悠久のナイルと人々
展示解説編
2011.11
東海大学 鈴木八司コレクション展
ブラックトップ(黒頂)土器とは、胴の部分が赤褐色で、口縁部(縁の部分)が黒くなっているものを言います。
多くは胴の部分に文様がない赤褐色の土器ですが、文様が施されているものも存在します(図 1、図 2、図 3)。先 王朝時代のバダリ期(BC4100~3700 年頃)からナカーダⅡ期(BC3500~3200 年頃)にかけて多く見られます。
この時代の土器の素材となるものは、基本的にナイル川流域に堆積している泥(シルト)でした。その泥に繋ぎ
(混和材)となる繊維が混ぜられていました。
この時代の土器の成形は全て手で行われていたと考えられています。ろくろや回転台を使用して作る方法も存在 しますが、それはもう少し後の時代のことです。この成形方法の代表的な方法は「輪積み」と呼ばれています。そ れは、粘土で土器の底の部分となる円形の板を作り、その上に粘土のひもで作った輪を積み上げて行き、粘土の輪 同士を接着するため、表面に輪と輪の間の境界線が見えなくなるまできれいに指で均していく方法です。
この成形の後に乾燥を経て器面調整を行います。器面調整とは土器の表面の密度を高くし、より滑らかにするた めの工程であり、この作業を行うことによって土器の表面に光沢をもたせ、また水等の液体を入れた際に外側へ染 み出さない様にすることができました。この器面調整には幾つか方法がありますが、ブラックトップ土器に関して は丸石などの硬質なもので土器表面をこする burnish と言われる方法がとられていました。
この作業が終わるといよいよ土器を焼く作業に移りますが、ブラックトップ土器の大きな特徴である口縁部の黒 色はこの段階でつけられます。その方法は土器の上部を有機物に埋めた状態で焼成を行うもので、こうすることで 土器に含まれる鉄分と有機物が化学反応を起こし、黒く発色すると考えられています。
こうしてできるブラックトップ土器には様々な形(器形)のものが存在します(図 4、図 5、図 6、図 7)。
図1 図2 図3
図4 図5 図6 図7 出典
Wodzinska,A.,
2009 A Manual of Egyptian Pottery Volume1,AERA
文学部歴史学科考古学専攻 3 年 内田優樹
展示番号 4
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東海大学 鈴木八司コレクション展
土器にはその表面に装飾が施されているものがあります。縄を使って縄目模様を施す縄紋(文)(図1)や、ヘラなど の道具を使って主に線状の模様を施す刻線紋(図2)、顔料(絵の具のようなもの)を使って表面に柄や絵を描く彩文(図 3)など、細かく見ていけばその種類は様々で、もちろん無地の土器も存在します。
1.エジプトの彩文土器
本展示会で展示されている彩文土器は王朝が始まる前の時代―先王朝時代のナカダ(Naqada)文化期(紀元前 4000年~3050年頃)のもので、エジプトの彩文土器の中では一番古いものになります(図4)。その他彩文土器は新王 国時代(第18王朝~第20王朝:紀元前1550年~1070/1069年頃)や、ギリシア支配時代(紀元前332年~30年)にも 出現します。
エジプトのナカダ文化期の彩文土器にはいろいろな形があり、花瓶のような背の高い土器や壷や、現在わたしたち が使うようなお茶碗やお皿の形をしたものもあります。色合いは、茶色い地に赤色やこげ茶色の顔料で絵を描くものが ほとんどで、模様は幾何学模様(線や記号・図形のような模様)、又は棒人間のような簡単なタッチで人間や動物が描 かれていることが多いです。
新王国時代の彩文土器は青・赤・黒の3色を基調とした色合いで、主に水辺の動植物が活き活きとした姿で写実的 に描かれており、ナカダ文化期の彩文土器と同じく、様々な形をしたものがあります(図5)。
図 4:ナカダ文化期 チャールズ・フリーマン(1994)
図 5:新王国時代 第 18 王朝 A.HOPE(1987) A.HOPE(1987) 図 1:縄文 図 2:刻線紋
図 1、図 2 東海大学校地内調査団(2005)
図 3:彩文 A.HOPE(1987)
D.Arnold,J.Bourriau(1993)An Introduction of Ancient Egyptian Pottery,DEUTSCHES ARCHAOLOGISCHES 文学部歴史学科考古学専攻 3 年 石川桐子
展示番号 5.6.65
東海大学 鈴木八司コレクション展
古代エジプトにおいてビールは、もっとも一般的なアルコール飲料であり、古代エジプト人の食生活の重 要な一部を占めていました。古王国時代から国家からの給与または配給品目にも含まれていたことが知ら れており、貴族以外の人々にも比較的手に入りやすいものでした。また、各家庭でもビール作りが行われて いたと考えられています。ビールの材料には大麦やエンマー小麦などが使用されており、ナツメヤシの実、
