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日常性に奈良県立医科大学

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(1)

奈医看短紀要

VOL3.1999 

看護短期大学部

e

古マ

号旦

γ !

l 1

i f

i l

i ‑

‑ i

f ‑

日 常 性 に

奈良県立医科大学

池辺

Ub e r  d i e  

A1

l t a g l i c h k e i t   lKEBE Y a s u s h i  

Nara M e d i c a l  U n i v e r s i t y  C o l l e g e  o f  N u r s i n g  

ある事柄を深く掘り下げていく哲学的な思索 は、その内容のゆえに「難解Jという印象を人 々に与えがちである。しかし、哲学的な思索は 日常的な現実から遊離したところで、間いを立 てて言葉をもてあそんでいるわけではない。哲 学が理念として描く事柄は、現実の生活からあ りうべきものとして抽出した事柄で、あって、絶 えず現実にその根を持っている。思索の営みの 出発点は今ことに生きるこの私であり、思索の 対象となるのは、まずは私を取りまく日常的な 現実である。日常的には自明と思われている事 柄をそのまま鵜呑みにするのではなく、位上に 載せて解体し、根拠を聞いつつ再構築していく こと、これらのことが哲学的な思索に課せられ ている作業である。日常性を問う試みもこの線 上にある。ハイデ、ガーも次のように言っている。

ある哲学的な問題が、日常的な意識には一 般にまだ知られていないことを問おうとす ればするほど、ますます哲学は中心のうち にではなく、本質的ではない事柄のうちで 動いているだけにすぎなくなってしまう。

だが、それに対して、哲学が問おうとして いる事柄が、よく知られており自明であれ ばあるほど、間いはいっそう本質的なもの となるは)。

1.問いの対象としての日常性

人間とは何か。この間いに答えようとしたと き、人間を分析する切り口の相違に応じて、「ホ モ・

OOJ

とか

rOo

的人間観」とか分類され るさまざまな人間観が生じてくる。だが、そこ で間われている人間とは、この世に生まれてき た以上、何らかの仕方で糧を得て日々を過ごし ていかざるを得ない、ごく普通の人間を指して いる。人間の特殊なあり方や、何か特別な才能 や能力を備えた人聞がそこで間われているわけ ではない。問われているのは私であり、あなた である。そうであるなら、人間とは何かを問う ためには、どのような切り口から人間を分析す るのであれ、まずは私たちが日々過ごしている 普通の生活のあり方、すなわち日常性から出発 する必要があると思われる。

この小論では、さまざまな人間観のいずれに も当てはまるような一つの基礎的な作業として、

日常性についての若干の素描を試みたい。なお、

日常性を主題とする際に、私が念頭に置いてい るのは、ハイデガーの次の箇所である。

2 .

日常性の変容と持続/破綻と修復 日常性について問うていくことにしよう。

私たち

l

立働いたり遊んだり、その他にもさま ざまな行為をして生活を営んでいる。そして、

このような日々の活動の土台となるのが日常世 界である。ところで日常世界とはいかなる世界 であろうか。シュッツを参照しながらまとめて 分析の出発点では、現存在をある特定の仕

方で実存している差別相において解釈しで はならない。そうではなく、さしあたって たいてい、彼がとっている無差別的な姿に おいて解明すべきである。現存在の日常性 という無差別な姿は、取るに足らないもの なのではなく、この存在者の一つの積極的 な現象的性格なのである。日常性という存 在様式から出て、日常性という存在様式へ と還るのがすべての実存することのあるが ままの姿である(1jo

(2)

奈医看短紀要

VOL3  . 1 9 9 9  

みると、次のようになるであろう。すなわち、

日常世界とは、①私が生まれる前から存在し、

私がそこへと生まれ、その許に慣れ親しんでい る世界であり、②私的な世界ではなく、他者が 最初から存在している相互主観的な世界であり、

③自分に現れているものとは異なった世界があ るかもしれないと疑ったりせずに、まずは受け 入れている世界である (3)

