「政経分離」と「政経不可分」のスローガンは岸政権期の日中対立を端的に表した。そ の背後に潜んでいたのは、「外交一元化」を狙う対中外交と、左派運動を中心にする対日工 作との対立である。「政経不可分」を唱えた中国政府は自らの立場に同調する日本の左派勢 力(主に社会党と共産党)の貿易要求を受け入れ、日本国内で中国政府に有利な世論を引き起 こすように図った。一方、「政経分離」を唱えた日本政府は、積極的な意味で日中関係に対 する左派勢力の関与を排除するために、承認に繋がらない政府間の交渉を実現させようと したが(中国課と香港総領事館を代表とする)、他方で消極的な意味で日本国内に向けて中国 の政治的貿易に乗らないように啓発工作を行い、世論を左派の宣伝から日本政府に有利な 方向に転換させようとした(外務省の主流)。こうして岸政権期における日中両国の対中外交 と対日工作は、平行的乃至対立的に推し進められていた。
この岸時代に残された日中関係の負の遺産が池田政権期の日中関係に影響を及ばし、左 派中心の対日工作と対中「外交一元化」の対立が続いた。それに加えて1961年4月以降、
外務省はさらに中国問題を国連における中国代表権問題に集約して、日中政府間接触を後 回しにした。こうした対日工作と対中外交の平行は明らかに日中関係打開を遅らせること になった。
とはいえ新政権の誕生によって、中国の対日工作と日本の対中外交にはいずれも新しい 変化が起きた。これらの変化は日中対立の状況を変えはしなかったが、これまで平行的に 推し進められた対日工作と対中外交には交差の部分が生まれた。この交差の部分での日中 相互作用を通じて、両国はともに漸進的な政策調整を行った。それは1962年のLT貿易の 成立に伏線を敷いた。
本章では、池田政権初期における中国対日工作と日本対中外交の交差と平行をそれぞれ 検討する。平行的に推し進められた日中両国の外交の失敗によって、両国はともに政策転 換を迫られたが、交差部分での相互作用によって、日中双方の認識のずれの差は次第に縮 小され、政府間の連絡ルートも形成された。それは日中関係打開への道筋をつけることに なった。
本章の第一節では、中国対日工作と日本対中外交の交差の部分を検討する。池田政権発 足後、中国政府は自民党親中国派を池田政権内の反対派にさせるため、対自民党工作を積 極的に推進していった。一方日本側では池田首相が中国の政治的貿易を打破するため、及 び外務省が日中政府間交渉に関する中国側の意向を打診するため、それぞれ親中国派の訪 中を積極的に支持した。こうした異なる目的を持っていた日中双方は相互作用を通じて、
双方の認識のずれの差を縮小させ、政策を調整し続けていった。結果的に、池田政権と中 国政府との間に自民党親中国派という連絡ルートが形成されることになった。
本章の第二節では、池田政権初期において、社会党を中心とした中国の民間外交の展開 過程を検討する。1958年の警職法闘争と 1960年の安保闘争において、社会党は日本共産
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党と連携して岸政権に反対する姿勢を明確にした。さらに1959年に訪中した浅沼稲次郎は
「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵だ」という世間を驚かせる発言を行い、社 会党の左傾化を加速させた。こうした情勢下で「日米離間」と「日本中立化」を達成させ るために、中国政府は社会党との関係を緊密化させて、その反米・反岸の姿勢が持続する ことに向けて対社会党工作を推進した。しかし池田政権になって、社会党内に親米、親中 ソという「積極中立」を唱える声は再び主流になった。中国政府と社会党の間には激しい 意見対立が生じ、遂に中国政府の対社会党工作の失敗を招いた。対社会党工作の失敗によ って、中国政府の対日民間外交は重要な足掛かりを失い、その対日政策も転換を迫られた。
第三節では、池田政権初期の対中外交の過程を検討する。自民党内親中国派を通じて中 国政府との間に連絡を取ることは、池田首相と小坂外相などの政治家の主導下に行われた 対中外交とも言える。外務省はそれを支持したが、「外交一元化」の路線を放棄したわけで はない。つまり、外務省は対中打診について民間関与を認めたが、交渉の場合には依然と して政府交渉に固執した。こうした考え方の下で外務省内にアジア局と中国課をはじめと する自主的な対中政策を唱えた勢力は、日中政府間接触の構想を試行した。一方で国連に おける中国代表権問題の浮上により、外務省内に対中政策で自由主義陣営の協調路線を重 視する勢力は、欧米に向けて「二つの中国」外交を展開した。結局この二つの対中外交路 線は共に失敗に終わったが、対中交渉における民間関与を認める外務省の新たな対中外交 路線の確立に向けて道筋を付けた。
