1920〜30年代二つのSCMとYMCA : 日本YMCA「大陸事 業」と「東亜」論との関連を焦点として
著者 遠藤 浩
雑誌名 キリスト教社会問題研究
号 63
ページ 85‑116
発行年 2014‑12‑22
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013841
1920 〜 30年代二つのSCM
( 1 )とYMCA
—日本YMCA「大陸事業」と「東亜」論との関連を焦点として—
遠 藤 浩
Ⅰ はじめに
1 筆者の研究目的と対象、並びに研究の立場
筆者が当面研究対象としているのは、先の戦時下1939年から敗戦まで展開さ れた、日本のYMCAによる「大陸事業」である。この事業を軸に、個人と組織、
日本の社会、事業の相手先となった中国など諸外国の人々や社会までを、事業遂 行の前後約20年までを射程にとらえ、叙述しようとしている。
筆者の研究意図は、歴史的制約のもとにある日本のキリスト教界が、教義や教 理というある種の観念体系の枠内に収束してゆく方向性ではなく、逆にその枠を 出て社会や国家、国民あるいは市民大衆民衆とかかわりをもち、そこに「神の国」
具現化を志向するとき(2)、その諸局面における具体的可能性と不可能性をどうみて ゆくべきか、という問いのなかにある(3)。
こうした観点で、筆者は〈狭義の教会〉の営為に組込まれない、〈週日の平信徒〉
の営為にこそ、関心をもってきた。ある意味でそれらは〈広義の教会史〉の一部 であり、むしろ教会史のもっとも重要な部分であると考えている。〈週日の平信徒〉
こそが、教会と社会との接点を広く体現している、と考えるからである。多様な 教会論をとりあえず棚上げし、いまここでの文脈に局限すれば、宣教を集束させ る(狭義の)教会、散開させる学校や諸団体、という図式を立てることが可能だ
ろう。このばあい、両者があいまったとき〈広義の教会〉像がみえ始める、とい えるのではないだろうか。そしてこの〈広義の教会〉における主役は、むしろ〈平 信徒〉たちではないだろうか。
YMCAは狭義には教会ではない。が、いま述べている平信徒の宣教論におい てみれば、多くのキリスト教主義の学校や福祉団体などと同様、YMCAも教会 宣教の広がりのなかに、位置づけることが可能であろう(4)。
基礎的にこうした宣教論的〈広義の教会〉を措定、そこにYMCAを位置づけ、
そのうえでYMCAの動向を、もっといえば平信徒の動きを、社会的事象との相 関のなかでたどる。このような目的意識を筆者はもっている。そのさい巨視的に 社会全体を、微視的には個人を、その中間には組織や機構をという別をおくなら ば、筆者の叙述の重点のおき方はまず個人、次に組織や機構、そして背景たる社 会、という順になる。このようなわけで、研究対象を平信徒個人の動向、その動 向の直接の場として、組織体である日本のYMCAをみてゆく。
当該事業をとり扱いながら、事業に携わった平信徒たちとかれらのYMCAが、
戦時下において社会的、思想的、また国際的な事象とのあいだにどのような交渉 をもち、具体的な決断と実践をなしたのか、またその結果どのようなフィードバッ クを受けたのか。キリスト教信仰と思想傾向にもとづく理念と実践とのあいだに は、架橋があったのか、なかったのか。架橋があったとすれば、それ—キリスト 教会と社会との架橋という意味でもある—はどのようであったのか。そうしてそ れはなぜだったかの因果関係までを問い、最後に、そこ—戦時下の模索のあと—
から現代への問い返しを聞こう、としている。
2 先行研究
筆者の管見の及ぶ範囲は限定的であろうが、以下略記し、総括的に検討してお く。
まず50年代末に『日本YMCA史』(5)が著され、60年代半ばに『斎藤惣一と
YMCA』(6)が続いた。いずれも「大陸事業」を、戦時下における国際友好の取組みだっ たとして、肯定的に評価した。前者は「大陸事業」の当事者が著者、後者はその 直接の後輩が著者であったため、YMCA内の主流で共有されていた実感が、素 直に出たものであろう。
戦時下におけるキリスト教界の態度、言行を批判的を見直す動きは、日本基督 教団(以降は教団と略す)議長名で出された「第二次世界大戦下における日本基 督教団の戦争責任についての告白(通称:教団の戦責告白)」(1967年)に端を発 し、大戦後半には教団に属した日本のYMCAにおいても、批判的検討を迫られた。
しかし歴史をたんねんに掘り起こすというよりも、60年代末〜 70年代当時にお ける現在形の自己批判に至る論考が目立った。80年代には、YMCA内での検証 が大都市YMCAの100周年を機に取組まれたが、ここでは一面的批判で決着をつ けてしまう傾向がみられた。いずれも史的検証という意味では、十分踏み込んだ 内容とはいえない。
2000年代に入り池田鮮が、「大陸事業」の推進者であった奈良伝(7)と末包敏夫(8)と に焦点をあて、人物像の方向から「大陸事業」の性格を明らかにしたことは、研 究を一歩進めたといえる。ただ従来での研究総体として、事業の全体像、思想史 のなかでの位置、他者による評価など、俯瞰的視座や日本のYMCA外との関係 性という、一歩引き広げた地平から十分に明らかにされてきたとはいいにくい。
日本のYMCAのみの事柄でなく、戦時下キリスト教界の動き全体のなかで、さ らには国際的な関係性のなかで「大陸事業」が位置づけられる必要がある(9)。 「二つのSCM」の側からみるならば、1930年代中盤から後半、とりわけ日中全 面戦争勃発から東亜新秩序建設の声明前後における、「二つのSCM」とYMCAと の関係の推移をたんねんに追ったものは、管見の及ぶところこれまでなかった、
と思われる(10)。つまり本稿は、それら社会主義的思想を伴うキリスト教信仰の、日 中全面戦争時における一展開を、明らかにしようとする試みともなっており、そ こには期せずしてキリスト者の「東亜」論の一類型が、浮かび上がってくること
ともなった。
3 本稿の目標
「大陸事業」における実際面の詳述は別の機会にゆずり、前節に述べたことと やや重複するが、日本YMCA同盟が当該事業へと舵を切る前段階から準備段階 にかけ、重要な思想的履歴を経験することとなった「二つのSCM」とのかかわ りをみることが、本稿における目標である。そのさい、とりわけ「大陸事業」の 中心的推進者の1人であった末包敏夫に注目、かれをめぐっての叙述を試みる。
それは、当該事業は「昭和」期前半のキリスト教思想とも関係する、具体的実践 の一形態となった、と筆者がみているためである。
末包敏夫の思想履歴にほぼ限定しての追究ではあるが、とりわけ1939年前後に おける、「二つのSCM」の一展開について、またキリスト教社会思想の領域での
「東亜」論がどのようであったかについて、かれを通して照射できるのではないか、
と考える。
4 末包敏夫をとりあげる理由
末包敏夫は、30年代「二つのSCM」にかかわりをもったYMCA主事で、平信 徒だった。かれはその思想的経験を糧とし、戦時下の社会的実践を模索した—日 本YMCA「大陸事業」を推進した—と筆者はみており、かれをとりあげる理由 はここにある。
