出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 50
ページ 212‑226
発行年 1998‑03‑24
URL http://hdl.handle.net/10114/10580
安岡昭男先生は、法政大学高等師範部歴史地理科・文学部史学科・大学院日本史学専攻修士・博士課程を経て昭和一一一三年四月、文学部の研究助手となり、昭和三八年四月、専任講師に就任されました。昭和四三年四月に助教授となり、四六年四月に教授に昇任されると共に、大学院の演習・講義も併せて担当され、昭和五二年四月からは沖縄文化研究所兼担所員となられ、その後二回通算五年間、同研究所の所長としての重責をはたされました。また、この間、大学院日本史学専攻・文学部史学科の主任教授としても活躍され、平成七年六月から一年間、法政大学史学会の会長もなされ、史学科の発展のために大きな足跡を残されました。しかし、本年一一一月三一日をもって定年退任されることになりました。助手時代もふくめますと在任期間は三八年におよびます。先生は、なお、お元気で研究を進めてまいられ、大学院にも、名誉教授として引き続き御出講いただくことになっております。 法政史学第五十号
安岡昭男先生を送る
次に先生の御経歴・御業績を紹介すると共に、お人柄の一端を紹介し、これまでの学恩に感謝の意を表わしたいと思います。
安岡教授の略歴と主要業績・活動一九二七年九月一二日兵庫県神戸市に生まれる【学歴】一九四○年四月私立独逸学協会中学校入学(卒業)一九四五年四月東京工業専門学校機械科第二入学(中退)(旧東京高等工芸学校・現千葉大学工学部)一九四八年四月法政大学高等師範部歴史地理科入学一九四九年四月法政大学二部文学部史学科入学(卒業)一九五三年四月法政大学大学院人文科学研究科日本史学専攻修士課程入学(修了)’九五七年四月同博士課程(単位取得修了)’九六六年五月東京大学文学部内地留学員(~六七・三私学
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研修福祉会)’九七一年三月文学博士(法政大学)【職歴】’九五三年四月私立川村高等学校教諭一九五六年四月私立川村短期大学専任講師一九五八年四月法政大学文学部研究助手(~六一・三)’九六二年四月川村短期大学助教授一九六二年六月法政大学文学部兼任講師一九六三年四月法政大学文学部専任講師一九六八年四月法政大学文学部助教授一九七一年四月法政大学文学部教授・大学院担当(現)一九七七年四月法政大学沖縄文化研究所兼担所員(現)’九八四年四月法政大学沖縄文化研究所所長(~八六・三)’九八九年四月同(~九二・三)〈非常勤講師〉・出講順立正大学(文学部)、日本大学(文理学部・大学院)、中央大学(文学部・大学院)、国学院大学(大学院、現)、川村学園女子大学(教育学部、現)【学会活動】(法政大学史学会以外)一九六四年五月日本近代史学会理事一九六四年五月蘭学資料研究会理事一九六八年七月日本国際政治学会評議員(現)’九八五年五月日本古文書学会評議員一九八五年二月南島史学会評議員
安岡昭男先生を送る 一九六八年九月第二回青年の船教官(総理府)’九六八年九月財団法人国際教育情報センター専門委員(現)’九九○年一二月中央大学人文科学研究所客員研究員一九九二年七月日野市文化財保護審議会委員(現)一九九四年九月文化庁文化財保護審議会専門委員(現)’九九四年九月近代の文化遺産の保存・活用に関する調査研究協力者会議美術・歴史資料分科会主査(文化庁)【著編書・刊行物】〈著作〉『明治維新と領土問題」歴史新書(教育社)’九八○『日本近代史』(芸林書一房)’九八二
〃増補版(巷云林書房)’九八五
〃増補新版(辻云林書一房)’九八九『日本近代史』中文版(林和生・李心純訳)(中国社会科学出版社)’九九六弓ロの三・gの目四重○二・崗閂P宮口亘一の目g]・ロ巴の。Qのご局・局固已巨・日」・口四巨口一・局日日】・口一九七八 一九八六年七月一九八七年二月一九八八年五月一九八九年七月一九九一年一二月 日本海事史学会理事(現)日本仏学史学会監事(現)明治維新史学会理事中央史学会評議員津学史学会理事(現)
