﹁家庭の和楽﹂から社会主義へ
!
明治思想史の中の堺利彦1
尾 原 宏 之
目次 ゜
はじめに1堺初期家庭論の再検討
︑第一章 ﹃家庭の新風味﹄と福沢諭吉の家族論
一︑﹁多大の感化﹂の意味
二︑福沢家族論との差異︵一︶﹁家族制度﹂の現実
三︑福沢家族論との差異︵二︶﹁夫婦同権﹂論と男女不平等
第二章﹁家庭の和楽﹂と近代家族論
一︑﹁和楽﹂の社会構想
﹁家庭の和楽﹂から社会主義へ ︵都法四十五ー二︶ 三一七
三一八
二︑﹁情﹂の世界と﹁天然の趣味﹂
三︑社会主義への転化
結びに代えてー﹁和楽﹂の功罪
はじめに 堺初期家庭論の再検討
﹁日本社会主義の父﹂と呼ばれる堺利彦︵一八七〇ー一九三三︶が著した論考のうち︑家庭・女性問題に関するも
のは︑かなりの比率を占める︒それらば堺が社会主義者を自認する以前︑﹃萬朝報﹄記者時代からのテーマであり︑
昭和期まで続いている︒
堺の生涯に渡る女性論を分類した鈴木裕子は︑﹁福沢諭吉の市民的男女平等論の強い影響を受け︑展開した﹂﹁家庭
改良論の相貌を色濃くおびている﹂第一期︑﹁まだ改良論の影響から脱しきっておらず︑かなりのアイマイさを呈し
ているが︑堺の社会主義運動へのコミットの度合︑社会主義への理解が深まるにつれ︑女性問題への階級的把握が次
第に明確になっていく﹂﹃家庭雑誌﹄の第二期︑そしてその後の第三期に分け︑第一期の中心に一九〇一年から二年 ︵1︶ にかけて六分冊の形で発表された﹃家庭の新風味﹄を置いた︒このテクストは︑堺が文筆家として知名を成す契機と
なった著作であり︑﹁新しい家庭の姿を﹃夫婦同権﹄に求めた﹂点が特徴とされている︒後の社会主義者の眼から見
れば﹁限界﹂は明らかで︑自他共にそれを未熟な作品と見なしてきた︒
実際︑堺の思想は﹃家庭の新風味﹄刊行直後から大きな変貌を遂げる︒家庭・女性問題の解決のためには﹁社会制
度−経済制度の革新﹂︑つまり︑社会主義革命を行う以外ないという考えが前景化し︑家事全般の改善から手みやげ
の廃止まで︑個別具体的かつ愚直に解決策を提示する家庭改良論には︑あまり目が向けられなくなった︒特に︑エン
ゲルス﹃家族・私有財産及び国家の起源﹄をはじめとする精力的な唯物史観の受容以後︑それは顕著である︒社会改
良論のヴァリエーションでしかない﹃家庭の新風味﹄など︑﹁古物﹂そのものと言えるだろう︒
ところが︑ソ連邦崩壊に象徴されるマルクスーーレーニン主義の全面的退潮以後︑かかる﹁古物﹂としての性質に逆
説的な関心が集まっている︒﹃家庭の新風味﹄をはじめとする初期の家庭改良論・社会改良論が︑マルクス主義文献
の輸入・翻訳ではない社会主義の価値や魅力を﹁再発見﹂しようとする人々によって読まれ︑言及されてきているの
だ︒
この再評価の試みは︑堺における社会主義の淵源を﹁家庭﹂という﹁親密圏﹂に見出し︑マルクス主義直訳の社会
主義とも︑幸徳秋水らの﹁志士仁人の社会主義﹂とも全く違った独特な社会主嚢想であることを指摘圭・萌治
時代の堺利彦は・得意の名文で・宣伝啓蒙の活動はやったが・正直なところ・独創的な労作は残していな壕という
山辺健太郎の意見に代表される︑思想家・理論家としての堺の﹁能力﹂にまつわる通説を見直す一助となっているこ
とは確かであろう︒
だが︑﹃家庭の新風味﹄で描かれる社会構想を生み出す元とされるアイディァ群は︑決して堺のオリジナルではな レ い︒福沢家族論のあからさまな剥窃と思しき箇所もあれば︑その意味内容を大幅に換骨奪胎して展開している箇所も
ある︒また︑分冊の一つを割いて詳論している概念に﹁家庭の和楽﹂があり︑﹁近代的家族﹂や﹁親密性﹂をキーター
ムとして堺の家庭論を捉える際の機軸となっているが︑﹁家庭の和楽﹂自体は︑巌本善治や徳富蘇峰らによって堺以
前から様々な意味で使用されていた概念である︒これらの先行者と堺の差異がどの辺りにあり︑何が決定的に堺の思
﹁家庭の和楽﹂から社会主義へ ﹁ ︵都法四十五ー二︶ 三一九・
三二〇
想を特徴づけるのか︑未だ明らかであるとは言えない︒
本稿は︑堺と先行者たちの家庭論における異同を出発点として︑堺の家庭論さらには社会主義を明治思想史の中に
位置づけることを目的とする︒﹁男女同権﹂コ夫一婦制﹂﹁家庭の和楽﹂などの概念における違いは何か︒堺の家庭
論のオリジナリティを造型しているものは何か︒家庭論はどのように社会主義と接続されているのか︑そして︑後の ら 社会主義は堺から何を引き継ぎ︑何を引き継がなかったのか︒何故堺は﹁日本社会主義の父﹂と呼ばれるのか︒
さしあたり︑﹃家庭の新風味﹄における福沢の影響に焦点を絞って検討する︒
第一章 ﹃家庭の新風味﹄と福沢諭吉の家族論
一︑﹁多大の感化﹂の意味
︵6︶ ﹃家庭の新風味﹄六冊は︑堺本人の証言によれば︑福沢諭吉の﹁多大の感化﹂によって書かれた著作である︒故に︑
後に社会主義者を自認するようになった堺自身︑また彼の後進たちは︑それを﹁漠然とした﹂社会改良思想と見なし︑
社会主義に﹁到達﹂する以前の未熟な作品として位置付けてきた︒
しかし︑社会改良と社会主義の思想に序列をつけ︑厳密に区分して論じることなどはそもそも出来ないから︑それ
だけの理由で安易に葬り去るわけにはいかない︒本章では︑﹃家庭の新風味﹄を中心とする堺の家庭論と福沢の家族
論・女性論との異同を見ることで︑堺のオリジナリティを逆照射してみたい︒
ノ
﹃家庭の新風味﹄の﹁序﹂において︑堺は著述の意図を以下のように述べた︒
予はこの叢書において別段新意見を発表し新趣味を説教するのではない︒只家庭に関する現時のもつとも進歩したる意見及び趣 ︵7︶ 味を代表したつもりである︒
