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張 之 洞 に 関 す る

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(1)

張 之 洞 に 関 す る

考 察

︱︱特に湖広総督時代の湖北の董金策をめぐって十1

正 子 一

張之洞︵百全一て十一九〇九︶は ︑同治二︵全全し年の進士であり︑清末の地方官として督︒撫の要職を歴任しは

じめたのは ︑光緒朝に入ってからであがド彼は ︑対外的に強硬論を持しながらも ︑反面では揚子江流域を抑えたイギリスと結んでおり︑両広・湖広総督時代には洋務を推進し ︑﹁中体西用論﹂によって洋務運動に思想的支柱を提供し

たことは名高い ︒この張之洞については従来 ︑思想史的研究はなされているが ︑地方官としての彼の業績については ︑

必ずしも明らかにされているとはいえな ︵咤 ︒本稿では ︑張之洞が一貫して関心を示したという菅金について ︑特に湖

北における蒼金策を通じて考察を加え ︑もって張之洞理解への一助としてみたい ︒

周知の如く賛金は ︑成豊三︵TAここ年大平天国征討の軍需を得るため江蘇省においてまず始められ ︑ ついで各省

に普及し重要な地方財源となったものである︒しかし ︑賛金が重要な財源となったことは ︑同時に多くの弊害を伴う

ものでもあった ︒その点についてはすでに ︑内外から指摘されていることであり︑対外的には後述のマッケイ条約の如く加税免産を ︑約さねばならぬ事態を招くものでもあった ︒しかし ︑加税免驚も結局は実現に至らず ︑その後賛金

は民国二十︵一九三●十年の廃止迄 ︑七十八年の長きにわたって存続したのである ︒

(2)

( 2 ) ( 3 )

以下 ︑﹃張文豪公全集﹄﹃子中丞︵ 蔭霧︶奏議﹄ ﹃端忠敏公奏稿﹄等の記録を中心としながら︑主として光緒十六

二八九〇︶年から同三十一︵一九〇五︶年一地の湖北省蒼金に対する張之洞の産金策を ︑考察し

み際イ ︑たいそのずまマ︒

ッケイ条約・内河航行権・内地通過制度・官弁工業においての免産特権をとりあげ ︑これらをめぐる対外問題として

の査金について張之洞の見解を考察し ︑ ついで湖北省における麿金をLりあげ ︑対内問題としての蒼金に対する彼の

対策を考察することとする ︒このことは ︑産金が清末の社会と一体不可分の関係にあ布Fともに ︑対外的に打接な利

善関係を伴うものであるとの考えによるものであり︑その両面から替金策を考察することが ︑清末の一地方官として

の張之洞を理解し ︑ひいては当時の地方高官のあり方の一面を .究明する一助となりうるものと愚考するためである ︒

対外問題からみた桂金としてまずマッケイ条約を ︑とりあげてみよう︒マッケイ︵ 煮営汗下馬凱︶条約Lは ︑光緒

二十八︵一九●一じ年八月四日︑L海において清側代表呂海箕 ・盛宣懐とイギリス側代表﹁Lヽマッケイとの間で調印

された英清続訂通商行船条約のことである ︒条約の規定は実施されるに至らなかったが ︑その内容は初めて加税免酢

を約したものであり︑ ついでアメリカ ︑日本も同様の条約を結んでいる︒当時のイギリスが ︑この条約によって中国一

内 地 に お け る

一一切

能の 金 お よ び 首 金 類 似 税の を

︑ 廃 止 す る こと を意 図 し て い た こと

は ︑

そ 条の 文 か ら 明 ら か

であ

り︑

桂 金 永の 久 廃 止 す ら 意 味 す るも の で あ たっ

こと

を 知 り う

る ︒

と こ ろ で

︑ 加 税 免 産 解の 釈 に

つい

て ︑は

両 国 の間

に ︑

少 な か ら

ぬく

い ち が い が あ たっ 考と え ら れ る が

︑ そ れ

はさ

て お き

︑ 対 外 的 な 蒼 金 対に す 張る 之 洞 考の え が

︑ 明

ら か に示 さ れ る の は

︑ こ の マ ッ ケイ 条 約 を 通 し て であ

る ︒

そ れ

は ︑

必 す

し も イ ギ リ ス 見の 解 と 一致 す

るも

の で は な か たっ が

︑ 地 方 官 張 之 洞 立の 場 か ら す

る 産﹁ 金

﹂ 解の 釈 が み ら れ

︑ 張 之 洞 指の 摘 す る

一連

見の 解 に

は ︑

綜 合 的 見 地 よ り す 産る 牟万 重 要 性 が

︑ 明 確 示に さ れ て い る と も いえ る の であ る

︒ そ れ

ては一体張之洞のいう重要性とは ︑具体的にどのようなものであろうか ︑以下いささか考察を加えてみよう︒

まずマツケイ条約締結に至る中央の動きをみると ︑ほぼ次の如くになる ︒条約締結にさきだつ光緒二十六公九〇〇︶年は ︑イギリスとの行船通商条約の修約期に当っており︑同年二月二十七日に大理寺少卿盛宣懐らの奏とし ︵O先是盛宣懐等奏 ︒⁝巨等霜以為税則十年一修 ︒尚須無事之秋 ︒方能照約筆議 ︒実属機不可失 ︒現与赫徳詳細妥葦 じ⁝現議税産併徴 ︒係専指進田洋貨 ︒而言其土貨産塙一切照誉 ︒並擁将出口土貨向半税者改完使金 ︒以抵洋貨産温改帰海関併徴之数 ︒是於各省筐金実無所損 ︒

とみえ ︑当時総税務司ハートと盛宣壊らが計画したのは ︑洋貨の税陸併徴すなわち外国製品の輸入の際 ︑産金と輸入税の徴収を合せて海関に委ね ︑それによって生じるであろう各省の産金収入の減少に対しては ︑国産品に対する産金を従来どおりとし ︑且内地通過制度を利用する輸出品を ︑産金適用の対象とすることによって補おうというものであり︑その限りではあでヽまで外国製品の税筐併徴が目的であったといえようoこの案は ︑同年三月十六日の上記に迪議盛宣懐等覆陳増税事宜各招片 ︒所議笹税併徴 ︒係専指洋貨 ︒而言与土貨陸金尚無関渉 ︒此事利害出入関繋甚大 ︒如泉確有把握 ︒則毎年可増至千百余万之進款 ︵︶固於大局実有稗益 ︒亦不宜談延観望 ︒致失事機 ︒所有洋貨加税免産一事 ︒著南北大臣両広湖広四川聞浙各督撫 ︵ ︶査照原摺参以本省情形 ︒按之中外時勢 ︒如何有利而無害 ︒

如何利重而害軽 ︒

とみえるように ︑清延は外国製品に対象を限る税産併徴一案は ︑中央の歳入に増加を折すとの見解から ︑

する立場をとり︑各督・撫にこの案に対する意見提出を求めているのであ ︵稗︒ついで翌二十七︵一九〇一和団事件の時償金減額に関する交渉の際に ︑日本が輸入一税引上げを提唱したのに対しイギリスは ︑

本日

使

則以

洋 貨

加税

為是

但 ︒

必須

英国

肯允

詢 ︒

英之

使

劇 ︒

称 中

税国

来将

須必

減大

莫妙

於将

産金

及土

貨出

口 税

全行

去 ︒

徴進

洋国

税 ︒

極積

青に

年︶

は ︑

‑ 3 ‑

(3)

( 4 ) ( 5 )