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三○gの日出]、一・q・命]:自切のご」の①Qのg三・口百一の目四画・目」の。。】のご用・円固9口○四茸・ロロ一円具○円日日】・ロ’九九七『明治前期日清交渉史研究』(巌南堂書店)’九九五『明治前期大陸政策史の研究』(法政大学出版局)’九九八〈編書・共編書〉〔〕共編者『演習日本史学』近現代篇(清文堂出版)’九七五『海外交渉史の視点』3近代・現代〔今井庄次〕(日本書籍)’九七六『薩摩反乱記』マウンジー〈補注〉東洋文庫窃○(平凡社)’九七九『幕末維新史事典」〔神谷次郎〕(新人物性来社)’九八三『日本史総覧』Ⅵ近代・現代(新人物性来社)’九八四「日本史総覧』補巻Ⅲ近世四・近代二〔大石償三郎〕(新人物性来社)一九八六『近現代史用語事典』(新人物性来社)’九九二『日本近現代史料選』増訂版(芸林書房)’九九四『幕末維新人名事典』〔宮崎十三八〕(新人物性来社)一九九四『日本史用語大事典』〔武光誠・佐藤和彦・村上直〕(新人物往来社)’九九五『日本陸海軍事典』〔原剛〕(新人物性来社)’九九七『外国教科書における日本の誤解とその訂正』(国際教育情報センター)’九七三監修執筆『外国教科書訂正事業の成果』(国際教育情報センター)’九八○監修執筆『花房義質関係文書』マイクロフィルム版別冊〔I〕(北泉社)’九九六監修執筆 法政史学第五十号
「和蘭風説書集成』上下法政蘭学研究会・日蘭学会編(吉川弘文館)’九七七・七九共同校注『日韓外交資料集成』第一巻・第二巻金正明編(巌南堂書店)’九六六編集協力『山縣有朋意見書』大山梓編(原書房)’九六六編集協力『縞幕末和蘭留学関係史料集成』日蘭学会編大久保利謙編著(雄松堂出版)’九八四編集協力『野沢温泉村史』(野沢温泉村)’九七四分担執筆『新島村史』通史編(新島村)一九九六分担執筆『沖縄久米島の総合的研究』法政大学百周年記念久米島調査委員会編(弘文堂)一九八四共同研究『沖縄久高島調査報告書』法政大学久高島調査委員会編(法政大学沖縄文化研究所)’九八五共同研究『中国福建省。琉球列島交渉史の研究』中国福建省。琉球列島交渉史研究調査委員会編(第一書房)一九九五共同研究『小花作助関係資料調査報告』(東京都教育庁)’九九二共同調査〈論文題目抄〉『法政史学』*三十五号「総索引」に脱漏日清間琉球案件交渉の挫折七号一九五五・六琉球所属を緯る日清交渉の諸問題九号一九五七・|明治初期の対露警戒論に関する一考察l朝鮮半島をめぐってI十三号一九六○・|明治初期の樺太問題と政府要路十五号一九六二・’二*
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明治前半期における井上蝶の東亜外交政略十七号一九六五・三岩倉具視の外交政略二十一号一九六九・三幕末対露論の動向二十三号一九七一・三明治期田中光顕の周辺三十七号一九八五・一一一『法政大学文学部紀要』「隣邦兵備略」と山縣有朋十二号一九六七・三和蘭別段風説書とその内容十六号一九七一・三束邦協会についての基礎的研究二十二号一九七七・|||法政大学図書館蔵田中光顕文書(伊藤博文関係)解題目録一一一十一号一九八六・三明治十九年長崎清国水兵争闘事件一一一十六号一九九一・三仏学会に関する基礎的研究(1)四十二号一九九七・三l東京仏学校東京仏箒学校などl仏学会に関する基礎的研究(Ⅱ)四十三号一九九八。三I仏学会の活動/会員名簿l『沖縄文化研究』(法政大学沖縄文化研究所紀要)明治前期官辺の沖縄論策一○’九八三・一○明治前期官辺の台湾論策一六一九九○・三その他幕末異国船の久米島来航『沖縄久米島の総合的研究』’九八四・四明治期日中軍事交渉上の琉球・台湾・福建『中国福建省.琉球列島交渉史の研究』’九九五・二 安岡昭男先生を送る 二籔蝋翻襯卿辮劇鑓・鋳蟻制帆,I騨戯醜熱鰯騨鯛灘蝋辮繊憾瞬鋼鰻劉聞凋Ⅱ研乳乃騨認騨凡塑鰯騏目棡で駒幡噸鋼:.『‐咄i18毎湖l●判翔
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最終講義風景
安岡昭男教授の最終講義木学文学部史学科教授安岡昭男先生は、平成一○年三月一一二日をもって定年退任されることになった。ついては、これまでの先生の学恩にむくいるため、平成九年一二月一三日(土)、法政大学文学部史学科と同史学会の共催で、記念講演と退職記念のパーティーとがおこなわれた。講演は、午後二時五○分から六二年館一一五二番教室で開始され 法政史学第五十号
講義中の安岡先生
