の文化への序章として
著者 高村 雅彦
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 34
ページ 17‑36
発行年 1982‑03‑23
URL http://doi.org/10.15002/00011682
鎌倉時代初期
﹁ 茶 ﹂
の普及についての
考察
│
│ 茶 の 文 化 へ の 序 章 と し て
│
│
rl
i'J~
は じ め に
五日が岡山つ茶しに対寸る認識
け 武 家 の 場 介 日 同 公 家 の 場
AH
同 引 茶 に つ い て 叫 ま とめ 一.︑宋代に於ける茶の
日 及 川 副
一 一 .︑入宋山僧と
茶の間わり 問
︑ 茶 の 輸 入 と 凶 産 の 茶
ー
打 寸 び に か え
て1
iま
め じ
﹁茶道史﹂の研究は﹁文化史﹂の一ジャンルとして多くの先学
によって研究されて来た︒しかしその関心は主として茶道成立に
関連した﹁主町期﹂から﹁江戸初期﹂にかけて集中していて︑
鎌 倉 時 代 初 期
﹁茶﹂の普
及 に つ い て の 一 考 察 ( 石 田 )
石
田
雅
彦
﹁古代﹂並に﹁鎌倉期﹂の研究は他の時代に比べると非常に少な(
2)
いのが現状である︒その理由は審事たる史料しか見い出せ無い為
であるが︑それでも何人かの研究者達によって少しずつこの時代
の問題が明らかにされている︒
さて茶の陪出火の萌芽は平安時代初期から認められるが︑中期以
降茶は全く衰退してしまい﹁明庵栄西﹂が歴史上に存場するまで
はその記述が進まないのが是迄の通例であった︒栄西は建保二年
︹ 二 二 四
︺
に 将
軍実朝
に﹁茶一韮﹂を献ずる!後述
lわけだ
が︑﹁栄西禅師﹂と﹁将軍実朝﹂の両者の結びつきが茶道史上両
期的とされ︑﹁鎌倉期﹂の一項目めは必ずこの栄西から始められ
(5
)
るυ栄西は二度目の入宋の時に﹁茶の種﹂を持ち帰り九州背振山 に植え繁殖させたといわれる︒これが吾が国での茶の普及の始ま
りとされ︑現在彼は﹁茶の租﹂と呼ばれている︒そして茶道更は
この説を通説として定着させた︒小論もこの説を歴史の流れを説
明するに良い方法の一つであると思う︒
七
法政史学
第
j l L!
しかし鎌倉初期の喫茶の萌芹が︑ついには﹁茶の文化﹂へと発
展脱皮していく過仰の第一章に当るこの時期をただ一人栄西にの
み似る事を為し得ない︒
そこで小論は︑﹁討が同﹂と対作なる﹁宋国﹂の茶の斤及状能川
を比較検討する事により︑川月余時代初期に︑京がいかに存在しは
じめたかを先学の諸説を和理しながら保ってみたいと思うο
一︑吾︑か国の﹁茶﹂に対する認識
日本に於て︑﹁喫いれの風﹂は先述したように平安初期の引に見
出されるοしかし通説では平吹中期以後︑文化の国風化の進れと
(6 )
共に︑唐風文化の一山としての糸はほとんど衰退してしまうといハ7﹀ぅ︒この説に対して︑刊藤うめの氏はそれと対照的な論を附され
た︒すなわち平安末期にはぷに対する関心は一層高まっていたと
するのである︒どうしてこのようなた異が出るのか︒その閉山は
﹁ト川代から中壮初期﹂にかけての茶の史料が非常に少ない為であ
る︒つまり史料が伐っていないから茶が哀辺したとする見方をと
るのが通説であり︑小︑料がない事は宍K一すと﹁日常的﹂になりす
ぎて史料を残す必要がなかったと解するのが伊藤論なのであるο
もちろん氏はそれを補う為に他の
ι
示︑民俗学的考察︑庇代の汁文等をも利刑されているU
現在は二つの論があるがここで小論はこの二論の他に別な符を
求める形で論を進めてみたいと思うυ
(う
武家の場合
︿史料
1 V
﹃吾妻鈍﹄第廿二冷](同史大系本)
(山保二年)︹二二四年︺二月
o三日︑戊戊︑除ω晩景白二一所一御一山着︒安達藤右衛門尉景盛
珠儲二子御所粧品呂一献二盃酒↓今日供半之京皆琴候︒上下一台酌及ニ
鞍巡
↓幹
主⁝
F美︒終夜諸人淵酔云々︒
0四日︑己亥︑晴︒将軍家柳御病悩︒諸人奔走︒但無二殊御事一↓
是若去夜御淵酔鈴気敗︒定葉上信正候一御加持一之底︒聞ニ此妄↓
栴‑
一日
柴↓
ム日
二本
十寸
一石
一
J進茶一藷↓而相コ副一巻書一令レ献レ之ω
所レ 山村 山ニ 茶徳 一之 書也
︒将 軍家 及二 御感 悦一 一ぶ 々︒ 去月 之北
︒坐 蹄鈴 暇 書 出 此 抄 一之 山申 レ之
︒
この史料が先述した栄西と将軍実判の出合の史料であり︑茶に
関してはこの一条が﹃吾妻鈍﹄に見られる唯一の記事である事か
ら鎌倉初期の茶の研究には欠かす事の出来ない史料である︒
さて前日二所より帰った実朝は州安に臨み二日酔になる︒この
時与制
ι
から加持に来ていた栄問がこれを聞き﹁茶一藷﹂と﹁茶仰を百むる所之書﹂を献じた︒﹃吾妻鈍﹄が鎌倉幕府の正山んであ
るふやから考えるとこの一述の記事は小︑実と思われるQ実朝と栄西
( 8 )
の川係もかなり籾しかったようであるから︑﹁茶﹂を献ずる事も
可能であったのであろう︒小論はこの史料から次の三点に注目し
たい︒つまり
川保二年の時期に将軍実判が﹁及ユ御山悦一﹂利ぷと云う物を知
らなかった事υ第二に﹁栄阿﹂が献じた茶は﹁飲料﹂ではなく
(9
)
﹁薬用﹂であった事υそして円引
