イライザ・タルカット(Eliza Talcott, 1836‑1911) の岡山における活動 : 19世紀末における在日アメ リカ女性宣教師による社会改良活動理解の試み
著者 石村 真紀
雑誌名 キリスト教社会問題研究
号 66
ページ 107‑129
発行年 2017‑12‑22
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000016855
イライザ・タルカット (Eliza Talcott, 1836‑1911)の岡山における活動
19世紀末における在日アメリカ女性宣教師 による社会改良活動理解の試み
石 村 真 紀
はじめに
本稿で取りあげるイライザ・タルカット(Eliza Talcott, 1836‑1911)は、
アメリカン・ボード(American Board of Commissioners for Foreign Mis- sions, 以下 ABCFM
(1)
)が日本に派遣した最初の女性宣教師(2)である。タルカッ トは来日前、ノーマル・スクール等での教職経験があり、また、病床にある親 族の介護にあたったこともあった。そのような時に、海外伝道に携わった宣教 師の報告を聞く機会があり、自身も海外伝道に献身することを決意したという。
1873年に神戸に着任、現在の神戸女学院となる女子寄宿学校を創立した。その 後、岡山、京都、ハワイで伝道に力を注ぎ、京都看病婦学校、神戸女子神学校 でも教鞭をとった。ABCFM の日本派遣宣教師としてのタルカットの活動に ついては、これまで主として神戸と京都での学校教育活動に関する研究がなさ れてきた(3)。一方タルカットは、学校教育のみならず各地への伝道のような広義 の教育活動にも来日初期から従事しており、ABCFM 関係の雑誌やその他の 文献によってそれを知ることができる(4)。むしろ、学校教育にたずさわるよりも 伝道、特に女性対象の伝道活動や、のちに社会事業に発展する、孤児院支援や 研究ノート
病院訪問を積極的に行っていたと見られる。タルカットの40年にわたる日本で の活動のなかで、唯一、学校での教育活動とほとんど関係のなかったのが岡山 ステーション(5)在任中である。1880年の岡山ステーション開設からほどなくして 神戸から岡山に移ったタルカットは、岡山を拠点として西日本各地への伝道に 赴く。岡山ステーションの開設のきっかけが医療宣教師ジョン・カッティン グ・ベリー(John Cutting Berry,1847‑1936) の岡山県病院への招聘であった ことと関係して、タルカットの岡山での伝道のスタイルも、ベリーの医療伝道 への同行から始まる
(6)
。そして岡山に特徴的な社会状況、すなわち明治初期から の社会事業の展開、活発な女性の活動などが ABCFM による伝道活動と呼応 して独自の社会改良の事例となっているということができよう。すなわち、社 会改良のありかたが、岡山においては、タルカットの活動によって伝道地の要 請に沿ったものに変化し、また岡山でタルカットは独自の伝道スタイルを確立、
ABCFM の岡山伝道のあり方もその影響を受けて変容していったとみること ができる。
岡山における明治初期プロテスタントキリスト教に関する研究は、1950年代 に竹中正夫により各地の教会形成について論じたものが発表されたが、以後は 主に日本近代社会福祉史との関連の中で行われてきた(7)。しかし近年、守屋友江 により ABCFM 岡山ステーションの形成と伝道に関する包括的な研究がなさ れ
(8)
、ABCFM 派遣宣教師による岡山伝道については、その初期の経緯が明ら かにされた。また田中智子により、岡山伝道の特徴である医学・洋学教育の面 からの考察がなされている(9)。田中論文で着目されている、岡山の医学教育と ABCFM の伝道との関連は、病院伝道、監獄改良といった社会改良に関わる 部分に踏み込む指摘を含んでいるが、特に女性宣教師と社会改良という視点を 重視したものではなかった。また、石井十次、山室軍平ら日本近代社会福祉界 の先駆的業績の諸研究(10)においても、宣教師による社会改良との結びつきに深く 言及するものはほとんど見られない。本稿では、これまであまり取りあげられ
てこなかった、女性宣教師による社会改良活動の理解への一階 として、タル カットの岡山での活動について検討する。
なお、考察のための一次資料として、タルカットが ABCFM 本部に送った 書簡および ABCFM 日本伝道関連文書のマイクロフィルム版(11)、ABCFM 機関 誌『ミッショナリー・ヘラルド』(Missionary Herald, 以下
MH
)、ウーマン ズ・ボード(Womanʼs Board of Missions)機関誌『ライフ・アンド・ライ ト』(Life and Light for Woman, 以下LL)、日本ミッション機関誌『ミッシ
ョン・ニューズ』(Mission News, 以下MN
)を用いた。タルカット以外の宣 教師の書簡のマイクロフィルム版も利用した。また、当時発行されていた新聞 形態の資料として『七一雑報(12)』、『山陽新報(13)』を使用した。Ⅰ アメリカン・ボード岡山伝道と女性宣教師
ABCFM の日本伝道は1869年、宣教師グリーン(Daniel Crosby Greene, 1843‑1913)の派遣 に 始 ま り、ま ず 神 戸 に 拠 点 を お い た。日 本 ミ ッ シ ョ ン
(Japan Mission:日本における伝道組織)は、1872年に規約(Constitution)
を定めたが、その2年後、規約に「婦人宣教師の事業に関する議題にはミッシ ョン所属の独身女性にも投票権を与える(14)」という条目が追加された(15)。女性宣教 師が早い時期からミッションの活動に大きく関わるようになっていたことは、