とあるように ︑日本案に同調し ︑更に将来董金を廃止し輸入税のみを残すべきことをも提案している ︒

かくしてマッケイ案の作成となるのであ

だれ対光緒十る ︵にて二八年四五張洞こし月ぼ之は日︑

項接盛︵ 宣懐︶電開送馬︵ 凱︶使免筐新章 ︒寛有一切税産掘款概不徴収之語 ︒万分可骸 ︒従此中国無財政之権 ︒

不成為国実 ︒⁝此国家存亡所関 ︒

といい ︑加税免筐が一切の窪金を廃止するものであるとするマッケイ案は ︑中国側の財政権英失を意味し ︑国家の存

亡にかかわる重大事であることを指摘している︒彼が ︑董金を重要視するのは

政府急害弥補之 ︒方関税為約所限 ︒不能加増 ︒雀金我尚有操縦之権 ︒中国雖甚願皿民血商 ︒然無如何 ︒亦惟右加

︵ ︲ 8

重驚金一法 ︒

とあるように ︑協定関税が五パーセントに抑えられている以上 ︑産金の運営権は ︑中国側が確保すべきであるとの見

解に基づいている︒その場合 ︑産金の運営権の中でも ︑とくに各省が掌握する部分を ︑重視したことは

運動之貨各省倶不能抽陸 ︒⁝此事関係全局生機 ︒

とか ︑︵ 殉

国家 度 支 所 抽 可 免

︒ 地 方 所 用 州 県 紳 董 所 抽 不 能 免

︒ と み え

︑ 各 省 に お け 麓る 金 徴 収 権 に注 目 し

︑ そ 守の ら る

べき

こ と を

︑ と く 指に 摘 し て い る こL か ら も 推 察 さ れ

︑ 彼 の 地 方 官 と し て の 立 場 を 反 映 し て い る と

︑ 考 え ら れ

る ︒

ま た

︑ 産 金 が 省 財 政 大に き な 意 味 を

︑ 有 す る こと に

つい

は ︑

︵2 2

庶徒

︵ 馬 凱

︶情

加有

税之

不願

加無

限之

産 ︒

みえ

れそ

が無

増に

でき

るも

ので

あ る

こと

や ︑

更 に

即使

産相

抵亦

僅 抵 旧

之日

筐 ︒

不能

補近

新日

及将

数急

書可

款 ︒

みと

え ︑

入税

上げ

によ

収る

が入

当 ︑

筐の

金 収 入

に肩

代 り

でき

ると

ても

国 ︑

にお

いて

現実

増に

加 の

一途

たどる支出の財源としては ︑将来性がないとしていることからみて ︑産金徴収の弾力性のほうに財源確保の可能性をおいていたことを推察できようo

こぅしてみると対外問題としての侍金に対し張之洞の意図するところは ︑地方財源としての産金の擁護に存したことは明らかである︒しかし ︑それは決して産金負担者の負担軽減を意図するものではなかった ︒そのことは ︑辛丑賠款に関して

中国非不知驚金之不便 ︒無如国用不敷出︒又須害極鉦之時款 ︒此時若無的確抵補之款 ︒則各項産金勢不能馳 ︒

Lみえ ︑巨額の賠款を負い ︑財政が窮乏している以上 ︑不便は承知のうえで産金を頼りとせざるをえないことを指摘し ︑更に

須声明彼若廃加洋税之約 ︒則我復産金之章 ︒

とあるように ︑イギリスが輸入税引上げを ︑実施しない場合には ︑中国が再び産金を回復する旨の一条を ︑附加することを提案していることからも知られる︒しかも︑これらのことは清末地方官としての限界の一面を ︑如実に示しているといえよう︒

しかし ︑光緒二十八年のマッケイ条約締結に先立つ七月二十六日の上諭で加税免驚は ︑表明された ︒すなわち ︑清廷はマッケイ条約の意図と全く同一である輸入税の引上げを代償として ︑現行の一切の種金を撤廃し ︑将来再びこれを復さないことを ︑認めるに至ったのであった ︒すでに ︑張之洞の産金観とマッケイ条約の意図との間に ︑くいちがいが存在することを指摘したが ︑同時に張之洞はこれに対し柔軟性を示しているのである ︒そのことは張之洞がマッ

ケイ条約についてヽ僚友に送った書勃中の十八条にわたる意見の中にみられ漣︒そこには ︑万一藍金廃止がやむをえない場合には ︑一将来 ︑中国が印紙税 ︑営業税等を実施することに対して ︑外国の干渉を許すべきでないという一条があり︑地方収入の稚一保を約束するものであれば ︑必ずしも驚金という形に拘泥しないという柔軟さを窺わせる ︒このこ

一‑ 4  ‑―

‑ 5 ‑―

(4)

( 6 ) ( 7 )

と は

︑ 当 時 イ ギ リ ス を は じ 各め 国 が

︑ 清 廷 に 加 税 免 産 実の 行 を 追 てっ い る 状 態 で

は ︑

董 金 と

いう

形 態 で の 地方 収 入 を 固 守 す る こと は

︑ 事 実 上 不 可能 であ る と 考

︑ 名 を 捨 て 実て を と ろ う と し た の で は な い か と

︑ 解 釈 さ れ

る ︒

し た が っ

て ︑

こ 面の

から

ても

マ ケッ イ 条 約 対に す 張る 之 洞 主の

張あ

中 心

は ︑

あ く ま で も 地 方 収 入 擁の 護 存に し た こと を 知

でおそにおい時張洞のあるなて当の之が驚金撤廃近不避こをい将来可認彼湖北であめていたはにるとこのと︒︑︑︑

おける麓金策を理解するうえで ︑注意されねばならない点といえる︒

ところで ︑パーカー氏は湖北雀金を ︑悪政の最たるものに数え ︑その原因として湖北に海間が︵存在したことをあ

げてい萄

o ︶

そこで ヽ外国船舶の内河除ドと内地通過制度とに対する張之洞の対応につき ︑いささか考察を加えておこ

内河航行に関して張之洞は ︑光緒二十五︵一八九八︶年の湖南省岳州の開港について

至設関後 ︒洋旗子田税目多 ︒大擁両省饉金 ︒必須力図挽救 ︒

︵ 3 2

と述べ ︑同三十二︵一九〇一 C年の同省常徳府の開港については

常徳関大綱章程 ︒試弁章程 ︒租地章程皆有桂旗一条 ︒始云桂至岳州 ︒継云運達漢口︒不除核異 ︒査此条万不可

行 ︒

とし︑また外国船舶が一戻口迄の航行を認められることに ︑強く反対して

上輪是湖南税産均己可桑 ︒至出大江 ︒則宝搭洲之驚 ︒漢関之税倶失 ︒入荊河則沙市宜昌之藍 ︒沙関宜関之税倶

失 ︒専顧湖南現損 ︒湖北更為無理 ︒

︵3 3

述と

べ ︑

それ

湖北

宝の

搭洲

沙 ・

宜 ・

昌 と

いう

収 入

多の

い産

金局

に打

を与

え る

こと

を ︑

由と

てあ

げ て

いる

︒ こ

例の

は ︑

とも

湖に

南 で

開の

関に

るも

ので

がる

湖 ︑

筐金

減の

収が

河内

航行

によ

齋り

れさ

こと

を ︑

張之

洞 が

︵ 3 4

憂慮している点に ︑注意する必要があろう︒ ま

︑ 張 之 洞 は中 国 人 が ばし ばし 内 地 通 過 制 度 を

︑ 悪 用 す る

こと

触に れ て

﹂犯

︑ 産 金 収 入 妨の 害 と な る 内 地 通 過 制 度 対に し

︑ 湖 北 当 局 決は し 無て 力 で は な か たっ の であ る

︒ 湖 北 に お い て

は ︑

漢 口 に お け る内 地 通 過 制 度 を 利 用 す る

運入貨物が ︑全輸入額に占める割合は ︑光緒二十三年から二十七年の間に ︑半減しているが ︑この理由として一般には湖北当局が ︑産金税率の操作を行なったことを指摘している︒すなわち ︑内地通過制度の利用者が増加した時には ︑