ハチミツ、各種の香辛料などで風味付けがされていました。ビールのアルコール度数はあまり高くなく、ビタミ ンなどの栄養素も豊富だったことから、嗜好品というよりも食料の一部であったと考えられています。
ビール壷は、墓地から多く出土しており、死者への供物としても用いられていたと考えられます。また、エ ジプト各地の先王朝時代の遺跡からビール醸造址が発見されており、ビール作りは先王朝時代のうちにエジ プト中に普及し、初期王朝期頃からビールの生産が増加したと思われます。
伝統的な土器の成形方法は、ブラック・トップの土器にも用いられている粘土ひもを重ねていく「輪積み」と いう方法です。粘土ひもの痕跡は、土器の内側や外側の凹凸で確認することが出来ます。また、回転台(現 在のロクロのようなもの)を使用し、整形する場合もあります。ビール壷の制作も土器の胴部は粘土ひもを用 いて作られ、口縁部は回転台を使用して整形されました。
ビール壷は、時代の経過とともに形が変化していきます。先王朝の初期の段階では、成形の際に胴部の 粘土ひもの境が見えないように縦方向に丹念な調整が行われているのが確認できます。しかし、時代が下 るにつれて胴部の調整も粗雑になり、でこぼこした表面になります。口縁部も回転台は使用されず、指で押 し形を整えた痕跡が見てとれるようになります。
このように整形が雑になる理由は、統一王朝が出来て、国が大きくなっていくにつれてビール壷の受容が 増え、大量生産が必要になったためであると思われます。また、国全体で器形の統一が行われるようになり、
作りやすい粗製なものに変化したと推測されています。
ビール壷の器形変遷 (Köhler 他 2004)
出典
Köhler, E.C., Smyth, J.C.,
2004 “Early Dynastic Pottery from Helwan- Establishing a Ceramic Corpus of the Naqada III Period”, Cahiers de la Ceramique Egyptienne 7, pp.
123-143
文学部歴史学科考古学専攻 3 年 藤生彩乃
展示番号 8
東海大学 鈴木八司コレクション展
古代エジプトでは住宅には日干煉瓦が使われましたが、神殿などの恒久的建造物には石材が使われました。
石材の種類は、主に石灰岩・砂岩・花崗岩などで、最もよく使われた石材は石灰岩です。エジプトは大部分が石灰岩台地 であるため、材料の調達も容易でした。最も有名なギザの 3 大ピラミッドも大部分が石灰岩のブロックを使って作られており、
石灰岩はナイルの対岸にあったトゥラ石切り場から運ばれていました。砂岩も石灰岩と同様に、軟らかくて加工が容易なた め、広い範囲で使われていました。特にアマルナ時代の建造物には砂岩で作られてものが多くみられます。一方、硬い石材 の代名詞と言うべきものが花崗岩です。花崗岩は石灰岩や砂岩などの堆積岩と違って、火山活動によって作られた岩石で、
しっかりとしていて壊れにくいですが、切り出しや運搬には困難を伴います。花崗岩は主にアスワン以南で採石されていまし た。古代エジプト人は苦労して硬い花崗岩を切り出して運搬し、建材として使っていました。カルナクにあるアメン大神殿や ルクソール神殿のオベリスクなども花崗岩で作られています。それほど硬い石材を使う背景には、神殿の中でも恒久的な意 味合いをもつ記念物を残したかったからではないでしょうか。
これらの石材で造られた神殿の塔門・壁面・柱などには浮彫装飾(レリーフ)が施されることが多くあります。浮彫装飾には、
神々の姿や神々の面前で儀式を司る王の姿、王の偉業を称える場面、戦闘場面、それに伴う碑文などがあります。
石材に施される浮彫には 2 種類あります。1 つは、高浮彫です。これは、碑文や王の姿など、表現する部分の図像の背景 となる部分を削る、という方法です。2 つ目は、沈み浮彫です。これは、表現する部分の図像のところを削る、という方法です。
これらの浮彫方法には時代差がありますが、概して沈み浮彫がよく使われていたようです。なぜなら、高浮彫は沈み浮彫よ り削るのに時間がかかるからです。
参考文献
リチャード・H・ウィルキンソン著 内田杉彦訳 2002 『古代エジプト神殿大百科』 東洋書林
ルクソール神殿 オベリスクと王像は花崗岩製 (撮影山花) カルナク アメン大神殿 トトメス 3 世祝祭殿 壁面浮彫(撮影山花)
文学部歴史学科考古学専攻 3 年 野村隆道
展示番号 18.32.41 62.63
東海大学 鈴木八司コレクション展
1.旧石器時代
