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太 元 帥 法 に つ い て

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- 135 - 太元帥法について(堀内)

     太元帥法について

     

抄録  本論文は、天下の大法の一つに数えられている太元帥法について論じるものである。しかしながら、筆者はこの太元帥法について伝授を受けていない身であるため、自ずと論述に制約がある。その点を考慮しつつ、当論においては筆者が既に翻刻報告をおこなっている『太元秘記』や他の活字化されている太元帥法に関係する史料を用いて、請来者である常暁や法琳寺別当について、いささか概観していくものである。

      一、はじめに

  平成の陛下が退位せられ、令和元年五月一日今上陛下が即位された。ある時期より、天皇即位にともなって太元帥法が勤修されていたが、平成の御代においは、様々な理由によって太元帥法が修されることはなかった。当論においては、古には盛んに修されていた天下の大法である太元帥法について、少しく考察を加えてみたい。歴史ある太元帥法を取り上げることによって、令和の御代の安寧と本多隆仁先生の益々のご健勝を祈念申し上げたい。

      二、太元帥法と法琳寺別当次第

  太元帥法に関する史料(次第等は除く)として、古来より尊重されてきた代表的な史料を挙げると、以下のごとくである。すなわち、

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智山学報第六十九輯   ①『小栗栖請来目録』  ②『太元法縁起注申状』  ③『太元法阿闍梨次第記』  ④『太元宗勘文 (1)』 ⑤『太元法秘伝事』である。さらに、筆者が翻刻報告した史料として『太元秘記』がある (2)。これらを用いて、太元帥法についてあきらかにしていきたい。

  先ず、『太元秘記』であるが、この史料は以下の項目によって太元帥法について詳細に述べている。すなわち、一、具書事一、名号文字不同事一、形像事一、相承事一、附法血脈事一、小栗栖寺事一、別当次第事一、受法  沙汰事一、霊験事一、宣下事一、請件僧事一、遣取  秋篠寺香水并壇土事一、潔斎湯事一、御本尊并道具等渡事一、朝所敷設装束事一、朝所指図事一、内道場荘厳事一、伴僧交名書様等事一、香水一、壇供御明等支配事一、太  元法所呂物所□事以上の項目内容のうち、いわゆる事相に関係しないものについて取り上げながら、太元帥法について些か考察を加えてみたい。

  『太元秘記』

「具書事」にも示されているように、弘法大師は『金剛部元帥大将阿姙婆倶経』三巻を請来され、さらに『真言宗所学経律論目録』にも記して、真言宗僧が学ぶべき経典と定められている。が、一方で弘法大師が帰朝後に太元帥法を修されたいう記録は、未だ確認されていない。本朝において、太元帥法を最初に修したのは、小栗栖律師常暁(~八六六)であった。

  『太元秘記』

「相承事」では、常暁が帰朝後の承和六年(八三九)朝廷に提出した①『小栗栖請来目録』や、著者ならびに制作年代不詳である③『太元阿闍梨次第記』(亦云『入唐根本大師記』)、寵寿が著わした貞観十九年(八七七)正月十九日付の②『太元帥法縁起奉状』を引用して、我が国への太元帥法伝来等について紹介している。

  先ず、①『小栗栖請来目録』に述べられている常暁自身のことについて確認をしておきたい。当該書の末尾に、常暁は自らのことを以下の様に述べている。すなわち、

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- 137 - 太元帥法について(堀内)

常暁、本業は三論之枝にして真言之條をお送り兼ねぬ。才能聞こえず、言取ること無し。時に人の乏しきに逢って留学の員に簉なれり。限るに三十年を以てし、尋ねるに一乗を以てす。任重く人弱し、夙夜に懃愿す (3)。この文章は、三十年という期間は違えども、弘法大師の有名な「福州の観察使に与えて入京する啓」の冒頭の文章を下敷きにして著わされているものである。ここで常暁は、自らが三論と真言の兼学僧であること、さらには弘法大師に師事していたことを、大師の文章を用いることによって示そうとしていると指摘することができよう。