ABCFM 日本伝道の大きな特徴である。坂本清音によれば、女性宣教師が伝 道活動に直接携わることは、本国アメリカでは許されていなかった(16)。しかし日 本伝道においては、女性宣教師は当初から男性宣教師とともに三田、兵庫、明 石、遠くは今治、松山、丸亀、土佐に伝道、各地で女性のための集会を主催し 家庭への伝道も行っている。大阪においても、女性宣教師が積極的に市中への 伝道活動や家庭訪問に向かった事例が報じられている(17)。女性宣教師は、宣教師 補佐という立場でありながら、実質的には女性への伝道活動のほとんどを担っ
ていたと見られる。また、当時、ABCFM を通して海外伝道に派遣された女 性宣教師を実際に支援したのは、ウーマンズ・ボード(Womanʼs Board)と 総称される、組合派教会(Congregational Church)の女性団体であった。タ ルカットは、ウーマンズ・ボードの支援を受けて日本に派遣された最初の女性 宣教師の一人であった
(18)
。
日本ミッションが手がけた諸事業は、教育、医療、福祉、出版などに大別で きるが、初期の ABCFM 日本伝道においては、医師の資格を持つ宣教師によ る医療伝道が重要な要素のひとつであった。医療事業は、現実の問題解決に貢 献でき、新しい知識としても求められる度合いの高い分野であったがゆえに容 易に日本社会に受け入れられ、キリスト教を基盤とする事業であっても抵抗が 少なかったと考えられる。また、女性の職業として看護婦のニーズが高まった こと、看護婦の仕事はキリスト教の精神である隣人愛の実践(19)であることも、こ の分野の伝道事業を展開しやすかった理由であるということができる。
ABCFM の岡山伝道は、1875年、医療宣教師ウォレス・テイラー(Wallace Taylor, 1835‑1923)の岡山県病院への招聘にその始まりを求めることができ る。その後、神戸ステーション所属の宣教師に同志社卒業生の日本人伝道者が 加わって活動した(20)。
この間、岡山と ABCFM を結びつけることとなった人物が中川横太郎であ る。中川は岡山県令・高崎五六にその手腕を買われ、県の近代化政策に関わっ ていたとされる(21)。彼の妻ゆきは岡山教会設立時に受洗、妾の炭谷小梅はのちに タルカットと行動をともにして、石井十次の岡山孤児院の協力者となった。
1879年、ベリーの「岡山県立病院医学顧問」就任により岡山に独立したステ ーションが開設されることとなり、ベリー、オーティス・ケリー(Otis Cary Jr., 1851‑1932)、ジェームズ・ペティー(James HoracePettee, 1851‑1920)
の三夫妻、女性宣教師ジュリア・ウィルソン(Julia Wilson, 1845‑ )が初代 メンバーとして着任した。ケリーによる最初の岡山ステーション年次報告には、
岡山における伝道拠点設立が中川横太郎と神戸ステーションの宣教師ジョン・
アッキンソン(John Laidlaw Atkinson, 1842‑1908)、ベリーとの偶然の邂逅 により実現に至った経緯が記されている(22)。同じ年次報告には、ベリーによる私 立病院設立計画に対し、県令が援助を約束し、ベリー以外の二人の宣教師を中 等学校の教師として雇用したいと考えていること、女性宣教師ウィルソンの訪 問看護婦(visiting nurse)就任の記述もある。
ベリーとケリー夫妻、ウィルソンは4月に着任、県令の好意で彼の持ち家に 仮住まいし、そこで集会を行うことも許された。ケリーは前述の年次報告書の 中で、「われわれの働きが、現状の政治体制に敵対するものではないとみなさ れているのであろう」と分析している(23)。
岡山ステーションの開設については、
MH1879年4月号に “The Opening
at Okayama”と題して記事が掲載され、明治12年4月4日附『七一雑報』に も報じられている。翌1880年5月の岡山ステーション年次報告には、次のような記載が見られる。
「穏やかではあるが効果的な活動が、女性に対して行われている。(中略) 伝道活動の中で最も気がかりなのが、この女性に対する伝道活動である。
われわれは幸いなことに、一般的な集会を主導してもらえる何人かの働き 手を持っているが、他のステーションでよき力となることが証明された、
女性に対する伝道活動は、我々の間ではいまだ展開できていない。(中略) 岡山において、女性への伝道の機会が大きく広がっているのはまさに今で あり、周辺のいくつかのアウトステーション(ステーション内の出張伝道 拠点:筆者 )においても同様である。現在、積極的に活動するにふさわ しく、そうしたいという希望を持っている何人かのクリスチャン女性がい るので、彼女らのリーダーとなる人材が求められている。我々が求めてい るのは、生来の素質があり、指導力に富み、クリスチャン女性に助言をす ることができ、同時に、いのちのことばを求めている人々に伝えることの
できるリーダーである。この要望にいかにして応えられるのか。我々がこ の問いをミッション全体に投げかけたのは、これが単に一人の目の前にあ る問題ではないことを強く認識してもらいたいためである。この問いが答 えられずに放置されることは、ミッションの働きすべてに大きな損害を与 えるのである
(24)
。」
ケリーのこの報告には、岡山ステーションではすでに女性への伝道が活発に行 われ、その任に当たっていたウィルソンの体調不良によって活動に支障を来し ている、とある。ウィルソンは1880年に帰国、その後伝道の現場にもどること はなかった(25)。そして、その後任として神戸ステーションからタルカットが転任 することとなったのである。
1881年4月の岡山ステーション年次報告には、タルカット着任について次の ような記載がある(26)。
「初秋、よろこばしいことに我々はミス・タルカットを新しいメンバーと して迎え入れた。着任以来、彼女はとても豊かで有益な機会を見つけ、十 分に利用している。毎週5つの集会を開き、家庭訪問をし、アウトステー ションへ出かけて関心を持っている女性たちを助け、入院患者を見舞う、
等々。他の女性たちも同様の活動をしているが、彼女ほど広範囲にわたっ てはいない。」
また、同じ年次報告に、
「多くの反対勢力の圧力にもかかわらず、ミス・タルカットに導かれた二 人の教会員のクリスチャン女性は、牧師と教会役員の助けを借り、病院が クリスチャンの活動の場としてたいへん実り多いところであるとの認識を 得た。」