旧石器時代とは、狩猟や採集を行っていた時代です。まだ土器は使用されておらず、石器が生活の基盤だったの で、現代の我々はその石器研究に基づいて当時の社会の様相を推定復元しています。下部旧石器時代と呼ばれる時 代では、石核石器という最も原初的な石器や剥片石器を使い、狩猟や獲物の動物骨髄を取り出すために用いていた と考えられています。中部旧石器時代になると、ルヴァロワ技法という剥離技術を用いて定型化した石器を製作で きる技術が現れます。次の上部旧石器時代では、石刃と呼ばれる石器が出現し、石器を大量に製作できるようにな ります。旧石器時代も終わりに近づくと、これまで以上に小さい石器である細石器が使われます。
2.新石器時代
新石器時代になると、気候変動によって砂漠化が進み、人々がナイル川流域に移住します。それに伴い土器が出 現し、農耕が開始されたと考えられています。この頃から鎌刃に使用したと思われる細石刃が多く出土するように なり、穂を刈り取っていたことが想定されます。つまり、新石器時代に農耕社会が出現したことを示しています。
3.銅石器時代
銅石器時代(先王朝時代中期〜末期)では、銅製品が使われ始めます、依然石器の需要も高く、この時代特有の 細長い石刃が多く作られるようになります。技巧を凝らした特異な形態をした石器も数多く出土します。例えば先 端が二股に分かれる魚尾形石器(”Fish Tail”)は、儀式的な場面で用いられたと考えられています。形象石器とし てカバやイヌ(山犬)などを模したものも現れます。王朝が開始し、利器としての金属製品の使用が増える中でも、
石器は依然として遺跡から数多く出土し、その歴史を通じてエジプト人がいかに石器に依存していたかが理解でき ます。
展示番号 1.2.3
文学部歴史学科考古学専攻 4 年 竹野内恵太
東海大学 鈴木八司コレクション展
古代エジプトでは、パレットは先王朝時代の初頭から制作されてきました。パレットは化粧板とも呼ばれ、しば しば緑色のマラカイト(孔雀石)が表面に付着していることから、これらの鉱物を擂り、アイラインの顔料を作る ために用いられたと考えられています。パレットは主に硬砂岩製であり、制作には高度な技術を有するため、高級 品としてエリート層の人々に好まれました。最も頻繁に副葬される土器と比べて、パレットはあまり副葬されませ んでした。盗掘による影響もありますが、平均して墓全体の 15%しか副葬されず、その希少性が理解できます。ま た、パレットは副葬品の統計分析から、女性の墓には多く副葬されていることがわかっています。
ナカーダⅠ期ごろでは、シンプルな菱形が主な形態(図1)でしたが、ナカーダⅡ期ごろには、亀や鳥、魚、カ バといった動物を模したパレット(図 2)が増加していきます。ナカーダⅢ期には、王権の出現とともに、王権を誇 示するような彫刻が施された記念碑的な役割を持つパレットがあらわれました。
有名なものでは、ヒエラコンポリス出土の「ナルメル王のパレット」(図3)があり、上下エジプト統一を記録した ものと考えられています。
図1 図 2 参考文献
Alice, S., 2009 “Palettes”, UCLA Encyclopedia of Egyptology, Los Angels.
http://digital2.library.ucla.edu/viewItem.do?ark=21198/zz001nf6c0
出典
UCL Collection’ Online Catalogue Petrie Museum, http://petriecat.museums.ucl.ac.uk/search.aspx
展示番号 14.15
図 3
文学部歴史学科考古学専攻 4 年 竹野内恵太
東海大学 鈴木八司コレクション展
古代エジプトにおいて石製容器は先王朝時代から制作され始め、現代でもナイル川下流域には石製容器制作を生業としている職人が 存在しますが、制作技術に関してはよくわかっていません。様々な石材、とくにアラバスター(雪花石膏)や石灰岩、玄武岩が用材と して加工されました。石製容器は土器や石器といった遺物に比べて出土量も少なく、おそらく高級品としてエリート層の人間の墓だけ に副葬されたと考えられています。
古代エジプトの石製容器はナカーダ期頃に出現します。初期の容器の形は南メソポタミアを起源とする形(図1)であり、エジプト へはメソポタミア方面からもたらされた可能性も指摘されています。ナカーダⅡ期に入ると把手付きの壺(図2)が多くなり、また使 用石材の種類も豊富になります。ナカーダⅢ期になるとナイル川下流域全体で容器が規格化され、大型化します。初期王朝時代にはサ ッカーラやアビュドスの王墓はアラバスター製の円筒形の壺や鉢が大量に副葬されます。この頃から容器外面に王銘が刻まれる事例が 現れます。また、古王国時代に入ると王銘が刻まれた石製容器は東地中海沿岸諸国に贈物として輸出され、オリエント世界との繋がり も垣間見ることができます。
