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相互作用としての日中関係 : 池田政権期の日中関 係研究

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相互作用としての日中関係 : 池田政権期の日中関 係研究

著者 程 蘊

著者別名 CHENG Yun

その他のタイトル Sino‑Japan relations : The interactions between Japan and China : the research of Sino‑Japan relations under the Ikeda cabinet

ページ 1‑255

発行年 2015‑09‑15

学位授与番号 32675甲第361号

学位授与年月日 2015‑09‑15

学位名 博士(政治学)

学位授与機関 法政大学 (Hosei University)

URL http://doi.org/10.15002/00012333

(2)

法政大学審査学位論文

相互作用としての日中関係

―池田政権期の日中関係研究―

程 蘊

(3)

目次

序 章 ... 1

一、問題提起と本稿の仮説... 1

二、日中関係分析アプローチの発展(先行研究) ... 5

三、本研究の分析視角 ... 12

四、本稿の構成 ... 13

第一章 異なる次元での対日工作と対中外交(1950年代) ... 17

第一節 対日工作における民間中心の形成と変遷(1950年代) ... 18

毛沢東の国際秩序観―「中間地帯」論 ... 18

毛沢東の国際秩序観―「一辺倒」 ... 21

「一辺倒」方針下の対日政策―「軍民分離」 ... 22

「中間地帯」の国際秩序観と「日本中立化」戦略の確立 ... 25

「二つの中国」問題と対日外交の急進化 ... 28

第二節 外務省官僚の中国認識と対中「一元化外交」構想 ... 33

外務官僚の中国観――政権の安定性と中ソ関係 ... 33

対中政策検討の本格化――共産主義の浸透と「外交一元化」 ... 35

民間交渉断絶下の日中交渉論――中国課と香港総領事館 ... 39

第三節 池田勇人の対中戦略の形成 ... 41

反共戦略下の中国観――吉田茂 ... 42

民族共産主義の中国観 ... 46

池田と宏池会の中国観 ... 50

第二章 対日工作と対中外交の交差と平行(1960~1961) ... 63

第一節 自民党内親中国派と中国の対自民党工作 ... 64

対自民党工作の発端と中国の対池田政権政策 ... 64

対自民党工作の突破口――「貿易三原則」 ... 68

高碕訪中と対高碕工作 ... 71

池田政権の対中打診と親中国派の立場 ... 74

対自民党工作の本格化――宇都宮徳馬の訪中 ... 77

対自民党工作の失敗と中国の態度硬化 ... 80

第二節 中国の対社会党工作と民間外交の足掛かりの喪失 ... 81

社会党第三次訪中団の派遣をめぐる闘争 ... 82

「共同の敵」をめぐる中国政府と代表団の攻防 ... 86

「共同声明」の波紋 ... 88

中国・社会党の対立激化と対社会党工作のイデオロギー化 ... 92

第三節 対中外交の二正面作戦(1961年)――政府間接触と自由主義陣営の協調 ... 95

(4)

対中政策のジレンマ――自由陣営の協調と自主的な政策 ... 96

自民党内対中慎重派の動き ... 101

日中政府間接触の試行と挫折 ... 103

中国代表権の問題についての検討と妥協 ... 105

第7回打ち合わせと自由主義陣営協調の確立 ... 107

自由主義陣営協調の試行(一)――台湾問題の解決へ ... 109

自由主義陣営協調の試行(二)――自由アジアの防衛 ... 111

第三章 共通の土俵に乗った対日工作と対中外交(1962~1964) ... 123

第一節 日中間共通の土俵の形成 ... 124

民間の日中交渉構想――高碕構想と松村構想 ... 124

通産省の構想と日中輸出入組合 ... 126

日中相互作用と松村交渉ルートの形成 ... 127

共通の土俵の形成――対中延べ払い輸出から「岡崎構想」へ ... 131

中国政府の歩み寄り――松村訪中に関する交渉 ... 133

松村第2回訪中とその波紋 ... 136

省庁間の折衝と政府意見の形成 ... 138

官民協調からの逸脱と日本政府の対応 ... 142

対中接触外交の国際支持獲得へ――池田訪欧 ... 146

第二節 共通の土俵での日中折衝――「貿易争点化」とその抵抗... 147

日中「貿易の争点化」(一)平塚訪中 ... 147

日中「貿易の争点化」(二)張群訪日と第8回日華協力委員会総会 ... 149

「貿易争点化工作」の試行――孫平化訪日 ... 151

「貿易争点化」への抵抗――官僚内部の検討と外務省の対応 ... 154

「貿易争点化」への抵抗――国府の反発と日本政府の対処 ... 158

「池田路線」と「中国路線」の浮上 ... 160

「池田路線」と「中国路線」の接点と対立 ... 163

第四章 相互作用としての日華紛争(1963~1964) ... 175

紛争解決をめぐる日華間の意見対立 ... 175

周鴻慶事件初期の応酬 ... 178

アジア局・中国課の民間介入案――トロイカ方式 ... 179

公式な外交ルートでの日華交渉 ... 181

親台湾派の言動と交渉形式に関する日華間の対立 ... 183

交渉形式の妥協――吉田訪台を巡る日華間のやりとり ... 185

日華間合意の達成――吉田訪台と「中共対策要綱」 ... 187

プラント輸出問題に関する日華交渉 ... 191

日華紛争と二つのルート ... 195

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第五章 共通の土俵の崩壊と1965年の日中関係 ... 201

第一節 佐藤栄作中国政策構想―実像と虚像 ... 201

佐藤栄作の中国観の形成 ... 201

佐藤の中国政策構想の「実像」と「虚像」――1964年の佐藤 ... 205

佐藤の中国政策構想の「実像」と「虚像」――「Sオペ」のイメージ作戦 ... 207

佐藤政権対中政策の決着――中国問題をめぐる1964年の国際情勢と佐藤訪米 ... 210

第二節 中国の対佐藤政権政策と共通の土俵の崩壊 ... 213

中国の対佐藤政権政策の形成 ... 214

佐藤政権初期の仲介役 ... 216

仲介役の再建と失敗――川島正次郎・周恩来会談 ... 219

日中間の共通の土俵の崩壊 ... 221

結 論 ... 231

参考文献 ... 239

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1

序 章

一、問題提起と本稿の仮説

1、問題の提起

国交正常化以前の日中関係が「一進一退」の様相を呈していたことはよく語られる1。 1951年~1953年の間は、日中政府間に何の接触もなく、両国民間人の訪問も制限されて いた。1954年になってこの状況は一変した。中国政府の「以民促官」という外交方針の下 で(日本の場合はこれを「平和攻勢」と解したのであるが)、政治家から旧軍人まで、日本 政府外の人々が次々と訪中し、廖承志など対日工作に携わる中国政府幹部も、民間人の立 場で訪日した。さらに、バンドン会議で鳩山内閣の閣僚として、高碕達之助が周恩来と初 対面して、政府間接触の模索も始められた。こうした状況は1957年まで続いた。第四回民 間貿易協定の締結をめぐって、日中両政府の間で「政経分離」と「政経不可分」の政策対 立が次第に露呈し、遂に1958年の長崎国旗事件によって、日中交流の断絶を招くことにな った。「政経分離」と「政経不可分」の対立も岸内閣期の日中関係の特徴となった。1960 年の池田政権発足後、日中関係は再び緩和の兆候を見せた。特に1962年にLT貿易協定締 結後、自民党親中国派の関与の下で日中関係が国交正常化以前では最良の時期を迎えた。

