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1910~20年代中国におけるアメリカ女性宣教師の伝道活動―「接触」の場としての雑誌『女鐸』を中心に― [ PDF

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Academic year: 2021

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1.論文の構成 序章 第1 節 本論文の課題 第1 項 問題の所在 第2 項 「相互性の関係」を問う 第2 節 本論文の研究と方法 第1 章 匯文女子中学校における「媒介者」の養成 第1 節 「中国化」による匯文女子中学校の存続 第2 節 独自の女子教育 第1 項 「文章力」を求める科目設定 第2 項 投稿活動による「媒介者」の追求 第3 節 学生活動を通じた「媒介者」養成の実践 第1 項 演劇:「女性像」の伝播 第2 項 演説会:女性啓蒙の意欲 小括 第2 章 「接触」の場としての『女鐸』への着目 第1節 『女鐸』の機能 第1項 宣教師による中国女性との「接触」の追求 第2項 女性への啓蒙としての伝道 第2節 伝道活動における『女鐸』の意義 第1項 女性への注目 第2 項 雑誌による伝道活動の拡大 小括 第3 章 『女鐸』による中国女性への接近 第1 節 中国女性の「問題」への介入 第1項 「造物主の本意に違反した」中国女性の纏足 問題 第2項 キリスト教の思想と結婚問題の「柔軟的な」 結合 第2 節 女性宣教師と中国女性の関係の変容 第1 項 読者との「相互性の関係」の構築 第2 項 女性宣教師の中国女性に対する見方の変化 第3 節 「媒介者」養成の行方 第1項 李冠芳による中国女性への接近 第2 項 劉芬資による「媒介者」養成の継続 小括 終章 2.概要 序章 本論文は、1910〜20 年代頃アメリカ女性宣教師の伝道 活動に着目し、『女鐸』への投稿を通じて女子学生の「媒 介者」として機能させていく経緯、そして匯文女子中学 校において彼女たちを伝道の「媒介者」に養成した経緯 から、中国女性に接近しようとしていく過程を明らかに する。それらにより、女性宣教師が匯文女子中学校と『女 鐸』という二つの機関を連携させたことで、「媒介者」の 養成からその機能を発揮するまでという一貫した仕組み を構築したことを検証する。同時に、中国女性に接近し ようとした過程における女性宣教師と中国女性の関係の 変化を検証する。 1910 年代の中国における国家・民族の自立や国民意識 が提唱された社会変革の中で、「国民としての女性」と見 なされた中国の女性解放運動が高まった[坂本:87-88]。 当時の中国知識人は「纏足を解くのは独立の起点であり、 強種の根源である。女性は将来の母であり、母が強けれ ば生まれてくる子女も強くなる」のような優生学の思想 の下、女性を「将来の母」として位置づけながら女性の 重要性を論じた[坂本:129]。こうした女性の重要性が主 張された中で、キリスト教の女子中等・高等教育を通し た教育伝道活動は中国の女性解放に対して重要な役割を 果たすようになった[末次:36-40]。佐藤によると、教会 女子学校の先端性と教師資源の優越性との二つの側面か ら、女性宣教師による教育伝道活動は西洋の近代女子教 育制度を中国に導入し、中国における女子教育の近代化 を推進した役割を果たしたという[佐藤:53-69]。 一方、1920 年代後半に入り、中国社会で高まってきた 国家・民族の統一・独立の意識の中で「他者」に反する 思想が生まれ、その時の宣教師の活動は帝国主義侵入の 手段と見なされ、中国社会からの批判を受けるようにな った[山本:91-94]。こうしたキリスト教に対する批判の 中では、キリスト教女性宣教師と中国女性の間に摩擦が 生じることもあったと考えられる。従って、キリスト教