それらの貨物の取締りを厳格にすると同時に ︑産金税率を引下げて ︑産金利用の有利なるを知らせ ︑産金利用者が増加すると︑税率を少し引上げ ︑産金収入を増加させるという巧妙な方法を ︑循環させることにより︑内地通過制度の

利用を ︑減少させたと﹂だ︒

以上のように ︑麓金による地方収入︵ 湖北︶の擁護は ︑加税免進・内河航行・内地通過制度に対する張之洞の藍金観に ︑共通しているものである③しかし ︑彼は一方では ︑官弁工業における免驚特権の獲得Lいう一見矛盾する態度をも示している︒彼が ︑自己の関与する官弁工業に対する免産の特権を要請していることは ︑すでに両広時代にみら

れるが ︑湖広時代後半において殊に著しい ︒それは ︑張之洞の洋務が ︑武漢で推進された時期と ︑重なるものであっ

た ︒ここでは ︑比較的一詳しく免産要請理由が ︑述べられている織布官局と製麻局について ︑少しくとりあげてみよ

︶︵3 8

ます織布官局について張之洞は ︑光緒十九︵一一八とこ︵三月十七孫ド ︑李鴻章の上海機器織布局の免廷の例をひい

湖北省布局葺ち同一律自応援照弁理 ︒所出洋布綿紗 ︒在武昌漢日本地零星鉛告者 ︒応予照章免完税荏 ︒如由武漢径運内地及分運通商他日転入内地者 ︒応照洋布洋紗花色均在江漢関完一正税 ︒概免内地沿途税穫 ︒以暢土貨而便

民用 ︒

と記し︑製品が武昌・漢日の小商人が売捌く場合は免隆 ︑武漢より他省に般出あるいは輸出される場合は ︑江漢関で

‑ 6 ‑

―‑ 7 ‑

(5)

( 8 )

正 税 を 納 め た 後 ︑ 内 地 で の 免 産 を 要 請 し て い る ︒ 目 的 は ︑ 国 産 品 の 流 通 を 盛 ん に し ︑ 中 国 人 の 使 用 に 役 立 て る こ と に

︵ 如あるという︒また ︑製麻局の免産については ︑光緒三十二年に

霜惟富民以農業為主 ︒興農業以精工芸為主 ︒⁝到郡以来夙夜焦思憂憤 ︒思為製麻之策 ︒⁝至光緒二十八年招商承

租 ︒角由臣委監司大員督勤製造 ︒⁝織出貨料均係質地白細染色鮮 ︒明足可抵制外国進口麻貨 ︒擬援照商部外務部

核准上海阜豊宛粉公司一案 ︒所有機器製造麹粉各廠一律准其暫免税撞之例 ︒請将該局連鉛麻貨 ︒奏請暫免完納税

産 ︒以行商力 ︒而広鈴路等情 ︒

とみえ ︑張之洞に製麻局の製品が ︑品質良く外国製品と匹敵しうるとし ︑暫くの間免驚特権を得て ︑販路の拡大を図

4 .

ろうとしているが ︑先の織布官局の場合と同じく︑上海での先例の引用を忘れてはいない ︒更に ︑同年十二月には

湖北製麻局所出麻貨 ︒係為抵制洋貨 ︒広興農工商実業 ︒⁝例照前請暫免税驚 ︒以暢土貨而保利源 ︒商業幸甚 ︒大

局幸甚 ︒

とみえ ︑中国内地にすでに広い販路を有する外国製品に対抗するには ︑免陸特権が大きな効力を発揮するものである

ことを ︑指摘している ︒

このように張シ一洞は ︑免驚特権の獲得により︑土着工業製品の販路を拡大し ︑資本負担を軽減することを公にして

いるが ︑その対象一 は自己の関与する官弁工業に限られており︑真の意図はあくまでも彼の関与する官弁工業の育成に

存したことを推察一 させる︒従って産金の有する貨物流通を妨げるという性格を ︑張之洞が認識していたとはいえ ︑そ

の対策として ︑僅かに官弁工業における免窪特権を ︑採用したにとどまることは ︑湖広総督としての彼にとって湖北

の産金は ︑不便以上に彼自身に大きな利便を ︑有するものとして提えられていたことを ︑示すものであろう︒

前 項

では

張 ︑

洞が

対 外

問題

とし

ての

種 金

対に

し ︑

重の

要性

産を

対象

無の

限定

性 ︑

伸 張

可能

性等

から

地 ︑

方 財 源

確の

立維

不に

可欠

のも

のと

いう

観点

から

指摘

なし

がら

反 ︑

それ

貨が

流の

通 を

妨 ︑

るも

ので

あ る

こと

をも

認分

識 し

てい

こと

を ︑

考察

てき

た ︒

でこ

に ︑

対 内

問題

と し

ての

驚金

つい

湖て

北省

にお

種る

金策

を と

ぁり

彼 ︑

産の

金 策

が ︑

結 局

地は

にお

重る

財源

と し

ての

董 金

確を

保す

る た

め ︑

運の

営 者

によ

蜂る

排を

除す

る こ と

終に

始 し

点た

を ︑

考 察 し

みて

い ︒

北省

産の

は ︑

成豊

︵一

五八

五︶

年 湖

巡北

撫胡

林 翼

によ

てっ

創 始

れさ

た ︒

収方

法 と し

ては

官 ︑

併紳

形の

をと

金有す各省藍運営大力をのになる胡林法﹂いわれたのであたき徴行われれは巽の良とも官制度がなそともるっ﹁︒︑︵4 2

は ︑布政使よりも督 ・撫であったが ︑湖北においても同様であり︑光緒年間には ︑収数が多い特定産金局の局員選定

権は ︑督・撫が掌握してい商 ぃまた ヽ各分局の局員も督・撫両院の属員が充てられ ︑員紳が事故で交代する際には ︑

巡撫にその旨を報告せねばならなかった ︒董金局キの数を ︑正確にはなしえないが ︑統絹制に改める以前において

は ︑総局一︵湖北牙替局

十事十分局事一委員一司二一司例沙市牙産局をみ丁三級分けれ一てる委事巡にと員は員司のとしら︑︑︑・・︑︑ ︑ 各キ人十数で局の附属局は明かな幅十六十一存在を知か︶ ︑主要止分局のるしらなし宇・︑︒

分十司事︵十八分十︶二十八 ︑合計六十八名であっ理 ︒しかし ヽ湖北は﹁沢国﹂といわれるように ︑揚子工と漢江による水運が ︑交通の主たるものであり︑このため河水の増減によって産金局の移動は ︑頻煩に行われていた ︒すなわ

ら ︑通十納税制が採用されており

共分局所時有増減拘遇河江水族 ︒由局員夏請添設堵キ ︒水退即行裁撤 ︒

とみえるように ︑増水時に臨時のキが設けられ ︑数的な増減の激しかったことを ︑窺いうる ︒いずれにせよ ︑商人にとっては一層の負担となったことを ︑否定しえない ︒

さて ︑湖北省驚金の収数が大きかったことは ︑光緒二十五年当時について

(6)

f ll)