日常世界が私たちのさまざまな行為、および 他者との出会いを可能にする。と同時に、私た ちがさまざまな行為をし、他者と意思疎通を図 ることによって形成されるのが日常世界である。

シュッツが述べているように、「日常生活の世界 は私たちの行為と相互行為の舞台であり、そし てまた、その対象であるjヘ言うまでもなく、

私たちはこの日常世界を離れたいかなる世界に も生きていくことができない。日常世界を離れ たどこかに、理想郷

( u t o p i a

どこにもない場 所)が存在するとは考えられない。日常世界こ そが私たちの現実経験の原型であり、それ以外 の領域は日常世界の変様である (5)。そこでシュ ッツは日常世界を、「至高の現実」と捉えた。

さて、同じことの繰り返しが私たちの日々の 生活を形作っている。繰り返し続くありふれた 生活や活動を目立たない仕方で規定しているの が、日常性である。日常性は目立たない。とい うよりも、目立たないからこそ、

R

常性と呼び うるのだ。ときに何らかの仕方で(たとえば遅 刻するといった出来事によって)、日常性が擾乱 され、日々の生活を形作っている事柄の連関に 裂け目が生じたときにはじめて、それまで目立 たなかった日常性が主題として浮かび上がって

くる。

もちろん、同じことの繰り返しといっても、

反復して繰り返される日々の生活のなかにも、

未知なるものが少しずつ取り入れられている。

したがって、日常性の内実は私たちの行為によ って絶えず変わっている

o

だが通常は、日常性 の核となる部分を揺るがすような出来事と出会 うことは稀である。たいていの場合、新たなこ とを経験したからといっても、「その日その日が もたらすものを気分転換として受け取っている

J

1 6  

)にすぎない。昨日と同じ今日を過ごし、今日 と同じ明日を迎える。別言すれば、日々出くわ すさまざまな具なった出来事を、私たちは自ら が持っている知識体系を参照しながら類型的に 捉え、同じような出来事として受け取っている にすぎない。

しかも、私たちは繰り返し続く日々の生活の なかで、知らず識らずのうちに特定の視点を身 につけ、この視点に立って出会われるものを見 るようになっている。それゆえ、日常生活にお いて私たちが見ている世界は、自らの経験や活 動にもとづいてっくり出された現実、あくまで 私たちが捉えているかぎりでの現実でしかあり えないのである。

ところで、とりわけ従来の習慣や行為を維持 しようとする傾向が強い場合には、手元にある 知識体系では捉えられない未知なる出来事、あ るいは同じ日常性を共有していない異他的な出 来事に遜返したとき、私たちはそれらを無意識 にであれ、故意にであれ、拒絶して

L

まいがち である。あるいは、手元の知識のなかから類似 した意味合いを持つ事柄を見つけ出すことによ って、既知なるものにすり替えてしまいがちで ある。いずれにせよ、未知なるものを未知なる ものとして新たに受容し、日常性に変化が生じ ることに強い抵抗感を抱く場合が多いであろう。

それどころか、ときには所与の現実の方こそ 間違っていると見なしてしまうことすら、あり うる。そのとき、人は「本当の現実」がどこか に存在し、そこにおいては「真の自己」が実現 できると考え、自の前で繰り広げられでいる現 実に目を閉ざしてしまう。となると、岸田秀が 指摘しているように、人はみじめでありふれた 現実の自分を「世を忍ぶ仮の姿」とみなし、「真 の自己J、つまり、他の人々との関係から切り離 された架空の自分に自らの関心を集中させるこ とになってしまうけ}。現実の自分を「偽りの自 j とみなし、「真の自己」の実現をめざすこと は、当人が置かれている不当な(と本人が思い 込んでいる)状況への窓めになるかもしれない。

しかし、言うまでもなく、所与の現実を拒絶す ることで成立する「本当の現実」など、どこに

‑41

(3)