確かに︑六冊を一瞥すればわかるが︑特段独自の思想が展開されているわけではない︒
| 第一冊﹁家庭の組織﹂では︑﹁動かすべからざる天然の約束﹂である一夫一婦制を基礎とした家庭︑﹁民法の精神﹂
に基づく結婚と離婚︑売買春や蓄妾への社会的制裁︑舅姑の別居︑﹁夫婦同権﹂などを説いた︒
第二冊﹁家庭の事務﹂では︑家庭においては﹁秘書官﹂であり︑﹁大蔵大臣﹂であり︑﹁内務大臣﹂でもある妻によ
る﹁家内一切の事務﹂の遂行︑住まい・食事・衣服の改良︑近隣・親戚・友人との活発な交際や︑内職のすすめなど
を説いた︒
第三冊﹁家庭の文学﹂では︑新聞・雑誌・書籍購読︑日記の習慣︑手紙の書き方︑﹁しろうと和歌﹂﹁しろうと俳譜﹂
による﹁文学趣味﹂の養成を説いた︒
第四冊﹁家庭の親愛﹂では︑﹁相見るー相思ふ1相親む1相知る1相信ずー相尊ぶ1相和す1相愛す1相化す1相
合す﹂というプロセスを経て︑夫婦が﹁親愛﹂を深め︑それが家族全体に及んでいく様を説いた︒
第五冊﹁家庭の和楽﹂では︑食事︑談話︑宴会︑物見遊山︑遊戯など︑一家団簗の仕方を説いた︒
第六冊﹁家庭の教育﹂では︑﹁家風﹂による妻子の感化︑子供を﹁あつかりもの﹂として尊敬する教育︑女子体育
の必要性などを説いた︒
﹁家庭の和楽﹂から社会主義へ ︵都法四十五ー二︶ 三二一
三二二
また﹁補遺﹂として︑家屋改良︑洋服改良︑独身論などを説いた︒
字面だけみれば︑福沢のみならず巌本善治や徳富蘇峰など︑多くの論者によって繰り返し繰り返し主張されてきた
事柄ばかりである︒
堺が﹃家庭の新風味﹄を書く際に参照したと思われるのは︑福沢の﹃女大学評論﹄﹃新女大学﹄である︒一八九九
︵明治三二︶年の堺の日記には︑以下のような記述がある︒
︵8︶ 時事新報の女子論を読む︑至極よしと思ふ︑予も今後此事につき研究し実行せんと欲す︒
この日記の書かれた四月九日は︑﹃時事新報﹄紙上において﹃女大学評論﹄第四回が掲載された日であった︒婦人
の七去︑舅姑への孝行︑主人への服従なゼ︑儒教の﹁女教女道﹂を説いた﹃女大学﹄︵貝原益軒の著とされる︶への
批判を通して︑同時代の女性に対する抑圧を糾弾した﹃女大学評論﹄は︑同年=月に﹃新女大学﹄とあわせて刊行
された︒ 堺が﹃萬朝報﹄紙上の﹁ようつ文学﹂欄で家庭や婦人問題について言及しはじめたのはまさに同月のことである︒
﹃日本婦人﹄﹃日本廼家庭﹄などの婦人雑誌・家庭雑誌を槍玉に挙げ︑﹁明倫歌集釈解︑徒然草講義︑かやうなものが ︵9︶ ︵10︶ 何になるべき﹂ ﹁女学を云々する人々が兎もすれば紫女清女をかつぎいだすは心得ざる事なり﹂と︑当時の雑誌の和
文偏重に対する批判をもって家庭・女性問題に対する取り組みを始めている︒
ところで︑福沢もこの問題については﹃女大学評論﹄などで既に言及している︒﹁遊芸和文三十一文字などの勉強 ︵11︶ を以て女子唯一の教育と思ふは大なる間違ひなる可し﹂︑また﹃新女大学﹄でも﹁古文古歌の故事は往々浮華に流れ
て物理の思想に乏しく言葉は優美にして菱は婬風に逸するもの餐Lと断じ・﹃時事新報﹄論説上でも二お姫様︑ お 流の女子を造るの一方に勉め﹂る﹁従来日本の家庭に行はる・女子の教育法﹂を厳しく論難した︒
福沢の和文偏重教育批判は︑女子が﹁文明普通の常識﹂︑すなわち﹁物理生理衛生法の初歩より地理歴史等の大
略﹂︑さらには﹁経済思想と法律思想﹂などを学ぶ必要性を強調する意図があるのに対し︑堺はそこまで踏み込んで
議論していない︒もっぱら婦人雑誌や女学雑誌が﹁奥様・姫様・乃至は奥様ぶる者・姫様ぶる亀の虚飾性・︑形式主
義を助長育成していることを糾弾するに止まっている︒﹁紫女清女﹂の代わりに何が来るべきか︑具体的に指示する
わけではない︒福沢の女学批判と形式は類似しているが︑堺の方は何を訴えたいのか釈然としない︒
﹃家庭の新風味﹄において︑福沢の影響が最も色濃く現れている部分は第一冊﹁家庭の組織﹂である︒とりわけ︑
民法親族編・相続編への言及に顕著である︒福沢の﹃女大学評論﹄﹃新女大学﹄が書かれた契機自体が民法親族編・
相続編の成立そのものにかかわっている︒
一八九八︵明治三一︶年七月︑穂積陳重︑富井政章︑梅謙次郎を起草委員とする民法親族編パ相続編が施行された︒
︑ ちょうど一年後の九九年七月には︑治外法権の撤廃︑関税自主権の一部回復を含む日英通商航海条約など列強諸国と
の新条約の発効が予定されており︑内地雑居という政治日程が迫る中で︑﹁従来の儘なる我国男女間の関係﹂の﹁醜
態﹂が世界中に晒されることを福沢は恐れていた︒これが﹃女大学評論﹄﹃新女大学﹄発表の動機であるとされてい ︵15︶ る︒ ︐
ざる﹂当時の男女関係︑つまり女性には儒教主義の道徳を押し付けながら︑男性は﹁内に妾を飼ひ外に賎業婦を弄﹂ 、 @故に︑それらは単なる女学批判にとどまらない︒﹁儒教の毒﹂に冒され切って﹁毒中に沈没して其毒の深浅を知ら
ぶ﹁破倫醜行﹂を縦にしている状況そのものに対する批判であった︒
﹁家庭の和楽﹂から社会主義へ ︵都法四十五−二︶ 三二三
三二四
その際福沢が﹁世人の改新﹂の﹁味方﹂とするのが︑﹁夫婦間の権利︑即ち離婚の条件︑財産の処置法﹂などを規
定した新民法である︒言及する民法の条文は︑
第七七二剰子力婚姻ヲ為スニハ其家二在ル父母ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス但男力満三+年女力満二+五年二達シタル後ハ此限二
在ラス および︑
第八二一一条 夫婦ノ一方ハ左ノ場合二限リ離婚ノ訴ヲ提起スルコトヲ得 ︵18︶ で挙げられた離婚の条件十箇条である︒
前者に関して福沢は﹁父母の同意﹂という個所の意義に焦点を当てる︒