  そして、常暁は『小栗栖請来目録』冒頭において入唐学法沙門常暁言す。常暁、去りし承和三年五月を以て命を留学に銜み、遠く万里の外を期す。其の年、漂て迴る。四年亦、海を渡ることを果たさず。五年六月進発す (4)。とあるように、三回目にしてようやく唐の地を踏むことができたという。そして、入唐を果たした常暁は、不空三蔵(七〇五~七七四)の弟子である栖霊寺文より太元帥法を受法している。そして、太元帥法について『小栗栖請来目録』では如来之肝心。衆生之父母なり。国に於ては城壍たり。人に於ては筋脈なり。是の太元帥は都内には、十供奉以外には伝えず。諸州には節度の宅以表に出ずことなし。其の霊験不可思議なるによるなり (5)。さらに『太元法縁起注申状』では斯の尊は、則ち如来之肝心・衆生之父母。衛国之甲冑。防難之神方也。亦唯だ国王の為に専ら宮中に行じ、輙ち黎庶の為に城外に及ぼさず。是れ密法を秘重する所以也。須らく本国の求法之人を待ち得て、将に此の深密之法を属すべきのみなり。故郷之恩、此れを以て報ぜんと為す (6)。 と述べられている。つまり、太元帥明王が「如来之肝心」であり、人々の両親であり、国を護る甲冑の如きものであり「防衛の神方」であるとされている。まさにこの定義づけが、本朝における太元帥明王と、太元帥法の基本的概念とされてきたものである。

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智山学報第六十九輯   また、『太元秘記』には「裏書に云く」として、入唐前に秋篠寺閼伽井における有名な常暁に関する逸話を、「肝心集」あるいは「授心抄」に云くとして紹介している (7)。すなわち、秋篠寺の閼伽井の内に「極忿怒大鬼王」が姿を現し、常暁はその姿を図し秘匿していた。後年、「太元秘法」を伝授された際に見た太元帥明王と、常暁が秘匿していた図絵と校合すると寸分違わなかったというのである。つまり、この逸話によって、常暁入唐前に太元帥明王が日本に影向せられたということであり、明王とその修法を相承、請来する人物として常暁が選ばれし法器の持ち主であるということを示す逸話と考えられる。

  一般的に太元帥法は、醍醐寺系統で相承されてきた観が多分にあるが、『太元秘記』「附法血脈事」に示されている血脈では、不空三蔵・恵果和尚・恵応・文・常暁と相承してきた太元帥法が、仁和寺系統にも相承されてきたことが示されている (8)

  すなわち、大御室性信入道親王(一〇〇五~一〇八五)から、観音院僧都寛意(一〇五四~一一〇一)と成就院大僧正寛助(一〇五七~一一二五)へと伝承されている。寛意は性信入道親王付法の資であり、中御室覚行法親王(一〇七五~一一〇五)に灌頂を授けており、太元帥法を寛意は定覚、そして兼尊へと相承せしめている。また、寛意亡き後、仁和寺と御室を支えた寛助は、寛恵と真助と忍辱山流の寛遍の三人に太元帥法を授けている。そして、性信入道親王から始まる仁和寺系統の相承者において、二十六代から二十八代・三十一代・三十二代・三十五代から三十九代の法琳寺別当を輩出している。

  このような様相を呈した仁和寺系統の伝承について、そのおおもとをなした性信入道親王は、一体誰より太元帥法を相承されたのであろうか。そのことについて『太元秘記』では示されてはいない。私にそれを想定すれば、小野僧正仁海(九五一~一〇四六)をあげることができよう。『太元秘記』には裏書云く、浄蓮房御抄に云く、信源・信恩の両人は小野僧正の御弟子也。之れに依て仁海に伝わる (9)

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- 139 - 太元帥法について(堀内)

とあるように仁海は、太元帥法を信源と信恩から受法している。そして、性信入道親王が治安三年(一〇二五)仁和寺北院大僧正済信(九五四~一〇三〇)のもと、仁和寺観音院にて灌頂を授かる際には、仁海は嘆徳師を勤めている。この様に、仁海と性信入道親王には交流があり、信源・信恩から受法した太元帥法が、仁和寺・性信入道親王へと相伝された可能性を十分に想定することができよう。

