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『通俗琉球北山由来記 J の成立

﹂ 仁 ﹂

第 3 節 『通俗琉球北山由来記 J の成立

[通俗琉球北山

H J

米 記

J

も、 「長浜系凶」によって創造された沖縄の系譜に関する物語 にそって編集されたもので、補強する内容を持っている。1935年 ( 昭 和10) に出版、著 者は束江長太郎である。 点江は、 j長城村 n~屋(現糸満市}!古屋)で光竜院という天台宗寺院 の院下.を勤めながら、琉球民俗研究社という看板を掲げて、沖縄の歴史や民俗研究に没頭

していた (12)

新〔長太郎の

1

1',身地は、羽地問!切川

) 1 ‑ ‑

等 村 ( 現 名 護 市 岡 井 等 ) で あ る。1884年 ( 明 治 17)、111)1‑‑等村点江原の長男として'L:.まれた。1901年(明治34) 、18歳で父親の家督を 受け継ぐが、 1904il~ (IYJ 治37)、

1 1

露 戦 争 に 出 兵 、 復 員 後 僧 侶 に な る こ と を 決 意 し 、 天 台;誌の仏門に人った。伯仲;になった瑚山は、歴史が好きで僧侶になれば仕事と研究がiiL

J

立 できると考えたからという rYJ 治 40 年代初頭、から rl~'純各地を歩いて地元に伝わる伝承や日 時を精力的に集めたらしく、長男有Jif

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によると、村の葬儀や法要に呼ばれたら、朝からそ の村に11''h'¥けていき、Ir

l

家を尋ね、あるいは葬儀や法要に集まる古老たちから伝承や口砕 を聞いてノートにとり、また、お布施はほとんど本代に充てていたという(13)。東 江 は r JI針作琉球北山 111*IIG.~ の他に、

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琉 球 南 山 山 来 記

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通 俗 琉 球 中 山 山 来 記j、 {通俗

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顕民族史誌j、

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面俗烏}JL民族5L:誌j、

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通 俗 鮫川 大主由来記j、 [琉球各城主 系 I~J 集j などのJ11 版を計画していたが、果たせぬまま、 1960 年(昭和 35) 、 76歳で死-1_

した。

r;創作琉球北111rll来記jは謄写版による印刷で、家族で100部ほど製本したという 。こ の謄写版 r~引谷琉球北山山米記J は現在では沖縄県立図書館などにわずかに残っているに すぎないので、沖縄県立図書館でコピーする者が多いという 。 (14)

*江長太郎は『通俗琉球北山山来記jを著した目的について、 「自序」で次のように述 べている。

1 '

1分としては最初から中111‑七府の編纂になる正史と離れてなる可く民間に伝わる伝説 11叫、野史、 111家の記録共の他によって自分は現代と云う鏡に遠い太古の北 山 城主を

'

I

J心として其の栄村i感衰や共の子孫の居住したと伝られてゐる琉球各間切の城主の事並 ぴにその後育子孫に如何なる処に住して生活を営み、如何なる人物が輩出してゐるかを 映写して本芹が北山城(今帰仁城)及び北山城主の研究者にも、 一般人士にも果して佃

i

11Qありや、何に就いて読者に間ひたいと思ってゐます。 (15) 

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はここで、琉球

1 :

府が編纂した歴史書‑によるのではなく、民間に流布している伝説、

11M!、111家の記録などをもとに、北山の感衰や子孫たちのその後の顛末を明らかにしたい と述べている。)Ijい る 資 料 に つ い て は 、 同 じ 「 自 序 」 の な か で 、 明 治41年 (1908)頃 か ら44年 (1911)までに同顕地方を調査して集めたもの、および大正 4、 5年 (1915、16)

頃中顕地方や島民地ノJを調査して集めたものであるが、それだけでは心細く、不便である ので、王府編纂の正史も参照したという (16)

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には、次のように、 「長浜系凶」が『通俗琉球北山由来記jに基本的枠組みを 提供していることが示唆されている。

、本書に記載せる系図は、古波津大祖之伝家宝 長浜蔵書を根拠として書く事にして、

155 

必要の箇所には可成詳しく記入した積りであります。

本書中に記載せる北山城主の支城たる琉球各間切の城主の系図も‑['i波津大祖伝家主 長浜蔵書に拠り重要事項に就いては適当の箇所に取纏めて記すことにしました。

(17) 

「占波津大祖之伝家ゴミ 長浜蔵書」は「長浜系図jのことである。系譜関係は「長浜系図

J

1

:基づいているというのである 。それは「長浜系図」によって系譜関係における物語を

!通俗琉球北山山 ~nGj においても踏襲しているということになる。

次に、その内符を部分的に紹介し、 「長浜系図jとの連続性を確認しておく 。表33が

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俗琉球北山 113来 記jのrj次である。

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太古今帰仁妓主の由来に就いてjで、 「今帰イ 城

t

の山米を尋ね見れば、存亡して五稔に分れ有り 是太古今帰仁城主、前昔今帰仁城主、

w

片今帰仁城主、後!?今帰仁減主、今今帰仁城主、等是也 きれば能々其の所属をi則自に

I[し拝すlI

J

きは拝す1f

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し。 (J8) 