婚姻は人間の大事なれば父母の同意即ち其許なくては叶はず︑なれども父母の意見を以て子に強ふるは尚ほく叶はぬことな
︵曜・
つまり︑民法上の年齢に達している︑いないに関わらず︑子へ結婚を強制することの非︑そして︑親子間の﹁相談﹂
と﹁同意﹂の必要性を説いている︒後者に関しては︑
今日我国民一般に守る可き法律に於て︑離縁を許すは以上の十箇条に限り一其外は如何なる場合にても双方の相談合意に非ざれ
ば離縁するを飴・
と夫婦間の﹁相談﹂﹁合意﹂の重要性を説く︒夫婦に家事経営上﹁内外の別﹂はあっても︑﹁尊卑の階級﹂があるの
ではない︒一切万事対等である︒屈服したり︑させたりしてはならない︒これは﹁結婚の契約より生じたる各自の権
︵21︶ 利﹂である︒
明治年間の離婚件数や離婚率の高さ︑新聞に掲載された実例を豊富に取り上げた有地亨の研究を参照しても分かる
ように︑伝統的に婚姻︑離婚に対する社会統制が極めて弱い精神風土のゆえに︑夫は﹁棄妻にひとしい離婚﹂や﹁妾 ︵22︶ 制度の公認﹂などによって︑﹁妻に対して強力な夫権を意のままに行使﹂してきた︒鹿野政直も︑﹁﹃教育勅語﹄で﹁夫
婦相和シ﹂と教えられた国の実態トとして︑一八九二︵明治二五︶年に三二︑五%を記録した﹁離婚率の途方も無い
高さ﹂の大部分が﹁家風や嫁姑の間柄や子供ことに男児のないことや病気を理由とする離縁の女性への一方的な申し ︵23︶ わたし﹂であったことを指摘している︒この︑﹃女大学﹄の﹁婦人の七去﹂を地で行くような状況こそ︑福沢にとっ
て取り組むべき急務だったのである︒ . ・ ︐ ︑
ところで福沢は︑親子︑夫婦間の﹁相談﹂﹁合意﹂の必要を力説するが︑若い男女が自由に出会って相互に合意し
あう婚姻は︑少なくとも﹃女大学評論﹄﹃新女大学﹄では認めていない︒﹁男子女子の為めに配偶者を求むるは父母の
責任﹂である︒もちろん︑子供の意志が無視されるということではない︒本人に強制することは出来ない︒封建社会
の﹁切り捨て御免﹂が実際は建前に過ぎなかったように︑﹁娘の嫁入を強ふる﹂﹁情け知らずの人非人﹂は例外的存在
である︒ ︑L
もっとも︑親が配偶者を求める慣習は︑いわゆる﹁文明史﹂の流れで見た場合あくまで暫定的な処置である︒福沢
にとっての究極的な男女関係の理想は︑﹁社会全体に男女交際法の区域を広くし︑之を高尚にし︑之を優美にし︑所
謂和して乱れざるの佳境に進めて自由自在﹂な状態である︒だが︑例えば芸妓を弄ぶ﹁浮世男子﹂が横行する﹁肉交
あるを知て情交あるを知﹂ぬ﹁男女交際法の尚ほ未熟なる﹂今日においては︑それを実際に行うことは出来ない︒安
易な﹁フリーラヴ﹂︵相愛の自由シの実行は︑﹁卒然結婚し︑卒然離婚し︑濫合濫離﹂する﹁禽獣﹂の横行する社会と
なるに違いない︒﹁フリーラヴ﹂が実現されるのは︑﹁天下有志の善男善女が躬践実行して実例を示し﹂た後の︑未来 ︵24︶ の目標である︒
﹁家庭の和楽﹂から社会主義へ ︵都法四十五−二︶ 三二五
三二六
福沢にとって明治の日本という時点で問題とされるのは︑あくまで不品行を縦にしておきながら女子を圧迫する男
子であり︑当座は西洋文明に従ってコ夫一婦借老同穴﹂︑一夫一婦制を﹁天然の約束﹂﹁人倫の至重﹂として確立す ︵25︶ ることが目標であった︒
さて︑堺はこれらの問題をどのように処理しているだろうか︒﹃家庭の新風味﹄第一冊﹁家庭の組織﹂においては︑
福沢同様︑一夫一婦制を﹁動かすべからざる天然の約束﹂と規定する︒西洋文明を当座の目的とする点も同じである︒
文明の社会では兎も角も一夫一婦ときまつてゐる︒文明の最も進んだ社会と称せられる欧米諸国では︑一夫一婦制が最も厳重に ︵26︶ 行はれてゐる︒
︵27︶ 望ましい結婚・離婚もまた﹁民法の精神﹂に依拠したものである︒﹁自由結婚論﹂も﹁自由に交際すると云つても︑
日本国中の青年男女が皆互に往来するといふ訳には行かず﹂﹁心を冷かに持つて︑間違なく先方の人物を見定める事
が出来るものではない﹂という理由から︑﹁全部に賛成することは出来ぬ﹂とする︒これは︑福沢のように文明の発
展に伴って実現されるべき男女関係の理想はあるが当座の日本の状況を踏まえて反対︑ということではない︒堺によ
れば︑﹁自由結婚論﹂は﹁親まかせの結婚﹂という﹁今日の習慣﹂への﹁反動﹂として出てきたものであるから︑福
沢と同じように親子間︑男女間の﹁同意﹂を最重要視しつつも﹁是れまでのやうに親が定めて子の同意を求めるので
はなくて︑子が定めて親の同意を求める﹂結婚ヘシフトすべきだとする︒つまり︑民法の該当条文を字面通りに読む
ことの提起である︒
また︑﹁婦人を家畜や財宝と同じやうに思つている﹂﹁野蛮の社会﹂の風習である﹁妾﹂を持つこと︑さらには﹁当
分の妾﹂二夜の妾﹂である﹁芸妓︑娼妓の類﹂と接することに対して︑厳しい社会的制裁を要求する︒社会的制裁
にとどまらない︒︐堺は八〇八条の﹁協議離婚﹂の精神を重視した上で︑八=二条について検討を加え︑民法上に明記 ︵28︶ された姦通についての男女差別を指摘する︒
二 妻力姦通ヲ為シタルトキ
三 夫力姦通罪二因リテ刑二処セラレタルトキ︵傍点引用者︶
テ この二つの差に注目し︑三を二と同様﹁夫が姦淫をなしたるとき﹂に改めるべきとする︒さらに︑刑法上に﹁有夫
姦の罪﹂だけではなく﹁有妻姦の罪﹂を定めよ︑と主張する︒福沢の場合︑離婚によって損害をこうむるのは常に妻
の方であるという認識があるし︑自ら﹁因循姑息﹂と認めつつも﹁完全無欠の品行を保たしめんとするは極めて難き ︵29︶ こと﹂だから︑法整備ではなく﹁不品行を犯すも之を秘密にして隠す﹂ことでモラルを維持すべき︑と論じたことも