との記述があり、前年の年次報告での、女性への伝道のエキスパートを求める 切実なアピールが、タルカットの着任によって成就した様子が伺える。
タルカットが岡山に転任した1880年秋は、ABCFM の岡山伝道の一つの成
果である岡山教会の設立をみたときでもあった。10月13日の設立式にはタルカ ットも出席しており、当日に受洗して入会した者27名と他教会から転入した者 6名の合計33名の会員により、初代牧師金森通倫のもと、信徒による独立自給 を旨として教会は設立された。
同じ時期、岡山ステーションの伝道は、ベリーの医療活動をきっかけとして のアウトステーション設立というパターンによって進展をみていた。1880年の 岡山ステーション年次報告(27)によれば、岡山ステーション開設初期には、宣教師 らはベリーの医療活動によって開かれたアウトステーションを足がかりに、あ るいはベリーに同行してさらに地域伝道へと向かったと思われる。このように して開かれたアウトステーションは高 、西大寺、河辺、下津井、倉敷などで ある。このうち西大寺は、当初伝道が困難と考えられていたが、タルカットの 訪問によりキリスト教への関心が高まった(28)と報告されている。
しかしタルカットは1882年、神戸英和女学校(後の神戸女学院)校長ヴァー ジニア・クラークソン(Virginia Alzade Clarkson, 1851‑1940)の病気帰米 により校長代行をつとめることとなり、急遽神戸ステーションに転任となる。
同年の ABCFM 第72回年次総会記録
(29)
には、日本ミッション岡山から、タルカ ットの神戸転任と岡山への早期帰任への期待が報告され、1883年4月の岡山ス テーション年次報告にも、タルカット転任による女性への伝道活動の不振とタ ルカットに代わる人材確保が急務であることが記されている。
守屋によれば、この時期の岡山ステーションはメンバーの減少、県外にアウ トステーションを開拓するなど、伝道に関して大きな転換期を迎えていた(30)。タ ルカットの転出に続きベリーが1884年に、ペティーが夫人の病気のため1885年 に一時帰米する。それに伴って1880年代半ばからメンバーの入れ替わりがあり、
当初のメンバーは1886年に再来日したペティーのみとなった。ベリーは再来日 後、京都ステーション所属となったため、岡山ステーションには医療宣教師が いなくなり、必然的に岡山ステーションの伝道スタイルにも変化が生じること
となった。1882年に神戸ステーションに転任したタルカットはその後1883年末 に賜暇帰米、1885年9月に再来日した際はふたたび岡山ステーション所属とな るが、この間岡山ステーションには独身の女性宣教師は不在で、女性への伝道 活動も停滞していたものと考えられる。
県外への伝道活動は、鳥取、尾道、三原に視察が行われ、このうち鳥取には 引き続き伝道が継続された。鳥取にはタルカットと1888年に岡山ステーション に着任したアイダ・マクレナン(Ida McLennan, 1857‑1951)が伝道に訪れ、
1890年にステーションが開設されるにいたった。
Ⅱ 岡山着任以前のタルカットの意識
岡山ステーションに着任する直前、タルカットは自ら創立した神戸の女子寄 宿学校(のちの神戸女学院)で校務に携わっていた。当時、寄宿学校は入学希 望者が増えて規模が大きくなり、女子の教育機関としての充実が求められる状 況であった。そのため学校では、女子教育と校務に通じた宣教師の必要性が高 まっていた。タルカットは、開校1年後にあたる1876年10月18日附の ABCFM 本部宛書簡の中に、すでに次のように記している(31)。
「わたくし共は、只今、この家におります22名の生徒とこれとほぼ同数の 通学生とをかかえております。わたくしは、神戸の娘さんを数名お断りし てしまいました。と申しますのも、市外からの者がもう2名は確実にやっ て来ることになっておりますし、おそらく、ほかにもまだ居りましょうから。
(中略)
わたくしは学校業務を楽しんでおります。けれども時折、どなたか学校を 出たての方が勉強を受け持って下さったらどんなにか嬉しいでしょうと考 えます。只今ヴァッサーにおります友人が来たがっておりますので、この 方に働く用意ができた暁には、まさにわたくし共の待ち望んでいる人とな
ることでしょうと期待を持っております。」
神戸の学校の発展は、タルカットにとって喜ばしい一方で、より幅広い層へ の伝道の機会となる近郊への旅の時間を減らすこととなった。タルカットは、
来日直後から女子のための私塾運営と伝道活動の両方に携わってきた。来日翌 年の1874年の
MH
に掲載されたジェローム・デイヴィス(Jerome Dean Davis, 1838‑1910)の報告(32)には、「我々の活動は各方面で熱心に求められている。ミス・ダッドレー(33)は我々 の神戸の教会の女性信徒一人と一緒に、三田で12日間すごしたところであ る。そこでの女性たちの関心の高さはすばらしい。最後の二晩、100人を 超える聴衆が集まり、そのほとんどは女性だった。そしてこのことは、ミ ス・タルカットとミス・ダッドレーがここ神戸の学校と家庭であげている 成果とともに、この地では女性のためのすぐれた働きが、女性によってな されるものだということを我々に確信させた。」
とあり、タルカットの二元的活動がすでに男性宣教師も一目置くまでに行われ ている様子がうかがわれる。
また、タルカットはベリーの播州への伝道旅行に同行し、そこでもベリーの 高い評価を得ている。1875年1月の
MH
に掲載された記事(34)によると、「10月13日附のドクター・ベリーの書簡には、ミッションの女性たちがい かに役立っているかが次のように述べられている―
『播州地方へのたいへん興味深い旅については、まだ報告していなかった。
ミス・タルカットとミセス・ベリー、地元の女性信徒、男性の助っ人が私 に同行した。この旅は、読者の皆様方も喜んでいただければと思うが、女 性たちの導きによって特に実り多いものとなった。彼女らの一画は毎日、
