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―知的障害児教育とのかかわりをめぐる一考察―

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ビジティング・ティーチャーの「訪問」からの 部分的撤退はなぜ起こったのか

―知的障害児教育とのかかわりをめぐる一考察―

倉石 一郎

はじめに

1. 障害児への「進歩的」教育関心の勃興:ニューヨーク市公教育協会の動向 2. ニューヨーク市における知的障害児向け特別学級の形成過程:ファレルを中心に

2.1. ヘンリーストリート・セツルメントと知的障害児向け特別学級の誕生

2.2. 特別学級運営室の開設(1906年)と学校運営効率化の圧力

2.3. 若干の考察:「精神欠陥」カテゴリーをめぐって

3. ファレル運営室主事のもとでのビジティング・ティーチャーの活動とその変容

3.1. 無学年学級運営室へのビジティング・ティーチャー配置のねらい

3.2. ビジティング・ティーチャーの業務内容とその変容:「訪問」からの部分的撤退?

3.3. 若干の考察:「撤退」とその文脈

おわりに

はじめに

本稿の目的は、革新主義期から第一次大戦後までの米国ニューヨーク市における障害児を対 象とした特別学級をめぐる状況をおさえた上で、ビジティング・ティーチャーが特に知的障害児 の問題において果たした役割を考察することにある。ビジティング・ティーチャーは米国におけ るスクールソーシャルワーカーの前身であり、教育と福祉の接点の重要性が議論される今日、

その歩みへの教育学的接近が求められている。これまで倉石(2010、2011a)において、ビジテ ィング・ティーチャーが移民多住地区のセツルメントなどを基盤に運動として誕生し、長期欠 席・怠学・学業不振・問題行動・貧困・疾病・文化間葛藤など子どもたちが抱えるさまざまな困難に 社会福祉的な視点で対処したことで注目を集め、公費雇用によってニューヨーク市公教育シス テムのなかに位置づけられる過程が明らかにされた。本稿は時系列的にはそれに続く時期、す なわち1910年代から世界大戦を挟み1920年代半ばまでをカバーすることになる。この時期を みるにあたり、特別学級という視点に立つことの有効性をここで強調しておきたい。

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1913 年9月、それまでビジティング・ティーチャー活動を一手にひきうけてきた民間市民団 体のニューヨーク市公教育協会のかねてからの要望であった、教育委員会予算によるビジティ ング・ティーチャー雇用が実現した。こうして教育委員会の手になる配置が始まったが、重要な のはその配置先に、市内各地区の公立学校が含まれるのは当然としても、それに加えて無学年 学級運営室(The Department of Ungraded Classes)というポジションが含まれていた点である

(倉石2011a)。この無学年学級(ungraded class)の存在ぬきに、1913年以降のニューヨーク市に

おけるビジティング・ティーチャーの位置づけを理解することはできない。この学級は当時の用 語で言えば、「精神欠陥(mentally defective)」の子ども向けの学級であった。ここで重要なのは、

この学級が知的障害児向け学級として一定の経過の中で形成されていった........

こと、そしてその形 成過程にビジティング・ティーチャーが重要な役割を果たしたこと、の二点である。これが本稿 の論点である。

以下、本稿の議論の道筋である。第1節では、ニューヨーク市公教育協会に焦点を合わせ、

倉石(2010)で行ったのと同様の委員会単位の活動のフォロー作業を通じて、障害児への関心が この団体の中でどのように示され、それが後の無学年学級運営室におけるビジティング・ティー チャーの活動にどうつながっていったのかを明らかにする。第2節では、1913年以降、ビジテ ィング・ティーチャーの活動を無学年学級運営室の長としてスーパーバイズすることになるエ リザベス・ファレル(Elizabeth Farrell)に焦点を合わせ、ファレルの存在を軸に1906年の無学年 学級運営室開設までの経緯、ならびにそれ以後の動向を明らかにし、ニューヨーク市教育行政 の 知 的 障 害 児 教 育 へ の 関 与 を 描 く 。 3 節 で は 、 ニ ュ ー ヨ ー ク 市 の 教 育 委 員 会 年 報 (CNYDE,1902-1922)や年報別冊の特別学級・精神欠陥児に関する報告書(Farrell,1913, 1914, 1917, 1920, 1922)所載のビジティング・ティーチャーの業務報告等を参照しながら、ビジティング・

ティーチャーが特別学級にどのように関与し、「精神欠陥」児教育にどのような役割を演じたの かを浮き彫りにしていく。この中で本稿は、標題に掲げたようなビジティング・ティーチャーの 質的変化、すなわち誕生時から業務の根幹としてきた「訪問」の比重をやや弱め、心理-教育ク リニックを拠点とした「拠点滞在」型の比重が増すという変化に注目し、この点をめぐって考 察する。最後にまとめとして、ビジティング・ティーチャーのエピソードを含む革新主義期以降 の知的障害児の学校教育への包摂という「史実」を、包摂の中に新たな排除の契機を宿した重 層的なものとして解釈し(倉石2009, 2012b)、その思想的限界性を論じる。

本研究に関係する先行研究としては、まず世紀転換期米国における特殊学級・学校の成立過程 に関する中村満紀男による一連の研究があり、特に中村(1992-3)、ならびにファレルに焦点を 当てた中村・田代(1992)は重要である。一方、進歩主義教育思想の批判的検討の文脈で、特別学 級を視野に入れた宮本健市郎の研究がある(宮本 2005)。また英語文献のものとしては、米国

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の「特別な教育」研究史の画期をなすLazerson(1983)以後、特別学級史研究は多くなされてお り(千賀・高橋2005が行き届いた整理を行なっている)、中でもHendrick & MacMillan(1989) はニューヨークにおけるファレル、マクスウェル教育長の動向を詳細に論じているほか、ファ レルの簡素な評伝もある(Kode,2002)。しかしながらこれらの研究はどれも、ビジティング・テ ィーチャーの関与を十分には視野に入れていない。一方ビジティング・ティーチャーの成立史に 関する研究は従来社会福祉学関係のものに限られ、教育学的関心に基づくものは倉石(2010, 2011a, 2011b,2012a)などごく少数である。またいずれにおいても、知的障害児など障害・特別な 教育ニーズをもつ子どもへのビジティング・ティーチャーの関わりは未解明のままである。