た。学科主任の後藤篤子助教授の司会で、まず、文学部長で法政大学史学会会長の伊藤玄三教授の開会の辞、次いで先生の「明治日本と万国」と題する講演がおこなわれた。講演の中味は巻頭の講演の内容を要約した文章に示されているが、先生の長年の研究のなかで培わされた学殖が随所にみられ、各地から訪れた多くの元学生の聴衆は、感銘と懐かしさに時のたつのも忘れるひとときであった。講義を終わって現役の近代史のゼミナールを代表して三年生の平野優子さんから花束贈呈がおこなわれ、熱気冷めやらぬ中、山名弘史教授の閉会の辞をもって締めくくった。次いで午後六時から家の光会館七階のコンベンションホールにおいて記念パーティーが催された。先生と共に定年退任される倉持俊一教授と合同で「安岡昭男。倉持俊一先生を囲む会」と銘打った退職記念パーティーは、中野栄夫教授の司会で進められた。まず、一昨年定年退任された村上直名誉教授から先生のプロフィールと再出発を祝う詞が述べられ、濱田義文名誉教授の乾杯の音頭をもって開始された。先生の講筵に連なった柏木一朗・長尾正憲・池田千尋の各氏からも当時の思い出や御祝いの詞が述べられたが、先生のお人柄が随所にうかがわれるものであった。パーティーは、参加者への久方ぶりの出会いの場ともなり、和やかな雰囲気のなかで進められた。閉会に近くなると、後藤篤子助教授からの記念品(パソコン代)贈呈、次いで、鶴見一子・寿子さんのお二人と大学院修士課程三年の河原円さんによる花束贈呈がおこなわれ、最後に先生の謝辞をもって散会となった。出席者は、約二○○名であった。 ’’一一ハ
一九九七年一一一月一一一一日、法政大学六二年館で安岡・倉持両先生の最終講義が行われ、講義終了後、引き続き家の光会館で記念パーティーが催された。実は私もすでに一一年前に定年を迎えているが、その時のことが思い出され歳月の過ぎるのは早いとつくづく感じた次第である。安岡さんは法政大学の在任期間は三五年に及び、これに助手時代を加えればまさに三八年となる。そして、専任教員として法政一筋に歩まれてきた方である。それだけに大学における史学科の草創期の頃や学園紛争ことを直接知っている、貴重な存在であったということができる。私は安岡さんより法政大学文学部を若干速く卒業しているが、法政大学の専任になったのはかなり後なので古い話や卒業生についてのことは、あまり知らない。そこで何
安岡昭男先生を送る 安岡先生の思い出
安岡先生を送る言葉
村上直 時も安岡さんに尋ね確認することにしていた。記憶力のよい安岡さんは即座に答えてくれるので、改めて人びとの動静を知ることができたことは何といっても有難かった。かつて『法政史学』の四十号に、私は「法政大学史学科四十年の歩み」という回顧を執筆したことがある、このとき、いろいろ古い資料を探して調べたことがある。『法政史学』の前身である「法政大学史学会々報」第三号が一九五二年(昭和二七)一月に発刊されているが、その奥付には「編集委員安岡昭男」と記載されている。そのことから『法政史学』の基礎はこの頃に出来たということが分かり、改めて安岡さんに敬意を表したことがあった。私は一九七一年(昭和四六年)四月に兼任講師となり、学園紛争のさなかの同年一○月に専任教員となった。そして、大学の動向が次々に変っていくなかで約二五年も専任教員として過ごしたのであるが、その間、いつも一緒に同じ研究室にいて勤務したことは忘れられない。初めは大学の裏門近くにあった第二昭年館の
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二階であり、一九八一年(昭和五六)からは新築の帥年館の九階に移った。前半の一○年間、|緒に過ごした第二朗年館の史学研究室は、室が狭い上に史学科の本も並んでいたり、学生諸君も頻繁に利用するところであったので、必ずしも恵まれた環境にあったとはいえなかった。しかし、当時は未だ学園紛争も続いており、いつも緊張しながら生活していたことは、今になるとかえって懐かしく思われるのである。安岡さんは派手な方ではなかったが、史学科の行事や事務を着実に処理していくタイプなので、私はいつも安心して傍で過ごすことができた。何しろ学園紛争のさなか、|時期は竹内・河原両先生に安岡さんと私の四人で史学科を担っていたときもあり、毎日が不安の連続であった。大学は研究と教育を両立させていかねばならないところである。しかも講義や演習の他に会議が多く、委員会も頻繁にある。こうしたなかで私が約二五年間を無事に過ごすことができたのは、安岡さんをはじめとする史学科の同僚が、いざというときいつもよくまとまって行動したからと思っている。
安岡さんとは研究テーマが違うので、近世・近代の共通したテーマで共同研究をするということはなかった。しかし、一度だけ恩師の森克己先生の故郷である長野県の『野沢温泉村史』を分担執筆したことがあり、また共編で『日本史用語大事典』を刊行したこともある。いずれも懐かしい思い出である。自治体史や地域史の研究を行っていくと意外に縁のあることに気がつくことがある。安岡さんの住んでいる日野市について、私 法政史学第五十号