古川 川﹄ を制 纂
した幕吏がこの日(凶)にこのような記事を岐せたのは﹁将車の二日酔い﹂と﹁一議のぷ﹂
の関連性に注けした為ではないだろうか︒
仁j
公家の場合
右の場合は﹁武家﹂の場人円であるが︑公家の枇界では茶をどの
ように認調していただろうか︒これも鎌倉期の主要史料である
﹃半葉﹄と﹃明月記hを利用してみたい︒
﹃王葉﹄は衆知の通り九条旅突の日記であり﹃明月記﹄は藤原
定家の日記である︒尚人共に平安最末期から鎌倉初期にかけての
上級公家に枕する事から彼等の立場上前書は政治情勢や朝儀が主
であり︑後書は歌道に関する記事が多い︒共に﹁生活記事﹂の少
ない記録であるが︑行見の限りでは次の史料が見受けられた︒少
々煩現になるが年代別に引用したい︒
︿史料
2 V
﹃王
葉い
( 同省
一 日 川行会本第一)
( ︐ 爪 安 二 年 )
(一
一七
二年︺正月
一一
日︑
で十
八除
不ν刷︑此日摘政家山時容也︑ー中町│役法五位
三人柳時間同次長︑四位家可賢一富山匝持参盃日開
一 一 附
情 緒
︑
瓶子地下五位︑
件付
九 時
J
h h m
叫 片 縦 四︑ 地 下 五 位 二 人 取
ニ
績酌↓主人取ド低気色︑下有入ド洞︑│略│
(傍線筆者以下同じ) 一七四ページ
鎌 倉 時 代 初 期
J糸﹂の昨及にハいての一考察(石町)
(日 )
この史料は摂政藤原本
一 一 肘郎で行なわれた﹁臨時客﹂の時の記事
であるが︑文中﹁地下五位﹂が持つ﹁瓶子﹂の小
書きに
﹁瓶
子
佐川
町山
U﹂とある︒胤子は洞を入れて注ぐ逆凱型の器であるが︑
﹁川沿抗(ひさげ)﹂とは何を意味するのだろうか︒﹁提﹂は鉱がついていて手でさげるようになった注ぎ口の有る鍋に似たやや小形
( 臼 ) ( 口 ) ト ウ テ
イテゾ
の金
属製
の器
であ
る︒
﹃茶
円六
川門
札バ
﹄に
﹁渇提点﹂と云う中に渇を
入れて運ぶいわゆる薬缶のような種類の物の凶がある︒文中の
﹁ぷ蛇﹂がすなわち是と同じ物とは云い難いが︑本来茶用に使用
していたこのような犯を﹁刑入﹂に転用した物であろうか︒よも
や茶色の提の意味ではないと思う︒なお﹁茶提﹂は﹃王葉﹄中に
はこの一点しか見出せなかった︒
︿史料3V﹃玉葉﹄(同刊行会本第一﹀四五五ページ
(承安五年﹀︹一一七五年︺七月
四日︑時陰晴不定︑ー略│御賀事︑去四月比奉下可‑一奉行一之
仰レ先ν是︑中古大夫隆季︑上卿
一周 左中 排長 方等 承
v仰云々︑今
度偏
被ド
用‑
扇和
例
‑云々︑但御調度之中︑御厨子事︑柳有ニ其沙
汰↓││略!又附刻具︑任一一康和例一可レ被v調ν
之
︑ 持 無 而 彼
度物具等︑被v求一鳥羽御倉一之慮︑己以紛失︑の今度開ニ仁和寺
岡 竺 取 コ出其具全可ゐ一一本様一云々︑晴如来月︑八日︑可ド
被ν始
ニ 行 事所 一一 日可 レ被
ν始 ニ柴 所一 云々
︑其後退
出了
︑
右はこの年の翌年︑安元二年︹一一七六︺一二月四日に﹁此日︑
公家 被レ 本ド 賀ニ 太上法阜︑五十賓算ことあり︑後白河法阜の五十
JL
法政史学
第一
一一
十四
号
賀を祝う儀式の為の記録だと云う事がわかる︒これによれば︑今(喝)回の準備は白川上皇の五十賀﹁康和例﹂に倣って行なうとしてい
る︒同じく﹁煎茶具﹂も康和の例に準ぜよとあるが︑康和例の際
に用いられた﹁鳥羽院﹂の御倉には﹁煎茶具﹂はすでになく︑や
むなく﹁仁和寺の園堂﹂からその具を取出したとある︒この煎茶
具が﹁御賀﹂の式に於てどのような使われ方をしたかは︑康和の
式にも今回の賀の記事にも﹁煎茶具﹂についての記載がないので
定かではないが︑少なくとも康和四年︹一一
O
二︺の時点には煎茶具が使用されていて鳥羽院にも同じく煎茶具があった事がうか
がわれる︒そしてこの時期特殊な例であるけれども﹁煎茶﹂なる
語が既に使用されていた事がわかる︒
︿史料4V﹃王葉﹄(同刊行会本第二)
(治承二年)︹一一七八年︺十月
廿九日│略l
此日
右中
将良
通信
州ニ
春日
祭使
一発
向︑
以ニ
九候
亭一
局ニ
出立所プ│略ーー立一二一大空主民一一酒部町其内北間晴子
火蓋
一脚
↓村
山北
其北
立二
酒樽
ぺ市
中ド
城南
間立
二一
階案
一脚
↓判
1上
附立刻蜘︑柏駅到司︑副割削引ゴ川一下階置二酒蓋︑諸︑精
折敷
等一
一九五ページ
この史料は十一月上の申ノ日に行なわれる春日祭の使者が南都
へ出向する際に行なわれた出立所の儀式のもので︑﹁酒部所﹂の
項目に﹁茶碗︑瓶子二円︑青究瓶子二日﹂とある︒この場合の茶
碗を考えるに﹁青山究瓶子二川﹂に対して﹁茶椀﹂と﹁瓶子二日﹂
。
が対比して書かれている︒思うに︑是は﹁茶椀﹂と﹁瓶子二日﹂
とに別けて記載されているけれども︑聞の﹁︑﹂をとって﹁茶椀
瓶子二日﹂とした方がいいのではないか︒つまり﹁青琵の瓶子二
口﹂と﹁茶碗の瓶子二日﹂という意味だろう︒そうするとこの茶
椀は﹁茶﹂を飲む器を意味するのではなく︑﹁瀬戸物﹂が焼物を
意味するごとく﹁焼物の瓶子﹂の意味になる︒﹁茶碗鉢﹂(焼物
の鉢)とか﹁茶椀寵﹂(焼物の査)と同じに解釈出来ようか︒
八史料
5 V
﹃五葉﹄(同刊行会本第一一)五二八ページ
(治承五年)︹一一八一年︺七月
