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三木露風研究(1)竜野時代

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

三木露風研究(1)竜野時代

著者 家森 長治郎

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 17

号 1

ページ 15‑23

発行年 1969‑02‑28

その他のタイトル A RESEARCH ON ROFU MIKI PT.I THE TATSUNO PERIOD

URL http://hdl.handle.net/10105/3175

(2)

三木露風研究(1)竜野時代

家  森  長 治 郎

(国文学教室)

三木露風は明治22年(1889)6月23日に兵庫県揖西郡竜野町ノ内竜野町6番屋敷(現在、竜野 市竜野町上霞城101番地)に生まれた。名は操。父三木節次郎24才、母かた18才の長男である。

節次郎は三木制(すさむ)と俊(とし)の二男で、和歌山師範学校を卒業し、第九十四銀行に勤 務していた。祖父制はもと竜野藩主脇坂家の家扶で、竜野初代町長となり、第九十四銀行頭取を もつとめた。漢学の造詣があり、詩文を梁川星巌(1789〜1858)や大槻盤洪(1801〜1878)に学 んだ人である。祖母俊は儒者大塚氏の出である。母かたは鳥取池田藩の家老和田邦之助信且とみ ねの二女で、明治5年10月10日に生まれ、もと和田家の重臣であった鳥取県邑莫郡西町士族堀正 と千代の養女となっていた(1)が、明治20年9月18日竜野町円覚寺住職軍釆(はなつ)教順の養女 となって明治21年4月28日に三木節次郎と結婚した。(2)

掘正は典獄となって各地に転勤し竜野に来た。彼は囚人の獄中生活に信仰を取り入れるよう本 願寺(筆者注、西本願寺であろう)を通して司法省に進言した。それが今日の教詭師制度の実現

となったのである。後に掘正は東京の鳥取県出身学生の寮「久松学舎」の舎監となって、ながく 育英事業に尽した。(3)睾釆教順(天保8年1837〜明治33年1900)は揖保郡御津村の政源寺より明治 2年に円覚寺に入寺したが、当時衰微していた円覚寺を復興し、用地を買い求め、明治10年には本 堂をも再建したので、円覚寺中興と言われている。教順は監獄教義に志し、わが国における西本 願寺派最初の教義師となった人である。(4)囚人の獄中生活に信仰を取り入れる必要を痛切に感じ るということで、掘正と教順とはまったく同意見であった。掘正は竜野から転勤する際にかたを教 順のもとにあずけた。かたは円覚寺で各種の教養を身につけ、教境の養女として三木家に嫁いだ。

露風は母の実家である円覚寺において、3、4才の幼少の頃から母に伴われて説教に耳を傾ける ことが多く、おのずから宗教的情操が培われていった。(5)『三木露風詩集』(第一書房、大正15年 11月16日刊)の「あとがき」に幼年の頃の母の思い出を次のように述べている。

母は、私が幼年の頃、私に、長い詩を歌って聞かせて呉れた。其れが子守唄であった。私は、

母が、其の長い詩を度び度び歌って呉れた事を覚えてゐる。其れを聞くと、何とも言へず、懐 しい気がした。母は宗教心の篤い人であった。そして、詩や歌の嗜好のある人であった。絵を 描いて、それを見せて、子供の私を遊ばせて呉れる事もあった。

明治25年(1892)4才。5月22日、弟勉が生まれた。(6)

明治26年(1893)5才。4月、町立竜野的稚園に入国した。

明治28年(1895)7才。かたは夫節次郎の身持のことで悩みぬいた末に、舅三木制にこのこと

を申し出た。制は仕方なく、それでは家を去って自由にしなさいと言った。かたは思い余って舅

に申し出たものの、内心では、誰か仲に立って自分が三木家から去らないでもよいように話をま

とめてくれる人があればよいのにと願っていたが、そのような人も現れず、ついに三木家を去る

(3)

16 三木露風研究〔1〕竜野時代(家森)

ことになった。(7)露風がまだ幼稚園に通っていた頃のことである。かたは勉をつれて鳥取の掘家 に帰った。それから露風は祖父母のもとに引きとられ、伯父淳太郎の家族と同居することになっ たのである。後年露風に次の作がある。

