著者 門井 直哉
雑誌名 福井大学地域環境研究教育センター研究紀要 「日
本海地域の自然と環境」
巻 14
ページ 87‑97
発行年 2007‑11‑01
URL http://hdl.handle.net/10098/1207
1.はじめに
「奥越の小京都」として知られる大野は、織田信長に仕えた武将・金森長近によって、天正4年
(1576)に建設された城下町である。城下町は東西・南北各6本の道路によって碁盤目状に区画され、
南北路には一番町・二番町・三番町・四番町・五番町、東西路には六間町・七間町・八間町など、一 から八まで連続する数詞を冠した町通りが並んでいる(図1)。なお、長近が後年建設した飛騨高山 には一番町・二番町・三番町、美濃上有知には一番町・二番町の町名があり、このような数詞町名は 長近の城下町の特色ともいえる1(図2・図3)
図1 大野の町通り
キーワード:大野 城下町 町名 金森長近
*
KADOI Naoya
(Department of Geography, University of Fukui, Fukui 910−8507, JAPAN)
「日本海地域の自然と環境」
No.14,87‐97,2007
大野の城下町プランと町名について
The Plan and Street Names in Ohono Castle Town
門井 直哉*
(福井大学教育地域科学部社会系教育講座)
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ところで城下町には、大手道が主要な町 通りとなるタテ町型城下町と、大手道に直 交する街道が主要な町通りとなるヨコ町型 城下町があり、戦国期から近世にかけて城 下町プランの主流は、領主の権力をアピー ルするタテ町型から、経済的ネットワーク を重視したヨコ町型へと変化したといわれ ている2(図4)。その画期については、秀 吉による文禄3年(1594)の伏見城下町建 設以 降3と も、慶 長5年(1600)の 関 ヶ 原 合戦以降4ともいわれているが、いずれに しても16世紀末までの織豊系城下町の多く はタテ町型を志向する傾向にあった。
翻って大野をみると、『越前国名蹟考』5等の近世史料には、しばしば一番町が「本町」とも記さ れている。「本町」とは、通例、主要な町通りに付される名称である。その「本町」が城の前面を横 切る美濃街道沿いにあるということは、大野は当時の主流とは異なるヨコ町型の城下町であったこと になる。
もっとも、天正16年(1588)に長近が建設した高山は、一番町が城の方面を指向するタテ町型の城 下町であった(図2)。また、慶長11年(1606)に建設した上有知は、一番町が街道沿いに位置する ヨコ町型の城下町となっている(図3)。このように、長近は必ずしもヨコ町型を自身の城下町のス タイルとはしていなかった。しかも高山と上有知に関する限りは、長近はむしろ時流に即した城下町 づくりを行っていたようにもみえる。だとすれば、大野は天正期の城下町としてだけでなく、長近自 図2 飛騨高山の城下町プラン
元禄5年(1692)頃の「飛騨高山城下之図」を もとに作成
図4 タテ町型とヨコ町型 足利健亮氏による
第3図 美濃上有知の城下町プラン 寛政4年(1792)「上有知村絵図」をもとに作成
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身の城下町づくりの経歴においても異質な城下町であったことになろう。
しかし管見の限り、大野において一番町を「本町」と呼称する例は江戸時代より以前には遡らない。
したがって、大野の城下町は一応ヨコ町型に分類しうるものの、はたしてそれが城下町建設当初から の状態なのかは疑問である。
また、前述のように、数詞町名は長近の城下町の特色であるが、「番」と「間」の数詞町名を有す るのは大野のみである。筆者には、そもそも何故にこのような数詞町名が生じたのか、という疑問も ある。しかし、大野の数詞町名については、従来、このような町名が存在する事実が説かれるのみで あり、それ以上の考察はなされていない。
そこで本稿では、大野の城下町プランを改めて検討するとともに、あわせて大野における数詞町名 の成立事情について探ってみたい。
図5 大野城下の町名と寺院の分布 享保15年(1730)「大野町絵図」をもとに作成 図中の番号は表2に対応
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2.城下の町名分布と七間町