図1 図2 出典
Aston, B. G., 1994 Ancient Egyptian Stone Vessels: Material and Forms, Heidelberger Orientverlag
展示番号 16.30.70
文学部歴史学科考古学専攻 4 年 竹野内恵太
東海大学 鈴木八司コレクション展
葬送用コーン(funerary cones)とは古代エジプトで使用された土製の円錐形の遺物です。
葬送用コーンは手づくねで円錐形に成形されます。底面となる円形の部分は印面と呼ばれ、その印面に は古代エジプトの文字であるヒエログリフ(聖刻文字)で書かれた文章がスタンプ状のもので押印されていま す。大半の葬送用コーンは素材である土の色をしていますが、中には顔料を用いて赤色や白色に彩色され ているものも存在します。
葬送用コーンは主に古代エジプトの支配階級の人たちの墓から発見されます。一人の墓から何十個もの 葬送用コーンが出土することもあります。しかし葬送用コーンが元来据え付けてあった場所(原位置)から発 見されるということは少なく、葬送用コーンがどのような理由で作られ、どのように使用されていたのかという ことは未だに解明されていません。
葬送用コーンが古代エジプトで使用された期間は中王国時代~末期王朝時代までで、もっとも盛んに製 作されたのは新王国時代第 18 王朝時代です。
葬送用コーンの印面には主に「その葬送用コーンの持ち主(=墓の被葬者)である人物の名前」、「被葬者 の役職」、「被葬者の家族情報」、「オシリス神(死後の世界を司る神)への参拝文」などの情報が箇条書きに 書き込まれています。印面のデザインはさまざまで、一人の持ち主が印面のデザインの異なる葬送用コーン を何種類も持っていることもあります。その印面のデザインは現在見つかっているだけのものでも 600 種以 上に上ります。
引用 Zenihiro, K., 2009 The complete funerary cones, MARUZEN, Tokyo
文学部歴史学科考古学専攻 4 年 鈴木菜央
展示番号 27.28
東海大学 鈴木八司コレクション展
1.古代エジプト人の死生観と棺
古代エジプトの人々は、人は死ぬことにより、来世での永遠の命を得ることができると考えていました。彼らは再び新たな 生命を得たときに肉体が復活すると考えていたため、死者の体を加工してミイラにすることによって、肉体を長期保存しよう としました。そのミイラを守るために、ミイラを納める「ミイラ棺」が作られるようになりました。棺には亡くなった人が無事復活 できるよう、祈りの言葉(銘文)や神々の絵が描かれました。
2.棺の形
古代のエジプトではさまざまな形の「ミイラ棺」が作られました。その形や装飾は時代によって違いが見られます。第 17 王 朝のエジプトでは、長方形の棺や布をぐるぐると巻いたミイラのような形をした棺がありましたが、第 18 王朝に入ると、棺は 全体的に丸みを帯びて人の体のラインに似た形になってきます。続く第 19 王朝に入るとミイラ棺に手の表現が付け加えら れます。
ミイラ棺の中で最も美しいとされている棺は第21王朝ごろから見られます。棺は赤や緑、青、黄色など明るい色で彩られ、
復活を祈る言葉が細かく描かれています。棺の胸の部分はビーズ文で表現され、アメン神に関連する赤い革紐がクロスし て描かれているものもあります。第 22 王朝以降は、それまで使用されていた木棺よりもカルトナージュ(麻を粘着性の強い 樹液や石膏で固めて作られる)棺がよく使用されるようになります。形もミイラのような形に戻り、棺に描かれている祈りの言 葉は短く、神様の絵も少なくなるなど、簡素なものへと変化していきます。
このような棺の形の変化は、当時の社会の影響によるものと考えられます。現在の社会において、特に考古学という学問 の分野から見れば、古代エジプトの棺は当時の人々の死生観だけでなく、社会背景まで見るための貴重な資料としての価 値も有しているのです。
図 2:第 19 王朝のミイラ棺 図 3:第 22 王朝のミイラ棺
図版参照:Jhon J. Taylor 2001 Death and the Afterlife in Ancient Egypt, University of Chicago 図 1:第 17 王朝のミイラ棺
文学部歴史学科考古学専攻 4 年 田代恵美
展示番号 33
東海大学 鈴木八司コレクション展
左下の写真の土器(図1)は、エジプトと近隣諸国との交易の証です。地中海のキプロスで作られエジプトに交易品 として渡ってきました。正面に描かれている、同心円文と呼ばれる丸い円が特徴的な作品です。
