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共通の土俵に乗った対日工作と対中外交( 1962~1964 )

1962年前半、対日工作と対中外交はいずれも難航していた。中国政府の強硬姿勢が自民 党親中国派に批判されたことで、対自民党工作は足踏み状態であった。対社会党工作は工 作内容のイデオロギー化により、社会党指導部との対立が激化することになった。一方、

池田政権の対中外交も行き詰まっていた。自由主義陣営の協調で「二つの中国」を固める 構想が失敗し、国内に高まっていた日中関係打開のムードを前に、どうやって日本政府の 立場を守りながらそれを実現させるか――池田政権はその難問で悩んでいた。

言うまでもなく、日中関係打開の前提としては、日中両政府の間に共通の土俵を築かな ければならない。問題になるのは、中国政府の強硬姿勢の下で日中双方の接点をどうやっ て見つけるかということである。内政アプローチを重視する先行研究は、「岡崎構想」の形 成とそれをめぐる日本政府内部の検討に焦点を当て、日中間の政策接点が形成される経緯 を、日本政府が先に「岡崎構想」に基づき土俵を作って、経済的困難を抱えた中国政府が その土俵に乗ったというふうに描いた1。すなわち、この過程における日中間の相互作用は 捨象された。

本章の第一の課題は、共通の土俵の形成過程で日中間の相互作用の検討である。この相 互作用は少なくとも外務省主導下の対中外交に次の二つの影響を与えた。(1)日中交渉の方 式については、従来「外交一元化」を訴え続けた外務省が同方針を放棄し、民間関与を認 めた。(2)交渉の内容については、郵便、電信などの実務で政府間協定の締結を日中関係打 開の糸口とする外務省が、対中延べ払い問題に目を付けることになった。

結果として、民間関与の日中交渉を通じて日中関係の打開は実現した。だが「外交一元 化」方針の放棄によって、対中外交も外務官僚の主導から政治主導に変わることになった。

そして LT貿易が以降の日本対中政策決定の特徴になった。官僚と与党を統括する池田内 閣は、各省庁と自民党内部に存在していた対立的な意見を調整しながら前向きな対中外交 を推進していった。本章の第二の課題は、対中外交が官僚主導から政治主導に転じる過程 の究明である。

本章の第三の課題は、池田政権の後期において共通の土俵に乗った日中双方は如何にし て対日工作と対中外交を展開したのかの検討である。共通の土俵に乗ったとはいえ、両国 政府は「日本中立化」と「二つの中国」という相互に対立的な戦略目標を依然として推進 していた。だが LT 貿易以降、その外交戦略の推進方法は変わった。本章ではそれを「中 国路線」と「池田路線」と呼び、対立的な戦略目標に向けて邁進した日中双方が、なぜ相 手の動きを警戒せずかえってそれを評価したのかを解明する。

124 第一節 日中間共通の土俵の形成

国連を通じて日中関係打開を図るという日本政府の方策が失敗し、日中間は直接話し合 いによって解決をはかるほかなくなった。この直接話し合いを実現させる前提としては、

日中間に共通の土俵を築かなければならない。だがそれを達成するために、日中関係を主 導しようとした外務省は二つの課題に直面していた。一つは日中間の直接話し合いの内容 と方式である。日本国内では、外務省以外に自民党親中国派や通産省を含めて、多くの意 見が存在していた。これらの意見をどうやって一つにまとめるかは困難な課題であった。

もう一つは中国政府の意向である。第二章で述べたように、外務省はすでに日中政府間接 触を実現させるために様々な案を検討したが、日本政府の政治的譲歩を対話の前提とする 中国政府は、それに一切応じなかった。1962年の日中政府間接触がどのようなルートを通 じて、どの問題を皮切りに展開するかが、外務省にとってもう一つの難問であった。本節 では以上の二つの課題の解決をめぐって、外務省が日中間の共通の土俵を構築した過程を 辿る。

その上、日中間共通の土俵の形成は日中関係の打開を実現させたのみならず、日本政府 の対中政策決定の構造にも影響を及ぼした。本節ではその点にも焦点を当て、対中政策決 定が官僚主導から政治主導に転換された過程を検討する。

民間の日中交渉構想――高碕構想と松村構想

1960年の後半、池田政権の発足につれて中国側は「貿易三原則」を打ち出し、日中貿易 再開の幕を開けた。こうした情勢下、日本国内では中国の貿易政策に同調する革新陣営の ほか、自民党親中国派の政治家たちが友好貿易に反対する立場で、「積み重ね」の日中貿易 構想を打ち出した。その中で後のLT 貿易に大きな影響を与えたのは「高碕構想」と「松 村構想」であった。