γ 

も存在しない、甘くて危険な幻想でしかない。

また、未知なるものが受容され、それに伴っ て日常性が変容した場合でも、通常は強い信念 .常識・行動規範などといった日常性の核とな るような部分までは容易には変わらない。変わ りうるのは、弱い信念・常識・行動規範などと いった、核の周辺に拡がる部分である。新しい ことを積極的に取り入れて、つねに自己の世界 を拡大していく傾向にある人であっても、変わ りつつあるのは日常性の周辺部であって、核と なる部分までは変わっていないであろう。むし ろ、核となる部分を変えないからとそ、私たち は安定じで恒常的に新しいことを取り入れるこ とができるのである。なお、本稿では、日常性 の核となるような部分を「強い日常性

J

、核の周 辺に拡がる部分を「弱い日常性J と呼ぶことに する。

さて、日常性は通常、問題視されることがな く忘却されてしまっている。ところが、日常性 に裂け目が生じ、それまで自明であったものが 自明でなくなり、日常性が問い質される契機と なる事態が生じることがある。とはいえ、たい ていの場合、この事態、つまり非日常的な事態 がもたらす衝撃はやがて忘れ去られてしまう。

その結果、同じ衝撃にはもはや驚樗しなくなる。

弱い日常性が揺るいだだけであり、変容しなが らもやはり間ーの日常性が持続していく。

しかし、ごく稀ではあるにせよ、強い日常性 まで動揺させる非日常的な事態に遭遇すること もありうる。このような事態として、たとえば、

死の宣告、宗教的な回心、あるいは戦争の勃発 などが挙げられると思われる。

いや、そんなに特別な事由がなくてもかまわ ないかもしれない。ふとしたきっかけで、すべ てが根底から一変してしまうことだってありう るかもしれない。カミュは次のように言う。

ふと、舞台装置が崩壊することがある。起 床、電車、会社や工場での四時間、食事、

電車、四時間の仕事、食事、睡眠、同じリ ズムで流れてゆく月火水木金土、一一こう

奈医看短紀要

VOL3  . 1 9 9 9  

いう道を、たいていのときはすらすらと辿 っている。ところがある日、《なぜ》という 聞いが頭をもたげる、すると、驚きの色に 染められたとの倦怠のなかですべてがはじ まる。《はじまる》これが重大なのだ(8)

なぜ、?

なぜ、私は日々同じことを繰り返さなければ ならないのか。この哲学的な聞いが強い日常性 まで震擦させ、私の生活を形作っている「舞台 装置Jを崩壊させてしまうことは十分ありうる ことであろう。

もっとも、すべてを根底から覆す非日常的な 事態も、それが繰り返し続くと、この事態が出 現した当初の衝撃や抵抗感、あるいは新鮮さや 奇異感も薄れ、この事態もまた日常的なものに なってしまう。これまでの日常性を破綻させる ような、どんな事態に遭遇しでも、その事態が 何らかの連続性・反復性を保っているかぎり、

日常性はその事態をも自己のうちに取り込んで いくからである。

B

常性のほころびは絶えず修 復され、それまでとは異なった日常性が新たに っくり出されることになる。

あるいは、「なぜJという間い自体が瞬間的に 境れたにすぎず、すぐさま日常性にからめとら れて消えていく場合もあろう。いずれにせよ、

どこまで行っても日常性の極措から逃れること はできない。となるとまた、「なぜ」という聞い が頭をもたげてくる。この間いに対する答えは いつまでたっても得られない。何しろ、答え、

つまり日々の繰り返しに耐えねばならない根拠 など、そもそも、ないのかもしれないのだから。

となると、答えのない間いから逃れるために 私たちにできることと言えば、せいぜ、いのとこ

roo

のために」と何らかの意味を見いだし、

それを自分に言い聞かせて{引、納得し、哲学的 な問いを停止することであろう。レインも「自 己のアイデンティティとは、自分が何者である かを、自己に語って聞かせる説話である

