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騒擾からボイコットへ : 19世紀ミュンヒェンのビ ールをめぐる公共圏

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ールをめぐる公共圏

著者 東風谷 太一

雑誌名 社会科学

巻 49

号 4

ページ 161‑189

発行年 2020‑02‑28

権利 同志社大学人文科学研究所

URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000638

(2)

騒擾からボイコットへ

─ 19 世紀ミュンヒェンのビールをめぐる公共圏 ─

東風谷 太 一

本稿は,1840 年代にミュンヒェンで発生したビール騒擾が,ボイコットという新た な運動類型へと移行した要因を検討する。通説では,ドイツにおける商品の不買運動 としてのボイコットは,自然発生性と一時性を特徴とする民衆騒擾に比して,組織性 や計画性の点で近代的な性格を持つと見なされ,19 世紀後半の工業化の本格化に伴い,

労働運動が興隆して以降発生するようになったと考えられてきた。これに対してミュ ンヒェンでは,1846 年というかなり早い段階でボイコットが登場する。本稿ではその 背景を,職人蜂起および食料騒擾とのつながりという運動形態の連続性の観点と,ビー ルに固有の社会文化的性格という観点から考察する。そこから明らかとなるのは,社 会・経済構造の変化に対応して運動形態を選び取っていく柔軟な下層民の共同性と,そ れが市民層の運動と合流することを可能にした,ビールをめぐる特異な言説空間の存 在である。

1 はじめに

本稿は,1846 年 5 月に当時のバイエルン王国の王都ミュンヒェンで起きたボイコット1)

を取り上げ,これを 18 世紀から 19 世紀前半ドイツの民衆運動の歴史的脈絡に位置づけ ることを目的とする。現代においてもボイコットは,政治的・社会的・経済的な異議申 し立ての手段として有効性を失っておらず,不正を冒した企業に対する市民の製品不買 運動などはグローバルな水準で見れば日をおかずにメディアが報道している。また過去 を振り返ってみても,東西冷戦のイデオロギー対立を背景にしたオリンピックのボイ コットから,1933 年ドイツにおけるユダヤ人商店のボイコットにいたるまで,数々の歴 史的事件を見出すことはたやすい。

こうしてみるとボイコットの事例には事欠かないよう反面,生産者の運動としてのス トライキ研究の豊富さに比べると,消費をめぐる異議申し立てであるボイコットについ て正面から取り上げた歴史研究は思いのほか少ない。特に対象地域をドイツに限定する

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と,その傾向はさらに顕著となる。それゆえドイツ地域で狭義のボイコットがいつ頃,ど のように生成したか。担い手が誰だったのかは実はそれほど定かではないのである。

管見の限りで数少ない言及例を見ていくと,たとえば 1971 年のヴァイクの研究がボイ コットを主題としている。彼によると,規範の逸脱者に対する制裁・排斥という意味で のボイコットはすでに中世以来の手工業ツンフトに見て取ることができるが,これは 18 世紀に始まる領邦国家の近代化とともに姿を消す。しかし,19 世紀後半に工業化が本格 化すると,当時アメリカ合衆国ですでに成果を挙げていた不買運動としてのボイコット がドイツの労働者運動にも影響を与え,はじめは特にアルコール消費の分野で,後には 社会主義政党による政治闘争の領域でも利用されるようになったとされる2)。次に,19 世 紀プロイセンの食料(パン・穀物・ジャガイモ)をめぐる民衆騒擾をモラル・エコノミー の視角から分析した山根徹也氏の研究は,1871 年頃にブラウンシュヴァイク,エルフル ト,メルゼブルクで発生したバターの購入ボイコットを取り上げている。山根氏は,こ れらの運動が当初「買い物の「ストライキ」」と呼ばれ,騒擾のような暴力を伴った直接 行動と交代するように現れた「新しい行動様式」だと位置づける。それは,雑多な階層 の社会的下層民によって担われた運動であり,「新しい行動様式」を持ちえた背景には労 働組合や協同組合運動の展開とならんで市民層の女性のイニシアチブがあったことを指 摘している3)。最後に,これはドイツではなくドイツ語圏スイスを対象とした研究だが,

19 世紀後半から 20 世紀初頭にかけての消費者運動を検討したタンナーも4),山根氏と同 じように広範な階層の都市住民が担い手であったことを明らかにするとともに,女性の イニシアチブの重要性を強調し,ボイコットが行われるようになった時期を 80 年代以降 としている。