われ七つ因幡に去ぬのおん母を又かへり来る人と恩ひし (「文庫」明治38年11月3日号)

母こひし竹の花咲く山の日はうづら追ひたるふるさとの家 (「新声」明治39年4月1日号)

狐来てとらむと云ふにおとなしう母といねこし森かげの家 (「新声」明治39年6月1日号)

かたは間もなく東京の久松学舎々監となっている掘正を頼って勉をつれて上京した。そうして東 大病院付属看護婦養成所の講習生となった。勉は三木家に引きとられ、露風と同じく祖父母のも とで養育されることになった。母に去られ悲しみに沈んでいる貫風を宍粟(しそう)郡山崎出身

(?)の姐やが慰めて、よく面倒をみてくれた。この姐やのことを後年環風はなつかしそうによく 話した。露風作「赤靖蛤」(「樫の実」大正10年8月号)の第3節に詠まれている姐やはこの人 であろうという。(8)かたの離縁のことは、戸籍面では「明治29年2月6日離縁、睾釆教順へ入籍、

同年11月10日鳥取県鳥取市東町92番屋敷士族掘正へ離縁送籍」となっている。(9)4月、竜野尋常 小学校に入学した。露風竹馬の友は脇坂裕之進(明治21年5月10日〜昭和42年8月17日。父脇坂 安斐、母片岡きみ)や石橋利之(明治21年生)であった。この頃露風は又、近所に住む宮田其渓 画伯の四女宮田やを(明治19年6月8日〜昭和37年10月)とままごと遊びや純飛び遊びを仲よく

していた。宮田やをが露風初恋の人であるという。(10)

明治30年(1897)9才。尋常小学校3年生の時、郡内各小学校連合の生徒作品審査会があって、

露風の作文が最優秀作に選ばれた。(11)

明治31年(1898)10才。11月22日、弟正夫が生まれた。母は斎藤シズ。正夫は神戸市湊束区楠 町1丁目38、浅生山さとの養子となった。(12)

小学生の頃、露風は脇坂裕之進や石橋利之等と共にしばしば璃龍山に登り、山頂に植えてあっ た矢竹を折って束ね、それに乗って西斜面を一気にすべり下りた。このような勇壮な遊びを露風 連は好んだ。(13)

明治32年(1899)11才。3月、竜野尋常小学校を卒業し、4月、伊永高等小学校(のち竜野高 等小学校と校名変更された)に入学した。祖父から大学の素読を受け習字をした。(14)8月29日、

祖母俊が鼓し、臨終の枕元に坐して働異した。盛大な葬儀であった。(15)

明治33年(1900)12才。このころ擬古文を多く作り、_その文を綴じて学校の教師に見てもらっ た。(16)

明治34年(1901)13才。俳句の上手な松本南倭という教師が赴任したので、その感化を受けて 俳句を作り始めた。(17)このころ「赤賭蛤とまってゐるよ竿の先き」という俳句を作った。(18)従

兄三木佑之や弟勉等と共に「少園」という回覧雑誌を作った。(19)

明治35年(1902)14才。回覧雑誌「少園」の会名を自紫全と名づけ、後に排桜会と改称し、秋

になって会員の作品をまとめて『秋の花』と題する小冊子を印刷した。別に俳句の会として柿栗

会を作った。(20)露風の雅号の他に愛虹という雅号も用いた。(21)

(4)

この年の4月以後は、「中国民」に露風の投稿作が殆んど毎月掲載せられている。次のようで ある。

4月1日号 5月15日号 6月15日号 7月15日号 9月15日号 10月15日号 11月1日号 11月15日号

散文「朝めし前」

散文「日曜の半日」

散文「落葉」(1.夕空 2.好い眺 3.芝生 4.朝の20分間)

散文「雨の夜」(懸賞当選披露の短文欄に題名のみ記載)

散文「午後の記」

新体詩「須磨の浦辺」及び俳句1句 散文「車上の白雨」

新体詩「浪のしぶき」(いとし我妹・小芋・信天翁)

「午後の記」は文末に「渚」なる著名の次のような好評を得ている。「才気がある筆で、何処 かに軽快な口調が見える。想像と観察力とを利用して、新区域の人事、又は自然に筆を染めたら、

進歩は真に偉大であろう」。次ぎに「午後の記」の全文を掲げる。

算術の先生の所から帰って来て、バタリと書物包を投げ出した僕。朝、学校でやったベース

(ママ)

ボールの草疲れの所え、小六つかしい算術をやったので堪らない。其偲べクリと倒れる様に、

足投出して何心なく視線を庭の面に注いだ。

.・.