J

述べている問。「なぜ」という間いに耐えうる 説話を創り出し、そして耐えられなくなるた びに何度も創りなおして、間いを停止しておか

(4)

奈医看短紀要

VOL3.1999 

ないと、安定した社会的生活を送ること、すな わち「舞台装置」を維持することができなくな るかもしれない。

いや、それどころか、人間をだめにしてしま うかもしれない。プラトンは対話篇『ゴルギア ス』のなかで、若い頃に哲学に触れておくこと は悪くはないが、必要以上に哲学に打ち込むと 人間をだめにしてしまうと、主主場人物のカジク レスに語らせているQ カリクレスはその理由の ように述べている。

ほかでもない、せっかくすぐれた素質に恵 まれていたとしても、その年ごろをすぎ、て もなお哲学をやっていると、ひとかどの立 派な人物となって名をあげるためにぜひ心 得ておかなければならないことがらを、な にひとつ知らぬ人間になりはてること必定 だからだ。すなわち、そういう人間は、国 家社会におこなわれているいろいろの法規 にも疎くなり、公私さまざまの取り決めに あたって人と交渉するときに用いなければ ならない口上も知らなければ、人間の持つ いろいろの快楽や欲望にも無経験な者とな る。つまり、一口で言えば、人さまざまの 性向にまるで通じていない人間ができあが ることになるわけだ

( l l )

社会情勢に疎くて、しかも個々人の性向に全 く通じていない人間に、いったい何が語れると いうのだろう。プラトンが自戒を込めてカリク レスに語らせた哲学批判を、私たちは真撃に受 け止める必要がある。この批判は、藤沢令夫に よれば、金と地位・名誉を追い求める人々の広 汎な日常的現実にもとづいた、世間一般の常識 的な通念を代弁したものであるという問。金と 地位・名誉を追い求めるのに忙しく、そのよう な毎日に対して「なぜ」とことさら問うたりし ないのが、多くの人々の日常であろう。

だとすれば、そのような日常を哲学の主題と しなければならないのはどうしてなのか、そも そも哲学は何のためにあるのか、という根本的 な疑問にことで逢着することになるが、とれら

の疑問に対しては、さしあたり以下の点を指摘 しておくに留めておく。一一上記の「なぜ」と いう聞いが意図するところは、社会的生活に直 接に応用できるような、何らかの実用的な知識 を提供することにあるのではない。プラトンは 哲人統治の実現という理想をもって、カリクレ スの哲学批判に立ち向かったのであろうが、と こで取り上げている、日常的な生の営みを支え ている根拠を問う営みは、直接には何の役にも 立たなないかもしれない。だが、問うことそれ 自体が意義のある営みなのである。答え(根拠) が見つかるかどうか、そもそも答えがあるのか どうカ斗まJj

J r

として。

3.

技術がっくり出す日常性

新たな技術の導入は程度の差こそあれ、新た な技術的世界を開示し、日常性を、さらに歴史 をつねに変えてきた。したがって、日常性、と りわけ日常性の変容について論じていこうとす れば、技術の問題を抜きにすることはできない。

そこで本節では視点、を変えて、日常性を考える ための一例として、技術と日常性とのかかわり を取り上げることにしたい。

さて、従来できなかったことや患いもよらな かったことが技術の進歩によってできるように なり、その結果、生活様式や価値観が変容した 事例は数多い。だが、できることの内容や状況 次第では、ただちにすべきだと断言される場合 はたしかにあるにしても、技術的な可能性が実 践的使用に結びつかなければならない必然性は どこにもない。というのも、新たな技術が受け 容られるかどうかの判断基準は、技術的に可能 かどうかという点にではなく、当の技術が日常 的な技術になってもよいかどうかという点にあ るからである。

ところが、現代技術の急速な進歩はこのよう な判断を下す前に、できるがゆえにすべきだと、

新しく開発された技術の使用を強制する。換言 すれば、当初は特殊な技術で、あっても徐々に浸 透していくことで一般化していく、といった過 程を経ることなく、新たな技術の受容をいきな り迫ってくる。現代技術は私たちに、特定の生

