はじめに
貧困問題が深刻化する19世紀英国において、1830年以降、エドワード・ブルワ ー=リットンの『ポール・クリフォード』( , 1830)などのいわゆるニ ューゲイト小説において、貧困から生じる犯罪という問題が扱われてきた。特に、
生きるためにやむなく犯罪に手を染める下層階級者を同情的に描き、貧窮の改善の 必要性を示唆した彼らの小説は世間の関心を集め、1832年には農村教区及び都市 教区に対する調査が行われるに至った。そしてそれをまとめた1834年救貧法報告 に基づいて、同年に新救貧法が制定された。しかし、下層階級者の実情が正しく認 識されていない初期の段階で定められた新救貧法は、様々な課題を含んでいた。チ ャールズ・ディケンズの『オリバー・ツイスト』( , 1837)やエリザベ ス・ギャスケルの『メアリー・バートン』( , 1848)など、文学作品の 中で貧困や労働の問題が扱われる中、物語としてではなく現実の姿としてそれらを 提示したのが新聞記者ヘンリー・メイヒューであった。ディケンズとも親交のあっ た彼は、1849年10月以降、イーストエンドの調査報告を『モーニング・クロニク ル』紙に連載した。この記事は連載当初から大人気を博し、植松靖夫の言葉を借り れば「下層階級者の惨状を一般市民に認識させるのに初めて成功した」ⅰが、その 人気は次第に低迷し、1851年にはメイヒューは連載から身を引くことになる。後 に単行本として出版された『ロンドンの労働とロンドンの貧民』(
)も、1880年代に再注目されるまでは脚光を浴びることはな かったとされている。その理由として、植松はメイヒューの気分屋な性格や編集部
ヘンリー・メイヒュー『ロンドンの労働とロンドンの 貧民』(1851)再考
̶̶イギリスにおける反響と日本への影響̶̶
Henry Mayhewʼs (1851)
- Sensation in England and its Infl uence on Japan -
内 藤 貴 夫
との対立を挙げているが、本論では特に貧民学校(Ragged School)との論争に注 目し、メイヒューの記事が「誇張」「虚偽」のレッテルを貼られるに至った経緯を 辿りたい。というのも、この貧民学校の反論はメイヒューの記事に対して疑問を投 じた初めての事例であり、メイヒューの人気を落とす原因となったばかりか、編集 部との対立を加速させ、メイヒューの辞職、連載の終了へと導いた大きな出来事で あったと考えられるためである。その上で、彼の記事が事実とは異なる虚偽のもの であったのかについて考察を行いたい。
同時に、メイヒューとの関連が指摘されている明治下層記録文学の先駆者・桜田 文吾の『貧天地饑寒窟探検記』を取り上げ、桜田が言及している「倫敦の貧民の 記」が何を示すのかについても比較分析を試みる。
1.ヘンリー・メイヒューの反響について
『ロンドンの労働とロンドンの貧民』に集録されるメイヒューの一連の記事は、
1849年から約1年間にわたって『モーニング・クロニクル』に連載されたもので あるが、英国においてイーストエンドのスラムを探訪し、下層階級者の貧困状況を 取材した最初期のものと考えられている。その調査の範囲は針子や仕立屋から呼売 商人、さらには拾い屋・どぶさらいに至るまで多岐にわたる。まるで自伝さながら に一人一人の状況を詳述した形式が反響を呼び、連載当時は英国で彼の記事に触れ ない新聞はなく、各紙がこぞって称賛したほどであった。また、統計によって貧困 や労働の問題に規則性を見出そうとしたメイヒューの狙い通り、その取材数は桁外 れで、彼の調査にかけた情熱を窺い知ることができる。社会への影響も大きく、下 層階級者に対する一般市民の認識を高めただけでなく、移民協会などの慈善団体や 労働組合の設立にも寄与している。
メイヒューの当初の評価については、新聞雑誌各紙から伺い知ることができる。
例えば1850年の『アシニアム』誌では、「彼(メイヒュー)は、勇気と根気でもっ て社会の苦痛の根底に入り込み、一連の事実を発掘した。クロニクルとその委員ら は神聖な仕事をなした。すでに成果は挙がっているが、さらに挙がるにちがいな い」ⅱと評されており、また『パンチ』では、作家のウィリアム・メイクピース・
サッカレーが「賢明で熱意ある記者が『モーニング・クロニクル』紙から任を受
け、ロンドンの貧民の調査を行っている。これほどに素晴らしく、すさまじく、悲 しく、刺激的で、恐ろしい生き様というものを、ロマンスの読者は読んだことがな いだろう。ここに描かれる悲痛、苦悩、奇妙な冒険というものは、我々の想像を絶 するものである」ⅲと記している。しかしながら、この連載記事は次第に人気を失 ったとされ、その理由としてメイヒューの気分屋な性格と、編集部との対立が挙げ られている。