1. 障害児への「進歩的」教育関心の勃興:ニューヨーク市公教育協会の動向

倉石(2010)その他で再三論じてきたように、ニューヨークにおけるビジティング・ティーチャ ー 事 業 の 中 心 母 体 は 、 一 介 の 市 民 団 体 の ニ ュ ー ヨ ー ク 市 公 教 育 協 会(Public Education Association of the City of New York; 以下PEA)であった。この団体は、合理的な市政改革をめ ざす革新主義運動の一翼に位置し、女性団体であったことからニューヨーク市の学校教育のあ り方に強い関心を寄せ、学校訪問事業等を通じて当局にさまざまな改善・改革を迫りこれを実現 させてきた実績を持つ。またこれも再三述べてきたように、市の予算化が実現するまでの1906 年から1913年の間、ニューヨーク市公教育協会は非常に苦しい財政事情下でビジティング・テ ィーチャー事業を行っていた。本節では、この期間に同協会のなかで障害児・特別な教育ニーズ をもつ子どもへの関心がどのように芽生え、活動へと結びついていったかを、会内部に設置さ れた「特別児委員会(Committee on Special Children)」1)の動向を中心に、年報を手がかりにし て検討していく。

まず次の引用文に注目してほしい。これは無学年学級運営室の長として7年が経過したとき のエリザベス・ファレルの言葉である。

1913年9月をもって2名のビジティング・ティーチャーが、無学年学級運営室に任命される ことをここにご報告するのは、私にとって大いなる満足である。過去1年の間、ニューヨー ク市公教育協会とイタリア教育連盟に対してわれわれが負うところは増加の一途だった。こ れらの団体は、ソーシャルワーカー派遣に惜しみない協力を続けてくれた。(Farrell, 1913:21 下線は筆者が加えた)

ファレルと無学年学級運営室設置の経緯は、次の2節で詳細に論じていきたい。ただここで押 さえておきたいのは、ニューヨーク市の知的障害児向け特別学級運営の総責任者であるファレ

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ルが、ニューヨーク市公教育協会に対し手放しとも言える礼賛と感謝の言葉を贈っていること である。こうした関係がどのようにして築かれたのかを、ニューヨーク市公教育協会の側から 描くことが本節の目的である。

ニューヨーク市公教育協会の年報中に「特別児委員会(Committee on Special Children)」に関 する記述が最初に現れるのは第14年報、1908-09年のことである。その記述は以下のように極 めて素っ気ないものである。

欠陥児、肢体不自由児、盲および聾児にもまた、教育からの恩恵を与えられねばならない。

そしてこうした子たちの特別学級の実態を視察し、かれらの福祉に関心をもつ諸種の博愛団 体の活動のコーディネートを助けるため、一つの委員会が組織された。無学年学級をやめて しまった、学業不振(backward)と欠陥(deficient)の子どもの家庭環境をめぐる簡単な調査が

[委員会によって]行われた。こうした子どものためのアフターケアを与えることがその目 的である。 (PEA, 1909:7)

このように最初の記述では、民間の博愛・福祉団体間の調整を自らの使命として挙げ、就学義務 法による出席義務対象外の障害児について、公教育の枠外でその福祉を改善するとの立場を示 している。しかしその翌年の 1909-10 年版年報の冒頭では、「市教育当局(The Department of

Education)」による「これまでその埒外と考えられてきた領域での極めて興味深い仕事」、すな

わち障害児教育の進展に言及し、会としてもこの教育改革のニューフロンティアに全面協力し たいとのスタンスが示されている。また興味深いのは、1年間の活動を振り返る中ではやくも、

ビジティング・ティーチャーがこの分野で有用な働きをなしうることへの確信ともとれる記述 が見られることである。

われわれがなしえたことの一つに、何人かの[特別学級の]教師や監督者のもとに自由に使 ってもらえる訪問者(visitor)を送り込み、かれらがセンサスを調べるのを手伝ったり、障害児 たちに関する情報を集めて将来の進路を決める際に役立ててもらったりするようにしたこと があった。 (PEA, 1910:16)

ここで言う「訪問者」がビジティング・ティーチャーを指すことは、直後に同じことを委員会の

「希望」として、次のように言い換えていることで分かる。

われわれ委員会の希望は、これらの特別学級の監督官や教師たちのもとで自由に使ってもら

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えるようにビジティング・ティーチャーを送り込み、特に困難な事例について家庭調査をした り、病院や診療所との間を結んだり、社会福祉機関に関するアドバイスを教師に提供したり すること、である。一言で言って、現にビジティング・ティーチャーがいくつかの学校の校長 の下で、非常にうまくやっているのと同じ仕事を、特別学級教師に対してもやろうというわ けだ。 (PEA, 1910:16)

こうしてビジティング・ティーチャーを、それまでの貧困地区や移民の子どもというフィールド に加え、障害をもった子どもへの関与にまで拡げる方向性が明確に打ち出された。またそれに 加え、ニューヨーク市公教育協会がアン・ムーア博士に依頼して行った調査が1911年、『ニュー ヨーク市における精神薄弱者(The Feeble Minded in New York)』として公刊された。これらの 流れをふまえ、ニューヨーク市公教育協会はファレルに無償の全面協力を行い、無学年学級運 営室の刷新(reorganization)に取り組んでいく。その矢面に立ったキーパーソンがエリザベス・

アーヴィン(Miss Elizabeth Irwin)であった。第16・17・18合冊年報(1911-13年)には次のように ある。

ムーア博士の仕事は委員会によって、1911-12年度に継承された。ミス・エリザベス・アーヴィ ンがこの分野の特別要員(special worker)として雇用された。彼女はこの間、オフィシャルな 面以外のあらゆる点において、無学年学級運営室主事のミス・エリザベス・ファレルの部下の 一員であった。彼女の仕事は、ファレルのもとに移牒されてきた学齢の精神欠陥児に関して その家族や生活史を調査したり、市教育局設置の教育クリニックでビネー式検査を行ったり、

児童救済協会(Children’s Aid Society)が運営する学校の一つで精神欠陥児数に関する綿密な 研究を行ったり、といったものだった。 (PEA, 1913: 18-19)

「オフィシャルな面以外のあらゆる点において(in every way except officially)」とあるように、

アーヴィンは最後までニューヨーク市の公費で雇用されることなく、無償で市に対する協力を 行った。1913 年に市費で運営室に雇用された2名のビジティング・ティーチャーは、アーヴィ ンではなく別の人物だった(後述)。しかしこうした資料から明らかなようにアーヴィンこそが、

ビジティング・ティーチャーとしてニューヨーク市の障害児教育推進にたずさわった、実質的に 最初の人物だったと考えてよい2)

このようにニューヨーク市公教育協会は、早くも会の中心事業に育ちつつあったビジティン グ・ティーチャーを先頭に立てて、障害児教育という学校改革の新たなフロンティアに乗り出し ていった。だが、やや記述が先走ってしまったかもしれない。もう一度時計の針を世紀転換期