だが1965年以降、日中関係は再び氷河期に落ち込み、その状態は国交正常化の直前まで続 いた。

こうした「一進一退」の様相を呈した原因は何か? 内政の視座からの分析がアプロー チの一つである。戦後の日本国内政治力学の分析、あるいは国内政治と連動した中国対外 政策の「急進化」と「穏健化」の変化についてを検討し、その原因を究明する先行研究は 多数存在している。一方、もう一つのアプローチとして、国際政治構造が日中関係に及ぼ した影響もよく語られている。特に対中外交において、米国の日本政府への影響力が無視 できない要素として強調される。

以上の二つのアプローチはそれぞれある程度の説得力を持っている。しかし、抱えてい る欠陥も明らかである。内政アプローチは対中政策決定過程において日本国内の様々なア クターの相互やり取り(例えば、親中国派、親台湾派、外務省など)に焦点を当てるが、二国 間の相互作用のダイナミックスを看過し、戦後の日中関係をただ日本国内政治の一部とし て論じる危険性がある。また、内政からのアプローチでは解明できない具体的な問題もあ る。例えば1961年初頭に展開された外務省内の対中政策は、当初中国との関係打開や、国 連における中国代表権問題が並行的に検討されていたが、なぜ途中で中国代表権問題に集 約されることになったか。そして、当初外務省内に検討された日中打開策は日中政府間の 接触によって実現させようとするものであったが、なぜ1962年になると松村謙三ルートを 通じて中国政府との接触、交渉を行う方針に転換したのか。これらの問題は単純に国内政

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2 治力学だけでは説明できないだろう。

内政からのアプローチで中国の対日外交を分析する場合、中国国内政治と対日外交の連 動を証明する一次資料が足りないのみならず2、この連動が逆の方向に動くケースも存在し

ていた。例えば1960~1962年8月の間は、中国の国内政治は穏健化に向けて進んでいたが、

対日外交はかえって「政治三原則」を中心とする政治優先の姿勢を取り続いていた。それ と対照的に1962年8月になると中国国内政治の方向は一変し、毛沢東によって「階級闘争」

中心論が再び強調されるようになったが、日中関係はかえって国交正常化以前の最良期を 迎えていた。以上のような矛盾は内政からのアプローチの限界を示す。

一方、国際構造からのアプローチで論じられた、日本の対中外交に対する米国の影響力 は否定できないが、1990年代以降の研究では、日本の対中政策の戦略性と自律性が強調さ れ、「二つの中国」政策という歴代内閣の対中政策の一貫性が指摘された。米国の対中政策 は明らかに日中政府間接触及び日本政府の「中共承認」のタイミングに影響を与えてはい たが、日本の対中戦略までは波及していなかった。

以上二つのアプローチの問題点を踏まえて、本稿は新たなアプローチによって国交正常 化以前の日中関係を再検討する。

2、本論の仮説―相互作用というアプローチ

新たなアプローチを打ち出す前に、一つの問題に留意しなければならない。戦後中国の 対日工作と日本の対中外交は同じ次元で展開されたものではなかったという点である。

「軍民分離」、「以民促官」、「人民外交」などのスローガンで表現された中国の対日政策 は、日本の民間人を対象とする対日工作の重要性を示している。中国の対日工作は対中外 交における日本政府の主導権を破壊するところに狙いがあった。

一方、日本の対中外交は振り子のように二つの問題の間で揺れていた。一つは中国政府 との積極的な接触によって、日中関係を打開することである。もう一つは、米国をはじめ とする自由諸国との共同歩調を重視し、自由諸国の共同対中政策によって中国問題を解決 することである。だが、いずれにせよ、政府間関係の強調は対中外交における日本政府の 基本姿勢であった。

この別々の次元で展開された対日工作と対中外交が、「日本中立化」と「二つの中国」と いう真っ向から対立していた両国の戦略目標に加えて、日中関係の在り方に対する両国政 府の認識のずれを物語っている。

こうした視点から改めて日中関係の「一進一退」を考察すれば、「進」の時期に日中双方 は共通の土俵に乗っており、少なくともその方向に向ける意向を持っていた。逆に「退」

という時期に、日中双方はそれぞれ自らの土俵に戻ったということは明らかである(認識の ずれをどれほど埋めるか)。例えば 1954 年~1957年の時期には、中国政府の対日工作は相 変わらず民間中心であったが、その目的は政府間の国交正常化交渉の実現にあった。一方 日本外務省は、国交正常化交渉を考えてはいなかったが、民間関与によって引き起こされ

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3

た対中外交の混乱から脱出するために、政府間交渉の実現を主張していた。こうして、中 国の対日工作と日本の対中外交は一時的に政府間交渉の実現という共通の土俵に乗ること になり、日中関係も「進」という時代に入った。しかし、食い違っていた両国の目標の下 では、日中間の交渉ルートは到底確立しなかった。結局、双方はそれぞれ「政経分離」と

「政経不可分」という自らの土俵に戻って、日中関係の対立を深刻化させることになった。

以上のように、日中関係の様相変化は、対日工作あるいは対中外交の遂行において、双 方の相互作用に深くかかわっている。つまり、日中両国はそれぞれ独立的に対中政策と対 日政策を決定したが、その後の政策遂行において、日中両政府はいずれも政策対象からの フィードバックを受けて、政策を微調整し続けた。そして、政策微調整を積み重ねた結果、

日中関係の様相変化を次第に引き起こすことになった。それこそが日中間の相互作用であ る。(認識のずれを埋める、あるいは拡大させる過程である)

換言すれば、「二つの中国」と「日本中立化」という日中両国の不動の戦略の下で、その 戦略目標を実現させるアプローチが多様に存在していた。日中双方の外交アプローチに共 通の部分が多ければ多いほど、共通の土俵に乗る可能性は高い。だが外交アプローチに共 通の部分を見つけること自体は、両方の政策が偶然的に重なり合うことより、むしろ多く の場合に日中相互作用の過程で実現するものである。したがって、本稿では、対日工作と 対中外交の遂行において、日中双方の相互作用に焦点を当て、その相互作用の積み重ねの 上に国交正常化以前の日中関係がどのように変化していったかを究明する。

また、相互作用には二国間の交渉も含まれるが、交渉だけではない。交渉以前の水面下 でのやり取りこそがより重要である。対立する双方を如何にして交渉のテーブルにつかせ たかが本論の中心である。

3、研究対象としての池田政権期の日中関係

本稿は池田政権期の日中関係を研究対象に、日中相互作用と日中関係との関係を検討す る。理由は次の三点である。

(1)連絡・交渉ルートの確立である。

国交正常化以前には日中両国外交官同士の間に固定的な連絡・交渉ルートが存在してい なかった。政府間の意思疎通は常にインフォーマルなルートを通じて進められたのである。

その上、池田政権以前の1950年代に、日中間のインフォーマルなルートも混乱した。例え ば鳩山政権時代に、中国政府は日本人の政治的主張の如何を問わず、訪中の意向を持って いれば誰でも歓迎した。しかし1958年の長崎国旗事件以降、中国政府は日本国内の左派勢 力との連絡を緊密化させ、右派、特に自民党との連絡には慎重な姿勢に戻った。こうした 連絡・交渉ルートの混乱は日中政府間の意思疎通を妨げたのみならず、相互作用と日中関 係の相関関係をも低めることになった。