朝の礼拝が終わった後正午まで、また夕飯の直後から夜まで、熱心な聴衆 であふれていた。そのほとんどは母親で、彼女らに対し救いの物語が繰り 返し語られた。本当にこのことは、旅の中で特に興味深いことであった。
あまりに印象が強かったので、私は、今後内陸部への旅行は女性の働き手 なしでは決して出かけないようにしよう、と思ったほどである。
しかし、彼女らはどこでも役に立つ存在である。学校でも、病院では現 地の病人に対する親切な振る舞いによって、また家庭訪問でも、彼女らの 感化力は最も有益である。我々のミッションの独身女性メンバーほど、有 能な助け手はいないと思う。』」
この記事に見られるように、医療という人々の間に入ってゆきやすい手段を持 っていたベリーでさえ、タルカットら女性宣教師の日本人女性に対する影響力 の大きさに驚き、女性への伝道は女性に任せようとする姿勢すら見られる。タ ルカット自身は、この播州への伝道旅行について、ABCFM 本部へ次のよう に書き送っている(35)。
「わたくしは只今、ベリー博士夫妻と播州への診療旅行に出かけたいと思 っておりますが、校務を一週間ばかりギューリック夫人(36)にお預け(もし夫 人が引き受けて下さいますならば)しておいてそういたしましたものか、
決めかねております。
わたくしの思いは、9月にあちらで会いました貧しい婦人たちにひかれて おります。わたくしにもう一度やって来るようにというこの人々の懇願は、
単に儀礼的なものではなかったように思えます。」
1874年12月1日附のこの書簡にある「9月にあちらで会いました」に相当する のが、前述のベリーのいう「播州地方への旅」であるが、タルカットも当地の 貧しい女性たちのことを思い再訪を考えていることがわかる。このように、タ ルカットは岡山赴任以前からベリーに同行し、病人や家庭の女性たちへの伝道 に力を発揮していたのである。なお、この書簡の抜粋は1875年4月の
MH
に 掲載され、「日本伝道の光の部分」と紹介されている(37)ところからも、タルカッ トの伝道成果が ABCFM においても注目されていたということができる。タルカットにとり、近郊への伝道活動すなわち家庭にある女性や病人への伝
道は、自身の考える伝道のスタイルに一致しており、それゆえに成果も上がり 打ち込むことができたと思われる。その成果は、日本ミッションのみならず ABCFM においても評価され、女性宣教師による伝道活動は伝道方法の1つ のパターンとして認められていったとみられる。
赴任に先立ち、タルカットは1880年4月に岡山へ短期間の伝道を行った
(38)
。そ の後7月5日附で ABCFM 本部へ宛てた書簡でこのことに言及し、また岡山 赴任についての感慨を述べている(39)。
「すでにお聞き及びのことと存じますが、クラークソン女史が神戸の学校 の全面的責任を負われることになりました。そしてわたくしは、この秋岡 山に参ります。
わたくしは暫時、ここを退いた時に十中八九赴くべき所として、京都に 注目しておりました。けれども、出発の用意はすでに整っております。ウ ィルソン女史が健康を害しておいでのことやパームリー女史(40)が京都入りを 志願なさったことが、岡山に参ることにつきましてのわたくしの逡巡に決 着をつけたようでございます。このことは、この学校事業をあとにしてゆ くということにとどまりません。それは、わたくしの、日本における最初 の自立的住家を去ることであり、そうして、数年間共に働いているうちに、
わたくしが頼りにすることができるようになってきた人々を去ることでご ざいます。」
「けれども、わたくしは喜んで出立いたします。岡山には、働き手たちの 気持ちの良い会がございます。そしてわたくしは、過ぐる4月に少しばか り、彼の地をそれとなく見に参りました時に予感したことでございますが、
この方々はきっと歓迎して下さることでしょう。」
1880年10月の ABCFM 第10回年次総会記録に、“Work for Women”と題 して、以下のような記載が見られる(41)。
「女子のための学校での教育に加えて、家庭にある婦人たちの精神的な幸
福(spiritual welfare)のために、より多くの活動が個別に、直接的に行 われてきた。そのような活動の機会はいたるところでみられ、その結果、
よろこばしいことに、多くの女性が教会に集まってきた。新しい岡山ステ ーションで、このような形態の伝道の必要性が高まってきたため、ミス・
タルカットは神戸の学校の運営をミス・クラークソンに任せ、この新しい 土地に居を移した。」
タルカットが神戸在任中に得た伝道活動の成果、それは女子寄宿学校設立だ けでなく、ともに活動するクリスチャン女性を育て、その女性たちがクリスチ ャンとして家庭から社会へと力を発揮してゆくことであった。日本に赴任して 最初に育てた神戸の女性たちを見守り続けることができなくなる一方で、岡山 にも同じような場が与えられているとの確信のもとにタルカットは岡山行きを 決断したとみられる。当時、岡山ステーションで女性宣教師が切望されていた ことは先に見た通りであり、タルカットの赴任は願ってもない結論であった。
Ⅲ 岡山におけるタルカットの活動
タルカットの岡山ステーションでの活動期間は、1880年秋から1882年1月の 神戸転任までと、1885年9月に賜暇帰米を終えての再来日から1890年秋の京都 転任までの2つの時期に分かれる。
岡山在任の前半期に、タルカットが ABCFM 本部に宛てた書簡は1881年8 月23日附日光発のもののみであり、この書簡の中には岡山での伝道に関する具 体的な記述はみられない。また、後半期の書簡は1886年4月19日附岡山発、同 年8月16日附比叡山発、同年9月7日附比叡山発、1890年4月12日附横浜発の 4通である。タルカットが本部宛に書簡を送っていた1872年から1905年までの 間に発信された書簡の総数は58通であり、多い年で1年に5通が記録されてい るが、全く書簡がない年も散見される。総じてタルカットの書簡数は多くない