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に戻し、こうした舞台装置(ファレル、特別学級、無学年学級運営室)がニューヨーク市にど のように整ったかを、次節で明らかにしていきたい。

2. ニューヨーク市における知的障害児向け特別学級の形成過程:ファレルを中心に

本節では、ビジティング・ティーチャーの活動の背後関係をよりよく理解するために、エリザ ベス・ファレルの存在を軸にしながら、ニューヨーク市における知的障害児対象の特別学級の形 成過程を振り返ってみることとする。しかし冒頭に述べたように、ニューヨーク市における特 別学級形成の過程は複雑であり、当初から純粋に知的障害児を対象とした特別学級が設置され ていたわけではなかった。むしろ設置当初の特別学級は非常に雑居性、異種混交性が高く、こ の性格がビジティング・ティーチャーの関与を呼び込んだといってよいだろう。

まずはじめに、ファレルを長とする無学年学級運営室が設置され、市の関与が強まるように なる直前の特別学級の状況を確認しておこう。1905-06年版の市教委年報によれば、当時のニュ ーヨーク市にはすでに無学年学級(ungraded classes)のほか、特別Cクラス(special C classes)、

Dクラス、Eクラスの合計四種類の特別学級体制がとられていた。それぞれに目的があり、特 別Cクラスは非英語圏出身移民児童のための英語速成クラス、特別Dクラスは労働許可証を得 るために児童労働法に定める学力レベルへの向上をめざす補習クラス、特別Eクラスは移民、

知的障害以外の学習遅滞児向けクラスとして位置づけられていた(表1参照)。

表1 ニューヨーク市の各種特別学級における年齢別在籍人数(1906.6現在)

年齢 ~ 7

7 8 9 10 11 12 13 14 15 16+ 計

8 20 53 72 126 88 107 90 68 23 12 667 特C 31 65 126 160 213 189 251 237 127 48 1 1,448

特D 1,253 955 1,279 844 259 ― 4,590

特E 6,137 2,323 2,517 1,495 421 81 12,974

CNYDE(1906),p.55より作成

このようにニューヨーク市における特別学級は、対象となる生徒の種別、あるいは学級の目 的ごとに別々の学級が設置されていたことが分かる。しかしこの体制は、特別学級がある程度 分化、洗練された後にできあがった形態に過ぎない。世紀転換期の特別学級開設当初にまでさ かのぼって検討することではじめて、なぜ特別C~Eクラスとは別に無学年学級(ungraded class)が存在するのか、またその学級に託された役割が何かを理解することが可能になる。そこ でまず特別学級の源流まで辿り、移民集住地区のセツルメントによる学校社会事業としての障

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害児ケアの試みの検討から始めよう。

2.1. ヘンリーストリート・セツルメントと知的障害児向け特別学級の誕生

ニューヨーク市における知的障害児向け特別学級のあゆみは、市内ロアーイーストサイドに 立つヘンリーストリート・セツルメント 3)から始まった。このセツルメントの創設者リリアン・

ウォルドは看護師出身で、訪問看護(visiting nurse)を始めたことで社会福祉史に名を刻んでい る。他のセツルメントと同様、ヘンリーストリート・セツルメントも「教育実験センター」とし て、革新的な教育プログラムを試行し、やがてそれを教育行政に採択させることを目指す事業 を展開していた。学校看護事業(school nursing)、学校給食事業(school lunch)など、当時の最先 端をいく教育・福祉的取組みの有用性を認識させ、市に予算化させることに成功していた (Berger,1956:84,85)。地域の小学校(第1公立学校Public School No.1)の教師エリザベス・ファ レルの知的障害児に対する情熱をうけとめ、その活動を支援し、教育委員会に対してファレル の特別学級を認可するよう掛け合いそれを実現させた(Wald1915=2004: 143-4)のも、こうした文 脈のなかで理解されねばならない。

オスウィーゴー師範学校を卒業したファレルは1895年、ヘンリーストリートに立地する第1 公立学校の教員となる。ファレルは同時にヘンリーストリート・セツルメントのレジデントでも あった。彼女はここで、移民密集区のロアーイーストサイドの社会的条件を背景に、多様な生 徒であふれ困難をきわめる学校の一教師としての経験を重なる。ファレルは手探りで、困難児・

学業不振児向け特別学級の活動を始めたのである。

黎明期の特別学級はファレルの個人的努力によって、第1公立学校の特別学級として運営さ れていた。そのようすはChase(1904)によれば次のようなものだったという。「初期のころ、学 級にはたいてい18から20名の子どもがいた。男の子たちは年齢が大変まちまちで、中には遅 滞ではなく粗暴的な子もまじっていた。現在では、19名のうち12名が精神欠陥児だ。年齢は 6歳半から17歳にまでおよぶ。そしてやっている課題の範囲は、幼稚園以下のレベルからグラ マースクール2年レベルにまでわたっている。これらの困難にもかかわらずめいめいの子ども は個々によく研究され、ニーズにあった教育が行なわれていた。この学級の主たる目的は少年 のなかに労働への愛(love of work)をはぐくみ、彼らが世に出たときに犯罪者の仲間入りをしな いですむようにすることにある。そのため、全てが手工業に関連づけられ、手工業はあらゆる ことに優先する」(Chase,1904:399)。すなわち、手工業の導入によって「具体及び実生活との関 連を発想の起点とする指導内容・方法」(中村1991:91)を徹底することが追求されていたことが 分かる。ただ、この学級が当初から知的障害児向けのクラスとして、固定した性格をもってい たわけではない点をおさえておくのが重要である。

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またこの時期、ファレルの学級以外にも、無学年学級は市内で徐々にその数を増やしつつあ った。1902-03年度で10、1903-04年度には18にまで達している。しかしながらその運営は十 分にコントロールされておらず、ほとんど現場の裁量に任されていた。そうした実態はたとえ ば教員の選考にも反映されていた。この時期、どの教員を配置するかは「校長の助言をもとに 教育長会議で決定がなされ」ており、この手続きのもと実態としては「この仕事に興味を持っ た者が自ら志願して任に当たるが、その理由は[知的障害の]子の生活に本当に関心がある場 合もあれば、特別な職務に対して僅かに上乗せされる給与に惹かれてという場合もあった。ま た 時 と し て 退 職 ま ぎ わ の 教 師 が 、 査 察 の 目 を 盗 む た め に 任 に つ く こ と も あ っ た 」 (Farrell,1907:618-9)。このような無秩序状態にメスが入ったのは、無学年学級運営室が設置され た1906年からのことであった。