南の隅の梯の木の下一面に、小さな柿の実が落ち敷いて居て、大方自家の正坊とお隣の芳ち ゃんとの、ままごとの材料になったのであろう。二十ばかりも飛石の上におき並べてあって、

其側に小さな紙の箱とぶりきの小刀とが置き忘れてある。西の土塀から、少し色の襖めた紫陽 花が、其円い福やかな顔を見せて屠る。時折、手拭掛かカクリと座敷の戸を打つ。

(ママ)      (ママ)

「ク、ク、、」とさかの厳めしい雄鶏な、裏の方から走って来た。続いて尻の毛の小し抜け かゝつた雌鶏が、一羽淋しげに何かつゝき乍ら、雄鶏が妙に首を傾けて居たが、恩ひ出した様 に、尻の方を上げて粘々しい糞を垂れた。

倉の軒にそれを見て居た雀等が、何か喋り続けながら一羽が投げる様に、土塀超しに裏の方

lこてマ)       (ママ)

え下りると、続いて二羽、三、四羽後を退ふたが、後の二羽が、物干竿にとってて羽を揃えつ ゝ身顛ひした。そして尚語り続けるので。

空は怪しう掻き曇って、今にも夕立が来さう。此むし暑い折降って呉れゝば宜い。

.、.

下女のお梅が、水汲む音が急はしう聞えて来る。ザアーと桶え水落す拍子に、どうしたのだ らう、「まあ/」と頓狂声。

金曜日から、試験があると云ふので、兄さむが奥で英語をやって居る。恰度其れを、さえぎ る様に弟の復習も聞こえて来る。

「……雉は鵜に似て羽毛美ほしく尾甚だ長し肉は昧甘くして食とするによレ‥…」と中々上手 であったが、遂止むで了って、茶の間に、「お梅−」と呼ぶ声、多分御飯の遅いのを溢ぽすの であらう。

恰度、鎮守の大杉の棺で怪しう、ゆるいだと見る間に、来た!来たノ来たッ〝ザァーツと云 ふ大夕立。

暫くの間は、あまりの勢に呑まれて、何処とも無く見詰めて居たが、雨が縁側まで降込むで 来て、あまつさえ、僕の頬にさえ、其しぶきを送ったので、始めて気着いて狼狽て、障子を立 てるやら雨戸を引き出すやらの大騒動。

ピカリ……一閃ノまた一閃〝同時にゴロゴロとあなたの方から雷公凄まじい勢で転がり始め

(5)

18 三木露風研究〔1〕竜野時代(家森)

た。

雨と風とが甚い勢で戸を打つ。雨が一散に降り込む。光る。鳴る。十分間程の内は、それは それは覆える程の有様であったが、少し小降りになったかと思うまもなく、夕立の神は、許多の 軍勢を引連れて退陣した。此世に再び蘇生した様に、雨戸を入れるやら縁側を拭くやら急しい事。

干物を、とり入れ様として濡ねずみになったお梅の呆れ面、中々に可笑しい。

(ママ)

あなた、こなたの草葉に、玉のやふな露が喰つ付いて居て、今日鷺山の山の端に力無く沈ま うとする太陽の光を宿して、寛に美はしう輝いて居る。たった之れ丈の雨で、裏の谷川の水が 鳴って居る。ピッションピッションと雨垂れの音のみが際立つのも、何となくすがすがしい。

すう−と何処からとも無く、涼風が青葉の露を払ひ、軒の風鈴を軽う弄って、僕の頬を桟撫

でに・‥‥…‥

「オ、涼しい/」。

「車上の白雨」は弟と二人、神戸駅で下車し、人力車に乗って神戸市楠町7丁目54番地の家

(筆者注、父の家)に行く途中、ひどい夕立にあった時の様子を描写しているきびきびした文章 で、「危峰」という署名の次のような好評を得ている。「叙事文としてほ遺憾なしであらう。君 の原稿は丁寧で誤字なども少ない。注意深い性質である事が明らかである」