近隣諸国との交易は、中王国時代にはすでに始まっていたと考えられます。新王国時代のエジプトは様々な地域と 盛んに交易を行っており、図 5 のような交易ルートを回って品物がエジプトにきたと考えられます。エジプトからは今回 のようなキプロス島の把手付きの水差しやミノア文明の土器と思われるものが数多く見つかっています。
こうした外来の影響はエジプト美術にも取り入れられて行きました。図 2 のレクミラー墓壁画には独特な衣装を着た クレタ人と彼らの持つ特徴的な土器が描かれています。中王国時代のエジプトの壁画の多くに、写真のクレタ人が巻 いている腰布に描かれているようなミノア文明特有の渦巻き模様(スパイラル)が描かれており、それはエジプトの土 器などに頻繁に描かれていくことになります。渦巻き文様には図 3(マルカタ王宮壁面復元)や図 4(インヘルカウ墓)の ようにいくつかの種類があり、こういった渦巻き文様を他のデザインと組み合わせるなどして土器を装飾していくため、
渦巻き文様だけでなく、実に様々な装飾がエジプトにもたらされました。
図 1
図4
図 2 図3
図 5
文学部アジア文明学科 2 年 松本良美
展示番号 46
東海大学 鈴木八司コレクション展
古代エジプトでは、毎年ナイル川の増水が引くたびに農地の再建をする必要がありました。そのため所有地 の境界を引きなおし、土手を作りなおし、水路を掘る作業が行われていました。こうした農耕作業に従事する 労働力は来世でも必要とされ、来世ではたとえ王家の者でも労働から免れることはできないと考えられていま した。よって故人に代わって来世で労働する者として、墓に副葬されたのが人の形をしたシャブティ(ウシャ ブティともいう)です。
シャブティは第1中間期から確認されていますが、農耕作業に従事する役割が特に強調されるのは新王国時 代以降と考えられています。新王国時代になるとシャブティには所持品としてカゴや麻袋(肩掛けバック)、
くわなどさまざまな農具を手や肩に持つ姿が描かれるようになります。新王国時代初頭は1つの墓につき5~
10 体が副葬される程度でしたが、段々と数が増加し、増えたシャブティの管理をするためにムチを持った「監 督役」のシャブティが置かれるようになりました。中には日常衣を着たものや、王の象徴である冠や長い顎ひ げなど、所有者の地位を表すような装飾が施されたシャブティもあります。また材質は変化に富み、木製、石 製、テラコッタ製、ファイアンス製、希少ながらガラス製やブロンズ製などもありましたが、特に青色のファ イアンス製が主流でした。青色は冥界の神・オシリス神の象徴であることから特に好まれていたと考えられま す。型を使用した製作方法により大量生産も行われました。
第 3 中間期、末期王朝時代と時代が下るにつ れ、埋葬数は増加するものの形態は統一され、
材質は青色のファイアンス製が占めるように なります。これは、他民族との交易や支配に よって、何度もエジプト国内の情勢が変化し たことから、シャブティの意味が薄れたこと が原因と考えられます。
このようにシャブティは、当時の社会情勢や 人々の意識を反映しているものと言えます。
文学部歴史学科考古学専攻 OG 清水美里
展示番号 36
東海大学 鈴木八司コレクション展
古代の歴史・考古学研究の分野において「ファイアンス」とは、土器や陶器のような粘土を主原料としているものとは 違い、石英の粉を主原料としてつくられた「やきもの」の総称として使用されています。
ファイアンス制作の歴史は非常に古く、エジプトのナイル河中流域の河畔と北メソポタミアにおいて B.C.4500~
4000 年ごろにあらわれ、その後エジプト全土から東地中海沿岸を中心とした地域へ広まりました。
表面が青く光り輝いているのは、銅を着色剤として施しているからです。また、ファイアンスは青色のものだけでなく、
ほかにも黄、緑、紫、赤、黒など、様々な色があります。
古代エジプトのファイアンスはほとんどが青色や青緑色をしていますが、その理由としては、古代エジプトでは青色 は「生命」や「復活」を表す色であるということがひとつあげられます。また、エジプトにはない、ラピスラズリのような希 少な青色の鉱物を模倣したのではないかという説もあります。
ファイアンス製品として生産されたものの種類は非常に多く初期の段階では小さいビーズなどの装飾品や、動物の 像などのみでしたが、時代がすすむにつれて、大きく、形の整ったものが大量に生産されるようになり、新王国時代の アメンヘテプ3世の治世(B.C.1390〜1352 年ごろ)には、神像や王像、指輪、襟飾り、護符、容器、装飾タイル、シャブ ティなど多種多様な製品が生産されました。
ファイアンス製の護符 (1994 Andrews)
参考文献