2.2. 特別学級運営室の開設(1906 年)と学校運営効率化の圧力

1906-07年度よりニューヨーク市に特別学級運営室(Department of Ungraded Class)が開設さ れ、エリザベス・ファレルがその主事(Inspector)に任命された時をもって、ニューヨーク市の特 別学級、また知的障害児教育は新たな段階に入った。まずこの期間における特別学級の量的拡 大から確認しておこう。無学年学級は、1906-07 年度末では41だったのが、1907-08 年度末に 61、1908-09年度末で86、1909-10年度末は103、1910-11年度末で110、1911-12年度末で135 にまで激増する(CYNDE,1907, 1908, 1910, 1911, 1912)。一方、1911-12年度末で言えば学級数135 に対して学級登録人数は2253名であり、単純計算で一クラスあたりの生徒数は17名弱である。

これはファレルが特別学級を立ち上げた頃の「18名から20名」(前掲)という数字と比べて大 した変化がなく、クラスサイズは同水準のまま、学級数が増殖していくという傾向が読み取れ る。

では運営室が開設されたことによって発生した質的な差異はどこにあるのか。学級数激増と いう実態からまず窺い知ることができるのが、マクスウェルが当初思い描いた、原学級に送り 返すまでの中間経由地的なものという思惑が外れ、増大の一途をたどるニーズを前に、特別学 級がなし崩し的に持続的な教育の場に変貌しつつあったということだ。またより喫緊の課題と して、爆発的増加をどう制御し、学級の質をどうコントロールするかという問題があった。こ の点が、運営室開設とファレル任命の直接的理由であった。1905-06年度年報のマクスウェルの 言葉を聞こう。

遺憾ながら私は次のように言わねばならない。無学年特別学級の中には、不適切な運用状態 のものが存在してきた、と。これは主として次の三つに起因するものである。まず専門家に

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よる監修(supervise)の欠如、次に特別学級担当になった教師に対する専門的訓練の欠如、そ し て 特 別 学 級 へ の 子 ど も の 振 り 分 け が 適 正 さ を 欠 い て い る こ と(lack of proper

discrimination)の三つである。この点で、体育局の E.G.ブラウン博士が子どもに対して検査

を行い、欠陥児(defectives)として分類するのに妥当な性質を持っているかどうかを見極めよ うとしているのは正しいことだ。この検査は非常に有用なものではあるのだが、しかしその 検査結果をもとに[適正な学級措置を]実行する手だてを欠いているため、検査の有用性の 大半は損なわれてしまっている。今年6月、この公立学校サーヴィスの重要な一角の改革に 向けた大きな一歩が踏み出された。教育委員会によって、無学年学級の主事室が設置された のである。この室に任命されたのはエリザベス・E・ファレルである。彼女はマンハッタンの 第一公立学校でこの十年間、精神欠陥児向けクラスを担当し瞠目すべき成功をおさめてきた。

(CNYDE,1906:111)

運営室設置とファレル主事の任命は、無学年学級の運営をより厳格にシステマチックなものに していこうとする、マクスウェル教育長の強い意向のあらわれであった。この決意の背景にあ るのは、スムースな学校運営を妨げる「厄介者」を普通学級から分離、排除するための手軽な ツールとして、特別学級が濫用されているというニューヨーク市の状況であった。当時、進歩 的な改革気運とならんで、学校に対しては運営の効率化を求める社会的圧力が高まっていた。

学校における進級遅滞(留年)状況にメスを入れたエアーズのサーベイ調査『学校のなかの遅 れた子ども』(Ayres,1909)が大きな反響を呼び、学校運営費を圧迫させる遅滞児を発生させる 学校や教師へのまなざしは、日々厳しさを増していた。こうした状況下で、校長たちは自校の

「問題児」たちを、安易に特別学級に移籍させようとする傾向にあった。この傾向に歯止めを かけようというのが、特別学級運営室設置のねらいの一つであった。にもかかわらず縮小どこ ろか、特別学級が量的拡大の一途をたどっていった逆説に注目せねばならない。

マクスウェルは設置とともに条例を制定し、運営室主事に与える職務と権限を明確化した。

それによれば「主事は教育長委員会に対して、校長からの特別学級開設の申し入れと特別学級 配置予定の教員の適切性について、細大漏らさず報告しなければならない」、「児童の特別学級 への入退級については、主事の書面による賛同、または教育長委員会による許可を得なければ、

いかなる場合も行うことができない」、「児童を特別学級に措置するに際しては必ず、その身体 および心理状態に関する検査を、主事および医師資格をもつ体育局のスタッフから受けねばな らない」(CNYDE1906:112)とされた。

このように無学年学級運営室主事としてのファレルに最も求められた役割は、特別学級への 子どもの出入りを厳しく管理するゲートキーパーとしての役割であり、より具体的には措置の

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判定をする検査(examination)の厳正な実施業務であった。数年後には運営室のもとに心理-教育 クリニックが設置され、検査業務を担う体制が整備される。しかしながら、条例制定によって 特別学級運営の厳格化をうたったにもかかわらず、自校の「問題児」を無学年学級に安易に送 り込もうとする傾向には一向に歯止めがかからず、検査業務は繁忙を極めた。このことは、知 的障害児向け特別学級への措置が妥当と検査の結果判定されたケースがたとえば1909-10 年度 の場合で新規検査1920例のうち6割強の1175例に過ぎず、残りは学級の趣旨にあわないもの だったという結果からも分かる(CNYDE1910: 116)。

2.3. 若干の考察:「精神欠陥」カテゴリーをめぐって

話を先に進める前に、ここで押えておきたい点がある。それは本稿のコンテクストで重要で ある「精神欠陥(mental defective)」のカテゴリーをめぐる問題である。この点で参考になるの が、教育委員会年報1901-02年度版(CNYDE,1902)上で、マクスウェル教育長が示した「異常児 (Abnormal children)」の分類に関する見解である。

そのなかでマクスウェルは、第1公立学校や第 77 公立学校の取り組みに言及したあと、

1901-02 年度は特別な教育ニーズをもつ子どもの問題が「本格的かつ詳細に検討された年」

(CNYDE,1902:108)だったと振り返っている。市内全校の校長を対象に、こうした生徒の総数を 調査したところ約8000名という結果があがってきたが、その結果を精査したところ、「欠陥を も つ も の(defectives)と し て 分 類 す る の が 妥 当 な の は 、 そ の う ち の 四 分 の 一 以 下 」 (CNYDE,1902:108)だったという。そしてマクスウェルは、こうした子どもの問題を扱う際に肝 心なのは「度し難くやんちゃ(incorrigible)で怠学傾向(truant)にある子と、精神能力に欠陥をも つ(defective in metal ability)子とを、注意深く区別すること」(CNYDE,1902:109)だと主張した。

