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〈日常〉のなかの近世・夫婦の絆 : 紀州藩家老三 浦家文書『家乗』を素材として

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(1)

〈日常〉のなかの近世・夫婦の絆 : 紀州藩家老三 浦家文書『家乗』を素材として

著者 西岡 直樹

雑誌名 人文學

号 204

ページ 1‑46

発行年 2019‑11‑15

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2020.0000000068

(2)

︿ 日 常 ﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

│ 紀 州 藩 家 老 三 浦 家 文 書

﹃ 家 乗 ﹄ を 素 材 と し て

│ │

西 岡 直 樹

は じ め に

文 一 二 年︵ 一 六 七 二

︶ 六 月二 三 日

︑紀 州 藩家 老 三 浦家 家 臣 石橋 生 菴︵ 一 六 四 二

〜 一 七

〇 一

︶ は

︑婚 礼 の 日 を む か え た︒ 生菴 三 十一 歳

︑新 婦 二 十歳

︒二 人 は︑ 以 後︑ 日記 の 残 る元 禄 一

〇 年︵ 一 六 九 七

︶ ま で 二十 六 年 間︑ 連れ 添 う こと にな る︒ 本 稿は

︑石 橋生 菴と いう 一人 の男 が一 日一 日を 生き た︑ その 日々 のあ ゆみ に寄 り添 って 彼の

︿日 常﹀ をみ つめ るこ とを 出発 点と し︑ その

﹁全 体﹂ 像か ら

︑近 世 を 生き た 人 びと の

︿日 常﹀

︑ さら に

﹁近 世 社 会﹂ を照 ら し かえ そ う とす る︑ 日常 史の 試み の一 環を なす もの であ る⑴

︒ す でに みて きた よう に︑ 生菴 には

︑寛 文六 年か ら六 年と 三か 月︑ とも に過 ごし た垂 花と いう 女性 がい た︒ 四月 三日 の嫁 娶に 関わ る﹁ 主命

﹂か ら︑ 動き はじ めた 婚礼 へ と む かう 日 々 のな か で︑ 二 人は こ の 六 月八 日 に﹁ 終 身不 可 相 忘﹂

― 1 ―

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

(3)

こと を誓 い合 って

︑﹁ 最 後の 別れ

﹂を 交わ して いた

︒﹁ 別涙

﹂を 拭っ た生 菴 は︑ ど のよ う に こ の日 を む かえ た の だろ うか

︒彼 は︑ この 日以 降︑ どの よう に妻 をみ つめ

︑ど のよ うな

﹁夫 婦の 日々

﹂を 築い てい った のだ ろう か︒ 近 世に おけ る婚 姻の あり かた や習 俗に つい ては

︑こ れま でに 民俗 学や 婚姻 史の 豊か な蓄 積が あり

︑ま た近 世に おけ る男 と女 の絆 や妻 の日 常生 活の あり かた など につ いて も︑ 近年

︑女 性史 やジ ェン ダー 史を 中心 とし て︑ その 解明 が大 いに 進ん だ︒ その 過程 で︑

﹁ 男性 の手 にな る﹂ 日記 から 女 性 の姿 を 捉 えよ う と する 試 み が なさ れ

︑そ の 一方 で こ れま で数 少な かっ た﹁ 女性 の手 にな る﹂ 日記 や旅 日記 など が発 掘さ れて き た⑶

︒ た だ︑ これ ら の 日 記を 素 材 とし た 研 究の 多く は︑ これ まで の歴 史学 がお きざ りに して きた

︑女 性や 妻の 姿を 近世 の社 会構 造の 中に 描き 出す こと に注 力す るあ まり

︑﹁ 夫 と妻

﹂と い う 二人 の 絆 がど の よ うに 結 ば れ︑ ま た男 性︵ 夫

︶ が女 性︵ 妻

︶ をど の よ う にみ つ め てい た の か︑ そも そも 夫が 妻の 姿を 日記 に書 き留 める

︵ あ る い は

︑ 書 き 留 め な い

︶ と はど う い うこ と な の か︑ とい っ た 問い に は いま だ十 分に は答 えて くれ ない

︒ し かし

︑﹁ 家

﹂の 中の

﹁妻 の日 々﹂ が︵ 家 族 と と も に

︶ 夫 と営 まれ るこ と︑ また

﹁男 性の 手 に なる

﹂日 記 が 男性

︵ 夫

︶ の﹁ まな ざし

﹂を 通し てし か︑ 女性

︵ 妻

︶ の︿ 日常

﹀を 書き 留め えな いこ と は 論を 俟 た な い︒ 日記 の 奥 に孕 ま れ てい る夫 の﹁ まな ざし

﹂を 見据 え

︑そ の﹁ ま な ざし

﹂に 寄 り 添っ て

﹁妻 の 日々

﹂を 辿 る こ とか ら

︑﹁ 夫 婦の 絆

﹂の あ りか たを みつ め直 すこ とも また

︑﹁ 近 世社 会﹂ とい うも のを 照ら しか えす

︑大 切な 視座 なの では ない か⑸

︒ 本 稿で は︑ その よう な日 常史 の視 座に 立ち

︑石 橋生 菴と いう 一人 の夫 の﹁ まな ざし

﹂を 通し て︑ 夫婦 の二 十六 年の 日々 をみ つめ てみ たい

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

― 2 ―

(4)

︑ 日 記 の ま な ざ し と 家 室

⑴ 婚礼 の夜 生 菴は

︑ど のよ うに 婚礼 の日 をむ かえ たの だろ うか

︒そ の一 日を

︑彼 は次 のよ うに 書き 留め てい る︒

二十 三日

過 午微 雨自 鶏鳴 雨 酉之 刻迎 大多 氏之 女 戌之 刻与 多賀 氏謝 大多 和氏

与 小林 氏鈴 木氏 岡氏 等宴 之 亥之 刻大 多和 氏与 岡氏 来焉

多 賀氏 夫婦 伯公 室及 小崎 藤衛 門加 藤久 兵衛 自昼 来会 焉 子之 刻就 寝矣

新 婦 実 安 藤 氏 臣 高 田 兵 太 夫 女 也 時 歳 二 十 云

新 婦は

︑小 書き

︵ 割 注

︶ が 示す よう に︑ 実は 同じ 紀州 藩の 陪臣

︵ 紀 州 藩 家 老 安 藤 氏 の 家 臣 高 田 氏

︶ の 娘で あ り︑ こ の結 婚の ため の手 続き とし て︑ 三浦 家﹁ 家宰

﹂大 多和 氏を

﹁経 由﹂ して 嫁 い でき た⑻

︒こ れ ま でに 指 摘 した よ う に︑ 生菴 は︑

﹁ 主命

﹂以 前 に も 以後 に も︑ こ こま で そ の縁 組 に 至 る経 緯 を 書き 留 め てい な い⑼

︒お そ らく

︑新 婦 と は一 度 も 出 会う こと なく

︑こ の日 を迎 えた

︒ 昼 か ら 降 りつ づ く 小雨 の な か︑ まず 酉 の 刻 に新 婦 が 石橋 家 に 入る

︵ 嫁 入

︒︶ 戌 の刻 に は 生菴 が 親 族の 多 賀 氏 とと も に︑ 新 婦の

﹁実 家

﹂大 多 和 家に ゆ き︑ 小 林氏 鈴 木 氏岡 氏 な ど 大多 和 氏 の親 族 と 杯 を 交 わ す︵ 聟 入

︒︶ 亥 の 刻 に は

︑大 多和 氏を 岡氏 とと もに

︑石 橋家 に迎 えた

︵ 舅 入

︒︶ 四 月三 日 の﹁ 主 命﹂ 以降

︑同 月 一 八 日大 多 和 氏へ の

﹁納 幣﹂

︑ 同じ 一 八 日 から 始 ま る︵ 新 婚 の 夫 婦 の た め の

﹁︶ 東 廂﹂ の増 築︑ 五月 二四 日畳 入れ

︑六 月一 九日 大多 和氏 から の﹁ 粧具

﹂納 入︑ と進 めら れた 婚礼 まで の手 続き は︑ この 日も

― 3 ―

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

(5)