メイヒューは伝記を残しておらず、その生涯については不明な点も多いが、まず 植松とアン・ハンフリーの記述を頼りにメイヒューの伝記的な事実をまとめておき たい。メイヒューは1812年11月25日に弁護士ジョゼフ・メイヒューの四男とし て生まれた。厳格な父のもとで育ったヘンリーであったが、その性格は、「怠惰と 集中力」が同居している人物だった。学校の試験でビリになったかと思えば、二日 後にはトップに躍り出たり、宿題を忘れて校長から鞭打ちの罰を受けそうになると 逃げ出して退学になったりしている。15歳でウェストミンスター校をやめたヘン リーは、見習い将校としてインドへ渡るが、これも長続きせず、一年ほどで帰郷 し、父の事務所に入れられる。しかし父とは上手くいかず対立が続き、最後には重 要書類を紛失してあわや逮捕寸前の大惨事を引き起こして、パリへと逃亡する。こ の期間中にサッカレーやディケンズと親交を結んでいる。強力な染料を発見すると いう志で化学の実験に力を注ぐ傍らで、ジャーナリスト・劇作家としても活動する 中、1841年の『パンチ』創刊によって文学方面で成功を収めることとなる。しか し、怠慢な仕事ぶりによって編集長マーク・レモンとの対立が生じ、創刊から一年 ほどで身を引き、その後は小説の執筆や雑誌の編集をしながら、1844年には友人 ダグラス・ジェラルドの19歳の娘との結婚に至る。鉄道の流行にのって鉄道新聞 を創刊し、その利益を見込んで新居を購入するも、鉄道新聞が失敗して借金を抱 え、生活に追われる羽目になる。そして1849年10月に『モーニング・クロニク ル』紙の記者としてイーストエンドの調査記事を連載し始める。この連載記事が大 きく注目されるも、編集部との対立によりわずか1年ほどで連載を終了する。その 後、1856年に出版者デイヴィッド・ボウグと『ロンドンの労働とロンドンの貧民』
再刊(二巻本)について話がまとまり、第三巻出版に向けて新たな調査を開始した 矢先に、ボウグの突然の死によって計画は消滅してしまう。
メイヒューが貧民窟探訪を始めたのは、1849年9月で、新聞記者として「バー モンジーの疫病地帯をいく」というタイトルでテムズ川南部の貧民窟ジェイコブ ズ・アイランドを探訪し、コレラ流行に際する調査(前年にロンドンだけで14000 人が死んでいる)を行っている。当初はコレラ蔓延の媒体が水路であるということ は解明されていないが、スラムで発生したことから不衛生との関連が考察されてい た。メイヒューの役目はスラムの暮らしや衛生状況を調査することであったが、こ の調査が彼に深い衝撃を与え、彼の強い希望で10月から『モーニング・クロニク ル』へ連載する Labour and the Poor へと発展していく。
都市部調査員としてロンドンを担当したメイヒューのほか、2名がそれぞれ北部 の工業地帯と大陸を担当する形で、3人の調査報告が順番に掲載されたが、特にメ イヒューの記事が人気で、週3回の頻度で掲載されるようになった。しかし1850 年4月には週1回に減り、12月には姿を消してしまうのである。実は同年2月頃 から、編集部がメイヒューの記事を無断で改竄する出来事が重なり、メイヒューは それに対して抗議をしていたようである。極めつけは自由貿易についての編集部と の意見の相違で、自由貿易を支持する編集部に対し、調査から自由貿易が下層階級 者の賃金を圧迫していることを熟知していたメイヒューは見解を異にしていたと思 われる。
以上が英国におけるメイヒューの反響であるが、ここではそれに加えて、とりわ けメイヒューと貧民学校との論争に着目したい。というのも、この貧民学校の反論 は、メイヒューの記事に対して疑問を投じた初めての事例であり、メイヒューの人 気を落とす原因となったばかりか、編集部との対立を加速させたものであったと考 えられるためである。
2.メイヒューの記事に対する反論――貧民学校との論争――
このように、各紙がこぞって称賛するほどの高評価を受けていたメイヒューの記 事が、なぜ人気を落とし、そして忘れられてしまったのだろうか。実は1850年5 月の『モーニング・クロニクル』において、メイヒューが貧民学校について批判を 行ったところ、貧民学校側が猛抗議をし、論争が巻き起こったのであった。教育費 を払えない下層階級の人々へ教育を授け、犯罪を減少させるために創立されたはず