城下の町名については江戸時代の中でも変化があるが、享保15年(1730)の「大野町絵図」6(図 5)によると、南北路沿いに壱番上町・壱番下町・弐番上町・二番下町・大工町・三番下町・四番上 町・鍛冶町・四番下町・五番上町・五番下町・比丘尼町・寺町など、東西路沿いには横町・おか町(大 鋸町)・六間町・七間西町・七間東町・八間町・正善町などの諸町が存在している。ただし、これら の町は必ずしも独立的ではなく、とくに大鋸町・六間町・八間町・正善町など東西方向の町通りは、
南北方向の町通りの庄屋支配下に組み込まれていた7。
庄屋の置かれた町名としては、弘化4年(1847)の「大野町年貢皆済目録」8に、壱番上町・壱番 下町・二番上町・二番下町・三番町・四番町・五番町・比丘尼町・横町・七間町・鍛冶町がみえる。
そして、明治初年には図6のように町名改正がなされ、その際、南北路沿いの町は、街路を境として 東西に分かれる町域へと改められた。
ここにおいて筆者が注目したいのは、東西路沿いの七間町が、江戸時代の町域をほぼ踏襲して存続 している点である。
図6 明治期の町界線
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この七間町は、天正19年(1591)の「専西寺門徒起請文」に「七間町 甚兵衛」とあり9、城下で 最も古い時期にその存在を確認しうる町である。また、今に続く有名な「七間朝市」も、城下町建設 当時より始まったものと伝えられている10。さらに江戸時代には、美濃街道が一番下町から七間町を 経て五番町へと通じ、七間町には特に御用達商人・質屋・酒造業など当時の大野の経済の中心をなす 大商人が軒を連ねていた11。なお、寛保3年(1743)の「大野町免割絵図」によると、七間町の二番 から四番にかけての年貢率は「拾ヲ」(10割)と城下で最も高くなっている12。このように、七間町は 天正年間以来、城下第一の繁華街をなしていた。
また、七間町が大野城の上大手口をほぼ指向している、という地理的事実にも注目したい(図5)。 つまり七間町は、大手道に面した町通りであったのであり、江戸時代には七間町を境として、南北路 沿いの町が上町と下町とに分かれていた事実も考えあわせるならば13、七間町が大野の城下町プラン の基軸をなす重要な町通りであったことは間違いないであろう14。
以上のことから筆者は、本来、大野は七間町を中心とするタテ町型の城下町であった可能性が高い と考える。
3.城下町の形成過程
ところで、羽柴秀吉が天正2年(1574)に建設した近江長浜も、大野と同様、碁盤目状の区画を有 する城下町である(図7)。その長浜では、商工業者の城下集住は段階的に進んだようであり、まずは 城郭へと通じる道路沿いに大手町・西本町・東本町などのタテ町ができ、その後、天正8年(1580)
までに北国街道およびそれに並行する道路沿いに、呉服町などのヨコ町が形成されたという15。
図7 長浜の城下町プラン
元禄9年(1696)「長浜町絵図」(写)をもとに作成
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では大野についても、このような城下町の段階的形成を想定しうるのであろうか。各町の成立時期 を知る手がかりは少ないが、試みに『大野町史』の寺院過去帳調査に基づいて16、各町の初出年代を 整理してみると、表1のようになる。城下の町名としては、慶長年間の一番町・七間町を嚆矢として、
元和年間に三番町・四番町・五番町、寛永年間に本町・二番町・鍛冶町・横町・比丘尼町・寺町、承 応年間に六間町、寛文年間に八間町・大鋸町、延宝年間に正善町が現われる。これが各町の成立年代 を概ね反映するものとみるならば、大野ではまず一番町・七間町など美濃街道沿いの町ができ、次い で城下の骨格をなす三番町など南北路沿いの町、そしてこれに直交する六間町など東西路沿いの町が 形成されたことになる。
なお、四番町通りに形成された同業者町・鍛冶町については、寛永年間にその名がみえるが、長近 の家老遠藤六郎左衛門が「土蔵かぢ惣左衛門」宛に下した鍛冶職安堵状には「当$町$鍛冶衆之儀、他所 へ越候ハぬ様ニ其ニ涯分馳走有へく候」とあり、大野郡内の鍛冶職の城下集住は、長近の時代にまで さかのぼることは確実である17。