二つのSCMである、学生キリスト教運動と社会的キリスト教とは、1920年代 半ば以降相互に影響しあいながら登場し成長したが、いずれもがつづく30年代を とおして当初の力を失った。前者は分裂自壊し、後者は戦時体制が固められ、国 家主義絶対の時代が到来すると、その波にのみ込まれた。戦前キリスト者の社会 的責任を唱え、資本主義と植民地主義を批判し非戦を掲げながら、戦時下それを 徹底できず、教界内で神学論争に終始するか、実践的に国策追従協力路線へ流れ
るかした。かれらの国策への協力ぶりは、論争相手であったバルト神学陣営より も、むしろ露骨なものだったと今日知られる。
戦前から戦時へいたる国策への協力また無抵抗は、戦後厳しい批判を受けた。
本稿ではその批判の大枠は継承しながらも、しかし国策への抵抗と被弾圧、さも なくば追従と利用されての協力という、二項対立的に白黒色分けする方法的立場 はとらない。本稿の末包をめぐる事実にそくせば、とれないと考えている、とい える。むしろ事実をていねいに追うとき、かれの小さな抵抗と小さな追従、境界 線上での葛藤とバランスを発見するのであり、そのせめぎあいのうちに現在のわ れわれへの問いをも見出す。現代日本を生きるわれわれにおいても、キリスト教 会と社会との接点に生きていると自認する限り、かれと同じ実践的な問いから逃 れることはできない、と考える。筆者に通底する問題意識といってよい。
Ⅱ 末包敏夫の思想的土壌
1 YMCA入職までの略歴
末包敏夫は、1898(明治31)年3月18日、香川県綾歌郡加茂村で生れた。幼く して父を亡くし、母サダの手で育てられた。後年「明治の女性」(11)であった母親を「キ リストを信ずるようになり、全く生れ変ったような人間に」(12)なったと述べている が、そうしたサダの影響で、末包も少年時代より日本基督高松教会(現日本基督 教団高松教会)に通うようになる。高松教会の青年会には桑田秀延、小原国芳ら がおり、かれらの感化を受け、その後京都へ出て同志社に学んだ。そこで河上肇、
中島重の講義を受け「社会主義的キリスト教と取っ組みながら、社会主義とは何 かを追求した」(13)と後年述べている。1921(大正10)年、同大を卒業し銀行に就職 したが、「金網の中」(14)で悩んだ末1週間で退職し、しばらくして神戸YMCAに入 職した(15)。
2 1920年代神戸の思想状況と神戸YMCA
ここで、当時の神戸と神戸YMCAにおける思想状況を、概観する。教会レベ ルをはるかに超えた、広範な社会主義的な運動展開の象徴的地域に、当時の神戸 はなっていた。その中心にいたのは、1917(大正6)年米国プリンストン神学校 から神戸へ帰ってきた、賀川豊彦であった。賀川だけではない。周知されるように、
20年代多様な社会主義的民衆運動を担った中心には、鈴木文治、高山義三、河上 丈太郎ら、多くのキリスト者がおり、かれらが1910年代後半から20年代前半の神 戸という舞台に集結、川崎・三菱造船所の大争議(1921年)など、労働者権利闘 争を先導していたのである。
ともあれ1917(大正6)年9月、賀川の帰国後初の演説は、下山手にあった神 戸YMCA会館(当時神戸基督教青年会館、略して青年会館と通称された)にお いてなされた。これを「勤労者大衆のリーダー、社会運動指導者として賀川を人々 の前にデビューさせるにふさわしい最初のもの」(16)、と武邦保は評している。当時 千人規模の聴衆を呑みこみうる大講堂を有し、賀川らにとり理念、思想的にふさ わしいと思われる場所がほかに少なかったためもあろう、神戸における労働組合 や農民組合など、社会主義運動系の集会では、その多くが、「青年会館」で開催 された(17)。
では神戸YMCAじたいはどうだったか。賀川らにたんに会場提供するだけの 団体だったのだろうか。ちなみに、賀川の業績を筆者なりの見方で分類すると、
①隣保事業、②労働者、農民などの権利獲得運動、③組合運動(事業)、④神の 国運動などの伝道活動となるが、神戸YMCAがそのいずれにも共感的かかわり をもったとして、みずから手を染めたのは奈辺であったのか。ここで、当時の
『神戸青年』を繰りつつ、神戸YMCA内の言説をみる必要があるだろう。まずは 1914(大正3)年6月号、そこに掲載された「論説」である。以下のような書き 出しで始まっている。
都会といふ言葉の中に、現代生活の総てが網羅し且つ包含されてゐると思 ふ。現代の都会生活、そこに恐怖に充ちてゐる革命と惨憺たる戦争とが、常 に絶間なく演じられてゐるのではあるまいか。−後略−(18)
都市描写の暗欝な書き出しで始まるこの一文、後略以降の論旨をみると、近代 化つまり産業革命の進展と資本主義社会化、それにともなう都市化、貧富差拡大 など、近代の社会問題があげられる。そしてそこに青年の「霊的な頽廃」(19)がみ られるとし、同様の状況下70年前のロンドンにYMCAが設立された原点を確認、
神戸YMCAは「都会の霊」(20)的な存在となって、青年一人ひとりの霊的成長のた め働かねばならない、とする(21)。
近代化される都市で生起する諸問題をにらみながら、しかし唯物論的にではな く霊的な問題として事柄をとらえ、社会変革ではなく青年個々人の霊的な回復や 成長を期して働くのがYMCA。これはロンドンYMCA創立のはじめから、現代 世界におけるYMCAにまでつうじる、標準的といってよい理解である。ただし「大 正」末期から「昭和」初期にかけ、神戸YMCAにおける個人と社会のとらえ方 のバランスには、徐々に変化が生じていた、と思われる。変化の主導格は、とき の総主事奥村龍三(22)であったため、1929(昭和4)年の『神戸青年』に掲載された、
奥村による以下の文章を引こう。
真の青年運動の核心は時代的に社会的に生命づけられた青年の発見、成長 而して彼等の共同戦線への自由躍進的進出運動そのものではあるまいか。
真の青年運動の終極目的は現在の境遇に適合する円満なる青年を作る事で はない、寧ろ境遇を基礎的に彼等の手によりし改造する青年を見出し彼等を 共同戦線に立たしむる共同運動であらねばならぬ。
−略−
青年運動は要するに宗教運動である、然しその宗教運動とは神国実現の為
めの宗教運動であらねばならぬ、彼等の宗教運動即ち社会運動であらねばな らぬ、−後略−(23)
ここでは、青年個々人の成長から「共同戦線」への、宗教運動から社会運動へ の進出が目されている。これは、あとでみるSCMでも枢要な議論となったもの。
ただ奥村のほかの論説(24)をみても、社会運動の具体化については、賀川らのように は必ずしも明確でない。これらを察するに、賀川らの社会運動など「共同戦線」
に参与する、そうした青年を育成することまでがYMCAの使命である。神戸や 京都などの都市YMCAは、社会運動の主体でなく社会(教育)事業団体、との 自己規定があったのではないか。