ある︒堺もこれらの点に配慮してか︑あくまで権利面の話であることを強調し﹁道徳法律等の鏡の上には︑ちやんと
女子の権利を明かにして︑告訴の権利をもちやんと女子の手に握らせておいて︑其権利に対して男子の方から遠慮す
るやうにさせたい﹂のだと付言している︒
こう見て行くと︑﹃女大学評論﹄﹃新女大学﹄を始めとした家族論・家庭論の文脈は︑ほぼ堺本人の自己申告通り受
け継がれている︒特に︑新民法に規定された結婚︑離婚のすすめ︑蓄妾・売買春批判など︑﹁時務論﹂的な位相にお
いてそれは顕著である︒ところが︑この﹁家庭の組織﹂の中にも︑福沢からの継承面がはっきりと確認されると同時
に覆いがたい亀裂も発見されるのである︒とりわけ︑家庭・家族論の根幹ともいえる一夫一妻制を含む﹁家族制度﹂
﹁家庭の和楽﹂から社会主義へ . ︵都法四十五L二︶ 三二七
三二八
﹁男女同権﹂をどう捉えるのか︑という﹁原理論﹂的位相において露わになる︒
二︑福沢家族論との差異︵一︶﹁家族制度﹂の現実
堺は︑﹁結婚制度﹂を論じる際あれだけ﹁民法の精神﹂を持ち上げておきながら︑﹁家族制度﹂を論じる段になると︑
﹁民法は︑我国旧来の家族制度の皮をかぶつてゐるので︑到底今後の家族を説明するには足らぬ﹂と批判し始める︒
堺にとって︑家族とは﹁一人の男子と一人の女子﹂によって出来るものであり︑舅姑から新夫婦へ継承される家の歴
史は存在しない︒
家といふものが代々伝はつてゆく訳ではなく・一人の男子と天の女子とが結婚して・そこで新に家を作つてゆくので熟・
成人した男女にとって父母はもはや家族ではない︒﹁父母の家があつて︑其家から子が別れて︑新に一家を作るの
であるから︑子の家に父母のある筈はない﹂︒具体例としてあげられている﹁舅姑と嫁との争ひ﹂は︑そもそも家族
でない人間同士の争いである︒﹁従来の家族制度﹂を全廃する以外には︑解決しようがない︒どうしても舅姑が同居
したいなら︑家長と主婦︵息子とその嫁︶の指図を受ける立場に身を置かなくてはならない︒
福沢はもとよりラディカルに﹁家族制度﹂を否定していない︒確かに舅姑との﹁別居﹂を主張したが︑﹁之を家の む 長老尊属として丁寧に事ふるは固より当然﹂である︒あくまで﹁嫁姑﹂という血のつながった親子でないものを親子
のようにさせようとする無理を改め︑﹁天然の人情﹂に従って分離させ︑﹁之を遠ざくれば却て相引かんとする﹂﹁和
︵32︶ 合の法﹂を提示したものであった︒
堺が﹁家族制度﹂の存在を否定し︑﹁家庭﹂を個人同士の出会いに還元していくのは︑現実の社会において既に
﹁家﹂の観念そのものがゆらいでおり︑﹁家﹂の存続を願う考え方自体が非現実的だからである︒それは﹁中以下の ︵33︶ 社会の現在の有様﹂を見れば一目で分かる﹁事実﹂である︒
家が続いたとて禄扶持が続くではなし︑貧乏人の家には養子に来てくれる者はなし︑強いて続がせる必要もなければ︑又自然に ︵34︶ ︵ママ︶ 断絶する家も沢山に出来る勢ひである︒ 華族だの富豪だのと云ふ世襲財産のある所は知らぬ事︑我々無財産の平民に取つては︑昔流の家族制度は事実に於て行はれぬ事 ︵35︶ である︒是は議論ではない︑事実である︒
多くの論者が喝破してきたように︑世襲︑︑すなわち︑永続性をその属性とする﹁家﹂の実体は﹁家産﹂である︒そ
の﹁家産﹂なるものは︑士族出身である堺自らが見聞・経験したように︑すでに金禄公債証書一枚と引き換えに﹁士
族の商法﹂などで消えてしまったものであり︑また平民においても︑地券交付によって﹁処分自由﹂となることでとっ
くに消えてしまったものである︒
堺の﹁家族制度﹂否定は︑依拠する﹁家産﹂自体が実質的に解体されているにも拘わらず︑﹁旧来の家族制度﹂を
維持させようとすることへの批判であった︒﹁持たざる者﹂にとって唯一現実的なものは︑.一組の男女による新しい
﹁夫婦の生活﹂しかない︒
家族制度の機能不全︑旧弊に対する指摘は︑堺以前から存在していた︒これより九年前︑﹃家庭雑誌﹄第二号は︑
﹁家庭の和楽﹂から社会主義へ ︵都法四十五ー二︶ 三二九
三三〇
日本の家庭における﹁一大欠点﹂として﹁旧家庭を以て︑其宜く成るべき新家庭を呑併し︑児女の婚嫁をして他の家
庭に没入せらる︑手続きたらし﹂めていることを挙げた︒今の家庭は︑舅姑や夫の兄弟姉妹が嫁に恐怖と﹁痛心﹂を
与える﹁圧制組織﹂である︒ゆえに︑﹁若し之を悪まば新家庭をして直ちに独立せしむる﹂しか蕊・堺は・この議
論を継承しつつ︑﹁中より下﹂の社会層を見聞しかつ自ら経験することによって︑全く﹁家族制度﹂が行われるはず
もない現状をよりラディカルな形で糾弾した︒
また︑この論理を突き詰めていくと︑コ人の男子と一人の女子﹂の新しい家庭は︑やむを得ざる事実であるとい
うことになる︒コ夫一婦借老同穴﹂という福沢の﹁理想﹂が︑選ぶことのできない﹁現実﹂として読み変えられて
いるのである︒ここから︑後に一夫一婦制それ自体の道徳的無根拠性に対する疑問が発生してW但︒
福沢との分岐点はそれにとどまらない︒堺によって提起されたコ人の男子と一人の女子﹂が作る新しい家庭は︑
対等.平等の原理で作られるわけではないのである︒そこにより大きな溝が存在する︒
三︑福沢家族論との差異︵二︶﹁夫婦同権﹂論と男女不平等
堺の家庭論は︑福沢の﹁市民的男女平等論﹂の影響を色濃く受けているが故に意義と同時に限界が指摘されてきた
のであるが︑﹁男女平等﹂という観点からみれば︑実は福沢の地平よりもさらに﹁後退﹂している︒
堺が主張する﹁夫婦同権﹂論においては︑男女は﹁単純に夫婦として相対する監にのみ同権である・それは・夫