‑43‑

(5)

γ 

活様式や価値観を選択することを強制し、一定 の日常性をっくり出しているのである。それゆ え、現代は、新たな技術の開発が人々の欲望を 生み出し、生活様式や価値観を方向づ、けている 時代であるといってよい。つまり、「必要は発明 の母」なのではなく、「発明が必要の母j という 逆転が生じているのである。

さて、私たちは新しい技術に直面したとき、

その技術がもたらす衝撃性にばかり目を奪われ て、当の技術の是非を問うことに終始してしま いがちである

o

むろん、現在の問題状況が私た ちの常識的な予測をはるかに越えた様相を呈し ている以上、当の技術の有効性と限界とについ て十分に見極めていく必要があることは言うま でもない。しかし、まず第一に関わなければな らないのは、現代技術が日常生活にどのような 影響を及ぼし、生活をどう変えていこうとして いるのか、ということであろう。し治主も、この ことを問うためには、現代社会に生きる私たち は、どのような日常性のもとに日々を過ごして いるのかを今一度、聞い直す必要がある。日常 性を間い直すことなく、個々の具体的な技術の 是非にとらわれてしまうと、大局を見失ってし まうおそれがあるからである。

また、ある技術が問題として取り上げられる ことなく素直に、あるいは「便利になったもの だ」としづ感慨とともに受け容れている場合で あっても、その技術の問題点は日常生活のなか に臆蔽されているだけかもしれない。長期的な 展望

i

こ立って問題点を刻出し、討議の場に持ち 込んでいくことが、哲学や倫理学に求められて いる課題である。

なお、現代技術のあり方を問うための手法と して、たとえば、日常生活とは対極にある先端 的な医療技術にまつわる諸問題を取り上げ、そ こから現代技術、ひいては人間とは何かを浮か び上がらせることも有効な手法であろう。しか し、そのような手法が有効たりうるのは、そこ で得られた結論が、人々の日常的な感情や問題 意識に還元されたときであることを忘れてはな るまい。一例を挙げると、医療技術の進歩によ り、従来、死亡とみなされなかった事例を死亡

奈医看短紀要

VOL3  . 1 9 9 9  

とみなすためには、このような事例を特殊な事 例として、例外的に容認するだけではすまされ ない。すでに種々の議論がなされているように、

通念となっている死の概念まで定義し直さなけ ればならない。

だが、技術の進歩が社会通念の変更を強要し てきても、それに追随する必要はない。言い換 えれば、技術が進歩したからといって、日常性 が変容しなければならない必然性はどこにもな い。あくまで、私たちの生活感情や問題意識が 変容していくことによって、先端技術は受容さ れていくのである。土台は日常世界である。

ところで、 日常世界を構成している他者は、

一次的には匿名的な他者を含めた同時代の人々 を指している。だが、日常世界は、先人から受 け継いだものをもとにして出来上がり、後世の 人々によって継承されていくものである。それ ゆえ、先人や後世の人々もやはり、私たちの日 常世界を形作っている一員にほかならない。む ろん、後世の人々の境遇を問題視としたところ で、それはあくまで「空虚な予想J(切にすぎな し、かもしれない。

しかし、昨今、大きな問題となっているよう に、日々の生活で行っている技術的な行為の積 み重ねが、今・ここで展開されている当面の目 的を越えて、当人が全く意図していなくても将 来に何らかの悪い影響を及ぼすかもしれない。

だとすれば、日々の技術的な行為を考える際に も、将来という視点が入ってこざるを得ないし、

また入れなければならないであろう。

前節で述べたように、どんな異常な事態が生 じても、日常性のほころびは絶えず修復され、

新たな日常性がっくり出される、とほとんどの 場合には言ってよい。しかし今日、技術的な行 為の積み重ねが、修復不可能な多大な影響を将 来に及ぼしかねないことが懸念されている。そ うである以上、遠い将来といった異なった次元 に属する事柄が、現在の日常生活のなかで下さ れるさまざまな決断にも介入してこざるを得な い。このことは、ヨナスの言葉を借りれば、現 代技術が私たちに課