以上のようにドイツ地域でのボイコットは,社会的には 19 世紀後半の労働者運動や市 民層の協会運動と相即して,経済的には工業化の本格化に伴って登場したと見るのが通 説であり,その際,18 世紀までの手工業職人の運動や 19 世紀前半に頻発した食料騒擾と の関係は,どちらかといえば断絶面の方が強調される。確かに,食料騒擾などに見られ る暴力性はボイコットには見られないのがふつうであり,組織性や計画性という面では 後者の方が一見はるかに「近代的」である。しかも,社会的下層民がパンやバター,穀 物といった基礎的食料を意図的に買わないという余裕を持つには,工業化社会の到来に 伴う実質賃金の上昇と食料需要の弾力性低下に加え,ローカルな市場から国民市場への 拡大と交通インフラの整備を通じた食料供給の安定化が必要だったとする理解は説得的 である。

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とはいえ,以上の整理をふまえてミュンヒェンのビール・ボイコットを振り返ると,そ の特異性が目に付く。まず,時期の面でビール・ボイコットは先述の諸事例よりもかな り早い段階で発生しており,工業化は本格化していない。また,担い手に関しても女性 の姿は見られず,手工業職人による運動だったことがわかっている。しかも,この事件 の 2 年前には同じくミュンヒェンで職人らによる大規模な「ビール騒擾」が発生してお り,前近代的な共同性に支えられた騒擾と「近代的」なボイコットとの間には明らかな 連関が見て取れるのである5)

この事件を分析したブレッシングによれば,ビールをめぐって異例に早い段階でボイ コットが生じえた要因は,第一にビールがパンなどと比べて「何よりもまず集団での娯 楽のため」の存在であり,「服や基礎的食料ほど生活に不可欠ではなかった」こと,第二 に,担い手の職人たちが,建築業や金属加工業といった生産関係が比較的早期に資本主 義市場経済に組み込まれた職業に従事する「社会的にも心理的にもある程度近代的な」労 働者たちだったうえに,18 世紀に頻発した職人ストライキの伝統を受け継いでいたこと に求められている6)。また,カーペンターはこれに付け加えて,騒擾発生後に治安維持対 策が強化された結果,上記の職人たちは騒擾という運動形態がもはや値下げという目的 にとって有効ではないことを「学習」したのだとしている。

彼らの研究は,近代ドイツ地域ではおそらく最初期のボイコット事例を紹介したとい う点で貴重だが,そこで指摘される要因は不十分といわざるをえない。まず,ビールは 当時パン同様に基礎的食料としても認識されており7),ビールが生活必需品ではなかった からボイコットへと発展しえたのだという立論には再考の余地がある。また,後述する ように,担い手の職人たちが建築業と金属加工業の従事者で占められていたかどうかは 疑問であるうえ,ストライキの伝統という要素は先に紹介したヴァイクの理解とは正面 からぶつかるため,仮にブレッシングの指摘が正しいとすれば,それが受け継がれた経 路を明らかにしなければならないだろう。最後に,カーペンターの指摘する「学習」の 過程についても推論の域を出ていないところがあり,これがブレッシングのいうような 手工業世界と関わりを持つものなのか,あるいはそれ以外の何らかの契機があったのか を検討する必要がある。以上のような課題を検討することで,前近代的な食料騒擾とボ イコットとの連続と断絶,さらに 19 世紀後半の労働者運動との関わりについても展望が 開けてくることが期待される。

そこで本稿は,主に研究文献と同時代の新聞資料を手がかりに,まず運動類型の視角 からビール・ボイコットと職人ストライキの伝統との連関を考察する。次に,もっぱら

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生産をめぐる運動であったストライキが,どのようにしてボイコットという消費をめぐ る運動に影響を与えたのかを示す。おそらくそこには公権力の弾圧のような外的な力の 作用に加えて,一般的な食料にはない,ビールに固有の社会文化的性格が関わっている と考えられる。それゆえ,このことを同時代のビールをめぐる言説の観点から検討する。

最後に,従来の研究が見落としてきたボイコットの要因を,「節酒」運動の側面から明ら かにし,なぜビールをめぐっては騒擾からボイコットへの移行が生じえたのかを検討す る。

