論 説
現 代 租 税 ・ 税 制 論 の 検 討 ㈲
61 目次
一現代租税・税制論の新傾向
二再評価論の↓般的特徴
三いわゆる﹁支出税﹂について
O基本的な理念と課税パターン
ロキャッシュ・プロi方式(﹁古典的支出税﹂)
口﹁現代的支出税﹂(労働所得税)
四﹁包括的所得税﹂について
H所得概念とその変遷
口﹁包括的所得(税)﹂の概要と問題点
ω具体的改革案とその難点
(以上︑第二九巻︑第二号)
五租税原則について
小 林 晃
‑i歴史性・階級性
↓自由主義と租税原則
口独占資本主義と租税原則
日国家独占資本主義と租税原則
四現代の租税原則
ーその特徴と傾向1
1﹁簡素﹂
2﹁中立﹂
(以上︑第三〇巻︑第一.号)
3﹁公平﹂
ω現代と公平原則
切闘水平的公平﹂﹁垂直的公平﹂捌批判的小括その一t
の批判的小括ーその二
(以上︑第三一巻︑第一.号)
六租税の根拠について
0根拠論の意義と内容
口利益・応益税(対価説)
1意義と論点
2租税の負担配分(公平規定)
3小括
ω義務説(応能︑能力説)
1意義と論点
2先駆としての義務説J・S・ミルの見解
63現 代 租 税 ・税 制 論 の検 討
ω義務・犠牲としての租税
㈲﹁能力説の占典的説明﹂(以上︑第三二巻︑第三号)
3本流としての義務説
ω意義と論点
回租税の負担配分(公平規定)
の小括
3本流としての義務説
ω意義と論点
ω義務説の一般的意義については︑すでに前号(本誌第.二巻︑第三号)におい三通り述べておいたが・J.s.ミルの見解(同上)をその先駆とすれば︑その本流ともいうべきものがA・7グ†の見解である・かれの租税根拠論
は︑ひいては原則論や体系論をも含めて︑現代の支配的な租税税制論の源流套しているといっても過言ではなく・
あるいは多かれ少なかれその有力な理論的→スとして︑現代の多様で混沌とした租税論の中に・様々な形で実質的
に継承されているといってよい︒
ワーグナーは租税の意義について次のように述べている︒
﹁財政上の意義よりいえば︑租税とは公共団体の施策嚢に対する一般的報償として・一般的原則と擢とによ
り︑公共団体が芳的に定むる所の方法をも.て︑またその芳的に定むる所の額において・公共団体山家その他
の権力団体ふその財政上の必要を充すがために︑そ睾権に基づいて︑強制的に個別経済より徴収するところの賦
課である・また・これを社会政策上の意義よりいえば︑租税とは財政上の必要を充すと同時に︑もしくは︑財政上の
必要の有無に拘わらず・国民所得の分配並びに国民財産の分配を︑また時としては︑個人所得並びに個人財産の消費
を規制し︑改変する目的をもって徴収するところの賦課である﹂︒
この租税の定義からも明らかなとおり︑7グ才は︑国民所得・資産の.再分配を含めて︑国家が提供する庵策.
施設に対す至般的報償(︒Φ塁一Φ吋国還彗歪Lという点に租税の根拠を霧ているといってよい︒利益説が国
家と個人.個別企業との間の給付・反対給付の関係を︑商品交換関係に擬制して︑租税(負担)を国家による給付にた
いする対価としての個別的な反対給付とみなすのと対照的に︑7グ才は︑両者の個別的︑直接的な関連を断ち切
る・すなわち・租税を国家による一般的・普遍的な給付にたいする一般的濯︑いいか.凡れば一般的反対給付として
えているむ
だが・租税負担は・現実にはあるいは実墜︑個別的であり︑また個別的であるほかないかり︑▼﹂のよ.つに租税u
一般的報償という捉え方にたてば︑租税負担額を規定する目パ体的で個別的な規準がある意味では無くなる︑1租税を
商品交換関係における﹁対価﹂として擬制視する利益説の場合は︑前号で批判しておいたとおり︑理論的には成り立
ちえないたんなる霧ないし仮説にすぎないとしても︑理屈上は個々人・企業が受けた給付(受益)にそれぞれ対応し
た反対給付(対価)として・そうした基準が応は存在するのに対してt‑}﹂とになる︒その結果当然なが︑り︑租税の
根拠を説明するにあたって・納税(親負担)は︑"義務であるとい・つ側面が︑利益説の場A口に〜りべてよりいっそ.つ
強調され︑あるいはよりいっそう前面に押し出されることになる︒
ワーグナーいわく﹁租税とは・主権にもと・つい三方的に︑強制的に個別経済(個人.個別企業)より徴収すると}し
ろの賦課である﹂と・この租税がもつコ方的L彊制的Lという性格は︑国家(公)権力の属性としての強制性に由
0 1潮 」
闇四一 闘一 劇
65現 代 租 税 ・税 制 論 の検 討 ㈲
来する}﹂とはきm.つまでもないが︑}﹂のツ﹂とをいわば裏返せば︑租税とはたんなる﹁対価﹂でもなければ寄付でもなく︑"義務"であると主張することにほかならない︒
▼﹂.つしてワ置グナーは︑雇的報償.反対給付としての"義務"という側面に︑より力点を置いて・親の根拠を事実上説明する.だが▼﹂の}﹂とは︑しばしば混同ないし誤蟹れることが多いのだが・7グナーが租税の根拠を義
務"それ自体に求めているわけでは決してない.それはともを︑こうした理論的特徴から・通説的説明が7グナーの租税根拠論を︑利益説と対比して︑"霧説と呼ぶゆえんである.資奎義が独占資本嚢(帝国毒の段階へ移行するに伴.て︑いわゆる﹁経費膨張﹂が必然化し︑そのため税収と親負担の増大が奇避の傾向となり・したがってまた︑そのよ.つな租税負担の増大(とりわけ大衆趨の政治的正当化の必要性が高まるとともに・こうした義務説的根拠論がますます有力視されるようになる︒
現代の国家独占資本霧のもとでも︑▼︑の流れ奮む租税根拠論が事実上支配的である理由も・基本的に亘であることはいうまでもない︒