  続いて、『太元秘記』「小栗栖事」では『太元法阿闍梨次第記』や『太元帥法縁起相承』等を引用して、法琳寺(小栗栖寺とも表記している)が、孝徳天皇の勅願寺として建立されたことを示している。また、『執行禅忍勘録』では法琳寺に以下の伽藍が存在していたことを示している。

   薬師堂(太元堂の東)   弥勒堂(薬師堂の東)   三重塔これらの伽藍は斉明天皇の御願であり、藤原鎌足の息である定恵(六四三~六六六)によって建立されたものであるという。さらには、太元堂は仁明天皇御願で、常暁建立。南堂院は朱雀天皇御願という。そして、太元堂の巽(東南)には衛護山という山が在るという (1

  次に『太元秘記』ではその法琳寺の別当次第が示されている。この法琳寺について『続日本後紀』に示されている常暁の文章では、承和七年六月丁未三日  入唐請益僧伝灯大法師位常暁言す。山城国宇治郡法琳寺は、地勢閑燥にして大法を修するに足れり。望み請らくは今般大唐より請し奉る太元帥の霊像秘法を此の処に安置して、修法院と為し、国家を保護し、講読師之摂に関らずと。之れを許す ((

。と法琳寺を以て修法院とする勅許を得ている。そして実現したかは不明で在るが、次のような文書が残されている。一、傍列に准ずるに因って年分度者三人を置かせられ受戒以後国家を誓護し法道を守護せ令められんことを請う状    経論真言等を試度すべし。

  太元宗業一人

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智山学報第六十九輯    阿姙簿倶経一部三巻    同上仏陀羅尼経一巻   金剛界業一人    守護国界主陀羅尼経一部十巻    新翻仁王経一部二巻   胎蔵界業一人    六波羅密経一部十巻    孔雀明王経一部三巻件の三業学生等は同じく三十七尊礼懺・随求大仏頂尊勝陀羅尼等を暗誦すべし (1

。前述のように、法琳寺に太元宗業をはじめとする三業の年分度者が認められたかは不明であるが、法琳寺に係わる人々にとって法琳寺が太元帥法の根本道場という意識は、格別のものがあったと推測できよう。そのために、東寺・貞観寺・神護寺・高野山、さらには梵釈寺・四天王寺等に准じて年分度者を賜り、課試の以後三年に限って寺内に住せしめ、法教を学習せしめ、国家を護るという申請であった。法琳寺のトップである別当が、太元帥法を専ら勤修していったことを考え合わせれば、あながち年分度者が認められなかったということもできないであろう。さらに、年次は不明であるが、法琳寺は朝廷に十僧を定置することを申請している。十人の内、七人が供僧であり、三人が三綱としている。いずれも、この申請時の十人は「真言宗  元興寺」と記載されている者達ばかりであった (1

  その法琳寺別当次第については、『覚禅鈔』や『法琳寺別当補任』等にその次第が示されているが、ほぼ五十代に満たない次第である。しかし、『太元秘記』には第七十一代宗典僧正までの次第が記載されているので、ここでは『太元秘記』に示されている別当次第を煩雑にはなるが示しておきたい。第一入唐根本律師常暁第二阿闍梨寵壽第三阿闍梨元如 

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- 141 - 太元帥法について(堀内)