1959年以降、自民党内に松村謙三、石橋湛山、高碕達之助をはじめとする親中国派が形

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成された。池田政権の信頼を受けた親中国派は、中国政府とのやり取りを通じて次第に中 国政府にも受け容れられていた。それと共に長崎国旗事件以降、日中関係の推進で活躍し ていた社会党は中国政府との意見対立が顕在化していた。結局、自民党親中国派は池田政 権期の日中政府間連絡ルートという地位を確立したことになる。連絡ルートの固定化は相 互作用と日中関係の相関関係を高めることになった。

(2)自主性のある対中政策の確立である。

1950年代は対中外交と対日外交が試行錯誤を繰り返した時期である。「二つの中国」と「日 本中立化」という対中・対日外交戦略は形成されたが、どのようにそれを実現させるのか、

まだ手探りの状態にあった。こうした状況下、日中両国外交政策は両国間の相互作用のみ ならず、国際環境及び内政の影響をも強く受けていた。例えば1950年代後半、外務省内で 官僚たちは対中関係改善の必要性に異議を持っていなかったが、米国の対中封じ込め政策 の下で、その政策転換を米政府に積極的に働きかけるべきであるか、或いは米国の政策変 化が見られるまで日本は手を拱いているべきであるかについて、意見の相違が見られた。

つまり当時の日本政府は中国の対日工作によって形成された国内親中の世論(相互作用の一 種)と米国の対中政策(国際環境)との間で、どのようにバランスを取るのかという問題に悩 んでいた。したがって政策決定の視角から見れば、1950年代に相互作用と日中関係の相関 関係はそれほど強くなかった。

しかし池田政権になって、日本政府は米国との協調を保つとともに、自由主義陣営に受 け入れられる範囲で、前向きな対中外交を推進するという方向に傾いた。こうした状況下、

日本の対中政策は相変わらず国際環境の影響を強く受けたが、北京政府を承認さえしなけ れば、自主的な対中政策を推進することができた。対中政策の自主性は日中相互作用と日 中関係との相関関係を高めた。この対中外交の自主性は佐藤政権にも継承された。国民党 政府の反対を配慮して中国大陸向けプラントの延べ払い輸出における輸銀資金の使用をや めたが、米国をはじめとする自由主義陣営諸国に対して、依然として対中貿易の重要性を 強調し、その自主性を維持しようとした。したがって1960年前半の池田政権時代は、国際 環境の要因に比べて、日中間の相互作用こそが日中関係を決めるより重要な要因になった と言えるだろう。

(3)内政か相互作用か。

池田政権期において、自民党内に親中国派と親台湾派が形成された。そこに焦点を当て、

先行研究では派閥政治と対中政策の関連性、すなわち内政と外交との関係を検討するもの が多かった。しかし親中国派と親台湾派が「二元外交」を進め、池田政権の対中政策に影 響を与えるという側面を強調し過ぎると、池田政権(外務省官僚をも含める)がこのインフォ ーマルなルートを利用し、対中、対国府外交を推進した側面は往々として看過されること になる。本稿では、親中国派と親台湾派との対中、対国府外交のルートとしての性格を重

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視し、このルートを通じて日中、日台外交の相互作用過程を究明する。

二、日中関係分析アプローチの発展(先行研究)

1、内政からのアプローチ

内政からのアプローチは、日中両国の内政変化を独立変数として、日中関係の変化を検 討するものである。このアプローチはさらに、日本の内政変動と中国の内政変動への分析 とに分けることができる。

日本の対中外交に関する研究について、古川万太郎の『日中戦後関係史』がよく挙げら れる3。同研究に反映された「進歩史観」、つまり、中国政府の公式見解を基準として日本の 対中外交を評価することは近年しばしば批判されてきたが、内政からのアプローチを始め るに際しては、同書は重要な価値を持っている。

古川の内政からのアプローチは中国の対日政策をほぼ定数として扱い、日本の対中政策 の変化によって日中関係の変化を説明するものである。さらに対中政策変化の原因として、

古川は日本国内における対中友好勢力と「中国敵視」勢力との抗争に焦点を当て、日本国 内の政治力学の変化から、歴代内閣の対中政策の変遷を説明する。

しかし単純に「友好」と「敵視」という二分化された概念で日本の国内政治勢力を分け ることは、そもそもイデオロギー偏重の傾向を免れない。さらに日本の歴代内閣の対中政 策も、「友好」、「敵視」、「綱渡り」という概念で説明できるものではない。例えば岸、佐藤 などの「中国敵視」内閣でも、中国との関係を打開する意図を持っていたし、鳩山、池田 などの対中友好と見られる内閣も「二つの中国」という「中国敵視」政策を取り続けてい た。したがって内政からのアプローチに関してはイデオロギー的要素を除いて、日本の対 中政策と対中政策決定過程における国内政治力学を、客観的な一次資料によって再検討す ることが必要である。

一方中国の国内政治と外交政策の連動という見方は、最初に衛藤瀋吉によって提示され たものである4。田中明彦はさらにそれを中国の対日外交変遷の検討に応用し、中国国内政 治と対日外交との連動を指摘した。だが田中自身が指摘したように、「厳密に(中国の)内政 と外交のリンケージがどの程度あるかを計測するのはなかなか困難ではある」5。その後の 研究もこの論点を引き継いだが、連動の政治過程を十分には究明できなかった6

さらに内政からのアプローチは、明らかに中国外交を内政の延長として論じる傾向があ り、対外政策決定自体のメカニズムを看過している。中国政府はどのようにして外部から の情報を得て対外政策を形成させるか、そしてその政策遂行において、どのようにして政 策対象からのフィードバックを受けて政策を調整したか、などの問題を、内政からのアプ ローチでは解明できないだろう。

2、国際構造からのアプローチ

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国際構造からのアプローチは、日本外交の国際政治環境の制約から戦後日中関係の変化 を説明するものである。その代表として、添谷芳秀の『日本外交と中国』が挙げられる7。 同書は、日本を取り巻く国際政治環境と日本との「接点」に注目し、戦後日本外交の構 図を、対米「協調」路線、対米「自主」路線、対米「独立」路線が交錯するものとして描 き、さらにその外交の構図の下で、日本の対中外交が如何に展開されたかを論じた。

具体的にいえば、対米「協調」の吉田茂は日中関係の改善を唱えたが、アメリカとの協 調を第一位にした結果、日本独自の中国政策を推進することには消極的であった。それと 対照的に、対米「自主」の鳩山一郎は国際政治環境に対する配慮の必要性をあまり意識せ ず、中国との関係改善に踏み切った。「日米中ソ平和同盟」という冷戦の論理を否定する国 際政治観を有する石橋湛山は首相として例外であったが、彼の中国政策も優勢な国際政治 の枠内で日本外交の自律性を拡大しようとする対米「自主」政策である。一方、同じ対米

「自主」派であったが、岸は対米関係を利用することにより「自主」の実現を図ろうとし た。彼は「反共政策」にコミットする形で東南アジア外交の強化に乗り出し、結局中国と の関係改善よりも、台湾との関係強化に踏み切った。岸の後継としての池田勇人は対米「協 調」派であったが、急進的に対中関係打開を図らず、日中関係を長期的に捉えた結果、米 国の信頼をうけてLT貿易という果実を獲得した。その後の佐藤栄作は対米「自主」派とし て、政権を取る前に、急進的に対中関係打開を推進したが、政権を取った後その対米「自 主」の中心を沖縄返還に転換し、その結果、日中関係の対立を加速させた。