110め

謹将 年歴

収数

較比 招開 木呈 御覧 大 ︒

約以

江浙 部号 収数 為最

鶴 ︒

為上

等 ︒

江右

湘聞

上為

次 ︒

蜀甘 院広 西為 中等

︵ 4 9

映西雲南奉天為中次等 ︒余皆下等 ︒綜計戸部冊年収一千四五百万左右 ︒

とみえ ︑各省の種金収数を上・上次以下五段階に分けた場合 ︑湖北は江蘇 ・漸江・広東と共に上の部に入っているこ

とからも知られる ︒なお ︑湖北の管金報告は ︑半年に一回督 ・撫会奏によって為され理が ︑警金の収数報告が ︑信頼

するに足りないことは ︑しばしば指摘されているところであ箱 韓いずれにせよ︑湖北の驚金収入が多かったことは ︑

張之洞の産金観を ︑考察するうえで等閃視することのできないものであろう︒

張之洞が ︑光緒十五︵一本八九︶年両広総督から湖広総督に着任し理のとほぼ同時に ︑湖北巡撫に調ぜられたのは語

継洵で ︑以後光緒二十四︵一八九八︶年七地迄 ︑湖北産金は彼の管理下におかれた ︒しかし ︑諄継洵については資料的

に乏略↑︑産金策をめぐる張之洞との関係は ︑明らかではない ︒いずれにせよ ︑安陸府の船筐︒第二次英徳倍款麓

金整頓等が ︑光緒三十四年迄にあるので ︑これらの問題を中心に ︑張之洞の僅金策を ︑考察してみよう︒

光緒十六年九月十六日の諭には ︑湖北省安陸府の船産について

又諭 ︒有人奏 ︒湖北安陸府属獅子口地方 ︒抽収船蔭 ︒近年逐漸加増 ︒徹足後並不給票 ︒往往留難数日︒ 不肯秋

行 ︒該処船管無補正款 ︒徒累商民 ︒懇恩撤免等語 ︒⁝

とみえ ︑船筐の税十率が近年増加し ︑商民が窪金を納入した後も ︑産金局員は日実を設けて受領票を渡さず ︑滞留数日

5 6

に及 ぶ こL も あ がる

︑ 収 入 省は 庫 収に

めら

れ ず

︑ た だ商 民 を 患 わ せ る の み であ る の 撤で 免 を 請 う 旨 上の 奏 が あ たっ と

︵ 5 7

して ︑書・撫にその調査報告を求めている ︒これに対し︑翌十七︵一八九百年に出された張 ・諄の会奏は ︑安陸船産

を弁護したものといえる ︒すなわち ︑漢江は毎年決演を繰返し ︑附近住民の生命財産をおびやかし ︑船舶の航行を阻

げているため ︑曜防?維持費は不可欠である ︒しかも船種による幌防維持費の充当は ︑省庫にも民間にも負担を負わ

せない良法というあが一誉・無の見解であった ︒また筐金局員については

猿現

委員

覆 ︒

沿

途詰

各船

戸 ︒

並密

査該

処所

船隻

均 ︒

係随

随到

報 ︒

後絹

即行

票 c

或停

或開

聴均

船各

白 便

未尚

見有

難留

苛索

之弊

︒ L

みえ

漢 ︑

沿岸

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調を

査 し

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弊の

は ︑

みら

れ な か

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報と

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かし

惟 収

絹章

程 ︒

歴来

未能

一 ︒

応自

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示局

門 ︵ ッ

立砕

記 ︒

仲免

事司

丁等

端苛

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こと

は ︑

従来

から

複 数

産の

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程 が

存 ︑

在 し

てい

こと

を 認

め ︑

事司

巡 ・

私に

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求す

機る

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え て い る

こと

を ︑

暗 示 し て

いる

いえ

よう

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にし

ても

船の

産 が

漢 ︑

隆の

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重の

源財

であ

こと

は ︑

廷も

めざ

をる

え な

いこ

であ

たっ

のこ

こと

から

洞之

湖の

北 に

おけ

陸る

策金

が ︑

地方

財源

と し

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軍に

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みの

充に

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意 図

のも

ので

はな

たっ

こと

知を

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よう

つぎ

に ︑

湖 北

重の

財源

であ

塩る

整 を

めぐ

り︑

張之

が湖

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には

湖 ︑

総広

督 と し

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管じ

時 下

あに

湖南

対の

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辞 さ な か

たっ

こと

を ︑

考察

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清日

争戦

清延

対は

賠日

償 支 払

たの

め ︑

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借国

頼に

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そ の

一一 ン

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光る

二十

年四

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二次

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千一

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ンド

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済 の

一部

に ︑

湖 北

川の

塩 産

充を

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こと

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︒ 川

塩驚

は ︑

平天

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り ︑

湖 北

への

洋 南 塩

販の

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川塩

湖に

総広

督 が 課

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塩 後

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それ

湖 ︑

軍の

事費

賄を

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一つ

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こと

は ︑

張之

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緒十

年五

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に ︑

塩産

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︒ と い

い ︑

川塩

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重の

財な

であ

こと

を ︑

指摘

し て

いる

こと

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窺も

よう

︒ 光 緒

二十

年四

二月

日 ︑

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事国

衝門

は ︑

税関

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江に

江 ・

西

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産 と

湖北

塩の

徴の

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を ︑

総 税

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毎 ︑

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万両

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る旨

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提 案 し

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月 十

五面

張 ︑ ︶

之 洞

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担の

保 の

一部

に湖

の川

‑ 10 ‑一

(7)

塩産が ︑焼せられていることは ︑驚きにたえずとして反対の旨を総理各国事務衝門に奏している︒その際 ︑

中国財賦之区蘇浙為上 ︒長江次之 ︒西人垂涎 ︒久思千預 ︒今因借款 ︒用彼人掌産務 ︒必謂緒西人之整頓 ︒壮華官

之中飽 ︒不知蘇所長江利権全入其手 ︒中国之精華己場 ︒主僅干預而己 ︒ュ此数処進款京飾洋款協省本省伽均出共

中 ︒ 一日全帰西人約抵借款 ︒則我内政何従挙弁 ︒

と述べ ︑江蘇3断江につぐ経済的な中心として ︑かねてから外国人が進出の機会を狙っている揚子江沿岸地方で ︑産

金運営権を外国人に掌握させれば ︑該地方の利権を全て失うばかりか ︑内政上における財政基盤をも失うことになる

等の理由をあげている ︒同年三頑ざ至ると ︑張之洞は川塩産の代りに貨産を担保に充てることを提案し

塩産帰赫︵徳

江大宗利権全失北更不存︶ ︒ 長湖能自︒︒

といい ︑塩産が湖北にとって重要であることを指摘し ︑貨産を担保に充てることについては

蓋子田洋旗日盛一日︒且内河行輪由関至内 ︒由内至関 ︒均帰洋関収税 ︒則貨産自然全無実 .

ナニえ ︑また

査部省収款 ︒惟貨産塩産両大宗 ︒塩筐実居共半近 ︒数年来水早交乗 ︒洋旗子口税懲増懲多 ︒貨産日形短納年遜一

反伽赫徳全局督督道等覆書均急策年若塩産帰因同司属焦無 ︒︵ ︶︒︒︒︵6 4

とみえることから︑彼は内河航行・内地通過制度・水早善等によって ︑貨替の収入が減少しているので ︑塩産よりも

貨産を担保に充てるほうが損失が ︑少ないとみなしていることを知る ︒しかし彼はそれが湖北では実現不可能である

こ と を も 指 摘 し て い る

︒ こ の よ う な 張 之 洞 反の 対

にも

か か わ ら ず

︑ 川 塩 董

︵ 宜 昌 塩 驚

︶ は

︑ 借 款 担の 保 充に 当 さ れ る

こと

にな たっ

︒ 湖 北 で

6 6

貨は

筐 代

替案

が実

でき

いこ

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張る

洞之

は ︑

対の

策 と し

割て

当 額

減の

額 を 図

り︑

七月

日 ︑

戸部

対に

し て 前

准大

各抵

倍 洋

款案

内 ︒

宜昌

塩産

一百

両 ︒

宜昌

塩局

共 ⁚

約収

正加

七十

三四

万両

合以

万百

数 ︒

尚 不

敷銀二十六七万両 ︒i因郭省不敷之二十六七万両 ︒擬請即将此項平餘内発出補足抑 ︒或改溌他省之処 ︒

といい ︑割当の百万両に対し川塩産の収入は ︑七十三・四万両であるため ︑不足分は附加税あるいは他省に転ずることを ︑要請している ︒その結果 ︑割当額は七十五万両L販ぜられ ︑そのうち九万両は ︑湖南名が負よすることとなっ