第四阿闍梨命藤第五阿闍梨舒隆第六阿闍梨元忠 第七阿闍梨泰舜第八阿闍梨泰幽第九律師円照 第十阿闍梨誉好第十一阿闍梨妙誉第十二阿闍梨賀仲 第十三阿闍梨仁聚第十四阿闍梨泉埴第十五阿闍梨法圓 第十六阿闍梨信源第十七阿闍梨進恩第十八阿闍梨尊覚 第十九阿闍梨信算第廿阿闍梨眞宗第廿一阿闍梨源慶 第廿二阿闍梨宣慶第廿三阿闍梨定慶第廿四阿闍梨宣覚 第廿五阿闍梨良雅第廿六阿闍梨定覚第廿七阿闍梨兼尊 第廿八阿闍梨寛惠第廿九律師琳覚第卅法眼賢覚 第卅一権少僧都真助第卅二権律師覚耀第卅三法眼賢覚 第卅四僧都寛宗第卅五阿闍梨琳助第卅六僧都宗範 第卅七阿闍梨亮尭真第卅八法橋尊實第卅九阿闍梨信遍 第四十律師實嚴第四十一僧都覚鏡第四十二大僧都宗嚴 第四十三僧都蔵有第四十四律師蔵秀第四十五僧都蔵有 第四十六僧都長海第四十七法印光寳第四十八法印行嚴  第四十九法印成嚴第五十法印寛海第五十一代権僧正兼惠 第五十二権僧正寛伊第五十三法印成惠第五十四法印光誉 第五十五法印良伊第五十六法印信耀第五十七権僧正光誉 第五十八法印良伊第五十九法印隆雅第六十三代前大僧正宗助第六十四代権僧正賢耀第六十五代法印光信第六十六代前大僧正宗助 

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智山学報第六十九輯

第六十七代法印光覚第六十八代前大僧正宗観第六十九代前大僧正宗済第七十代権僧正公嚴第七十一代宗典僧正これらの別当のうち、第七代の泰舜(八七七~九四九)は、平将門の追討のため法琳寺で伴僧二十口で太元帥法を修した賞によって律師に補任されている。同様に第四十代実厳は源頼朝調伏の為に、第五十二代権僧正寛伊は蒙古調伏の為に、各々太元帥法を修しことが記述されている。

  このように法琳寺別当が、太元帥法を統括し、そして太元帥法を修してきたが、ある時その別当相承に問題が起こっていた。そのことについて、『太元秘記』では「受法沙汰の事」として取り上げられている。この「受法沙汰の事」での中心的論点は、太元帥法を修する法琳寺別当に補任される者の正当性についてである。そして、そこには大江匡房(一〇四一~一一一一)という院政期を代表する大学者が係わっているのである。

  大江匡房は、後三条天皇・白河天皇・堀河天皇の三代にわたって東宮学士を勤め、後三条天皇がおこなった天皇親政の近臣ブレーンとして活躍し、白河天皇にも重んじられた。さらに、多くの願文を作成しており、それをまとめた『江都督納言願文集』が伝えられている。真言宗関係において大江匡房は、『弘法大師讃』を著わし、弘法大師の入定信仰にも造詣が深く、白河法皇に入定信仰を説き、法皇の高野山御幸を実現させている。

  その大江匡房が、太元帥法の相承に関して物申したのが、「与立釼輪印」の相伝についてである。この「与立釼輪印」について、網羅的に法琳寺別当・太元帥法阿闍梨補任との関わり合いを示した文献に、善通寺蔵『太元法秘伝事』がある。この文献については、すでに原  克昭氏がその全文を翻刻しておられる (1

。その中で、原氏が指摘するように『太元秘記』の「受法沙汰の事」は叙述に省略が目立ち、その詳細な内容を把握することが困難となっている。その点、原氏が翻刻されている善通寺蔵『太元法秘伝事』は、「与立釼輪法」をめぐる顛末が焦点化されていること、また匡房の発言をめぐって諸流派の論議を集成している点 (1

が特徴である。『太元秘記』「受法沙汰の事」内容を補填する文献として、ここでは『太元法秘伝事』を取り上げて、その内容を概観していきたい。原氏の当該論文でも指摘されているように、『太元法秘伝事』

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- 143 - 太元帥法について(堀内)

は八種類の史料によって構成されているものである。すなわち、八種類の史料とは、「江帥記  匡房記」・「当流祖師記所引匡房卿記」・「当流口伝」・「宝心抄所引先師法眼日記」・「宗命抄」・「自宗大事」・「師深秘口」・「口伝」等である。

  まず冒頭に『太元法秘伝事』では、大江匡房の『江帥記』に示されている内容として、鳥羽天皇即位の時に、法琳寺別当に事故あって、寛助と勝覚に太元帥法を学んでいるかと院宣があった。両名とも習わずと奏上。範俊にも同様に勅問があると、進恩から仁海と悉く伝授あって、自らも相承しているという。しかしながら、範俊はこのとき東寺長者であり、後七日御修法導師という立場上、太元帥法を勤められないので、良雅が別当に補任されたということが述べられている。