上に、特に岡山在任中の書簡数は少なく、さらに岡山から発信されたものが1 通しかないため、岡山での活動についてのタルカット自身の証言は非常に少な いと言わざるを得ない。さきに見た赴任直前の書簡は、神戸での女性への伝道 経験を岡山で生かすことができるという強い期待をもって岡山行きを決意した タルカットの意思が反映されたものであった。新たな活動場所を得てその活動 の成果を本部に報告することは不可欠であったと見られるにもかかわらず書簡 が送られていない理由は種々考えられるが、最も大きな要因は、神戸と岡山で の活動形態の変化にあると言えるのではないか。学校という一定の場所を活動 の中心としていた神戸在任時と異なり、常に周辺の各地に伝道に赴くという岡 山での活動形態では、書簡を書き記す時間をとることが難しかったのではない かと思われる。タルカットの望んでいた女性への直接の伝道というスタイルが 充実すればするほど、書簡は少なくなるという状態になったと見られる。
そこで、この時期の ABCFM 総会年次報告と
MH
記事からタルカットの活 動を追ってみると、まずMH
1881年2月号に、「岡山に教会設立」と題して、日本ミッションからの書簡の引用が掲載されている(42)。記事には、岡山教会設立 式の模様と並んで、次のような記述がある。
「ミスター・ペティーは10月30日付の書簡に以下のように書いている。(中 略)ミス・タルカットは二人の既婚女性とともに病院を定期的に訪問し、
子どもたちからの花を届けたり、福音書や、“The Life ofChrist,Pilgrimʼs Progress”や『七一雑報』の合冊のような本を貸したりしている。彼女 らは機会があれば、患者たちと話をすることもある。」
また、同年6月号には、「岡山―光と影―」として次のような記事が掲載され ている(43)。
「ミスター・ペティーの岡山からの2月19日付書簡では―(中略)ミス・
タルカットは、将来有望な新しい集会を始めた。その目的は、コリント書 の学習を通して、我々の最良のクリスチャン女性の活動力を高めることに
ある。(後略)」
さ ら に、1881年 の ABCFM 年 次 総 会 記 録 に は、前 年 と 同 様 “Work for Women”と題した日本ミッションの報告が掲載されている
(44)
。
「女子のための学校での教育に加えて、家庭にある婦人たちの精神的な幸 福(spiritual welfare)のために、より多くの活動が個別に、直接的に行 われてきた。実際に、そのような活動の要請はたいへん多く、また急を要 しているので、アメリカ人教師たちは学校業務にとどまっていることが容 易ではない。福音を求める人々や、あちこちにいて福音を待ち望んでいる 女性たちに伝道するという、より直接的な活動は、教師たちを教室に閉じ 込めておくにはあまりに魅力的すぎるのである。しかし、キリスト教教育 の利点を描き示すことのできる女性を育てるという活動の重要性は、看過 されてはならず、そのことは、これらの教師たちの高潔な熱意をも満足さ せるものであろう。岡山のミス・タルカット、神戸ステーションのミス・
バロウズ(45)、ミス・ダッドレー、ミス・ギューリック(46)、そして大阪の女性宣 教師たちは、学校業務の時間をできる限りやりくりして、熱心に一般女性 への伝道活動に当たっている。」
ABCFM 年次総会記録には、女性宣教師が学校教育をさしおいて日本人女性 への伝道活動に力を注ぐことを暗に戒める表現が見られるが、MH 掲載の日 本ミッションの男性宣教師の記事からは、実際の伝道の場においては女性宣教 師の活動が女性信徒の獲得だけでなく、クリスチャンとして自立して活動でき る女性信徒の養成につながっているという事実を広く認識してもらおうという 意図を読み取ることができる。このような伝道現場の成果と意識が、ABCFM の中でも次第に公認されるものとなったとみられ、タルカットの神戸応援を報 告した1882年の年次総会記録には、前述のようにタルカットの岡山帰任が待た れる旨の表現がなされている。
1882年の神戸転任、1883年末の賜暇帰米を経て、タルカットは1885年9月に
岡山ステーションに再赴任した(47)。タルカットの不在中、岡山ステーションでは 1882年に高 教会、1883年に笠岡教会、1884年に天城教会の設立を見(48)、またベ リーの帰米と京都転任という大きな変化があった。1886年4月19日附岡山発の タルカットの本部宛書簡(49)には
「私はまもなく鳥取へ出発しようとしております。岡山を離れるのは容易 ではございませんが、鳥取からの私どもへの招請が大きいのです。」
とあり、また書簡に笠岡に関連する記述が見られる。しかし続く8月16日附比 叡山発の書簡では、岡山ステーションに戻ったものの、神戸ステーションでも 活動する、という状況であったと見られる記述がある。このあとタルカットの 本部宛書簡は1890年4月まで途絶えるが、この間タルカットが岡山県内への伝 道のかたわら、新たに鳥取伝道に携わっていたことは、先に見たとおりである。
鳥取での活動については1887年3月のケリーによる岡山ステーション年次報 告に、アウトステーションと県外伝道の活動として以下のような記述がある(50)。
「多くの祈禱会、聖書研究会、日曜学校、説教集会、そして特にミス・タ ルカットらによる家庭訪問が、教勢の維持と拡大に重要な位置を占めてい る。
伝道旅行については、特にギューリック夫妻が九州方面に時間を割き、
また蝦夷地へも足を延ばした点以外は、これまでと同様に続けられた。ミ ス・タルカットは岡山県内伝道のほかに鳥取に一度出かけた。鳥取では上 代[知新:筆者補足]氏が熱心な働きをなし、何人かが受洗に至った。」
特に1888年秋から翌年にかけては3か月、マクレナンとともに鳥取にとどまり 伝道活動に従事している。
一方、同時期のタルカットの動静については、岡山孤児院設立者の石井十次 の残した『石井十次日誌』によっても知ることができる。日誌にタルカットの 名が最初に現れるのは1887年4月3日である。その四日後の4月7日には、次 のように記している(以下引用部分は原文のまま、但し旧字体は新字体に改め
た)。
「(略)本日途中偕楽園タルカツ氏に面会教師予に語るにヨハネ伝第十三、