の貧民学校であるのに、それがかえって不良少年の避難所となり、さらには彼らが 他の善良な貧しい子達に泥棒の手口を教えたりして、犯罪者の育成所となっている ことを、メイヒューは政府の報告書などを手掛かりに主張した。さらに、貧民学校 によって被害を受けたという元生徒や、警察など12人の証言を元に、貧民学校に よって生じている悪影響について論じてみせた。貧民学校の有効性が不明瞭であ り、むしろ犯罪者の増加に関係しているのではないかということを調査する必要が ある、とメイヒューは論じている。そして政府の報告書を頼りに英国における人口 と犯罪の関連、貧民学校の増加と少年犯罪の増加の関連を示し、貧民学校の増加が 青少年犯罪の増加に加担しているという結論に至っている。
これに対して、貧民学校連合会は『貧民学校連合会誌』(
)に反論を掲載した。彼らは、メイヒューが結論に至るまでに示 した証拠一つ一つについて反証を挙げ、メイヒューの記述の虚偽を徹底的に証明す るという手に出たのであった。例えば、青少年犯罪の増加については、メイヒュー が数だけに捉われ、鉄道熱に伴うバブル崩壊やアイルランドのジャガイモ飢饉によ る貧困層の移民、フランス革命の影響などを看過していると訴えたⅳ。また、集会 に集まった貧民学校の生徒の保護者による証言を一部掲載し、450人もの保護者が 貧民学校の恩恵に感謝をしていると主張した。さらにメイヒューの取材を受けた 人々から事情を聞き、メイヒューが誘導尋問を行っていたこと、証言の中から貧民 学校に不利なものだけを選りすぐっていたこと指摘した。ある警察官は、貧民学校 の恩恵について話そうとした途端、メイヒューが「それはいい、そういうことを書 きたいんじゃないんだ」と遮ったと証言した。極めつけは、アシュリー卿がメイヒ ューの記事に対してクロニクル編集長宛に抗議文を送りつけるに至り、これらの要 因によって世論は貧民学校の支持へと傾き、それ以降メイヒューの記事は「誇張」
「虚偽」の烙印を押されてしまったのであった。このアシュリー卿とは、貧民学校 連合会の会長であり、メイヒューとは因縁のある人物である。というのも、連載当 初のメイヒューの記事に衝撃を受けたアシュリー卿は、唯一の救助策が移民だとの 結論に達し、『モーニング・クロニクル』のオーナーであるシドニー・ハーバート とともに女性移民協会(Female Emigration Society)を設立し、ウェールズなど への50万人の移民を計画したのであった。これは、労働階級者の低賃金が労働力
の過多にあるとする需要供給原理に基づくものであったが、メイヒューは外国の安 価な品の流入が原因だと分析していたため、移民計画には賛同していなかったはず である。また、いわば貧困問題の専門家ともいえる自分とは無関係なところで慈善 事業が進められることも面白くなかったのかもしれない。しかも『モーニング・ク ロニクル』は社説で繰り返しこの慈善行為・博愛主義を称賛している。こういった 背景において、連載当初からアシュリー卿らに対しては少なからず反感のようなも のがあったと思われる。
慈善行為について言えば、メイヒュー自身は青年期に苦労して独学で化学を修め ているため、教育における自助(self-help)の必要性を高く評価する人物でもあっ た。そのため安易に手を差し伸べる慈善という行為には必ずしも賛成ではなかった であろう。実際に、1848年に出版された Respectable Man という詩の中で、貧 民への慈善を行いながらも家庭を蔑ろにする偽善的な父親の姿を皮肉っている。ま た、一連の論争の渦中で、アシュリー卿が力を入れている慈善的な下宿屋に対し て、「結局、貧乏な人を救う唯一の方法は、彼らに独力で努力することを教えるこ とだ」ⅴと批判していることからも、アシュリー卿とは異なる貧困に対する視点を 見ることができる。
この一連の論争が、世間の関心をメイヒューから離してしまったと考えられる。
そして、メイヒューの記事が人々に忘れ去られる原因となったばかりか、下層階級 者の貧困問題に対する読者の関心を薄くさせてしまったと推測される。H. J. ダイ オスの引用を用いて安保則夫が述べているように、1880年代以前のこれらの文書 は、「自分からは進んで得たいとは思わない不快な事実を提供することを目的とし た社会的ルポルタージュ」の類を中心とするものであり、「読者大衆の側にしても、
スラムは好奇心を満足させる興味の対象ではあっても、自分たちの生活にかかわる 深刻な社会問題としてはまだ受け止められていなかった」ⅵため、メイヒューが試 みた貧困や労働の問題を深刻な現実問題として受け入れる土台は、この時期にはま だできていなかったのである。1851年11月の『アシニアム』誌には、「不運にも、