安岡先生と初めてお会いした時の印象は、調布染地のおすまいをおうかがいした折のものである。以来二十四年になる。その間、さすがに堅実なお人柄だと幾度も思わされた。安岡先生は、何よりも大変几帳面な方であり、|字一句もないがしろにされないところがあった。誤字などがあればすかさず指摘され、その度に幾度か汗顔の到りであった。教育・研究に携わるものとしての厳密さを示していただいたところである。この先生の態度は『法政史学』の編集の場合にもみられ、常に積極的に発書され、かくあるべしということを教えられた。勿論、先生は殆ど法政大学史学会と共に歩まれて来られたので、諸事万端を知悉されており、まさしく「生き字引」という存在であった。 は『日野市史』の編集委員となっており、『高幡不動』の古文書の整理や解読を行ったこともある。また戦前であるが、安岡さんのご尊父が知事として赴任された山梨県の『甲府市史』や『山梨県史』『富士吉田市史』の編さんに携わっているのも何かご縁があるのではないかと思っている。安岡さんが退職されると淋しく思う古い卒業生が多くいるのではなかろうか。安岡・倉持さんが退職されて、史学科の一つの時代が終りを告げたのかも知れない。しかしこれからも益々お元気でご研究を深められていくことをお祈りする次第である。
安岡昭男先生と共に
伊藤玄三 八
先生は、それだけ法政大学史学会の行事にもきちんと対応されていて、見学会にも殆ど毎回参加されておられた。先生の参加されていない見学会は無かったのではなかろうか。そういう場で、いろいろな卒業生や会員に紹介されたのも有難かった。先生には、各種の刊行物のコピーなども随分いただいた。考古学関係のみならず、地域に関わる資料などについても教えていただき、良く注意をしてみられているものだと感心した。最近は、考古学研究室で利用してもらえたらといわれ、『月刊文化財』等をお寄せいただいた。いつでも注意と配慮があられるのは驚きでもある。先生の学風は、大変堅実であり、史料を駆使して進められるものであったとお見受けしている。専門的な隔たりがあるので十分理解申し上げてはいないが、|つ一つ実証的に迫られていたのは法政大学史学科を体現されておられる如くであった。先生が御退任ということになると、これまでの法政大学史学科の事どもが即座にうかがえなくなるだろうかと気になったところである。しかし、先生は細身のお身体であるにも拘らず御健康であられるので、時々はお電話などしてお教えを得たいと念じている。
安岡昭男先生を送る 安岡先生には私が法政に着任して以来一五年間おつきあいいただいた。先生は明治の外交史を研究なさっておられるので、日中関係をめぐってご著書や論文を通じていろいろとお教えを受ける機会があった。外国史を専攻していると、情けないことだが意外に日本のことに疎くなることがあるものである。先生は目立たない形で親切を施してくださることが多かった。先生はよい意味で執念の人である。論文や編纂物あるいはそれらの抜き刷りをいただくことが多かったが、その後必ずといってよいほど正誤表を配布してくださる。それも一一度三度にわたって。改訂版も度々出されている。我々はとかく一度活字化してしまうと安心して、それを更に完全なものに仕上げていくことを怠ってしまうものであるが、そのことを反省させられることしばしばであった。先生はメモ魔と言ってもよいほど万事にわたって細々とメモされていたように思う。大言壮語されることはないが、日々の学問的営みが蓄積されて、いつの間にか大きな仕事になっているという感じを受けた。先生は一見蒲柳の質のようであるが、実はなかなか壮健でおられる。髪もずっと後輩の私よりもよほど黒々としておられる。これからも黙々とご研究を蓄積してゆかれることと思う。それはまた私どもにとって無言の励ましとなるであろう。先生、いつまでもお元気で。 安岡先生を送る
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九 山名弘史
信義誠実安岡先生ll安岡昭男先生の思い出中野栄夫