もっともワ﹁グナ﹁は︑}﹂れまたしばしば混同して論じられる場合が多いのだが・租税の根拠そのもの(根拠論の第一の内容)としてでは努︑租税の負担配分規定(根拠論の第二の内容)に際しては・応能という具体的・個別的基準に
よる課税を一般的原則として毒するソ﹂とはすぐ後で述べるとおりである.つまり7グナーは・租税の根拠そのものとしては個別的反対給付すなわち利益.対価説を否定して︑一般的反対給付・報償説を表するのであるが・租税の負担配分については応能(能力)説を主張する︒
またなお=縮口▼﹂}﹂で壇しておけば︑"利益〃対"霧という形での二つの根拠論の対比も・正確にいえば理論的正当性を欠いているというべきであろう.というのは︑第匠︑両説とも親の根拠を反対給付に求める点では変り
なくtすでに指摘したとおり・霧説も租税の根拠を"霧〃それ自体に求めているわけではないー︑ただ違い
は・薯がそれを個別的に‑商品交換関係に擬制して︑﹁対価﹂として︑後者が一般的に直接的な商︒嬰換の関係を
断ち切って二般的濯皮対給付として捉えているにすぎず︑また第二に︑両説ともに︑租税負担を国民の霧と
みなす点では・基本的に何ら変りないーいわゆる霧説だけが︑租税を"義務と主張しているわけではないt
からであるむ
ところで・ワーグナーの見解のこの点をめぐって︑スースに袋される利益説と対比して︑笙に現実的ではあっ
ても論理的ではなく・租税の根拠の説明として鐘論的に無意味であるとい・つ批判︑また第二に︑統蓋た準則が
ないため・そこから租税原則を理論的に導きだすことは奇能であり︑そして実際︑ワ歩ナあ租税原則には論理
的亘性がなく・ただ実務・実用的藷原則の鷺がみられるにすぎないとい・つ通説的解釈による批判がある.
租税が霧であり・瑳であるといったと}しろで︑それは︑租税のもっている権力的側面をただ別の.量でいいな
おしたにすぎないのであって・おなじ租税根拠論でも利益説とは︑かなりその性格を異にしている︒とい.つのは︑も
ともと利益説は・すでにみたように︑このような権力的側面を交換とい・つ︒ブルジョア的にA口理的な関係に擶してと
らえることによって二面租税の存在を合理化するとともに︑他面︑利益なければ租税なしとい.つ意味において課税
に一定の限度をおこうとしたのであった.ところが霧説ではすでに}しのよ・つな︒フルジ.ア的なA口理化のための説明
は饗されてしまっているのだから・それは租税根拠論としてはほん・りい無意味なものとなっているといわなければ
なら施﹂・
莉益説のばあいには・租税は国家からつける利益の対価として理解されていたか・り︑各人がどれだけの租税を負担
すべきかについても・またそのさいいかなる条件を必要とするかについても︑}﹂の理解にもとつく多少とも堕され
囲幽酬 闘闘 馳」」
」■」u凹脚 踊 目 幽
67現 代 租 税 ・税 制 論 の検 討 ㈲
た準則をたてえたのであった︒}﹂れに反して霧説のばあいは︑租税とは国民の霧であり・罐であると抽象的に
説かれるにすぎない々り︑なにが各人の霧の程度をけっするかも︑また各人がいかなる条件のもとにこの霧をは
たすべきかもまった‑わか.bないソ﹂とになる︒か‑て霧説においては︑利益説のばあいとは異り・租税根拠論との関連において課税原則を導きだすことは奇能となって▼しざるをえな(甲)L・
﹁▼﹂の(ワーグナあ租税九)詠はスースのそれに〜bべると・その数も多く・その視角も広いことはたしかである.
しかしそれはス︑︑︑スの原則がその利益説か・わ導きだされ︑各原則相互のあいだにも密接な有機的連繋があったのにたいして︑租税が霧であるとい・つ▼しとか・りどのようにして導きだされたものか︑また各原則相互のあいだにいかなる
連馨あるのかはす▼﹂しも明りかではない︒すなわち︑ワグ†においては︑租税は国家が芳的に賦課し・国民が義務的に納めるべきものであるが︑国家がこれを徴収するにあたっては︑財政政策的観点のほか・国民経済的ないし社会正義の観点々りの慮も必要であるということが︑きわめて抽象的︑羅列的に述べられているだけであって・それぞれの客観的基準をぎにもとめ︑また三つの観点をいかに調和芒むべきかということについての具体的.系統的な説明はま.をあたえ.bれていない.ただしいていえば︑増人する租税を覆な巌収するために必要な配慮が
根底にあって︑}﹂れが各原則をつないでいるということになるであを犯L・
み︑りれるとおり︑支配的な租税根拠論が利益説か・り霧説へなぜ変化したのかに関する通説親晩盗本嚢の自由霧段階か︑り帝国主義(独占葉嚢)段階への移行を根拠として説叩については・基本的に再しうるところであるが︑ヲ﹂▼しで指摘されているよ・つな通説的解釈による霧説批判は︑理論的妥当性を欠いているように思われる・
まず第一の論点批判について︒
通説的解釈によれば︑租税の根拠を"霧〃に求めることは︑﹁リτスティックであるが・その代り︒ジカルでは
なくL・﹁租税のもっている権力的側面をただ別の墓でいいなおしたにすぎないのであって・⁝:租税根拠論としては
ほんらい無意味なものとなっている﹂という︒だが︑ここには明りかに混同ないし誤解がある︒すでに前に述べてお
いたとおり・ワーグナあ見解では︑その理論的フレイムマクの性格と特徴かりして︑利益説に比べ︑霧とい.つ
側面がより前面に押し出され・あるいはより強調されていることは確かであるが︑決して霧そのものを租税の根拠
としているわけではないからである・もしマグナふ霧それ保霜税の根拠としているのであれば︑}﹂の通説
的解釈の批判も妥当するかもしれない.しかし︑マグナふ肇上租税の根拠とみなしているのは︑国家による一
般的.普遍的な給付にたいする一般的濯・反対給付と解すべき﹂とはすでに述べたとおりである.