十五日│略l頃年以来︑炎早渉v旬︑機僅累ν日︑加之︑両寺之
造昔︑兵組之苛責︑偏費一つ人力一無レ息ユ民肩一高人抱ニ楚痛之
茶カ悲て大一合ユ茶苫之怨↓然而︑一向筒大昔︑
折中
之法
↓被
ヒレ
施‑
一点
レ下
之仁
一敗
︑ー
略│
一而
難レ
略︑
須下
定ニ
この記事は︑﹃百錬抄﹄第九・養和元年︹一一八二六月十五
日条に︑﹁造興福寺定︒
O
廿六日︒造東大寺定︒: : : O
近日︒天
下飢鱒︒餓死者不レ知一一其数ベ﹂(国史大系本)︒とある事柄と関連
した記事であると思われる︒ここに兼実は︑万感の怨みを﹁茶
背﹂に託している︒﹁茶目﹂はいわゆる慣用語かもしれないが︑
一応言語の上からも﹁茶が苦い﹂ものである事は認識していた事
であ
ろう
︒
︿史料6
﹀﹃
明月
記﹄
(同刊行会本第一)六六ページ
(建久九年)︹一一九八年︺
二月十四日︒上皇卒八幡也︑!略l先是使膜下部十人着色々結
染水
r
茶染小袴胆巾等二行行列︑是太理供奉之問所被召具敗︑│略l
これは後わ羽上皇に供奉する﹁検非違使庁﹂の下級官人の服装
の史料である︒彼らは﹁色々結染水干﹂と﹁茶染の小袴﹂を穿い
ている︒この﹁茶染﹂という染色方法は当時かなりされていた(口)ょうで﹃山械記﹄に﹁右衛門権佐光長茶染一斤染立烏帽子﹂﹁検
‑ ( M m ) (
川 口 )
非違使仲頼むとある︒伊藤論文も茶染にふれて﹃山科家暗記﹄
の文明二年八月廿九日の条から﹁茶染法﹂を引用している︒確か
にこの場合の茶染は﹁ひきちゃ﹂を使用して染色しているが︑鎌
倉初期の染色方法が文明のそれと同種の方法であるかどうか︒し
かし﹁茶﹂という色についての認識は既に生まれていて︑この色
が下級官人に専ら使用されたという背景から武家にも当初から使
われている︒しかし︑決して上級公家達が好んで使用しうる色で
はなかったようである︒このあたりにも当時の﹁茶﹂の体質がう
かがえ︑公家よりも将来﹁武家と茶﹂が結びつく一つの発端にな
ったとも考えられる︒
この他﹃明月記﹄には二筒所茶に関する記事があるが︑いずれも
( 初 ) ( 幻 )
茶 境 物 茶 碗 枕 脇 足
先に挙げた﹁茶碗瓶子﹂と同様な使われ方をしている史料である︒
i↓
' r卜
1 r︑引茶について
ここで茶がどのような味で︑いかなる形で飲まれたかを調べる
鎌倉時代初期﹁茶﹂の普及についての一考察(石田﹀ 為に﹃一主葉﹄に有る﹁引茶﹂について検討してみたい︒︿史料
7 V
﹃玉葉﹄(同刊行会本第三)三四五ページ
(文治三年)︹一一八七年︺三月
廿三日︑記夫情︑及ν晩雨下︑亥刻︑厳人排親経来申云︑今日︑
引茶役︑隆信朝臣領状︑而子レ︿7不参︑在ニ経房卿和歌曾之所一
云々︑度々遣レ人︑其使未レ師︑潟レ之如何︑仰云︑猶円十可レ事‑
御教書一雄レ及
J一
時一
天↓
必可
ν被レ行也︑但途不参者︑明日可レ被ν行︑第三日引茶︑依レ有レ例也1小書略│者︑親経遣ニ御教書於
隆信之許↓朗自師コ参内裏一了︑無レ程以レ書申云︑只今隆信朝臣参
入︑
盆斗
行引
茶
a了云々l
︑中略
l︑親雅来申ニ季御讃経引物之問
事一山田寺悌事︑仁和寺官返事︑長退︹注︺送︑光長所レ進也︑
可レ
下一
守家
一之
由仰
了︒
この史料は﹁季御読経﹂に関する記事である︒季御読経は﹁春
秋二季︑請二百借於南殿一讃ニ大般若経↓其内定↓一御前借廿口↓於a一御殿一請二仁王経一納言参議各一人︑着ニ南殿一行事︑自齢皆候ニ御
(m μ)
殿一貞観御時毎季行レ之元慶天皇践俳之後︑二季修ν之︑﹂するも
ので︿史料
7
V中の﹁引茶﹂はこの季御読経の際第二日目に僧衆
に賜わった茶であるとされている︒さらに﹃玉葉﹄に於けるー季
(幻 )
御読経の﹁引茶﹂の記事はもう一件ある︒建久二年二月廿六日に
﹁今日依二信徒平出↓引茶延引明日可レ引︑云々︑有ν例
之故
也︑
﹂
とあって次の廿七日に﹁今日有ユ引茶一又御論義也︑範玄法印勤
番云々﹂︑そして廿八日に﹁此日︑季御読経結願也﹂とある︒こ
の季御読経そのものと引茶についての考察は先学の研究にくわ
法 政 史 学 第 三 十 問 ザ
(M
)
しい
︒小論がこの﹁引ぷ﹂に注目したいのは︑本来の目的である
﹁鎌倉初期﹂における茶の状態についてである︒まず必ず引用さ
れる史料にコ四官記﹄がある︒
︿史料
8 V
﹃同日記巻五﹄(此貨叢書﹃西宮記﹄第一)一九九べlシ
乎御 議経 事│ 川町
l
波‑ V
行事︑六位減人︑非誠人︑毎夜二人篤堂童子︑刀U内蹴寮
生室︑折樹︑土器九百日︑刀日典柴厚朴矯引茶料│略l
次に﹁引茶﹂に関して詳しい史料︑がある︒
︿史料
9 V
﹃ 同
. M 卿記﹄(山内閣文庫本)
寛治元年︹一
O
八七年︺七月二十 三日
︑
壬申︑今日被行引茶︑其儀右少時間制賞朝刊奉仕泌
水︒ー小書
川 町
l信網座校長押上灘之l小書附1
陪膳
前川
地中
山
一リ 時
範︑次土器蹴入品一切下川加︑居折洲刻酬刈刺輔︑例制刻リ州刺刈
w m
閥京︑以上盛土瓶︑次第参入︑絶之春季入︑秋被行之時︑れ地無
引U公事︑依民代初︑被行之︑
まず︿史料uoVでは茶の外に内政寮から﹁生昌一﹂と典来安から
﹁厚朴﹂が咋僻されている︒︿史料
9
Vでは︑別に﹁甘お(あま
ずらとが用意されている
︒﹃ 西宮 記