十七、の吾人に必用なることを以てす予同氏が鋭眼に感服せり聖霊に満た されし人とは蓋し同女教師を謂ふか(51)」
また、石井が岡山孤児院の前身である「孤児教育会」を創設した9月22日の直 後9月24日には、
「本日タルカツ女教師にも面会し孤児教育院のことを話しをけり(52)」 とある。以後「日誌」には1887年8回、1888年5回、1889年39回、1890年37回 と、タルカットの名が繰り返し現れる。当初、石井はタルカットに主に信仰上 の問題を相談していたが、同時にしばしば孤児院への寄付金や孤児への学資援 助を受け取っている(53)。1889年1月30日には
「午前タルカツ女教師を訪ひ (一)監獄伝道 (二)予の決心のことに付話 をなし色々親切なる勧をうけて帰えれり
○一の霊の神吾人を支配して事に従はしめ玉ふ 予本日タルカツ女教師に 離れて後いよ々此の感情強くなり一の霊の神の御支配に由りて事業は生長 す あに人を頼みとするに足らんとの念を起せり
(54)
」
と記し、タルカットとの面談によって自身の事業運営の力を得ていたことがわ かる。同年3月26日には
「○在辱中 衷心起きて祈祷をなし東山タルカツ女史を訪ひ爾が赤心を吐 露して必要の費用のことを相談すべしと言へる声あり 祈祷して東山タル カツ氏を訪ふ
タルカツ氏金拾円を孤児院に寄附せらる 一人にして拾円を出されしは嬌 矢なり (中略)
再びタルカツ氏を訪ひ相談せしに望の如くなし玉ひ欣喜手足の措く所ろを 知らず(55)」
とあり、資金困窮の際には多額の寄付を実際に受け取り助けられていた様子が
記されている。
また同年10月11日には
「四時よりして東山タルカツ女教師を訪ひ夕刻迄相談せり、あゝ同姉は実 は力らある女教師なるかな
(一)同姉北海道伝道の景況 (二)泥谷仙姉のこと (三)松山監獄伝道のこ と (四)孤児院教育及び維持法につき (五)泥谷於梅姉の学資の相談 (六)泥谷良次郎兄師範校退校のことに付相談
実に時の巳てに暮るゝに至るも不覚熱心に談話せり
(56)
」
との記述があり、タルカットが北海道や松山へ伝道に出かけていたことが見い だせる。同じく10月26日には
「女学校生徒孤児の衣服を裁縫し玉ふ タルカツ教師の企てに従ひ女学校 生徒孤児の裁縫をなし玉ふ(57)」
10月29日には
「タルカツ姉の注意 孤児院に会計を置き之れを精 に報告すべきことを 勧めらる(58)」
とあり、孤児院運営について具体的なアドバイスを受けていたことがわかる。
タルカットは1890年秋に岡山から京都に転任するが、その後も岡山孤児院を 訪問、また石井も京都のタルカットを訪ねている。
石井十次との関連では、岡山孤児院の支援者であり彼を常に支え続けた炭谷 小梅も、タルカットとの関わりが深い人物である。炭谷小梅は先に述べた中川 横太郎の妾であったが、タルカットとの出会いによってキリスト教に接するこ ととなり、信仰について学ぶに従って妾という自身の立場に大きな疑問を抱き 苦慮した末に、中川と別れて信仰の道に入ることを決意した。それによって中 川との間に生まれた娘とも別れさせられるという不幸にみまわれるが、タルカ ットの計らいによって神戸に学び、岡山教会において受洗するに至った。岡山 教会の長老として活躍(59)、タルカットの伝道に同行してその助けとなったことが、
石井十次の日誌にも記録されている。
石井十次の岡山孤児院は日本の社会福祉史の上でも先駆的な業績であるが、
その設立、運営にはこのようにタルカットの伝道活動が多方面から影響を与え ていた。タルカットの岡山ステーション在任前半期におけるベリーの医療伝道 との協働が、再赴任後、孤児救済という具体的な社会改良活動と結びついてゆ くことになったと考えられる
展望
守屋によれば、明治初期の岡山のキリスト教界の特徴として、各地に設立さ れた教会は多様な社会階層からなる教会員により構成されていたこと、信徒の 中から石井十次、留岡幸助、山室軍平ら近代日本における社会福祉の草分けと なる人物を輩出したこと、その後西日本各地への伝道拠点となっていったこと 等が指摘されている(60)。これらの特徴とタルカットの岡山での伝道活動との関係 を見ると、タルカットの活動はそれぞれに深く結びついていたことがわかる。
タルカットの岡山における伝道活動は、近郊のアウトステーションへの医療 伝道に同行することを中心とし、かつ、鳥取、四国、中国地方への伝道旅行に も出かけるという形態であった。伝道先では女性のための集会を開き、家庭訪 問のような女性に向けた伝道を行っていたことがステーション年次報告などか ら明らかである(61)。また、伝道には教会信徒の女性を協力者として伴っていた。
このことにより、日本人女性の伝道者の養成と、女性の集まりやすい環境の創 出を同時に実現した。タルカットの伝道のスタイルは、教会と学校教育を中心 とした都市型伝道ではなく、みずから各地の女性のもとへ出かけて行って多様 な層の女性と接触しながらリーダーになる女性を育てるという独自のスタイル であると同時に、女性の自立、社会活動への参加意識を持たせるという役割も 果たしていたと考えられる。
さらに、タルカットは ABCFM の方針である現地での伝道者の養成という 点に、女性の伝道者養成という要素をも加えた。タルカットの伝道に従った女 性信徒は、自らが実践者となって社会改良の役割を果たすことができ、たとえ 社会改良の専門職についていなくても、目に見える成果をあげることができた のである。タルカットは日本の女性の実情を知って、新たなスタイルを確立し ていったと考えられる。
タルカットが岡山で社会改良の意図をもつ伝道活動が実現できた理由として、
ABCFM の岡山の伝道が医療から始まったこともあげることができる。岡山 ステーションで医療活動を始めたベリーとは、当初、神戸ステーションでとも に活動し、病院伝道、監獄伝道についての経験を得た。ベリーはのちに京都看 病婦学校設立のアピールに、タルカットを看護婦養成の場にふさわしい女性宣 教師として名指ししている(62)。
「海外伝道の分野で最も有能な働き手のひとりとして広く知られているミ ス・タルカットの名が、このこと(看護婦学校設立:筆者 )にふさわし いとあげられた。そして彼女自身、それをよろこんで引き受けたいと表明 している。」