その上で、「異常」とされる子どもをより適切に分類するとして、以下の三区分を提唱したので ある。第一のカテゴリーが「愚鈍(dull)」で、これが意味するのは「特定のあるいは全ての分野 で学習が遅れている子、不定期出席や頻繁な転校によって遅れをとってしまった子、外国生ま れあるいは外国育ちのため英語力に劣る子」である。第二が「欠陥児(defective)」で、「精神の 働きが緩慢(clouded minds)な子、部分的欠陥の子(partial defect)、治癒可能な欠陥児(whose defect may be cured)、何らかの異常発育のため他のクラスメイトより遅れている子」を指す。

第三が「白痴(idiotic)」または恒久的欠陥児(permanently defective)である(CNYDE,1902:109)。

なおマクスウェルは、今後整備を予定している特別学級の対象者として、第二の「欠陥」カテ ゴリーに入る子どもを想定していた (中村1992:84)。

このマクスウェルの言説が要注意なのは、世紀転換期の米国という当時のコンテクストにお いて、それまでも高まっていたいわゆる恵まれない子どもに対するまなざしを、さらにもう一

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つ新しい段階に押しあげる契機が見られることである。この時代、多くの児童救済家(チャイ ルドセーバー)が活躍し、少年非行や児童労働などの問題に献身していた。だがそれらの運動 においてなお、非行や逸脱を本人の人格・精神的「欠陥」と同一視する19世紀的考え方がひき ずられている場合が多かった 4)。それに対しマクスウェルにおいては、第一と第二のカテゴリ ーの峻別を通じて、怠学や長期欠席に代表される逸脱行為を即、本人の精神的「欠陥」に同一 視する考え方との訣別がはかられた。むろんこの時点でも、「欠陥」から逸脱への因果関係は濃 厚に疑われている。しかしともかく、逸脱の原因は非常に多様であり、社会的なファクターが 多分に関与しているはずだとするより新しい認識がここには含まれていた 5)。このように逸脱 と「欠陥」との切り離しが行われたことは、「欠陥」概念が、より現代的な意味での「障害」概 念に転生する重要な一歩となった。すなわち、旧来の「欠陥」概念の中に未分化なかたちで存 在していた社会的モメントが消去され、問題が身体の次元へと純化されていったのである6)。 ただし、上記のマクスウェルによる分類提案は重要な出来事ではあるものの、知的障害児教 育進展の歴史の中では一つのエピソードに過ぎない。それと並んで重要なのは、たとえば無学 年学級の成立と平行して進んだ各種特別学級(特別C、D、Eクラス)の制度化である。たと えば特別Cクラスの成立とともに、「非英語圏から到着した近来移民児童」が、当初漠然と「扱 いが難しい子」「問題児」とくくられていた集合から除外されていった。同じく、特別Dクラス の成立によって、さらにそこから「学力的な理由で進級に遅滞を来たしている子」が除外され といった具合に、新たな特別学級の成立は、無学年学級にいる子どもたちの集合に絞りをかけ る作用を果たした。それは、無学年学級(ungraded class)がほかでもない「知的障害児学級」と して立ち現われてくる過程でもあった。しかしマクスウェルのアイデアを実体化する上で大き な役割を果たしたのは、何といってもビジティング・ティーチャーの存在であった。

3. ファレル運営室主事のもとでのビジティング・ティーチャーの活動とその変容

前節で、無学年学級がロアーイーストサイドのたった一クラスの取り組みから始まり、それ がやがてニューヨーク市全体を統括する部局の設置が必要になるほどの巨大システムにまで膨 張を重ねていった様子を描いた。その過程で、特別学級の制度的分化がすすみ、当初雑居的で あった学級が、徐々に知的障害児向けクラスとしての性格を強めていった。また特別学級の性 格をめぐる議論の中で、「欠陥(defect)」概念の意味転換が生じ、現代的な意味での「障害」概 念への近接が見られ始めた点を論じた。

ここではいよいよ、1節で論じたニューヨーク市公教育協会と、2節でみた無学年学級運営 室の流れが合流する。ファレルが指揮する無学年学級運営室に、どのような意図でビジティン グ・ティーチャーが配置されたのかを最初におさえ、次に各種資料を手がかりにその活動の様

(12)

子を明らかにしていきたい。

3.1. 無学年学級運営室へのビジティング・ティーチャー配置のねらい

既に1節で明らかにしたように、1913年の公費雇用開始以前から、ビジティング・ティーチ ャーが無償で無学年学級運営室の仕事に協力するという前史があった。その主役がエリザベス・

アーヴィンであったことも既に述べたが、無学年学級運営室の年報にもアーヴィンの働きぶり に関する記述がある(Farrell,1913)。記述と言うよりも、ファレルはここでアーヴィンのレポー トを全文引用し、それ自身に語らしめている。

無学年特別学級と連携したソーシャルワークは今年再び、需要がピークにまで達した。――

そのニーズはたとえば特別な事例の調整、家族生活史記録のためのデータ収集、必要な病院 や医療的ケアの確保、必要な場合の施設措置の実施、などである。(Farrell, 1913:21)

ここで特に強調されているのは、特別な事例の調整である。アーヴィン自身が行なった調整の 例として、たとえば次のようなケースがある。

子どものパーソナリティ故に非常に興味深かったある一つのケースでは、当初子どもの粗暴 行為が、精神欠陥を疑わせる根拠として報告されていたのだが、その後そうした行為は完全 に家庭環境に責任を帰すべきものであることが明らかになった。その子の気むずかしい性質 と知能の低さは、難聴と2年間の施設生活によって説明がついた。出発点は無学年学級運営 室であったのだが、にもかかわらず、その子はいま聾唖者学校で非常にうまくやっている。

家庭状況は引き続きウォッチされており、この夏の間は環境が変えられることが期待される。

(Farrell, 1913:22)

このアーヴィンの報告から分かるように、ビジティング・ティーチャーの主要な業務は、無学 年学級に移牒されようとしている子どもたちの中から、該当しないケースを探し出し必要な調 整を行なうこと、すなわち本来は別の処遇が望ましいのに、無学年学級に措置されようとして いる子どもを発見、よく調査し、本来の措置先に移しかえる仕事であった。

次の引用文は、自らの部署へのビジティング・ティーチャー配置実現に際してファレルがそ の所感を語ったものである。およそ無学年学級運営室において、ビジティング・ティーチャー がどのような役割を期待されているかもこの中からうかがい知ることができる。

(13)