明らかに国際構造からのアプローチは、日本の対中関係を対米関係の一部として論じて いる。政治家の認識によって対中関係の位置づけは変わり続けてきたが、根本的にいえば、

冷戦構造の下で対中関係における日本政治家の可能な選択肢は、米国の政策に追随するこ としかなかった。これがいわゆる対中外交における「戦略なき日本外交像」である。

以上の国際政治学の分析方法を批判して、1990年代から欧米に公開された一次資料を利 用した日本の対中政策への歴史的な研究が登場した。これらの研究の中では、「二つの中国」

という日本の対中政策の戦略性と一貫性が強調され、「戦略なき日本外交像」が批判された

8

しかしこれらの研究は日本の対中外交の一貫性を強調した反面、その変化を十分に捉え きれていない。国交正常化以前の日中関係を説明する場合に、「二つの中国」と「一つの中 国」という対立的な目標のもとで、日中両国はどのように関係を打開したかという問題を 十分に説明することができない。したがってこれらの研究は、主に戦後日本の対中政策に 焦点を当て、日中関係の変化をあまり論じてこなかった。

3、内政からのアプローチへの再検討(井上正也)

「二つの中国」という分析概念を批判して、日本政府内部の対中政策をめぐる多元性と、

日本の対中外交の変化のダイナミズムに焦点を当てたのは、井上正也の『日中国交正常化 の政治史』である9。井上は次の二つの面で日本対中政策の変化を把握する。(1)「二つの中

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7

国」という概念の再検討である。彼は「二つの中国」を、「中国承認」問題と「台湾の確保」

の問題を分けて、日本政府は1960 年代前半まで前者に重点を置いたが、1960年代後半以 降は、後者に重心を移転したと論じた。(2)戦後日中関係における外交と国内政治との相互 連動である。これは古川万太郎の見方を引き継いだが、井上は「友好勢力」と「中国敵視」

勢力という二元論ではなく、対中政策決定と自民党内の派閥抗争との関連に焦点を当てる。

結論として、彼は、非正式行為主体の交渉介入はある程度の功を奏したが、多くの場合に、

正規外交を阻害したと論じた。

井上の研究は内政からのアプローチの発展に大きな貢献をしたが、その分析にはまだ検 討の余地が残った。

(1)「二つの中国」政策の再検討である。早くも1959年に、外務省官僚は「二つの中国」

政策を、「中共承認」、「国連における中国代表権問題」、「台湾処理」という三つの問題に分 けて考え始めた。池田政権前期(1960~1961年)の対中政策は、日中政府間関係の打開と国連 における中国代表権問題の二つの面で並行的に推進されたが、途中で(1961 年4 月から)そ の焦点を国連における中国代表権問題に集約した。1962年になると、外務省の対中政策の 中心はまた日中政府間関係の打開に戻ることになった。したがって、「二つの中国」政策は、

決して大雑把に1960年代前半と後半のように分けられるものではなく、同じ政権でも、「二 つの中国」政策を実現させるアプローチは変化し続けていた。

(2)「親中国派」(「親台湾派」)と外務省の関係の再検討である。井上は、対中外交におけ

る自民党派閥と外務省の関係を「二元外交」として描いた。だが、「二元外交」とは一体何 か。彼は次のように論じている。

「外務省が一貫して追求したのは、対中国交渉の窓口を政府に集約する「外交一元化」

であった。むろん、(中略)外務省は「非公式接触者」の役割を一概に否定していたわけで はない。外務省の狙いは、日本政府の意を受けた「代理人」が、対中国外交の突破口を 開いた後、正式な政府間交渉に入ることにあった。しかし、こうした試みは挫折に終わ り、親中国派と親台湾派が独自の論理で行動する「多元外交」が逆に進展する結果とな ったのである。」10

つまり井上の論じた「二元外交」は、一言でいえば、親中国派と親台湾派による外務省 主導下の対中あるいは対国府外交への挑戦である。

だがこの論点には少なくとも二つの問題がある。一つは、外務省が追求したのは、正式 な政府間交渉であったのかという問題である。勿論、1950年代に中国側の「平和攻勢」に 対して、外務省内にその構想が存在しており、また1961年の外務省の対中政策検討で、政 府間直接接触の構想も持ち出された。だが1962年になると、外務省が依然として中国政府 との政府間接触に固執したことを証明できる一次資料は皆無である。逆に公開された最新 の史料によると、1962年に外務省内で検討された対中接触構想は、松村謙三という民間ル

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8 ートを活用する間接的な接触と交渉であった。

親台湾派に対しても、外務省は同じ態度であった。日華紛争の解決過程において、政府 間接触より外務省はむしろ親台湾派のルートを活用し、国府との交渉を行う構想であった。

逆に政府間交渉に固執したのは国府側であった。

もう一つは、対中あるいは対国府外交において、親中国派と親台湾派は果たして完全に 独自の論理で行動したのかという問題である。親中国派の高碕達之助は、時々外務省の意 向に反して動いていたが、池田首相と外務省に信頼された松村謙三は、対中外交において 時に池田政権よりもっと慎重な態度を取っており、対中交渉における独自の論理で行動し た証拠はない。自らの独断でプラント条項をLT貿易協定に挿入した高碕の行動も、日本政 府の対中貿易政策の主導性にそれほど影響を与えたものではなかった。公開された外務省 資料によると、LT貿易交渉後、対中貿易に関する日本政府内の検討結果は依然としてケー ス・バイ・ケースで行うという原則であり、高碕交渉の結果に何も拘束されていなかった。

つまり「二元外交」の「二元」を、政策決定権を持っていた外務省と政策決定権を持って いなかった親中国派(親台湾派)との対立と定義すること自体に問題がある。それはむしろ対 中政策決定において省庁間(外務省と通産省)の「二元」、あるいは官僚と内閣の「二元」と 見るべきだろう。

一方日華紛争において、親台湾派の立場も池田政権と対立したわけではない。周鴻慶事 件とプラントの中国大陸向け延べ払いをめぐる対立において、親台湾派はこれらの問題で 国府の理解を得ることを強調したが、国府との交渉で対国府譲歩どころか、むしろ国府側 の譲歩を引き出そうと図った。さらに対国府交渉において、親台湾派も独自の論理で行動 することを意識的に避けていた。石井光次郎は政府間交渉の前に、親台湾派の交渉介入に さえ消極的な態度を持っていた。

要するに、親中国派(親台湾派)は日本と北京政府(国府)の間にあった認識のずれを埋めよ うと図った存在であった。もし彼らが政府の支持を失い、「独自の論理で行動する」アクタ ーになったら、日中関係を改善する力も失うのである(佐藤政権時代)。以上の分析に基づい て、対中外交において外務省と自民党の派閥との関係を再検討すべきところがある。また 仲介役として親中国派(親台湾派)はどのようにして日中(華)双方の認識のずれを縮小し、共 通の土俵を見つけたのかは、井上の内政からのアプローチでは解明できないだろう。

4、国際構造からのアプローチへの再検討(神田豊隆)