1910〜1920 年代中国におけるアメリカ女性宣教師の伝道活動

ー「接触」の場としての雑誌『女鐸』を中心にー

キーワード:『女鐸』,匯文女子中学校,アメリカ女性宣教師,中国女性,媒介者,「相互性の関係」 教育システム専攻 武 瑛傑

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女性宣教師による伝道活動を検討する際、1920 年代前後 という時期は看過することができない。 この時期のアメリカ女性宣教師の伝道活動に着目した のが、Sasaki-Gayle の研究である。Sasaki-Gayle はアメ リカ女性宣教師が「同じ女性という立場であるため、中 国女性の苦痛をよく理解できる」といった戦略を通して 中 国 女 性 の 解 放 に 介 入 し た と 述 べ て い る[Motoes Sasaki-Gayle:40]。Sasaki-Gayle は匯文女子中学校の 校長を務めたアメリカ・メソジスト監督教会(Methodist Episcopal Church)の女性宣教師ローラ・ホワイトを対 象とし、彼女の報告書などを取り上げ、匯文女子中学校 の校長を務める中での女子教育論の変化を考察した。ホ ワイトの女子教育論は、「女子学生と西洋女性の相違に気 づいたことで、完全に西洋の女子教育内容を中国に導入 するよりも、中国伝統の女性らしさに適応する教育内容 を組み入れた方が中国女性にとって受け入れやすい [Motoes Sasaki-Gayle:75 ]」というように変化したと いう。具体的には、女子教育の科目を設定する時、「数学」 「科学」などの科目のほか、中国伝統の女性らしさを養 成する「家政」「手工」などの「家庭科学」(“Domestic Science” ) の 科 目 を 組 み 入 れ る べ き で あ る と い う [Motoes Sasaki-Gayle:75]。Sasaki-Gayle は、こうし たホワイトの女性教育論の変化は、ホワイトが中国の女 性観を認めただけでなく、ホワイト自身のナショナル・ アイデンティティに対する理解が揺さぶられたことも意 味すると考えている。1920 年代頃の中国社会からの宣教 師に対する批判的な態度により、ホワイトのナショナ ル・アイデンティティが最初の中国女性を助けるため西 洋文明を中国女性に教える「アメリカ主義の福音の伝道 者(“preachers of Gospel of Americanism”)」から、 中国の伝統的な女性像を破壊する「アメリカ帝国主義の 破壊者(“saboteurs of American imperialism”)」へ変 化すると同時に、ホワイトの「西洋女性としての優越性」 が 揺 さ ぶ ら れ た こ と を 指 摘 し た [Motoes Sasaki-Gayle:88]。 文化帝国主義の研究史において、宣教師の教育・医療 を通して西洋思想を現地人に伝播した側面から、宣教師 の伝道活動が文化的な侵略だと捉えた論点が見られる。 