彼の記事が掲載されるや、それが誇張であるという疑惑が生じた。(中略)一つの 事例において証明された誇張は、記者のロンドンのいわゆる「新事実」全体にいく ぶんかの疑念を投じる結果となった」ⅶという批評が掲載されている。このよう
に、貧民学校との論争、そしてアシュリー卿との意見の相違が、編集部との対立に 拍車をかける大きな要因となっていると思われる。
メイヒューは、単行本『ロンドンの労働とロンドンの貧民』に付した序文の中 で、自身の調査記事の目的を「貧困層に対する富裕層の認識を高めさせ、貧困層の 惨状を改善すること」ⅷだと述べている。一見、下層階級者への同情的な視点を見 て取ることができるが、これは単なる博愛主義的なものではなく、政府や上流階級 による保護、教育の必要性も含んでいる点に注意しておきたい。メイヒューの記事 をめぐって生じた貧民学校との論争は、博愛精神のもとに貧困層の救済を図る貧民 学校と、単に手を差し伸べるのではなくて教育によって自助の力を与える必要性を 重要視するメイヒューとの理念の対立ともいえるのである。
3.メイヒューの記事の信頼性に関する考察
これまで、メイヒューの人気衰退の原因として、貧民学校との間の論争に触れ、
結果として彼の記事が「誇張」「虚偽」として受け取られてしまった点を論じてき た。ではメイヒューの貧困表象が偽りであり、価値のないものであるかというと、
必ずしもそうではないように思われる。
確かに、メイヒューの取材を受けた下層階級者が、後に嘘をついたことを自白し た事例も存在し、すべての内容が事実だというわけではない点はすでにハンフリー が指摘している通りであり、メイヒューは時間の許す限りにおいてそれぞれの記事 の裏付けをとったり、関係者を多数集めて、自分の取材内容の真偽を確かめてもら ったりしているⅸ。先に述べたように、一時期は週に3回のペースで連載されてい たことを考えると、取材や執筆に費やす時間を確保しながら内容の正確さまで維持 することは困難であったに違いない。おそらくメイヒュー自身、多少の虚偽が混じ ることは承知の上で、事例数を増やすことで記事の信頼性の保持を図ったのであろ う。いずれにしても、メイヒューの調査記事は英国で初の試みであったばかりでな く、1880年代に行なわれるジョージ・ロバート・シムズによる調査へと影響を与 えている点を考えると、決して蔑ろにはできないものといえる。そしてシムズの連 載記事を皮切りに、「日刊、週刊、月刊、季刊を問わず各種の新聞雑誌においてス ラム問題を様々な角度から取り上げた記事が多く発表されるようになった」ことは
事実であるⅹ。1883年には、シムズの記事に基づいて書かれたアンドリュー・マー ンズ牧師のパンフレット『ロンドンの見捨てられた人々の悲痛な叫び』(
)が英国民の貧困問題に対する認識を大きく変化さ せる契機となるのである。
シムズの記述にはメイヒューとの類似性を多く見出すことができ、ここからもメ イヒューの描いた貧困状態が決して誇張された虚偽のものではなかったことがわか る。例えば、先の貧民学校との論争の部分で触れた通り、メイヒューは犯罪階級と 同じ場所で過ごすことによって、盗みの手口を教えられたりなどの悪影響を蒙る労 働階級者の様子を記しているが、シムズも1889年に出版された『貧民の生活状態
と恐怖のロンドン』( )の中で、犯罪者の
悪影響が労働者におよぶことを防止することの重要性を説き、「あらゆる計画の中 で改革者がまず最初に行うべき大仕事は、労働者階級を犯罪階級から分離すること でなければならない」ⅺと示している。
同じように、履いていく靴がないために学校へ行けない子どもたちの描写につい ても、メイヒューとシムズの双方に似たような記述が見られる。メイヒューの、
The Week before there was a first-day, and I didnʼt earn above 6s. that week if I did that. My boy canʼt go to school. Heʼs got no shoes nor nothing to go in.ⅻ
という記事と比べてみると、約30年後にシムズが描いた様子にはメイヒューの時 代と変わらない状況が伺える。
The children have not been to school. Why? asks the officer who accompanies us. Because theyʼve no boots, and they are both ill now.