第一節 自民党内親中国派と中国の対自民党工作 対自民党工作の発端と中国の対池田政権政策
1、対自民党工作の発端
1957年から展開された対社会党工作によって、中国政府は国交正常化及び「一つの中国」
問題において、日本国内に世論を喚起する強い政治勢力を見つけたのみならず、安保闘争 の中で、社会党の「反米姿勢」を強化させ、「日米離間」の戦略を推進することになった1。 その成功に乗じて、1959年になって、中国政府はさらに自民党の反主流派を視野に収め、
彼らを反安保・反岸統一戦線に引き入れ、「政経分離」と「二つの中国」政策を取っていた 岸政権により大きな打撃を与えようとした。それは対自民党工作の発端になった。
選定された反主流派の代表人物は石橋湛山と松村謙三であった。中国政府と両者との繋 がりは1957年に遡ることができる。1957年12月に廖承志が訪日した際に、かねて知りあ いであった宮崎龍介と堀池友治に「しっかりした保守党政治家と話をしてみたい」と述べ
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たが、二人は自民党内に進歩的な考え方を持つリーダーとして、石橋と松村の名をあげた。
その後、宮崎・堀池の斡旋で廖承志は石橋邸において二人との初対面を果たし、日中関係 問題を率直に語り合い、互いに信頼関係を築いた2。中国の対日政策に大きな発言権を持っ ていた廖承志との信頼関係によって、中国の対自民党工作が石橋と松村への工作から取り 掛かったということは意外ではないだろう。
しかし、石橋、松村を「政治三原則」に同調させる工作はそれほど順調ではなかった。
日中貿易促進会の専務理事である鈴木一雄の働きかけによって、石橋は訪中を決意したが 3、
「政治三原則」をそのまま受け入れる意向はなく、1959年6月4日付の周恩来宛の書簡で、
日中関係を打開する自らの考え方を表明した。後に「石橋三原則」と称された石橋の見解 は、意識的に「二つの中国」と国交正常化などの問題を回避し、ただ、抽象的に経済、政 治、文化において、日中両国の交流を自由に行えるようにし、お互いに日米関係と中ソ関 係を尊重する「平和共存」を唱えるものであった4。7月10日付の書簡で、石橋はさらに中 国政府がその見解を受諾するかどうかを訪中の前提として示していた5。
勿論、中国政府に「政治三原則」を放棄させるのは不可能なことであった。8月20日、
中国政府は廖承志の名義で社会党の風見章宛に書簡を送り、彼に石橋訪中の斡旋を依頼し た。書簡の内容としては、石橋、松村二人の訪中に歓迎の意を示し、石橋訪中の招待状を 伝送することを依頼する以外に、中国政府が張・浅沼共同声明の原則的立場6を堅持し、一 歩も譲らないことをも強調した7。社会党を通じて、石橋、松村二人に働きかける中国政府 の狙いは明らかであった。
風見の斡旋で、石橋の訪中はようやく実現した。しかし北京での交渉は極めて難航した。
9月12日から 14 日までの石橋・廖承志の三回の会談で、岸政権への批判、台湾問題、安 保改定などの問題で両方の意見は平行線のままであった8。最終的なコミュニケに中国側は
「政治三原則」を書き込もうとしたが、石橋は双方が「国内攪乱、分断を図ると疑われる ような政策並びに外部からの干渉を排除する」という規範を明確にすることを堅持した9。 結局、石橋自身の発意によって、内政干渉に関する字句を取り下げたが、双方の意見の相 違は明らかであった10。
石橋の後に訪中した松村は、「政治三原則」を受け入れないことで石橋と同様の立場を取 った。10月25日の松村・周恩来の車中会談で、周恩来は安保改定の問題と岸政権の「中国 敵視政策」を激しく非難したが、松村は「岸内閣は決して中国を敵視などしていない。安 保改定は、中国で考えているほど重大な問題ではない。単にこれまでの不平等条約を平等 な形に改めることだけである。」と懸命に弁明して、中国の対日強硬姿勢を和らげようと努 めた。結局、原則的な問題で両方の意見相違が解消されずに会談を終えた11。
しかし、石橋、松村訪中を中心とした中国政府の対自民党工作は挫折に終わったとは言 えない。二人は「政治三原則」を中心とする中国政府の立場に同調しなかったが、岸政権 の対中政策に反対する姿勢を示した。10月27日、帰国後の石橋は大阪での記者会見で、「今 の内閣の日中問題に対する態度や政策を変えよといっても、それはむずかしい。はっきり