同号には当時尋常小学校に学んでいた弟勉の「僕の朝顔」という題の短文も掲載せられている。

まだ幼稚でほほえましい文章であるが、排桜会の一員の作として参考までに掲げる。

「おきなさいよ朝顔の奇麗なこと……」

此頃は毎も寝坊してお母さんに叱られる。僕がたった之れ丈けでとび起きるのである。其れ はなぜであらう。好きな好きな一番大切な朝顔が奇麗な画して僕の起きるのを待って居るから である。河村の兄さんに貰って来て三月頃から水撒いてそだてたのだもの大切に思うのも当然 でせう。

朝おさらえをする時いつも机の前に鉢をすえておくのです。けれど午頃になると萎れて了ふ ので悲しくって堪らない。

「小国民」の明治35年6月15日号に同じく緋桜会の会員であった石橋利之氏の散文「朝の散歩」

があり、同年7月1日号にも同氏の短文が掲載せられている。

新体詩「ノJ\羊」(22)は選者西玉軒から「佳」という評を得ている。

夕幕深く立ちこめて、此野辺今や暮むとす、

草の舎出でし牧童の、草笛ゆるく吹き行けば、

煽るが如き革の上に、頭拾げし小芋の、

小さき眼かゞやきつ。

透谷全集を読み始めたのも、この年の10月頃のことであろうか。「透谷」(『露風詩話』所収)

の中で

或日、僕が田舎の本屋へ行くと、そこの主人(23)が、頻りに善い本だと云って、東京から着 いたばかりの一冊の書物を差出した。共時僕は小学校の生徒で、鞄を懸けてゐた。主人が云う には近頃死んだ有名な詩人の遺稿で、又この本を掠へた人は、その友人の豪い文学者ばかりだ

とのことだ。僕はそれを聞くうちに、死んだ人と云うので先づ少し厭になった。表紙に苦と骸 骨とが描いてある。中を見ると圏点沢山の文章がある。それを買うことに決めたのは、本屋が あまり褒めるので、断はるのもバツが悪いからであった。

これが透谷全集だった。今にして恩ふと此の陰気な、子供心を圧迫する書物が、其後どれだ

(6)

け僕の心を慰めてくれたか知れない。

と述べている。『透谷全集』は明治35年10月1日に、「文友飴蔵版、文武堂発見、発売元博文館、

編韓者星野慎輔之(天知)」として発行されている。(24)

この年より2年余り一学年下の三木やを(明治22年7月4日生)に恋をした。(25)この恋は寒風 の片息いに終ったようである。(26)

明治36年(1903)15才。3月、竜野高等小学校を卒業し、4月県立竜野中学校に首席で入学し た。

『三木露風詩集』の「あとがき」に「明治36年、即ち私の15才の時は、文を多く作り、又詩作 や、短歌や俳句の吟詠が多かった。其れ等の作品は、姫路市から出てゐた姫路新聞に掲げられれ た」とあり、「新潮年譜」では明治35年の項に、「東京の文学雑誌に投書し、又姫路の新聞に文 章韻文等を掲ぐ」とある。前述のごとく、「中国民」に露風の作品が掲載せられるようになった のは、明治35年4月1日号からであって、同じ頃から姫路の新聞即ち姫路新聞や鷺域新聞に作品 が掲げられるようになったのであろうが、36年には両紙に掲載せられる露風の作品も多くなった

ものと解すべきであろう。『わが歩める遺』には「明治34年に私の作った散文・詩・短歌・俳句 が当時の姫路新聞に出てゐる。その中から散文を除いて、詩・短歌・俳句の一部を左に抜翠する