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と述べ、この 5種の今帰仁城主について順次説明して いる。この 5 種の今~/'li仁城 t は時代層によって分けられているようであるが、それぞれが どのような時代として設定されているのかはわからない。それら 5種の今帰仁城主のうち、

民も Iliい時代層として設定されているのが、次に紹介する「太古今帰仁城主」である。

11i今帰仁城段初Jの城主は太I'i:IJJJ点天帝子ーの次男にして、今帰仁按司と称すo

l~tの太占今帰仁按日]は、今帰仁大按司と云い、北山大按司とも云ふ。

此の太Lj"今帰仁按liJは玄孫の悦に至り男子無き為に太古明東天孫氏五世即ち百佳尼‑ 係氏の 三男を湖、11となし給ふ。

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無嗣

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を以って太,l11列点11孜毎̲[天孫、氏の御子を養子と為し給ふ。是れを今帰イ一 按riJと称す。此の按行jの嫡子は早く弟去被成を以って羽地按司の御子依り賢なるものを

選ぴ跡 I~ となす。此の羽地按司の御子依りなる今帰仁城主は二代目世の子孫に至り男子

'

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れずO 故に太t̲!j

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Ji研

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馬)支加禰ミ

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天孫氏の御三男を跡目となす。然しるに此の城主も また:代lJに至り男子生れず。放に辺戸他魯力日尼王天孫氏の八男を得て跡を継れ四代迄 相継たれどもよ

L

の後 ミVLI代は今帰仁城は空城となるに至れり 。

然かるに安谷尾忠

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~t~)JlIt期王天孫氏の御次男より今帰仁減に往きて今帰仁城を再興し今 帰仁城

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と称す。

然かるに又此の城ヒも男

f

不生して、太古安谷屋思徳樽金王天孫氏の次男を跡目となす。

此の安谷屋忠徳締金

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天孫氏の次男よりなる今帰仁城主は五六代の頃の子孫に至り中山

[ピアカ]

忠金松兼王天孫氏のイ波亡と同時に倣亡して其の子孫は各処に離散し今帰仁城は空城とな る。太山安谷屋忠徳締金

E

天孫氏の御次男依りなる今帰仁城主即ち今帰仁按司の五代目 には御f三人あり 。長男は父の跡を継ぎ今帰仁按司となり次男は羽地世主となり、 三男 は大!Jl

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任主大里按I

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となる此の大屯

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主大里按司は一男一女有り長男は大里按司長女は 斗鍋憎金と称し、源為朝公の御妻となり一子尊敦を生む。尊敦は長ずるに及び浦添按司

となり、後中山王となり給う是れrl1山舜天王也

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ぷふ太占1<土谷j宅忠徳憎金正天孫氏の御次男より今帰仁城に行き今帰仁城主となる 今帰仁按司は五六代の頃の子孫に

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山思金松兼二

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天孫氏が其の臣利勇と云へる者に 殺されて亡ぶと同時に今帰仁城主も破亡して今帰仁城は空城となる。

然るに又源為朝!と今帰仁間切勢埋客村のノロコモイとの間に生れし御子即ち大舜と云へ る人が今帰仁城に入り今帰仁城を再興し今帰仁減主となる。

表3‑3

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琉球北山山来記j日次

琉球太山史の概説

天孫氏三十五紀の御子孫系関 野史に見る琉球の開閥伝説 琉球民族の祖先考

古宇利烏とrKI頭民族考 匝|頭と古!Æ ~ff

運天港とj原為朝]

源、為朝のj度琉伝説 減、為朝公御子孫系[~

太山北111域社について

太 I~í今帰仁城主の|臼来に就いて 太 I-~今帰仁城主

iiJ ff今帰仁成主 IjJ背 例 制 : L

後荷今帰仁城主 今 今j引:城‑i:̲

filJ比家;??支流時記 今今川イ : i̲:R栴系│苅 北山イ(IJE1:F  北山11民巨

北山鉄'T:!J:11

111E系│ヌ│

北山祭安知

1 :