対中(台湾)外交における親中国派(親台湾派)の役割について、井上は「功罪両面がある」

と評価したが、実際には親中国派(親台湾派)の「外交一元化」への阻害の側面をより注目し た。この点に対して益尾知佐子は、井上の研究は非公式アクターの役割を軽視し、「外務省 の外交史」になっている危険性があると指摘しており、史料を残した人々を「正史」の主 人公として物語の中心に据え、それ以外を非正規の存在として排除してしまうことで、中 国専門家を中心とする外交官僚の貢献を過度に強調しているように思われると批判した11

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9

その上で神田豊隆は、官僚重視傾向は史料の分布状況と関係があるが、史料の分布状況 に適合的であることが実証性の高さに繋がるとは言えないと指摘し、日本の対中外交と指 導者の秩序観とを結びつけて、政治家の主導性に焦点を当てた12

彼は 60 年代の冷戦構造を米ソ・デタントの進行と中国の両超大国からの離反と抽象し、

日本政治家の秩序観を「日米中」提携(中ソ離反支持)と「日米中ソ」連携(米ソ・デタント 支持)に類型化して、60年代の日本対中政策の歴史をこの二種類の戦略を持っていた日本政 治家間のやり取りとして描いた。

明らかに神田の研究は、対中外交における政治家の考えを中心にすえるだけでなく、日 本を取り巻く国際政治環境と日本との「接点」に注目した添谷の国際構造アプローチをも 引き継いでいる。勿論彼にとっては、対中外交において日本の政治家がすでに国際構造に 受動的に順応するものではなく、自らのアジア秩序観を積極的に推進した主導者に転換し ている。

神田の政治家の秩序観から日本外交を理解しようという問題意識は評価された。しかし、

その研究に対する批判も存在していた。中心的な問題は、日本政治家の秩序観を「日米中」

提携と「日米中ソ」連携に類型化したことは適当であるかどうかという点である。佐橋亮 は「断片的」な言葉を合理的に構築されたスタティックな鋳型に落とし込めば、自然と限 界を来すと指摘した13。実際に、本論に論じたように、同じ「日米中」提携派に類型化され た吉田茂、池田勇人、松村謙三、佐藤栄作の中国観は異なっているところは多い。

しかも「日米中」提携にせよ、「日米中ソ」連携にせよ、日本の政治家がみな対中提携派 と印象づけられる。これは明らかに日本の保守政治家の共産国としての中国への警戒感を 捨象している。実際に中国共産主義の性格を軽視し、「逆浸透」を唱え続けていた吉田茂で も、1957年に中国政府と社会党の接近に応じて、中国共産主義の対日浸透を警戒し始めた。

それも吉田の中国政策論に大きな影響を与えた。

具体的な事例として、1960年に発足した池田政権は前向きな政策を取っていたが、吉田 はかえってその動きに反対し、1961年3月の段階で外務省の対中接近論を強く諌めていた。

この対中政策における吉田と池田の対立は「日米中」提携派という言葉で簡単に説明でき ないだろう。

さらに神田は対中外交における首相、外相などの政治家決定者の重要性を強調したが、

政治家の秩序観がどのように政策決定過程に結びつくのか、という問題を残した。例えば、

「日米中」提携の秩序観の持ち主としての吉田、池田、或いは佐藤は、対中接近の政策構 想を持っていたが、それは決して日中関係を打開するために、中国側の要求をすべて受け 入れるというものではなかった(1960 年代の中国の秩序観は「反ソ・反米」であった)。中 国との相互作用において、日本の政治家はどのようにして、自らの秩序観を守ると同時に、

中国政府との関係打開を実現させたかについては、より綿密な検討が必要である。

外交は自らの秩序観に沿って、政策構想を直線的に推進するものではない。政策対象か らのフィードバックを受けてその政策を修正し続け、螺旋的に推進するものである。政策

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対象との相互作用を捨象した対中外交の検討は、やはり限界があるだろう。

5、相互作用からのアプローチ

相互作用からのアプローチで日中関係を検討した研究はないわけではない。前掲田中明 彦の研究はすでに、日中関係を分析する三種類のアプローチを提示した。ただ、史料的制 約によって、田中の研究は日中両国の相互のやり取りのダイナミックスを十分に論じては いなかった。

近年、日中両国の史料の公開により、相互作用からのアプローチで日中関係を研究する ことが可能になった。その代表として、杉浦康之の論文が挙げられる。彼は中国側の史料 を利用し、岸政権時代における中国政府の対日情勢認識と対日政策決定との関係を検討し、

中国の対日情報関連組織の恣意的な情勢分析が、政策決定者層を従来の対日強硬姿勢に固 執させたという結論を得ている14

実際に中国の対日情報関連組織で行われた情報収集は、中国対日政策のフィードバック を受ける方式の一種である。正常でない政策のフィードバック(いわゆる恣意的な情勢分析) を受けて、中国政府の対日政策の失敗を招くことになったが、そのフィードバックを正常 化させる可能性があったか。岸時代にそれは難しいかもしれないが、池田時代になると日 中交流の回復によって、中国の対日政策決定者層が、直接に自民党政治家から日本情勢に 関する情報を受けることは可能になった。それは中国の対日政策決定にどのような影響を 与えたか、対日政策の柔軟化を促進させたか。それらの問題を解明するには、日中相互作 用からのアプローチで日中関係を再検討することが必要である。

6、池田政権期の日中関係に関する最近の研究の試み

近年、池田政権期の日中関係を中心とする研究も多数行われてきた。ここで紹介すべき ものは崔文香と李雪との論文である。

崔文香は日中関係において池田政権が果たした役割を見直し、池田政権を取り巻く国際 的要因と国内的要因を包括的に分析して、次のように指摘した。

(1) 日本政府は東西冷戦という国際環境に制約されながら、ほぼ一貫して中国との経済 関係、特に貿易関係を設定・維持したいとの志向を持ち続けてきた。

(2) 少数の「日中友好人士」の活動も、非公開のものをも含む政府の実質的支持があっ てはじめて経済関係の拡大に結び付けられることが多かったのが現実であった。

(3) 歴代の内閣の中には中国との経済関係の強化のために、中国との政治関係の実質的 強化にまで踏み込もうとした例もあった。

(4) 50年代から60年代に到る中国は、激しい政治的経済的変動を経験している。した がってこれを反映して、中国の対日政策も時期によって具体的には大きく変化して いる15

李雪は「LT貿易」の成立過程を検討し、松村謙三などの「友好人士」が果たした役割を

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評価した上で、池田内閣のメンバーの動き、及び外務省と通産省の動向を論じて、対中外 交で日本政府の持っていた政治意図を指摘した。結論は次のようなものである。

(1) 池田内閣は、日中貿易の再開拡大による経済的利益の確保と国内世論への対策という 目的を有し、民間貿易を通じて交易条件や貿易規模の「西欧並み」という戦略的観点 から重視していた。池田内閣は非政府アクターや民間組織と接触して、「経済外交」

という手段を利用して日中関係を模索していた。

(2) 日中貿易再開に際しての最大の障害は、台湾をめぐる政治的対立である。池田政権の 対中政策は自主的な側面を持っていたが、日米協調という外交政策の基本枠から脱し てはいなかった。

(3) 「LT貿易」成立については「民間貿易」とされるが、実は池田内閣(日本政府)の意思 がかなり強く働いていたと言える。「LT貿易」成立の過程からわかるように、池田内 閣は、日中貿易拡大に関心を示し、「友好貿易」とは異なる日中貿易の再構築という 政治的成果を重視していた。16