ベリーは、看護婦は看護技術だけでなく、患者の支えとなるためのキリスト教 の信仰にもとづく安定した精神の持ち主でなければならないと考えていた。神 戸と岡山での協働の経験から、タルカットが社会改良につながる伝道の場で大 いに力を発揮すると実感し、京都での看護婦養成事業に加わるよう働きかけた とみられる。
また、この記事はウーマンズ・ボードの機関誌に掲載されたものであるが、
ベリーの書きぶりから、機関誌の読者の間でもタルカットは名を知られていた ことがわかる。自分たちの支援しているタルカットの活躍が高く評価されてい る様子を知ることは、アメリカの女性信徒たちにとっても誇りと感じられ、海 外伝道に活躍する女性宣教師タルカットは当時のプロテスタント女性のロール
モデルと捉えられていたともいうことができるであろう。
岡山におけるタルカットの活動は、女性による女性への伝道の可能性の開拓、
女性の自立支援、孤児院支援など、社会改良の要素を含み、タルカットはそれ を自身の伝道活動の中で実現していった。タルカットは自身の活動に明確な社 会改良の意識を持ちつつ、伝道地にあったスタイルでの活動を行っていたと考 えられる。
こののち、タルカットは京都に転任、京都看病婦学校で教鞭を執る。その間 もたびたび岡山を訪れ、岡山孤児院への支援を続けている。さらに広島の陸軍 病院での伝道に従事、「日本のナイチンゲール」と称される活動をなした(63)。そ して再度の賜暇帰米後、乞われてハワイにおいて日本人移民への伝道にたずさ わる。社会改良の要素を含んだ伝道を継続したタルカットのその後の活動につ いての考察は、今後の課題としたい。
注
(1)1810年に組織された、アメリカプロテスタントキリスト教初の超教派海外伝道団 体。
(2)宣教師の男女を区別して表す際、女性に関して以前は「婦人宣教師」と表現され てきたが、近年は「女性宣教師」が一般的である。本論文では「女性宣教師」に 統一し、引用文についても「婦人宣教師」を「女性宣教師」と改めた。
(3)タルカットに関する主な先行研究は、以下のものがある。
鈴木恒彌・若山晴子「タルカット書簡―訳および 」一、二『神戸女学院大学論 集』24巻3号、25巻3号、1978年、1979年
同「イライザ・タルカット女史略年譜」『学院史料』第4号、1986年
渡辺久雄「タルカット女史の鳥取伝道と鳥取英和女学校」『学院史料』第6号、
1988年
同「京都看病婦学校とタルカット女史」『学院史料』第7号、1989年
(4)例えば、Womanʼs Board 機関誌Life and Light、ABCFM の機関誌Mission- aryHerald、ABCFM Japan Mission機関誌Mission Newsの記事、ABCFM の Annual Report、ABCFM Japan Mission の Annual Report
(5)ABCFM の現地伝道組織の基本単位がステーション(station)である。日本伝
道団を例にとると、神戸、大阪、横浜、京都、岡山の各ステーションが1870年代 に開設された。
(6)ABCFM Okayama Station Reportに記事の記載がある。
(7)ABCFM 岡山ステーションに関連する研究には、次のようなものがある。
工藤英一「明治初期岡山県プロテスタント伝道史の社会史的考察―天城教会を中 心として」『明治学院論叢』33、1954年
同『日本キリスト教社会経済史研究 明治前期を中心として』、新教出版社、
1980年
竹中正夫「岡山県における初期の教会形成」『キリスト教社会問題研究』第3号、
1959年
同『真人の共同体』、新教出版社、1962年
一色哲「キリスト教と自由民権運動の連携・試論―岡山と高 を事例に」『キリ スト教社会問題研究』第43号、1994年
(8)守屋友江「アウトステーションからステーションへ―岡山ステーションの形成と 地域社会」同志社大学人文科学研究所編『アメリカン・ボード宣教師 神戸・大 阪・京都ステーションを中心に 1869〜1890年』第3章、教文館、2004年 (9)田中智子「明治前期における医学・洋学教育体制の形成とキリスト教界―岡山県
とアメリカン・ボード」『キリスト教社会問題研究』第54号、2005年。のちに
『近代日本高等教育体制の黎明 交錯する地域と国とキリスト教界』、思文閣出版、
2012年に所収。
(10)同志社大学人文科学研究所編『石井十次の研究』、同朋舎、1999年 室田保夫『留岡幸助の研究』、不二出版、1998年
同『近代日本の光と影⎜慈善・博愛・社会事業をよむ』、関西学院大学出版会、
2012年
(11)Papers of the American Board of Commissioners for Foreign Missions: ABC 16: Missions to Asia 1827‑1919, Research Publications,Woodridge,ca.1983 (12)1875年12月27日、神戸において創刊された週刊紙。
(13)1879年1月4日、岡山において創刊、現在の山陽新聞。
(14)ABCFM Japan Mission Minutes of Annual Meeting, 1874
(15)吉田亮「総合化するアメリカン・ボードの伝道事業」同志社大学人文科学研究所 編『来日アメリカ宣教師―アメリカン・ボード宣教師書簡の研究1869‑1890』、現 代史料出版、1999年、13頁。
(16)坂本清音「ウーマンズ・ボードと日本伝道」同志社大学人文科学研究所編『来日 アメリカ宣教師―アメリカン・ボード宣教師書簡の研究1869‑1890』、現代史料出 版、1999年、140頁。
(17)たとえばLife and Light1877年2月号371頁には、大阪ステーション所属の女性
宣教師ウィーラー(Justin Emily Wheeler, -1878 )が、子供が小さいため聖 日礼拝に出席できない女性の家を訪問して、共に聖書を読んでいる、という報告 がある。