安岡昭男先生のお言葉で、今でも強烈に残っているのは、「中野さんがきてから史学科の品が悪くなった」とのお叱りである。逆にいえば、安岡先生は品を保たれた方であった。安岡先生は、法政大学のご出身ということもあって、史学科の卒業生の面倒味のよい方であるというのが、私の印象である。とくに大学院日本史学専攻に関しては、特別の思い入れがおありのように感じられた。たとえば、数年前、大学院から『大学院報」を創刊されたが、その創刊号には大学院修了生で消息不明者は三人であった。他の専攻は、いずれ二桁以上の消息不明者がいるのに……、である。ところが、安岡先生はそれを見られて、早速消息不明者の所在を調べ、消息を突き止められたのである。その結果、今では全員の消息が分かっている。参考までに、消息不明者三名の内一名は物故者であった。また、大学院では毎月在籍者による月例研究会が開かれているが、それにも安岡先生は、欠かさず出ておられたようである。ここに、「出ておられたようである」と、あいまいに書いたが、それは、私はほとんど出ていないので、伝聞でしか安岡先生のご精勤ぶりを知らないからである。自らの不明を恥じるばかりである。
タイトルに「信義誠実安岡先生」と書いたが、これは学生が 法政史学第五十号
私が安岡先生に初めてお目にかかったのは一九八三年、倉持先生の国内研修期間中、西洋史ゼミを担当する兼任講師として法政に出講した折だった。村上直先生のご退職にあたっても同様のことを想起したが、当時三○歳になったばかりで、大学で教鞭をとるのは初めてだった私が心中に抱いていた不安と緊張を、安岡先生はたまにお会いするだけでも伝わってくるその温厚篤実なお人柄で、大いに和らげて下さった。兼任時代はふだんはゆっくりお話しする機会をなかなか得られなかったが、毎学年末に兼任ながらゼミ担当ということで招いていただいていた謝恩会で、先生がいかに学生思いの教員でいらっしゃるかを知ることができた。それは、’九八九年に私が法政の専任になってから毎年いただくようになった、先生直筆の安岡ゼミ学生名簿からも窺える。以後の九年間は、その名簿の他にも先 使った言葉である。但し学生は「信義誠実安岡ゼミ」といっていた。これも不明を恥じるばかりであるが、受講した学生(通年通学生)の出席が悪かったので、私は単位を出さなかったのに対して、安岡先生はその学生に単位をお出しになった。そこで、その学生(たち)がある雑誌に投稿し掲載された言葉である。この言葉が安岡先生のお人柄を表しているように思える。安岡昭男先生、長い間ご苦労さまでした。
安岡昭男先生のご退職に際して
後藤篤子 ○
生の細やかなお心遣いに触れる機会が多かった。’九九六年度、私が在外研究でオックスフォードに滞在していた間も、先生から度々お便りを頂戴し、いろいろな事をお知らせいただいた。異郷で一人暮らしをしていた身には大変嬉しく、この場をお借りして改めてお礼申し上げたい。専任になってからはさらに、安岡先生が沖縄文化研究所長や大学史編纂のお仕事で、法政大学に大きな貢献をなさってきたことを知った。その貢献は派手に目立つ性格のものではないかもしれないが、地道で粘り強いご努力を要するもので、安岡先生のお人柄そのもの、先生ならではのものと思っている。大学院にはまだご出講下さるものの、先生のあの少し困ったような照れたような笑顔を拝見する機会が少なくなると思うと、淋しい限りだ。安岡先生、どうかいつまでもお元気でますますご研究を深められると同時に、先生が三五年の長きにわたって育んでこられた法政大学史学科の伝統が守られていくよう、古巣にもお顔を出されて後進を叱吃激励して下さい。
先生は、立正大学文学部へ御出講なされて日本近代史を講義されていた時期があったが、わたしが多くの学生のなかの一人として安岡昭男先生に初めてお目にかかったのは、このときである。昭和五三年四月のことであったようにおもう。当時、学部の一一一年
安岡昭男先生を送る
安岡昭男先生の記憶
澤登寛聡 生であり、地方文書の調査や研究を学び、日本近世史を専攻するつもりであった私は、幕末・維新期の経済史や政治史に興味をもっていた。こんなことから日本近代史、殊に明治時代の前半期の政治史は気持を引き締めて学んでおこうとおもっていた。そんな折、先生の講義があると知り、舅んで授業に出たことを記憶している。この年の試験がどんな問題だったのか忘れてしまったが、論述試験で、私が解答用紙に猛烈な勢いで書いているとなぜか、私の横に立ち止まって上から解答をご覧になられた。このとき私は驚いて一瞬、筆が止まってしまったのを覚えている。昭和五六年四月、法政大学大学院に進学した私は、ここで再び先生にお会いすることになり、先生の演習を受講することになった。授業は、今は取り壊されてなくなってしまったが、かつての大学院棟の演習室でおこなわれた。先生はいつもスリーピースの背広に白いワイシャツとシックな調子のネクタイ、チョッキには懐中時計をしのばせ、品よくダンディな出で立ちで我々’○人前後の学生の前に腰掛けておいでになった。先生の一番近くには、岩壁義光氏が控えている。先生はときおり懐中時計を取り出して時間をみる。そんな光景を印象深く覚えている。私は近世史を専攻して村上直先生のゼミナールに所属していたが、先生は分け隔てなく学生を面倒みてくださったようにおもう。当時、私は学部時代からの延長で、関東地方の譜代藩の研究をするために一人で各地に調査に行ったが、あるとき土浦に大学院を修了された青木光行氏がいるのを知り、ぜひ、お会いしたく思って先生に相談したことがある。先生は、葉書か何かで私を紹一