崔文香と李雪の論文は池田政権の対中政策を制約する国際環境と内政要因を指摘したが、

その対中政策の自主性をも強調した。特に対中外交における親中国派と池田政権の協力関 係を強調することで、日中連絡・交渉ルートとしての親中国派の性格を明らかにした。し かし、彼らの研究は少なくとも次の3点でさらに検討する必要がある。

(1) 第一は親中国派ルートの形成過程である。松村謙三と池田勇人の信頼関係は論を俟 たないが、松村をはじめとする親中国派が如何にして中国政府に受け容れられたか を究明する必要がある。周知のように、1958年長崎国旗事件以降から池田政権初期

(1960~1961年)まで、中国の対日工作は社会党をはじめとする革新陣営を中心に展

開されたものであった。だがなぜ 1962 年以降は、中国政府の対日工作が自民党中 心に転じたのか。以上の問題を究明するためには、親中国派ルートの形成過程をさ らに検討する必要がある。要するに、親中国派と呼ばれるのは松村らの政策主張に よるのみならず、彼らが持っていた日中間連絡ルートこそがより重要な要因である。

(2) 崔文香と李雪の論文は対中外交における親中国派と池田との協力関係を強調したが、

どちらが主導したかを明らかにしていなかった。つまり親中国派が主導した場合に は、正式外交を妨げる「二元外交」であったが、逆に池田が主導した場合には、対 中外交における池田の政治主導を示しており、親中国派は池田政権の対中外交ルー トとしての性格がより強かった。

(3) 李雪の論文は政策決定過程における池田内閣のメンバーの動き、及び外務省と通産 省の動向を検討したが、政策決定過程においてこれらのアクターと自民党親中国派 とのインターアクションを検討していなかった。対中外交は日中両国の相互作用の 下で推進されていたものであった。相互作用のルートとしての親中国派は如何にし て中国政府の注文を伝えたのか、官僚及び池田内閣はどのようにそれを受け入れた

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のか。日中相互作用を検討するには無視できない問題である。

三、本研究の分析視角

以上の先行研究を踏まえて、本稿は二国間の相互作用のアプローチで池田政権期の日中 関係を検討する。そこでは次の三点を分析視角とする。

第一に、二国間の相互作用の下で、中国の対日政策が如何に微調整されたかという問題 に焦点を当てる。「日本中立化」という対日基本戦略は 1955 年に形成されてから不動のも のになったが、具体的な政策面で中国の対日政策は変化し続けた。だが問題になるのは、

その政策転化がどのように実現されたかである。本稿では、中国の対日工作過程で、中国 政府と政策対象(自民党親中国派、社会党、貿易団体など)とのやり取りに焦点を当て、政策 対象からのフィードバックを受けて、中国政府が如何に政策を微調整したかを究明する。

その政策微調整が積み重ねられた結果、中国対日政策の転換が実現できたのである。

第二に、日中相互作用と池田政権の対中政策の変化との繋がりを検討する。直接的な政 府間接触がなかったため、日中相互作用は民間を通じて展開された。その中心的な問題は 外務省と国内政治勢力との関係、特に親中国派(親台湾派)との関係である。外務省と国内政 治勢力との関係は、内政のアプローチでよく検討されている。しかし本稿では、国内政治 勢力が外務省の「外交一元化」を阻害するという点ではなく、対中外交と対国府外交にお いて、親中国派と親台湾派をともに交渉ルートとして利用した外務省の対中外交構想に焦 点を当て、二国間相互作用のアプローチで、中国の対日工作の対策として、外務省が如何 に対中外交を推進したかを究明する。

具体的な問題として次の二点を挙げる。(1)1961年、外務省内の対中関係打開案は政府間 接触を中心とした内容であったが、なぜ1962年にいたって、親中国派というインフォーマ ルな交渉ルートを選んだのか。(2)インフォーマルな交渉ルートの利用は日本政府の対中政 策決定構造に如何なる影響を与えたか。外務省はどのような立場を取っていたか。本稿は 以上の二つの問題を念頭に、池田政権期に外務省の対中関係打開外交の推進過程を究明す る。

第三に、日中間の「共通の土俵」の維持・崩壊過程とその原因を検討する。以上の二点 を包括的にいえば、日中両政府が如何に相互作用して、共通の土俵を見つけるに至ったか、

その過程の分析である。だが共通の土俵に乗った日中両国は依然として、異なる戦略的な 目標を持っており、関係を対立に戻す可能性も高かった。本稿では、「共通の土俵」の維持 と崩壊をめぐる日中両国の相互作用に焦点を当て、池田政権後期において日中間の「共通 の土俵」がどのように維持されたか、それが佐藤政権になってなぜ崩壊したかという問題 をも解明する。

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13 四、本稿の構成

本稿は全5章から構成されている。第一章では、主に1950年代の中国の対日工作と日本 の対中外交の形成と変化を検討する。1950年代は両国政策の試行錯誤の時期とも言える。

この時期に中国は「日本中立化」という対日戦略を形成したのみならず、対日工作も「軍 民分離」、「以民促官」、対社会党工作と、変貌し続けた。一方、日本の場合には、政治家に とっても外務省の官僚にとっても、1950年代は戦後「中国観」の形成期であった。情勢の 推移に伴い、政治家と外務省官僚の対「中共」対策も変化を続けた。だが、いずれにせよ、

中国の対日工作が日本の民間を中心に展開されたことと対照的に、日本の対中外交は、政 府間の接触、即ち「外交一元化」を強調していた。

第二章では、池田政権初期における中国対日工作と日本対中外交の交差と平行を検討す る。平行的に推し進められた日中両国の外交の失敗によって、両国はともに政策転換を迫 られたが、交差部分での相互作用によって、日中双方の認識のずれは次第に縮小され、自 民党親中国派という政府間の連絡ルートも形成された。それは日中関係打開への道筋をつ けることになった。

具体的には、中国の場合は中国の対自民党工作と対社会党工作を検討する。対社会党工 作の失敗は民間を中心とした対日工作の行き詰まりを示しているが、対自民党工作によっ て自民党親中国派という政府間連絡ルートが形成され、中国政府の対池田政権の認識も次 第に変わった。日本の場合は日中政府間関係の打開の問題と国連における中国代表権の問 題という対中外交の二つの面を検討する。前者の失敗は外務省の「外交一元化」方針の放 棄に繋がっていたが、後者の失敗は池田政権の対中政策を、自由主義諸国協調の優先から 前向きな対中政策優先へと転換させることに伏線を敷くことになった。

第三章では、次の二つの問題点をめぐって、池田政権後期において、共通の土俵に乗っ た対日工作と対中外交との相互作用を検討する。(1) 日中両国がどのように共通の土俵を作 ったのか。本章では日中間のインフォーマル交渉ルートの形成過程と、延べ払い輸出とい う日中間の政策つながりの形成過程という二つの面からこの問題を究明する。(2) 池田政権 の後期において共通の土俵に乗った日中双方は如何にして対日工作と対中外交を展開した のか。共通の土俵に乗ったとはいえ、両国政府により「日本中立化」と「二つの中国」と いう相互に対立的な戦略目標が依然として推進されていた。だがLT貿易以降、その外交戦 略の推進方法が変わった。本章では対立的な戦略目標に向けて邁進した日中双方が、なぜ 相手を警戒せずその動きを評価したのかを究明する。

第四章では、1963~1964 年の日華紛争を検討する。先行研究は、日華紛争の解決におけ る外務省と自民党親台湾派の関係に常に焦点を当て、親台湾派は紛争の解決に助力したが、