(18)コネチカット州出身のタルカットは WBM 所属、イリノイ州出身のダッドレー は WBMIの支援を受けていた。
(19)ベリーはLife and Light1885年11月の記事において、「看護宣教師は看護の知識 を用いることによって病人の苦痛を除き、それはキリストの愛の実際的な証しと なる」と述べている。
(20)First Annual Report of Okayama Station, June, 1879
(21)一色哲「キリスト教と自由民権運動の連携・試論⎜岡山と高 を事例に」『キリ スト教社会問題研究』第43号、1994年、150頁。
(22)First Annual Report of Okayama Station, June, 1879 (23)Ibid.
(24)Second Annual Report of Okayama Station, May, 1880
(25)Seventieth Annual Report of the American Board of Commissioners for Foreign Missions, Boston, 1880, pp.80‑81
(26)Third Annual Report of Okayama Station, April 1, 1881 (27)Second Annual Report of Okayama Station, May, 1880 (28)Fourth Annual Report of Okayama Station, May, 1882
(29)Seventy-Second Annual Report of the American Board ofCommissioners for Foreign Missions, Boston, 1882, p.67
(30)守屋、前掲書、117頁。
(31)鈴木恒彌・若山晴子「タルカット書簡―訳および (二)」『神戸女学院大学論 集』第25巻第3号、1979年、130頁。
(32)Missionary Herald, October, 1874, p.317
(33)Julia Elizabeth Dudley (1840‑1906). アメリカン・ボード派遣女性宣教師。タ ルカットと共に来日。
(34)Missionary Herald, January, 1875, p.17 (35)鈴木・若山前掲論文、85頁。
(36)Anna Eliza Clark Gulick (1833‑1938)アメリカン・ボード派遣宣教師 Orramel Hinckley Gulick (1830‑1912)夫人。
(37)Missionary Herald, April, 1875, pp.111‑112
(38)明治13年4月23日附『七一雑報』に、9日金曜日にタルカットが伝道のため岡山 へ赴いた、との記事が掲載されている。
(39)鈴木・若山前掲論文、143‑147頁。
(40)HarietteFrancisParmelee(1852‑1933)ABCFM 派遣女性宣教師、1877年来日、
1924年引退帰米まで日本伝道に尽力。
(41)Seventieth Annual Report of the American Board of Commissioners for Foreign Missions, Boston, 1880, p.82
(42)Missionary Herald, February, 1881, pp.56‑57 (43)Missionary Herald, June, 1881, pp.223‑224
(44)Seventy-First Annual Report of the American Board of Commissioners for Foreign Missions, Boston, 1881, p.76
(45)Martha Jane Barrows (1841‑1925) アメリカン・ボード派遣女性宣教師。1876 年来日、神戸を拠点に活動。
(46)Julia Ann Eliza Gulick (1845‑1936) アメリカン・ボード派遣女性宣教師。1874 年来日。
(47)Missionary Herald, November, 1885, p.479 (48)守屋、前掲書、122頁。
(49)以後のタルカットの書簡の訳文は、筆者によるものである。
(50)Ninth Annual Report of Okayama Station, March 31, 1887 (51)『石井十次日誌(明治二十年)』、石井友愛記念社、1956年、37頁。
(52)前掲書、141頁。
(53)1887年には2回、1888年には2回、1889年には3回、1890年には6回の寄附を受 けている。他にも着物、反物を寄附したとの記述も見られる。
(54)『石井十次日誌(明治二十二年)』、石井友愛記念社、1958年、28頁。
(55)前掲書、129頁。
(56)前掲書、537‑538頁。
(57)前掲書、563頁。
(58)前掲書、566頁。
(59)『岡山教会百年史 上』、40頁。
(60)守屋、前掲書、100頁。『岡山市百年史』も同様。
(61)ケリーによる1887年3月の岡山ステーション年次報告に「多くの祈禱会、聖書研 究会、日曜学校、説教集会、そして特にミス・タルカットらによる家庭訪問が、
教勢の維持と拡大に重要な位置を占めている。」とある。
(62)Life and Light, Vol.XV, November, 1885, p.377 (63)タルカットの広島での活動については、以下の資料がある。
Henry Loomis,A Missionary Lady among the Japanese and Chinese Soldiers, for Private Circulation only, Yokohama Seishi Bunsha, 1895
Lora E.Learned,Eliza Talcott,TheFlorenceNightingaleof Japan,Boston,W.
B.M. (刊年不明)
(第19期第1研究会による成果)