さて世界に目を転ずれば、1928(昭和3)年エルサレムにおける世界宣教会議 において、社会との関わりにおいてイエスを再解釈する、という社会的キリスト 教につうずる神学的呼びかけが世界へ発信された(25)。資本主義社会の行詰り感とマ ルクス主義の浸透とを要因として、青年層を中心に、社会変革への渇望が世界の キリスト教界に迫っていた。日本のYMCAにおいてもこの問いは、国内におけ る賀川の業績や主張とも呼応しあい、日本YMCA同盟(以下、同盟)総主事筧 光顕(26)、学生部主事中原賢次(27)をセンターに、西では中島重らの指導を受けた同志 社大YMCAなど関西圏の学生たち、東は菅円吉らの指導のもと、立教大や東京 帝大のYMCAの学生たちのあいだに広げられていく。このようにYMCAにおい ては、学生YMCAを中心に問いに応えよう、という展開がみられた。SCM(キ リスト者学生運動)であるが、広く知られるように、1932年開催の第42回日本 YMCA夏季学校における学生の反乱、途中閉校解散を分岐点に、SCMは早くも 瓦解する。事柄を単純化していえば、SCMをあくまでひとつの信仰復興の宗教 運動ととらえ、学生の研究会レベルにとどめようとしたYMCA指導層と、社会 運動から暴力革命までをも視野に入れ進もうとした急進派学生層とのあいだの、
理念・方法論上のかい離が原因したと思われる(28)。中島らはその危険性を予見、自
身の考える社会主義的なるものとキリスト教との正当な関係を追究するため、
1931年京都YMCAで「社会的基督教徒関西連盟」(29)(本稿ではもう一つのSCM=社 会的キリスト教と呼ぶ、その組織化されたもの)を立ち上げるなどしたが、急進 学生たちを呼び戻すことはついにできなかった(30)。
いずれにしても、この時期いっぽうに学生のSCM、また賀川を中心とする労 働運動などともからんで中島らの推進した、「二つのSCM」のいっぽうたる社会 的キリスト教の運動が、ほぼ同時進行した。そうして地域的には関西、とりわけ 同志社のある京都と、賀川のいた神戸では、両都市YMCAにも大きな影響を与 えていた、といえよう。末包はこうした思潮が渦まくなか、若き日の1920年代を 神戸YMCAで、30年代を京都YMCAで、それぞれ過ごすことになった。次節より、
こうした背景を念頭におきつつ、末包の思想的履歴をたどることにしよう。
3 神戸YMCAにおける、末包の思想形成①
末包敏夫が神戸YMCAで働いたのは、1921(大正10)年6月から1931(昭和6)
年3月までで、配属された職場は「神戸基督教青年会商業学校」であった(31)。商業 学校は1917(大正6)年開校、一時期神戸市の好景気に乗り拡大するが、第一次 大戦後の不況、とくに1929年世界大恐慌の痛撃により募集不振に陥り、1931年3 月に閉校した。末包が神戸YMCAを辞し、京都YMCAへ移るのは商業学校閉校 と同時であり、担当者として何らかの責めを負わされた結果だったかもしれない。
この商業学校は、いわゆる産業社会化の進展による神戸の大都市化(32)、すなわち 地方からの労働力の大量流入を背景に開校した。日本のYMCAは牧師主導で神 学思想や伝道が先行、諸教会の合同青年会としてのあり方をも混在させスタート した。そのため「明治」期日本のYMCAは、教会の合同青年会の発展形態とい うレベルからなかなか脱しきれなかった。欧米YMCAが創立の背景とした産業 革命と近代化都市化の進行は、「明治」期の日本においてはまだ不十分だったた めでもある。日本のYMCAが、「大正」期にいたってようやくロンドンYMCA誕
生時の現実認識と課題意識に近づき、社会的事業展開へ結びつけた、商業学校は そのひとつの事例だったといえる。ここで、末包当人の「神戸YMCAを辞する に当つて」と題された一文をみよう。神戸を去るにあたり、商業学校教育主事と しての10年間を、かれは万感をこめ、こう振返っている。
(自身の出自と一家の没落による困窮を述べたあと/筆者)こんな条件のも とに十年間を主として青少年の教育にあたつて来たのです。青少年、さうです。
私の接した青少年は私よりもつと経済的に不遇なものが多かつた理です。五 箇年の学校をやめて三箇年ですまし、直ちにローサラリーマンとして働きた いといふのですから、私はこのいと弱い少年達の為にどれ丈け考へさせられ たことだらうか・・・・・
私が社会主義的社会観をもつやうに教へられた多くは此の青少年達の家庭 生活や社会進出後の状態でありませう。−略−(同期入職の友人の退職を寂 しく見送り、自身も退職に心が揺れたと告白したあと/筆者)然しその度毎 に私の決心を弱めるものは、是等弱き少年達です。社会の下積にもがいてゐ る若い友達です。これ等の青少年達との深い交渉は、私を神戸にしばりつけ てしまつたのです(33)。
別の号で末包は「教育相談部の新設」(34)を報告。商業学校生徒のみならず、新聞 紙上広告を出し「積極的に広く都市青少年の相談相手たらんとして」(35)、一般から も応募を受付けたところ「相談者殺到」(36)し、「特に午後五時六時頃は誠に文字通 り門前市をなす盛況」(37)という。そして、経済的事由により望む教育を受けえなかっ た一女性の相談内容を、末包は逐語録ふうに紹介もしている(38)。
かれが遭遇していたものとは、産業化、都市化による若い労働者たちの問題そ のものであり、19世紀中葉ロンドンにおける最初のYMCA誕生の契機と同じも のだった。功利的立身出世至上の教育制度からこぼれ落ちた若者たちと、じかに
ふれ合う教育現場に身をおいたとき、末包は20 〜 30代の若い感性と、自身の生 い立ちからの深い共感とをもって、眼前の若者からの肉声を聴きとった。学生時 代の知的な追究が、ここでは体感をともないあとづけられていった。こうして、
より強靭な社会主義的思想を形成していった、と思われる。
さて1924(大正13)年、国際的視野をもつ人間を目指し生徒らがみずから企画 した、商業学校の朝鮮半島への修学旅行に末包は随行。このときの生徒たちと末 包ら引率主事による旅行記(手書きガリ版刷り)が残されている。そこに末包は、
次のような言葉を残している。
−前略−我が内地人の活動にその盛力に感心否反感さへも感じさせられ−略
−征服者と被征服者との現実がなまなましく私共を(少なくとも私を)さし ました。悠久其のものを語る朝鮮古典の建築を思はせる景福宮の境内に雲つ くアメリカ式の近代建築たる我が総督府ののさばつて居る事は、私共をかな しくさせました。−後略−(39)
神戸時代の末包には若さゆえか情緒的表現が多いが、見方によればそれは、か れがすでに社会矛盾を直観する感受性を獲得していた、ということかもしれない。
ここで表現されたものは直観された社会認識であり、旅の感想文のようでいて、
単なる感想の域を超えたものと感じられる。読みようによっては、日本の植民地 主義批判の一文である。この感受性はさらなる思想履歴をへたのち、「大陸事業」
の準備、遂行にいたる末包固有の態度へとつながってゆく、と筆者はみているが、
その内実は次章でさらに述べる。
4 神戸YMCAにおける、末包の思想形成②
他方末包は、1920年代あらたに設置されたと思われる、「社会部」(40)の仕事にも 携わった。ここでかれは奥村龍三直属の部下として働き、奥村本人とその人脈に
も接してゆく。思想形成における、さらなる理論的影響を受けていったことが、
うかがえる。
前節で述べたごとく、「大正」期から賀川豊彦らが主導する、数々の労働者・