紀州 武士 社会 に共 有さ れた 手続 きに 沿っ て︑ 滞り なく 執り 行な われ た⑽

︒ 生 菴は

︑こ の日 の末 尾を

﹁子 之刻 就寝 矣﹂ と結 んで いる

︒彼 が以 後の 日記 に﹁ 寝た

﹂こ とを わざ わざ 書き 留め たの は︑ 他に 一例 しか ない

︒こ のこ とを 一つ の﹁ 節目

﹂と 考え たか ら こ そ︑ 書き 留 め た もの だ ろ う︒ それ は

︑こ れ まで の周 囲の 人び とが 関わ る婚 礼ま での 手順 とは 異な る︑

﹁ 二人 だけ の営 み﹂ だっ た︒ 垂 花と の﹁ 最後 の別 れ﹂ のあ と︑ 婚礼 を九 日後

・七 日後 に控 えて もな お︑ どう しよ うも でき ない 自分 の心 を﹁ 狂郎 の 詩﹂ に投 げ 込 ん でい た 生 菴は

︑こ の 時︑

﹁ 新た な 日 々﹂ へ と︑ 一歩 を 踏 み 出 し た︒ こ の 夜 は︑

﹁ 鶏 鳴﹂

丑 の 刻 過 ぎの 本降 りの 雨に 気づ くほ どに

﹁浅 い眠 り﹂ だっ たか もし れな いが

︑そ れで も︑ お互 いを 何も 知ら なか った だろ う二 人が

︑こ れか ら歩 みは じめ る︒

⑵ 夫婦 の新 たな 日々

│日 記の まな ざし 生 菴は

︑こ の婚 礼の 日か ら二 十六 年︑ 妻を どれ だけ

︑ま たど のよ うに みつ め︑ 日記 に書 き留 めた のだ ろう か︒ ま ず︑ 生菴 が﹃ 家乗

﹄に 書き 留め た︑

﹁ 妻の 営み に関 わる 記事

﹂の 全体 像を 示し てお く︒

︿表 1﹀ は︑ それ らを

︑彼 が日 記の

﹁一 日﹂ を書 き留 める 枠組 みに 沿っ て︑ 集計 した もの で あ る⒀

︒ 妻の 営 み や 姿︑ 妻に む け た生 菴 の 営み

︑合 わせ て四 百四 十二 件︑

﹁ 夫婦

﹂と して の営 み十 九件

︑夫 婦を 含む

﹁一 家

﹂と し ての 営 み 二 十六 件⒁

︑計 四 百八 十 七 件︒ すで に指 摘し て きた よ う に︑ 生 菴が 寛 文 三年

︵ 二 十 二 歳

︶ 三 月に

﹁自 此 不 闕一 事

﹂と い う態 度 で 書 き始 め

出 仕 を 果 た し た

︶ 同 七年 九月 二三 日か ら﹁ 日々 の出 来事

﹂を 漏れ るこ とな く 書 き留 め つ づけ た 日 記 は︑ 自ら の 生 きる 日 々 と分 かち 難く 結ば れた

﹁出 仕﹂ と﹁ 家﹂ に関 わる 出来 事を 大切 に書 き留 めて おこ うと する もの であ り︑ もと もと 石橋 家内

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

― 4 ―

(6)

1

家室への視線−『家乗』のなかの「家室」

12 2 26 9 3 3 26 21 57 20

54 28 3 4 15 15 5 0 60 28 5 36 55

487

[備考]

1.本表は、石橋生菴が『家乗』に書き留めた、家室(=妻)の営みや姿に関わる記事を集計 したものである。

なお、同日条に、下記の事項を2つ以上含む場合、それぞれに算入した。

2.「家室」欄は、日記中に「家室」と表記して書き留めた営みや姿と、表記はないが家室と特 定しうる営みや姿を抽出し、その記事内容を類別した。

3.「内の営み」欄には、石橋家内における営みを採った。ただし、長男太郎吉の大多和家=実 家での出産(延宝2年)も、便宜的にここに含めた。

4.「病・医療」欄には、家室の病気(「治癒」「不発」などを含む)やそれに対する医療行為

(大多和家に居る家室を「問う」=見舞う営みも含む)に関わる記事を採った。ただし、出産 当日の「腹痛」については、当該日に風邪などの症状を書き留めない限り、この欄には採っ ていない。

5.「外出」欄には、当該日に石橋家から外出、また石橋家へ帰宅したことを書き留めた記事を 採り、その行き先を4つ(石橋家「親族」、家室の「実家」=大多和家、寺、その他)に類別 した。

6.「書簡」欄は、日記に書き留められた、生菴が江戸や旅先から家室宛に送った書簡数(「生→

室」)と、家室が生菴に送った書簡数(「室→生」)を算出した。

7.「夫婦」「一家」欄は、日記中に「夫婦」・「一家」(「予一家」「予家」など)と表記するもの に限定して、その営みを採った。

一家

1 1 1 2 6 5 3

1 2 1 1

1 1

26 夫婦

3 7 2

1 1

1 1

1

1 1

19 家室

書簡 室→生

2 4 14 7

18 8 1 4 6 3 22 10

11 19 129 369 生→室

3 10 38 13

36 17

10 8 1 38 18

19 29 240 外出

帰宅 2 2

1

5 25

1

1

2

1 1 1

1

1 1 3 9 実家

3 2

2

7 親族

2

2 病・

医療 4 15

10

1

30 内の 営み 1 1 3

1 1

1

1

3 3 3

18

20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 西暦

1672 1673 1674 1675 1676 1677 1678 1679 1680 1681 1682 1683 1684 1685 1686 1687 1688 1689 1690 1691 1692 1693 1694 1695 1696 1697 和年号

寛文12 延宝元 2 3 4 5 6 7 8 天和元 2 3 貞享元 2 3 4 元禄元 2 3 4 5 6 7 8 9 10

― 5 ―

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

(7)

の日 々の 営み を刻 明に 書き 留め るも ので はな い⒂

︒ それ でも

︑現 存 す る﹃ 家乗

﹄十 七 冊︑ 千 六 百六 十 八 丁の 厖 大 な日 記記 事量 から すれ ば︑ それ はわ ずか でし かな かっ た︒ で は︑ 生菴 は︑ どの よう な﹁ まな ざし

﹂を 妻に 向け

︑ど のよ うな 妻の 姿や 営み を書 き留 めた のだ ろう か︒ 婚礼 から の﹁ 新た な日 々﹂ をし ばら く辿 って みる

︒ 彼 が︑ 妻の 姿を 初め て日 記に 書い たの は︑ 寛文 一二 年閏 六月 一四 日︑ 婚礼 後二 十一 日目 のこ とで ある

︒ 十四 日 夜雷 雨 家室 自八 日因 祖母 之病 而帰 寧 嬰間 日之 瘧不 帰得 矣 今日 問之

又 問小 出氏 之病

○ 今晩 公還 御自 宇治

寄 書于 祐生

妻の 名は

︑多 くの 石橋 家︵ や そ の 親 族

︶ の女 性た ちと 同様 に︑ 日記 の最 後ま で判 らな い⒄

︒ 生菴 は︑ 日記 に書 い た 最初 か ら︑ 妻を

﹁家 室

﹂と 認 識 し︑ 基本 的 に は こ の 呼 称 で 書 き 留 め つ づ け た︵ 以 下

︑ 本 稿 で も

﹁ 家 室

﹂ を 用 い る

︒ た だ︑ この 最初 の記 事は

︑そ の後 の家 室に 関す る﹁ 日記 の書 き留 めか た﹂ とは 少し 異な る︒ 家 室は

︑す でに

︵ 結 婚 の た め に

﹁ 経 由

﹂ し た

︶ 大多 和 家 の﹁ 祖母

﹂の 看 病 に帰 っ て い て︑ 同家 で 瘧 をお こ し︑ こ の日 生菴 が彼 女を 見舞 った とい う︒ 彼は

︑の ちの よう には

︑閏 六月 八日 当日 に家 室の 大多 和家 への 帰宅 を書 き留 めな かっ た︒ し かも

︑生 菴 は

︑婚 礼 のの ち 六 月二 八 日︑ 閏 六月 朔 日 に つづ い て︑ 彼 女 が す で に 帰 宅 し て い た

︶ 閏 六 月 一

〇 日 に も︑ 大 多和 家 を 訪 れて い る⒆

︒ こ のこ と は︑ 日 記の

﹁一 日

﹂を 切 り 取る 姿 勢

﹁ まな ざ し

﹂を

︑寛 文 一

〇 年 頃 ま で に は ほぼ 固 め て いた 彼 が⒇

︑ ま だ家 室 の 姿を ど の よ うに 日 記 に書 き 留 め るか

︵ 彼 女 と い う 存 在 と ど の よ う に 向 き 合 う の か

︶ を定 めき れて いな かっ たこ とを 示す もの だろ う︒ この 生菴 の﹁ まな ざし

﹂の

﹁揺 らぎ

﹂は

︑彼 女が 病が 癒え て石 橋家 に帰 って 来た 同月 二五 日条 に︑

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

― 6 ―

(8)