商 中張之洞の塩産に対する執着の強さを ︑窺いえよ始に

さて ︑光緒二十三︵一八九七︶年 ︑二十四年には張之洞によって産金整頓が ︑行なわれているが ︑とくに二十三年において ︑監督制度という当時の中央より一歩進んだ筐金整頓策を ︑提案していることは ︑注目され輸すなわち ︑光緒二十三年四月r日

巡無兼署てい治時張洞はを央提之し整碩筐金印Fを中に出たし﹁ サ︑︑

︒ じ

この摺で ︑彼は貨驚をとりあげ

軽査湖北勧源 ︒惟百貨蒼金為大宗 ︒⁚惟貨産一事 ︒其稽徴之寛厳 ︒用人之当否 ︒報解之虚実 G共開鍵全視子 ︒局員得人則盈 ︒不得人則納 ︒整暇之道尚有可施 ︒⁝惟比年以来水早交乗 ︒民生既形困苦 ︒商業亦見蒲条 ︒産金収数

頗為短細 ︒拠各局十委員来裏 ︒多以歳液商稀為詞 ︒

といい ︑貨産が軍事膏あ主要財源であるとの見解にたち ︑その運営を章程︵稽徴之寛厳︶と人物︵用人之当否︶の両面から捉えながら ︑収入の増減は ︑筐金局員の人物如何によるとするに至っている︒しかも彼は ︑当時の湖北産金が水早害によって減少し ︑そのうえ委員・司事・巡丁が中飽を行なっている状膨ヾの対策として ︑監督制度を提案しているのである ︒

これは ︑産金局員が省城の上司の目は ︑欺くことができても ︑局附近の官民の目は数けないという前提にたち

将湖北通省蒼金 ︒責令局キ存在地方官 ︒認真稽察 ︒其在何川県之境内者 ︒即責成該州県 ︒共有局十与道府治所相ヽツ   距甚近者 ︒並責成該道府一体構察 ︒如該局十有賄売 ︒司事巡丁侵蝕虚報苛勒留難等弊 ︒即行援実票報督撫藩司及何   牙陸総局 ︒以ほ参弁 ︒毎届夏冬両季 ︒即将此半年内 の境内着十有弊端 ︒商貨是否暢旺 ︒密行通冥一次 ︒燎有較大

(12)

‑13 ‑

(8)

(15, (14)

弊端 ︒地方官扶同絢隠 c査出亦即撤任参処 ︒

といい ︑産金局キ所在地の州県あるいは道府の官が ︑局長の中飽の有無・局十の状況・商業の盛衰を調査し︑毎年夏

冬の二回 ︑督・撫 ︑布政使 ︑産金局総弁に報告させたものである ︒張之洞は ︑この制度によって産金収入の増加を図

り︑もって飾需に応じようとしたのであるが ︑そこに民生への配慮はみられなかった ︒羅玉東氏は ︑この監督制度を

もって清廷が示す驚金策よりも ︑より効果的な策とし ︑これを高く評価している痛 ︶それはあくまでも地方財源の確

保を第一とする地方官張之洞の立場と ︑産金依存への熱意に出発しているといえよう︒

つぎに光緒二十四年八月二十六晩ぽ報告された陸金整頓は ︑前年十二月の戸部の続ば応えるものであるが ︑そこに

上年 c臣之洞於兼署撫臣任内 .又経奏定葺程 ︒由地方官稽査按季密夏 ︒臣継洵亦不時密委親信之員分投訪査 ︒遇

有商人控告之案 ︒軽則委査 ︒重則提究 ︒従不檎事略絢層層 ︒考核立法秦厳 ︒以故各局委員未能中飽 ︒

とある︒つまり監督制度を実施し臨 ︑巡撫諄継洵も信任する属員を ︑笛金局の調査に派遣し︑商人の控告をもとりあ

げているが ︑厳しい立法のもとでは ︑局員の中飽の余地がない旨を記している ︒この場合 ︑秘密調査及び商人の控告

という方法には ︑監督制を提案する背後に ︑地方下級官への不信が内在していることを ︑見逃せない ︒しかし︑雀金

︵7 7

減収

原の

因と

表て

にあ

げ ら れ て

いる

のは

依然

と し

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災 ︑

内 地

通過

制 度 と

いう

外的

要素

であ

り ︑

隆金

局員

中の

飽 で

はな

だ ︵

︒ ま

た ヽ

従来

産金

増収

かな

部の

分が

︑ れ︼■

を担

当 す

司る

巡 ・

丁激

のた

の賞

与 と

れさ

てい

こと

キぃ ︑

惟査向章各局収教 .如能溢御す歴係於溢収数内 ︒酌量提款充賞 ︒以示鼓励相沿己久 ︒此本額外盈余 ︒既以激励司

巡 ︵︺正所以稗益下款 ︒前人立法具有深意 ︒

とみえることにより知られる︒また ︑戸部の意図する産金を財源とする外鈴裁減については

其 由 外 鈴 提 解 充 飾 者 約 二 万 三 千 余 両

︒ 実 己 掲 羅力 拙

︒ と 共え

︑ 湖 北 に お い て 軍は 事 費 充に 当 さ れ

︑ 戸 部 言の 該に 当 す る 項 目 は

︑ 存

し な

いと

答 え て い る の であ

る ︒

し た が っ

て ︑

た えと 産 金 増に 収 が み ら れ た と し

ても

︑ 軍事 費

への

充 当 を名 と し

︑ 中 央

への

還 元 応に ず 意る 図 は 示 さ な か たっ こ と を

︑ 知

り え よ

うo

中 央 繰で 返 指し 摘 さ れ 司る 事 巡 ・ 丁 の中 飽

︑ 搾 取 と

いう

弊 害 に つ と の

つな

が り にあ ると

︑ 指 摘 す

る ︒

こ の こと

は ︑

彼 が 産 金 整 頓 で

は ︑

し て い る こと を 示 し

︑ 光 緒 二 十 四 年 八 月 記の 録 で

脚 ︶

向来悪口 っ毎委一産差 ︒即有上司各衝門及牙産総局総弁 ︒些各道府各上司幕友勒薦司事巡丁不容不収 ︒且言必須派委要差 ︒局員禁不能禁撤不敢撤 ︒以致任意侵蝕寒行無忌甚 ︒至大局司事 ︒毎年進項有至鉦款者 ︒実堪骸異 ︒

と記し ︑産金収数の減少や中飽の弊善は ︑委員が廉潔でなく︑司事・巡丁を牽制できないためとしている ︒しかもそれは従来湖北で ︑産金局員の任を得た者が ︑上司の推薦する人物を司事・巡丁に採用して ︑重職に充てたことに原因

8 .