こうした文化的な侵略という観点の下に、中国のキリス ト教伝道活動における文化的な影響という矢印は「支配 者」としての宣教師側から「被支配者」としての中国人 側へという一方向のみに焦点があてられがちであった。 しかし Sasaki-Gayle の研究は、女性宣教師のナショナ ル・アイデンティティに対する理解の変化を、アメリカ が中国からの影響を受けた結果として捉えた。つまり、 被支配側としての中国から支配側としてのアメリカへの 影響という逆方向の動きを捉え、文化帝国主義研究に大 きな示唆を与えたのである。こうした中国からアメリカ への文化的な影響が存在したという指摘から、女性宣教 師と中国女性の関係をただ「支配・被支配」として捉え ることは不十分であると判断できる。しかし逆方向の影 響が生じた女性宣教師と中国女性の接触の経緯について、 Sasaki-Gayle の研究では触れられていない。本論文は 1920 年代前後という時期でのアメリカ女性宣教師と中 国女性の接触に着目し、その際の女性宣教師と中国女性 の関係を「相互性の関係」として捉え直す試みである。 その「相互性の関係」は井野瀬の研究から示唆を受けた 帝国と植民地の関係を捉え直す際の新しい視座である。 井野瀬は、世紀転換期において、二度にわたって西ア フリカを単身旅したメアリ・キングズリのアフリカ経験 の行方を、彼女をサロンのゲストとして有した歴史家未 亡人、アリス・グリーンと彼女のサロンに探りながら、 二人の経験が共鳴していく過程を分析した。メアリ・キ ングズリの「知識や情報を交換しあうことでイギリスと 西アフリカは相互に理解しうる」という植民地経験の影 響を受けてアリス・グリーン自身の「帝国」に対する意 識が再構築されていくプロセスを明らかにした。井野瀬 の研究は、植民地から帝国に与えた影響のルートを解明 したものでもある。井野瀬の研究においては、植民地か ら帝国へという視点からイギリス帝国と植民地との関係 が相互に理解しうるという「相互性の関係」として捉え られているのである[井野瀬:363-366]。 本論文はこのような植民地側から帝国への影響を逆 方向の視座から、女性宣教師と中国女性の関係を捉え直 す。その女性宣教師と中国女性の関係を明らかにするた めに、本論文はホワイトが校長を務めた匯文女子中学校 だけではなく、ホワイトが編集長を務めた中国女性向け の雑誌『女鐸』にも着目し、そこでの女性宣教師が中国 女性に接近しようとしたプロセスを追うと同時に、それ によって露呈された女性宣教師と中国女性の関係を検討 していく。 第1章:匯文女子中学校における「媒介者」の養成 第 1 章では、匯文女子中学校に着目し、そこでの女子 学生を伝道の「媒介者」として養成するという女子教育 の実態とこの女子教育を行った匯文女子中学校の果たし た伝道の機能を検討した。 第一節と第二節では、匯文女子中学校で実施された「中 国化」の状況とその時期に行われた女子教育の実態を考 察した。匯文女子中学校の『匯文女中一覧』から、1927 年に「卒業生の劉芬資が初任の中国人校長として務めた」