  次に「当流祖師記所引匡房卿記」という史料を引用して、次の様に述べている。白河上皇の御時、東寺一門の内、「太元法与立釼輪等秘事」について、勝覚は知らず、寛助は太元帥法を習わずという。範俊のみが、秘事口伝等を悉く相伝し、弟子の良雅に伝授していることを奏上したという。以上の二つの内容が、「匡房卿記」に見えるという。

  次に「当流口伝」に云くとして、法琳寺別当第二十三代・定慶が大江匡房と対面して、次の様に語ったという。すなわち、太元帥法には与立釼輪という最極秘事がある。この法を知っている者が太元帥法阿闍梨に補任されるべきであり、そのように願うというものであった。匡房は、このことを白河法皇に奏上し、法皇は藤原顕隆を奉行にし、仁和寺・醍醐・小野の三流にこのことを勅問せしめている。それに対して、各々寛助・勝覚・範俊が奉答し、範俊のみが「太元法大事秘事、与立釼輪法」を伝えているということであった。

  次には、「宝心抄」に引用されていた賢覚の「日記文」(賢覚法眼記)の内容が示されている。すなわち、太元阿闍梨である定慶逝去の時、法琳寺の三綱が上奏して、近年の太元阿闍梨は不法であるという。非器の者が多く任じられているので、証器の者を補任されたいというのである。そのため、太元帥法を伝授されていた勝覚と範俊に勅問があったが、勝覚は範俊が上臈のため、範俊に尋ねられるよう藤原顕隆に答えている。そのような経緯の後、勝覚が理性院賢覚(一〇八〇~一一五六)に以下の様に語っている。勝覚は、白河法皇の院宣によってはじめて与立釼輪法の事を知った

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智山学報第六十九輯

という。そして、それが藤原顕隆の書状によって、大江匡房から出たものだと知り得たという。さらに、公観が「与立釼輪法」を相承しているのは自分一人であり、余人は全く知らないと奏上したのである。これに対して賢覚は堪忍できず、天聴に達するように欲した。すなわち、太元帥法は弘法大師請来の三巻の経典、常暁請来の一巻の経典によって、太元帥法が明らかにされており、それらには「与立釼輪法」という名は全くなく、「釼輪法」を用いることがあっても、そのような法の名を立てることはない。どうして、別に「与立釼輪法」というのであろかというのである。そして、これは定慶が大江匡房に会って、太元帥法には「釼輪秘術」があるという物語をした事が由縁である。しかし、匡房はこのことを聞いて、案内を知らずして言ったことであろうか。匡房は、真言の法門の事においては、「僻事多端」すなわち道理に合わない誤りが多いと言い切っている。

  次に「宗命抄」に云くとして、匡房の与立釼輪法を知るものが太元阿闍梨に補任されるべきと発言したこと、それを受けて勝覚と範俊にそのことが勅問されたこと、そして勝覚が与立釼輪法を知らなかったとこが述べられた後に、いわば賢覚の匡房に対する批判についての反駁がおこなわれている。すなわち、最極秘は経軌にその名がなくとも、師資の秘伝相承するのである。その例が、「如法尊勝・如法愛染王法」であり、経軌に分明に説示されていないけれども、師資相伝とされている。尊勝法とか愛染王法とはいわず、如法の文字を加えて最極秘法としているのである。また、白河法皇勅問の時には、与立釼輪印とはお尋ねなく、与立釼輪の法についてお尋ねがあった。一法の与立釼輪の事を一法ということ無しというのであろうかという。

  そして、その典拠は不明であるが、太元帥法において八箇印を授ける時に与立釼輪印があるが、これは与立釼輪を授ける最初で、浅略の内容である。真実至極深秘には、与立釼輪印にも最極深秘があり、最極深秘の伝があるという。そのため、理性院において相伝していないというので一法という名にはふさわしくないという事は、「極僻事」であるという。さらに、「当流」のほかにこの秘法を知っているものはなく、賢覚などはそのために種々の謗難をおこなつているものの、そのことは僻事の至極である。結局は大江匡房を非難することに妥当性はないというのである。と、このよ