山花京子 2007 『古代エジプトのファイアンス研究』 東海大学 Andrews.C., Amulets of Ancient Egypt, University of Texas Press
文学部歴史学科考古学専攻 3年 前久保圭太
展示番号 17.47.48 55.56.60
東海大学 鈴木八司コレクション展
1.スカラベと古代エジプト
古代エジプト人は、日没のときに衰えた太陽は夜のうちに冥界を旅し、翌日には復活再生を遂げ、東の空から昇るのだと 考えられていました。これは新王国時代に王墓に描かれた『アムドゥワトの書』などから、知ることができます。この書の最後 の場面で、再生した太陽を地平線より上に押し上げる役割をしているのがスカラベ甲虫(フンコロガシ)(Scarabaeus sacer)
です。そのため、日出を象徴する太陽神ケプリはスカラベの姿をしています。
このように、スカラベは復活再生を象徴するものとして、墓や神殿の壁画、様々な装飾品のモチーフとして多く利用されま した。そのため、スカラベを象った印章(スカラベ印章)も復活再生を願った護符、装飾品として墓に納められました。
2.スカラベ型印章の発展
スカラベ型印章は、スタンプ印章の発展形として第 1 中間期に登場します。初期の物は、出土例が極めて少なく、女性や 子供の墓に副葬品として納められた物がごく一部の地域で見つかっている程度です。また、この時期の印面は、幾何学模 様が主で、ヒエログリフや古代エジプト的なモチーフはほとんど見られないため、印章としてではなく、護符や装飾品として 使用されていたと考えられています。
中王国時代になると神殿や集落から封泥として使われたスカラベ型印章の印面を捺印した粘土塊が出土しており、この 頃になると印章としても使用され始めます。また、この頃になると西アジア地域にも持ち込まれ、在地で作られるようになり ます。
新王国時代には、クフやカフラーといった古王国時代の王やトトメス、ラムセスといった有名な王の名やアメン、ラー、ホ ルス、イシス、オシリスといった神々の名、彼らをイメージした図柄が印面に刻まれたものが作られるようになります。これは 王や神の名や像の刻まれた印章を身につけることで、自らの身に彼らの力の一部を宿すことが出来ると考えられていたから だといわれています。
この様にスカラベ型印章は護符としてだけでなく、印章としての実用的な側面も同時に持ち合わせていました。護符とし ての利用も新王国時代になると様々な目的に利用されました。また、西アジア、ギリシア、ローマなどエジプト以外の地域に も持ち込まれ、装飾品として利用されました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Scarabaeus_sacer
文学部歴史学科考古学専攻 OB 佐藤由浩
展示番号 57
東海大学 鈴木八司コレクション展
青銅とは銅に錫を加えた合金で、銅に対する錫の割合は現在では 10%が最適だとされているが、青銅器 時代においては 3~30%と多様である。銅よりも硬質で耐久性にすぐれた金属といえる。
この青銅の登場によって、それまではフリントなどの石製や銅製でつくられた利器や武器などが青銅製の ものに置き換えられていった。しかし当時の青銅作りは高度な技術を要し、貴重な金属であったため大衆の 生活に影響を及ぼすものではなかった。鉄製品が出現するとその硬さや産出量などから様々なものが鉄製 品に取って代わられるようになったが、エジプトで鉄器が一般的に普及し始めたのはローマ時代になってか らである。つまり、古代エジプトでは、王朝時代の大部分を青銅製品が支えたことになる。
青銅をつくりだすために必要な錫は古代エジプトでは産出せず、青銅器の登場は他のオリエント地域より 遅れ紀元前 2000 年頃とされている。古代エジプトでは、鑿(のみ)や鏨(たがね)、ナイフなどの利器、槍先、
剣・短剣の刃、鏃、斧など武器によく使われた。同時に高価なものであったため、装飾品や奢侈品などにも 使用された。
参考文献 Petrie,W,F.,
1917 Tools and Weapons, British School of archaeology , London 出典
Aruzu, J., Benzel, K., and Evans, J.M., (eds.), 2008 Beyond Babylon: Art, Trade and Diplomacy in the Second Millennium B.C. Metropolitan Museum of Art
文学部歴史学科考古学専攻 3年 冨山貴央
展示番号 68
東海大学 鈴木八司コレクション展