2 職人蜂起から食糧騒擾へ

2.1 1846 年ビール・ボイコットの概要

はじめに,本稿が取り上げる事例の概略を示しておきたい。ミュンヒェンでビール・ボ イコットが発生したのは 1846 年 5 月である。すでに触れたように,44 年 5 月にはビール 価格の値上げを直接の契機として「ビール騒擾」(Bierkrawall)が発生しており,醸造 所や官公庁が群衆の大規模な襲撃を受けていた。この時には最終的に政府はビールを値 下げし,騒擾の担い手たちは所期の目的を達するのだが,その後も原料の高騰を受けビー ル価格は高止まりを続けていた。

当時ビールは価格公定制度下にあり,年に 2 度,4 月と 9 月に所轄官庁が価格を算定,

公表していたが,44 年前後からは価格公表のたびに値下げの要求とともに騒擾の発生や 放火等をほのめかす匿名の脅迫状が多数発見されていた。これに対してバイエルン王国 政府は一時的な値下げ措置を講じるなど対応に苦慮していた反面,この間一貫して治安 警察とミュンヒェン周辺の駐屯兵の人員を増強し,監視体制の強化に努めた。こうして 大麦の作況が好転せず,公定価格のさらなる値上げ(6 krから 7 krへ)8)を余儀なくさ れた 46 年春の段階で,すでに騒擾の予防と鎮圧に自信を得ていた政府は,一部の醸造業 者が値下げを提案したにもかかわらずこれを拒否し,値上げを強行したのである。

この方針に対する醸造業者の反応は,当初大きく二つに分かれた。わかっているだけ で計 29 の醸造所・酒場が公定価格よりも安くビールを販売することを公表した一方で,

2 年前に騒擾の発端となり,最大規模の被害を蒙ったマーダー醸造所をはじめ少なくとも 6 軒の醸造所は公定価格での販売を行う9)。迎えた 5 月,ミュンヒェンおよび郊外都市ア ウのいくつかの醸造所で散発的な騒ぎが発生するが,迅速な弾圧が功を奏し 44 年の騒ぎ が再現されることはなかった。当然,公的な値下げ措置が取られることもない。ところ

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が,上記の騒ぎと併行してまずは公定価格に固執した醸造所から得意客が姿を消し始め る。すでに 5 月 2 日の時点でミュンヒェン市から内務省への報告書が,それらの醸造所 で例年になく目立つ空席に触れており,続く 5 月 6 日の治安警察の報告には醸造業者の 申し立てとして,職人たちが仲間と落ち合い食事を取りに醸造所に寄るものの「水しか 頼まない」,あるいは「ビールは一滴も口にしようとしない」とある10)

こうして 5 月半ばになると,ついに公定価格に固執していた醸造所も 7 krから 6.5 kr へと値下げせざるをえなくなった。ところがそれでも常連客は戻ってくる気配をみせず,

「ボイコット」は終息に向かうどころかむしろ徐々に広がっていく。すでに公定価格での 販売を行っていた店はほとんどなかったと考えられるが,公園や広場の人波とは対照的 に醸造所や酒場にはガラガラのところも多く,複数の醸造業者から「800 名以上の職人た ち」が高すぎて「単純に,支払えないから」6 krになるまでビールを飲まないよう「申 し合わせている」との証言が寄せられていた。

断片的ではあるが,史料から読み取れる状況を総合すると,結局この年の 5 月半ば以 降ミュンヒェンの醸造所や酒場のほとんどがビールを 6.5 krで販売していたようである。

つまり,実質的には「値下げ」が行われたにもかかわらず,「職人たち」はビールをボイ コットし続け,前年の公定価格と同じ 6 krにするよう要求していたということになる。

ただし,職人たちはこの間ビールをまったく飲まなかったわけではないと思われる。と いうのも,醸造所・酒場の中には騒乱を恐れて 5 krにまで値下げしていたところもあっ たからだ。だとすると,わざわざ店舗を訪れながら「水しか頼ま」ずに出て行ってしま うという行為は,あえてビールの不買運動が行われていることを顕示するためだった可 能性もある。また,高すぎて「支払えない」という主張に関しても,たとえばマース・

ジョッキ(1.069 ℓ)ではなく半マース・ジョッキで注文するといったように飲む量を変 えることもできたはずだが,それをしなかったということは,特定の醸造所・酒場を忌 避していることを誇示するためだったとも考えられる。