﹄に於けるこの場合の
一 一
一
つつ
の品物の解釈を︑先学は一様に﹁茶の中に好みに応じて厚朴や生
醤一︑什誌を入れた﹂とされている︒小論は三つつの品物を同一悦 せず﹁厚朴と生前﹂は﹁廿誌﹂とは全く種類も用途も異った物と
して与えてみたいと思う︒何故ならば
︿小
︑料
川﹀
﹃和
名川 期限 配紗
﹄( 風間 書 一
肘刊本)十二巻十丁
煎締
ポ抗
勺盤
切韻
一広 前
⁝ ︒
│小書略│支持栄汁令州也︑諸家方云拘紀
刷︑ 川口 煩煎
︑蘇 官煎
︑生 直前
⁝︑ 地品 (煎
︑ー 略
!
厚朴 煎︑
すなわち︒﹁生草と厚朴﹂を﹃和名初︑緊紗﹄では﹁煎薬﹂とし
︑( お
Jて把握している︒特に﹁厚朴﹂という物は苦くて辛く︑﹁厚朴丸﹂
今︿ら
{ 訂 )
(叩山﹂は﹁下利を治﹂し︑﹁厚朴渇﹂は﹁居住乱を治す﹂とあって︑あき
らかに﹁薬用﹂として目されている︒従ってにがい﹁茶﹂の中に
苦辛なる味の﹁序朴﹂を投入する事は全く可能性がとぽしく︑
可西官記﹄の解釈は︑︿史料
8
Vの
﹁為
引茶
料﹂
の一
不す
ごと
く︑
﹁厚朴をもって茶にかえる﹂という意味でないかと思われる︒た
だ何故川公を使用しないかの疑問が残るが﹃西宮記﹄の若わされた
時期
︑︹
川似
し
H川明詩(九一四!九八二)︺に茶が入手できなかった
のでなかろうかと思われる│茶の入手出来なくなった理由は後述
│︒︿小︑料9﹀は﹃四官記﹄の百年後に茶が飲まれたと見られる
山人料である︒式次第も明記されていて大変興味深いが︑ここでは
式の進行そのものはH的でないので︑﹁什持煎﹂と茶の関係につ
いて検討してみたい︒まず﹁
H
山則
︑﹂
とは
︑
︿小
︑料 日﹀ 吋和 名烈 来抄
﹄( 風間 市一 日. 日本 )十 六巻 十七 丁 千 以 慎 汁 本 草
一五
︑千 九版 部汁
︑味 什味 廿一 半︑ 無説
︑! 中川 町│ 鮎
4じtノψ1︑Ht
・ドU叶υ
ド ︑
11 li
‑‑ 'il‑‑!:1
似杭
一五
︑
ω
今之場一一
興藤
汁是
也
︑一
叫川
︑札
引一
切 ふ
れ叫
U 1
すなわち﹁け必﹂は先の﹁厚朴(苦辛の味)﹂とちがって
味無高﹂なものとされている︒﹃飲食事典﹄には﹁日本山代のけ
味料﹂として倣っている︒こうしてみると﹁廿お﹂こそが安に叫
じて茶の中に入れられた物であろう︒︿史料
9
V文中に﹁次糸状
人制輔︑次け幻煎誠人解閥宗﹂とあることからもうかがえる︒
以上︿肉料
7
以降平安時代末期に於ける﹁引茶﹂について論V
じてきたが︑まず︿史料
8
厚Vから季御読経に於ける茶は﹁
朴 ﹂
と同じように僧衆に飲ませる﹁煎薬﹂として解釈出来る︑︿史料
9
Vか
らは
︑
当時の茶は﹁甘烏﹂を入れた方がよほど飲みやす
い︑いささか﹁古い﹂飲み物であった事がわかる︒ただし﹁苦い﹂
から﹁粗.ゆとな物であったとはいえないが︑晴好される利﹁上
質﹂ではなかったと思われる︒このように茶は特殊な﹁年中行
事﹂の中で少尉ではあるけれども︑この時期に飲まれていた事は
事実であろう︒
(山)
と め ま 以 上 司
u h会 民
﹄︑71卜.H広﹄そして﹃明月記﹄を利用して︑当時の
文化の一両を判当していた附級が︑どの程度の﹁茶﹂に対して必
品を村っているかを見て来た︒使用した史料は属大な記録の中に
ある雰畑な数点の記事に過ぎないから︑これらの事から全体をけパ
現する事は危険である︒しかし﹃平安遺文﹄に散見する茶の記事
(ほとんどが道具としての同有名詞)をも併せ考えるならば︑当
鎌倉時代初期日余
﹂の
汗及についての一考察(石川)
11
時の上糾公家や的侶達は茶なる物が存在している事は知っていた
(パ家は知らなかったようである﹀ことは昨かである︒ただし目
前的に飲まれる飲料物としては用いられていなかった︒それは
﹁的
余u
とそのもの
1儀式用としても!が持及していなかった事
からもうかがわれる︒
していた道具号 一 息ーとしては平安初期に定着
の悩川紹たとえば﹁茶挺﹂﹁茶ーとなどがそのまま残って使われ
ている状態であったのではなかろうか︒又八史料6﹀の項でとり
あげた﹁茶染﹂が茶の葉を用いて染色されたとすると︑﹁茶の柴﹂
(mU) そのものは当時作在したと思われるがその存在は
﹁飲
用﹂
の
為よ
りも主用染料そして季御読経のような特殊な儀式にのみ使用され
る引度であったのであろう︒その場合の茶の飲用方法としては︑
その飲み方からして﹁煎ズル﹂方法│この場合の煎ズルは︑煎薬
のように︑乾燥させた茶を煮沸して煎じ出す方法ではなかったか
!と思われ茶を加工する技術方法はしばらく﹁宋﹂よりの伝来を
川つよりほかなかったのではないかと思われる︒
以上が本項の結論であるが︑鎌倉初期に茶が衰退
して
いた
か︑
パ及していたかの川論については︑小論は全体的に言えば前者の
な場をとる︒しかしながら考ねばならぬのは︑平安初期には確か
に﹁喫茶の萌芽﹂は見られるけれども︑喫茶のできる範聞は概く
以られた附級のみであった︒その上﹁茶﹂が平安期の初に格別大
凶にあったわけではなくしかも︑茶そのものの存在は平安末まで
少泣ながら説いたと思われるので数量的にみても﹁衰退﹂したと
は
一パいきれない︒又