少なくともこの国(合衆国)の教育制度史上はじめて、ソーシャルワーカーの働きをするビ ジティング・ティーチャーによる、子どもたちへのサーヴィスが公認された。そのサーヴィ スとは、より小さい規模で複雑な問題のない学級において、最良の部類に入る教師たちがこ れまで日常的に行っていたたぐいのものである。われわれが思い知らされたのは、このサー ヴィスがなされないまま放置されていれば、子どもに対しては言うに及ばず結局は国全体に とって非常に高くつくことになるということだ。・・・子どもが眼鏡を必要としているのを知り ながら、それ以上何も手を下さないのは、学校に進んで無駄な出費を繰り返させるようなも のだ。学習に遅れを来たしている子たちの生活環境やその家族・個人史に関する明確な情報を 伴わないまま、その子らを知能・身体検査に付すことは、関係者にとって時間の浪費、公費の 無駄遣いであり、また子どもから最善の機会を奪うことにもなる。公教育におけるこの新し いファクターをめぐる話は、ビジティング・ティーチャーに任じられたミス・ブラウン (Brown)とミス・カルプ(Culp)による年次報告の中で語られている。私はこの報告を提出でき ることを喜ばしく思っている。(CNYDE, 1914b:19)

そもそもビジティング・ティーチャーは、倉石(2010, 2011a)において明らかにしたように、学 校関係者にとって未知の部分が多い移民コミュニティの生活実態に通じているというその立場 を活用して、移民の子どもの家庭背景や生活実情、親の考えなどを教師に伝え、学校とコミュ ニティとの風通しを良くすることで子どもの学校生活その他全般にわたる改善につなげようと していた。また子どものニーズに合わせて、学校とさまざまな専門機関や救済組織・団体との間 をつなぐことを働きとしていた。上記のファレルの所信から、こうしたビジティング・ティー チャーの特長を最大限に活かし、無学年学級運営室のより良い運営に資するようにしようとの ねらいが読み取れる。そのポイントは、無学年学級への入級を管理するゲートキーピング業務 にソーシャルワーク的視点を持ち込み、一つ一つの事例を社会的文脈から切り離さずその全体 性において捉えようとする構えであった。

ただこの変化には、単に障害児者の社会生活に対する関心が増大した、という点では説明し きれない部分もある。前節で述べたように、この時期には従来の「欠陥(defect)」概念の内実を 書き換える、新たな障害概念が生成しつつあった。逸脱行動即欠陥という19世紀的概念に代わ って、両者を切り離して逸脱行動の社会的背景を綿密に調べる一方、欠陥に関してはその社会 的ニュアンスがそぎ落とされ、純粋に身体的な次元に還元されていく、というのがその概要で ある。「精神欠陥(mental defect)」についても例外でなく、それがより現代的な意味に近い知的 障害の概念へと徐々に組みかえられつつあった。そうした過渡期においてビジティング・ティー チャーは、精力的な調査業務を通じてこの逸脱と欠陥との分離作業に深く関わり、その切り離

(14)

しを推進していったと考えられるのではないか。

3.2. ビジティング・ティーチャーの業務内容とその変容:「訪問」からの部分的撤退?

それでは次に、ミス・ブラウンとミス・カルプ7)という二名のビジティング・ティーチャーによ る最初の年次報告を見てみよう。そこではビジティング・ティーチャーの役割が、六点に整理さ れて述べられている(Farrell,1914:21-24)。なお以下の記述の参考までに、この年度に二名のビジ ティング・ティーチャーで対処した子どもの数は、約3000名にのぼった(Kode,2002: 52)ことを 付記しておく。

①調整を必要とする特別な事例への対処:これはビジティング・ティーチャーが「最も多く の時間をとられる仕事」であり、特別な事例の例として「家庭や路上で日々、コトを起さな いよう見守っていなければならない怠学常習児(truants)たちの事例」、「家庭における養育状 況が悪いため、何日も行方しれずになってしまう子どもの事例」、「療養施設への子どもの送 致、および親への入所の説得」(Farrell,1914:22)が挙げられている。

②医師による検査に先立っての家庭環境の調査:これは、検査において対象の子ども丸ごと の理解を目指そうとする立場から、事前にその家庭生活や親の状況について調査を行おうと するものである。「家族メンバー、教師、かかりつけ医からの事前の聞き取り調査」

(Farrell,1914:22)がそこに含まれている。

③医師の検査に基づく診断後のフォローアップ:医師による検査結果に基づく診断が出たあ と、家庭訪問等を行いフォローアップするというもの。この項では、無学年学級運営室配属 ではない、いわゆるフリーのビジティング・ティーチャー8)との連携にも言及している。運 営室に検査依頼がまわってくる子どもの家庭背景等については、こうしたビジティング・テ ィーチャーがすでに熟知している場合もあるため、連携による効果は非常に高くなる。

④就学期限満期後の子どものフォローアップ調査:特別学級を離れた子ども、とりわけ 16 歳の就学年齢を過ぎた子どものアフターケアの重要性が指摘されている。その中でも重要な のが「親への教育」(Farrell,1914:23)、すなわち精神欠陥の子どもに対する親の責任を自覚さ せること、である。

⑤統計局による報告事例のフォローアップ:<略>

⑥ある階層・集団単位の子どものサーベイ調査:<略>

以上の中でまず注目されるのが、①調整を必要とする特別な事例への対処である。ここで挙 げられている怠学常習児は「特別な事例」、すなわち現代的な意味での(知的)障害を有さず、

障害児教育の対象から外されるべき存在の代表例として挙げられている。ビジティング・ティー チャーが日常活動を通じて、逸脱と欠陥(障害)との切り離し作業を行っていた、というのはこ

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うした面を指す。

また④特別学級満期後のフォローアップ調査も注目に値する。この項目が意味するのは、特 別学級を終えたあとの進路として、かつて一般的であった施設隔離に加えてコミュニティでの 社会生活が、新たに想定されるようになったことである。これに伴い特別学級の性格も、施設 までの中間経由地のみならず、社会での職業生活を見すえた準備教育の場という性格を備えつ つあったと言うことができる。ただし①特別な事例の調整の中で「施設入所を親に説得する」

業務が挙がっているように、特別学級での受け入れが不可能と判定された重症児については依 然として施設隔離されていた。

ところで 1918-1920 年度の報告(Farrell,1920)の中では、ビジティング・ティーチャーの職務

が比重の高い順に、「訪問(Visits)」「クリニック(Clinics)」「インタビュー(Interviews)」「記録 (Records)」「統計(Statistics)」に類別されて説明されている。

①訪問:ビジティング・ティーチャーの訪問先は大きく、家庭・学校・その他の三者に分か れる。このうち家庭訪問は全体の半数以上を占め、子どもの置かれた生活条件の確認や子ど もの福祉を阻害する諸影響を除去したり改変したりすることが目的である。家庭訪問の主た る目的が、特定のトピックをめぐって母親と話し合うことにある場合もたびたびある。次に 学校訪問は校長や教師と、子どもの特別な問題について協議するためである。そしてその他 の訪問は、病院、少年裁判所、救済機関その他さまざまな方面への連絡である。