二十 五日

日 午南 方雷 一両 声 家室 治病 而来

沽 神社 啓蒙

○ と︑ 何 か の 用 事 で 立 ち 寄 っ た の で は な い に も か か わ ら ず

︑﹁ 帰

﹂ で は な く

﹁︶ 来

﹂と

︵ お そ ら く 無 意 識 の う ち に

︶ 書き 留 め てし まう 心性 にも 通じ てい よう

︒生 菴は

︑い まだ 家室 を﹁ 自分 の居 場所 の人

﹂と 認識 しき れて いな いの であ る

︒ こ の よ う な﹁ 揺ら ぎ

﹂と と もに 始 ま っ た 妻 へ む け る﹁ ま な ざ し

﹂は

︑こ の の ち

︑︿ 表1

﹀の よ う に︑ 家 内 の 営 み︑ 病の 症状 や医 療行 為︵ 主 に 投 薬 記 録

︑︶ 外 出・ 帰宅

︵ 当 日 の 記 録

︑︶ 書 簡の 往復

︑と いっ た枠 組み に定 まっ てゆ く︒ 以 後︑ この 年に 書き 留め られ るの も︑ すべ て﹁ 外出

﹂に 関わ る家 室の 姿で ある

︒ 今夜 家室 始如 伯公 之家 家室 始如 多賀 氏 家室 は︑ 七月 一八 日と 二一 日︑ 相 次い で

︑﹁ 伯 公﹂

生菴 の 長 兄市 左 衛 門の 家 と︑ 親 族 の多 賀 家 を﹁ 始め て

﹂訪 れ た︒ 日記 には 簡潔 な 記述 し か な いが

︑こ の

﹁初 訪 問﹂ は︑ 万治 三 年︵ 一 六 六

︶ 八 月 七 日に 長 兄 に 嫁い で き た妻 に も みら れる 記事 で︑ おそ らく

﹁共 食﹂ の宴 を伴 って いよ う

︒ 彼女 は

︑こ う して

︑石 橋 家 の 親族 と の﹁ 付 き合 い

﹂の 開 始を 確認 した

︒ そ して

︑一 一月 一五 日︑ 家室 皈寧 而易 眉粧 家室 は︑ 大多 和家 に 帰 って

ま だ 妊 娠 し て は い な か っ た が

︶ 眉 を剃 っ た︒ そ れ は︑ 石橋 家 へ﹁ 嫁 いだ 女

﹂と し て︑

﹁子 を生 む女

﹂と して の旅 立ち だっ た︒

― 7 ―

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

(9)

⑶ 初出 産│ 緊張 と凝 視 翌 延宝 元年

︵ 一 六 七 三

︶ に なる と︑ 日記 から 家室 の姿 はほ とん どみ えな くな る︵︿ 表 1

﹀︶

︒ 次に 生菴 の家 室へ の﹁ ま なざ し﹂ が強 まる のが

︑初 出産 前後 の日 々で ある

︒ 家 室が 日々 営ん だだ ろう 石橋 家の

︵ 家

︶ 内の 姿の うち

︑生 菴が 書き 留め るの は︑ 主 に家 室 の 出産

︵ 子 ど も の 誕 生

︶ で あり

︑︿ 表 1﹀

﹁ 内 の 営 み

﹂︶ の 延宝 二年 から 元禄 二年

︵ 一 六 八 九

︶ まで の七 件す べて がこ れに あた る︒ こ こで は︑ 生菴 と家 室と の間 の︑ 初め て の出 産 を 追 って み る︒

︿ 表2

﹀は

︑日 記 に書 き 留 め られ た 家 室の 姿 や 営み

︵﹁ 内 の 営 み

﹂ 三 件

︑﹁ 病

・ 医 療

﹂ 十 五 件

︶ だけ で な く︑ それ と 関 わ る︵ 日 記 に は

﹁ 家 室

﹂ の 語 が あ ら わ れ な い

︶ 生菴 の 姿 や営 みも 含め て︑ 日を 追っ て一 覧化 した もの であ る︒ 日 記に この こと と関 わる 記事 が登 場す るの は︑ 結婚 後一 年十 か月 を経 た︑ 延宝 二年 四月 一一 日︒ 家室 着帯

外 姑倡 穏婆 来 夕迄 皈 この 日は

︵﹁ 戌

﹂ で は な く

﹁︶ 乙巳

﹂の 日だ った が︑ 生菴 は︑ 日記 の上 で 何の 前 触 れも な く︑ 家 室 が腹 帯 を 締め た こ と︑

﹁ 外姑

大 多 和 家の 姑 が﹁ 穏 婆﹂ オ ン バ

︑ ト リ ア ゲ バ バ

︶ を 連れ て 訪 れ たこ と を 書き 留 め た︒ 儒医 で あ る 生 菴 が

︑一 一日 まで 家室 から 妊娠 を全 く知 らさ れて いな かっ たと は考 えに くい

︒彼 がこ の日 初め てそ のこ とを 書い たの は︑ 胎児 の存 在が

﹁公

﹂に なる 日だ った から だろ う︒ そ れは

︑生 菴自 身も また 胎児 の存 在を 自覚 する 日と なっ たは ずだ が︑ この 日以 降︑ 胎児 の存 在や 成長 は︑ 家室 の姿 と とも に

︑彼 の︵ 日 記 に 書 き 留 め る ほ ど の

﹁︶ ま なざ し

﹂か ら は 消え る

︒次 に 浮上 す る のは

︑家 室 の 陣 痛が 始 ま っ た 九 月九 日で ある

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

― 8 ―

(10)

2

生菴と家室の初出産の日々(延宝

2

年)

初出産に関わる日記記事(家室、生菴の営みと姿)

〔着帯〕家室着帯 外姑倡穩婆来 夕迄而皈

〔陣痛始まる〕(朝…訪舅家) 家室時々腹痛 招穩婆 吉兵衛之妻来 夕外姑来 了安房来加持之 晩穩婆帰 伯公両女来 夕外姑帰

吉兵衛之妻皈 家室有下痢之心 服煎薬 夕伯公之室来省

〔家室、実家へ〕家室腹痛未癒故為療養皈于舅家

(賀舅家)(外姑来)

〔家室、石橋家へ〕夕家室来省

〔家室、実家へ〕家室帰…夜如舅家 夕如舅家

朝家室自昨夜感風邪発熱鼻流清涕 予往而診之 与人参敗毒散加蔓荊細辛二貼便 喫朝飯…夜如舅家 与同方二貼

夕如舅家

如舅家 与䋋香正気加弓細二貼 両次瀉熱覚 夕…如舅家

〔出産〕家室又感風邪…夕…如舅家…亥終刻大多和氏使人告家室腹痛即訪之 与 芎皈湯加人一二貼 丑之初刻産男子 夜宿之

朝皈 与芎皈湯一貼…午時又訪之 有頭痛用加減四物湯…夜半又訪之用八物湯加 蔓芷

用同方 朝帰…夜訪舅家 婦翁告云頭痛発熱左耳痛故招久我快元服補中益湯気加 蘓桔一貼云

巳時如舅家 与同方二貼

如舅家……家室血暈左耳頭痛咳嗽微熱脈沈数也 申之終刻便往問之 招見与相議 与明鑑當皈散加柴二貼 夜宿之

与同方二貼 耳痛軽熱醒故帰 問家室 乳汁不出故不用薬

〔一臈の賀〕生子一臈故家君字之呼太郎吉 外祖父賜小副刀 予賀之喫朝餐 訪舅家

夕…家室咳嗽尚在 用補心湯二貼

〔髪垂〕朝問家室…夕…訪舅家

夕問家室 乳汁不通故自今朝置乳母…昨日太郎吉髪垂 夕…問舅家

家室太郎吉皈 吉兵衛夫婦来

(如舅家)

(家室妹来)

