︑ならばその起源は一体どこに存在するのかという疑問が改めて生じよう︒
本稿は以上のような問題関心から出発することで︑近代における中国の変革を国民国家化という観点から考察を加え
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るものである︒まさにそこから中国におけるナショナリズムが形成されていったのだが︑その重要な出発点は末期の清
朝による改革であった︒こうした指摘は意外なことかも知れないが︑近年の研究は﹁新政﹂と称される二十世紀初頭の
ね改革こそが中国における最初の本格的な国民国家建設の試みであったことを明らかにしている︒そこでは伝統的な王朝
体制からの脱却が目指されたのだが︑そのことを一つ象徴する出来事として︑ここでは国号呼称の変更という問題に着
目することとしたい︒
﹁大清帝国﹂という呼称は︑今日では歴史研究者も含めて清朝の通時代的な呼び方の一つとして広く用いられてい
せる︒しかしながら歴史的な用例に即して言えば︑実は﹁大清国﹂が清朝自身の一貫した国号呼称であり︑そのような呼
び方は近代に至るまで存在していなかった︒そもそも﹁帝国﹂とは近代に至って日本からの影響で用いられるように
なった語彙の一つであり︑今日では﹁中華帝国﹂などと称される歴代の中国王朝は決して自らをそう称することはな
あかった︒それが二十世紀に至り新政が開始されるとともに︑新たに﹁大清帝国﹂が清朝の国号として採用されること
となった︒正式には一九一六年に予定された憲法公布によりこうした変更がなされようとしていたのだが︑﹁帝国﹂と
いう言葉はそこでは立憲政体による近代的な君主制国家を意味するものとして用いられたのである︒
こうした﹁帝国﹂の用例は︑それを国民国家の対概念として位置付けがちな今日の観念からすれば意外なものかも知もれない︒しかし清末という時代︑それは確実に近代国民国家体制の導入と一体の形で中国において用いられることと
なったのである︒本稿はこうした事実に着目することで︑清末の改革の意義を改めて考察しようとするものである︒中
国における国民国家建設の出発点となった﹁大清帝国﹂の統合とは︑一体いかなる内容であったのか︒そしてそれは以後
の時代にどう引き継がれていったのか︒こうした視点に立脚することで︑今日に至る中国ナショナリズムの起源をそこ
から求めていくこととしたい︒
一﹁天朝﹂と﹁帝国﹂
(1)中国王朝の国号呼称と﹁天朝﹂
本稿の議論の前提として︑そもそも歴史的に中国王朝は自らをどのように呼称していたのかという問題がある︒まず
ここでは国号呼称の在り方から検討することとしたい︒
今日では﹁唐王朝﹂あるいは﹁明朝﹂などといった形で呼称されることが多いが︑その本来の形は﹁大唐﹂﹁大明﹂といっつたように﹁大○﹂という二文字を原則とするものであった︒特に新王朝の成立に際して国号を制定するようになった宋
代以降は︑﹁天下を有するの号を定めて大○と日う﹂といった形で新国号を宣布するようになり︑こうした呼称は自ら胎が天命を受けて天下に君臨する正統王朝の系譜に連なるものであることを内外に示す意味を有するものであった︒その
な最後に位置することとなった清朝も一六四四年に中国支配を開始するにあたり﹁傍お天下を有するの号を建てて大清と
日う﹂と宣布し︑ここに﹁大清﹂が﹁大明﹂に替わる新たな正統王朝の国号となったことを明らかにしたのである︒一方膿でこうした国号は︑宋代頃から末尾に﹁国﹂を付して﹁大○国﹂と表記する形でも用いられていくようになった︒清朝も昭一六四四年の北京における告代祭天に際して順治帝が自らを﹁大清国皇帝臣福臨﹂と称しており︑また海外に漂着した45商人が自らの属する国を﹁大清国﹂と称するなど︑民間人も含めてその用例が見出される︒
以上は各王朝ごとの国号呼称の在り方であるが︑それでは中国王朝は通時代的に自らをどのように呼称していたので
あろうか︒筆者の限られた見識から︑ここでは清朝時期の用例を中心にその答えを求めたいが︑王朝自身を指す言葉と67しては﹁天朝﹂あるいは﹁中朝﹂がそれに該当するのではないかと考えられる︒いずれもその用例は古代に遡り︑本来は㎎朝廷を指す言葉であったのが︑天下の中心に君臨する存在としてのその位置付けから︑他国に対する中国王朝の自称と
しても用いられていくようになった︒特により用例の多い天朝という言葉に着目すれば︑それはまさに﹁天下﹂﹁天子﹂