があ

ると

いう

れこ

司の

巡 ・

の中

には

用さ

経■

によ

り︑

委員

無を

視 し

莫て

大 な

私財

得を

者る

存 ︑

し た

ので

る ︒

でこ

︑ こ

方の

禁を

し ︑

委員

がら

信任

人る

を司

巡 ・

丁と

て ︑

用す

こと

に改

めた

述と

べ て

いる

のこ

よう

にし

張て

洞之

委は

員 と

事司

巡 ・

至に

間る

一本

し ︑

飽中

弊の

防を

意ぐ

示を

し て

いる

︑ 表

面的

にあ

く ま

でも

中 飽

事の

を ︑

報 告 し

よう

と し て

いな

こと

知を

うり

福 し

かし

以 ヽ

産の

金策

は ︑

ずい

れも

中 央

への

応答

であ

り︑

現 わ れ

てく

弊る

害 と し

張て

洞が

摘す

こと

は ︑

決 し

湖て

北独

のも

では

なく

︑ 

一般

的な

のL

表て

現 し て

いる

傾き

があ

る ︒

て ︑

張之

産の

策金

性の

が ︑

確明

現に

わ れ

てく

はの

諄継

後の

とし

子て

黒蔭

湖 ︑

巡撫

任に

命 さ れ て

いて張之洞はその原因が ︑産金局員と上級地方官一

局員の中飽なしと報告しながらも ︑弊害を熟知

‑ 15 ‑―

(9)

(17) (16)とかで歩それは炭茂ら殺にの政変後さ以にあた湖北巡撫るて赴任千蔭察した蔭金策︒としのについてはか︑な︒り︑

の資料が存する︒彼については

羅湖北巡撫 ︒是時張文妻公方為湖広総督 ︒舎医構象 ︒雨宮西狩 ︒士大夫墜於一時之禍 ︒争謂旧学徹魚 ︒非歩趨泰

西新法不足以致富強 ︒難文嚢亦為之故動焉 ︒而公独力言 ︒救時之計在於正人心 ︒弁学術 ︒若用夷変夏 ︒恐異日之

︵ 8 5

憂 念 不 可 測

度 ︒

用 事 者 迂 之

︒ 遂 調 公 巡 撫 河 南

︒ と み え 彼 ︑ は

ヨー

ロ パッ 新の 法 を 主 張 す 張る 之 洞 対に し

︑ 人 心 を 正す こと が 第

一で

ると

し 用 ︲ 夷 変 夏

﹂ に反 対 し

8 6

張 に う と ま れ た と い わ れ る

︒ し か し

8 7

之洞意迂之 ︒然伐其清正 ︒使治吏事 ︒湖北財賦侑驚金 ︒蔭宗精心綜核 ︒以挙劾為激揚 ︒歳入腰増数十万 ︒

とみえるように ︑張之洞は子と意見を異にしながらも ︑彼を用いて湖北筐金を整頓し︑数十万両の歳入増という効果

を ︑あげている ︒すでに指摘したょうに ︑湖北産金の増収は ︑張之洞の懸案であった ︒しかるに ︑これを実現しなが

ら千蔭界は ︑二年半余りで河南巡撫に転じてしまったのであ ︵理 ︒このことは ︑彼の湖北巡撫就任時における張之洞の

態度から考え ︑いささか疑間が残る ︒

すなわち予蔭泰の着任は ︑振之洞の督促によって早ま婦

︑ ︶

産金策は彼の着任後まもなく着手されたものであ崎︶そ

の主な対策は ︑光緒二十五︵百八九九︶年中に実施されたようであ柄 メ前述のように子蔭察の基本とするところは ︑人

心を正すことにあった ︒したがって ︑この意味での﹁使治吏事﹂は ︑当然驚金策においても人物の問題を ︑中心に据

えて展開されてくる ︒有能で廉潔な人物採用は ︑その根幹となる ︒当時の漢口産局では ︑局員の中飽が盛んに行われ

ていた ︒したがって ︑該局の整頓に対し ︑前任者は積弊の告発を恐れ ︑未任者は将来蓄財の機会を ︑失うことを恨む

という気連があり︑至難とみられてぃだ ︒しかし光緒二十五年八月 ︑

再湖北漢口陸局収数至鉦流弊多 ︒本年八月 ︒経臣委補用同知直隷州李紹遠弁理積弊一清 ︵ ︶商民悦服 c未及半年 ︒

9 ︐

於 定 額 之 外 多 収 銭 六 万 単

︒ と み え る よ う

に ︑

子蔭 原 に よ てっ

︑候 補 官 李 紹 遠 が 派 遣 さ れ て か ら は

︑ 半 年 足 ら ず

のう

に ︑

増 収 と い う 効 果 を あ げ て い

る c

ま た

︑ 彼 が 湖 北 以 外

にも

広 く 人 材 を

︑ 求 め た こ なた

︑ 吉 林 将 軍 補に 用 道 魏 晋 積 派の 遣 を

︑ 要 請 し た こと な ど に

︵ 9 4

ょり窺われる ︒なお ︑その際の奏に

再湖北産務積弊 ︒非得人不能整理 ︒

とあることは ︑子が驚金運営の成否は人物によって左右¨されると考えていたことを ︑如実に示しているといえよう■

それ故に子の陸金策のうちで注目されるのは ︑劣悪な局員に対する積極的な弾劾であり︑これは彼の赴任以前に

は ︑兵られなかったものである︒例えば ︑光緒三十五年六月六日の上諭に耐

諭内開 .張之洞等奏 ︒参劾属員一招 ︒ ⁝補用知県驚一謙受 ︒舞弊病産 ︒狛離差所 ︒⁝均著即行革職 ︒補用知府唐樹

法 ︒人甚平店 c弁陸生事 ︒候補知府黄仁嗣 ︒貌似有才 ︒弁産不実 ︒均著以通判降補 ︒

とみえるように ︑睦金運営に不実であった劣悪局員の免職・降職の要請が ︑清延に認められていろ .ただこれらの局

︵ 9 6

員の属する産金局は ︑不明であるが ︑光緒二十六年三月十五日の記事には

以委弁驚局 ︵︶不実不謙 ︒革湖北試用知府丁柔克 ︒大挑知県劉震織職 ︒並訊弁 ︒

とあり︑試用知府丁柔克 ︑大挑知県劉震激の免職を ︑清廷に認められていることを知る ︒ここにみえる丁柔克は ︑梁口陸局 ︑劉震款は宝塔洲産局の委員で ︑告発の理由は収支数目の偽称 ︑隠におよび空名をたてての中飽等であった ︒

両局は ︑ ともに湖北薔金局中の主要な局であ ︵理︑ 先の漢口産局の整頓と併せ考えると ︑ 主要な陸金局が整頓︵ 中飽

杜絶︶の対象とされていることを ︑ 知りえよう︒なお ︑ 子蔭宗は産金局員の俸給が少なく生活費に不足すること

施 ︶腫規・中飽の弊に結びついていることを認識し ︑その対策として補助給与の確立を図って﹂製ことも見逃せな

‑  16 ‑一

(10)

(19) (18)

のこ

よう

徹に

たし

産金

は ︑

直 ち

収に

増入

加と

いう

効 果

を ︑

荒 し

た ︒

のこ

こと

は ︑

後任

巡の

撫端

方 が い

ばし

ばし

強 調 し て

いる

とこ

であ

り︑

張之

洞自

身も

子蔭

産の

策に

るよ

入増

捉を

てい

こと

は ︑

年十

二月

二十

九 日 の

1 0 1

奏に

十一月治電 ︒奉旨分将関税塩課陸金裁去腫規 ︒提充公用 .⁝産金一項 ︒⁝現在堀力整頓麓金 ︒別除積弊 ︒厳禁需

索中飽 ︒査湖北産金向係巡撫管理 ︒之洞自去秋兼管・巡撫事 ︒数月正値川廷同教援乱之時 ︒産金収数己陵前加増 .