婦間で互いの貞操が問題となる時である︒男が﹁女に対して貞操を責める権利﹂を持つように︑女も﹁男に対して貞
操を責める権利﹂を持つ︒
これ以外の時は︑同権ではない︒通常の生活︑つまり﹁家庭の事務﹂を遂行する場合などにおいて︑コ人の男子
と一人の女子﹂は︑それぞれ家長・主婦という任務を割り振られる︒両者は対等平等ではありえない︒
家長と主婦とは決して同権でない︒然らば何故に男が家長になると極つてゐるかとの問が出るかも知れぬが︑それは男・の方が才
智も多し︑気象も強し︑体も丈夫で︑大体において女に優つてゐるからであらう︒何故に男が優つてゐるかと云ふに︑それは答へ ︑ ︵39︶ が出来ぬ︒ロバ︑それが天意︑それが自然と云ふの外はない︒ ︐
第六冊﹁家庭の教育﹂に至っては︑﹁夫は常に妻を導き︑妻を率ゐる心得が無ければならず︑妻は常に夫に導かれ︑ ︵40︶ 夫に率ゐられる心得がなければならぬ﹂とされる︒夫は常に﹁教育者﹂であり︑妻は﹁教育せられる﹂立場︑つまり
﹁師弟﹂である︒ ︵41︶ ︵42︶ 福沢にとっても︑コ家の内事を経営するは妻の職分﹂であり︑﹁家事経営に内外の別﹂はある︒だが︑あくまで﹁男︑ ︵43︶ 女の智愚は事柄に由て異なり︑場所に由て異なり︑即ち家の内事と戸外の事と其働く処に随て趣を異にするのみ﹂で
ある︒教育次第によっては︑女性が︑今まで男性のものとされてきた分野で能力を開花させることもある︒現に西洋
の女性には﹁物理文学経済学等の専門を修めて自から大家の名を成す﹂人物も多い︒能力差というものは︑妊娠出産
子供の養育という女性の生理現象や﹁職分﹂などによって教育が妨げられた結果︑主として学問上に現れるのであっ ︵44︶ て︑堺のように﹁天意﹂でも﹁自然﹂でもない︒﹁相互に尊卑の階級あるに非ざれば︑一切万事対等﹂である︒
堺の女性に対する見方は︑ここで福沢と大きな断裂を示し︑むしろ﹃勅語術義﹄に見られる女性観にぐっと近付く︒
﹁家庭の和楽﹂から社会主義へ ︵都法四十五−二︶ 一三三
︵
一二一二二
蓋シ妻ハ元ト体質屡弱ニシテ︑多クハ労働二堪ヘザルモノナレバ︑夫ハ之レヲ欄ミ︑カヲ極メテ之レヲ扶ケ︑危難二遇ヒテハ愈々
之レヲ保護スベク︑又妻ハ元ト智識才量多クハ夫二及バザルモノナレバ︑夫ガ無理非道ヲ言ハザル限リハ︑成ルベク之レニ服従シ
テ能ク貞節ヲ守リ・妄二逆フ所ナク・始終苦楽ヲ巷三ルノ念慮ナカルベカ壼・
少なくとも︑堺の男女の能力差についての言説は︑自由民権派の男女同権論者たちよりも︑堺に先行する家庭論の ゆ 著名である巌本などよりも︑遥かに古式ゆかしさが漂っている︒巌本に至っては﹁女性の体力は至つて弱し﹂﹁女子 ゼ の智力は男性に劣る所あり﹂などの﹁謬見﹂を列挙して︑これを逐一論駁している︒
この﹁夫婦同権﹂論は︑売買春・蓄妾に対する社会的・法的制裁の提起をした直後に登場し︑後に離婚の条件十箇
条の論評へと続く︒男女は本来対等平等ではありえないが︑一夫一婦制の遵守︑民法による結婚・離婚という福沢と
同じトピックを論じてしまったので︑不本意ながらやむを得ず部分的に男女の同権を認めざるを得なくなってしまつ
たような白々しさがある︒もしも本来的に男女が平等でないのなら︑また︑誰も平等だと思っていないなら︑誰が女 性の地位を向上させる努力を払うだろうか︒堺はこれを君主専制と立憲政治のアナロジーでしか説明していない︒も
ちろん︑この時代において男女差別観の方が世論であり共通認識だったことは間違いない︒だが不可解なのは︑福沢
のいわゆる﹁市民的男女平等論﹂に触れ︑福沢のテクストをなぞるようなトピックの選び方をして︑ほぼ同じ主張を
導いておきながら︑何故男女の能力差への飽くなき信仰を維持し続けることが出来たのか︑という点である︒それを−
解明する鍵は︑次章で試みる第五冊﹁家庭の和楽﹂を中心としたテクストの読み直しにあると思われる︒
第二章﹁家庭の和楽﹂と近代家族論
一︑﹁和楽﹂の社会構想
︵49︶ 第五冊﹁家庭の和楽﹂は︑冒頭から﹁親愛の情は春の日の暖かさ﹂﹁和楽とは春の日の光と微風﹂といった歯の浮
くような文言に面食らってしまう︒だが︑この分冊は堺の本質に触れる上で重要な意味を持っている︒
この分冊は︑福沢と共通する問題群である新民法︑︑一夫一婦制︑同権論︑女子教育論などから離れて﹁和楽団簗﹂
を実現するための処方箋のみを論じている︒故に︑明治啓蒙やキリスト教などの影響からある程度遮断された領域で
堺の家庭論が成立する瞬間を垣間見ることができる︒﹁家庭の和楽﹂を精読すると︑明らかに近代思想とは違う水脈
から流れ込んでいる考え方︑ものの見方があちこちに散見される︒﹃家庭の新風味﹄という著作全体が︑その﹁原思
想﹂と︑権利︑平等といった近代の問題系が相互に絡み合い︑せめぎあいながら成立している著作であることが明ら
かになる︒堺の民法論や同権論がどこか白々しい印象を受けるのも︑堺本人が根強く﹁啓蒙﹂を拒否する思想を持っ
ているからである︒
堺にとって﹁家庭の和楽﹂とは︑﹁夫婦︑親子︑兄弟等の間の︑真の親愛の情が︑色に︑形に︑現はれた所﹂であ
り﹁春の日の光と微風﹂にたとえられる︒
春の日の光と微風とが家庭に満つれば︑其光に照されて︑其微風に吹かれて︑そこに様々の花が咲き出でる︒其花の色をめで・︑
﹁家庭の和楽﹂から社会主義へ ︵都法四十五ー二︶ 三三三
三三四
其花の香に錺れて︑蝶が来る︑蜂が来る︑鳥が来る︒蝶と蜂と鳥とは親戚と友人と隣人とである︒斯くて家庭が真に極楽の如く
になるのである︒
このように述べた後で︑一家団簗の食卓︑来客の接遇︑宴会︑散歩や物見遊山︑遊戯などについて論じていく︒
堺の﹁家庭の和楽﹂論の特徴は︑﹁和楽﹂が血縁によって結ばれた一家族のみならず︑﹁親戚﹂﹁友人﹂﹁隣人﹂にま