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ことと「理事会の人員は半分以上が中国人になった」こ とを述べた。上記のことは中華民国政府が公布した「外 人出資設立学校請求認可弁法(1925 年)」による教会学 校の「中国化」の動きに連動する。1920 年代の教育権回 収運動の影響を受け、教会の女子教育活動を存続させる ために女性宣教師は匯文女子中学校の「中国化」を実施 したのである。「中国化」の一環としては、宗教科必修を 禁止したことである。匯文女子中学校の科目設定と中華 民国政府に制定された「壬戌学制」と対照した結果、匯 文女子中学校は全体の科目を必修科目と選択科目に分け て設定し、必修科目が「壬戌学制」に従った内容であり、 選択科目がほぼ「壬戌学制」に要請されない内容であっ た。つまり、匯文女子中学校の女性宣教師は「壬戌学制」 に従った必修科目の設定を通じて、中国政府に「中国化」 の姿勢を示したと同時に、「壬戌学制」に要請されない選 択科目を設けたことを通じて独自の女子教育を行ったと 言える。選択科目には文章を書くことと文章を読むこと に関わる科目が 5 割以上を占めていた。匯文女子中学校 の選択科目を通じて行われた独自性のある女子教育は文 章力を求める女子教育であった。匯文女子中学校の校長 であるホワイトは 1912 年に中国女性向けの啓蒙雑誌『女 鐸』を創刊し、匯文女子中学校の女性学生の文章を『女 鐸』に投稿させた。従って、匯文女子中学校の「文章力 を求める」という女子教育の目的は女子学生による『女 鐸』への投稿活動を保証するためであったと言える。教 会教育を受けた女子学生は、『女鐸』を通じて中国女性に キリスト教の思想を伝える際に、女性宣教師に伝道活動 の「媒介者」の役割を果たすことが期待されたのである。 第三節では、女性宣教師が学生活動を通じて「媒介者」 養成の実践を行ったことを検討した。匯文女子中学校の 学生活動の中で女子学生による演説と演劇にはキリスト 教の女性像と女性の役割に関わる内容が多く見られた。 中国民衆に公開された演説会と演劇は、女子学生がキリ スト教の女性像を中国女性に伝えるための場であったと 言える。その二つの学生活動を通じて女子学生の「媒介 者」養成の実践行われたのである。 以上のように、1920 年代の中国でキリスト教に対する 反発が高まっていた中で、ホワイトらによる「媒介者」 養成を目的とした女子教育は、女子学生を通した間接的 な伝道方式を構築したことによってキリスト教の中国伝 道活動を継続する機能を果たしたといえよう。同時に、 ホワイトらは匯文女子中学校と『女鐸』という二つの機 関を結びつけることで、女子学生の「媒介者」としての 役割をより期待したといえる。 第2章:「接触」の場としての『女鐸』への着目 第2章では『女鐸』に目を向け、『女鐸』が女性宣教師 の伝道活動においてどのような役割と意義を持ったかに ついて検討した。 第一節では、ホワイトらが『女鐸』に期待した機能を 考察した。ホワイトによって想定された『女鐸』の読者 層は「教育を受けた女子学生」だけではなく、「学校に通 っていない簡単な知識を持つ女性」も含まれた。上記の ことから、ホワイトらの女性宣教師は教会学校と異なり、 『女鐸』を通じてより多くの中国女性に布教しようとし たことが伺える。また『女鐸』には、編集者から読者へ 内容を伝えるという形式のコラム以外、「作文授業欄」と 「英語文章の中国語翻訳の募集」のような読者からの投 稿を求めるコラムも設けられた。これらのことから、女 性宣教師が『女鐸』を創刊した目的は宣教師から中国女 性へ接近しようとすることに止まらず、中国女性からの 宣教師への接近も図ったことが伺える。つまり、宣教師 は『女鐸』に対して、中国女性と「接触」できる「場」 を提供するという機能を期待していたのであり、中国女 性からの理解を得るためにも、「媒介者」としての女子学 生が『女鐸』へ投稿することは不可欠であったと言える。 第二節では、『女鐸』について、中国のキリスト教の全 体的な伝道活動において、〔女性〕と〔雑誌〕との二つの 側面から『女鐸』の意義を明確にした。〔女性〕の側面に ついては、「女性宣教師の役割をより発揮させ、より多く の中国女性に教徒になってもらう」という〔女性〕を重 要視するキリスト教の伝道方針がわかった。中国〔女性〕 を重要視した姿勢を示しながら中国女性に接近しようと することを目的とした『女鐸』は、中国での女性伝道事 業を推進する面で意義があったと考えられる。〔雑誌〕の 側面については、『女鐸』の出版機関である広学会はキリ スト教出版事業の伝道役割を発揮するため、中国出版界 と友好的な関係を構築することを取り込んだことがわか った。ここから、『女鐸』のように、〔雑誌〕を媒介とし て伝道活動を進めようとする伝道方式はキリスト教出版 事業の伝道役割を発揮することに対して有意義であると 考えられていたといえる。 第3章:『女鐸』による中国女性への接近 第3章では、女性宣教師が雑誌『女鐸』を通じて中国 女性に接近しようとした実際を考察した。 第一節では、女性宣教師が中国の女性「問題」を通し て中国女性に接近しようとした動きを考察した。当時の 中国社会で問題化された女性問題である纏足問題と結婚 問題に関して、『女鐸』では積極的に検討された。『女鐸』 では、中国の纏足問題と結婚問題で提唱された西洋の女 性身体観と男女平等観念がキリスト教の男女観(神様の