とみえ ︑湖北の蒼金整頓が ︑中央の命に応えるものであり︑かつ張自身が巡撫を ︑兼管した時期に ︑産金収入が増加したと︑指摘しながら ︑子蔭黒についても

蔭票到巡撫任 .将及一年 ︒整金収数又較去年加増 ︒尚未歳数 c

と記し︑後の若任による増収を認めているこLにより知りうる︒しかし ︑十一月の上諭中の随規を裁去し公用に充当

せよという部分については ︑願規の減少と産金収入の増加は ︑表一 異一体であり︑したがって腫規という名目の収入

は ︑存在しえないとしてい輸

子蔭宗の筐金策は ︑清延のそれと一致してい親 ドこのこLは ︑子着任以前の張の表一 異二面策とは ︑相違するもので

あった ︒この張の二面策こそが ︑子が実績をあげながら湖北を逐われたことへの ︑ 一つの説明となるであろう︒元来

両者の間には前一述のように洋務に対して見解の相違が ︑存在したうえ ︑現実にとる政策も対昧的であったが ︑たまた

ま光緒二十六年七月に漢口で勃発した自立軍事件は ︑この両者の相違を表面化した ︒手が直情策をとったことは ︑そ

の産金策に如実に現われており︑そのことは張が ︑湖北筐金の実情を中央に報告しようとせず ︑報告と実態とが矛盾

を有していることとは ︑全く反するものであった ︒そのうえ ︑自立軍起義に対しては首謀者唐才常の処分をめぐって ︑

張と子の対立が ︑伝えられている︒すなわち ︑子があくまで唐才常の斬刑を主張したのに対し ︑張は帳陪を示し ︑千

を説得して唐を助命することを図り︑ ついに両者の激論となり︑激怒した子蔭漂が ︑席をたつに至ったとい如︺こう

したことは張が子の直情的性格を熟知し ︑彼を利用することによって ︑湖北睦金の行詰りを抱開し︑ ついで彼を転任させ ︑自己の安全を図ったとも推察されよう︒

湖北産金の行詰りは ︑張自身による監督制度 ︑ 懇不 推司巡﹂という産金策に端的に現われ ︑これは従来の筐金策で

は ︑もはや打開できなかったことを ︑思わせる ︒子着任前の筐金収数が ︑ほとんど増減の動きを示していな輸ゴとも︑

産金の膠着状態を示すものとみられ型︒子蔭暴の産金整一喰が ︑徹底的であったことは ︑収入増加を捕したが ︑彼の転

任後幾人かの巡撫の短期間における交代をへ輸 ︶光緒二十七年二月十五日張に﹁満人官僚中で第一の人物ドと評価さ

れる端方が ︑湖北巡撫に調ぜられたことによって ︑ 一つの変化が齋らされた ︒

すなわち ︑端方の産金策は子のそれとは対瞭的に ︑産金局員の酌保という方策が ︑中心を占めるようにな輸産牟

局員の酌保︵鋒衡して推挙すること︶は ︑光緒二十七年から同三十年にかけて ︑すなわち端万の巡撫期を通じてみら

れる ︒彼が酌保を奏しているのは ︑牙産局総弁造済彦≡難鵡洲竹木統塙局張慶厖 ︑王元常・基句陸局和州であ茄 ↑酌

保の効果について端方は

査郭省産金収数 ︒自二十六年奏准酌保予奨之後 ︒難獲遂奨叙不過二三人 ︒而承弁各員互柏奮激 ︒積弊頓清 ︒全省

筐政頗為整粛 ︒歴年収数逓有加増 ︒現計二十九年分⁝銀銭併計 ︒較之二十四年 ︒己多収全一百万串 ︒

といい ︑酌保が中央によって許可されたのは光緒二十六年で ︑以来湖北では二 ︑三人が ︑奨一伽ぎれたに過ぎないとは

い え 局 ︑ 員 が

発 奮

た し こ と 指 を

摘 し

て い

る ︒

な お

酌 保

理 の 由 は 定 ︑ 額 以

上 の

増 収 あ で た っ

このように ︑f蔭宗・端方と湖北陸金は ︑その策の具体的相違を示しながらも︑ひきつづき増収をみたが ︑増収分

は同じく中央へは而されなかった ︒一例をあげれば

湖北省自宜昌塩産抵還洋債 ︒溌補之款半帰無著 ︒江漢関茶税減徴 ︒課収又復腰短 ︒新案賠款難経設書 ︒而収数盈

納無瞳 ︒往往不能済急 ︒全頼此項産金随時堪注 ︒得以無誤 ︒要需稗益大局良非浅鮮 ︒

‑ 18 ‑―

―‑19‑

(11)

120)

とあり︑光結二十九年当時 ︑端方は産金収入についてそれが湖北財政を支えるのに一杯で ︑中央に寄せる余裕はない

と述べている ︒この奏からも︑依然として産金整頓は ︑湖北省財政の支柱強化という目的を ︑有していたことが窺わ

れる︒

さて ︑この時期には湖北に始まり︑のちに各省に普及した火車貨掲︵ 鉄道筐金︶の創弁が ︑みられる ︒これは産金

が ︑鉄道という全く新しい輸送手段に適応して成長をとげたともいえよう︒薦漢鉄道は ︑張之洞が献策したものであ

り︑その建設推進のため彼は両広総督より湖広総督へ転じたといわれるほど張と深い係りを有するものであった ︒光

結二十八年 ︑産漢鉄道の漢日︱信陽︵ 河南︶間が開通したニカ月後の七月に ︑火車貨褐は創弁された ︒火車貨掲設置

の理由については ︑

本省営詢各款半時窪金為大宗 .而部省比額岐多 ︒収数最睡 .盈紺之間関係尤重 ︒自火車揚行 .附近鉄道之水路各

陸局 ︒向来応徴之陸 ︒半帰無著 ︒若不設法抵補 ︒則本省応用之款 ︒必至陳形掲顕賄誤要需 ︒       抑

とあり︑湖北財政の半ばが産金に頼っている以上 ︑鉄道開通により沿線の筐金局の収入が ︑減少することは見逃せず ︑ .

火車賞塙という形で ︑補おうとするこLにあったことは ︑明らかである︒火車貨婦の税率は ︑海関の半税と同じく従

価二・五パーセツトで ︑ 一次徴収︵いわゆる統相︶によったのである︒

光緒二十八年当時 ︑張之洞は外国が産金に対し否定的であって ︑弊害︵ 徴収の回数の多さLその際の手続の煩雑と

距規等︶が除去されたければ ︑いずれは廃止を強要されるであろうことを ︑認識していた ︒したがって ︑振にとって

は火事貨掲の徴収を ︑ 一次のみと定めたことは ︑弊害を防ぎ外国人に干渉の隙を与えず ︑かつ麓金の損失分を補うよ

いう意味を有してい縞一この火車貨桐に先立ち光緒二十六年 ︑湖北では竹木筐金の統掘が実施され ︑前述のようにそ

の局員が的保の対象とされており ︑増収という成果を ︑あげている ︒竹木桂金の統絹について光緒二十七年四月 ︑張

之洞の奏には

再傑弥遜力争常関帰洋関兼弁 ︹⁝且去年春 ︒椰省将竹木毯金改為統渦 ︒裁併分局十七処 ︒減軽収数 ︒商便値増 ︒

確有成功 ︒i如税司必欲干預常関 ︒翔省即当奏明裁新梶関木税 ︒帰併舞地洲木管局統収 ︒皿商裕課 ︒均有神益 ︒

とみえ ︑イギリス公使釘習記官傑弥返が ︑庚子賠款の書伽矢として ︑常関の管理権を海関の税司に委ねることを提案したのに対し ︑張は強く反対し ︑湖北では木税の徴収法か寸tに竹木統据により簡便化したことを指摘している︒し