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と同一の観念に立脚したものであり︑一七九〇年の逞羅国王鄭華(ラッタナコーシン朝シャム王ラーマ一世)に宛てた文㎎書の中で﹁天朝は万国を撫駅し﹂と述べられているように︑﹁天﹂と向き合って全世界の国々の上に君臨するという中国
王朝の自己認識を直接に反映したものであった︒
このように︑近代以前における中国王朝の呼称は︑明らかに近代的な主権国家のそれとは異なる観念に立脚するもの
しな⑳であった︒清末における梁啓超の﹁吾人の最も漸悦する所の者は︑我が国に国名無きの一事に如くは莫し﹂という言葉
にいみじくも示されているように︑中国人自身による言葉としては通時代的に用いられる自国を指す固有の名称は存在
せず︑各王朝ごとの国号か﹁支那﹂﹁震旦﹂といった外国人による呼称の翻訳を除けば︑﹁天朝﹂﹁中朝﹂か︑もともとは﹁世
界の中心﹂という意味の普通名詞的な言葉として認識されてきた﹁中国﹂﹁中華﹂といった呼称のみが用いられてきた︒
それは特定の領域に限定されることなく︑全世界的な普遍性のもとに自らの存在を位置付けるという︑その独自の世界
観に由来するものであったのである︒
(2)近代における国号呼称と﹁帝国﹂の未定着
近代に至り︑こうした中国王朝の世界観は近代国際秩序を受容することで根本的な変更を迫られていった︒そのこと
は前述したように﹁大清国﹂から﹁大清帝国﹂へという国号の変更をもたらすこととなったのであるが︑その前提として
﹁帝国﹂という言葉の中国における受容の過程について︑先行研究の成果をもとに解明することとしたい︒
そもそも近代以前における中国での﹁帝国﹂という言葉の使用は︑極めて稀なものであった︒わずかに見出せる用例も︑物その意味は概ね﹁帝都﹂と同義のものであり︑今日の帝国概念とは無縁のものであった︒こうした状況は近代に至って
もしばらくの間変わらず︑例えば欧米各国との近代外交関係の樹立に当たり︑清朝は自らの固有の国号としては﹁大清
国﹂を条約などにおいて用いた︒欧米各国も自らの国号を漢字で表記するに際しては︑﹁大英国﹂・﹁大法国﹂(フランス)・﹁大麗美国﹂(アメリヵ合衆国)など大部分の国が﹁大○国﹂という形に翻訳し︑双方ともに﹁帝国﹂という呼称を用いることは
なかった︒
こうした事実を明らかにした上で︑今日的な﹁帝国﹂という言葉の使用が日本に由来することを突き止めたのが吉村囎忠典氏である︒それは江戸時代中期の日本において洋書翻訳の過程で創始されたものであり︑他地域へは近代に入って
伝播していくこととなった︒その中国における最初の公的な用例と考えられるのが一八九五年四月の下関条約であり︑伽そこでは﹁大日本帝国﹂とともに﹁大清帝国﹂という呼称が初めて用いられたのである︒しかしながら︑氏も指摘するよ
うに﹁帝国﹂という言葉は直ちに定着したわけではなかった︒その後清朝が対外交渉において自らを﹁大清帝国﹂と称し
た事例を求めれば︑わずかに同年一一月の日清遼南条約と一八九九年九月の清韓通商条約締結に際し︑署名の肩書でそ%れそれ﹁大日本帝国﹂﹁大韓帝国﹂とともに併記されたのを見るのみである︒条約の本文においてはいずれも﹁大日本国﹂
﹁大韓国﹂と併記される形で﹁大清国﹂が用いられており︑これらの用例は基本的に相手国と対等な形で国号を名乗ろう
とした結果によるものと考えられる︒
この様に︑一九世紀末の時点に至っても︑なお中国においては自らの言葉として﹁帝国﹂が用いられることはなかった︒
漢字文化圏に属するもう一つの国である朝鮮においては︑一八九七年一〇月の帝制実施により国号を﹁大韓帝国﹂と改鵬め︑一足先に﹁帝国﹂という言葉を受容したことで︑中国との条約締結に際しても上述したように用いられたのだが︑清
朝は以後末年に至るまで対外的には﹁大清国﹂の国号を使用し続けた︒吉村氏の考察はここまでで終わっており︑中国
における﹁帝国﹂の受容とその概念の定着の過程は︑未解明の問題として存在してきたのである︒
(3)﹁帝国﹂の受容と定着‑梁啓超の議論を中心に
中国人自身による﹁帝国﹂の使用は︑基本的に二十世紀に入ってからのこととなった︒それは同時期における中国社
会の変革と軌を一にした出来事であり︑特に学術面での日本からの影響が大きく関わっていった︒ここではそうした動
きをリードした人物である梁啓超の言説を題材に︑その過程を分析していきたい︒
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