ガラスの起源には諸説ある。紀元前1世紀のプリニウスの著述によると、天然ソーダを扱う職人たちが浜で食事の 支度をしていた時、大鍋を支えるのに適した石が見つからなかったので、積荷の中から取り出したソーダの塊の上に 鍋を載せて火を起こしたところ、ソーダの塊が砂とともに熱せられ、見たことのない半透明な液が筋となって流れ出た ことがきっかけとなってガラスが発見された。もう1つは茶碗などに塗られている釉(ゆう)が単体で固まった結果、偶然 に出来上がったと言われている。
世界最古のガラスは、紀元前 2500 年頃、メソポタミアのヌジという遺跡で発見された珠だ。エジプトでは古くから偶 発的なガラスビーズや護符は存在するものの、それらは加熱しすぎて芯までガラス化したファイアンスであるという見 方が強い。ガラスを作る技術はエジプトで生まれたものではなく、現在のシリアにあったミタンニ王国という所から伝え られ、新王国時代に入って盛んに作られ始めた。これは、エジプトにおいて紀元前 4000 年前後には登場するファイア ンスなどと比べてかなり遅い時期である。
ガラスはとてもカラフルである。では、どうやって色を付けていたのだろうか。その正体は金属である。銅や鉄や錫、
マンガンなどの金属鉱物を混ぜることによって数多くの色を生み出していた。赤や黄色、緑、コバルトブルーなど、当 時からその色は鮮やかで、宝石の輝きによく似ていたことから、最初は代わりの品として用いられたと言われている。
また、当時のガラス製品は単純な形だけでなく、動物などの複雑な形のものも多かった。その形を作る方法のひと つに「コア技法」というものがある。その手順は金属の棒(ロッド)を用意し、その周りに粘土と砂を混ぜて作ったコア(芯 材)を厚く巻く。そして、その上から熱で熔かしたガラスを巻きつけて好みの形に整えた後、冷やすのだ。冷やすことで 金属棒(ロッド)は外れ、コアを削り落とすと、完成である。
図 1 古代メソポタミアの主要都市(三笠宮 2002 を一部改変) 図 2 コアガラス製作の作業工程(Nicholson,P.T. &Shaw,I.,2000)
参考文献
谷一尚 1999『ガラスの考古学』 同成社: 三笠宮崇仁 2002 『文明のあけぼの 古代オリエントの世界』 集英社: 中井泉 2011 「古代西アジ アにおける着色顔料の変遷」 『日本西アジア考古学会 公開シンポジウム 西アジア文明史における 技術革新史像の構築』 日本西アジア考古学会:
Nicholson, P.T., and Shaw, I., (eds.),2000, Ancient Egyptian Materials and Technology, Cambridge University Press
文学部歴史学科考古学専攻 4 年 長谷川笑美
展示番号 58.73.77.78 81.85.86
東海大学 鈴木八司コレクション展
ラスター彩陶器はアッバース朝時代(紀元後 750-1258 年)の紀元後9世紀初めに誕生し、11世紀に入る と製陶地が増え、その後12世紀にはラスター彩陶器のなかでももっとも精巧な器形や文様を持つものが作 られました。13世紀に入るとモンゴル諸勢力の侵攻によってアッバース朝が滅ぶと、陶器焼成技術は衰え、
ラスター彩陶制作は衰退してしまいます。16世紀末に、再度ラスター彩陶が作られるようになりますが、陶 器の質は全盛期に比べると劣っていました。
ラスター彩陶が制作されるようになった背景には、2 つの大きな理由が挙げられます。ひとつは、8世紀末
~9世紀前半にかけての陶磁器文化の発達、もうひとつは、金属器使用禁止令です。
当時は、イスラーム都市が栄え、人々の暮らしが豊かになってきていた時代でした。そのような人々の購買 力を背景に、唐白磁•唐三彩•青磁などの良質な中国陶磁器が流入しました。同時に、それらを模倣しイスラ ーム風にアレンジを加えた陶器も作られるようになりました。また、アッバース朝のカリフは富裕層の間で流 行していた贅沢な金属器の使用を禁止しましたが、奢侈品を求める人々の要求は依然高く、金属器に似せた色 合いを持つラスター彩陶器が開発されたのです。
ラスター彩陶器は、中国陶器に似せた錫白釉陶器をベースに酸化金、酸化銀、酸化銅といった金属を調合し た釉薬で文様や図柄が上絵付けされます。そしてこれを焼成すると、写真のように金属的な輝きをもった陶器 になるのです。絵付けされた部分は焼成後、白や緑、黄褐色、紫などの色になり、虹色に輝きます。
ラスター彩陶器の器形は盤や鉢などが主流でしたが、小皿や水差しなど様々な形もあります。陶器の器面に 描かれるのは複雑な幾何文様図や人物絵、物語絵などです。また、余白にはくまなく魚子文(ななこもん、金 属器をつくるときに現れる打痕文に似せたもの)が描かれているものもあります。
参考文献:管英志 1979 『ペルシアの遺宝 3』 新人物従来社
12 世紀 エジプト出土
Freer Gallery, Smithsonian Institutions, Washington D.C.