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介してくださり、私は土浦藩の研究者を御紹介いただこうと氏を訪ねた。そうすると先生の御紹介があって大変、歓待していただけた。当時、私は藩の研究に関する調査に大概、|人で出かけていったので、調査先の心細さも手伝ってか、先生のお力添えが大変うれしく心強く感じたものである。平成八年四月、わたくしは、想いもかけず法政大学文学部史学科に着任することになった。先生と前任の村上直先生が同じ研究室であった関係上、先生と同室させていただくことになった。学生時代、薫陶を受け、しかも、二世代も違う偉い先生と二人きりの部屋で過ごすことは、これはえらいことになったぞ、というのがいつわらざる心境であった。しかし、それが、わたくしの杷憂であることを自然と知らされることになった。先生と過ごした二年間、先生はけつこう優しく私を見守ってくださったようにおもう。大学の教員としての在り方も、時には直接の御言葉で、また、時には無言のうちに教えていただけたものと感じている。いずれにせよ、先生と研究室を同じくするのはもう二か月もなくなってしまった。大学を退職された先生は、これからは多忙な職務からも解放され、本当の自由人として研究に専念なされることとおもう。先生の新たなる御出発に際し、少しさみしいけれども、どうか、いつまでも元気で、ご活躍ください、という気持ちでいっぱいであ
る。 法政史学第五十号
安岡先生の講義を初めて受けたのはいつ頃であったろうかと、突然の原稿のご依頼に思い返してみた。昭和四六年の春かなと思い当たって、大学二年当時を振り返るとまさに大学紛争真っ直中。教育大生の不幸な事件からはロックアウトで秋以降登校した記憶がないから、必須の日本史概説か、三・四年の明治維新史を聴講した四月の教室が最初であろう。当時の先生は、ポケットが両胸についた真っ白のワイシャツを召され、失礼ながら華著な体つきに反し、その大きな声が今でもひどく印象に残っている。その後、大学の混乱は長く収まらず、私も他学部や他大学の講座に潜り込んで聴講する機会が増し、ようやく落ち着いたのは大学院進学後の昭和五○年頃と思う。安岡ゼミの参加者は、当時から多彩を極め、社会人や他大学からの入学者が多かった。そのためか、ゼミで先生がご意見を主張され、発表者を批判されるようなことは無く、淡々とした授業が繰り返されていた。正直なところ、自分の考えを述べ、批判を受けるといった社会科学研究科の方法論に馴れていた自分には少し歯がゆい感もあったが、今思えば岩生成一先生の講義のようでもあり、法政の学風であったのかもしれない。また、本年退官される倉持俊一先生も新任早々で、修士進学と同時に豊田武先生から非常勤の研究室勤務を命じられていた私に、研究室でロシア史の話を時折されたが、教本的なそれとは全く違うことに感動したことを今更のように思い出す。 安岡先生と私の法政時代
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岩壁義光
昭和五三年は博士課程に進学した私にとって最も忘れられない年となった。この年の博士課程在学生は私一人、文字通りの個人教授である。テキストは翌年先生の補注で東洋文庫の一冊として出版されることになる『薩摩反乱記』の原本(憲政資料室蔵岩倉家文書)。この本は、西南戦争を題材に在日英国公使館書記官国・三・口ごmの]が著した弓面のmg2日四mのすの]]】・ロ・FopQoP]田@・の翻訳であるが、原本と原書を読み比べ、問題点があればその箇所と理由を指摘し、また校注の校訂、必要な補注を毎回発表するのである。原本はいざ知らず、原書は読んで問題点を見つけるなど非力な自分には思いも寄らぬこと。ともかく毎回毎回資料を作り発表するのであるが、負け犬の遠吠えのようなもので、先生は黙って聞いていらっしゃる。時折なされる質問に、こちらは「うっ」となるだけで答えられない。