でどんどん拡大して行き︑不断の﹁交際﹂によって﹁家庭が真に極楽の如くになる﹂という点である︒様々な来客と
互いに打解けあう愉しみを創出すること全てが﹁家庭の和楽﹂なのである︒例えば︑目下の宴会は料理屋で行われ︑
芸妓が入る男の世界の愉しみであるが︑﹁細君と娘子とを交えた宴会﹂に変えなくてはならず︑家庭でこそ行なわれ
なくてはならないものだと主張される︒
堺における﹁家庭﹂は︑血縁の範囲ばかりか人畜の区別をも越え︑犬︑猫︑鶏︑植物などに果てしなく拡がってい
く︒
家庭の和楽の基は要するに夫婦の相和するに在るので︑それが老パ八に及び︑小供に及び︑家族一般に及び︑親戚に及び︑友人に
及び︑動物植物に及び︑悉くの者が夫婦の和を中心として相楽むのが・即ち家庭の和楽で麺・
また︑家庭は地理的にも﹁延長﹂する︒
と擁ど.﹂までも引き延ばす事が出来ゑ持出す事が出来隻を家庭の延長と一云ふ.我輩は盛に此家庭の延長をはやらせたい
﹁山の中でも︑海の上でも︑汽車の中にでも︑往来の途申にでも︑到る処に家庭を移して︑そこに和楽の有様を現
ずる﹂ことができる︒﹁散歩﹂﹁物見遊山﹂﹁旅行﹂などを通して︑︐何処までも広がっていく︒音楽会︑絵画彫刻の展
覧会︑動物園︑はては議会の傍聴︑裁判の傍聴︑そして何より︑﹁人の少ない景色の善い︑気のせいくとする様な
所﹂へ行って見ること︑﹁天然の趣味﹂に触れることの重要性が説かれている︒
﹁家庭の和楽﹂という提案自体は︑巌本らの﹃女学雑誌﹄︑蘇峰らの﹃家庭雑誌﹄において盛んに取り上げられて
≡ いた︒堺がその形式主義や虚飾性を槍玉に挙げた婦人家庭雑誌﹃日本の家庭﹄も︑発刊の目的に﹁家庭の和楽﹂をか ︵53︶ かげている︒
これらの先行する﹁家庭の和楽﹂論と堺のそれの質的差異は何か︒例えば︑蘇峰による﹃民友社家庭叢書﹄の第一
巻として発行された︑﹃家庭之和楽﹄を例にとってみよう︒そこでは︑﹁一家共稼ぎは︑家に独立を生し︑家に独立あ
︑ ︵54︶ れば家政に余裕あるを証し︑余裕あるは家庭に和楽あるを証す﹂という考えから︑妻も内職などの仕事を持ち︑勤労
を中心とした生活を営むことで︑倹約︑勤勉︑謙遜などの美徳11﹁平民的家風﹂を養うことが﹁家庭の和楽﹂の必要
条件であると説かれている︒
その﹁和楽﹂する家庭像は︑︐極端とも言える閉鎖性を持っている︒例えば︑倹約の精神からも﹁下脾﹂を置く事に
反対するのだが︑その理由からだけではなく︑﹁他人を家庭に入る・時は家族団簗の和楽上に妨害を来すこと勘から 7 る ず︑真の家庭の和楽は水入らずの家族に限れり﹂と︑異者を徹底的に家庭内から排除したい強烈な欲求がある︒それ
ばかりではない︒﹁近所交際﹂も︑﹁若し不善なる隣人と交際せば家庭の上に非常なる悪徳を及ぼす事あり﹂として︑ ﹁為さる方得策なり﹂と断言している︒また︑﹁他人打混りて遊楽を為す﹂﹁家外の楽﹂に比べて︑﹁家庭の楽﹂‖ む 家内でのコ家団簗の楽﹂ほゼ﹁尊くして面白きものはなし﹂とする︒社会に蔓延する﹁驕奢﹂などの無数の罪悪か
﹁家庭の和楽﹂から社会主義へ ︑ ︵都法四十五ー二︶ 三三五
三三⊥ハ
ら︑家庭を隔離・保護する必要があるからである︒
蘇峰は︑﹁家庭叢書﹂を発刊する動機として︑コ家治りて一国治り︑一国治りて天下治る︒一家修りて一身修ま お る︒一身修まりて神人和合す﹂と︑﹃大学﹄の八条目の﹁修身斉家治国平天下﹂の論理に従いつつ︑﹁一家﹂をコ国﹂
1﹁天下﹂︑﹁一身﹂1﹁神人和合﹂の結節点におく︒家は﹁天下の治乱興廃﹂﹁個人の正邪︑善悪︑吉凶︑禍福﹂双
方に関係する︒﹁善良な家風﹂を創出し広めることは︑﹁新日本の健全にして堅固なる地盤﹂を築くことである︒﹁和
楽﹂はその健全で善良な家庭作りに役立つ限りにおいて必要である︒﹁純粋なる家族︑異分子を雑へさる家族︑真実
を以て万事を貫く家族︑何事も相談つくにて行はる・家族︑品行正しき主人と貞淑にして勤勉なる細君を以て組織し
たる家族︑老人は福々しく小児は楽敷家族︑何事も光明にして一家の内水晶箱の裡に在るが如き家族﹂のみが︑コ め 国の最善最良なる市民﹂を生み出すことが出来る︒
だから︑蘇峰型の﹁家庭の和楽﹂論は様々な意味における労働力の再生産の問題︑教育の問題と切り離すことが出
来ない︒例えば︑﹁娯楽﹂にしても﹁蒸気機関も火の力を加ふることなくては運転するものにあらず︒人も娯楽する ことなしには働けるものにあらざる也﹂︑つまり︑﹁労働の資本﹂﹁労働の必要﹂のために必要なのである︒家庭にお ける団簗の会話も︑子供に対する﹁教訓﹂︑子供との﹁修身談﹂などが重視される︒
﹁ホーム﹂の﹁和楽︵くわらく︶団簗﹂について先駆的に論じた巌本の﹃女学雑誌﹄も同様である︒ ヨ ﹁和楽︵たのしみ︶なき家族より起こる害毒︵わざわい︶﹂を列挙し︑第一に﹁健全清潔﹂な家内の遊楽による﹁当
に得らるべき所の幸福﹂が得られない宝呈母︑第二に家庭中が不愉快な関係であることによって働き手の労働の損耗が
癒されず︑労働力の日々の再生産が阻害されるH国家に損害をあたえる害毒︑そして三番目に﹁和楽せざる家族﹂は
﹁喧嘩の市場﹂﹁悪口罵署﹂﹁所行裏表に陰陽ある﹂家族であり︑それを見て育つ﹁尤も愛すべき幼年の子供﹂の生育
1
に悪影響をおよぼす害毒を指摘した︒
︵63︶旧呆を破りて新らしき日本帝国を造り数千年来の悪習慣を去つて新鮮清潔なる真正の文明を組立るものは未来の幼児にあらず
や
巌本は︑恐らく︑蘇峰も︑この問題意識から離れ去ることはない︒
堺は﹁家庭の和楽﹂の後の分冊である﹁家庭の教育﹂において︑﹁相愛して子を産みそれを独立の人に育てあげる﹂ ︵64︶ 教育と﹁相愛して家を成し︑そこに和楽の有様を現ずる﹂ことを︑二つ別個の﹁家庭の目的﹂として区別する︒﹁教