農民運動の集会が神戸YMCA会館を借りて開催されていた。その熱気は、神 戸YMCAじたいにも強烈に流れこんできていた、と考えてよいだろう。神戸 YMCAの実務責任者たる奥村は、この流れをむしろ歓迎した。奥村自身の言葉 をひこう。「−前略−何事によらず一切を商業化する経済主義、而して独占事業 に禍された現代の経済界、かゝる一切は即ち一般大衆の生活を無視し、大衆の生 活を永久に圧迫する処の根本的な病根−略−故に社会改造運動そのものはその形 態は種々であるが、蓋しインエビタブル(不可避的/筆者)なるものである。−
略−その意義を肯定し、進んでこれに参与し、内部よりこれが誘導に努力する 事」(41)。このように、社会認識をもとにみずから運動に挺身する姿勢を示しつつ、
神戸YMCAについてはそれの「誘導」というあり方を、奥村は示唆した。方法 論が必ずしも明確ではないと述べたが、「誘導」という言葉と以下にみるプログ ラムとには、教育的影響が使命、とのイメージを喚起するところがある。
奥村の思想傾向(42)は方針やプログラム内容にも反映、1927(昭和2)年、神戸 YMCAに「基督教徒社会思想研究会」(社会部主宰)が発足、社会主義思想研究、
それとキリスト教との関係の研究が開始された(43)。また1920 〜 30年代『神戸青年』
各号には、神戸YMCA会員には元町などの商店街で一定割引がある、という消 費組合的発想から出たらしき社会部の取り組みなども記されている(44)。それらは「担 当:末包」と記されてはいないが、社会部主事としてのかれが実務を取り仕切っ たことには、疑いをはさむ余地もなかろう。
ここで、社会的キリスト教、あるいは社会主義的キリスト教という思潮への理 解と認識を、社会部主事末包本人の言辞にみておこう。
−前略−
我等は決して極端なる暴力革命が社会の歪曲を救ひ得るとは信じない。愛 による共同社会、神中心の共同社会に対する燃ゆるが如き信仰を基調とした 生活革命社会革命を通じてのみ我等の救ひがあり、我等の神の国建設がある と信ずるのである。−略−全生涯を賭して神の国建設運動に参加すべきだ。
まして如何なる方法に於ても新興階級の人道的運動の進展を阻害してはなら ぬ。資本主義社会の弁護的任務を果してきた基督教徒は心すべきではなから うか。
−後略−(45)
熱い言葉であり過不足なくキーワードは散りばめられているが、それぞれ説明 不足で神学論争的な説得力は十分でない。「革命」の意味内容も不明である。人 道的運動を阻害せずというほかに神の国建設運動のため何をすれば良いのか、そ の方法論もみえない。しかしながらすでにみてきたように、かれは神学的厳密さ を追究する立場でなく、YMCA事業家であった。またかれには体験にもとづく 肉体的感得があり、それゆえ知解に偏した思想ではなく、この新思潮に呼応した 現場担当者の声がそこに響いているとして、言葉の熱さをとらえたい。
これらを要するに、社会主義的思想と、それと不可分なキリスト教信仰を形成 してゆく実践面、理論面双方の土壌が、神戸YMCAの現場で末包には与えられ ていた、ということがいえるだろう。
Ⅲ 末包敏夫と「二つのSCM」との接点
1 SCM(Student Christian Movement=キリスト者学生運動)との出会い 前章でふれた通り、神戸YMCA商業学校は、1930年3月をもって閉校となった。
これを機に末包は神戸YMCAを辞し、京都YMCAへ転じた。
京都YMCAの三条会館も神戸のそれと同様、「大正」デモクラシー期より「連 日のごとく政治・思想団体の結成結社に、また労働運動、組合大会、反政府運動 などの集会に使用され」(46)る状況にあった。ざっと並べるだけでも、京都立憲青年会、
政友会近畿大会、京都普選期成労働同盟、サラリーマン・ユニオン、L・L(Labor and Liberty)会、労農党、無産党、水平社、総同盟京都連合会、ほかに市内中 小企業の労働組合も、会館を利用していた。そうした機会に演壇に立ったのは吉 野作造、尾崎行雄、荒畑寒村、堺利彦、山本宣治、中野重治、小林多喜二らだっ た。また末包が赴任する前年、右翼によって暗殺された労農党地元代議士山本宣 治の労農葬に、弾圧覚悟で会場を貸している(47)。神戸におとらず政治、労働運動で 会館が熱気をおびる京都YMCAへ、末包はやってきたわけである。
そのようななか、第41回夏季学校(1931年7月)にかれは参加した。その参加 動機を伝える史料はあいにく発見できないが、既述した来歴から、キリスト教界 内で誹謗中傷を含む論議を呼んでいた学生YMCAの運動(SCM)に関心を抱き、
その実情見聞の要ありと感じたものと思われる。
SCMについてのまとまった叙述には、中原賢次の前掲『基督者学生運動史 』(48)
があり、同書によれば、この第41回夏季学校がSCM最良のときであった(49)。経緯 を詳細に述べるゆとりはないが、同書の叙述をもとにその要因と結果にふれてお こう。それはリーダー格の学生と大人の指導陣とのあいだに、第一に準備段階を へた信頼関係があったこと、第二にSCMが教会解体や社会革命をめざす社会運 動でなく、キリスト教信仰の変革を目指す宗教運動であることがじゅうぶんに共 有されていた、ということだった。この方針が約160人の参加者へ浸透した結果、
協議と祈祷とが相半ばという霊的な熱情が、会全体を包んだという。このことが 末包同様に期待、あるいは懸念を胸に参加した大人の参加者たちにも、感銘と納 得とを与えた。会の雰囲気はこうして決定づけられたのであった(50)。
ここで以下、当該夏季学校の出席者採択の「宣言」を紹介する。日付は「昭和 六年七月二十八日」(51)、名義は「第四十一回夏季学校出席者全員一同」(52)となっている。
冒頭で資本主義の弊害、並びにそれを下支えしてきたプロテスタンティズムを批 判、中盤でキリスト教の危機を唱えつつ、なお神の愛と正義に生きる預言者と改 革者の魂こそ希望とし、最後に次のように高らかに宣言した。
全国の基督者学生青年諸君
現在のプロレタリアートのその悩みの中に模索しつゝあるは、搾取なき人 類の自由なる共同体社会ではないか、自由人の結合された社会こそは人類の 深い要求である。又熱烈なる憧憬である。而して実にかくの如きは社会的基 督教に導かれてのみ新興プロレタリアートは新文化の創造に盡し其の歴史的 役割を、果たしうるのである。
こゝに我等第四十一回夏季学校を散ずるにあたり全員は神の国実現への忠 誠を告白し鞏固なる組織と全国的統一を以て神の国実現運動に身を投ぜんこ とを誓ふものである。
右宣言する(53)。
以上に声明されたごとき学生たちの熱情にふれ、家庭と教会と同志社、また神 戸・京都の両YMCAで培われた末包の思想傾向が、さらに熱く燃やされた夏季 学校の機会だった、とふんで良いだろう。それを証しするように、末包を含む学 生いがいの参加者らは、独自の声明を『開拓者』同年10月号に寄せたのである。
以下の文章であった。
学生に非ざる者の声明書 親愛なる学生諸君
第四十一回基督教青年会夏季学校に出席せる我らは、諸君が真摯なる態 度をもって提唱しつつある基督者学生運動に対し満腔の賛意を表し、これが 進展につきて伴う世の誤解を解き、進んで微力を致さんことを約す。
昭和六年七月二十八日
友井楨、田中左右吉、外十五名(54)(渡辺啻己、高島政男、二宮英雄、吉原貞子、
三浦克己、R・L・ダーギン、川口善一、中瀬武、角田久代、丹羽昇、