何回も「どうしよう」と立ち往生した恥ずかしさだけが鮮烈に残っている。この年、豊田先生の強いお勧めで神奈川県立博物館の公募に受験し職を得たが、安岡先生は授業日を博物館が休館の月曜日に変更しゼミを継続下され、まさに冷や汗の一年であった。翌年出版された同書の補注の詳細さに「ああ、先生らしいな」と、つくづく思ったものである。思うに、教官は研究者であることは勿論であるが、次の世代のための教育者として努めて後進の育成に全力を傾けていただきたいものだ。また、この年には東京都の依頼による小笠原諸島の文化財調査にお供を命じられ、二週間南の島のジャングルの中で拓本をとったり、石碑を掘り返したり生涯でも忘れられない一年となった。
安岡昭男先生を送る 私が修士課程に入学し、安岡先生のゼミに参加することとなったのは一九八六(昭和六一)年のことでした。入学試験での面接試問において、事前に提出していた研究計画書に外交史料館を外交資料館と誤って記していたことを先生から指摘され、たいへん恥ずかしい思いをしましたが、それが先生との初めての出会いでした。研究における表記の正確さや人名の正しい読み方などは、先生の御指導においてその後今日に至るまで一貫して求められたところです。入学当初、ゼミは近代の日中関係をテーマとし、毎回参加者の研究報告が行われていました。先生の御研究領域は、例えば政治史、外交史、軍事史、洋学史、文化交流史等実に幅広いものですが、その中でも日中関係史こそは中核をなすものといえましょう。ゼミにおいて柏木一朗(松戸市戸定歴史館)さんや、平山栄 その後、私はお誘いを受けて書陵部へと移り、仕事における視点を一面でマクロからミクロヘと強めていくなかで逆に問題意識は拡がっていったが〈一部の人からは否応なく政治的な存在として意識されていることを実感するようになっていった。この点、終始幅広く学界との関係をお続けになり研究者としての生活を続けられ、大学における後継者をお育てになった安岡先生の生き方に一種の嫉妬さえ覚えている今である。先生ご苦労さまでした。
安岡ゼミの思い出
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- 長井純市
嗣(北海道新聞社)さん、川本勉(国立国会図書館)さんなどのゼミの諸先輩(実は、年齢は私の方が上なのですが)が多彩な研究報告をされましたが、私はそれらを聞いて歴史に対する自分の興味関心の範囲を広める必要を感じ、大いに啓発されました。その後、富塚一彦(外交史料館)さんや横山(旧姓石川)恵美(豊島区立郷土資料館)さんたちが加わりましたが、中でもチャリダーさんというタイ国からの女子留学生に先生が懇切に御指導なさっていらっしゃった姿は忘れがたい思い出です。私どもゼミ生にとっても彼女はお茶目で得難い友人でした。博士課程では法政大学が所属する「田中光顕関係文書」をテキストに、当初は柏木さんと二人で毎回複写史料を読み進めていくこととなりました。同史料の大半は、明治から大正にかけて元老として政界・官界に大きな政治的影響力を有した山県有朋の自筆書翰であり、しかも慎重居士と称され容易には本音を明かさない山県が率直に本音を述べたものを数多く含んでいます。その意味でこの史料は法政大学の宝物ともいえる貴重なものです。ゼミにおいて先生は該博な知識を惜しみなく我々に提供されました。私事にわたり恐縮ですが、私がこれまで発表した山県有朋の地方自治制度確立事業に関する拙稿はすべてこのゼミでの報告から生まれたものです。先生の御指導を得、さらに柏木さんや富塚さん、川畑恵(宮内庁書陵部)さん、土井康弘(国士館大学非常勤講師)さん、秋山(旧姓小坂)りかさん等々の参加者の各回の報告や発言に啓発されて生まれたものであります(ただし、拙稿の欠陥についてはすべて私に責任があります)。なお、同史料の輪読 法政史学第五十号
会(田中光顕関係文書研究会)は博士課程のゼミを兼ねて新たなメンバーを加え現在も継続されており、同史料はいずれ先生の編纂・校訂を経て刊行されるものと思います。安岡ゼミでは、時折歴史博物館の見学に行くことがありました。栃木県矢板市郊外の山県有朋記念館や宮城県古川市の吉野作造記念館の見学会は、雪混じりの天候でしたので今なお忘れがたいものです。そうした折の先生の探求心と健脚ぶりには参加者一同がいつも驚かされるところです。先生はこれまで日本近代史という研究分野に多大な貢献をされてきました。これからもそれは変わらないことと思いますが、先生のゼミの出身者が様々な分野に進んで活躍していることも先生の業績の一つとして人々の記憶に止められることと思います。先生の益々の御健勝と御活躍をお祈りします。