ただし、寛文13年(1673)の「鍛冶仲間取極証文」18に挙げられる鍛冶仲間18名の中に「二ノ 奥 兵衛」なる人物がみえることにも留意したい。「奥兵衛」が元来、二番町通りに居住していたとする ならば、鍛冶職は当初同業者町を形成せずに城下に散在していた状況も考えられる。坂田玉子氏が「鍛 冶座に対する保護政策がゆるむにつけて同業のものを一ヶ所に集めることが、領主側からも鍛冶職人 からも必要になって「鍛冶町」と作られ、制作統制、火の用心等の厳しい規制も出来て鍛冶座の頭職 を鍛冶庄屋に命じていったのではなかろうか」と推測しているように19、鍛冶職の城下移住時期と同 業者町の形成時期には差があった可能性もあろう。
また、表2は享保15年(1730)「大野町絵図」にみえる寺院の現地成立年代を示したものである。大 野では城下町の建設以前から、⑧大宝寺・④蓮光寺・⑥妙典寺・②岫慶寺・!最勝寺などの寺院が存 在したが、これらは山王宮にあった朝倉時代の土橋城(亥山城)周辺に立地したものである20。その 後、長近によって城下町が建設されると、⑤光玖寺・⑰浄勝寺・#曹源寺(瑞祥寺付近にあり。後に 移転。)が創建され、さらには⑦円立寺・"応行寺(二番六間町にあり。後に移転。)など土橋城近辺 にあった既存寺院の大野城下町への移転もみられた。しかし、大半の寺院は、長近が既に大野を去っ た文禄年間以降の成立となっており、城下町への寺院集積は徐々に進行したことがわかる。とくに寺 町に関しては、まず土橋城に近い南部に寺院が集まり、長近の入封以降、江戸時代にかけて北部へと 拡大していった21(図5)。
以上、限られた史料からの考察ではあるが、大野においても城下の町並は、長浜と同様、徐々に形 表1 寺院過去帳における町名の出現年代
※『大野町史』第2集(1954)をもとに作成
慶長 元和 寛永 正保・慶安 承応 明暦・万治 寛文 延宝
(1596−15)(1615−24)(1624−44)(1644−52)(1652−55)(1655−61)(1661−73)(1673−81)
一番町 ○
(本町) ○
二番町 ○
三番町 ○
四番町 ○
鍛冶町 ○
五番町 ○
六間町 ○
七間町 ○
八間町 ○
横町 ○
大鋸町 ○
正善町 ○
比丘尼町 ○
寺町 ○
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成されたとみるのが自然であろう。なお、前述のように、大野では七間町の初見が最も古く、同町は 城下町の基軸であったとみられるが、ヨコ町型城下町が主流となった江戸時代になると、一番町が「本 町」へと昇格し、形式的には南北路が東西路よりも優位に位置づけられる事態が生じたのではないか と考える22。城下町南端の東西路沿いに「横町」がみえるのは、このことによるものであろう23。
表2 享保15年「大野町絵図」にみえる寺院の現地成立年代
※ 寺院の成立年代については所伝の相違もある。ここでは主に元禄14年(1701)「大野領諸宗寺方寺領記」(『若越地誌 叢書』下、1973年、所収)と『大野市史』第8巻地区編(1991年)を参考にした。
※ 表中の番号は図5と対応
番号 寺院名 宗派 成立年代 西暦 備考
① 瑞祥寺 曹洞宗 慶長9年−寛永14年 1604−37 永正8年(1511)、御給村に創建。
② 岫慶寺 曹洞宗 天文年間 1532−55
③ 恵光寺 時宗 不詳 − 文和元年(1352)、春日町近辺「ガラガラ畠」に創建。
④ 蓮光寺 天台宗 長享2年 1488
⑤ 光玖寺 日蓮宗 天正7年 1579
⑥ 妙典寺 日蓮宗 享禄元年 1528
⑦ 円立寺 日蓮宗 天正年間 1573−91 永禄4年(1561)、土橋庄に創建。城下町建設の際、
現地移転。
⑧ 大宝寺 真言宗 文明2年 1470 応安元年(1368)、小山庄に創建。
⑨ 長興寺 臨済宗 承応4年? 1655
⑩ 光福寺 真言宗 元和10年 1624
⑪ 善導寺 浄土宗 慶長6年 1601 永禄元年(1558)、野口村に創建。
⑫ 誓念寺 浄土真宗 寛文5年 1665 文禄3年(1594)、中津川村に創建。
⑬ 龍泉寺 真言宗 文禄年間 1592−96
⑭ 大雄院 日蓮宗 慶長14年 1609
⑮ 願成寺 真言宗 明暦3年 1657
⑯ 長勝寺 浄土真宗 元和年間 1615−24 宝徳年間(1449−52)、勝山郷北袋野津俣村に創建。後、
平泉寺へ移転。
⑰ 浄勝寺 浄土真宗 天正年間 1573−91
⑱ 勝授寺 浄土真宗 慶長17年 1612 天正7年(1579)、加賀国より中野村に 移 転。後、慶 長17年に三国に移転。その遺跡を四番町へ移す。
⑲ 法蓮寺 浄土真宗 慶長13年 1608 初め矢戸口村に所在。慶長年間に大野二番町に移り、
間もなく四番町へ移転。
⑳ 教願寺 浄土真宗 慶長初年 1596− 越中国より移転。
!