木本茂三郎、近森一貫、中川淳、末包敏夫、根本静江(順序不同))(55)
2 SCM(Social Christianity Movement=社会的基督教)とのかかわり さて前節、学生YMCAのSCMを支持し擁護する社会人による声明を紹介した が、かれらの動きはこれにとどまらなかった。同誌10月号は、学生枠を超えた、
さらなる運動拡大がなされようとしていることを伝えたのである(56)。すなわち、京 阪神在住の夏季学校社会人参加者を中心に、16名が1ヶ月後の8月神戸雲内教会 に集い、これが「社会的基督教徒関西連盟」結成準備会となったことを、あわせ て報じたのだ。末包はこれに京都から駆けつけたが、かれの移籍を了解しない『開 拓者』記者は、かれを神戸代表と誤記している。記事は続けて、同連盟の創立大 会は9月24日、京都YMCA会館小講堂において挙行されることが決せられ、準 備委員が選出されたことも伝えている(57)。各地に散在する社会的キリスト教思想を 抱懐する人士らが、学生に触発される形で、あるいはその危機を予見し、社会人 中心の組織化を企てていったのである。
さて、創立大会会場が京都YMCAとなった一因に、末包の存在があったと推 察される。また第1期中央委員(委員長は中島重)7名のなかに「末包敏夫」の 名が残る(58)。さらに、翌32年5月創刊された機関誌『社会的基督教』(以降『社基』)
当初の発行人は、末包である(第4号まで末包、32年9月の第5号以降は中島。
発行人変更の理由は推論だが後述)。このように「社基」発足時にあたって、末 包は中枢を占める1人であった。
ところが、このように「社基」設立当初に存在感をみせた末包だが、肝心の機 関誌への寄稿は、38年まで皆無であった。理由は推測の域を出ないが、以下恐ら く当らずとも遠くはないだろう。最大の理由は、32年夏季学校でのSCM頓挫の
衝撃と波紋が、全国のYMCAにおいて大きかったことだろう。SCM問題で引責 辞任した筧光顕に代り、日本YMCA同盟総主事に再任した斎藤惣一が、全国の 関係者に「自重」を求めた(59)ように、徐々に国家による思想弾圧が顕在化してき ていたこと。それらによりYMCAが組織として、SCMとは兄弟といえる「社基」
にたいし距離をおこうとしたことは、じゅうぶん考えられる。そうした空気とと もに、『社基』誌上の錚々たる研究者、神学者、牧師らの高度に学的な論説にた いし、学的というよりは現場の人間であった末包個人の遠慮も働いたのではない か。そうするうち東日本にも同種組織が立ち上げられ、共同して1933(昭和8)
年「社会的基督教徒全国同盟」となった(60)ことで論客は倍増、ますます敷居が高く なっただろう。いっぽう末包は35年、京都YMCA総主事に就任した。31年京都 YMCA着任早々、湯浅八郎理事長からの初要請は「仕事をするな(すればする だけ借金がふえる)」だったと伝えられる(61)。順境ならまだしも、苦境にある京都 YMCAの中堅から総責任者へ階段を上がる時期でもあり、当面思想面よりも経 営的に考えねばならないことが、山積のはずでもあった(62)。
末包による『社基』初寄稿が38年7月号であったこと(63)は、こうした「社基」と YMCAとの関係が再び変化したことを象徴している。37年日中全面戦争の勃発 後YMCAは全国連携のもと、「時局特別事業」を大々的に推進・展開していた時 期であった(64)。末包も、38年春「皇軍慰問第3班」を率いて中国「北支」へ渡って おり、その見聞をもとに、次の具体的な構想をめぐらせていた(65)。〈社基の神学論議〉
に参加しなかったかれが、〈社基の実践現場〉からの言辞を寄せる—現下の情勢 においてそれが重要になってきた—『社基』編集者にも末包自身にも、そうした 目的意識が働いたうえ、YMCA側にも引き止める理由がなくなっていた、その 結果の初寄稿だった、といえそうではないか。というのは、そこに『社基』側の 論調変化が大いに要因していたことも考えられるからで、それを以下に述べる。
『社基』誌上にみられた論調変化は、38年12月を一大画期とするが、末包の寄 稿など、それ以前から変化の兆しはあった。変化を劇的にした一大契機は、38年
11月初旬の第2次近衛声明「東亜新秩序建設」の発表であったと思われる。試み にこの直後の『社基』を通覧すれば、「東亜新秩序建設」が声明されたあと38年 12月〜 39年6月のわずか約半年間で、「東亜協同体」並びに「基督教の東洋的展開」
を内容とする寄稿数は、巻頭言6篇、説教7篇、論文19篇、随筆紀行文他が9篇、
合計じつに41篇にのぼったのだ(66)。毎号の記事中平均6篇が「東亜」や「東洋」と いう勢いであった。すでに用意されていたものが、政府発表を機に爆発的に溢れ でた、としか説明できない。
「社基」における同志であり、学生YMCA指導者でもあった今中次麿(67)は、日本 YMCA同盟機関誌『開拓者』39年9月号誌上で、個人的認識の変化ながらこの あたりの経緯にふれて、次のように述べている。
昨年(1938年/筆者)初頭−略−学生YMCA指導者会では、時局に対する 基督者学生青年の積極的参加綱領は、結論を得るにいたらなかつたのである。
−略−青年基督者の戦争参加を、人類の罪悪に対する贖ひとして、是認する といふ立場をとる外はなかつたのである。−略−
しかしその後にいたり、新しい事実が発生した。それは、近衛内閣の東亜 新秩序建設の声明である。
東亜新秩序の声明によつて、事変ははじめて一定の見透しを確立するにい たつた。事変をいかに収拾するか、時局をどこへもつてゆくか、といふことが、
これによつて明瞭になつたのである。もつとも、それはただ輪郭にすぎない しかし輪郭がはつきりしただけでもよいのである。
東亜新秩序の方向には、私共基督者も賛同し得るのである。私共もより積 極的に、事変へ参加の態勢を確立することができるやうになつたのである。
−以下略−(68)
今中が日中戦争の事態を「人類の罪悪」とみなし、青年キリスト者の戦争参加
は「贖い」として不承不承に納得するしかない、と考えていたことは注目される。
しかしさらに注目されることは、「東亜新秩序建設」声明について、その方向に 明るい兆しをみて支持、積極参加できるとしたことであった。『社基』が、東亜 の新建設にたいし積極的な論陣をはったことの裏には、今中にみられる時局認識 の変化が、「社基」の同志たちのあいだでも共有されていたことを物語るのでは ないか。論文の最後に、今中は「大いなる愛」(69)、「両国民の相互的な熱愛」(70)「十字 架の贖罪愛」(71)をもって平和を来らせるところにこそ青年キリスト者の使命がある、
と結ぶ(72)。「贖罪愛の実践」(73)をもって「共同社会の建設」(74)をはかるとは、「社基」の 綱領にまさしく述べられているところであった。
このような変化が「社基」陣営ぜんたいを激しく動かしたであろうことは、先 にふれた『社基』誌上に踊る「東亜」「協同体」「建設」の文字の多さから判定で きよう。当然そこには今中と末包の筆になるものも含まれた。では次節で、今中 の「東亜」論を比較対象、また補論として用いながら、末包のそれを検討しよう。
3 末包敏夫における「東亜」論