明治四三(’九一○)年一月一一五日午後一時、公爵徳川慶喜(七四歳)は東京市小石川区第六天町五四番地の自邸を出て日本橋区兜町にある渋沢栄一の事務所にむかった。慶喜の外出の目的は『徳川慶喜公伝』編纂のための内輪の催し昔夢会への出席のためであった。メンバーの若手歴史学者達は毎回、史実確認のため忌憧のない史料に立脚した鋭い質問を慶喜に浴びせかけていた。この日で八回目となる昔夢会において「私からお伺いいたしま 信義・誠実・安岡ゼミ
柏木一朗 四
す」と口火を切った人物こそ、のちに法政大学文学部史学科で安岡昭男先生の指導教授となられる若き日の藤井甚太郎先生であった。時は流れて平成一○二九九八)年一月四日午後八時、私はNHK大河ドラマ「徳川慶喜」の第一回放映を東京の徳川慶喜家のご自宅で拝見していた。私は千葉県松戸市にある戸定歴史館の学芸員の職を倉持先生を通じて安岡先生に紹介していただいたおかげで慶喜家でお屠蘇を頂戴しながらドラマを観賞することができたのである。戸定歴史館は慶喜の実弟で水戸藩最後の藩主だった徳川昭武の次男武定を祖とする松戸徳川家の史料寄託をうけ平成三年に開館した博物館である。私は昭武と慶喜の調査を就職以来続けてきたのだが、本年四月二八日より開幕の戸定歴史館特別展「最後の将軍徳川慶喜」開催にあたり徳川慶喜家の御協力のもと藤井先生も目に触れることがなかった慶喜の史料を整理し発表できるということは、まさに学芸員冥利につきると言ってよいだろう。これも安岡先生に史料調査の基礎を学部、大学院を通じて御指導していただいたことがあったればこそと感謝申上げたい。さて学部の安岡ゼミは大人数だが大学院に進学する者は少数で安岡先生の在任中に学部から博士課程まで進んだのは岩壁義光氏と私、それに狩野雄一氏の三人だけである。私が学んだ安岡ゼミは学部、院とも史料講読が中心で授業は淡々と進み、先生曰く「皆さんも次の予定があるでしょうから」と授業時間以内に必ず終るのが常であった。しかし休講は皆無であり校内がロックアウトになっても場所を見つけて行われた。昨年一二月の史学会での安岡先生の最終講義当日も例外ではなくゼミは行われた。私は先生が
安岡昭男先生を送る 大学における研究と教育は共に重要であるということを自ら実践していらっしゃったのだと思う。先生は学生に決して価値観を押しつけることなく「まあ、あせらず、ゆっくりやって下さい」と自由に勉強できる環境を与えて下さった。また先生が常に学生の自主性を重んじ紳士的に接して下さったことに感謝している。さて私は一九八一年三月、専修大学法学部を卒業し翌四月に本学史学科三年に編入した時から安岡先生にご指導をいただいているが、実は編入試験の二間選択の記述問題のうち「近代」が難しかったので私は「中世」と「近世」を選択して試験に合格した。面接の際に中世の中野先生から「半分しか点をやらなかった」と言われ、近世の村上先生には「まあ、よく書けている」とお褒めを頂戴した。この時、本来ならば村上ゼミに入らなければいけなかったのだが、近代史への興味が捨て切れずに迷ったあげく安岡ゼミを選択した。授業が始まってすぐに村上先生にお詫びを申し上げたところ、お小言は一言もなく逆に「安岡ゼミで頑張りなさい」とやさしいお言葉をかけていただいた。村上先生にはこの紙面をかりて改めてお詫びと感謝の言葉を申上げたい。またこれは偶然なのだが法政の相撲部に所属していた私の二歳年下の弟も同級生となって安岡ゼミに入ったため兄弟揃って同じ年に卒業論文を先生に指導、審査していただいた。さらに就職をお世話くださった職場に卒業論文を書きに来た家内と知合い安岡先生ご夫妻に媒酌人の労をとっていただいた。まさに安岡先生には公私共に一一重三重のお世話になったと言えよう。「温厚で優しい」というのが安岡先生の評判だが、私にとって先生は誤字ひとつ誤植ひと
二 五
つ見逃してくれない厳しい先生であった。先生は漢字ひとつ間違えば、その史料は意味を失い架空の人物を作ってしまうことを常に注意してくださったのだと思う。今後もお顔は笑顔で、しかし史料を見るまなざしは厳しく我々、安岡ゼミ出身者一同を御指導していただきたいと思う。最後に先生と調査、見学のため下関、津山、出石、足尾、下田、小笠原、高知、宿毛、水沢等を旅したが、そのたびに先生の健脚と博識に目を奪われたことが懐かしい思い出である。その先生の健脚と研究心がいつまでも衰えぬことを祈念してやまない。どうもありがとうございました。 法政史学第五十号一一一二ハ