−私は小学時代から姫路市の二つの新聞即ち姫路新聞と鷺城新聞との、有力な寄稿家と見なさ れてゐたのであった。」とあって、姫路新聞掲載の詩7篇、短歌18首、俳句21句、鷺城新聞掲載 の詩2筒、短歌8首が再録されている。姫路新聞掲載の俳句21旬だけは明治36年と明記されてい るが、他の作品は34年の作のように記述されている。しかし、『わが歩める道』の記述及び同書 巻末の「年譜」は年代的に不正確な部分が多いので、前記「あとがき」や「新潮年譜」の記事及 び作品の完成度等から推して、『わが歩める遺』に再録せられている両新聞掲載の作品は、明治 35年以後の作、それも36年の作が多く含まれていると考えられる。

この年には、「言文一致」誌上に次ぎのように文芸時評・散文・俳句・短歌・詩を発表してい る。

2月1日号  俳句1句

2月15日号  文芸時評「筆記帳」

3月1日号  散文「朝の遺」、俳句2句 3月15日号  散文「横臥放談」、短歌1首 4月1日号  新体詩「揚雲雀」、散文1篇

5月1日号  文芸時評「月旦」

6月1日号  俳句2句

8月1日号  論説「如何にして現今の労働者を愚籍すべきか」、文芸時評「青葉集」

9月1日号  美文「最の記」、論説「予は休暇中に何物を得たる乎」

9月15日号  俳句5句

10月1日号  短歌1首、文芸時評「落葉集」

12月1日号  文芸時評「漫語」、短歌3首、俳句3句

又「文庫」誌上にも11月3日号に初めて短歌が2首掲載せられている。

文芸時評が5篇もあるということは、露風が文壇の動向を注視していたことでもあり、したが

ってそれだけ文学への傾倒の程度の深くなってきたことが判断されるのである。散文「横臥放談」

(7)

20 三木露風研究〔1〕竜野時代(家森)

ほ遠来の友有本芳水を迎え、芳水、秀骨・露風の三人が牛鍋をつつきながら怪気焔を上げ、蚊士

(筆者注、文士のこと)や批評家を罵倒しているさまを描いたものである。芳水との親交は霧風 の高等小学校時代から始まっていることがわかる。「月旦」は「文庫」と「新声」の両文芸雑誌 を比較論評したものである。「言文一致」誌上発表の俳句13句から代表的なものを掲げる。

梅日和乳母の尋ねて来る子栽  (36年3月1日号)

七夕や露冷やかな禄の先    (同年9月15日号)

十丈の滝に若葉の戦よぎけり  (同年9月15日号)

霜の夜や枚を衝みし三千騎   (同年12月1日号)

「言文一致」に発表した短歌5首と「文庫」に掲載せられた短歌2首の中から各誌1首ずつ掲げる。

木犀の静かにかをる宵月夜笛吹く胸の恩ひ得堰へぬ  (「文言一致」36年12月1日号)

宵月の小窓によりて若き子が唇わなゝくに静なり芙蓉 (「文庫」36年11月3日号)

明治37年(1904)16才。4月、第2学年に進級。11月4日付で岡山県和気郡備前町の私立中学 関谷贅に転学した。(27)竜野中学退学の原因は文学に熱中して代数幾何の成績が悪くなり進級の見 込がなくなったことと、上級生との折合いが悪かったこと等と見られている。(28)

この年には「新声」誌上に初めて露風の詩3篇が掲載せられ、「文庫」誌上にも短歌・俳句・

詩が掲載せられている。

「新声」3月1日号

「文庫」3月15日号

「文庫」4月15日号

「文庫」5月15日号

「文庫」10月15日号

「文庫」11月15百号

詩3篇(活胃・月の歌・紅椿自椿)

短歌1首 俳句1句 短歌2首 短歌8首 詩1篇(書写山)

「文庫」の10月15日号に短歌が8首掲載せられ、11月15日号には力作「書写山」を発表したこ とは注目に価することである。8首のうち、3首はのち『低唱』(29)に、2首(うち1首は改作せ られて)は『夏姫』(30)に収められている。

恋に騎る王者のかむり地に落ちて咲きけんものか緋牡丹の花 かくて遂によみがへり行く吾ならず恋のしもとよ尚強く打て

しろがねの琴かい抱き君いぬる秀才楽師の国はよき国

さぴしん

野の宮に寂蓼を説く若き子が栄ある額に詩もありぬべし

(『低唱』)

(『低唱』)

筆とりて絵絹をのべてよき君が画の興何の花にあふるる

ここやこれ摂津播磨の国境月にしばしを笛吹き行かん    (『低唱』)

ああ君が情黒髪長うして捻くによろしき我が恋の胸     (『夏姫』)

百合にねし其夜ひと夜の夢さめてちいさき星の恋知り得たり (『夏姫』)

「書写山」も好評を博し、のち『夏姫』に収められている。

中央の文壇でようやくその名が知られるようになった三木露風は、前年に引き続いて地方文壇.