同様に・霧説を利益説との対比において・ジカルではないというのも当を失しているとい,つべきで︑論理ないし
理論を恣意的に狭く限定するものといわなければならないであろう︒いわゆる原論的莞のもの1利益説は︑個別
的直接的な商品交換関係として・いわば原論的次元において擬制的に説明しているーだけが論理的ないし理論的
であるわけではなく(こうした捉え方の背後には︑いわゆる︑宇野理論流の理解の影響があるよ・つに田心われる)︑そ▼しには様々
な次元やタイプの論理ないし理論がありうるからである.マグナ涜の霧説的な根拠論も︑それを止目定するか否
かは別として・それはそれで;の論理にほかならない︒ただ︑利益説と対比した場A口︑租税の根拠の理論的説明に
おいて・その論理の次元や組立て方に一定の差違があるというにすぎない︒
第二の論点批判について︒
通説的解釈によれば・利益説が[多少とも堕された準則をたてえたLのに対し︑霧説は﹁租税とは国民の霧
(犠牲)であると抽象的に説かれるにすぎないから︑なにが各人の霧の程度をけっするかも︑また各人がいかなる条
件のもとにこの義務をはたすべきかもまったくわかbない﹂と批判されている︒
̲仙 」̲幽 』幽一 割 曲酬自
69現 代 租 税 ・税 制 論 の検 討 ㈲
▼﹂れも当然なが︑b︑篁の論点の解釈の延長線上で立論されていることはさておくとしても・逆にいって・はたし
て利益説がいわれるほど具体的で︑﹁堕された準則﹂をもっていたξ・いきれるのかどうか・きわめて疑問である・事実︑マスグレイブも利益説は必・りずしも比例課税につうずるだけで努︑﹁富める人は国家の保護からより多くの利
益を受ける﹂ゆ,凡に累進課税につ・つずるという論責ルγ︑ジェイムズ・スチューなど)・あるいは逆に国家の保
磯 姥 蕎 鴛 饗 り 緊 急 に 必 要 と さ れ る L ゆ え に 逆 進 課 税 に 言 ず ‑ と い ‑ 訟湘 者 (‑ . ! 奎 が
▼しのよ.つに利益説にも︑いろいろな解釈を許す余地があり︑またその解釈のいかんによっては・比裂税にも累進
課税にも逆進課税にも?つじつるとい・つ▼﹂とは︑いいかえれば利益説の規定とて同様に抽象的で・租税負担についての﹁堕された箭をたてえた﹂とは必ずしも言い難いことを意味しているにほかならない・これは・利益説が理畑
的な擬制と霧に痴している}﹂とに基本的に由来している.利益説が"具体的"三堕され華則をたてえたLのに対して︑霧説は﹁抽象的﹂三統一された準則﹂をたてえないというのは・きわめて機械的で次憲的な裁断な
いし対比といわねばなるまい︒
}﹂.つした誤解の背後には︑租税の根拠を霧それ自体と妻上解することとあわせて・先述した根拠論の二つの内
容すなわち︑租税の根拠そのものと租税の負担配分規定との騎と関連(拙稿四の冒頭参昭{)についての看過ないし未難とい.つ問題もある.﹁なにが各人の霧の程度をけ・するか︑また各人がいかなる条件のもとに▼あ霧をはたす
べきか﹂は︑根拠論の第.あ内容にtとしてかかわる問題であり︑そして7グ†はこの点については・応能にも
とつく公平規定を鯖する▽しとによって︑﹁多少とも堕された準則をたてえ﹂ていることは・すぐ後の回でみるとお
りである︒
同様に・利益説の租税原則(狭義)が﹁相互のあいだに密接な有機的轟があ.た﹂のに反して︑ワーグナあそれ
は﹁きわあて抽象的・羅列的に述べられているだけ﹂(大内︑前響)︑﹁論理的とい・つより藏的に必要と田心われる嘉
を万遍なく列挙森・前掲弔皆)︑﹁﹃梨説﹄にみられた明快な亘性の代わりに︑相互に矛盾さえする諸﹃原則﹂
の羅列L(高橋・前掲書‑笠等々というのも理論的に当を得ていないとい・つべきで孝つ︒ワーグナーに袋される
霧説に立脚する租税原則も・それはそれで一つの論理であり︑しかもすぐれて帝国義(ないし独占資本)の論理に
もとつく萌快な重性と﹁寝な有機的連撃によ.て特徴づけりれるものである}︑とは︑すでに前に(拙稿︒参
照)述べておいたとおりである︒
璽述したワーグナあ租税根拠論が︑その固有の国家論と奇分である}﹂とは︑利益説における場A口と言.つまで
もなく であるむ
国家論を含む7グナあ思想的な基本的凱場i;・でいえば社会改良義(﹁国家社Aム義﹂ω一鋤四一・,,︑︒︑帥鋤=︑ヨ¢.)