〔石橋家・一臈の賀〕今晩賀太郎吉一臈 饗外姑大多和氏同嫡女姪辰順多賀氏中 村佐左衛門焉…日暮外姑等退去

[備考]

1.本表は、『家乗』に書き留められた、生菴と家室の初出産に関わる日記記事を抜粋し、

日を追って一覧化したものである。一覧化にあたっては、家室の姿や営みとともに、

家室にむけた生菴や親族たちの行動や営み(家室の居る大多和家=舅家に「如く」「訪 ず」などを含む)をも採ることとした。

2.期間は、初出産に関わる最初の記事である「着帯」=延宝2年(1674)4月11日か ら、石橋家であらためて「お七夜」を催した10月20日までにとどめ、この期間中に 日記にあらわれる関係記事はすべて採り上げた。

なお、一覧表の見やすさを求めて、〔 〕を付して、小見出しをつけた。また、参考 として、初出産に直接関わらないと判断する記事も、( )を付して、若干採っている。

月日 4. 11 9. 9 9. 10 9. 11 9. 12 9. 15 9. 16 9. 18 9. 21 9. 22 9. 23 9. 24 9. 25 9. 26 9. 27 9. 28 9. 29 10.朔 10. 2 10. 3 10. 4 10. 5 10. 6 10. 8 10. 9 10. 10 10. 12 10. 17 10. 19 10. 20

― 9 ―

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

(11)

家室 時々 腹痛

招 穏婆

吉 兵衛 之妻 来 夕外 姑来 こ の陣 痛 を う けて

︑そ の 翌 一〇 日 に は︑ 檀那 寺 久 成 寺の 了 安 房を 呼 ん で﹁ 加 持﹂ 祈祷 さ せ た

︒一 二 日 に 出 産 の た め

﹁ 実家

﹂に 帰っ た家 室は

︑予 兆が 遠の いた のか

︑一 旦三 日間 石橋 家に 戻 っ て︵ 病 床 に あ っ た

︶ 生 菴の 父 孫 左衛 門 を 見舞 い

︑ あら ため て一 八日 に大 多和 家に 帰っ た︒ そ の一 八日 当日 に大 多和 家を 訪 れた 生 菴 は︑ 二 日置 い た 二一 日 か ら出 産 の 日 まで の 六 日間

彼 女 が 風 邪 気 味 だ っ た こ と も あ る が

︶ 連 日︑ 家室 のも とに 通い つづ ける

︒そ して 二六 日︑ 二十 六日 上同 方二 貼 家室 又感 風邪

午 前 公暫 逍遥 于吹 上使 刈池 稲 夕○

如 舅家

鈴 木氏 皈自 武州

亥 終刻 大多 和氏 使人 告家 室腹 痛 即訪 之 与芎 皈湯 加人 一二 貼 丑之 初刻 産男 子 夜宿 之 夕方 から 出仕 した 後大 多和 家に 立ち 寄っ て帰 った 生 菴 に︑ 亥 の終 刻 に 呼び 出 し がか か り︑ 丑 の 初刻 男 子 が生 ま れ た︒ こ の出 産

誕 生 に つい て

︑彼 は 日記 に 何 の感 慨 も 書 き留 め て いな い が︑ 着 帯 から 陣 痛 まで の 五 か月 間 と う っ て か わ る︑ この 日ま でと この 日以 降の 生菴 の母 子を みつ めつ づけ る行 動が

︑彼 の﹁ 新た な生 命の 誕生

﹂へ の緊 張と 歓び を何 より も語 って いよ う︒ 生 菴は

︑翌 二七 日も

︑ 二十 七日 朝皈 与芎 皈湯 一貼

家 君上 同方 二貼

午 時又 訪之

有 頭痛 用加 減四 物湯

夕 帰 家君 熱未 覚 夜半 又訪 之 用八 物湯 加蔓 芷 と︑ 石橋 家で の父

﹁家 君﹂ への 治療 と往 復し なが ら︑ 朝 に 舅家 か ら 帰っ た 後 も二 度 に わ たっ て 舅 家を 訪 れ︑ 家 室と 乳児 に寄 り添 いつ づけ る︒

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

― 10 ―

(12)

そ の 後 も︑ 家 室の 産 後 の体 調 が 芳し く な か った こ と もあ り

︑家 室 と乳 児 は 約 半月 間 舅 家に 滞 在 す る の だ が

︑生 菴 は︑ 出産 前の 六日 間と 同じ く︑ 連日 のよ うに 舅家 に通 い︑ 家室 の状 態を 日記 に書 き留 めつ づけ た︒ 出 産後 十四 日目 の一

〇月 一二 日

︑家 室 と乳 児︵ 太 郎 吉

︶ は 石 橋 家に 帰 っ てく る

︒こ こ で よう や く 生菴 の

﹁母 子 を凝 視す る﹂ 強い

﹁ま なざ し﹂ は落 ち着 きを 取り 戻し

︑し ばら く日 記か ら家 室の 姿は 消え る︒ そし て︑ その 八日 後の 一〇 月二

〇日

︑す でに 大多 和家 で祝 われ てい た 太 郎 吉の

﹁一 臈 の 賀﹂

お 七 夜 をあ ら た め て石 橋 家 で催 し た︒ そ れは

︑産 育の 節目

︵ 子 ど も の 成 長 の 節 目

︶ を 石橋 家で 祝う 最初 の日 であ った

⑷ 夫婦 とし て︑ 一家 とし て 結 婚し た寛 文一 二年 から 延宝 六年 まで の七 年間 は︑ 同居 する 父孫 左衛 門の 延宝 五年 の死 を挟 んで

︑生 菴と 家室 が和 歌山 城下 の石 橋家 で一 年を 共に 過 ごし た 期 間 だっ た

︒し か し︑ 初出 産 の 日々 以 降

︑︿ 表1

﹀の よ う に︑ 家室 一 人 の姿 はま た日 記か ら遠 のく

︒ こ の期 間に もっ とも 書き 留め られ るの は︑

﹁ 夫婦

十 二 件

﹁︶ 一家

十 一 件

︶ とし ての 姿で ある

︒こ れは

︑ 晩伯 公室 饗家 君 夫

婦関 之 晩伯 公饗 夫

婦 晩岳 翁之 家有 養父 入之 賀 夫

婦関 之 とい った 記事 のよ うに

︑生 菴の 兄市 左 衛 門 家や

﹁岳 翁

家 室の

﹁実 家

﹂大 多 和家 の 舅 な ど︑ 親族 か ら 饗応 を 受 けた り︑ 同 家の 祝 い の 席に 加 わ るも の で︑ こ の期 間 だ け でな く

︑晩 年 まで つ づ け られ る

︵︿ 表 1

﹀﹁ 夫 婦

﹂﹁ 一 家

﹂︶

︒長 男 太

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︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

(13)

郎吉 やそ の後 生ま れた 子ど もた ちが 成 長 す るに つ れ︑ 夫 婦だ け で なく

︑﹁ 一 家﹂ と し て﹁ お呼 ば れ﹂ す るこ と も 多く なる が︑ 招待 主は

︑ど ちら の場 合も

︑ 夫婦

⁝兄 市左 衛門

七 回︑ 兄の 妻 一回

︑兄 の嫡 男︵ 甥

︶ 二回 鈴 木氏

二 回

︑ 大多 和氏

六 回︑ 大多 和氏 嫡男

一 回 一家

⁝父 孫左 衛門

一 回

︑ 兄市 左衛 門 四回

︑甥 辰淳

︵順

︶ 一 回 鈴 木氏

五 回︑ 大多 和氏

八 回︑ 大多 和氏 嫡男

六 回 と︑ ほぼ 変わ らな い︒ 家室 は︑

﹁ 石橋 家の 一員

﹂と し て︑ 生 菴や 子 ど もた ち と とも に

︑こ の よ うな 場 を 共有 す る こと で︑ 兄市 左衛 門家

︑親 族の 鈴木 家︑ 家室 の﹁ 実家

﹂大 多和 家と

﹁親 族と して の絆

﹂を 確か め合 った

︒ こ の家 族の 一 員と し て の姿 以 外 に︑ 家 室一 人 の 姿が こ の 期間 に 書 き 留め ら れ るの は

︑先 述 した 出 産︵ 延 宝 六 年 の 次 男 庄 次 郎

︶ や

﹁実 家﹂ への 帰宅 をの ぞけ ば︑ わず かな

﹁外 出﹂ と︑ 彼女 の病 気で しか ない

︵︿ 表 1

﹀︶

︒ 生 菴が 家室 の﹁ 外出

﹂を 書き 留め たの は︑ い ずれ も 久 成寺

︵ 石 橋 家 の 檀 那 寺

︶ への 外 出 三 件で

︑そ の う ちの 二 件 は︑ 延宝 三年 七月 一五 日に 此日 不得 官暇 故 使家 室拝 霊于 久成 寺 と︑ 三浦 家で の出 仕の ため 行け ない 生菴 に代 わっ て︑ 家室 を久 成寺 へ遣 り︑ 亡母 への 拝 霊︵