...
The childrenʼs boots have gone with the fatherʼs coat, and at present it does seem hard to say that the parents must be fined unless the children come barefooted through the sloppy streets to school. Such, however, is the rule,
and this boot question is an all-important one in the compulsory education of the children of the slums.xiii
実際にシムズ自身、伝記の中で自分の記事が誇張だと批判されたことを記してお り、決して誇張ではなく、それだけ読者の想像を絶する状況が下層階級者の間に広 がっていたことを回顧している。また、この2つの記述は、後に述べる桜田文吾と の関係性においても重要となる。
シムズは一連の調査の中で、「これは国家干渉の理論に直接関係する問題の一部 である。悪質がこれまで改善されずにきたのは、我々がそこに目を閉ざじてきたか らである。これらのような事例は立法上の保護を要すると私は断言する。国家は未 来の国民をそのような境遇から救い出す力を持っているはずである。そして幼子を 肉体的苦痛から護る法律もまた、彼らの道徳の崩壊から保護するように形作られる べきである」xivと述べている。これはメイヒューが掲げた貧困対策と類似してお り、メイヒューが1850年の段階で下層階級者の状況を正確に認識し、的確な対策 を考察していたかを示しているといえる。この2人のスラム探訪記者が達した国に よる保護と教育の必要性という結論が、メイヒューの調査から30年の時を経て、
1880年代にようやく救貧法や教育法の改革へと繋がっていくのである。
以上のように、メイヒューの記述は、後のシムズの調査報告と照らし合わせてみ ても一致する部分があり、シムズへと影響を及ぼし、貧困問題、労働問題、そして 教育の改善へと貢献したという意味では、見落としてはならない著作であったとい えるのではないだろうか。
4.日本への影響――桜田文吾『貧天地饑寒窟探撿記』との関係性――
日本において、下層社会記録の嚆矢とされているのが、明治23(1890)年8月 から11月にかけて新聞『日本』紙上に連載された桜田文吾の「貧天地」「饑寒窟」
である。これは後の明治26(1893)年に一冊に纏められ『貧天地饑寒窟探撿記』
として刊行された。「貧天地」は東京の三大スラムである下谷万年町、四谷鮫ヶ橋、
芝新網町の探訪記であり、「饑寒窟」は大阪のスラムである名護町の探訪記であ る。実際に貧民窟で働きながら、貧民の実態を詳しく調査すると同時に、上層階級
者に対して批判的な立場から書いている点で、明治前期の下層社会記録のなかでも 重要な作品とされている。
桜田の貧民窟探訪は、4、5ヶ月にも及んでおり、特に名護町探訪の際にはコレ ラが大流行し患者のほとんどが死に至るという状況であったため、その中へ飛び込 んでいった桜田の探訪というのは、単に好奇心のみによるものでは決してなかった といえる。
ここで、西田長寿の『明治前期の都市下層社会』から、桜田の略歴を参照してお きたい。
文士。大我、また一寸法師と号す、文久三年仙台北四番丁に生る。幼少の頃父 を失い母に愛育される。弱冠仙台外記丁小学校(上杉山通小学校の前身)助教 となり、後ち東京法学院(中央大学)卒業後日本新聞社に入り、饑寒窟を連載 して貧民窟の実況を報道し文名一時に起る。筆を載せて日清、日露両戦役に従 軍す。後ち京都に移住し、京華社及び京都通信社を創設して社長となり、又京 都市会議員に当選す、大正11年12月31日京都に歿す、享年60、仙台半子町 寿徳寺に帰葬す。xv
さらに紀田順一郎『東京の下層社会』の記述を付け加えると、仙台藩士の家に生れ た彼は、二人の兄がそれぞれ戊辰戦争と五稜郭の戦いに敗れたのち病没、一人の姉 も誘拐されたため、母親は悲嘆のあまり世を去った。この姉とは十数年後に再会す る事を得たが、彼自らは苦学の末に東京法学院卒業、縁あって陸羯南の経営する日 本新聞社に入社することができた。イギリスの風刺雑誌『パンチ』や、オッテンド ーソンビルの『巴里の孤児』という貧民窟を扱った小説を読んだと記していること からも、かなり英語に堪能だったと考えられるxvi。先に述べたように、コレラの 蔓延する貧民窟に潜入していく桜田には、こういった幼少期の貧困や苦労といった ものが関係しているように思われる。