『社基』とは対照的に、YMCA側『開拓者』における「東亜」論は、数におい ては低調だった。同時期39年1月号巻頭言、3月号中島重「東亜協同体の理想」、
5月号安村三郎「新東亜の建設と基督教」、7月号末包「新東亜の建設と青年基 督者の使命」が散見される程度で、このあと9月号には既述の今中「新東亜の建 設と青年基督者の使命」がくるので、中島、末包、今中が『社基』における「東 亜」の熱い議論と理念とを、YMCA『開拓者』に持ちこんできた、という構図 でほぼ間違いないだろう。
さて上記『開拓者』39年7月号掲載の末包論文は、明らかに「東亜新秩序建設」
を意識したものであった(75)。前節で引いた今中「新東亜の建設と青年基督者の使命」
と完全に同題だが、掲載時期は今中論文のほうが2カ月あと(原稿のもとになっ た夏季学校での今中講演は7月末)であった。
今中論文には、すでにみたように、わずかながら軍部批判が含まれた。事態収 拾の道筋がみえなかったためだが、ゆえに政府が主導的に理念を打ち出したこと に、理解を示した。紙幅の関係で以下は要約にとどめる(76)。かれは中国における英 米仏の譲歩可能性を分析、敵はソ連だけと結論し、そして漸次英米仏ソを引上げ させ、暫定的に日本が中国を指導、最終的には中国に民族国家を樹立させ、日本 も引上げる。それが日本の国益だと述べるのである。今中の論は現実的であり、
かつ将来像は当時にあって異彩を放つ。「東亜協同体」を、日本が中国を一時指 導するあいだだけの暫定策、と控えめに評価するからだ。であればこそ、英米仏 の譲歩も引き出せる、と踏む。それは今中の「社会的歴史的現実的必然論」(77)であ り、すなわちかれは時局を帝国主義、植民地主義退場の一過程、とみていたのだ。
これにたいし末包は、現場の人らしく「東亜協同体」の理念や将来構想といっ た大上段の議論は最低限に、現実的に障壁となるものへの認識に絞り述べている のが特徴である。ただ詳論しないまでも以下にもみるとおり、かれにおける「東 亜協同体」も、西欧植民地主義の対極ととらえられ、帝国主義とも相いれない。
問題は、今中とちがい「皇軍慰問班」として直接現地をみてきた末包が、日本の 帝国主義、植民地主義をどう考量し、実態的にどう把握したかであろう。
末包は、欧米主導でないアジア主義的な理想のなかに、日本のキリスト者をお こうとしつつ、欧米植民地主義対東亜の解放という対立軸を鮮明にしている。必 然中国の抗日勢力は欧米列強(宣教師と欧米キリスト教界を含む)の洗脳、肝入 りで力をえていると主張した(78)。以下に一部引照する。「今次事変が帝国主義的侵 略戦にあらず、民族殲滅の戦ひにあらず、実に支那民族の独立と解放、ひいては 東亜の欧米植民地化よりの解放戦の重大なる意義を有してゐる」(79)にもかかわらず、
中国指導階級のほとんどは「東亜の置かれてゐる現実に目覚めず」(80)、「日本の支那 民族の解放、新東亜の建設戦に対するに、彼等は支那民族興亡の民族戦として戦 ふとして」(81)おり、それを「欧米諸列強の援助」(82)が支えている。また在中国欧米宣 教師らは、意識的、無意識的によらず「列強帝国主義を背景に行動」(83)、単に現地
の「宗教宣布者に止まらず」(84)「文化的」(85)、「政治的」(86)に強力な影響力を有するに至っ た、と否定的に述べる。これらのことが、逆に「寧ろ欧米植民地化を強化しつゝ ある結果」(87)を招来してしまっているにもかかわらず「彼等(中国人/筆者)は認 識しやうとしない」(88)と、末包は苛立ちを示す。そのいっぽうで「われわれは東洋 人なるが故に欧米人より、より以上の理解と同情とを持ち得る」(89)と自負してみせ るのである。
末包は、抗日勢力の中心に中国キリスト者知識層の存在をかねてからみており、
『社基』と『京都青年』誌上でも、中国キリスト者抗日勢力、並びに在中国宣教 師ら欧米キリスト教を批判する主張を繰り返している(90)。そこにみるかれの認識で は、近代中国の民族的自覚の高揚に欧米キリスト教会と在中国宣教師らは政治的 に妥協してその立場を維持、それにより中国キリスト者の信仰はますます人間本 位となり、功利的、政治的となったという(91)。その象徴的存在に末包は蒋介石と夫 人の宋美齢をあげ、「駁す」のであった。それらは「実利的な米国で学び」(92)とら れたものであるとともに「支那在来の実利的民族性に深く根ざ」(93)すもの、とも述 べている。
末包のこの執拗ともいえる主張を、折しも準備中の「大陸事業」推進を円滑な らしめるため、当局の歓心を買うべく一芝居をうったものと憶測するのは、無理 がある。なぜなら日中戦争開始から39年ごろまでの外務省や陸軍は、むしろ英米 仏融和策を模索していた(94)のであり、在中国欧米教会や宣教師を危険視しつつ無視 できない情況だった(95)。末包が、あえて宣教師や欧米キリスト教をこれほどまでに 敵対視する言辞を弄する必要性は、高くはなく、芝居をうつならばむしろ、懐柔 策を論じたほうが良かった。ゆえに末包の主張は、39年時点でかれの本心であっ た公算が高い。
ただいずれにしても、39年「大陸事業」発進直前、末包と今中の2論文が補強 し合い「東亜青年協力」(96)運動ないし事業という、より大きな理念のなかに当該 事業を位置づけ、大陸への出発の露払い役を果そうとした、ということはいえる
だろう。ここで再度指摘すべきは、両名が「社基」メンバーでもあった、という 点であった。
「社基」の文字通り大黒柱であった中島は、このように述べている。
日支事変といふ東洋の悲劇を超えて、東亜協同体といふ愛と正義と平等と の大社会を実現することは正しく神の経綸であり、神の聖旨であると信ずる。
−略−我政府も既に昨年一一・三声明に依りて、協同体といふ文字こそ用ひ ないが殆んど同趣旨のことを中外に言明して居る(97)。
当時「社基」の若手であり、戦後その批判的継承者であろうとした一人、嶋田 啓一郎は、後年その立場から、追憶の中島を敬慕しつつかれの神学の批判的解明 を試みている。それによれば、中島の神学の後ろには独自な社会哲学があった。
中島は、その社会哲学の根柢に、宇宙的大生命(神)を根拠目的とする生命の根 本的帰一だとした。そして人類の社会的進化はこの大生命への根本的帰一のプロ セスであり、論理的必然として「闘争」でなく「結合」をもって進展するとした。
そこにテンニエスらの共益社会概念と、賀川の贖罪愛の実践提唱なども組合わさ れ、かれ独自の「結合本位的社会発展思想」をなしたという。すなわち階級闘争 でなく「愛の協同体」実践、離されていたものが結合しゆく過程こそ、その全世 界的広がりこそが社会化を推進せしめる。その実践は、神の国建設の進展に人類 の立場から貢献することだという(98)。
気宇壮大なユートピア構想のようでありながら、実践構想においては労働組合 や消費組合、セツルメントなど、人々の結合をうながす小さな愛の奉仕へとむし ろブレイクダウンされ、革命による社会構造の変革をめざしたマルクス主義者よ りも、そのまなざしはより小さなところ、地道な取り組みへと向けられる傾向が 強いと、筆者はみる。
この社会哲学を下敷きにした社基神学とでもいうべきものが、はからずも東亜