盆 供 養

︶ を させ た こ と︑ そし て延 宝五 年三 月二 八日 亡父 孫左 衛門 の﹁ 三七 日﹂ に︑

﹁ 一家

﹂で 久成 寺の 説法 を聞 き︑

﹁諷 誦記

﹂を 上げ た際 の記 録の うち に﹁ 家室

の名 を載 せた こと であ る

︒ 病が ちだ った 孫左 衛門 は︑ この 一月 九日 から 病状 が悪 化し

︑三 月八 日に 亡く なっ てい た︒ その 連日 書き 留め られ る闘 病・ 投薬 期間 の看 護に は生 菴だ けで なく

︑家 室も 助力 して いた

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

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(14)

だろ うが

︑日 記に は一 切そ の 姿 は ない

︒彼 の 日 記の

﹁ま な ざ し﹂ には

︑﹁ 外

﹂に む け た﹁ 石橋 家 の 一員

﹂と し て の家 室が 浮か んで いる

︒ 一 方︑ 彼女 の﹁ 病気

﹂は

︑延 宝六 年八 月朔 日に 発症 した

︒ 自夜 半家 室傷 食腹 痛 与䋋 香正 気散

加 酒 炒 白 芍

﹁ 食あ たり

﹂か と思 われ る腹 痛は

︑悪 寒・ 発 熱・ 頭 痛を 伴 う もの で

︑一 旦 減じ た り︑ 痛 み が再 発 し たり し た︒ 生 菴は 翌二 日か ら出 仕を 控え

︑毎 日の 病状 の変 化と 投薬 記録 を記 しつ づけ

︑ 家室 病過 半癒

始 出仕 と︑ ほぼ 完治 した 九日 に三 浦家 に出 仕す るま で︑ 九日 間ず っと 彼女 に寄 り添 う︒ 家室 の石 橋家 内の 姿は

︑こ のよ うな 病気 の際 にわ ずか にう かが える だけ であ る︒ そ して

︑江 戸屋 敷詰 めを 前に した

︑延 宝六 年一

〇月 八日

︑ 八日

豫 修 法眼 院大 祥忌 于久 成寺

朝 伯 公一 家 開 斎席

関 之 家 室受 法 于 久 成寺

晩 伯 公 開斎 席

一 家預 之 翌年 に控 えた 父孫 左衛 門の 三周 忌を

﹁豫 修﹂ した 久成 寺で

︑家 室は

﹁受 法﹂ した

︒彼 女が 生ま れた 高田 家の 属し た檀 那寺 も宗 派も 知る こと はで きな いが

︑こ の時 家室 は︑ 名実 とも に﹁ 石橋 家の 家室

﹂と なっ たの だろ う︒

― 13 ―

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

(15)

︑ 夫 婦 の 絆

﹁ 同居 家族

﹂と して の家 室 延 宝六 年一 一月 二二 日︑ 主君 三浦 為隆 に供 奉し て和 歌山 を出 発し た生 菴は

︑一 二月 五日

︑江 戸赤 坂の 紀州 藩江 戸藩 邸の 長屋 に着 いた

︒以 後︑ 日記 の残 る元 禄一

〇年 まで

︑彼 は少 なく とも 六回 二千 六十 五日 に亙 って

︑紀 州の 石橋 家を 離れ

︑江 戸屋 敷詰 めの 日々 を過 ごす こと にな る

︒ こ の

﹁石 橋 家 を不 在 に する 日 々﹂ は︑ 帰 国

石橋 家 へ 帰 宅し た 当 日に そ の 不在 日 数 を 数え あ げ て 書 き 留 め る ほ ど に︑ 生菴 にと って

︑大 きな

﹁日 々﹂ の﹁ 断絶

﹂と 意識 され たこ と は すで に 指 摘 して き た

︒ こ の断 絶

変 化 は︑ 当然 な がら

︑日 記 の な かの 家 室 の姿 に も 大き な 変 化 を 与 え る︒

︿ 表1

﹀の よ う に

︑こ れ ま で 日 記 の﹁ 内 の 営 み﹂

﹁病

・医 療﹂

﹁ 外出

﹂と いう

﹁ま なざ し﹂ の枠 組み の中 で︑ わず かに しか あら われ なか った 家室 が︑

﹁書 簡﹂ の往 復の 形を とっ て︑ 頻繁 に登 場す るよ うに なる

︒ た だ︑ それ は家 室に 限ら れた こと では ない

︒︿ 表 3﹀ は︑ 二 人 の 結 婚 以 前 の

︶ 寛文 八年 とい う︑ 生菴 がそ の前 半 は紀 州の 石橋 家に

︑後 半は 江戸 屋敷 に暮 らし た一 年間 につ いて

︑石 橋家 に同 居す る家 族へ むけ た生 菴の

﹁ま なざ し﹂ を示 し たも の で あ る

︒ 一年 を 通 じた 同 居 家族 は

︑父 孫 左 衛 門 と 母︵

﹁ 家 夫 人

﹂︶ で あ り︑ 姉︵

﹁ 伯 姫

﹂︶ が︑ 夫 石 垣 氏 の 長 期 に 亙 る 江 戸 屋 敷 詰 め の た め

︶ 四 月二 二日 まで 石橋 家に 同居 して いた

︒ 前 半の 在紀 州期 に︑ 父の

﹁内 の営 み﹂ とし て類 別し た記 事一 件は

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

― 14 ―

(16)

3

同居家族への視線(寛文

8

年)

30 1 3 2 39 36 14 4

129

[備考]

1.本表は、石橋生菴が『家乗』寛文 8

年(1668)条に書き留めた、石橋家に同居

する家族の営みに関わる記事を集計したものである。

なお、同日条に下記の事項を

2

つ以上含む場合、それぞれに算入した。

2.生菴は、同年 6

15

日まで和歌山の石橋家に居住し、以後同年末まで紀州藩江

戸屋敷に居住した。この間の石橋家の同居家族は、家君(父)、家夫人(母)と、

伯姫(姉。夫石垣氏が長期の江戸在住のため、同年

4

22

日まで石橋家に同居)

である。従って、本表上段と下段を「在紀州」期間、「在江戸」期間に区分し、

各期間における同居家族名(それぞれ日記の表記の

1

つを採用)を配した。

なお、家族名を特定しない「双親」「故郷一家」などは、別に算出することと した。

3.「内の営み」「病・医療」「書簡」については、〈表 1〉の備考 3・4・6

の類別基

準に同じ(ただし、対象となる営みの主体は、本表では同居家族。「書簡」欄の

「家」も同様に和歌山の同居家族をさす)。

〈表

1〉の「外出」については、本表では類別せず一括して採り、また家君の

(病気平癒後の)三浦家への初出仕記事などを含むため、「外の営み」とした。

なお、「在江戸」期間における「病・医療」「外の営み」については、書簡によ る和歌山の石橋家に関する情報である。

書簡 家→生

12 20 2 2 36 80

生→家

16 15 11 2 44

外の営み

7

3 2 5

1

18

病・医療

22 1

6 1

30

内の営み

1

1

家君

家夫人 双親 伯姫 家君 家夫人 双親 故郷一家

計 在 紀 州

在 江 戸

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︿ 日 常

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酒井 氏寄 家君 書云

去 年長 井清 太夫 養久 世氏 和州 之姪 酒井 氏飛 州之 子 而為 子云 云

とい う︑ 江戸 に暮 らす 親族 の酒 井氏 から 孫左 衛門 に書 状が 届い たも ので あり

︑こ れ以 外は

︑父 が三 月一 九日 から 四月 一六 日ま で風 邪で 病床 にあ った ため

︑そ の 病 状・ 投 薬の 記 録 が中 心 を 占め る

︒﹁ 外 の 営み

﹂に つ い ても

︑父 が 年 末か らの 風邪 と今 回の 二度

︑病 が癒 えて

﹁出 仕﹂ を始 めた 記事

︑三 浦家 家臣 生田 氏の 死に 際し て﹁ 助葬

﹂し た記 事を のぞ け ば

︑ 前 章 で み た の と 同 様 に

︑父 も

﹁双 親

﹂・ 姉 も

︑い ず れ も 兄 市 左 衛 門 家 や 石 垣 家 か ら 饗 応 を う け た も の で あ る と ︒ ころ が︑ 生菴 が江 戸へ 移っ た後 半に なる と︑ 紀州 から 届く 父 母の 病 気 や父 の 出 仕 状況