では、『貧天地饑寒窟探撿記』の本文に触れておきたい。この探訪記は、木賃宿 の状態が鮮明に描かれている点と、貧民に対する同情的な視線が見られるのが特徴 といえる。約一週間を費やして浅草、本所、四谷などの貧民窟を観察した桜田は、
「米価騰貴、生活を困難にし、金融渋滞、工業を沮息せしめたる等交々渠等を排済 したるなり。渠等の大部は元来賦性の惰民にはあらず」という主張と共に探訪を終 えている。そしてほどなく大阪名護町の視察を志すのである。
前半の「貧天地」の中には、「英倫敦に於ける貧民の記を読むに英の大我居士そ の貧民窟に入りし時・・・」という描写がある。
曾て英倫敦に於ける貧民の記を読むに英の大我居士其貧民窟に入りし時見覚え ある小児等の其の家に居るを見て、学校には行かすやと問えは、近頃休み居れ りといふ、何故なりやと問反せは、靴なきか為めなりと答へたりと、是れに就 き其人は説をなして云くxvii
先ほど見た通り、靴を買うお金がないために子どもを学校に行かせられないという 貧困層の苦叫は、メイヒューとシムズの両者ともが描いている。二人の描写と桜田 の描写とを照らし合わせてみると、桜田がシムズの記事をそのまま引用しているの が分かる。なぜシムズだったのかについては別の機会に論じるが、ここではもう一 つ、「饑寒窟」におけるロンドンへの言及を参照したい。
倫敦の饑寒窟探検者がいひしごとく、今予が探検せんとする処も亦遠き亜非利 加の内地にもあらずxviii
貧民窟の悲惨な状況をアフリカに例えるこの表現は、H. M. スタンリーが探検した 最暗黒のアフリカを引用した救世軍創始者ウィリアム・ブースの『最暗黒の英国と その活路』( , 1890)との関係を連想させる が、メイヒューの『ロンドンの労働とロンドンの貧民』の冒頭にも下記のようにア フリカへの言及がある。
According to Dr. Andrew Smith, who has recently made extensive observations in South Africa, almost every tribe of people who have submitted themselves to social laws, recognizing the rights of property and
reciprocal social duties, and thus acquiring wealth and forming themselves into a respectable caste, are surrounded by hordes of vagabonds and outcasts from their own community. Such are the Bushmen and Sonquas of the Hottentot race̶the term sonqua meaning literally pauper. But a similar condition in society produces similar results in regard to other races;
and the Kafirs have their Bushmen as well as the Hottentots̶these are called Fingoes̶a word signifying wanderers, beggars, or outcasts.xix
この「饑寒窟」がコレラが蔓延する名護町に意を決して潜入したものである点を考 えると、コレラが広がるロンドンのイーストエンドへ単独潜入取材を試みたメイヒ ューのことを指しているとも取れるかもしれない。少なくともシムズの記事には確 実に触れていることを考えると、シムズに影響を与えたメイヒューの存在も小さく ないと言えるだろう。
最後に、桜田の貧民に対する視点について触れて、本論を締めくくりたい。名護 町を探訪した「饑寒窟」の部では、その惨状に驚き、次のように記している。
貧民の味方たらん者は之を救ふにいそしまざらんや、今日之を救ふの方は貴者 富人か視ぬまねし、聴かぬまねし、知らさるふりせる此の社会下層の真状を在 りの儘摘挙して何人にも強て視せしめ、聴かしめ、知らしむるに在り、斯くの 如くするも社会の上層尚ほ目を塞き耳を掩ひ心を向けす、富貴の抑壓を逞くす るものならは、其の時こそは御互に翁は東、居士は西、貧民黨の大旗を樹て、
相呼応して義兵を挙け、同し人類にてありなから他の人類を困める彼の桀紂の 徒を騙らんは如何に如何にと唾壺を砕きて諭したり。xx