L

た「一つの新しい倫理的

(6)

奈医看短紀要

VOL3 . 1 9 9 9  

な観点

J

1(4)である。彼によれば、従来の倫理学 は、人々の個々の行為が対面的・同時代的な拡 がりしか持たないことを前提として成立したも のであった。それゆえ今、将来世代との関係を 念頭に置いた、新しい倫理学の構築が緊急に求 められるというのである。

この小論では、将来世代を射程に入れて日常 性を考えるところまで論を進めることはできな いが、従来の倫理学が提示した命法(ヨナスに よれば、その典型がカントの定言命法)に代わ る新しい命法として、ヨナスが定式化した命法 の一部を最後に掲げておく。彼の命法は現代技 術と日常性とのかかわりを考える上でも、非常 に示唆に富んだ言葉だと思われる。

あなたの行為がもたらす影響によって、こ の世での人間らしい生活が将来、壊われる ことがないように、行為せよ(15)

人間が将来も無傷であることを、あなたが 何かを意欲する際に絶えず抱き続ける主題 として、あなたの現在の選択のなかに含め よ(問。

(  1  ) H e i d e g g e r

, 

M.

, 

S e i n  und Z e i t

, 

1 5 . A u f l .

, 

( T u b i n g e n :   N i emeyer ,  1 9 7 9 ) ,  S

.4

(  2)  H e i d e g g e r

, 

M.

, 

Gesamt

s g a b eB

d.

2 9 1 3 0

, 

( F r a r

水おrt

a .   M . :  K l o s t e r m a n   , n 1 9 8 3 )

, 

S . 2 5 8 .  

)  C

f .   S c h u t z

, A. 

C o l l e c t e d  P a p e r s  I

, 

Th e 

Problem  0 1   s

ω i a l  R e a l i t y

, 

e d .   M.Natanson

, 

( D o r d r e c h t :  Kluwer

, 

1 9 6 2

, 

1 9 9 0 )

, 

p p . 2 0 8

, 

229 

(渡部光・那須毒・西原和久訳『社会的現実 の問題 (IIH、マルジュ社、

1 9 8 5

1 0

頁以下、

3 7

頁参照)。

(4)  C f .   i b i d .

, 

p . 2 3 3 .  

(前掲訳書、

42

頁参照)。

(  5)  I b i d .

, 

p p . 2 0 8

2 0 9 .

(前掲訳書、

1 1頁

)

(  6  ) H e i d e g g e r

, 

M.

, 

S e i n  und Z e i t

, 

S . 3 7 1  

(7)  岸田秀『幻想の未来』、河出書房新社、

1 9 8 5

1 3 0

頁参照。

(8)  A・カミュ(清水徹訳)Wシーシュポスの 神話』、新潮文庫、 19ó~ 年、 24 頁。

寸一

(  9  ) 

本文とは文脈が全く異なるが、極限的な 状況(たとえば強制収容所)にあるときに

iOO

のために」と自分に言い聞かせて 生きる意味を見いだすことが、苛酷な境遇 に耐えうる心の支えとなるであろう。

v.

・フランクノレ(霜山徳爾訳)

W

夜と霧よ みすず書房、

1 9 7 1年

1 8 2

頁以下、同(山 田邦男・松田美佳訳)

W

それでも人生にイエ スと言う』、春秋社、

1 9 9 3年

1 3 3頁以下、

参照。

( 1 0 )   R' D 

.レイン(志貴春彦・笠原嘉訳)

『自己と他者』、みすず書房、

1 9 7 5

1 1 0

( 1 1 )  

プラトン(藤沢令夫訳)

W

ゴノレギアス』

4 8 4 c   ~ d

、世界の名著『プラトン

1

IJ所収、

中央公論社、

1 9 7 8

310

( 1 2 )  

藤沢令夫『プラトンの哲学』、岩波新書、

1 9 9 8

7 3

頁以下参照。

( 1 3 )   S c h u t z

, A. 

o p . c i

 .t

p . 1 6 .  