本伝寺 浄土真宗 不詳 − 寛永2年(1625)、若生子村に創建。"
円徳寺 浄土真宗 元和年間 1615−24 慶長17年(1612)、春日町「古町」に創建。#
託縁寺 浄土真宗 万治2年 1659 文明年間(1469−87)、平泉寺に創建。$
円和寺 浄土真宗 文禄年間 1592−96 春日町「古町」より移転。%
奥寮 時宗 不詳 − 貞治6年(1367)創建か。当初、恵光寺に属す。&
明源寺 浄土真宗 元和年間 1615−24'
徳厳寺 曹洞宗 寛永15年? 1638(
最勝寺 浄土真宗 永禄年間 1558−70 明応6年(1497)、田野村に創建。)
応行寺 浄土真宗 天和2年 1682 天正2年(1574)以降、春日町「古町」に創建。天正 11年(1583)、二番六間町へ移転。*
曹源寺 曹洞宗 慶安年間 1648−52 天正13年(1585)、瑞祥寺北東付近に創建。― 93 ―
4.数詞町名の成立
大野では、南北路沿いに一番町・二番町・三番町・四番町・五番町があり、東西路沿いに六間町・
七間町・八間町がある。このような数詞町名をもつことが、長近の城下町の特色であることは前述した。
さて大野の場合、一から八まで連続する数詞町名があるが、南北路は寺町を除く5本全ての通りに 数詞町名が付されているのに対し、東西路では6本中3本のみとなっている。東西路に数詞町名を設 ける余!地!があるにもかかわらず、「九」以上の数詞町名がないのはなぜなのか。
筆者はその理由を、長近があえて末広がりの吉数である「八」で止めることを意図したためではな いかと考える。織田信長が「井ノ口」を「岐阜」と改めた例や、松平忠昌が「北庄」を「福居」と改 めた例があるように、戦国武将や大名らが縁起や好字にこだわりをみせたことはよく知られている24。 そのような傾向が長近にもあったことは、大野城を「亀山城」と称したことからも明らかであろう。
では、南北と東西で数詞が異なるのはなぜか。これについてはおそらく、碁盤目状の城下町にあっ て、あたかも条里呼称法のように二種類の数詞を用いることで、直交する街路の方位を明示しようと したのではないかと考える。その際、一方の数詞町名に「番」が用いられたのは、「一番駆け」「一 番備え」「一番槍」「一番首」など戦に関わる用語も多く、おそらく武家にとって馴染みのある数詞で あったためであろう。
では、「番」に対置される数詞が何故に「間」なのか。この疑問についても、大野の城下町プラン を前記のように理解するならば、一つの解釈を導き出せる。
すなわち、大野の城下町形成が七間町より始まり、なおかつ七間町が城下町の基軸をなしていたの ならば、その町名は道幅に由来したのではないか、という解釈である。おそらく七間町は、道幅7間
(約12.7m)の大通りに面したことにより、
その名が生じたのであろう。
因みに、江戸時代の七間町の道幅は28尺
(約4.6間)といわれている25。しかし、こ の道幅が長近時代に遡りうるかは不明であ り、城下町建設当初の道幅が7間であった 可能性も皆無ではないだろう。
ところで、七間町の町名をもつ城下町と しては、他にも慶長14年(1609)に徳川家 康が建設した駿府がある26(図8)。興味深 いのは、駿府の七間町も、大野と同様に街 道(東海道)が通過し、なおかつ大手道に 面している、という点である。また、駿府 の七間町については、その町名が道幅に由 来するとの説が従来あることも見逃せな い27。
なお、長近は天正3年(1575)の長篠の 合戦で家康を援け、また関ヶ原の合戦以降 は家康を伏見の邸宅に招くなど、家康との 親交が厚かったといわれている28。些か大 胆な推測をするならば、家康は長近から大 野の町に関する情報を得て、その一部を駿 府城下に取り入れた可能性もあるのではな いだろうか。
さて、大野城下の町名が七間町より始ま るものとすれば、長近はおそらくこれを基
図8 駿府の城下町プラン
寛永15年(1638)頃「駿河国駿府古絵図」をもとに作成