池田政権の「外交一元化」をも妨害したと論じてきた。だがこの国内政治のアプローチに は少なくとも次の三つの問題点がある。(1)日華紛争の解決過程において、外務省は「外交 一元化」を強調し続けていたか。(2)紛争解決の過程において、日華協力委員会をはじめと

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する親台湾派の動きは、単に国府の立場に同調し、池田政権に働きかけることに過ぎなか ったのか。(3)国府側はフォーマルな外交ルートより、親台湾派というインフォーマルな外 交ルートをより重視したか。本章では、以上の三つの問題点を念頭に置きながら、国内政 治のアプローチではなく、二国間の相互作用からのアプローチで、周鴻慶事件とその後の 日華交渉の過程を検討する。

第五章では池田政権期において形成された「共通の土俵」はなぜ佐藤政権において崩壊 したのかという問題を検討する。先行研究は佐藤の対中前向きな姿勢を説明したが、なぜ 中国政府が強硬姿勢でそれに対応したかを検討していない。本章では佐藤政権初期におけ る日中相互作用に焦点を当て、この問題を説明する。即ち佐藤政権初期の日中間のやり取 りで、仲介役は日中間の認識のずれを埋めるどころか、むしろそれを拡大の方向に進める と論じて、その過程と原因を究明する。

1 国交正常化以前の日中関係の「一進一退」の様相については、多くの先行研究で言及され ている。例えば、石川忠雄、中嶋嶺雄、池井優 編集『戦後資料日中関係』日本評論社、

1970年。(同書は、戦後の日中関係を、1949年~1952年、1953年~1957年前半、1957年 後半~1962年前半、1962年後半~1965年前半、1965年後半~現在(1970年)という五つの時 期に区分して、日中関係の変化を説明する。) 五百旗頭真 編『戦後日本外交史』(新版)

有斐閣、2006年、(執筆者:田所昌幸)。田中明彦『日中関係1945~1990』東京大学出版会、

1991年。(田中は日中貿易を便利な指標として、日中関係の推移を大掴みに検討したが、同

じ結論を得た。)

2 中国国内政治と対日外交の連動を証明する断片的な一次資料が存在しているが、その政治 過程を究明する史料がまだ不足である。杉浦康之「中国の「日本中立化」政策と対日情勢 認識 第四次日中民間貿易協定交渉過程と長崎国旗事件を中心に」『アジア研究』54巻、4 号、2008年10月。

3 古川万太郎『日中戦後関係史』原書房、1988年。

4 衛藤瀋吉「中国は国際社会をどう見ているか」『衛藤瀋吉著作集』第五巻、東方書店、2004 年、137~151頁。

5 田中明彦『日中関係1945~1990』東京大学出版会、1991年。

6 李恩民『中日民間経済外交(1945~1972)』人民出版社、1997年。 王偉彬『中国と日本 の外交政策―1950年代を中心にみた国交正常化へのプロセス』ミネルヴァ書房、2004年。

また、戦後日本の対中政策を検討した研究も中国対日政策の変化を論じる際に、その見方 を引き継いだ。例えば、井上正也『日中国交正常化の政治史』名古屋大学出版会、2010年、

135~136、249~250頁。

7 国際構造からのアプローチで日中関係を分析する研究は多数存在している(例えば、田中 明彦『日中関係1945~1990』東京大学出版会、1991年。緒方貞子(添谷芳秀訳)『戦後日中 関係・米中関係』東京大学出版会、1992年。添谷芳秀『日本外交と中国 1945~1972』慶 応義塾大学、1995年)が、そのアプローチで国交正常化以前の日中関係を包括的に検討した のは、添谷の研究である。

8 陳肇斌『戦後日本の中国政策』東京大学出版会、2000年。池田直隆『日米関係と「二つ の中国」』木鐸社、2004年。殷燕軍「一九六〇年代における日中関係の特徴」『経済経営研 究所年報』26号、2004年、佐藤晋「佐藤政権期のアジア政策」(波多野澄雄『池田・佐藤 政権期の日本外交』ミネルヴァ書房、2004年)

9 井上正也『日中国交正常化の政治史』名古屋大学出版会、2010年。

10 同上、296頁

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11 益尾知佐子〈書評〉「井上正也著 名古屋大学出版会『日中国交正常化の政治史』」『中国 研究月報』第65巻第11号、42~44頁。

12 神田豊隆『冷戦構造の変容と日本の対中外交 二つの秩序観1960~1972』岩波書店、

2012年、3~5頁。

13 佐橋亮〈書評〉「神田豊隆著 『冷戦構造の変容と日本の対中外交』」、日本国際政治学会 編『国際政治研究の先端10』(国際政治172号)162~165頁。

14 杉浦康之「中国の「日本中立化」政策と対日情勢認識――岸信介内閣の成立から「岸批 判」展開まで」『法学政治学論究』70号、2006年。「中国の「日本中立化」政策と対日情勢 認識――第四次日中民間貿易協定交渉過程と長崎国旗事件を中心に」『アジア研究』54巻4 号、2008年10月。「中国の「日本中立化」政策と対日情勢認識――日本社会党の訪中と日 本国内の反米・反岸闘争の相互連鎖(1958年6月~1959年6月) 」『近きに在りて』56号、

2009年11月。

15 崔文香「池田内閣における対中経済政策:ビニロン・プラント事件を中心に」(廣瀬克哉 指導)法政大学大学院修士論文、法政大学図書館。

16 李雪「池田内閣期の日中関係について:「LT貿易」の成立を中心として」(塚本元指導) 法政大学大学院修士学位論文、法政大学図書館。

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第一章 異なる次元での対日工作と対中外交( 1950 年代)

戦後の日中関係が当時の国際構造に左右されたことは論を俟たない。多数講和と日華平 和条約の締結によって、異なる陣営に属した日本と中華人民共和国との国交樹立は後回し にされた。しかし日中両国は、いずれも相手を度外視することはできず、その後の 20 年 余り、それぞれ自国の戦略構想に沿い、日中関係構築に向けて模索した。

1950年代は日中両国の相手国に対する政策の試行期とも言える。この間に「二つの中国」

と「日本中立化」という日中両国の戦略目標が確立されたが、その目標を実現する手立て はまだ手探りの状態であった。中国政府の対日工作は「日本人民」を中心にして行われた が、その推進に伴い「日本人民」の中身と具体的な政策は変化し続けた。一方で日本政府 は、対中外交で自由主義陣営の共同歩調を重視しながら、米国の「封じ込め政策」以外に 自らの対中政策を模索し続けていった。結局、情勢の推移によって日本の対中外交は振り 子のように二つの間で揺れただけでなく、対中関係打開でも中国政府の出方によりその対 策は変化し続けた。

総じて言えば、1950年代の日本の対中外交と中国の対日工作は異なる次元で行われたも のである。民間中心論を取っていた中国政府は、日本民間を梃子にして日本政府の政策に 影響を与えることで日中関係の主導権を取ろうとしたが、日本政府は自由主義諸国との協 調を念頭に置きながら、中国対日工作の対策として民間を排除する日中政府間の接触・交 渉の推進に傾いていた。こうした状況は 50 年代末の岸政権期に至って一段と固まってい った。中国政府はそれまでの「以民促官」政策を放棄して、日本政府との対立を民間に呼 びかけることで日中関係を完全に日本民間と中国政府との関係へと転化させることになっ たが、日本政府は自由主義諸国との政策協調で「二つの中国」政策を推進しながら、「政経 分離」の建前の下で日中政府間接触の試みを一応棚上げした。