の 情報 以 上 に︑ 父・ 母と の書 簡の 往復 の姿 が︑ 日記 を占 めつ づけ る︒ こ のよ うに

︑前 章で みた 家室 のい くつ かの 姿と

︑江 戸屋 敷詰 め期 間に おけ る書 簡の 往復 に登 場す る家 室の 姿は

︑生 菴が 石橋 家に 同居 する 家族 にそ そぐ

﹁ま なざ し﹂ の枠 組み と同 一の もの とい って よい

︒彼 は︑ 家室 を﹁ 同居 家族 の一 人﹂ とし てみ つめ

︑日 記に 書き 留め てい た︒

⑵ 書簡 のな かの 二人

│江 戸と 紀州 をつ なぐ 絆 し かし

︑﹁ 同 居家 族﹂ とい う同 じ﹁ まな ざし

﹂の 枠 組 みの な か にも

︑前 章 第 三節 で み た 初出 産 の 際の よ う に︑ 夫婦 二人 の間 でし かあ らわ れな い視 線が 孕ま れて いる

︒こ こで は︑ 生菴 の江 戸屋 敷詰 め期 間に おけ る書 簡の 往復 から

︑二 人の 姿を 垣間 みて みた い︒

︿表 4﹀ は︑ もっ とも 長期 の江 戸滞 在 と なっ た 四 回目 の 江 戸屋 敷 詰 め 期間

︵ 延 宝 八 年 五 月 六 日 江 戸 到 着 か ら 天 和 元 年 八

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

― 16 ―

(18)

月 一 五 日 江 戸 出 発 ま で

︶ に つい て︑ 生菴 をめ ぐる 書簡 の往 復を 数値 化し たも ので ある

︒各 欄左 に 生菴 が 紀 州な ど に 送っ た書 簡数

︵ 丸 を 付 し た 数 字 が 石 橋 家

・ 兄 市 左 衛 門 家

・ 大 多 和 家 に 送 っ た 書 簡 数

︑︶ 右に 紀 州 など か ら 届い た 書 簡 数︵ 丸 数 字 は 同 じ 三 家 か ら 届 い た 書 簡 数

︶ を 配し た︒ 江 戸屋 敷に 滞在 する 生菴 の日 々に は︑ 石橋 家の 家族

・親 族だ けで なく

︑三 浦家 家臣 団や 友人

・知 人な どか らも

︑頻 繁に 書簡 が届 き︑ また 生菴 も彼 らに 書簡 を寄 せる

︒例 えば

︑一

〇月 一四 日に は︑ 十四 日 還京 師巡 覧沽 天正 記 夜雨

伯 公去 三日 之書 至 足軽 仙石 吉左 衛門 来自 紀州 送及 木綿 道服 家室 去月 廿九 日之 書 并外 姑原 田氏 嫂公 多賀 氏緒 方氏 矢部 氏父 子梅 原氏 松田 氏伊 藤氏 父子 小林 氏石 原氏 杉本 氏小 出氏 赤坂 氏石 井氏 西村 氏永 原氏 佐々 木氏 中村 氏父 子山 本氏 加藤 氏鳥 場氏 之書

侍 読甲 陽 記

○ 於 紀州 松沢 氏六 郎 兵 衛

被 罪見 停 御用 役小 性首 云 と︑ 兄・ 家室

・大 多和 氏の 姑の ほか

︑三 浦家 家臣 や友 人・ 知人 から 二十 四通 の書 簡が 届く が︑ 彼は 九日 間か けて その 全員 に返 信を 書い てい る

︒ 江戸 屋敷 に暮 らす 日々 の中 で︑

﹁ 手紙 を書 く

﹂﹁ 手 紙を 読 む﹂ と い う営 み が 占め る 大 きさ は明 らか だろ う︒ そ のよ うな 書簡 の往 復の うち でも

︑︿ 表 4﹀ のよ うに

︑石 橋 家︵ 家 室

・︶ 兄 市 左衛 門 家・ 大 多 和家 の 人 びと と の 交信 はほ ぼ定 期的 に︑ 絶え るこ とな く継 続さ れる

︒生 菴は

︑六 回の 江戸 屋敷 詰め 期間 を通 じて

︑家 室に 二百 三十 九通 の手 紙を 書き

︑家 室は 生菴 に百 二十 五通 の手 紙を 書き 送っ た︵︿ 表 1

﹀︶

︒ た だ︑ 日記 には

︑送 信・ 受信 した 人物 名し か書 き留 めら れず

︑同 時に 届く 何通 かに 及ぶ 書簡 の内 容の 一部 が後 段に 情報 記事 とし て書 き添 えら れる ため

︑誰 から もた らさ れた 情報 か不 明瞭 なも のが 多い

︒そ の記 事の 中に は︑ 三浦 家や

― 17 ―

︿ 日 常

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(19)

[延宝

9

年・天和元年(1681)1〜8月・40歳]

8月 2

1

② 7月

① 6月

1

①1 1 1

③1

②2 5月

①2

② 4月

②1

②3 1

② 1

① 3月

③3

1

① 1 1

③7

②2

1 1 2月

②3

①1

②6

①2

②1

①1

1 1月

①1

③6

①2 1

①9

③1

②2 1 朔日

2日 3日 4日 5日 6日 7日 8日 9日 10日 11日 12日 13日 14日 15日 16日 17日 18日 19日 20日 21日 22日 23日 24日 25日 26日 27日 28日 29日 30日

︿ 日 常

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― 18 ―

(20)

4

江戸屋敷詰め期間における石橋生菴をめぐる書簡の往復(延宝

8〜天和元年)

[延宝

8

年(1680)4〜12月・39歳]

12月

②12

①3

①4

[備考]

1.本表は、延宝8年(1680)〜天和元年(1681)の江戸屋敷詰め期間における石橋生菴をめぐる書簡

の往復を一覧化したものである。なお、発着日程は、延宝8年4月22日紀州出発、5月6日江戸到 着、天和元年8月15日江戸出発、8月27日紀州到着。

2.各1日欄を、下記のように区分した。

[各欄左]①…生菴が紀州の石橋家及び伯公家・舅家へ発信した書簡数 1…生菴が上記以外へ発信した書簡数

※…「報緒方氏等数十人」(10/23条)

[各欄右]①…紀州の石橋家及び伯公家・舅家から生菴に着信した書簡数 1…上記以外から生菴に着信した書簡数

なお、書簡を伴わない「送り物」の発信・着信については、採っていない。

1

①4

②12

②3

②1 11月

②3

3

①2

③5

①1

③7

1

②1

②2

①3

② 10月

1

③8

③24

①1

①1

③7

①2

②6

2

②※

1

②1 9月

1

2

1

①2

①3

③4

③1

③1

①1

②1 閏8月

②8

①1

①1

① 2

①1

③1

②4

②3

② 1

①1 8月

②7

①2

1

③6

②3

1

①2

②3

③2 7月

1

③8

3

②3

1 1

1

③9

③6 6月

① 1

①2

①1

1

③2

②1 1 5月

2

①1

② 1

1

③3

1

③1 4月

① 朔日

2日 3日 4日 5日 6日 7日 8日 9日 10日 11日 12日 13日 14日 15日 16日 17日 18日 19日 20日 21日 22日 23日 24日 25日 26日 27日 28日 29日 30日

― 19 ―

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

(21)