に新たな新秩序を建設するとした近衛政権の主張と、論理構造において類似的で あった(99)。それを最大要因に『社基』誌上の議論が、上にみたように沸騰したので はないか。そして末包も論議に触発され、自身とYMCAの実践とその根拠目的を、
『社基』誌上に開陳することになったともいえよう。ただこれが「社基」に限っ たことでなく、左派的心情を有す知識層が「東亜新秩序建設」声明により雪崩を うってこの時期転向していった、いわば社会現象ともいいうる事態であったこと、
これに力があったのは、近衛首相よりむしろ「昭和研究会」の面々であったこと など、広く知られていることであるが、再確認しておきたい(100)。
4 まとめ
この章のまとめに入る。末包は元来の思想傾向からSCMにふれ、「社基」設 立に参画、「社基」との疎遠な時期をへて、『社基』誌上の「東亜協同体」論と YMCAにおける「大陸事業」構想との接点において、「社基」へのいわば実質復 帰を果した。そこでかれの最大特徴は、「東亜」と「西欧」とのやや図式的な対 立構造を基調としたことであった。「大陸事業」を軸に換言すれば、末包が中心 となることによって、当該事業に社会的キリスト教と「東亜」論の実践現場、と いう側面が付加された。このようにいうことができるのではなかろうか。
Ⅳ おわりに − −総括と今後の課題−−
本稿で明らかにしえたことと、なお残る課題とがあり、以下に述べておく。
末包敏夫は、成育歴と同志社における学び、YMCAでの現場経験に30年代初 頭「二つのSCM」との出会いを加え、その精神を実践に活かそうとした。が、
SCMの挫折によるYMCA側の自重などが要因し、30年代中盤は距離をおかざる を得なくなる。
39年社会的キリスト教陣営では、「東亜新秩序」の建設という近衛政権の謳い
文句に、我が意をえたかのように反応していた。「社基」に巻起った熱論は、「東亜」
の結合から新たな協同体を描こうとするものだった。この「東亜」論が、末包を 再び「社基」へと引き寄せる。そうしてかれは中島、今中らとともに「東亜」論 をYMCAに持ちこみ、おりしも構想されつつあった「大陸事業」を、それによ り脚色しようとしたのである。俯瞰的には、時局が社会的キリスト教とYMCA とを再接近させた、ともいいうるだろう。
今中、末包らは「東亜協同体」の理想を帝国主義、植民地主義による支配、搾 取の構造とは対極のものとして描いた。今中の主張には、政府、軍部がその理想 へ向かうよう牽制する意図が感じられるが、末包は曲がりなりにも理想へ向かっ ていると認識した。日本側の論理を正当化した末包においては、中国の抗日キリ スト者勢力とそれを支える欧米キリスト教会、在中国宣教師批判が「東亜」論に 付随することにつながったのであろう。
本稿で論及不足となったのは、第一に「社基」からきた「東亜」論だけでは染 まり切らなかったYMCAの幅について、である。いっぽうのYMCA人に親英米 路線があり、かれらは「大陸事業」においても、「東亜」よりも在中国英米宣教 師との友好関係をこそ重視した。当該事業が「東亜」一色に染まらなかったのは、
YMCAがもつこの幅によるものだったろう。第二に、SCMの挫折以降精彩を欠 いた学生YMCAは、全面戦争下の中国大陸へ、38年、39年と夏季休暇を利用し た医学生による医療奉仕班を送ることで、医学生限定ながら精気を取り戻した。
時局が、かれらに中国民衆への奉仕という社会的使命を発見させ、蘇生させたと いう皮肉な事態でもあったが、末包らを大いに触発したこともまたたしかであろ う。以上2点は紙幅から、また末包に焦点をしぼったため詳述しなかった。
さて38年半ばの『開拓者』に3回に分け掲載された、末包の報告文「北支皇軍
慰問行」(101)がある。細かな具体的描写が続くため引用は避けるが、本稿の最後にあ
たり、以下概略を紹介する。末包らYMCA皇軍慰問班は、行く先々の中国戦線 で若い日本人兵士たちの大歓迎を受け、提供したレクリエーションは大好評を博
する。プログラムが終わったあとも立ち去らない若い兵士たちと夜が更けるまで 語り合い、なかには平時にYMCAで学んだことを懐かしむ者もいたという。こ うした体験を、日を追いまた訪ねた土地ごとに、熱い感興をも交え末包は逐一報 告。いきおい長文となり、3号にまたがり分載されるほどになった。異郷で日本 の若者らと共感的交流を重ねたことが、末包の筆を大いに進ませたとみられる。
つまりそれは、あくまで日本人が国外の日本人を歴訪した記録で、「北支」を踏 破したとはいえ、日本軍が占領する線上を巡ったにすぎなかった。いっぽう日本 兵慰問の枠内では、中国民衆との直接対話はほぼ不可能である。日本側の論理と 異なるものとの交渉はほとんどなく、現地観察は傍観的となっただろう。この体 験の偏りが、認識に影響しないわけはないと考えられる。結果、兵士として異郷 にある日本人青年への共感ばかり横溢する文章になった。とうぜんながら「北支 派遣軍」から帝国主義の侵略的匂いをかぎとった形跡は、みられない。39年夏ま での末包の「東亜」論が、日本側の一方的な思い入れに傾いたとすれば、それは この慰問行の現地体験時にえた片側からだけの感得と認識に、一因があるのでは ないか。
39年秋、末包は「大陸事業」遂行のため、社会的キリスト教の精神を携え中国 へ渡った。以降46年まで長く駐在することになる。日本でいわば机上で、あるい は現地ではあっても日本軍との交渉だけの現地認識にもとづき論じられた、末包 の「東亜」ひいては社会的キリスト教実践が、中国の人々や欧米宣教師らとの直 接交渉において、具体的に試される機会が「大陸事業」であった。それがどのよ うな事態だったか、どのような変転を辿ったのか、稿をあらためて追究すること としたい。
以上、キリスト教史学会 第7回西日本部会(2013年3月2日)に おける研究発表内容から一部を削り、ぜんたいに加筆修正を施した。
注
(1) 本稿で便宜上「二つのSCM」と呼ぶのは、Student Christian Movement(学生キ リスト者運動)とSocial Christianity Movementのことである。一般にSCMとい うばあいそれは前者であり、後者は一般に「社会的キリスト教」と呼ばれる。本 稿でそれぞれ別に記すばあい、それにならう。つまり説明なく「SCM」と記すと きは前者、後者を個別に述べるとき「社会的キリスト教」と記す。後者の史料引 用、また組織名では「社会的基督教」または略して「社基」と記す。機関誌は『社 会的基督教』または『社基』とした。
(2) 「神の国」実現という事柄そのものが、人間的努力に帰せらるべきか否かという 議論じたいが、本稿で扱う「二つのSCM」における論争のひとつの焦点であった し、論敵からの批判の核心部分でもあったと思われる。ただし、本稿はあくまで 現象したことの歴史的叙述が本旨であり、いずれかの立場も弁証するような論争 的立場はとらない。とらないが、筆者自身が半生において「二つのSCM」の間接 的影響を受ける環境に育てられた者である。そこで、この事柄を主張ではなく〈問 い〉にかえ、歴史的事象のなかに〈問う〉立場をとりたい。
(3) 「神の国」を論述することもここでの主旨ではなく、そのゆとりも能力もない。が、