このボイコットがいつまで続いたのかは史料からでは残念ながら判然としない。その 後醸造所からの苦境の訴えは見られないことから,遅くとも 7 月が始まるまでには収束 していたものと思われる。ボイコットが発生しても,政府はもはや公定価格を変更しよ うとはしなかった。結果からみれば,このビール・ボイコットは醸造業者に値下げを強 いたという意味では成功したと言えるが,2 年前のビール騒擾の時のように公権力の方針 を変えさせるまでにはいたらなかったのである。

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2.2 職人蜂起の伝統

すでに触れたように,先行研究では騒擾という前近代的な運動形態が短期間でボイ コットという近代的な形態へと移行しえた要因を説明すべく,後者の担い手を建築業と 金属加工業に従事する手工業職人だったとしている。確かにこのことは事件に関する先 の醸造業者の証言(「職人たち」)によっても部分的に裏付けられる。しかし,実は彼ら の職業については史料的根拠が示されていない。そこで,議論の前提をより確実なもの とするために,ボイコットの担い手の職業を確認しておきたい。騒擾とは異なりボイコッ トでは逮捕者が出ていないため担い手の職業を特定するのは困難だが,間接的なかたち であれば十分に可能と思われる。

1847 年時点でミュンヒェンに職を得ていた手工業職人の数は 7,876 名に上り,うち建 築業に従事していたのは 1,667 名,金属加工業は 920 名で合わせて 2,587 名と,これらの 業種だけで「800 名」のボイコット参加者を募るのは決して不可能ではない11)。しかも,

この統計資料にはミュンヒェンで職を見つけ,滞在許可を得た者たちだけが含まれてい るため,工房探しの途上だった職人たちの存在や,労働力需要が活発化する 4 〜 5 月と いう時期を考慮するならこの数はさらに増えることになるだろう。とはいえ注意したい のは,このボイコットがあくまで 44 年の騒擾の延長線上で発生したことである。

すでに別稿で詳述したためここでは簡単に触れるにとどめるが,1844 年のビール騒擾 では担い手の大部分が手工業職人か元職人の兵士であり,彼らの業種に関しては,偏り ではなく多様性にこそ特徴が見られた。この傾向は,実は 1848 年の 10 月にミュンヒェ ンで再発したビール騒擾にも共通している12)。しかも,ひとくちに建築業や金属加工業 といっても,その内部では無数の職種に細分化されており(たとえば後者だけでも鍛冶 屋,鎌鍛冶,鋏鍛冶,釘工,伴工,伴修繕工,兜工等々),流動化しつつあったとはいえ 手工業者たちには依然としてそれらの職域は強く意識され続けていたし,生産関係の近 代化も職種によって異なる様相を示していた。また,当時の統計資料では「金属加工業」

というカテゴリは使用されておらず,職人たちが自らを「金属加工業」者と意識するこ とはなかったと考えられる。それゆえ,彼らが上記の職域を横断して連帯しえたのであ れば,むしろなぜ仕立工や靴工とは協力しなかったのかが問題となる。つまり,40 年代 ミュンヒェンの騒擾とボイコットという流れをふまえると,やはり多様な業種の職人が 協力してボイコットに関わった可能性が高いのである。

だとすれば,騒擾からボイコットに移行した要因は,手工業職人というより大きなカ テゴリに固有の脈絡を問うべきであろう。そこで次に検討したいのが,「職人蜂起」の伝

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統である。

18 世紀ドイツ地域の手工業職人がツンフト親方や公権力に対して,あるいは集団の規 範を逸脱した職人仲間に対して多様な形態の運動や制裁行為を展開したことは,グリー シンガーの画期的な研究以来よく知られている13)。それらの中でも集団での不買行為と いう実践に形態上もっとも近しいものといえば,やはり労働放棄,すなわち「ストライ キ」に他ならない。18 世紀の遍歴職人によるストライキの対象は,特定の親方の工房の 場合もあれば,都市全体となることもあり,特に後者の場合には要求が貫徹するまで月 単位,時には年単位で就業が忌避されるという事例も見られた。さらに職人たちは,都 市内部での職種をまたいだ連帯や複数都市間での意思共有を通じて圧力を強めようとし ただけでなく,ひとたびストライキを実施するとなれば労働力需要の高まる季節(5 月〜

10 月)が意図的に選ばれ,行動に移る前には(要求が貫徹した後も)都市内で示威行進 を行い,自らの要求・行動の社会的・政治的正当性を主張した。つまり,職人たちの運 動は準備過程から実際の行動にいたるまで計画性と組織性の面できわだって「合理的」