ーについては・すでに多くの研究と紹介があるところであるが︑ここでは︑きわめて蕩かつ要を得た北岡教授の
論稿に主としてよりつつ︑その特徴について葦のコメントを付しつつみてお}﹂.つ︒
ヲーグナーは⁝各歴史段階を・封建時代専族的家産国家の時代芋七︑八世紀の絶対専制国家の時代‑立憲制
に基づく霞国家の時代に分け・最後の市民国家の時代には私経覆先の理念が支配し︑自由義のもとで生産は著
しく増大したが・分配面の不平等が生じ︑暮田の差が響にな.て︑国家による社会政策の実施される時代︑﹃社A蒔
代﹄が到来するとし・国家社会義はこの時代の要請に答える指轟念であるとした︒国家社会義は共同体利糞全
体利益)の観点から・私経済における無制限な個人義を排し︑個人の利益が共同体の利益と豪する限り︑その妥当
性と必要性は容認されるが二致しない面に関しては︑所有に対する社会義の要蓼部分的に認め︑社会的な制限
国鵬 」』開雌臨 層H国㎞曲凹m冊巴 闇幽一 巳 一 旧祀胞囲四
7i現 代 租 税 ・税 制 論 の 検 討 ㈲
を加える︒しかし︑この制限は︑国民経済全体の仕組のなかで︑強制共同経済(財政経済)が・私経霜織の一部を代置する}︑とにより︑私的利益を単なる私的なものに終わらさず︑公的利益へと転換さすことによって国家理套護し.つるとした︒ワ﹁グナ置は私経済領域における生産面の拡大・発展に関しては︑個人主義的な自由競争原理を蓄
するが︑分配面における所有権については︑崖から帰属したままの状態を絶対とみず・歴史的・相対的なものとしてその制限を義した︒所有権の神聚可侵は全体利益典同体に奉仕する限りでのみ神聖であり・全体利益と褒
しないものは否定ないし制限されねばならないとし(規﹂︒
ワ﹁グナーは︑ワ﹂.つした社会発展観と思想的募にた.て︑最新にして最後の段階としての﹁社会時代﹂(︒・︒N幕℃ぴ.・︒.)における国民経済を﹁私(営利)経済組織﹂﹁強制共同経済組轡国家財政)﹂﹁墾口的経済組織﹂に区分し・その
なかで国家と姦制共同経済組織Lは︑公正な所得の再分配︑福祉支化施策の推進など社会髭(︒・&鋤葺量を?つじて︑国民的全体利益を実現する青欝な全体意田心の具現者L(ないし全体意思の調整者)であると主張する・いわゆる国家有機体論の展開である︒
﹁ 私 経 霜 織 は 経 済 的 利 華 追 究 す る 利 己 的 動 機 に よ り ︑ 交 準 給 付 ・ 反 対 給 付 の 個 別 的 報 竿 に よ る 需 給 関 係 を
反映した︑自由競争価格に基ついて実現される︒したが・てこの組織での生産と分配は・全体利益の見地からなされえない︒それゆえこの欠陥を強制共同経済組織並びに慈善組織によって補う必要がある︒
国家による強制共同経霜織は︑共同体の成員として必要な欲望を充足するため︑共同財の生産とその支弁を社会的な公正に基づいて︑権威的に行・つ︒したが.て各成員への費用配分は︑ 般的な濯諜税の形で行うのが原則となる︒国民経済自体は相互に関連した主体な喬傑として存在するから︑国家が有欝な全体意思の具現者として・意識的・人為的な組織体となる︒
幽郎L
馨経済組織は自発的な道徳的行為により︑経済的利己的行為の克服を期するもので︑前二者の足りざると}︑ろを
補完し・財.サービスを道徳的な利用にまで高める点で重要であるが︑}しの組織喬民経済体系の中︑心に据えるのは
理想にすぎないとした︒
ワーグナーによると・これらの組織がどのような割合で組み合わされるかは︑その時︑場所など歴史的な推移に
よって変わるとした・ただ基盤となる主要な経済領域は︑有形財の生産.分配を行・つ私経済組織であり︑国家による
強制共同経済懇(財政)が私経済の一部を代置し︑規制︑矯正を行い︑慈善経済組織が両者のすきまを補完するとし
(10)た﹂・
みられるとおり・国家有櫟論(ないし有機体的国家論)とも呼ばれるマグナ肉家論の特徴と止臼心義の第一は︑国家
を超階級的な﹁中立的第三者﹂﹁全体意思・利益の具現者・調讐﹂と規定している}﹂とである.}﹂の意味では︑ワー
グナあ国家論も二般に資本家的国家論(したがって︑その社会で概ね蕪的な国家観)に基本的に共通の本質的特徴を
もっており・この限りでは霧説の国家論も・社会契約説的な利益説の国薫となん・り変るところがないとい・つ}﹂と
である
その第二は・本質的には同じ養本家的国家論ではあ.ても︑利益説の国家論とは違.て︑嚢の曜資本義す
なわち独占資本義(帝国義)段階の歴史的諸特徴を理込隅に反映した国家論とな.ている}︑とである︒
さらにいえば・﹁私(営利)経済組織﹂と﹁強制共同経済組織﹂を二大構成要素とみなす国民経済観︑﹁分配の歪等﹂
﹁暮田の格差﹂にたいする国家(社会政策)による﹁是正﹂︑﹁私経済組織﹂の﹁欠陥﹂にたいする国家による﹁規制﹂﹁矯
正 ﹂ 扁 完 L 等 々 と い っ た 主 張 に み ら れ る と お り ︑ 狭 義 の 現 袋 本 義 す な わ ち 国 家 独 占 資 本 義 註 ) 九 三 ︒ 年 岱
界大恐慌と第二次世界大戦がその画期‑下の支配的かつ主流的な国家論とい.てよい﹁福祉国家﹂論(経済体制とし 幽
73現 代 穆 税 ・税 制論 の検 討 伍}
ては混合経済論)のいわば原型を呈示していることである︒
その第三は︑思想的本質か︑bいえば︑よくいわれるとおり︑社会改良主義・§量ω晃Φ8弓ぎ鴬ω(資本家的イ↓アオ︒ギ﹁といわば蚕の関係を成す)に属す蚤﹂とである︒その点は︑あ‑まで﹁私経済組墾を蓋となる主要な経