とりあえずその目的論的内容として平和、公正、人権(戦後「環境の保全」が加わっ た)という事柄をあげておくことは必要であるように思われる。また本稿でとり 扱う「二つのSCM」における歴史的経緯においては、資本主義中心の近代産業社 会の成長とその多面な問題性の顕在化、その批判にたつマルクス主義の台頭があ り、それらに迫られるように「神の国」実現が、主要テーマとして追究されるこ とになった、という概略だけを述べておく。
(4) 信徒を重視する教会観は宗教改革の一大論点であり、その現代的再解釈が戦後エ キュメニカル運動において、1950年代WCCを中心に盛んに検討された。重要文 献にH.クレーマー『信徒の神学』新教出版社、1960年がある。
(5) 奈良常五郎『日本YMCA史』日本YMCA同盟、1959年。
(6) 海老沢義道『斎藤惣一とYMCA』同上、1965年。
(7) ならつたえ。1899-1979 YMCA主事。長崎県出身。佐世保軍港で幼少期を過し 軍艦少年となるも、大阪高等工業学校在学時にYMCA寮でキリスト教にふれ入信。
1922年学生YMCA主事、24年大阪YMCA主事となる。戦時中神戸YMCA総主事 と北京日本YMCA駐在主事とを兼ねる。戦後は大阪YMCA総主事。日本のワイ ズメンズクラブ生みの親としても知られる。
(8) すえかねとしお。1898-1991 YMCA主事。香川県出身。幼少期よりキリスト教 会に通い信仰をえる。1920年同志社大学経済学部卒業。卒業後銀行に就職するも 退職、20年6月神戸YMCAに入職。31年京都YMCAへ転ずる。35年京都Y総主
事。39 〜 46年中国・南京と上海で駐在主事。戦後日本YMCA同盟総務部長、横 浜YMCA総主事を歴任した。
(9) 最新の論考に、田附和久『「日本YMCA史」記述の再検討−1945年以前の東アジ アYMCA関係史を中心に−』日本YMCA同盟主事論文、2013年があり、「大陸事業」
を含めた日中韓YMCA関係史の再検討と批判的総括の必要性をといている。
(10) 1930年代前半までのキリスト教学生運動SCMについては、中原賢次の労作『基督 者学生運動史−昭和初期のSCMの闘い−』日本YMCA同盟、1962年がある。
(11) 末包敏夫友人宛書簡(コピー)、1983年時点のもの。日本キリスト教文化協会所蔵。
(12) 同上。
(13)末包敏夫「私の歩んで来た道」横浜YMCA、発行年不詳(80年代)、2頁。
(14)同上。当時銀行窓口の内と外は、金網で仕切られていた。
(15)この節の記述には、上の末包書簡と「私の歩んで来た道」、並びに日本キリスト 教文化協会「第十四回キリスト教功労者略歴ならびに功績」(1983年)より「末 包敏夫先生」の項を参照した。
(16)『神戸とYMCA百年』神戸YMCA、1986年、210頁。
(17)同上、203 〜 262頁「第五章 『昭和初期』の神戸YMCA」参照。こうした事情は、
同時期の京都YMCAでも同様であった(『京都YMCA史』参照)。たとえば『神 戸青年』1931年1月号2頁には、同盟学生部主事中原賢次の原稿と並び共同戦線 を闘う同志といった趣きで、京都YMCA総主事梅村英による「我等は如何に転換 すべきや」と題する一文が掲載されている。
(18)『神戸青年』前掲、 1914(大正3)年6月号、2頁。
(19)同上。
(20)同上。
(21)同上。
(22)おくむらりゅうぞう。神戸YMCA第2代総主事(在任1917 〜 1935年)。在任中、
1926(大正15)年夏、ヘルシンキでの第19回世界YMCA大会出席時に触発され、
軍事工業化する政治と経済を正しく批判し、あらたな神の義と愛を実現すべく YMCAを刷新せねば、その存在意義が問われるとした。(以上『神戸とYMCA百年』
神戸YMCA、1986年、237 〜 238頁を参照)神戸YMCA辞任後、同志社へ転じた。
(23) 『神戸青年』前掲、1929(昭和4)年2月号の巻頭言。
(24)総主事在任中『神戸青年』のほぼ毎号で「巻頭言」を執筆している。
(25)中原賢次『基督者学生運動史−昭和初期のSCMの闘い−』前掲、3 〜 10頁。
(26)かけいみつあき。1886.12.14-1969.6.5 日本YMCA同盟総主事。東京出身。1908年 東京クリスチャン神学校卒業。牧会伝道に従事後、YMCAに転進。朝鮮、ハワイ、
横浜等で主事。27-32年日本YMCA同盟総主事。総主事在任中にSCMが興隆、総 責任者としてその指導にあたった。32年SCMは分裂自壊し、同年末その責めを負
うて辞任。
(27)なかはらけんじ。1928年エルサレムにおける世界宣教会議に日本YMCA同盟より 出席、帰国後学生YMCA担当主事として、SCMを指導した。1932年夏のSCM分 裂自壊につき、同年12月、筧光顕総主事とともに引責辞任した。
(28)『開拓者』1932年10月号所載「夏季学校事件批判座談会」記事を参照。
(29)『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年には、以下の記述がある。「ラディ カルな学生運動の傾向がみえはじめたのに対し、中島らは学生基督者青年運動を 正しいイエスの贖罪愛の宗教運動として方向づける必要から、31年9月24日に社 会的基督教徒関西連盟を結成した。」(638頁「社会的キリスト教」の項)
(30) 学生YMCAにおけるSCMの概略説明においては、前掲中原『基督者学生運動 史−昭和初期SCMの闘い−』、並びに倉橋克人「中島重と『学生キリスト教運動
(SCM)』」同志社大学人文科学研究所『キリスト教社会問題研究』第61 〜 62号、
2013年所載を参照。
(31) 末包敏夫「神戸YMCAを辞するに当つて」より。『神戸青年』前掲、1931年4月号、
4頁。
(32) 「明治」初期から「大正」期にかけての人口増加率は、開港場神戸と横浜でとく に顕著である。神戸では約8万人から60数万人へ、その伸び率は他を圧する。(以 上はインターネット http://uub.jp/arc/arc59.html#3295 より)
(33) 『神戸青年』神戸YMCA機関誌、1931(昭和6)年4月号、4頁。
(34) 同上、1930年4月号、4〜5頁。
(35) 同上。
(36) 同上。
(37) 同上。
(38) 同上。当時は守秘義務などという概念がなかったのであろう。
(39) 手書きガリ版刷りの文集「神戸青年会商業学校第三学年朝鮮見学旅行・旅行記」
神戸YMCA所蔵、1924(大正13)年。
(40) 設置年度が特定できない。
(41) 奥村龍三「現代に生きる人の生活」『神戸青年』前掲、1929(昭和4)年10月号、1頁。
(42) 高道基は、奥村を評し「(その)活動は神戸Yに局限されず」「全国的規模の集会 におけるオピニオン・リーダー」であり、思想的に「頑な『福音』の堅持を以て 自らの信仰的基盤におくものではなく」「イエスのway of lifeに倣おうとする『イ エス主義』者」だとみている。(『神戸とYMCA百年』前掲、183頁)
(43) 『神戸とYMCA百年』前掲、231頁。試みに1930年の『神戸青年』を繰ると、「社 会思想研究会」のほかに「社会問題研究会」、「社会事業研究会」、「社会的基督教 研究会」の名称もみえる。
(44) 『神戸青年』前掲、1927(昭和2)年6月号ほか。