﹁喫茶﹂に対する意欲にしても︑平安期の人
々が意ぷ的に込いたのではなく︑単に遣唐使廃止によって薬物な
法 政 史 学 第三十四号
いし飲料としての﹁茶﹂の物理的供給の中断│後述ーを余儀なく
されたからであろう︒斯く考えると平安期初の茶は最初から発民
する状態になかったとJ
一一
一口
った
方が
むし
ろ良
いの
では
ない
だろ
う
カ
二︑宋代に於ける茶の普及情況
前節に於て平安本期から鎌倉時代初期にかけての日本国内の茶
の普及状態を凋ベた︒本節では日米貿易が盛んになりだした時期
に︑宋国では茶がどのように飲まれ普及していたかを見てみよう
と思
う︒
中国に於いて喫茶の歴山んが始まったのは︑日本とは比較になら
ないほどいい紀元前に迄糊る︒つまり萄(四川省)の文人王褒が
書いた﹁憧約﹂と題する文章の中に﹁茶を烹る﹂とか﹁茶を買
ふ﹂という一請が見えるのを初見にするのである︒是は漢の山良市の
(初 )
神爵三年つまり凶暦紀元前五十九年になる︒それ以来喫茶の風も
( 引
U拡がり︑出向中期に至って陀羽が現われ﹃茶経﹄を著わした︒この
﹃茶粍﹄が茶に関する製法︑飲み方を著した歴史上最初の書物で
あり︑それ以来著わされた茶書はほとんどがこの﹃茶経﹄を原拠
にしている引であった︒
しかし年を経るに従って製茶の方法や飲用方法にも色々と改良
が加えられ︑新しい書物が必要となった事であろう︒そこで唐代
の﹃茶経﹄に山敵するものとして︑宋代には蒸裏によって﹃茶
V]
録﹄が著わされた︒楽裏は北宋の仁宗・英宗期の名臣で大学者と
(詑 )
しでもすぐれた人物であったとされている︒彼の生地は福建省仙
遊牒であったがそこは茶の優品を出して有名となった地であり︑
中でも建安・凪寧の二県は﹁北苑の茶﹂と称する当時に於ける最
(M
岬 )
高の名品を産出する土地であった︒この土地に彼は﹁転運使﹂と
して派遣されたが﹃ぷ結﹄の﹁序﹂に
八史料口﹀
I L=,]
シ 茶 緑
色コ
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淡
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社
﹁茶道古典全集﹂第一巻)二
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七べ
以前
凶一
一実
事↓
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下論
↓目
先任
‑一
幅建
時運
使↓
日所
ν進上品
龍茶︒最局ニ精好↓日退念草木之徴︒荷戸時ニ陛下知襲↓若慮レ之
得ド地︒則査二其村↓昔陣羽茶経︒不レ第二建安之口問↓丁謂茶園︒
濁論
﹂一
採造
之本
↓至
ニ於
烹試
↓曾
未
ν有レ問︒日職候ニ敷事↓筒而
いグ
明︒
助成
一二
一篇
↓名
日二
茶妹
↓
これによると茶裂は︑陀羽の﹃茶粍﹄に連安(建‑凪の事又建
テ イ イ ( お )
川)の茶が載せられていない事又丁謂の﹃茶凶﹄に茶の飲用法を
書いていない事から自ら欠を補う為にこの﹃茶録﹄を書いたとし
ている︒簡明に宋時代の﹁茶﹂の情況を示している書であるの
で︒当時の茶がどんなものであるか少し内容を見てみたい︒
︿史料日V﹃茶録﹄﹁上篇論茶﹂(同前)
色
茶色
貴レ
白︒
餅茶
多以
二珍
青一
泊二
去戸
其而
↓故
有ニ
古川
民紫
黒之
異刊
善別レ茶者︒正如三相工之豚ニ人気色一也︒隠然察一一之於内↓以ニ肉
理潤者一見ν上︒既己卜本レ之︒白白者受レ水昏J百
一一
︒青
白者
受レ
水鮮
明︒故連安人閥抗︒以ニ舟山一時ニ民白↓
J白
茶有
二員
吾プ
向入
・只
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微以
﹂・
龍脳
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︒欲
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︒山
内不
レ入
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︒恐
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三社
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二珍
民
各市
↓北
ハ奪
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問︒
正賞
不レ
用︒
味
茶味主ユ於け滑↓惟北苑鳳間山︒連属諸松川所レ産者味佳︒隔操諸
山︒雄三及レ時加レ意製作↓色味川行革︒英ν能レ及也︒又有ユ水
不F M
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︒能損
ユ茶
味寸
前什
一之
論一
水口
叩
A者以ν 此 ︒
右の﹁色・吾・味﹂は﹃茶録﹄の一項目めから順番に技んでい
るが﹁後昨﹂に﹃茶録﹄を献上した理由が書かれている︒すなわ