済領域とした.つえでの百由競争原理の尊重﹁所有権の神聖奇侵﹂を大前提としつつ・その大枠の中で国家による窺制L﹁肇﹂を?つじて︑﹁社会時代﹂としての現代社会体制婁定的羅持することー三に国家の基本的な役
割と意義を求めていることによく示されている︒
㈲租税の負担配分(公平規定)
租税根拠論の第二の内容︑すなわち租税の幕配分をいかに規定するか︑あるいは言いかえれば課税における公平概念の基本的規定について︑ワ歩才はどのような主張を展開しているのか・これが次の問題である・その基本的要点を言でいえば︑受益に見A口う負担︑いいかえれば受益に応ずる比例的課税をもって公平と規定す
編 讐 総 難 列髪 謹 獣難 鍵 籍 終 鞭 讃 籔 於甕 轍
労)所得にたいする重課︑低額所得ないし勤労所得にたいする軽課・免税の所得税を中核としつつ・それを財産(保有)
税や奢修︒欄消費税でも.て補完することによ・て︑課税の公.平が実現されると主張する・
まずワーグすは︑荷が﹃公更公平)﹄な課税の本質を成すのか︑またこれは実際上何を意味するのか・これに関
する見解は︑所得と資産の現実の配分をどのように認識するかに︑もっぱらかかって馳Lとしたうえで・スミスに代表される従来の利益説的な公平論を以下のように批判する︒
従来の見解に従えば︑藻税の公正とい・つ概念Lならびに﹁普纏と公平という原則﹂は・要するに次のことを意味
する・﹂の普遍性は・文字どおりにとれば︑原則として︑すべての国民は所得の人小喬わず︑また勤労所得か不労所
得かを問わず・納税義務を負う︒最低限の生活維持のための所得も︑}しの例外ではない︒喫平は︑﹃所得にたいする
同一比率の課税﹄を意味する・すなわち︑原則としてすべての国民は︑所得の同じ比率分を納税しなければな︑りない︒
これは﹃比例課税﹄あるいはすべての所得にたいする同瓦率を︑したが.て﹃累進課税﹂の排除糞口心味する︒それ
はまた・勤労所得と投資所得への同等の課税を音心味し︑現存する私的な資産と資本は免除され︑課税は所得にのみ限
定さ蟻L・
しかしワ歩ナーによれば・このような見解は︑﹁私的企業と畠競争の制度のもとでの所得と資産の分配が︑正義
であり公正であるという前提﹂のうえに成り立っており︑したがってこの﹁前提﹂が承認されれば有効であるが︑承
認されえなければ崩壊する︒ところで現実に与えられている分配をみれば︑}しの﹁前提﹂歪しいと認ある▼﹂とはで
きないへという
﹁したがってまた・所得と資産の分配あるいは所得と資産の相関的秩序は神聖であり︑課税はソしれを塁口してはなり
ない・という結論を導きだすことも誤っている︒したがって︑たんに収入調達の手段としての純粋に財政的な基準の
ほかに・課税の第二の基準としての社会福祉という基準︑すなわち︑それによって同時に︑自由競争にもとつく所得
と資産の分配を改善すべく干渉するという課税の基準を設ける}﹂とが︑適切であるばかりか必要となる︒
こうした見解にたてば・課税の普遍性と公平の内容は基本的に以下のように爲Lとして︑次のように結論づけて
いる
﹁ω普遍性については・文字通りにとってはならず︑雨の現実の国民にと.三様であ.てはなりない︒低所得者
とくに勤労所得者を課税全体から︑あるいは直接税としての所得税のよ・つな特定の租税かり除外する}しとが必要とな
脳 酬一 曲咽 幽 凹凹 固柚 一m
現 代 租 税 ・税 制 論 の 検 討 ㈲ 75
る(}﹂こには最低生活費免税の社会的要請も含まれる)︒これはそれ自体として︑貧者の経済的負担を軽減し︑また貧者にた
いする課税を富者に比べて相対的に少なくする一手段として正当化される︒
②公平は︑﹃できるだけ経済力に応じて課税する﹄とい・つ意味のものとなる︒この経済力は︑絶対概念としての所得
や資産に比べて︑より急勾配に増大するから︑高額所得者には累進課税が適用され(すなわち租税負担は所得に比べて︑
より急勾配に増大する)︑比例的課税は排除される︒同様な意味において︑土地と資本から生ずる所得︑あるいは手短に
いえば資産所得は︑勤労所得に対比してより重課される︒これまた累進課税と所得源泉による差別が求あられる︒ま
た通常の租税とりわけ通常の所得課税にたいする補完税として︑たとえば奢修品税や一般財産税︑あるいは所得への
付加税として真.先に挙げ.bれる資本収益税などが必要となろう︒さらには︑この観点は︑個人的な経済的稼得を表
現しない偶然の利得や予期しない利益などに対する臨時的課税(資産の農や株式売買への課税等々)など・特殊な諸々
の租税ないしそれらを含む一連の一般的租税体系を包含する︒最後に資産ならびに資本課税としての相続税もきわめ
て重要視されなければなら轟﹂・
こうした公平概念の変化と転換の背景には︑一般的・基本的にいえば︑資本主義の発展段階の高度化︑すわち資本の自由競争を支配的特徴とする段階か・ら︑独占資本の成立と支配を歴史的特徴とする段階への移行があることは・繰
り返し指摘するまでもないであろ(粥︒
この点をより具体的にいえば︑その第}は︑資産性所得と勤労性所得へのいわば所得の両極分化を中心とする所得
の多様化と不平等の拡大(いわゆる﹁所得源泉の多様化・複雑化﹂)を含めて︑総じて所得・資産の第一次分配段階におけ
る格差と不平等が著しく拡大し︑顕在化するにいたったことである︒第二に︑資本主義の社会・階級構造からいって