②クリニック:クリニックにおけるビジティング・ティーチャーの仕事は第一に、子どもに 付き添ってきた親から、子どもの幼少期の詳細な生活史や遺伝的、環境上の影響を聞き出す ことにある。第二に、検査が終わったあと親と話し、判定の要点を説明すること。検査を受 けにきた子の親は多くの場合、無学年学級の存在を聞いたことがない。親の協力をとりつけ るため、学級の目的が説明されねばならない。診断結果については親に伝えねばならず、ど こに行って処置を受けるべきかも説明しなければならない。

③インタビュー:クリニックにおける会話のほかに、ビジティング・ティーチャーは事務所 (office)におけるインタビューに多くの時間を割く。関係者、教師、ソーシャルワーカー、場 合によっては子ども本人が助言や情報を得にやって来る。

④記録:<略>

⑤統計:<略> (Farrell,1920:26-27)

ここで、ビジティング・ティーチャーの職務において「訪問」が最も高い比重を占めていると されることは、至極真っ当なことに思える。ところがさらに時計の針を進めて1920年代になる と、そうした自明性が揺らいでくるのである。

1921-22年度報告(Farrell,1922)ではまず、ビジティング・ティーチャーの員数が当初の2名か

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ら3名に増員 9)されたものの、扱う子どもの数が7年前と比べて倍増し、とうていまかないき れない状態となっていることが報告される(Farrell,1922:94)とともに、こうした状況に対応する ため、ビジティング・ティーチャーの業務を合理化・簡素化する次のような手だてが図られたと 報告されている。すなわち「ビジティング・ティーチャーは毎日オフィスアワーを確保して親・

教師の助言にあたるようにし、これによって多くの家庭・学校訪問が必要なくなった。」「クリニ ックの数が大幅に増やされ、少なくとも一名のビジティング・ティーチャーがそこに陪席し生活 史の聞き取りや親への病院等の紹介を行うようになった。」「診断内容が実施されたかどうかの 確認を、校長に対する書面でのフォローアップ作業によって行うようにした」(Farrell,1922:95)。

このように、ビジティング・ティーチャーの業務の軸足が、従来の「訪問」から、無学年学級 運営室のオフィスへと移りつつあったことが読み取れる。これまで、その対象や方向性に変化 は見られつつもビジティング・ティーチャーの存在意義の根幹部分を占め続けていた「訪問」の 位置づけが、変わり始めたのである。この部分的「撤退」とも呼ぶべき事態は果たして、業務 多忙化に対する単なるテクニカルな応答だったのであろうか。節を改めて考察を加えたい。

3.3. 若干の考察:「撤退」とその文脈

これまで、家庭や地域にこまめに足を運ぶ「訪問」をそのよりどころとしてきたビジティン グ・ティーチャーの仕事が、拠点滞在型へとその比重を移しつつあった――このことをめぐる解 釈を考える上でまず見落とせないのが、1917年改正ニューヨーク州教育法による特別学級への 就学義務化である 10)。その規定には、「3年もしくはそれ以上の発達の遅れを来たしている子 どもが10人以上いる都市・学区の教育委員会は、その知的発達程度に合った授業を行なうのに 必要な、15名以下の規模の特別学級を編成しなければならない」(article 20-B, section578(2) of the Education Law 1917, New York State)とある。すなわち、知的障害児の特別学級への就学義 務が規定されたのだ。このように法的な網が知的障害児の上にまでかぶせられるようになった 結果、出席にまつわる督励その他の業務は一般児の場合と同じく、就学義務法によってオーソ ライズされた係官の手に委ねられることになった。それはすなわち、ビジティング・ティーチャ ーの手を借りずとも、子どものもとへとリーチを伸ばすことが可能になったということだ。逆 にいうとビジティング・ティーチャーの存在意義は、障害児が就学義務の空白地帯(境界地帯と 言ってもよい)に置かれていたからこそ、発揮されたものだった。こうして「訪問」からの撤 退が生じた、というのが一つの解釈である。

もう一つの説明は、訪問からの撤退とはすなわち、ビジティング・ティーチャーの「社会」か らの撤退の一つの象徴であったとする解釈である。本稿では、「欠陥」概念に代わるより現代的 な意味での「障害」概念の登場という論点をうちだし、その根幹部分である逸脱と欠陥との切

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り離しに、ビジティング・ティーチャーが大きな役割を果たしたという見解をとってきた。この 結果もたらされたのが、社会的ニュアンスを完全に漂白され、純粋に身体次元に還元された「障 害」概念であった。障害児教育部門で活動を続けたビジティング・ティーチャーにとっては、精 力的に活動をすればするほど、その中心テーマである「障害」が脱社会化されていく構図にあ った。いわばその構図の中で、「社会」からの撤退が進んでいったわけである。ビジティング・

ティーチャーの地域進出の機会が相対的に減少し、心理-教育クリニックという拠点にいわば

「立てこもる」形になっていったのも、「障害」の脱社会化のプロセスとパラレルなものであっ たのではないか、というのが第二の解釈である。

おわりに

これまで本稿では、ニューヨーク市を舞台にビジティング・ティーチャーが、公教育における 知的障害児教育の進展にどのように関与したかを、ニューヨーク市公教育協会、マクスウェル 教育長、無学年学級運営室(そしてその長ファレル)といったコンテクストに注意を払いなが ら描写してきた。アーヴィン、ブラウン、カルプといった個々のビジティング・ティーチャーの 活動ぶりにも目を配ってきた。ビジティング・ティーチャーは、当初雑居的であったニューヨー ク市における無学年学級が知的障害児向け学級として特化されていくのに即応して、「純粋」な 知的障害児を、たとえば常習的怠学児や外国移民のような社会的背景に起因する不適応児から 区別する作業に主に従事した。このことは、当時の頻用概念であった「欠陥(defect)」あるいは

「精神欠陥(mental defect)」の意味内容の重要な転換とパラレルな関係にあった。逸脱と欠陥 が切り離され、前者の社会的原因が精力的に探求される一方、後者の「欠陥」については社会 性がそぎ落とされ、身体レベルに純化されていった。この切り離し、そぎ落としにビジティン グ・ティーチャーが従事したのである。そして1920年代に入ってから観察された、ビジティン グ・ティーチャーの「訪問」からの部分的撤退についても、上記の流れの一つの帰結として解釈 可能であることを論じた。