ここには、貧民に対する同情的視線と同時に、社会改良を訴えるような表現が見ら れる。紀田順一郎は、桜田が行った貧民窟探訪の動機について、「彼の少年時代に おける家庭的不幸に根ざす」xxiとしているが、「社会の上層尚ほ目を塞き耳を掩ひ 心を向けす」というあたりには、あるいはシムズの影響のほうが大きいといえるか もしれない。
このルポルタージュが掲載された明治23(1890)年は近代最初の経済恐慌が日 本を襲った年であり、全国各地に米騒動があいついで起こっていた。『貧天地饑寒 窟探撿記』はそういった事情と深く関わっており、後に述べる松原岩五郎の『最暗 黒の東京』とともに、社会問題に対する関心を大きく前進させた。しかしながら、
『貧天地饑寒窟探撿記』は国粋主義の立場をとっていた政教社系の新聞『日本』を 母胎としてうまれている。西田が指摘するように、桜田も陸羯南らと同じ国粋主義 の立場にあり、従って理由なくして虐げられ差別されている人々への同情は厚く、
徒に自分の地位と権力にしがみつく為政者に対しては憤りを禁じえなかったようで あるxxii。そして貧困問題を放置することの危険性を、「アハレ社会上層の人は下層 の同胞少くも無告の兒子を救出して人ならしむる方法を思へ、否らされは今こそ無 罪の嬰兒なれ此等の無罪なる嬰兒か都て未来の罪悪の種子たるへし」xxiiiと記して いる。また、「饑寒窟」の中にも、「彼等は常に社会一般の人類に排斥され、時には 叱せられ、時には罵られ、或は打たれ、或は逐はれ、其度毎に怨恨、憤怒、復讐、
掠奪等の念を高め、終には乱暴、混雑等社会の秩序擾乱すを無上の愉快とする残忍 の心大に増長し居れるなり、是れ則ち富と懸隔せし貧の所為なり、此心一歩を進む れは以て國を乱すに足れり、貧民の恐る可きは実に此に在り」xxivという記述があ り、貧民を放置することの危険性と同時に、彼らの保護、そして教育の必要性を主 張している。これはシムズの見解とも一致しており、彼は「名誉のため、否、自己 保存のために―これは人間の最も強力な動機であるが―我が国は何か策を講じ なければならない。この飢えた、病気の不潔な下層民の大群は、危険化している。
肉体的、道徳的、政治的に危険である。彼らを抑える障壁は腐敗し、崩れつつあ る。早急に処置されなければ、国家に危害を加えることになるかもしれない。その 狂気と悪態とは富者の家にまで広がるかもしれない。長期の放置が作用すれば、そ の無法の集団は、パリで時折暴徒が訴えようとしたような教訓を我々に味わわせる ことになるかもしれないのだ」xxvと述べ、問題の解決策としてシムズが提案する のが、慈善による改善ではなく、国の補助、国の保護による救済的な立法の確立で あり、それによって保護されるべき、上流階級と同様の下層階級の人権保護なので ある。
以上のように、桜田文吾の『貧天地饑寒窟探撿記』にはロンドンのスラム調査記
事への言及があり、それがシムズの調査記事の引用であることが判明した。しかも 桜田の貧民への視点というのは、メイヒューから受け継いだシムズの視点と類似し ている。つまり、貧民の惨状の暴露によって国民の関心を高め、特にそれを政府に 示すことによって、慈善家による一時的な救済ではなく、国の保護による根本的な 改善が最も必要であるというメイヒューとシムズの主張は、桜田を含む日本新聞記 者の思想と重なる部分があり、そのために桜田はシムズを引用したと考えられる。
シムズを「英の大我居士」と自らの筆名を用いて称していることからも、シムズへ の関心、あるいは敬意すら見出すことができる。
最後に、日本新聞社の思想を大きく含んだこの『貧天地饑寒窟探撿記』出版によ って、数ヵ月後に平民主義を掲げる国民新聞から松原岩五郎の『最暗黒の東京』、
1899年には民権派の毎日新聞社(旧横浜毎日新聞社)から横山源之助の『日本の 下層社会』が書かれることになるのである。桜田、松原、横山による貧民窟探訪記 によって、日本でも貧困問題が世に問われ、社会の改革に一役かっている。それら を鑑みても、極初のものとして英国の貧民窟の現状を世に示し、英国内の貧困・労 働問題の改善を促しただけでなく、日本の桜田の『貧天地饑寒窟探撿記』にも間接 的ながら影響を及ぼしているヘンリー・メイヒューの『ロンドンの労働とロンドン の貧民』は大きな意味を持つといえるだろう。
ⅰ ヘンリー・メイヒュー著/ジョン・キャニング編/植松靖夫訳『ヴィクトリア時代 ロン ドン路地裏の生活誌』(原書房、2011年)、231頁。
ⅱ MISCELLANEA , , Feb. 16, 1850.