必然的な労資間の階級対立の激化と顕在化︑資本義に批判的な諸勢力(総じて社ム至義的藷勢力)のム︒頭と組織化が
進展するに伴って︑階級宥和と体制維持を本質とする﹁社会政策﹂(小提︑中小零細業者の﹁保護﹂のための産業経済政策
を含む)的イデオロギーが必然的に発生し︑また重視されざるをえなくなったことである︒
主として︑こうした二つの理由と要因によって︑従来支配的であった利益説に立脚する比例的課税論i公平概念ー
は・理論的にも現実的にも︑さらには政策的にも客観的根拠を失い︑これに替.て︑応能.累進課税論が公平概念と
して新たに支配的主流の位置を占めるにいたったということである︒こ9︑とは国家独占資本義下の現代にも︑基
本的に妥当することはいうまでもないであろう︒
換言すれば・本来・資本義的(ブルジ・ア)民主主義がもつ弁証法的特質︑その歴史的に固有の本質と特徴あるい
はその歴史的進歩性と限界・すなわち芳における形式的・法律的平等(公平)と他方における実質的.経済的不平等
(不公平経済的搾取)という内在的矛盾が︑ここにおいて言わば社会的規模で顕在化するにいたった}﹂とi公平概念 の
と租税根拠論の転換も︑その理論的な一反映にほかならない︑ということができる︒
の小括
ω租税根拠論の二つの源流をなす利益・応益説と霧説ーこのうち現代支配的なのは︑霧説的根拠論‑1は︑
いずれも租税を国民の〃義務"とみなす点では共通しており︑後者だけが"義務〃と主張しているわけではない︒一
般に・義務説とは区別して説かれている利益説の立場にたつスースの場合も︑﹁貢納(納税)﹂は﹁畏﹂の﹁義務﹂と
されていることは︑すでにみたとおりである︒
この限りでは・両説とも事実上は同一の内容でありながら︑強調点をやや異にしているとい・つヲ﹂と︑すなわち芳
が国家から享受する利益とその代償の側面を強調し︑他方が国民の国家に対する義務の側面を強調しているというこ
とである︒
77現 代 租税 ・税 制 論 の検 討 伍〉
留税の根拠そのもの(根拠論を構成する笙の内容)についていえば︑利益・応益説が国家から享受する﹁受益﹂に
対する個別的な﹁対価﹂(反対給付)として︑対するに霧説が一般的な報僅(反対給付)として租税の根拠を説いて
いることである︒
▼﹂のよ.つに利益.応益説と霧説は︑更その理論的内容を異にしているようにみえるが・本質的には大差ない内
容とい.てよい︒要するに青でいえば︑いずれも租税とは国家から享受する利益に対する返報として支払うべき国
民の霧である︑圭張している点では但ら変りないということである︒この意味では・両説ともに・きわめて﹁常
識﹂的な国民の租税観(実は﹁総資本の観念﹂)を﹁理論化﹂したにすぎないといってよ(甲)︒
⑧根拠論の第二の内容をなす公平規定についていえば︑利益・応益説が主として比例的課税をもって・義務説が主として累進的課税をもって︑課税の公平が実現されるとみなしている︒
}しのよ.つな見解の相違ないし転換は︑上述ωの"対価か義務か"という強調点の相違とあわせて・概ね資奎義の歴史的発展段階i自由主義の段階と︑現代を含む独占資本主義の段階ーの相違を客観的に反映しているということができる︒やや日入体的にいえば︑すでに述べたとおり︑篁に所得盗産格差の顕在化の程度の相違・第二に国家にと.ての税収確保の必要度の相違ー要価な政府Lか﹁高価な政府﹂かー︑第三に労資間における階級対立の
顕在化の程度の相違と力関係の変化を︑概ね理論的に反映しているといってよいからである︒
ωだが︑}﹂・つした歴史的な対応関係を機的に藷しす箋のは正し‑ないf轟至歩行き過ぎれば誤りに転
化する‑iIであろう︒
確かに︑利益説は︑租税の徴収ー負担という国家の経済的な権力行為を︑貨幣交換関係として擬制視する点において︑自由義段階の資本にふさわしい租税観主応はいってもよいであろう︒だが︑幕商品(交換蘭係は・
脚
発展段階の相違を超えて資本義全体に共通する一般的属性であり︑したが.て︑甲しの意味では︑}﹂.つした観念はn
由義に固有なものというよりは・むしろ絶対義的な租税観とは対照的に︑全面的な商︒叩.貨幣経済としての資本
主義一般にふさわしい懇と解する方が︑理論的により正当だか・りである︒同様に︑霧説は︑国家の﹁経済的役割
の増大﹂・国家経費の膨張に対応して︑租税増徴の必要に迫られる帝国義(独占資本義)段階の国家にふさわしい租
税観を一応は反映しているといっても間違いではない︒だが︑租税を霧視する見方は︑上述したとおりス︑︑︑スの利
益説においても止ハ通しており・したがってそれは帝国義に固有なものとい・つより︑資本義的租税観に一般に共通
する一側面と解した方が︑これまた理論的に正当だからである︒
こうした意味では・従来しばしば段階的に区別して論じられがちな利益説と霧説も︑ω②で上述したとおり︑両
者あいまってワンセットをなす資本義的なー発展段階の相違を超えて共通するー租税根拠論の二つの特徴的な
内容‑受益に対する返報であり︑かつ霧であるとい・ー‑を強調占描をやや異にして表現したものとい.つ▼﹂ともで
きる・したがってまた・それらは本質的には︑資本義のもとにおける勤労国民の租税負担(追加叢)と大衆課税を お
理論的に正当化する総資本の(資本主義的)イデオロギーというべきであろう︒
⑤事実上・租税根拠論の重要な農要素の一つをなす国家論についていえば︑利益説にせよ霧説にせよ︑いずれ