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前に男女平等である)と同調しているという点を利用し て中国の女性問題に介入した。纏足の弊害と早婚の弊害 等を紹介する際、キリスト教の思想を柔軟に文章に組み 入れ、また「媒介者」の女子学生による纏足の文章では、 中国女性の纏足問題を解決することを助けているとのよ うな宣教師の「友好的な」立場が強調された。女性宣教 師は中国の女性問題に対する関心を示した「友好的な」 姿勢を通じて中国女性に接近しようとしたと同時に、キ リスト教の思想を文章に組み入れたことを通じて柔軟に 女性伝道を進めたといえる。 第二節では、『女鐸』が「相互性の関係」を作ろうとす る姿勢を中国女性に示したことを通じて、中国女性に接 近しようとした動きを検討した。1913 年 10 月にホワイ トは子育てに関わる問題を掲載した「婦道会問題」を設 け、それと同時に掲載された問題に対して読者から回答 を集める「読者解答欄」も設けた。「婦道会問題」の開設 を通じて、子育ての問題に関して「母」としての中国女 性と見解を共有しようとしたホワイトの姿勢が見えた。 また自分の理想的な女性像に関して、ホワイトは『女鐸』 で「教育を受けた単身女性」より「感化力が強い母とし ての女性」の重要性を強調した。つまり、ホワイトが「感 化力が強い」との視点から「母」としての中国女性の重 要性を強調したことを通じて、学校に通っていない中国 の一般女性の重要性を認める姿勢を示したといえる。ま た、女性宣教師の中国女性と欧米女性の関係性を論じた 記事から、女性宣教師が中国女性解放の進歩性を肯定し て中国女性と欧米女性の「同等な」地位を主張したこと を解明した。これらの動きを踏まえ、宣教師は中国女性 により接近するため、「啓蒙と被啓蒙」ではなく「同等な 地位」に立って女性問題を討論し、お互いに理解しうる という「相互性の関係」を中国女性に示したと言える。 第三節では、卒業生を『女鐸』と匯文女子中学校の責 任者の位置に配置したことを通して、宣教師が中国女性 に接近する「媒介者」としての女子学生の作用を更に発 揮させたことを検討した。李冠芳は『女鐸』の編集長を 務め、『女鐸』の宗教性と中国女性にキリスト教の思想を 伝える役割を継続し、また宣教師の「友好的」な姿勢を 強調し続けた。つまり、李冠芳は中国人として『女鐸』 の編集長を務めても、女性解放の内容を通じて中国女性 に伝道思想を伝えるという『女鐸』の宗教的な役割を変 えなかったことが分かる。女性宣教師が李冠芳を『女鐸』 の編集長にしたのは、李冠芳の中国人のアイデンティテ ィを利用して『女鐸』の教会雑誌としてのイメージを弱 化し、より容易に中国女性に接近しようとしたためと考 えられる。また劉芬資が書いた匯文女子中学校の教育状 況に関する報告書を取り上げ、従来の文章力を求める科 目内容と演説会を存続させたことから、劉芬資が「媒介 者」養成の教育を継続したことを明らかにした。教職員 の中ではキリスト教教徒が圧倒的に多かったことから、 匯文女子中学校の教会学校としての性格は変動しなかっ たのである。つまり劉芬資と李冠芳の動きから、彼女た ちが匯文女子中学校と『女鐸』を通した「媒介者」の養 成からその機能を発揮するまでという一貫した仕組みを 継続し、女性宣教師の代わりに中国女性に接近しようと した「媒介者」の役割を果たしたと言える。 終章 本論文では、1910〜20 年代頃アメリカ女性宣教師が匯 文女子中学校の女子学生を「媒介者」に養成したことと、 女性宣教師が『女鐸』を通じて中国女性に接近しようと したプロセスとその中で「媒介者」の女子学生が機能し たことを明らかにした。女性宣教師が匯文女子中学校と 『女鐸』という二つの機関を連携させたことで、「媒介者」 の養成からその機能を発揮するまでという一貫した仕組 みを構築した。その後、中国社会からの批判の中で卒業 生により仕組みが継続されたことを解明した。それらを 通して中国女性に接近しようとした過程における女性宣 教師と中国女性の関係について、「支配・被支配」から「相 互性の関係」への変化と、その変化の目的を隠そうとす る女性宣教師の思惑を明らかにした。Sasaki-Gayle の研 究では触れられなかった逆方向の影響が生じた女性宣教 師と中国女性の接触の経緯を考察した結果、宣教師が伝 道活動を進めるため能動的に中国女性との関係を「相互 性の関係」として捉え直したことが明らかとなった。 3.主要参考文献および史料 井野瀬久美恵『植民地経験の行方-アルス・グリーンの サロンと世紀転換期の大英帝国-』人文書院、2004 年 坂本ひろ子『中国民族主義の神話— 人種・身体・ジェン ダー』岩波書店、2004 年 佐藤尚子『中国ミッションスクールの研究』(増補改訂 版)龍溪書舎、2010 年 末次玲子「中国女性史からみたキリスト教」東京女子大 学女性学研究所、1995 年 3 月 山本澄子『中国キリスト教史研究』山川出版社、2006 年 Motoes Sasaki-Gayle, ‘Entangled with Empire: American women and the creation of the ‘new woman’ in China , 1898-1937 ’, The Johns Hopkins University, Doctoral dissertation, 2008, pp. 1〜267

『女鐸』1912 年 4 月から 1930 年1月までの発行分 『匯文女中一覧』、匯文女子中学校出版、1931 年

参照

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