紀州 藩家 臣団 など の死 亡・ 昇進 情報 や災 害な ど

︑さ ま ざ まな 紀 州 の情 報 や︑

﹁ 伯公 告

﹂と 明 記 され た 石 橋家 や 親 族の 情報 など が含 まれ るが

︑生 菴と 家室 がど のよ うな 書信 を交 わし 合っ たか は判 然と しな い︒ わず かに うか がえ るの は︑ 十三 日 家室 去三 日之 書至

有 浅草 無縁 寺霞 関山 王之 四絶

○ 去朔 日紀 州雪 降積 寸余 とい う︑ 家室 の書 簡が 単独 で届 き︑ 紀州 の情 報が 書き 添え られ た一 例と

︑ 十七 日 過午 地震 而暫 不止 細雨 少降

上 同方 二貼

家 室去 六日 之書 并岳 氏岩 根氏 之信 落手

報 家室 及岳 氏又 寄伯 公之 書付 于宮 垣氏

上 野御 法会 今日 結願 也云

○ 去月 二十 三日 於紀 州賜 年俸 米毎 一石 値六 十有 二匁 七分 零七 毛

と いう

︑三 浦 家 家 臣団 と と もに 家 室 の書 簡 が 届 くが

多 く の 場 合 同 時 に 含 ま れ る

︶ 兄 市 左 衛 門か ら の 書簡 は 伴 わ な い 一例

︑そ して

○家 園牡 丹花 七蘂 有之 云

○去 二十 日葺 北屋 云

○家 園之 麦刈 之 其実 可四 斗四 五升 也 とい う︑ 家室 にし か書 けな いと 想定 され る情 報三 例だ けで ある

︒ 家 室は

︑三 浦家 で年 俸が 支給 され たこ とと とも に︑ 紀州 で雪 が降 り積 もっ たこ と︑ 家の 屋根 葺き をし たこ と︑ 家園 で牡 丹が 咲き

︑麦 刈り をし たこ とな どを 書き 送っ た︒ それ は︑ 生 菴 が 居 な い

︶ 紀州 の 石 橋 家に 起 こ った

︑身 の 回 りの

﹁ 小さ な︑ 大切 な出 来事

﹂だ った

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

― 20 ―

(22)

一 方︑ 生菴 が家 室に 書い た書 簡の 内容 は一 切判 らな い︒ ただ

︑彼 が書 簡に 添え る 送り 物 に は︑ 彼 が 不 在 の

︶ 石 橋家 の家 室や 子ど もた ちを 気遣 う姿 が浮 か ぶ︒

︿表 5﹀ は︑ 書 簡 の往 復 に 添え ら れ た送 り 物 を︑ 年 次を 追 っ て示 し た もの であ る︒ 送付 先が 明記 され ない 場合 もあ るが

︑書 簡の 宛て 先か らみ て︑ その ほと んど は石 橋家 に向 けた もの と考 えて よい

︒ 生 菴は

︑ 十二 日時 々雨

白 井氏

伝 次 右 衛 門

賜假 帰于 紀州

寄 書于 伯公 先生 家室

贈 五 明 及 干 栗

又 報伯 公幸 保氏 と︑ 四回 目の 江戸 屋敷 詰め 期間 の延 宝八 年六 月 一 二日 に

︑扇 子 と干 栗 を 家 室に 贈 っ て以 降︵ 1

数 値 は

︿ 表 5

﹀ の 通 し 番 号 と 対 応

︒ 以 下

︑ 同 じ

︑︶ 送 付 先 とし て 明 記さ れ た だけ で も︑ 家 内 の 入 用︵ 儡

︑ 儮

︑ 儲

︶ や 韈︵

足 袋

︑ 儡

︑︶ 父 の 十 七 回 忌の た め の﹁ 白 銀﹂

︑主 君 か ら拝 領 し た﹁ 鶴腸

︑︶ 薬

︵ 儶

︶ な ど︑ 折に ふ れ て書 簡 に 添 え る︒ そ こ に は︑ 成長 して ゆく 子ど もた ちへ の慈 し み︵ 書 手 本

︑ 紙 縄

玩 具

︑ 木 刀 な ど

︒ 3

︑ 7

︑ 8

︑ 儚

︑ 儛

︑ 儢

︑ 優

︶ と とも に

彼 が 不 在 の

︶ 石橋 家を 支え る家 室へ の心 配り と︵ 家 の 運 営 を 委 ね る

︶ 信頼 がう かが えよ う︒ 家 室も また

︑生 菴が 紀州 を旅 立っ た季 節に もよ るが

︑冬 が近 づけ ば﹁ 木綿 道服

︑ 儱

︶ を︑ 春を むか え れば

﹁単 道服

︑ 儵

︶ を送 るこ と を 忘れ な い

︒ ま た︑ 子ど も た ち が十 一 歳 頃に な る と︑ 家室 と と も に︑ 男子 も 女 子も

︵ 江 戸 の

︶ 父生 菴に 手紙 を書 くよ うに なる のも

︑お そら くは 家室 の導 きに よる もの だろ う

︒ 江 戸屋 敷詰 めと いう

﹁旅 の 時間

﹂に い る 生菴 と

彼 が 不 在 の

︶ 石 橋 家 にの こ る 家 室は

︑書 簡 の 往復 を 通 じて

︑支 え合 って いる ので ある

― 21 ―

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

(23)

5

江戸屋敷詰め期間における書簡の往復に添えられた「送り物」

生菴(江戸)←紀州 送付主

家室

家室

家室 家室

家室

家室

家室

[備考]

1.本表は、石橋生菴の江戸屋敷詰め期間(第3回〜第8回)に、生菴と紀州との間で交わさ

れた書簡の往復に添えられた「送り物」を、(『家乗』に書き留められた)発着順に一覧化し たものである。

2.左欄に、生菴が紀州に届けた「送付物」「送付先」、右欄に、紀州から生菴に届いた「送付 物」「送付元」を配した。なお、「送付物」や「送付先・送付元」の呼称は、日記に書き留め られた表記をそのまま示すこととした。ただし、漢数字は算用数字に改めている。

送付物

木綿道服

木綿袷・丹後単衣 単道服

韈・手巾

単物 手巾 3

肌衣・鰹角 道服

単道服・韈

帷子 生菴(江戸)→紀州

送付先 家室 二子

太郎吉 二子 故郷

太郎吉 庄次郎 太郎吉

家室 小女

家室 充之介

家室

家室 家室 送付物

五明・干栗 単物 草紙 城作物 木綿袷 手本・紙縄 紙縄

青色衣服・綿入肌着・紙衣 日野絹絵2

木副刀 手本2

火縄・宇治茶・芋・小草紙 下帯・絵

古帷子・紙縄 単衣 白銀・韈3 白銀

衣服 紙縄・扇子

紙縄2巻・半紙等8 蚊帳

紙縄 荷物2貫目 薬器 白銀54

身延山祖師堂及七面神洗米

(清水権六所賜)

白銭10

白銀135分(10匁十七年 忌、35分鎌倉土産)

鶴腸(公見拝鶴今夜為羮賜諸臣)

良香丸 年月日

延宝8(1680). 6. 12 延宝8(1680). 7. 11 延宝8(1680).8. 20 延宝8(1680). 9. 5 延宝8(1680). 10. 14 延宝8(1680). 11. 4 延宝8(1680). 12. 11 天和元(1681). 1. 16 天和元(1681). 2. 15 天和元(1681). 2. 26 天和元(1681). 4. 26 天和元(1681). 6. 9 天和元(1681). 6. 19 貞享元(1684). 5. 4 貞享元(1684). 6. 13 貞享元(1684). 8. 3 貞享元(1684). 11. 2 貞享元(1684). 11. 14 貞享元(1684). 12. 3 貞享2(1685). 1. 3 貞享2(1685). 1. 24 貞享2(1685). 2. 12 貞享2(1685). 2. 19 貞享2(1685). 3. 13 貞享2(1685). 3. 17 貞享2(1685). 4. 6 貞享2(1685). 4. 8 貞享2(1685). 4. 10 元禄2(1689). 1. 24 元禄2(1689). 3. 26 元禄2(1689). 3. 29 元禄2(1689). 4. 4 元禄5(1692). 8. 7 元禄5(1692). 9. 27 元禄5(1692). 10. 10 元禄5(1692). 12. 2 元禄6(1693). 1. 6 元禄6(1693). 2. 4 元禄10(1697). 2. 27 元禄10(1697). 3. 5 元禄10(1697). 3. 7 元禄10(1697). 3. 27 元禄10(1697). 4. 19 番号

1 2 3 4 5 6 7 8 109 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

― 22 ―

(24)