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- 145 - 太元帥法について(堀内)

うな論調がほぼ最後まで続き、そして奥書の直前に「已上、この口伝は宗意律師、淳寛阿闍梨に授くる也。是れ当流相承  同事也。」という。

  以上のことから、法琳寺別当、すなわち太元帥法阿闍梨の補任について、大江匡房が発端と考えられる与立釼輪印について、大江匡房そのものについて批判を加える側と、擁護する側と存在していることが示されている。

  いずれにせよ、大江匡房と藤原顕隆、そして白河法皇の護持僧的な役割を果たした範俊という、まさに白河法皇の近臣者達によって法琳寺別当・太元帥法阿闍梨補任という事案が決定されていたを読み取ることが可能である。この背景には、よく知られているように範俊と遍智院僧都義範(一〇二三~一〇八八)の争いが根底にあると考えられよう。

  しかしながら、『太元秘記』で示されいる法琳寺別当次第において、良雅から鎌倉時代初期に到るまでの別当について、その師弟関係が『太元秘記』に明記されている別当を、その系統ごとに整理すれば次の様になる。先ず、範俊の系統の別当   第二十五代  良雅(範俊弟子)   第四十代   實嚴(宗意弟子)

義範・勝覚の系統の別当

  第二十九代  琳覚(定賢・義範弟子)

  第三十代・三十三代  賢覚(勝覚弟子)

  第三十四代  寛宗(賢覚弟子)

  第四十一代  覚鏡(琳覚弟子)

  第四十二代  宗嚴(寳心・宗命弟子)

  第四十三代  蔵有(宗嚴受法弟子)

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智山学報第六十九輯

仁和寺・寛助の系統の別当

  第二十八代  寛恵(寛助の弟子)

  第三十一代  真助(寛助の弟子)

  第三十六代  宗範(寛恵流)

  第三十七代  堯真(済暹正嫡である静灌の弟子)

  第三十八代  尊實(堯真弟子)

  第三十九代  信遍(寛遍弟子)このように第二十五代より第四十三代にわたる計十九代の別当の内、十四人がその師弟関係が『太元秘記』に明記されている。そのうち、いわば与立釼輪印等を以て法琳寺別当・太元帥法阿闍梨補任の正当性を称えていた系統、すなわち範俊・厳覚・宗意の系統の別当は、わずか二人にとどまっている。これまでみてきた『太元秘記』「受法沙汰の事」や『太元法秘伝事』において、太元帥法を習わずと勅問に奉答している寛助の弟子や仁和寺僧が、義範・勝覚・賢覚の系統と同様に、約半数の別当を輩出している。このことは、寛助の奉答が事実であるとすれば、実質的には良雅を補任するときに与立釼輪印の事が持ち出されただけなのであろうか。別当次第だけをみれば、与立釼輪印が法琳寺別当・太元帥法阿闍梨に補任される者の正当性を証明するものとは即断できないのではないだろうか。

      三、結びにかえて

  以上の様に、『太元秘記』を中心とした史料によって、太元帥法について概観してきた。なれど、紙数の関係上もあって十分に太元帥法について、その内容を考察できたわけではない。太元帥法を請来した常暁と法琳寺、さらにはその法琳寺の別当次第与立釼輪印との関係について、少しく考察を加えたのみである。

  残されている課題としては、太元帥法が修された内容とその意図、特に太平洋戦争中に修された太元帥法の実態につ

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- 147 - 太元帥法について(堀内)

いて、改めて考察する必要性があろう。常暁にとっては、太元帥明王は「如来之肝心」であり、両親であり、国を護る甲冑の如きものであり「防衛の神方」であるとされていた。その後、後七日御修法と同事に太元帥法が修され、時代によっては太元護摩のみが修され、後七日御修法が停止されている時代もあった。そのような時代における太元帥法の意義、それがどの様な意味づけによって太平洋戦争時等における太元帥法勤修となっていったかを知ることによって、不戦への誓いと弘法大師のお言葉にある「蒼生の福を増す」ということにつながるはずである。