育﹂と﹁和楽﹂は内在的に連関していない︒子供は﹁次の社会の働き手﹂であり︑神に対しては﹁さつかりもの﹂︑ .社会に対しては﹁あつかりもの﹂であるから尊敬を持って教育しなくてはならないとは説かれるが︑夫婦から親戚︑
友人︑隣人から果ては老人︑子供︑鶏︑植物にまで水平に拡がっていく﹁和楽﹂とは全く別の論理である︒﹁和楽﹂
は﹁和楽﹂だけのために純粋に存在しており︑国家︑社会︑後世に益するかどうかという観点では問われていない︒
教育を論ずる際の人間関係のあり方と︑和楽を論ずる際のそのあり方には原理的差異がある︒﹁家庭の教育﹂におい
ては︑﹁家長﹂たる夫が自らの﹁職業柄﹂︑﹁生涯の主義方針﹂に従って新しい﹁家風﹂を創出し︑家族を感化しなく
てはならない︒そこでは︑家長−主婦ー家族という格差のある関係が前提とされている︒子供は﹁国家の為︑社会の の 為︑次の時代に立働いて︑一廉の仕事をせねばならぬ者﹂であり︑﹁父母が一身一家の私利を思はず︑常に社会の為 ︵65︶ 国家の為に尽すを見﹂ることによって﹁世に立つの道を悟る﹂︒親子は垂直的に感化・継承する関係である︒ ︐−
しかし︑﹁家庭の和楽﹂における人間関係の基礎は﹁単純に夫婦として相対する時﹂の関係︵堺において唯一対等
﹁家庭の和楽﹂から社会主義へ ︵都法四十五ー二︶ 三三七
三三八
平等な﹁夫婦同権﹂関係︶である︒それは︑﹁家長と夫婦との関係﹂や教育を行う際の﹁師弟として︵若しくは兄と
妹として︶の関係﹂とは区別されている︒﹁家庭の和楽﹂は︑単純に夫婦として相対する関係から水平に発展してい
くのである︒
松本三之介が指摘したように︑﹁明治国家にもっとも適合的な︑﹁家﹂という独自の家族像﹂の特質が﹁ファ︑︑︑リー﹂
としての家族すなわち﹁血縁的生活共同体﹂と﹁家長︵戸主︶対家族という権力関係﹂の﹁二重性﹂にあるとするな . 誌・堺の豪庭の和楽Lの論理は・徹底的にプリミティブな人間関係の悦びに︐﹂だわり抜くことで権力関係の侵入
を拒否し︑そして︑逆にこのプリミティブな人間関係を同心円的に拡大することによって新しい社会を生み出そうと
するものである︒それは︑﹁家族を国家に模して形づくる﹂のではなく︑﹁血縁的生活共同体﹂のつながりをもとに社
会を形成しようとする試みである︒
堺は︑﹁家庭の教育﹂の末で以下のように述べる︒
只一つ奇麗な清潔な平和な愉快な︑安気な︑小さい組合がある︒それが即ち家庭である︒此の家庭に於ては︑夫は我身を思ふ如
く妻を思ひ︑妻は我身を思ふ如く夫を思ひ︑親は我身を忘れて子を思ひ︑家族は互いに我儘を控へて人の便利を計る︒実に是れ理
想の交りである︒我輩の考ふる所によれば︑将来の社会は︑一国家にせよ︑全世界にせよ︑すべて此の家庭の如き組合にならねば
ならぬと思ふ︒社会の人が総て夫婦︑親子︑家族の如く相愛し︑相譲つて共同生活を営むのが︑即ち理想の社会であらう︒して見
れば今の家庭は理想の社会の雛形である︒雛形と云ふよりは種とも芽とも云ふべきで︑此家庭より漸々に発育成長して︑終に全社 ︵67︶ 会に及ぼすべきものである︒
この一文は︑﹁家庭の教育﹂の末尾に書かれている︒しかし︑そのコアにおかれている﹁我が身を思ふ如く﹂相手
を思うありさまは︑﹁家庭の和楽﹂の中心に位置する﹁親愛の情﹂そのものである︒家庭教育の論理よりも﹁和楽﹂
の拡がりの論理で﹁理想の社会﹂像は構築されている︒
二︑﹁情﹂の世界と﹁天然の趣味﹂
キでに述べたように︑﹁親愛の情は春の日の暖かさ﹂﹁和楽とは春の日の光と微風﹂であり︑和楽の実体は﹁親愛の
情﹂である︒家庭を訪ねる来客は︑﹁利益の為に来る客﹂と﹁人情の為に来る客﹂に分けられ︑後者は数でこそ少な
いが﹁それぞれの情を持つて我家を暖めにくる﹂人々であり︑彼らとの﹁交際﹂は﹁情をもつてくる人を︑情をもつ
て迎へる﹂ことである︒人情を持ってくる来客とは︑たとえ言葉を交わさずとも﹁相和ぎ︑相楽む﹂ことができ︑打
解け満足しあうことができるとされる︒言葉︵一〇〇q8︶がなくとも﹁情﹂がありのままに発現され﹁情﹂によって充
たざれることが︑堺にとっての﹁家庭の和楽﹂そのものなのである︒
例えば︑﹁家庭の和楽﹂の一項目である﹁遊戯﹂の説明においては︑ボート漕︑テニス︑歌かるた︑鬼事など﹁団 体的の遊戯﹂を推奨する︒
命令を下す者も︑受ける者も︑皆只めいくの分業を守るので︑上下もなく︑貴賎もなく︑威張る事もなく︑閉口する事もない︒ 斯くの如く秩序瞳く立つて公平に出来て居るのは︑即ち実際生活の縮写であ奮同時に我々生活の理想である︑実際生活の欠点
を除いたものである︒
﹁家庭の和楽﹂から社会主義へ ︵都法四十五−二︶ 三三九
三四〇
これは︑﹁其法律を守り︑約束を守り︑ズルをせず︑ゴマカシをせず︑人に媚びず・.・おのく其職分を守り︑
おのく其力を尽して︑謹んで運命に服し・・﹂という︑﹁団体的遊戯の道徳﹂を﹁実際生活﹂に反映させて行きた
いとするメッセージにも取れる︒ゆえに︑この文言は﹁人々の自律的規範に基づく公共的な社会秩序を形成するため
の道徳的訓鞄の可能性を示唆している・という解釈も確かに成り立つ︒しかし︑堺の主眼は遊戯を通して百律的
規範﹂を内面化しうる個人を創出していくことにあるのではない︒ゲームに熱中し没頭させることで︑参加者全体を
現実とはかけ離れた﹁情﹂の世界に一団として投げ入れることこそが︑﹁遊戯の効能﹂なのである︒それによって﹁暫
く今の世の有様を忘れ︑我身の上の事情をも忘れて︑美しき理想界に分け入り︑真に遊戯の趣味を楽み︑此心を洗ひ︑