本章では 1950 年代に中国の対日工作と日本の対中外交の進展を辿り、異なる次元で展 開された両国外交の様相を明らかにする。

さらに第二章の伏線として、本章では政治家レベルで池田政権期の対中政策に重要な影 響を与えた吉田茂、松村謙三及び宏池会の中国観と対中政策構想の形成過程をも検討する。

先行研究は往々にして戦前中国勤務の経歴と他人から受けた影響という静的な視点から政 治家の中国観を論じたが、本章ではそれも重視しながら、1950年代に日中関係の推移が政 治家の中国観形成にどのような影響を与えたかというダイナミックな視点から、政治家の 中国観の形成過程を検討する。

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第一節 対日工作における民間中心の形成と変遷(1950年代)

毛沢東時代の中国外交は、毛沢東自身の国際秩序観に深くかかわっている。それは中国 外交の方向を決める要因として常に外交政策に大きな影響を与えていた。対日政策も例外 ではない。だが国際秩序観だけでその時代の中国外交を説明するのは限界がある。中国政 府は対外戦略推進の過程で、各国の実情に基づき、その国に対する具体的な政策を検討・

修正し続けていた。本節では、毛沢東の国際秩序観の変化が中国対日外交の方向性にもた らした影響を念頭におきながら、対日外交推進の文脈でその具体的な政策がどのように形 成されたかを究明する。

毛沢東の国際秩序観―「中間地帯」論

1921年に成立された中国共産党は、当初コミンテルンの中国支部として活動していた。

したがって、創設期の中国共産党は国内問題に立ち向かうと同時に、コミンテルンとその 背後にあるソ連との関係にも同等の精力を払わざるを得なかった。中国共産党前期の歴史 は、中共とコミンテルン・ソ連の関係、及びそれにより中共内部の本土派と国際派との闘 争がその発展に大きな影響を及ぼし、中国共産党の国際秩序観にも波及したことは否めな い1

中共とコミンテルンとの関係を検討するのは本論の趣旨ではない。いずれにせよ、1941 年、王明の影響力が中共から取り除かれた後、党内の派閥闘争で毛沢東が勝利を収めた2。 それにもかかわらず、中国共産党とソ連共産党の関係という課題は依然として残された。

毛沢東をはじめとする本土派はソ連からの干渉に抵抗したが3、イデオロギーを共有してい たソ連共産党との関係を断つ考えは全くなかった。とりわけ1930 年代以降、日本の侵略 に直面した毛沢東は、ソ連からの国際的な援助に期待を寄せ、中国革命を世界共産主義革 命の一部と強調し、常にソ連に好意を持っていた4

しかしそれは、毛沢東がコミンテルンとソ連の指示通りに動くことを意味したわけでは ない。1941 年ドイツ軍の攻勢を前に、ソ連は背後での関東軍の攻撃を懸念し、八路軍(中 国共産党軍隊)が中国の華北に駐在していた日本軍を攻撃することで日本軍を牽制するよ う中共に打電したが、毛沢東は共産党軍隊の全滅を招きかねないこの要請を断固として拒 否した5。こうした戦略での食い違いは、中国革命に関する意見対立に加えて、1941 年か ら 1944 年の間に中国共産党とソ連共産党の関係後退を導いた。スターリンは中共を農民 政党とみなし、共産主義への信念の堅固ささえ疑っていた6

1945年になって、第二次世界大戦が収束に向かうことに伴い、毛沢東はソ連との関係を 改めて重視し始めた。4月5日、ソ連が「日ソ中立条約」を「延長しない」ことを通告し た。それを受けて4月18日、毛沢東は中国東北部(旧満州)と華北に来るべきソ連軍の対日 作戦に協力する旨の指示を中共晋察冀分局に出し7、さらにその直後の中国共産党第7回代

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表大会でその後の作戦中心を大都市に転じ、東北、華北などの大都市を中国共産党の支配 下に置く構想を明らかにした8。当時毛沢東は中国共産党軍の力不足を認識したが、その雄 大な目標の背後には、無論ソ連からの援助への期待があった9

しかしソ連はこの時、毛沢東の戦略構想を支持したわけではなかった。米国との関係に 配慮していたソ連は中国政局を安定させるため、国民党政府との関係をより重視していた。

国共紛争についてスターリンは、中国共産党と国民党の平和交渉を望んでいた10。 毛沢東はソ連の態度に失望した。彼はソ連からの援助を断念したが、依然として日本降 伏の機会を利用して、中国各地に散在していた共産党軍にできるだけ根拠地を拡大させ、

来るべき国共内戦に準備するように命令を出した11

とはいえ、中共が受けた国際的な圧力は極めて大きかった。9月2日付、マッカーサー 連合国最高司令官の布告「一般命令第1号」には、旧満州を除いて台湾を含めた中国本土 に駐留している日本軍は国民政府に降伏すると規定していた。中国共産党軍は日本軍の降 伏を受ける合法的な権限すら得られなかった12

米ソ共同の中国政策を前に、中国共産党は平和交渉の要請を受けいれることを余儀なく された。8月28日、毛沢東、周恩来らはハーレー駐華アメリカ大使の同行の下で、国民政 府との交渉のため重慶に向けて出発した。米ソ干渉と平和を望む国内世論の下で、国共両 方は最終的に『双十協定』という平和協定を締結した13。だが蒋介石にせよ、毛沢東にせ よ、誰もこの平和協定に過大の期待を持ってはいなかった。1946年6月の内戦再開まで、

局地的な国共摩擦乃至戦いは絶えなかった14

平和協定の締結から内戦再開までの間、毛沢東はソ連支配下の中国東北部に目をつけた。

彼は中共軍に東北進出の命令を出し、華北と東北を中共支配下に置く構想を着実に推進し ていった15。ソ連は最初は共産党軍の東北進出に慎重な態度を取っていたが、9 月の末に 米国政府が間接的に国共内戦に介入した情報を得て、毛沢東支持の立場に回った16。ソ連 の支持の下で中共軍は東北に繋がる陸上交通線を遮断した上、葫芦島、営口という二つの 重要な港を占拠し、国民党軍隊の東北進出を阻止した。毛沢東はソ連軍が東北から撤退し た後、東北全域を支配下に置くための準備を進めた17

ソ連軍からの東北施政権の引き継ぎを妨害されて、蒋介石はソ連との交渉を中止し、対 決的な姿勢を見せていた。1945年末のソ連は、東北問題で国民党政府乃至米国と対抗する 意図はなかった。このため国民党政府の強固な姿勢を前に、スターリンは国民党政府の中 立と米軍の東北進出禁止を条件として、国民党政府の東北支配に協力すると譲歩した18。 その後、ソ連軍は東北にいる中共勢力の拡張を制限し始めた。そもそも1945年11月末 に撤退を完了する予定であったソ連軍は、政権を国民党政府に引き渡すまで撤退を延期す ることにした。一方ですでに東北に進駐した中共軍に対して、ソ連は大都市と重要な鉄道 線から撤退するよう求めた19。ソ連軍は以上の地域から中共の勢力を追い出すために、武 力行使も辞さないとの命令さえ受けていた20

ソ連の態度の急変によって、中共軍隊は大都市と重要な鉄道線から撤退することを余儀

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