「高碕構想」は1960年10月に高碕達之助が初めて訪中した際に持ちかけたものであっ た。政界に進出した元実業家として、高碕は常に日中貿易に関心を寄せており、その拡大 に取り組んでいた。だが政治的貿易に反対し、日中貿易の正常化を訴えた高碕の立場は、

中国の友好貿易政策と真っ向から対立したがゆえに、周恩来との会談で高碕は、友好商社 の推薦権を与えられたほかに何の実質的な進展も遂げえなかった2

とはいえ高碕は意気消沈せず、依然として中国側の態度を転換させる突破口を探し続け た。周恩来との会談後、引き続き中国の各地で産業状況の調査を行った高碕は、三門峡ダ ムを訪れた際、発電所の建設が遅れていることに留意した。ダムは建設されたが、据え付 ける予定の8基の発電機は一基もなかった。案内の人は2年間に4基の発電機をソ連から 買い入れ、残りの4基を自国で製造すると説明したが、高碕は「今春フルシチョフに会っ た際、彼は日本と貿易をやりたいというので、何がほしいかと聞いたら、即座にシベリア

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の発電所で使う水車だと答えた」とソ連から輸入の困難さを告げ、日本から輸入の代替案 を持ち出し、周恩来に伝えるよう中国側の幹部に要請した。高碕はこれを突破口に日中貿 易を正常化させようと思い、帰国の途中、香港駐在の大和田総領事代行に「帰ったら、早 速話して本年中に日立か三菱か、関係の者を派遣する積りだ」と語った3

しかし当時の日中関係の実情から見れば、この貿易構想の実現はほぼ不可能なことであ った。池田政権は日中貿易に反対しなかったが、自民党内に慎重論が広がっていた状況下 では具体的な政策案はなかなか形成できなかった。一方中国側は、貿易より政治的立場を 重視し、三菱のような台湾との繋がりが深い会社と貿易を行うことは考慮の余地さえなか っただろう。こうした事情により、高碕の貿易案は関係省庁の検討さえ行われず不発に終 わった。帰国した高碕も日中間政治問題の解決の重要性を意識して、貿易正常化より、「廖 承志の招聘」、「米中和解」、「国連における中国代表権」などの政治問題に精力を注いだ4

とはいえ高碕は、日中貿易の促進を忘れたわけではなく、さらに自らの構想を日中間「工 業合作」へと発展させることになった5。いわゆる「工業合作」は中国の工業建設を支援す ることで、日中貿易の正常化と拡大を実現させようという考え方であった。だが高碕の雄 大な構想は、明らかに日中関係の現実に合致しなかった。1962年初頭、三門峡ダム用の発 電機の輸出を高碕は再度池田政権に働きかけたが、実現しなかった。結局1962年10月に 貿易代表団を率いて訪中した高碕は、事前に自らの構想を通産省官僚に知らせた上で6、交 渉の段階で日本政府の内示した交渉ラインを超え、プラント輸出問題で大胆な協定を締結 した。高碕は既成事実を作る形で日中「工業合作」を推進してゆくことになった。

日中「工業合作」を訴えた「高碕構想」と違って、松村は「農業合作」を通じて日中協 力を実現させようと図った。いわゆる「松村構想」は一言でいえば、中国の農業不振を端 緒にして、肥料、農薬、農業機械・技術などの輸出を通じて、日中関係を打開する案であ る7。その構想の発端は不明であるが、「アジア協力」を持論とする松村は、1960 年以降、

凶作による中国の農業不振の実情を念頭に練り上げた日中関係打開案だろう。

高碕と同様に、松村も友好貿易という片務的な貿易形式に反対する。1960 年 12 月 29 日、池田を訪問した松村は、「日中関係打開に最もいいのは貿易が正常に順調に発展するこ とであるが、折角貿易が再開されたのに拘わらず、所謂小さい友好商社に牛耳られている のは洵に困ったことで、この事態は何とか打破する必要がある」と強調し、「中共貿易に対 する国内体制を再建し、確立する」よう池田に提言した8。さらに、1961年2月に訪日し た呉学文に対して松村は率直に友好貿易への不満を示し、その意向を中国指導部に伝える よう要請した9。言うまでもなく、これは商売より「松村構想」の強い政治的意味合いを物 語っていた。松村にとっては、「農業合作」は単に日中関係打開の皮切りであり、「積み重 ねの方式」で日中協力を実現させることがその最終的な目標であった。

こうした政治的な意図が強かった「松村構想」に対して、最初は中国政府は受け入れな かったことは言うまでもない。1961 年11月24日、松村は訪日した孫平化との会談で、

中国の凶作による農業不振を克明するために、日中間の農業合作(技術、資材)を実現させ

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