心を柔げ︑此心を養ふ﹂ものなのである︒︑
堺にとって︑この﹁心を洗ふ﹂という言葉は︑﹁情﹂の世界を表現する際のキーワードである︒例えば︑中村駒之
助﹃伊達実録﹄︵﹃実録先代萩﹄︶の観覧記で︑﹁御殿﹂における浅岡と子・千代松の﹁親子一世の別﹂を見る観衆を次
のように描写した︒
親の心は竺なるのみならんや︑人情皆一也︒社会の縛を解き圧迫を免れしめ︑潮流の自然に書て動かしむれば︑人情竺
也︒⁝個々幾千差別の観客なく︑只潭然たる一団の人情あるのみ︒精神の洗條とは此の所を謂ふ也︒
観衆が芝居見物を通して﹁一団の人情﹂の中にのめり込んでいくこと︑これが﹁精神の洗湛﹂H﹁心を洗ふ﹂こと
である︒﹁社会の縛を解かれ︑圧迫を免れ︑仮に此の別乾坤に住して思ふがま・に洗瀧を試むる﹂悦惚忘我の境地こ
そ︑﹁情﹂の世界︑理想の世界なのである︒
この﹁洗條﹂のイメージは︑﹁家庭の和楽﹂が﹁延長﹂していく﹁天然の趣味﹂と﹁地方﹂を表す際にも使われて
いる︒﹃萬朝報﹄論説﹁地方と首都﹂には︑以下のような記述がある︒︑
ほ アの
東京は腐敗所なり︑消耗所なり︒九州︑東北︑中国︑四国︑山陰︑北陸︑東海︑東山︑各地方の健児は続々東京に侵入して︑其
強健の体を以て東京の消耗を補充し︑其清新の気を以て東京の腐敗を洗條せざるべからず︒
都会の趣味は不自然にして都会の礼容は虚飾的なり︒換言すれば︑形式に於ては都会に進歩を見れども︑実質に於ては却つて地 ︵72︶ 方に多し︒諸君が山川の間に養ひ得たる所のものは︑紅塵十丈の間に発生したるものに比して優ること万々なり︒
東京は﹁放蕩﹂﹁奢修﹂﹁賄賂﹂﹁詐欺﹂﹁虚言﹂の巷であり︑﹁軽薄柔弱﹂である︒地方は﹁山川の間﹂で養った﹁強
健清新﹂さがある︒腐敗した東京を﹁清新の気﹂によって﹁洗條﹂しなくてはならない︒これは︑地方出身者の責務
︵73︶ である︒
この発想は︑﹁家庭の和楽﹂においてもそのまま引き継がれている︒和楽実現のためには︑﹁天然の趣味﹂に触れる
ことが重要視されるのである︒㍉
東京の婦人などは一も東京︑二も東京︑東京ほど善い所は無いと思つて︑田舎なんぞに行つて見ようとは思ひもつかぬ様子であ
るが︑其お陰で東京の婦人ほど物の分らぬ人間はない︒ 都会の人︵殊に婦人︶は小さい時から縁日杯でゴチヤくした趣味を養はれて居るので︑兎角静な天然の趣味を解する事が出来 ぬ︒ ︑ つ
天然の景魯天然の味ひとを知らぬ者は・俗で・下品で・如何にも賎しい所が鉱・
!
﹁家庭の和楽﹂から社会主義へ .︑ − − ︵都法四十五−二︶ 三四一
三四二
故に︑旅行などの機会をとらえて﹁天然の趣味﹂に接して﹁元気な︑快活な︑のびくとした気風﹂を養うことが
﹁家庭の和楽﹂における重要項目とされる︒
﹁情﹂そして﹁天然の趣味﹂の二つの中で人間が﹁洗條﹂されることによって︑初めて﹁和楽﹂が実現されるので
ある︒ これらに注目することで︑﹃萬朝報﹄論説その他の社会改良論︑風俗改良論が何を意図していたのかが分かる︒
例えば︑既に述べた福沢︑堺の両者に共通する女子の和文偏重教育批判では︑福沢には明確に存在していた女子へ
の﹁文明教育﹂の要求が︑堺においては欠落していることが確認された︒堺の場合は︑﹁文明教育﹂が主眼ではなく︑
婦人雑誌・家庭雑誌が﹁情﹂﹁真情﹂の発現を阻害する形式主義︑虚飾性を多分に持っているから批判しているので
ある︒堺が︑第二冊﹁家庭の事務﹂において︑また﹃萬朝報﹄紙上において︑執拗に述べている風俗改良論︑例えば
﹁いやくながら︑惜しいけれど︑仕方がないから贈る﹂﹁贈り物﹂の廃止︑﹁世間の手前の為にする﹂﹁旗幾施︑放 ︵75︶ 鳥幾籠︑僧幾人︑馬車何台︑殊更に廻り道をしてねりあるく﹂華美な葬式の改良などは︑すべて﹁習慣﹂﹁儀式﹂が
﹁情﹂を形式化し︑虚飾することを糾弾したものであった︒
松沢弘陽は︑この時代の風俗改良論には﹁同時代の都市化・産業化とともに現われた新しい中間層が成金的俗物文
化に同調してさなぎだに脆弱な生活の経済的基礎を自ら掘り崩すという倒錯に対する激しい道徳的批判﹂が潜んでい ︵76︶ る︑と指摘した︒確かに堺はこの﹁倒錯﹂について︑宴会改良︑葬式改良︑列車の等級︑旅館の茶代に至るまで攻撃
を加え続けた︒それは単に﹁不健全﹂を糾弾するだけではなく︑﹁情﹂の世界を実現するためだった︒
この﹁情﹂と﹁天然の趣味﹂によって作られる﹁家庭の和楽﹂は︑どのような淵源を持つものであろうか︒また︑
その思想史的意味は何か︒堺のライフ・ヒストリーの中にそのヒントが隠されているように思われる︒
堺は︑福岡県豊津の十五石四人扶持の小士出身で︑公債証書の利子を受け取りつつ︑山や畑で自給自足をしながら
生活する貧乏士族の家に育った︒自伝﹃予の半生﹄には︑堺一家の様子が次のように回想されている︒それは﹁気の
小い︑正直な︑そして何事にもチョイト器用な﹂父と﹁顔も姿も美しい人ではなかつたが︑極めて在の儘を打出した︑
飾のない︑情のある﹂母とが︑言い争いもし︑団簗し︑自然と共に暮らす家庭であった︒
、
予は父と母とが幾度か俳句と和歌との趣味に就て言ひ争ひ︑遂に互ひに了解すること能はずして︑笑ひながら物分れになるの
を︑頗る面白く聞いてゐたことを記憶する⁝
予は才の感化よりも寧ろ多く情の感化を受けたと思ふり予は物乞を憐む事︑猫を愛す事︑茸を取り蕨を摘む事などを母に学んだ︒
母が予を連れて山など歩き︑﹃オこえい景色ぢやなア﹄など・︑心の底より自然に対する賛嘆の叫を発した時︑彼は知らず識らず
天地の美に対する予の幼き眼を開いて呉れた︒予は又︑浄瑠璃の文句を引用した︑涙ながらの母の教訓に依つて︑幾度我が心の底 ︵77︶ を洗はれたか知れぬ︒
︑