では最後に、こうしたビジティング・ティーチャーが果たした役割を包摂、あるいは排除と いう概念で位置づけてみたい。結果から言えば、ビジティング・ティーチャーが活躍した革新主 義期から1920年代にかけての米国では、公教育体制への知的障害児の包摂が進んだ、と言って 誤りではない。その象徴が、改正ニューヨーク州教育法による特別学級への就学義務化であっ た。しかしながらその半面、包摂とは言いながら、ビジティング・ティーチャーが関与した実際 の子どもの動きは、もともと在籍していた普通学級から無学年学級(特別学級)への移動とい う、いわば分離・隔離のベクトルをもつものであった。いわば包摂の中に、排除の契機が宿って いたわけである。しかもビジティング・ティーチャーの役回りは、こうした排除を、医師の検診

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や知能検査といった「科学」の名のもとで正統化するものだった。こうした排除への荷担への 内在的批判や反省の声は、ビジティング・ティーチャーからついに聞かれることはなかった。こ こにその思想的限界がある。

【注】

1) この委員会は、1912-3年度に「学童の衛生委員会(Committee on Hygiene of School Children)」と改称し、そ の後も活動を続けていく。

2) アーヴィンはこうしたファレルのもとでの活動経験をもとに、1915年に『怠学』と題するレポートを刊行 した(Irwin,1915)。そこでは、無学年学級に「誤って」送り込まれた怠学児の家庭背景や心理的問題が検討 されている。

3) 米国におけるソーシャル・セツルメントの歴史は、英国のトインビー・ホールに学んだスタントン・コイツ (Stanton Coit)が帰国後、ニューヨーク市のイーストサイドに「ネイバーフッド・ギルド」を開設したことに 始まる。その後、同じニューヨーク市のジーン・ファイン(Jean Fine)による「カレッジセツルメント」やシ カゴのジェーン・アダムスによる「ハルハウス」の設立(1889年)などが続き、世紀転換期の社会改革の機運 をとらえてセツルメントは全米の都市に広がっていく(Chambers,1967:109)。セツルメントの趣旨は、困難 を抱えて生きる住民の傍らで「隣人」として居をともにしながら、文化的活動を通じて感化を住民に及ぼす ことでその生活を向上させ、都市問題の解決に実践的に寄与するところにあるとされた。これらのセツルメ ントの多くが公教育のあり方に強い関心を寄せ、「教育実験センター」としての使命を自覚していたのは、

こうした趣旨から自然のことであった。

4) たとえば、シカゴにウィリアム・ヒーリーを招き少年精神病質研究所のスポンサーとなったエセル・ダマーは 革新主義期の児童救済家の典型と目されるが、彼女もまた非行と精神病ないし精神薄弱とを同一視する考え 方に強くとらわれていたという(Jones,1999/2005: 79, 83)。

5) トラットナーはアメリカ社会福祉史の通史のなかで、世紀転換期における少年裁判所設立運動などの児童福 祉運動に一章を割き、年少者の逸脱の捉え方に起こった抜本的変化を次のように述べている。「個人はすぐ れてその環境の所産であり、したがって、誰かが違法な行為にあずかったかどで告発されることがあれば、

それはたんなる個人の問題ではなく、地域社会の問題なのだと主張された。犯罪は、十中八九、犯罪者に好 ましからざる影響をおよぼした、個人的および社会的の双方にかかわる、数多くの影響力と要因によっても たらされるものであった」。(Trattner,1974/1978:110-111) またイリノイ州の動向に特に焦点を合わせたプラ ットの研究も参考になる(Platt,1977/1989)。

6) ここでいう現代的な意味での「障害」概念は、障害の個人モデルあるいは医療モデルと言われる概念に対応 している。1980年代以降、英米においてこうした障害の捉え方に対する批判が巻き起こり、個人・医療モデ ルを批判する障害の社会モデルの考え方が登場した(星加2007)。筆者はこうした経緯を十分承知している が、ここでは障害の個人モデルをもって、現代的な意味でオーソドックスな障害概念とした。

7) 2人の経歴等は『ザ・サーベイ』誌に詳しく紹介されている。「ブラウン(Dorothy Brown)はプレスビテリア ン&スローン母子病院を卒業し、訪問看護師および学校看護師として働いてきた。・・・カルプ(Julia Culp)は 幼稚園養成カッレジを卒業し、慈善組織協会の要員として、市の諸施設間の橋渡しをするソーシャルワーカ ーだった。」(The Survey, 1913, Oct 18, p.68)

8) 市の予算的制約もあり、依然としてニューヨーク市公教育協会のファンドに支えられて活動するビジティン グ・ティーチャーが多数いた。「フリーの」とはそういう意味である。

9) この3名という数は、1927年6月時点でも変わらず(Chase,1927:105)、その後1920年代を通じて増員がは かられることはなかったことが分かる。

10) たとえばHendrick & MacMillan(1989)などの先行研究においても、通称ロックウッド法と呼ばれるこの就学

義務法制度化がはらむ意味について十分に考察されていない。

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Why did visiting teachers partially retard from

“visiting”? : Focusing on their involvement with education of the mentally handicapped

KURAISHI Ichiro

In 1913 board of education in the City of New York decided to employ visiting teachers, a former name of American school social worker, and two were assigned to the Department of Ungraded Classes. The paper explored what kinds of role and function visiting teachers took under the supervision of Inspector Elizabeth Farrell, who is the pioneer of ungraded classes for mentally retarded pupils.

First I considered briefly how PEA (Public Education Association of the City of New York) began to involve with “special children”. Then I described the development of ungraded classes in the City of New York, and especially focused on the reason why in 1906 superintendent Maxwell appointed Farrell to the Inspector of the newly organized Department of Ungraded Classes.

Under the strong social pressure of efficiency, principals of N.Y. public school occasionally intended to remove the “difficult” school children from regular class to ungraded class, and the device was in emergent need to examine those children and properly replace them. Farrell and an appointed doctor took charge of it. Next I argued that the category of mentally defective was shaped historically, and pointed out that “defect” was gradually separated from “deviance”, both of which had been seen as identical. The result was that the meaning of the concept “defect” lost its social nuance and became purely “medical” one that is close to the contemporary concept

“handicapped”.

Then I analyzed the working reports of visiting teachers after appointment to the Department of Ungraded Classes. One of their main activities was the adjustment of special cases, thus to replace, based on the result of examination by doctor, invalid children to another institutions or agents. Throughout it visiting teacher took part in the process of separating

“defect” from “deviance”, that resulted in the de-socializing concept of “handicapped”. It was also found out that in the daily work of visiting teachers the weight of visiting decreased while their presence at the psycho-educational clinic increased its importance. I concluded that visiting teacher’s retardation from visiting indicated the de-socializing process of the concept “defect”.

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参照

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