ⅲ , March 9, 1850.
ⅳ , May, 1850, p.110.
ⅴ 植松靖夫、『ヴィクトリア時代 ロンドン路地裏の生活誌』、231頁。
ⅵ 安保則夫著/井野瀬久美恵、高田実編『イギリス労働者の貧困と救済』(明石ライブラ リー、2005年)、282頁。
ⅶ London Labour and the London Poor. By Henry Mayhew. Vol. I. The London Street Folk. , , Nov. 15, 1851.
ⅷ Henry Mayhew, , London: Griffin, Bohn, and Company, 1861, vol.1, iv.
ⅸ Anne Humpherys, , Twayne Publishers, 1984, p.167.
ⅹ 安保則夫、『イギリス労働者の貧困と救済』、282頁。
ⅺ George Robert Sims, , London: Chatto and
Windus, Piccadilly, 1889, pp.115-116.
ⅻ Henry Mayhew, , vol.1, p.220.
xiii George Robert Sims, , p.26.
xiv George Robert Sims, , pp.11-12.
xv 『仙台人名大辞書』、432頁。
xvi 紀田順一郎『東京の下層社会』(筑摩書房、2012年)、42頁。
xvii 桜田文吾「貧天地」『貧天地饑寒窟探撿記』(日本新聞社、1893年)、28頁。
xviii 桜田文吾「饑寒窟」『貧天地饑寒窟探撿記』、6頁。
xix Henry Mayhew, , vol.1, p.1.
xx 桜田文吾「饑寒窟」『貧天地饑寒窟探撿記』、3頁。
xxi 紀田順一郎『東京の下層社会』、42頁。
xxii 西田長寿『明治前期の都市下層社会』(光生館、1970年)、28頁。
xxiii 桜田文吾「貧天地」『貧天地饑寒窟探撿記』、16頁。
xxiv 桜田文吾「饑寒窟」『貧天地饑寒窟探撿記』、14頁。
xxv George Robert Sims, , p.37.
【参考文献】
桜田文吾『貧天地饑寒窟探撿記』(日本新聞社、1893年)
安保則夫著 / 井野瀬久美恵、高田実編『イギリス労働者の貧困と救済』(明石書店、2005年)
伊部英男『新救貧法成立史論』(至誠堂、1979年)
大沢真理『イギリス社会政策史』(東京大学出版会、1986年)
紀田順一郎『東京の下層社会』(筑摩書房、2012年)
塩見鮮一郎『貧民の帝都』(文藝春秋、2008年)
立花雄一『明治下層記録文学』(筑摩書房、2002年)
西田長寿『明治前期の都市下層社会』(光生館、1970年)
前田愛『都市空間のなかの文学』(筑摩書房、1982年)
ヘンリー・メイヒュー著/ジョン・キャニング編/植松靖夫訳『ヴィクトリア時代 ロンド ン路地裏の生活誌』(原書房、2011年)
Henry Mayhew, , London: Griffin, Bohn, and
Company, 1861.
George Robert Sims, , London: Chatto and Windus,
Piccadilly, 1889.
Anne Humpherys, , Twayne Publishers, 1984.
Cathy Ross, John Clark, , Allen Lane, 2008.
Karl Sabbagh ed., , Hesperus Press, 2012.
John Marriott, , Yale University Press: New
Haven and London, 2012.
Troy Boone, , Routledge: New York, 2005.