も国家は国民の共通利益のために存在し︑その実現のために租税を徴収し︑そのた詮租税を使用する︑とい.つ自明
なようにみえて非科学的な大前提のう,えに立っていることである︒いいかえれば︑国家の本質をなす階級性をまった
く無視して・超階級的で甲立的な﹁第一暑﹂機関という外観(現象形態)を本質とみなしている︾しとである︒}﹂の
点 で は ・ 利 益 説 が 立 脚 す る 社 会 契 約 説 的 な 国 家 論 も ︑ 霧 説 が 痴 す る 有 傑 説 的 な 国 家 観 ︑ 福 祉 国 家 論 も な ん .り 変
葛 な い ・
79現 代 租 税 ・税 制 論 の 検 討 ㈲
}﹂.つした国家観に立つ限り︑租税とは国家か・り享受する利益に対する﹁対価﹂であり・報償Lであるという見方が導きだされるのは当然かつ必然である︒また︑利益説にせよ霧説にせよ︑その藷の事実上の前提となっている資本主義国家は︑経済的に﹁寄生的﹂な国家である腿︑国家の存続のためには租税歯民の義務芝することも論理必然的な帰結となる︒そ・つでなければ︑資本義の国家は︑その経済的議(必要財源)を原則として覆しえないか.bである︒}し.つして︑利益説も義務説も︑ω②ですでに指摘したとおり︑本質的には厘内容のものであるのは・
このような本質的に同一の国家論に事実上吃っていることにも由来しているといってよい︒
㈲馨本の(資本義的)エアオ・ギとしてでは奄︑科学的に︑租税の根拠(ないし目的)をどのように理解すべ
きかについて︑佐藤進教授は次のように述べられている︒
穂税は国家権力を前提とし︑}︑の国家権力の維持のために徴収される︒華をかえていえば・資本義国家の物的基礎の確保ということが租税の究極的目的である﹂︒
租 税 は 国 家 権 力 の 維 持 を 目 的 と し ︑ 同 時 に そ れ は 資 本 嚢 的 崖 関 係 の 維 持 を 本 来 的 目 的 と す る ・ 現 代 的 租 税 論 に
おける租税目的の多元的解釈は︑結局こうした観点のブルジョア的表現にすぎないL︒
現実の資本制国家で︑国家活動による受益叢大限に享受しているのは支配階級であるが・この受益は必ずしも支配階級の自発的な納税意田心の・つ・りづけとはな.ていないのである︒租税は資本制国家においては・支配階級の被支配階級に対する抑圧と収奪の手段としてその存在根拠をもつというのが真実に近い・租税は国民から強制的にとられる
貨幣であるとのべ奈︑}﹂の強制力の背後にあるのは︑国家権力であり︑すなわち軍隊であり・婁であり・裁判所
なのである︒このことを忘れては租税の根拠を説明しえな(25)い﹂・
σこれと基本的にほぼ同じ見解を筆者もかつて述べておいた︒
hl鴇
﹁資本義国家の経済的議套す国家財政は︑まず何よりも︑資本家階級による階級支配(いわゆる社会政策も当然
ながら包含)の維持︑ひいては資本主義体制の維持に︑その第一次的.基本的役割がある︒
だが・資本義国家財政は・さらになお第二次的・副次的役割として︑上部構造の反作用としての歪の経済的役
割をももっている・それは;・でいえば︑資本落の補完・促進とい・つ役割である︒最大限利潤追及を本質とする下
部構造によって基本的に規定された資本霧の国家財政は︑逆にまた︑その反作用として個裂本の落と利潤追求
を補完し促進する﹂︒
ところで・資本義の国家は経済的には﹁寄生﹂的であるからー社会の嚢生産手段の所有者ではなく︑したが.
て・社会の生産過程を直接に自ら毒・管理する主体ではないから︑経済的には︑国家のいわば外側にある本来の生
産・経済過程(戻間部門﹂)に依存するほかないー︑こうした役割を国家が果すための経済的基礎(必要財源)を臼り
直接に確保することができない︒
﹁このような資本義国家の﹃寄生﹄性という特徴から︑国家の経済的擁をなす財政‑老の歳入において︑租税
が決定的意義と比薯もつという特徴が必然的にでてくる.経済的に﹃寄生﹄的な国家が︑その窃に必要な経済的
基摩財源を確保しうるためには︑価値生産物ないし国民所得の一定部分を権力的に調達した収入︑すなわち租税に
あ 大部分依存するほかないからである﹂︒
㈲;・でいえば︑総資本による階級支配の維持と資本落の補完.促進︑そしてその目的と役割を達響るための
経済的基礎(必要財源)の﹁寄生﹂的︑権力的確保ーここに租税(課税)の根拠があるとい.つ}しとができる︒
利益説的ならびに霧説的な租税根拠論は︑いずれにせよ︑租税とは国家か・り享受する受益個別的か巖的か
は別としてーにたいする返報であり︑霧であると規定することによって︑}﹂の}﹂とを理論的.政治的に正当化す
81現 代 租 税 ・税 制 論 の検 討 ㈲
るとい.つ共通の本質と客観的意味をもっているといってよい︒佐藤教授の言い回しを借りれば・資本義国家による課税の目的と根拠の﹁ブルジ・ア的表現﹂で麓.逆に勤労国民的に表現すれば・生活改善と民主主義の拡充が︑いわば租税の"根拠〃とい・つ▼﹂ともできる︒したが・てまた︑公平課税と租税の塁的平和的使用の漿が国民的課
題となる︒
なお︑根拠論の不可分の震部分套す公平規定(ならびに狭義の租税原則の;としての公平原則をも含め)にかんしていえば︑すでに述べたとおり︑利益説を袋するA・スースにせよ︑霧説を袋するJ.S・ミル・A・ワーグナーにせよ︑その論述には現代へ継承すべきぞの肯定的側面を含んでいる.現代財政論がこぞって強調する所得.