たがって ︑竹木統掲年対外的に ︑産金を擁謹する役割を果すものと ︑張に認識されていたといえよう︒

さて ︑抗摘はこのような効果を死しながら ︑湖北陸金が全両的に統掲に改められたのは ︑遅れて光緒三十一年五月

二十日のことである商 .湖北は ︑光緒二十九年の戸部の統婦制推行の命に応えた数少ない省の一つであった ︒こQメ

部の奏によれば ︑統塙とは

統揺之法 .凡各省貨物 ︒由初次産地発連之時 ︵︶将各処産十応完之驚 ︒帰併統計 ︒約収若干 ︒即酌定収数 ︒在産地成総売納 ︒給・予愚単 ︒以後経過地方 ︒慨不重徴 ︒即可将沿途驚十 ︒全行裁撤 ︒或酌留一工如要之区 ︒専司稽査 ︒

不准再徴 ︹ ︶

Lみえ ︑驚金徴収を一次とし規定の局で納税を済せれば ︑後の局は検査のみを行なうというものであり︑実施の理由Lしては     ︐

窃維荏金一項 .各省積弊甚深 ︒外人屋有繁言 ︒以致F訂商約有免産加税之挙 ︒⁝将来一経加税免麓 ︒窃恐所加之税 .未必能敵所免之産 ︒ヱ応預備害商 ︒査裕釣之道 c惟統癌最善策 ︒

とみえ ︑加税免産の約が成立したため ︑賛金の延命には統据の法しかないことを ︑指摘している ︒湖北の統幅は ︑湖

北巡撫が裁され湖広総督が兼管するこ茄ざなって ︑張之洞により実施された ︒統掘について張は ︑

琶金向帰巡撫主政 .他人不能参預 ︒自裁兼撫欠後 ︒以朝省産捐局キ大多 ︒商民困累 ︒乃創議改弁百貨統掲 ︒裁撤各州県産十三十一処 ︒官吏百端阻院 ︒悦以釣必大廟 .竜不為動 ︒譜即使短収至五十万亦必為之 ︒試弁之初疏節潤

(12)

̀22ヽ

│ │ 十

目︒現届試弁一年期満 ︒核計収数比較上年 ︒転増多十万福 ︒商民大悦 ︒

といい ︑産金管轄権を巡撫裁撤後掌握したので ︑商民を患す弊害を除く統絹を官吏の強い反対をおしきって実施し ︑

増収を得たことを指摘している ︒張之洞は ︑統編の目的として皿商を表明し ︑司事・巡丁の搾取として掛号・照票・

灰 印 剣 ・ 子 提 ・ 船 銭 と い たっ 距 規 を

︑ 禁 止 し た が

︑ 反 面 商 人 脱の 税 防 止 の た め 罰の 則 規 定 も 忘 れ て は い な か たっ

︒ こ

︵ ︲ 3 0

︵ 取

のよ

統に

掲制

採の

によ

てっ

北湖

筐金

遇は

キ徴

収 制

から

一次

徴収

改に

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統 ︑

青塙

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前加

抽之

雑糧

石 ・

筆・

船・

娠 ︒

絹等

痛 ︒

係供

本省

新政

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応 角 照

附旧

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弁塙

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みと

え ︑

従来

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徴で

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附加

は ︑

新 政

財の

源 と

いう

理 由

存で

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れ て

いる

こと

注に

意 す

べき

であ

︲ 3 2

︒ 湖 北 統 塙 に つい て

は ︑

青 定 的 な 評 価 も 存 す る が

︑ 産 金 弊の 害 は 以 前

にも

増 し て お

り︑

統 ﹁ 名の が あ てっ 統 実の が

﹂い と

いう

評 価 が

︑ 当 てっ い る と

いえ

よう

︒ な ぜ な ら

︑ 張 之 洞 意の 図 は 地 方 財 政 確の 立 にあ てっ 皿﹁ 商 恵 民

﹂ に は

︲ 3 4

なく︑産金局員と商人とに対して驚金収入を守り︑更に外国の干渉を避けるこLに ︑存したからである︒産金が ︑清

来の社会の体質と一体不可分であるとすれば ︑統絹制が採用されても ︑運営に当る人物が元通りで ︑産金制の根本が

変更されていないとすれば ︑驚金の欠点は克服されたとは ︑いえないであろう︒統絹と相前後して実施された省城に

おける認福も︑その目的は産金収入の確実化にあったと ︑考えられる ︒すなわち ︑張之洞が湖北巡撫裁撤の後をう

け ︑産金を掌握したこの時期には ︑従来の章智の厳格化 ︑局員の弾劾 ︑酌保では足らず ︑統捕・認掘をも採用せねば

ならなかったと︑考えられるのであ輸

張之

は ︑

約 十

年八

間湖

総広

の任

にあ

たっ

が ︑

産 金 に

つい

いて

ば ︑

関 心

専は

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Lに

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北産

は ︑

撫 ・

力の

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いう

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のに

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南蔭

は ︑

終始

紳が

掌 握

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︵ 脳

︵ ︲ 3 0

る こと は 湖 ︑ 北 湖が 南に 対 す 牽る 制 役の 割 を

︑ 果

し て い た とこ を 推察 さ せ

る ︒

て ︑

張 之 洞 は湖 広 総 督 着に 任 す る と ま も

なく

驚 金 特 川に 塩 驚 が 湖 北

にと

てっ 主 要 財 源 で あ る

こと

を 認 め

︑ そ 確の 保 を 図 たっ

︒ し か し

︑ そ 徴の 収 権 が 第 二 次 英 徳 借 款 担の 保 と し

て ︑

湖 北 の 手 を 離 れ る L

︑ 貨 穫 視に 小占 を 転 じ

た ︒

は ︑

産 金 整の 頓 着に 手

し ︑

こと 戊に 成 変 法 後 に 湖は 北 巡 撫 子 蔭 扉 に よ てっ

︑ 局 員 弾の 劾 を 中 心 と す

る 徹 底 的 整 頓 が 行 な わ れ

︑  つい 提千 制 方 に よ てっ 酌 保 策 に転 じ

︑ 張

自 身 に よ 統る 塙 採の 用

に ︑

至 てっ い

る ︒

こ の よ う に

︑ 張 は陛 金 を 重 視 し た L は いえ

︵ 1 1 0

農国

最民

吉地

酒丁

糧 ︒

不便

徴 ︒

不加

黄将

税関

金塩

課 ︒

と い

い ︑

民と

産 金

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り︑

金負

担者

への

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みは

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そ ︑

面一

示を

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い茄

︵ ︲ 4 2

張之洞の産金策は ︑一清廷のそれと表面的には ︑ 一致している︒しかし ︑湖北驚金の擁護に彼が熱心に努めた理由の

一つとして ︑洋務事業の資金としての産金の役割が ︑考えられるであろう︒張之洞は自ら

言語僚属日︒自官鍾吏以来己二十五年 ︒惟在晋両年公事較簡 ︒此外無口不在荊天棘地之中 ︒大抵弁之事皆非政府

意中欲弁之事L所一用之銭皆非本省固有之銭 ︒

>品い ︑両広・淵一広における彼の事業は ︑清廷の意に沿わぬもので ︑資金は省庫によるものではないと指摘している︒また ︑その事・業については

凡公所設施 ︒皆不店重費 ︒不顧小嫌 ︒当路巨公以其費用浩繁 ︒毎建一議挙一政 ︒鯨相与阻携 ︒使不得径行共志 ︒

然公在部在号害款巨万 ︒不時庫補 ︒不席民財 ︒大半皆取之中飽私馳 ︒

とみえ ︑﹁中飽私規﹂がその財源であると指摘され ︑張もこれを認めてお蝙︶まど ヽ湖北における改革事業の主要財源は ︑産金であるともいわれ親.このように ︑張之洞の洋務と進金の関係は ︑あくまでも湖北における彼の基盤の確立を ︑目的とした地方財政の確保にあったといえよう︒

‑ 2 1 3 ‑ i■ │

参照

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(出典)

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