  幸いにその真意を伝えるべく、令和元年十月十日より種智院大学主催で、理性院流太元帥法の伝授が開筵されている。誠に喜ばしいことであり、平和への祈りとしての太元帥法が今後実修されることを心より願うものである。

註(1)『小栗栖請来目録』・『太元法縁起注申状』・『太元法阿闍梨次第記』は『弘法大師諸弟子全集』に、『太元宗勘文』は『大日本仏教全書』に収載されている。(2)『太元秘記』については、その前半部分については『豊山教学大会紀要』第四〇号に、後半部分は坂本廣博博士喜寿記念論集『佛教の心と文化』に翻刻を掲載させて戴いている。当論文で取り上げる『太元秘記』の文章はすべて『豊山教学大会紀要』第四〇号に掲載部分であり、その該当箇所については、『豊山教学大会紀要』第四〇号の頁数を示すこととする。(3)『弘法大師諸弟子全集』巻下・一六頁(4)『弘法大師諸弟子全集』巻下・一頁(5)『弘法大師諸弟子全集』巻下・二頁(6)『弘法大師諸弟子全集』巻下・一〇七頁(7)『豊山教学大会紀要』第四〇号・一一三頁(8)『豊山教学大会紀要』第四〇号・一三四頁

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智山学報第六十九輯

(9)『豊山教学大会紀要』第四〇号・一三三~一三四頁(

( 10)『豊山教学大会紀要』第四〇号・一三五頁

( 11)『続日本後紀』第九・承和七年六月丁未条・『増補国史大系』三・一〇四頁

( 12)『弘法大師諸弟子全集』巻下・一一二~一一三頁

( 13)『弘法大師諸弟子全集』巻下・一一五頁 14  )原克昭・二〇〇二年 参考文献小川豊生「大江匡房の語り―〈秘説〉あるいは〈僻事〉をめぐる断章―」『国文学解釈と鑑賞』第六〇巻一〇号・一九九五年永村  眞『中世寺院史料論』「修法と聖教  ―太元帥法を通して―」吉川弘文館・二〇〇年速水  侑『平安貴族社会と仏教』吉川弘文館・一九七六年原  克昭「善通寺蔵『太元法秘伝事』翻刻・紹介」『善通寺教学振興会紀要』第八号・二〇〇二年森田龍僊『太元帥法』高野山時報社・一九二八年吉原浩人「与立剣輪印の相伝と大江匡房」『印仏研』第四二巻第二号・一九九四年佐藤長門『遣唐使と入唐僧の研究ー附校定『入唐五家伝』』「太元帥法の請来とその展開ー入唐根本大師常暁と第二阿闍梨寵寿ー」高志書店・二〇一五年

〈キーワード〉太元帥法、常暁、法琳寺、与立釼輪印

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和十二年華北事変発生後唐山で会見した折り, その後軍部の気受けはどうかと尋ねたところ, この頃ようやくお叱りも疑惑もとけたらしいと 苦笑していた」

   王高二元帥    田華畢元帥    田呂元帥 巻五 党元帥    石元帥    副応元帥    楊元帥    高元帥    霊官馬元帥    孚祐温元帥    朱元帥

鄧天君忠 辛天君環 張天君節 陶天君栄 龐天君洪 劉天君甫 苟天君章 畢天君環 秦天君完 趙天君江 董天君全 袁天君角 李天君徳 孫天君良.. 栢天君礼 王天君変

「天妃」 「蠶女」 「青衣神」 「白水素女」 「馬大仙」 「聖母」 「温孝通」 「孝 烈将軍」 「霊沢夫人」 「順懿夫人」 「寨将夫人」 「誠敬夫人」

 以上、『三教捜神大全』に記載のある元帥神を中心に、『道法会元』やその

温玉 李文真 鉄勝 劉仲 楊文貴 康応 張蘊 岳昊

 2004年に関西大に移り、近畿大阪に移り住んだ。そして東西学術研究所の

r e ae xの体の上 に自明な同型 に制限す ると,証明は比較的容易であると考えられる。申請者の論文ではこの種の仮定 をはず して,一般的にフー リエ ・ヤ コビ展開をもつ