文学部歴史学科考古学専攻 2年 小嶋花々子
展示番号 90
東海大学 鈴木八司コレクション展
陶磁器とは 日本では「焼き物」を土器・炻器(せっき)・陶器・磁器と分類していますが、その後者ふたつを合わせて
「陶磁器」と呼んでいます。焼成温度は陶器は 1000 度、磁器は 1200 度以上に達し、たいへん硬質な焼き上がりとなり ます。陶磁器のイメージとして「白」が挙がるかもしれません。その「白い」由来はカオリンという鉱物が使用されている からです。施釉の方法やその色使い、陶土などの試行錯誤の繰り返しによって、数々の名陶が日本各地につくられま した。中国においても同様で、殷代頃より陶磁器生産がはじまりますが、後漢・三国時代以降に青磁などが普及してい きます。特に中国歴代王朝直営の窯(官窯)では代々特有の陶磁器がつくられたことは、考古学資料としても有益なも のとなっています。製陶技術が発展する中で、民間の窯(民窯)においてもたくさんの陶磁器がつくられて広く海外に輸 出されました。
中国陶磁器と鈴木コレクション 中国陶磁器は青磁・白磁・青花(染付)が代表的なものになります。まず、青磁は中国 江南地域の越州窯系・竜泉窯系で焼成されたものが代表であり、緑色~淡青色を呈しています。特に宋代に隆盛を極 めました。白磁は白い素地に透明釉をかけたものですが、中国では、華北地域を中心として北斉から北宋にかけてつ くられたもので、官窯であった 州窯・定窯のものが特に有名です。青白磁は北宋時代頃に景徳鎮窯においてつくられ たもので、白い素地に薄らと青みがかった釉色が特徴的です。国内用はもとより海外輸出用にも生産されたことは、フ スタート遺跡をはじめとしてヨーロッパや西アジアから大量に出土していることからも分かります。青花は、白磁の素地 にコバルトによる顔料によって絵付けをした後に、透明釉をかけて焼かれたものです。コバルトは、元時代にはイスラ ム商人によって入手され、東西交易の中で誕生した陶磁器といえるでしょう。明代に入ると、さらに色絵と呼ばれる技 法が普及し、色彩豊かな陶磁器が誕生します。そして清代の各王朝下で陶磁器は華麗なる発展を遂げます。
鈴木コレクションでは、これら中国製の青磁・白磁・青花がみられますが、フスタート遺跡を中心として鈴木先生が踏 査したエジプトやアラビア半島の諸遺跡で収集されたものも含まれているようです。重くてかさばる陶磁器の運搬には 海路がとられますが、そうした中国と西アジア・ヨーロッパを結ぶ「海のシルクロード」の一端をみることができます。
模倣された中国陶磁器 鈴木コレクションの中には中国陶磁器のほかにも西アジアや地中海沿岸でつくられた陶磁器 をみることができます。その中には中国陶磁器を真似して作られたものもみられます。いかに中国陶磁器に憧れてい たのかを知ることができますが、素地、絵柄ともに雑なものが多く、質が劣る印象を受けます。中国陶磁器は西アジア やヨーロッパ世界においても重要な物品であったことがわかります。
参考文献
竹内順一監修 2000 『すぐわかる東洋の美術』 東京美術 中島誠之助 1996 『中国陶磁入門』 平凡社
文学部歴史学科考古学専攻 4年 森さつき
展示番号 87.91
東海大学 鈴木八司コレクション展
鈴木コレクションの中には、イエメンで入手したと思われる数点の古代南アラビア語碑文が含まれている。
いずれも石製で、1行から5行にわたって古代南アラビア文字が刻まれている。ここに展示した品の碑文が、
最長である。
紀元前1千年紀からイスラーム勃興時まで、イエメンを中心とする古代南アラビア地方の内陸、高原地方で は、高度な文化が展開していた。サバァ、ハドラマウト、カタバーン、マイーンの四王国が並立し、さらに紀 元後にはヒムヤル王国が台頭し他の国を併呑している。乳香など香料貿易やダムなども使った灌漑農業で栄え た古代南アラビアの国富は、旧約聖書のシェバ(サバァ)の女王の伝説にも反映されている、とみる研究者も いる。
古代南アラビア文字は、古代南アラビア文化で使用された表音文字である。現在のアラビア文字と同じよう な子音アルファベット文字であり、最初期の碑文では書字方向が行ごとに交替する牛耕式で書かれているもの もあるが、後には、この碑文のように右から左に書かれるようになる。
古代南アラビア語は、古代南アラビア文字で記されたセム系の言語で、現在その後身にあたる言語が僅かに アラビア半島南部に残っている。いくつかの方言に分類されるが、ここに展示されている碑文は、サバァ方言 で書かれている。作成年代は紀元前3世紀から後3世紀くらいと思われる。
本碑文は、おそらく5行で、上部にさらに欠損した行があった可能性は少ない。しかし、右側には、数語分 の欠損があると推測される。
内容は、サバァ王国の都マァリブ近郊のアゥワームにある月の神イルムクフの神殿への奉献碑文であり、そ こから出土したものと思われる。訳は以下の通り。[ ]は欠損不明分を表す。
「[奉献者の名]、ハビーブ家の者達が[アゥワームの]主、イルムクフ神に奉献した、[ ]シルワーフ(族)
の[ ]青銅の像を。[イルムクフ神が彼らと ]幸福な彼らの息子達を守り、彼らに幸福な[ ]男子達を 加えられんことを。」
文学部アジア文明学科 春田晴郎
特別展示 92
【この冊子について】
1. 本誌は、『悠久のナイルと人々-鈴木八司
2011 11 1 12 17
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