ち祭哀が献上した本は﹁茶試﹂i
茶の良し悪しを飲みくらべた
り︑産地をあてたりする一種の賭iの為に﹁茶を見わける為の術
を論ず﹂る本であった︒彼がここに訴えんとした所は︑茶を比べ
る第一義は色であり香であり味であるという事である︒これを別
な方から見ると茶試が催せるほど宋代には﹁色・香・味﹂共にす
ぐれた多くの﹁茶の名品﹂が存地で生産されていた事を示してい
次に︑宋代にはどのような﹁茶﹂の種類があったのか︒ る ︒
鎌 合 時 代 初 期
﹁ 茶
﹂ の 汗 及 に つ い て の 一 考 察 ( 石 問 )
八史料U﹀﹃宋史食貨芯﹄第一百三十六
下 五 元 脱 脱 等 撰 中 華 書 局 刊
茶有二類︒日片茶︑日散茶︒片茶蒸造︑賞捲模中串之︑唯桂︑
剣則既蒸而研︑一制竹瓜格︑置山住民土中︑最矯精潔︑他慮不能遣︒
有能︑鳳︑行乳︑白乳之類十二等︑以充歳瓦及邦園之用︒其出
度哀飢池光敏揮岳辰問州︑江陵府︑興園臨江軍︑有仙芝︑玉沖︑
先春︑総芽之類二十六等︑刷所及宜︑江︑鼎州又以上中下或第
一至第五局幹︒散茶出堆南︑師川︑江市︑刑湖︑有龍浜︑雨
前︑雨前︑雨後之類十一等︑江︑断又有以上中下或第一至第五
β神者︒巾貝臓茶斤白二十銭至一百九十銭有十六等︑片茶大片自
六十五銭至二百五銭有五十五等︑散茶斤自十六銭至三十八鋒五
分有五十九等︑持臓茶斤白四十七鋒至四百二十銭有十二等︑バ
茶白十七銭至九百一十七銭有六十五等︑散茶白十五銭至一百二
十一銭有一百九等︒
(幻 )
末代の政治史の一等史料である﹃宋史﹄の食貨志﹁茶の条﹂
には﹁片茶﹂と﹁散茶﹂の二種類の茶が有ると云う︒もちろん
これは経済上の分類方法であるが︑一体この片茶・散茶とはど
ういう物であり︑なぜこのように分けられたのか︒
(活 )
︿小
︑料
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合一
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二十
九
茶 枕詞
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川
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H問ぷ・上中ド続︒山川川 ︒
上中
下批
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山川
︒ 第二
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下地肌︒州
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│ り
il臼
﹃宋小︑﹄怯に﹃宋針要﹄によると片茶に属する﹁龍鳳
・的 乳・
( 川 引 )
'H
乳:
;: 等﹂ の十 二
矧は︑﹃立和北苑瓦茶録﹄によれば︑いわゆ
る蒸して川める川茶の種凱だという︒一般に丸形に固めたものを
川茶という
のだが︑方形や花形に回めた形の物を﹁新
的﹂又は
引﹂
﹁ ハ
茶﹂
と云うのである︒又一方の﹁散茶﹂は︑︿史料日Vに
﹁一名茶・川本・仁川令﹂と出ている事から﹁業茶﹂又は﹁粉治﹂の
事だと机定できる︒すなわち︑片茶は固形で散茶は同形以外の誌
と解釈山米るυこの二区分の他に︿史料
U
Vのにように山米から あった﹁焔
出茶
﹂
l来した業をすりつぶし︑これに脳子その他の
斤及び仙一行を出じて削子状としたもので︑次小を煮ると蝋を溶かし
(叫
)たようにドロドロになるのでこの名が付いたを加えて一一一
つつ
が
米代では経済的な分似の対象となり︑それぞれに等級がつけられ
てい
た︒
一体川の為にこのように区分されていたのだろうか︒
〈 料 lh
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貨
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諜
付6
(﹁東作文州﹂和田消制)
七
ー泊に準まば︑執れか能く之を禦一めんや︒然れども宋の附いを終
うるまで︑闘を享くること長からずと九さず︒其の租税・征権
の凱拠・節Hは︑知的・疏桁︑以って大いに前社に異る無きは
何
ぞや
︒
ー略1
これは﹃宋史﹄(兆二百七十二︑食賃上一の作)に出てくる記
J別である︒宋代は府代とは述って︑トり制的官僚政治・官僚主義(
q)
的中央集杭制を一段と発以させた時代であった︒この国の経済
ゼ・
もかくを支えたのが史料に出てくる利税と征雄である︒征惟とは︑恥‑
Vボ・川等の専売を一一一口い尚税徴収をも合む︒宋代は征権の収入が激
﹁
川 竹 } ( 日 刊 )
川し︑川税収入と放んで︑国家の川政収入の大京をなした︒この
がい怖の内の﹁茶﹂に関する法作が﹁椛茶法﹂である︒これについ(州﹀ては川上光一氏の﹁宋初の茶業・茶法﹂に委しいのでここではと
りあげないυ円
山木
小︑
﹄に
︑
︿山人料打﹀可宋小︑﹄を一八三食貨芯茶上
茶ん木作茶之制︑持要曾之地︑日記陵府︑日員州︑日海州︑