﹁ 自立

﹂す る家 室│

﹁ 宿願

﹂と 日待 こ のよ うに 絆を 築き 合っ てゆ く﹁ 二人 の日 々﹂ のな かで

︑日 記の 上で は唐 突に

︑こ れま での

﹁ま なざ し﹂ の枠 組み から はみ だし た︑

﹁ 外出

﹂す る家 室の 姿が あら われ る︒ 貞享 四年

︵ 一 六 八 七

︶ 三月 二一 日︑ 結婚 し て 十五 年

︑家 室 三十 五歳 の一 日で ある

︒ 二十 一日

陰 雨 家室 有宿 願詣 于多 田妙 台寺

○ 於武 江酒 井内 州任 寺社 吏兼 奏者 御番 この 日︑ 家室 は家 族を 連れ ず︑ 一人 で

︑ 和歌 山城 下か ら二 里余 り

︑名 草 郡多 田 の 妙 台寺 に 詣 でた

︒妙 台 寺 は︑ すで に前 稿で 指摘 した よう に︑ この 十 年 前︑ 生菴 や 兄 た ちが そ の 祖師

︵ 日 蓮

︶ 像 の

﹁効 験﹂ を 信じ て

両 親 の

︶ 菩提

﹂を 願 い︑ そ の 造 形 の す ば ら し さ に 感 嘆 し た﹁ 場﹂ で あ り︑ ま た こ の の ち は︑ 石 橋 家 の 人 び と が 何 度 も 寺 に﹁ 遊﹂ ぶ︑

︵ 檀 那 寺 久 成 寺 と は 位 相 を 異 に す る

︶ 石橋 家 に と って 大 切 な寺 と な った

﹁霊 蹤

﹂で あ る

︒ 簡 潔な 日 記 の記 述 か らは

︑家 室が どの よう な﹁ 宿願

﹂を 抱え てい たの かは 判ら ない

︒生 菴が その 祈り の内 実を 聞い たの かも 判ら ない

︒た だ︑ それ がこ こ まで み て きた 寺 へ の﹁ 外出

﹂記 事 の よ うに

生 菴 の 指 示 で な く て も

︶ 石 橋家 に 直 接 関わ る も ので あ れ ば︑ 生菴 はそ のこ とを 書き 留め ただ ろう

︒ 家 室は

︑こ の一

〇年 後︑ 元禄 一〇 年︵ 一 六 九 七

︶ 一一 月二 五日 にも

︑ 二十 五日

霰 天大 寒 家室 詣妙 台寺

○ 訪永 原氏 また 一人 で︑ 二 三 日 か ら 続 く

︶ 霰 交じ りの 悪天 候の なか

︑妙 台 寺 に詣 で て いる

︒し か も こ の日 は

︑そ の 二か 月 前 の九 月二 八日 に︑

― 23 ―

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

(25)

二十 八日

賜 暇 携真 殊院 及家 室十 之介

与 矢田 十兵 衛遊 多田 邑妙 台寺

帰 路如 于安 原庄 相坂 村 観補 陀落 山応 供寺

名 草 郡 今 属 海 部 郡

報 恩寺 日順 僧都 近年 沽地 修寺 鑄鐘 為莵 裘之 地 有詩 二首

伯 公来 不遇

○ 土肥 氏縫 殿 右 衛 門

岩 間氏 如于 勢州 云昨 二 十 七 日

と︑ 生菴 や家 族た ちと とも に︑ 妙台 寺に

﹁遊 山﹂ した ばか りだ った

︒ 日 記 の﹁ ま な ざし

﹂か ら は みだ し た︑ わ ずか 二 度 の 寺へ の

﹁外 出﹂ 記 事だ が

︑こ こ には

そ の 内 実 は 判 然 と し な く と も

︶ 家室 の強 い﹁ 意志

﹂が あ る︒ その

﹁意 志

﹂は

︑生 菴 が彼 女 の 行 動を

︑い ず れ も﹁ 遊﹂ や﹁ 如﹂ では な く︑

﹁ 詣﹂ と 表記 し て い るこ と か らも

︑﹁ 信 心﹂ に 関わ る も の だっ た こ とは 間 違 いな い

︒そ し て その 彼 女 の﹁ 意志

﹂を 認 め て いる から こそ

︑一 人だ けの 妙台 寺へ の﹁ 外出

﹂を 受け 容れ

︑生 菴は 日記 に書 き留 めた ので ある

︒ こ のよ うな 日記 の﹁ まな ざし

﹂か ら﹁ 自立

﹂し た家 室の 姿は

︑貞 享四 年か ら数 年を 経て

︑こ れま で﹁ 病気

﹂や 出産

子 ど も の 誕生 以 外 には ほ と んど 書 き 留 め ら れ る こ と の な か っ た 石 橋 家 の

﹁内 の 営 み

﹂に も み ら れ る よ う に な る︒

﹁ 影待

﹂﹁ 日待

﹂を する 家室 であ る︒ 八日

時 々雪 有風

賀 外山 五太 夫福 寿院

拝 于久 成寺

賀 北嶋 段右 衛門 礪工

今 宵家 室影 待 永原 氏来

話 来十 日

前 君闇 良忌 也故 於雲 蓋院

御 法事

今 日始 云

於 武府

邦君 七十

御 賀有 之云 と︑ 元禄 八年 一月 八日 に初 めて 日記 に登 場し た︑ 彼女 の﹁ 影待

﹂の 営み は︑ この 年︑ 五月 一六 日・ 九月 一四 日に

︑ 家室 祭天 日 夜拉 弥太 右衛 門 今夕 家人 影待

招 弥太 右衛 門

︿ 日 常

﹀ の な か の 近 世

・ 夫 婦 の 絆

― 24 ―

表 2 生菴と家室の初出産の日々(延宝 2 年) 初出産に関わる日記記事(家室、生菴の営みと姿) 〔着帯〕家室着帯 外姑倡穩婆来 夕迄而皈 〔陣痛始まる〕(朝…訪舅家) 家室時々腹痛 招穩婆 吉兵衛之妻来 夕外姑来 了安房来加持之 晩穩婆帰 伯公両女来 夕外姑帰 吉兵衛之妻皈 家室有下痢之心 服煎薬 夕伯公之室来省 〔家室、実家へ〕家室腹痛未癒故為療養皈于舅家 (賀舅家)(外姑来) 〔家室、石橋家へ〕夕家室来省 〔家室、実家へ〕家室帰…夜如舅家 夕如舅家 朝家室自昨夜感風邪発熱鼻流清涕 予往而診之 与人参敗
表 3 同居家族への視線(寛文 8 年) 計 30 1 3 2 39 36 14 4 129 [備考] 1.本表は、石橋生菴が『家乗』寛文 8 年(1668)条に書き留めた、石橋家に同居 する家族の営みに関わる記事を集計したものである。 なお、同日条に下記の事項を 2 つ以上含む場合、それぞれに算入した。 2.生菴は、同年 6 月 15 日まで和歌山の石橋家に居住し、以後同年末まで紀州藩江 戸屋敷に居住した。この間の石橋家の同居家族は、家君(父)、家夫人(母)と、 伯姫(姉。夫石垣氏が長期の江戸在住のため、
表 5 江戸屋敷詰め期間における書簡の往復に添えられた「送り物」 生菴(江戸)←紀州 送付主 家室 家室 家室 家室 家室 家室 家室 [備考] 1.本表は、石橋生菴の江戸屋敷詰め期間(第 3 回〜第 8 回)に、生菴と紀州との間で交わさ れた書簡の往復に添えられた「送り物」を、(『家乗』に書き留められた)発着順に一覧化し たものである。 2.左欄に、生菴が紀州に届けた「送付物」「送付先」、右欄に、紀州から生菴に届いた「送付 物」「送付元」を配した。なお、「送付物」や「送付先・送付元」の呼称は、日記に書き留
表 6 『家乗』における「日待」「影待」 清版 ③663 ③702 ④9 ④36 ④70 ④122 ④209 ④264 ④288 ④ 346 ④386 ④417 ④503 ④534 ④558 ④610 ④648 ⑤9 ⑤30 ⑤30 ⑤ 101 ⑤181 ⑤ 227 ⑤267 ⑤274 ⑤296 ⑤323 ⑤354 ⑤395 ⑤433 ⑤532 ⑤568 [備考] 1 .本表は、『家乗』に石橋生菴が書き留めた「日待」「影待」記事を一覧化したものである。 2.「表記」欄には、当日条に生菴が書き留めた表記をその

参照

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