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として一から八までの数字を通り名として並べる ことを発想したのであろう。すなわち、七間町を 中軸として、これと隣り合う東西路については「七 間」に倣って川上側を「六間」、川下側を「八間」
と名づけ、一方、南北路については数詞を違えて 東西路と区別し、城の近くから「一番」「二番」「三 番」「四番」「五番」と名づけたのである。
してみると、長近は殺伐とした戦国の世にあり ながら、なかなか洒落のある人物であったように 思われる。そのことは、後年、長近の隠居城とな った美濃上有知の尾崎丸山が、京都嵯峨野の名勝 に因み「小倉山」と改められた事実からもうかが えよう29。
5.おわりに
最後に、大野のような城下町プランがいかにし て生まれたのか、という問題について若干の見通 しを述べておきたい。
中西和子氏は「城下町の建設にあたっては個々 の大名がまったくオリジナルなプランを創出した のではなく、何か参考とすべき具体的な城下町が その念頭に存在していたと考えるのが自然であろ う」とし、天正2年(1574)の長浜城普請にも参 加した藤堂高虎の城下町が「秀吉モデル」の影響 を受けていることを指摘している30。では、天正 4年(1576)に始まる大野の町づくりにおいては、
どのような城下町が参考とされたのであろうか。
その一つとして考えうるのは、大野に先行して 建設された秀吉の長浜である。長浜は、長方形街 区と短冊型地割を有する近世城下町のルーツとも 目される城下町である。大野においても、長方形 街区と短冊型地割をもつ点、特に長方形街区の長 辺を城に対して横に並べつつ、タテ町型を基本と する点などは長浜の城下町プランと酷似している。
また、土橋城時代からの寺院集積地域との間に城 下町が展開している点も、中世的先行基盤である 長浜八幡宮に向けて城下町を建設したという秀吉 の手法31に近い。
だが、以上のような類似点があるにせよ、大野 の城下町プランに長浜との直接的な系譜関係をみ ることは難しいだろう。なぜならば、長近と秀吉 はともに織田信長に仕える身ではあったが、天正 3年(1575)に長近が大野を得るまでの間、両者 の間にさしたる接触の形跡は見出しがたいからで
図9 小牧城下町復原図 千田嘉博氏による
図10 岐阜城下町復原図 小島道裕氏による
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ある。
となれば、大野の城下町プランの源流は長浜以外の地に求めねばなるまい。そして、それは信長が 永禄6年(1563)に建設した尾張小牧の城下町や、永禄10年(1567)より再興した岐阜の城下町の姿 だったのではないだろうか(図9・図10)。小牧については、短冊型地割と長方形街区を有する城下 町であったことが近年明らかとなってきている32。また信長が天下取りの拠点として定めた岐阜は、
斎藤道三以来のタテ町型城下町を、信長が拡大整備したものであった33。
これらの城下町プランは、当時、信長に付き従っていた長近も、当然目の当たりにしたことであろ う。長近が大野において施した町割のベースには、この小牧や岐阜の記憶があったのではないかと考 える。信長に仕えた他の武将らが建設した城下町との比較も念頭に置きつつ、この問題については今 後検討を進めてみたい。
――――――――――――――――――
1 高山の数詞町名は、後に「一之町」「二之町」「三之町」と改称されている。
2 ①足利健亮『中近世都市の歴史地理』、地人書房、1984年、93〜132頁、221〜230頁。②同『地理から見た信長・
秀吉・家康の戦略』、創元社、2000年、7〜26頁、157〜193頁。
3 前掲2、足利論文。
4 ①宮本雅明「城下町の空間類型」、年報都市史研究2、1994年、3〜15頁。②中西和子「織豊期城下町にみる町割 プランの変容―タテ町型からヨコ町型への変化について―」、歴史地理学45−2、2003年、25〜45頁。