資産の再分配L政策f公斐現の主張ーと︑他方における実態(現実)としての所得盗産の分配‑不公平fな.bびに現行税制1不公平性が最大の特徴‑との乖肇︑今日ますます著し垂っているだけに・ある意味では古典的な彼︑bの公平論の現代的再評価がきわめて重要である︒その肯定的な核心を現代へどのように継承するか︑とりわけ現行税制の改善のために︑目六体的にそれをどのように生かし︑適用するか・このことが現代租税論の最
重要課題となっているといっても決して過言ではない︒
(‑)﹀.≦m‑q⇔Φ﹃・閃一コ四﹃N≦一ωωΦ訂ω・ゴ異↓Φ葺ぎζ・・㊤ρ護P(渠美﹃7グナi財政学﹄・三九頁)・
(2 ) 幻 恥 町 難 醗 鋸 屏 ﹃ 鉾 欝 舞 ユ げ鑓 勺 = げ 翫 . 閃 一コ 四 口 . ρ δ ︑心 (閃 一. ω一 ①口 ぎ ⁝ .・. )も 三 ⊥ ・
同様な見解は︑林健久﹃財政学講義﹄にもみられる︒
会擁 .鞭 郵 鷺 露 鶴 轄 藍 藩 礒 デ羅 ン蓑 麗 穆 評蓑 響 嘱耐
}﹂カ.り国家と個人との取引を薪して利益説的親論を結論する︑という推論の段取りをふんでいる・と}﹂うが霧説では・国燃轍 縫 顯 韓 難 跡幽 鱗 讐 繰 縫 雛 醸 耐耀 糧 浦範
が・その代り︒ジカルではなく・市民社会の根源から国家租税を説明する筋道はついていない.ただ単に目の前に妻として
存在している租税の強制徴収を﹃霧だから当鉄{だ﹂と言いかえているにすぎないL(五二頁)︒
(3)同右︑一九一〜一九二頁︒
(4)拙稿(本誌︑第三〇巻︑第二号)︑参照︒
(5)武田ほか前掲書︑一九三頁︒
同様な見解は・前掲・林﹃財政学嚢﹄や高壌・柴田徳衛編﹃財政学﹄にもみ.りれる︒
て耀 鰭 髪 性購 嫁 灘 犠 踊 羅 疑 継 難 鯉 購 賑蔽 暴 饗 践 鍍 鞭 擁 だ ﹃雑 誕 が 訴 籍 眺 る の で あ る が ・ ス ー ス の ﹃利 益 説 ー れ た 明 快 釜 性 の 代 わ } ︑ 糊 塾 繍 灘 繁 総 鱗 趣鍬 凝 辮 欝 蕪 糊購
といわなければなるまい﹂(高橋︑一五六〜一五七頁)︒
(翻 嶺 嫌 講 綴 講 謙 津謬 麟 灘 繋 灘 難
の必要に対応して課税に限度をお〜﹂とも止畏をうしなうから︑いずれにせよ利益説はますます妥当性をもち猛なくなる.}﹂れ
にたいして霧説はその内容があいまいであり︑無意味であるだけに︑かえって右のよ・つな交錯した利益 負担の関係︑なりび
に増大する大衆負担を・その思弁的論理によって正当化する役割をはたす}︑とができたのである︒
霧説の嚢はまさに右のような点にあるから︑その発生にはドイッ資奎義の特殊事情が作用していたとはい,凡︑陰義
が帝国義化してゆくにつれて・この説はいずれの国においても採用され︑多かれすくなかれ租税根拠論の定説とな.て㌔った
現 代 租 税 ・税 制 論 の検 討 ㈲ 83
のである﹂(武田隆夫ほか前掲書︑一九〇〜一九一頁)︒
(7)莉益原則を支持した初期の著述家の大部分は︑国家の保護という観点から議論し・比例課税に護する結論に到達した・国家の保護にたいする必要は︑所得または富に比例して︑またある場合には支出に比例して・測られるべきであると一般に考え︑bれた︒しかしかな︑bずしもすべての人が}﹂の結論に同意したわけではない︒たとえばルソτは・寓める人は国家の保護からよ
潔くの利益を受けると毒した.シスモン艸アイの議論によれば︑富める人は貧しい人の黙認を償わねばな︑りず・国家の保護にたしする所得が増加するよりもより急速に増加する々り︑羅課税萎請される.ジ・ン・スチュアーミルをふくめて他のひとびとは︑国家の保護の概念をより広‑解釈し︑保護は貧しいひとびとによってより緊急に必要とされるという正反対の見解をとった︒事実︑︑︑ルは︑利益説が逆進課税につうずるであろうという理由で・これを拒絶した﹂・﹁利益説が累進課税に?つずると込珊ずる論者の中には︑ジェイムズ・スチュ丁画やベンサムがあり・彼らは・ルソー︑コンドルセおよび徹底的な羅を唱えたシスモン﹃アイのように︑最低限の生活費以上のものにたいして適用できる比例税を唱え
鱒 協 篤 驚 鹸 羅 鯨討 犠 机難 鑓 簾 粛㌍ 蟹 い蕎
(記紬鐸鱒ドルフ.ワクナ∴(大川政..↓.小林威編﹃財政隅子を築いた人々楽嚢の歩みと財政・租税畢﹄所
(9ζ社会政策とは︑階級問の型口対妾国家的なF渉ーたとえば︑失業保険︑疾病保険・年金鯉などの社会制度によっ
駄灘 擁 毒 器 馨 鰺 魂 編 鞭 讐 難 瀕 難 翻難 難
(10)北岡︑前掲書︑二三八〜九頁︒
(u)拙稿境代租税.税制論四﹂(本誌︑第・.︑.巻︑第.︑号︑六・・〜六∵.頁)参照・
(肥
で奴惣については︑拙稿︑同右⇔(本ま沁︑第.︑︑︒巻︑第..口写︑一八五〜充七頁)において︑すでに峯上述べているとお
(31)福祉国家Lの田藷系鍍旧︑理念︑歴史的経緯等については︑差し当り︑丸尾直美福祉国家L(熊窩夫.簾・代平編