s(円引﹀川悦防車︑け無鰐一車︑日斬州之斬口︑潟棺貨務六1
川 町
i
とあって作茶の制を︑維持遂行するために︑要曾の地を挫んで
六ケ所の﹁怖貨務(九地の買茶場から送られて来る茶を集める場
へ同刊)所)﹂が置かれていた事を知った︒
ではどのくらいの量の﹁茶﹂が生産されていたのだろうか︒白
山本時代の主要茶南地である︑両断路・江南東丙路・福往路を中心
に見てみようQ
( 刊 日 )
︿川料凶﹀﹃宋曾要﹄介ハ貨二十九丘茶額
じ此
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ω戸部左円︒日ハ利州ハ三十二年(注・一一六二年)治州路
市料
︒一 川産 不問 修入
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一剛
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川和 興府
︒台 市・ 山口
・除 挑・ 上虞
・霜 山・ 新日
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千六百斤︒
明 川川
c慈渓・定海・後山・日闘・字化・郵五十一高四百三十五斤︒
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一J海・天ム日・仙居・黄巌一高九千二百五十八斤一十一州 七銭
︒ 川川 川︒
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正山 む龍 遊・ 品川 山・ 開化 九千 五百 斤︒ 要州
︒金 山形
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・武 義・ 義烏 六高 ゴ一 千一 百七
十四斤九肘二銭︒
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川市東路︒
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法 政 史 学
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この五路に於ける﹁茶生産量﹂の膨大さはどうであろうか︒そ
の上
﹁ 生
産地﹂は︑五路だけで百五十二県にのぼり︑その他の路
(刑湖南路・刑湖北路・准市西路・贋南東路・虞南西路)の産地
を合計すると︑実に二九六県で生産量は二三三九万六二七八斤に(関)なる︒これらの茶を﹁専売﹂するのであるから︑宋の財政の大京 二八
となったのもうなずける︒そしてこれら生産された茶が︑それぞ
れの種類・等級に区別され一例としては︿史料日Vにあるように
﹁蝋茶は一斤につき二十銭から百九十銭(十六等に分ける)で買
上げ︑四十七銭から四百二十銭︿十二等に分け)で売られる︒片
茶は︑大片を六十五銭から二百五銭(五十五等に分け)で買上︑げ
十七銭から九百十七銭(六十五等に分け)で売られ︑散茶は一斤
につき十六銭から三十八銭五分(五十九等に分け)で貿上げ十五
銭から百二十一銭(百九等に分け﹀で売られている︒﹂右の中で
特に気がつくのは︑片茶と他の茶の差額が非常に大きい事であ
る︒その理由は﹁充蔵
一 日
及邦園之用﹂為で悉く官に買上げられた(日﹀為であろう︒
さて︑今迄宋に於ける茶を見て来た︒日本では平安時代から鎌
倉時代の幕を開けようという時期に︑彼の地では統制のとれた
﹁茶
の流
通販売機構﹂が整備され︑大最の片(団)茶・踊茶︒業
茶・末茶が生産されていた︒目安治茶の文化史上では団茶は﹁唐
(四品﹀風﹂︑末茶は﹁宋風﹂と区分して来たが︑宋では実に多種多様な
茶が生産されていて︑このような区分は全く当らないのである︒
三︑入宋の僧と茶の関わり
大内では山本代になってから唐時代に衰退していった海外貿易が
ようやく活発になり︑宋政府の産業振興政策と相侠って日本への
減航が相継ぐようになった︒日本は平安期に遺唐使を廃止して以
米大宰府が貿弘管理事務所となり細々ながらも輸出入を続けてい
た状態であったが︑︐い川
引の時期に荘閏の熟成期を迎えると︑‑ K
強大な力を持った公家
達を背尽
にした商人達︑が受動的な貿易から
能動的貿易に変換しようとし始めた︒すなわちそれ迄は﹁高一麗﹂
へ船を進める科度であったが︑南宋の十二世紀中期を過ぎる頃か
ら︑山木商船から造船︑航海妓術を身につけた日本商船が宋へ姿を
「日宋僧侶交通年表」
日年
備 考 代 i 数
号
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1051‑1060
現わすようになった︒この時期日本は日宋貿易に着目
していた消
磁の時代でもあり︑鎌倉幕府もまたその初期においては民間白山 貿 易 を 認 め る 政 策 を と っ た の で 日 宋 貿 易 は 躍 進 的 な 発
ω肢を遂げ
た︒この様な時代相を背景にして日本商船は鎌倉時代にいたり︑
続々と波宋していたこ
とが推測される︒
(1167)太 政 大 臣 清