殊に鷺城新聞の日曜文壇で活躍し、鷺城新聞の記者をしていた高浜天我(本名二郎、別号蘇江。

明治17年9月〜昭和41年12月)や、「明星」「文庫」「新声」等の中央文壇でも新進詩人として

評判の高かった内海泡沫(本名信之、別号清潮明治17年8月30日〜昭和43年6月14日)と親交を

結ぶこととなった。       (昭和43年6月28日稿)

(8)

(1)安部雷之介氏「露風の『赤とんぼ』の母」(『三木霧風研究』木犀書房、昭和39年9月1日刊)

(2)内海七郎氏「三木露風先生年譜」(『竜野文化』播磨新聞社、昭和40年5月28日刊)

(3)安部雷之介氏「霹風の『赤とんぼ』の母」(前掲)

(4)竜野市竜野町『円覚寺記録』

(5)三木露風談(昭和39年11月1日午後2時〜3時、東京都三鷹市牟礼の三木露風邸にて)

(6)内海七郎氏「三木露風先生年譜」(前掲)

(7)三木なか氏談(昭和42年10月23日午後2時30分〜4時、三鷹市牟礼の三木邸にて)

(8)有本芳水談(昭和41年5月28日、竜野市竜野町赤とんぼ荘にて)

(9)内海七郎氏のご教示による。

(10)脇坂裕之進氏談(昭和41年8月28日午後2時30分〜4時、神戸市灘区高尾通の鳥海菊弥氏邸にて)

(1]肝三木露風詩集』(前掲)の「あとがき」

(12)内海七郎氏「三木露風先生年譜」(前掲)

(13)石橋利之氏談(昭和43年4月11日午後1時〜3時、神戸市中山手通の同氏邸にて)

(1粛「新潮」(大正6年11月号)の文壇諸家年譜(22)「三木露風」による。以下、「新潮年譜」と略称する。

『わが歩める遺』(厚生閣書店、昭和3年8月18日刊)巻末の「年譜」では「明治28年、7才で竜野小学校に 入学した。又学校教育を受ける他に、祖父制から、漢学を教えられ始め、夙に起きて、習字もした」とある が、「新潮年譜」の方が年代の誤記が比較的に少ないので、「新潮年譜」によった。

(15)「新潮年譜」及び『わが歩める道』巻末の「年譜」

11軒三木露風詩集」(前掲)の「あとがき」

(17)「新潮年譜」

(18)F三木露風詩集」の「あとがき」

仕切「新潮年譜」

伽)「新潮年譜」では回覧雑誌「少園」の会名が白紫会となっているが、『わが歩める遺」や『現代詩人全集第 5巻』(新潮社、昭和4年7月15日刊)の「三木露風自伝」では緋桜会となっている。当時会員であった石 橋利之氏によると、この会合は初めは俳句を作るための会合であったが、後には和歌が中心となり、露風が 仲間を引っはって進んでいった。霹風が会員の作品をまとめて排桜会として鷺城新聞に時々寄稿した。自紫 会という会名の記憶もかすかにあるが、柿栗会という会名の記憶はないとのことである。(昭和43年4月11 日、神戸市の同氏邸での談話)

l:21)露風という雅号の初出は、管見では「小国民」第328号「松声竹韻」(明治36年1月1日発行特別号)の「雪」

という短文作者名に「播州三木露風」とあるのがそれである。これまでは「小国民」誌上で三木操又は三木 みさをを用いている。愛虹という雅号を用いた投稿作は未見である。石橋利之氏によれば、露風という雅号 は最初弟勉が自分の雅号としていたのを、兄操が気に入って自己の雅号としてしまったそうである。(昭和 43年4月11日、同氏邸での談話)