の御了‑孫系図

j必tLtllr米記

'11背今帰仁成主忠金万兼の子孫 I'J1f今帰十域 iの子孫

11'f‑f

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守口武多按打j 計上記武多城 i̲:系│主│

用良人川按行!とJt:子孫

i良大川按司略系i

今帰仁

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11崎山村尾部殿内の由来 大汚按可の山来

大湾按斤JR栴系関 琉球各城主の系│立│

今帰仁城主尺代r1の子孫 今帰仁城主ノ4代 I~ の子孫 今帰仁成主七代[~の子孫 今帰仁城主八代目の子孫 久志若按司の由来 IU 

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抜討j I日按百j略系図 伊覇按 ~J

伊覇按司略系図

伊覇大屋宅の神参拝する者家譜衆記 美里間切伊覇村イ中門宅を参拝する家号衆記 山田村‑奴留殿内宅を拝する者の家号衆記 高山按司

北谷城主の由来 桑江親雲上由来記 森川子由来記 尚部威今帰仁王 喜尾武按司の由来 大宜味按司の由来 健堅大親

孟姓上間大親

111昔今帰仁仲宗根若按司の子孫 玉城城主の由来

E城按司略系関

大宗世大里英仙芝公略系譜

a地按司の由来 辛地按司略系図

同頭地方各間切各村の行政吏員 同頭地点伊江島の行政吏員 悶頭地方伊平屋島の行政吏員 悶頭地方各間切各村火神 伊江島各火神

伊平尾島各火ネI~

名護妓司の由来

北 UI祭安知1王衣冠を賜はらんことを成祖に請ふ 今帰仁間切親泊村応理屋恵御殿の起源、

羽地按司の由来 金峰山観音寺

明の太祖朱元環より北山王に下したる詔諭の文一 された後の北山

北山城監守の全廃 定水和尚を弔へた歌 市定水不

n

阿応理屋恵御殿の村l職の変遷

琉球黄金時代と詩人恩納ナベに就いて 恩納口説

改決羽地川神記

羽地問切に於ける畦払の願文 羽地間切に於ける六月祭の歌詩 国頭地方史蹟

説云ふ此の大舜と云へる人は源、為朝公と今帰仁間切下運天村のガソオ尾の!J:.

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との間 に生れし御子也とも称す。

文異説あり。太占今帰仁城主は、中 IL!王忠徳樽金天孫氏の次男たりしが、父王の命に依っ て、今帰仁間切に雫り一城 を 築 き 減主となる。

是れ今帰仁城最初の今帰仁城主也

同して其の子孫の

1 " :

に雫り太山中山主思金松兼の破亡と共に、今帰仁城も亡び、、共の子 孫は各所に離散して今帰仁城は

2 2

減となる。

今帰仁城は其の興亡は比だ頻繁たりしを以ってその事跡に至りては詳しく知る事不能放 に太田併を記し置くもの也 (19)

きまざまな天孫氏が設定されていて、太Ilj今帰仁城主が天孫氏系統で、あることが繰り返し 強調されている。男子が生まれずに他系の次男、 3男 を 跡 目 と す る が 、 そ の 跡 目 も 天 孫 氏 である。この男了‑が

1 ' . :

まれずに他から跡目を継がせるというモチーフは、先の『琉球祖先 主鑑

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にも兄られたが、ここではそれが多用されている。後半で、 j原為朝と沖縄女性との

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Hlに生まれた.Y

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が 今 帰 仁 城 主 と な る と い う 説 が 紹 介 さ れ て い る が 、 次 の 「 前 昔 今 帰 仁 城 主jに関する記述では、次のように、後継男子が絶えるというモチーフを遣うことによっ て天孫氏系統へ待わっていく 。

1 1 1 1 f

今帰仁減

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ま源為初公の御子中山舜天王の次男孫より今帰仁城に入り、今帰仁減 を│ヰ興し、今帰イ :減

1 ̲

と称す。

此の城主は

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'Ill義本主の弟にして、前には今帰仁王子と称す。

雌然御子生れず比

1 1

1山義本王の街

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三男御子即ち今帰仁王子を養子となす。

此の義本王の御一三男 よ り な る 今 帰 仁 城 主 は 又二 三代の頃に至り嗣子無きために姻戚なる

1 1 ' 1 1 1

英相王の御次男湧川王子を養子となす。雌然二三代 の 頃 に 至 り 其 の 臣 、 本 部 大 主 の ために破れ子孫各所に離散せりと云ふ。 (20)

」こでも外来の舜苅む系統は後継男子が生まれず養子を取る過程で英祖の天孫系統に替わっ ていくとされている。つ ま り 、 後 継 男 子 が 生 ま れ な い の で 他 か ら 後 継 者 を 入 れ る と い う モ チ}フは天孫系へと系譜を変更するための一つの方法なのである。

次に、 イ「

1 1

1背今帰仁減註の

‑ J

孫」の記載内容を検討する。

1 1 1 f t

今帰仁減主の父は北山!止 主 今 帰 仁 按 司 也 祖 父 は 北 山 世 主 湧川按 司 也 曽 祖父 は 11'111 失1111~ の次yjj兎川王子也 此の1Af

1

J1壬父君は天孫氏後育恵、祖世主也

l Lつイt!J背今川仁城主の御兄弟を尋ね見れば羽地按司 名護按司 長女真加戸金 国 頭 j安司大川按司 大以後司 津記武多按司等有り 伝へ云ふイ中昔今帰仁城主は一旦崎本 部村の本部大主と云ふ者に城を奪はれしが又其の子孫や忠臣等の努力に依り本部大主を 殺して減を取り戻し旧城に入り城主となる玄ヱミ

且つ此の城主の子孫と称する~を尋ね見れば著しく民間に知れ居る者は左記の如し。

今帰仁間切親泊村奴武殿内の仲宗根。

名護間切屋部村石垣/孟0

名護間切屋部村阿儀旭日:0

読谷山間切長浜村大殿内。

真和志間切安謝村宮ゴニo

名護間切宮里村許田屋及大兼久屋及奴加比0

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