5 『大野市史』第6巻・史料総括編、1985年、所収。
6 大野市歴史民俗資料館編『絵図が語る大野』、1994年、所収。
7 『大野市史』第8巻・地区編、1991年、8〜21頁
8 『大野市史』第3巻・諸家文書編二、1981年、所収。
9 『福井県史』資料編2中世、1986年、所収。
10
前掲7、62〜64頁。
11
前掲7、62〜64頁。
12
前掲6、所収。
13
前掲7、8〜21頁。
14
なお、金森長近は一番町・石灯籠小路付近を基点に城下の町割を行ったと伝えられており、長近が測量に使用し た水縄を埋めたとされる石灯籠小路には、石灯籠地蔵尊が祀られている。(前掲7、42〜44頁。)
15
長浜城歴史博物館編『近世城下町のルーツ・長浜』、2002年、54〜72頁。
16
『大野町史』第2集、1954年、950〜984頁。
17
前掲8、所収。なお金森長近は、大野入封まもない天正3年(1575)12月26日、「当!郡!鍛座之事、惣中へ不及案 内新儀ニ入事、并かま・鍬・釘等何も諸道具ふり売令停止上ハ、惣鍛中可為進退者也」との安堵状を「大
!
野
!
郡
!
惣鍛 衆中 土蔵宗左衛門」宛に下している。また長近とともに大野郡に入り、同郡の3分の1を領した原政茂も、天正 3年(1575)12月に同様の安堵状を「大!野!郡!惣かち衆中」宛に下している。
18
前掲8、所収。
19
坂田玉子「城下町の成立と四百年の経過」、奥越史料12、1983年、42〜60頁。
20
なお、土橋城の南方には、「古町」「土居」などの小字名も残り、土橋城周辺には小規模の城下町が形成されてい たと考えられている。(前掲7、8〜21頁。)
21
寺町通りは一番から五番までの南北路とは異なり、北西に約1度傾いているが、これは土橋城下の方位になぞら えたことによるものとされる。(吉田森「越前大野城(亀山城)と城下町」、大野市文化財保護委員会編『越前大野 城と金森長近』1968年、1〜78頁。)
22
タテ町型から出発した長浜も、江戸時代になると北国街道中心のヨコ町型に転じている。(前掲15、2002年、54
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〜72頁。)
23
町名としての「横町」は、一般に表通りから入った町筋のことであり、城下町プランにおけるヨコ町型の概念と は区別される。
24
信長・秀吉・家康の縁起へのこだわりについては、足利氏の論考(前掲2−②)に詳しい。
25
『大野町史』第1集、1954年、550〜553頁。
26
家康は天正14年(1586)〜18年(1590)にも駿府に在城したが、城下町の本格的整備は大御所となった慶長期に なされている。
27
飯塚伝太郎『しずおか町名の由来』、静岡新聞社、1989年、21頁。
28
斎藤秀助「金森長近略伝」、大野市文化財保護委員会編『越前大野城と金森長近』、1968年、79〜176頁。
29
『美濃市史』通史編上巻、1979年、257〜264頁。
30
中西和子「藤堂高虎の城下町建設にみる織豊期城下町プランの受容と展開」、歴史地理学42−5、2000年、23〜40 頁。
31
中西、前掲30、23〜40頁。
32
①千田嘉博「小牧城下町の復元的考察」、ヒストリア121、1989年、36〜52頁。②前川要『都市考古学の研究』、柏 書房、1991年、79〜119頁。③中嶋隆「小牧」、1617会シンポジウム資料『信長の城下町』、2007年、13〜22頁。
33
①小島道裕「戦国城下町の構造」、日本史研究257、1984年、30〜59頁。②同「戦国・織豊期の城下町」、『日本都 市史入門』Ⅱ・町、東京大学出版会、1990年、21〜39頁。③足利、前掲2−②、7〜26頁。
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