122)この詩は、『わが歩める道』では閑谷蛍在学の頃、学友会誌F関谷雑誌』の巻頭に作曲を付けて掲載したとあ って、いくらか改作せられている。

l,23)梅林半子であろう。梅林半子は本名吉兵衛、別号緑江、野人とも称し、明治7年竜野町門ノ外に生まれ昭和 2年3月放す。矢野静鷹に漢文を学び、漢詩を作り、又俳句を作った。(橋本政次『近代播磨文学史」近代 播磨文学史刊行会、昭和39年6月5日刊による。)半子は子規派の地方俳人で、書店を営み、排桜会の会員た

ちも書物は半子に頼んで東京から取り寄せた。(石橋利之氏のご教示による)

e甜透谷全集』第3巻(勝本清一郎編集、岩波書店、昭和30年9月10日刊)の「著書目録」

幽脇坂裕之進氏談(昭和41年8月28日午後2時30分〜4時、鳥海菊弥氏邸にて)

鯛藤井登代氏メモ(昭和41年8月4日、三木やをさんの談話を筆記したもの)による。

(9)

22

三木霧風研究〔1〕竜野時代(家森)

即藤原幾太氏のど教示による。県立関谷高校保管の関谷賢の学籍簿(和紙印刷)に「三木操。除籍番号、281 号。入学、37年11月4日、第2級。退、転学、38年7月1日。理由、家事ノ都合。入学前ノ状況、兵庫県立 竜野中学校2学年修業中」とあって、成績も在学中の履歴も記入していない由。

幽安部宙之介氏『三木露風研究ム

(29)『低唱」は露風自筆の詩歌集で短歌60首、俳句16句、詩1篇より成り、脇坂裕之進氏が挿絵を2葉描き淡彩 を施している。『低唱」については安部宙之介氏が昭和41年8月2日、朝日新聞に紹介し、更に「詩帖』第13 号(昭和41年12月)にその全文が翻刻されている。内容は高等小学校・竜野中学校在学中の作品と関谷聾転 学初期の作品とより成っている。

(醐「夏姫」は明治38年7月15日に岡山市花畑30番地血汐会より発行され、露風の詩10篇と短歌110首、付録とし て入沢涼月の短歌20首が収められている。

付記 −排桜会について−

大阪市東区備後町1丁目39番屋敷笛声社から発行された文芸雑誌「アカツキ」(笛声改題)第2巻第4号

(明治37年7月24日発行)に、播磨竜野アカツキ支部としての排桜会の、会員9名の詠草が掲載せられてい て、その中に露風の詠草5首が含まれている。又、同誌に「アカツキ」播磨支部第1回文学会が6月22日に開 催せられたことや、その席上での露風の詠草も1首記録されている。

(昭和43年6月29日受理)

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A RESEARCH ON ROFU MIKI PT. I THE TATSUNO PERIOD

Chojiro Iemori

Department of the Japanese Literature, Nara University of Education, Nara, Japan

This tretise is about Rofu Miki in his Tatsuno-Cho, Hyogo Prefecture, period. It is the career of our young poet Rofu which begins with his infancy and gets through Tatsuno Primary School and Tatsuno Higher Primary School days. Then he entered the Tatsno Prefectural Middle School, but in the middle of the second year grade he moved into the

"Shizutani-ko", a private middle school. His literary activities in this period are as follows.

In 1901 he issued a magazine named the "Shoen" for circulation among his brothers and cousins and called his literary circle "Hakushi-kai" or "Hizakura-kai". From 1902 onwards he wrote for the newspers, the Himeji and the Rojo, besides contributing proses and poems to the literary magazine "Shokokumin" published in Tokyo.

In 1903 the works for the above-said two newspapers increased in number. And also he wrote literay reviews, proses, Haiku and Tanka for the literary magazine, the "Genbun-itchi".

In 1904 in the first-rate literary magazines in those days, such as the "Bunko" and the

"Shinsei", we can find his Tanka and Haiku. But his devotion to the creative writing

caused his poor grade in mathematics at school and made his further promotion in the

Tatsuno Middle School seem difficult. This, along with his discord with rough upper class

students, obliged him to move into the "Shizutani-ko" in November of the same year.

参照

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