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件 盛(1168)栄西入宋す
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1071‑1080 : :永阿、4;元 豊 3 i /.,I'‑'l‑‑l ‑..̲ i
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﹁ 茶
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] 191 ‑12()() ! ~H 久 2
i iE治2
こうした行幼船に似点してUlψ︑仁川から鎌倉時代にかけて多く
の併侶が宋に政ったが︑その山航制度は﹁北宋﹂と﹁南宋﹂とに
区州出来る︒﹁夫lごを見ても解かるように︑宋の都が﹁開封﹂
にあった北宋時代には︑京都に赴いた日本人はわずかに五台山
・天台山巡礼を
した
︑
宵然・
威川
⁝
・成斗・戒覚らのいわゆる入京
5 "
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1271‑1280 1281‑1290
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1111
(13:1:i ) 17" :鎌倉幕府滅亡 l:i11‑1320
巡礼的に過ぎなかった︒ところが宋政府が市波(一一二七年)し
て市宋となり都が﹁臨安(断江省杭州)﹂に移ると日本の商船が
入港する明州の港と近くなったため︑日本人の宋都に赴くものが
多くなった︒特に南宋の宗教界においては禅宗が全盛期を迎えて
いた時別であった為︑鎌倉時代に入って入宋した今日知られてい
( 凶 )
る八十余人の附引のうち大部分が神的であったほどである︒
さてこれらの的達は﹁宋﹂に入問
して
茶とどのような関り方を
したのであろ
うか︒それをうかがえる史料
として︑時代はいさ
さか洲るが妊久四年ハ一
O
七二 い
には米した﹁成司﹂の入米日記
﹃参天台五介山記hがある︒
この﹃
参 字 大 介五 ム川 山記
Lは︑京都行倉の大雲守別当であった成
弓州問梨が弟子僧七人(叩£・長命・刺縁・快れ・惟制・心賢・
普久)を辿れて延久四年四月十三日
に入 宋し
︑
覗年延久五年六月
十二日に五人の弟子達(相紘以下持久まで)に粍巻等を持たせて
侃固させる迄の一年有余の‑芯録である︒
この記録の中に頻繁に﹁市﹂の記事が山て来るが就中最も多く
日を引くのが﹁黙京﹂についての記以である︒
住持老僧黙茶︑(征久四年五月十九日焼)
於
4一 闘
清牌
院一
黙茶
︑
(両月廿日係)
大山
ザ貼
ニ 茶
柴ぺ(川日保)
謁
‑ 一一子鴻長
ι
有一恥
柏市
一(同
月廿九日保)
院主可明年六十︑同
来附
my
ボ(
同年六月十日保)
次入 一一 如日 文章 一川
‑鮎 茶︒ (阿 日保 )
切々相印貼ユ茶菓子H
脚本
州一
(同日係)
数日から泊汗に引川してもこれだけ有る︒一体これは何を志味
するのか︒考うるに成司は日本同内では﹁川公﹂に触れる機会はあ
まりなかった︒しかし入京して以来︑新しく人と会う度仰に必ずその人によってその場で﹁茶が
鮎 ﹂
てられた︒成尋にとって宋で誰に
会っ
たのかという山川は非常に市要であり︑しかもその相手
鎌 倉 時 代 初 期
ー/...~ ‑
,
、
のV岬川MAについての一考察
m )
( 石から﹁茶を貰一﹂得たことは対耐における事の成引の解答に価す
る︒それに対する驚きと感謝の表れではないだろうか︒記録に残
されたのも当然である︒事実﹁
准々
︑貼茶
﹂なる記事は五人の弟
子的を送る院前の﹁妊久五年六月四日﹂迄続いている︒又︑後川
日本国内にも興る﹁茶で人をもて成す﹂という伝統は︑すでに北
宋のこの時期すでに日常化されていた︒なお︑成
14
の飲んだ茶
は︑記事中に﹁鮎茶﹂﹁恭弘﹂と両方出ている事から︑﹁八
十 公
﹂
も
﹁倣
ぷ
﹂も飲んだと思われる︒ただ﹁日本の高僧﹂という成坊
の作過からすると︑﹁散茶﹂よりも高級品である﹁片茶﹂の方が
多かったようである︒このようにして成尋以下八名の日本僧達は
その滞在中に多く茶に触れていた︒
鎌倉期に入ってから﹁表llごの如く︑多くの僧達が入宋する
よう
にな っ
た︒彼らも何らかの形で茶に触れたと思われるがその
一つに作今入宋巡礼の僧達が必ず訪れる
山の天台山がある
︒ そ
(貯
)の山麓に
一つ
の
様布があり白然
いの大きな﹁石橋﹂がかかって. h
る︒怖の向いは羅漢泣が建てられておりこの一州市がいわゆる五百
続出の仙協とされた︒僧達はこの沌を杯し︑五百緑川に﹁茶を供
え﹂供持したといわれている︒
︿史料
凶﹀﹃参天
台五 ム日 山記
﹄(延久四年五月十九日条)
反位
孝 一 一 行 橋 一
以レ
茶供
三‑
長羅
漢 一
五百十六杯︑以‑一鈴杵民言一伏
先︑知事官驚来告レ余︑八
十史
連前
十文
五百
鈴
朴有ニ花文↓知事僧合
学制灯︑小僧泡知ニ経悦出現受↓現受
‑ 一 大川茶供一現
出 血
瑞也青︑
山山 レ如
‑ 一 知事告一随芹之
一成 典ニ 合唯 一二 供下
︑