(渡部光・他訳『社 会的現実の問題

(1

H、マノレジュ社、

1 9 8 3

64

)

(1

4 )   J o n a s

, 

H.

, 

T e c h n i k

, 

M e d i z i n  und E t h i k

, 

3 . A u f l .

, 

( F r a n

同 国

a . M . :I n s e l

, 

1 9 9 0 )

, 

S

.4

6 .  

(1

5 )   J o n a s

, H. 

Dω P r i n z

' 1 V e r a n t w o r t u n g

, 

( F r a n k f u r t  a . M . :   I n s e l

, 

1 9 7 9 )

S . 3 6

(1

6 )   I b i d  

Fh d 

d

斗 ム

(7)

γ 

奈医着短紀要

VOL3.1999 

Uber d i e  A l l t a g l i c h k e i t  

lKEBE Y a s u s h i  

Nara M e d i c a l  U n i v e r s i

C o l l e g eof  N u r s i n g  

Was i s t   d e r  Mensch

Urnd i e s e  F r a g 呂 田 b e a n t w o r t e n

r n u s s e n  w i r  d i e  S e i n s a r t  e i n e s  a 1 1 t a g l i c h e n   Menschen d . h .   d i e  Al l t a g l i c h k e i t  b e h a n d e l n .  I n  d i e s e r  Abhandlung s t e h e  i c h  a u f  d i e s e r n  S t

d p u n k tund  e r o r t e r e  d i e  A l l t a g l i c h k e i

t. 

D a b e i  b e h a n d l e  i c h  v o r  a l l e r n  d i e  f o l g e n d e n  z w e i  T h e r n e n  

1 .   Die A l l t a g l i c h k e i t  w i r d  m e i s t e n s  von u n s  v e r g e s s e n  und k o m r n t  n i c h t  i n  Be

a c h

t.

Wenn s i e   a b e r   e i n e n  R i s  b e k o r n r n t  und w i r  a n  b i s  j e t z t  s e l b s t v e r s t a n d l i c h e n  S a c h e n

z w e i f e l nb e g i n n e n

, 

e n t s t e h t  e i n   Moment

, 

a u s   d e r n  w i r  n a c h  d e r  Al l t a g l i c h k e i t

a g e n .Dann w i r d  a u f  u n s  e i n e  p h i l o s o p h i s c h e  F r a g e   g e w o r f e n

, 

warum w i r  j e d e n  T a g . . d a s s e l b e  w i e d e r h o l e n  m u s s e n .   D i e s 己 F r a g ekann d i e   A l l t a g l i c h k e i t   e r s c h u t t e r n  und auserdem d i e  B u h n e n a u s s t a t t u n g ,  worauf w i r  l e b e n ,  z e r s t o r e n .  

2 .   Die a 1 1 t a g l i c h e  Welt i s t   u n s  von V o r g a n g e r n  u b e r k o r n m e n  und w i r  u b e r l i e f e r n   s i e   N a c h f o l g e r n  

V o r g a n g e r  und N a c h f o l g e r  s i n d  d e s h a 1 b  M i t g l i e d e r  d e r  a l l t a g l i c h e n  Wel

t. 

U b r i g e n s

, 

i n  u n s e r e n  Tagen 

r n a c h t  s i c h  m

s c h w e r eS o r g e n  darum

, 

d a s  r n o d e r n e  T e c h n i k  e i n e n  n a c h t e i l i g e n  E i n f l u s  a u f  Zukun

a u s u b

 t.

A l s o  mussen w i r  d i e  A l 1 t

l i c h k e i tr n i t   R u c k s i c h t  a u f  Z u k u n f t  u b e r l e g e n .  D i e s  i s t

, 

wie H . J o n a s  

s a g t

, 

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刊 民

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