だったのである。

この素描からも,19 世紀半ばに比してはるかに厳格だった職域区分を伴う 18 世紀の段 階で,すでに異業種間の職人たちが意思を共有しえたことがわかる。次に,特定の工房 や都市を忌避するという行動様式と,その際必ずしも対面的なコミュニケーションを不 可欠の前提としていなかったことは(たとえばストライキ実行の際に協力を求め,複数 都市間をへめぐる回状という連絡方法を想起したい14)),いずれも,「800 名」というかな りの規模の職人を職域を横断して動員し,特定の醸造所や酒場を避けるようになった ビール・ボイコットに通じるものがある。

さらにまた,職人たちが抱いていた合法性の観念についても,18 世紀の運動から 1844 年のビール騒擾を介して,ビール・ボイコットにいたるまで一貫して流れ込んでいるよ うに見える。たとえば,先ほど述べた示威行進などは通常整然とした秩序のもとに実施 され,逸脱があれば集団内部での制止が働いたことがわかっている。そこでは職人たち は自らの行為をあくまで正当なものと理解し,合法性の枠内で行動することで都市住民 からもそのように理解されるべくふるまった。他方でボイコットに及んだ職人たちは,44 年の騒擾や 46 年 5 月の散発的な騒乱を思い起こすなら,ビールを頼まないという行為に 付随して何らかの実力行使に及ぶことも十分ありえたはずだが,管見の限りそのような 報告はない。確かに治安維持体制が強化されたという事情を無視するわけにはいかない が,それでもそこに意図を汲み取るのが不自然ではないほどに,彼らの集団的な不買行

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為は「治安」の枠をはみ出そうとしないのである。あたかも「不買」という行為に違法 性を問うのがきわめて困難であるのを,職人たちが意識していたかのようなのだ。担い 手たちが実際にどこまでこうした論理のもとに行動したのかはわからない部分の方が大 きいが,少なくともストライキ,騒擾,ボイコットが敢行される社会との関係において 正当性を主張する準備が,行為者の側にはあったのである。

最後に,ビールという観点から 18 世紀のストライキを見ておきたい。日常的にはビー ルは食料として,また職人どうしの儀礼的な贈り物として,生存と社交に不可欠な存在 であった。他方で,職人集団内部であれ親方が相手の場合であれ,何らかの規範からの 逸脱が認められ,制裁が不可欠と考えられた場合,ビールはしばしば「罰金」として機 能していた。たとえば 1751 年にオスナブリュックの皮なめし工職人が,集会の際に「ひ どく厚顔無恥な態度をとり」,職人のひとりをたたいたとされる陪席親方に「四分の一ト ンのビールの罰金を科すことを決議した」事例がそれにあたる15)。また,ストライキ中 の職人たちは,集団で職人宿や都市外の醸造所・酒場に陣取り,ビールやワイン,食物 の鯨飲馬食を繰り返し,その代金をツンフトに支払わせることで係争の決着を図るのを 慣行としていた。間接的ではあるが,ここでもまたビールをおごるという行為が,ある べき旧状への復帰のための和解もしくは償いとしての象徴的役割を果たしている。後述 するように,こうした慣行は 18/19 世紀転換期を境に解体されていくのだが,19 世紀に 入ってもビールは職人集団の共同性を維持・再生産するための貴重な媒体として機能し ており16),その重要性は容易には変わらなかったのである。

2.3 生産者の運動/消費者の運動

だがその一方で,18 世紀の職人蜂起とビール騒擾・ボイコットとの間には無視しがた い懸隔が見受けられるのも確かである。なにより職人蜂起は生産者の視点からなされる 運動であり,ビール騒擾やボイコットのような消費者の視点から行われる運動ではない。

このことを裏付けるかのように,18 世紀に職人たちが直接にビールや食料,酒場や醸造 所を対象として行動を起こした事例は見当たらない。グリーシンガーは 19 世紀に入って から急増する食料騒擾と 18 世紀の職人蜂起を比較し,騒擾の「自然発生性」に対する蜂 起の組織性・計画性を強調するが17),両者の担い手には当初明らかな階層の違いがあり,

こうした比較はいかんせん無造作にすぎるといわざるをえない。そもそもドイツで最初 に食料騒擾が頻発したとされる 1790 年代初頭の段階では,職人たちは意識的に食糧をめ ぐる都市住民の異議申し立てとは距離を置こうとしていたのである18)

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その理由は,2 つある。ひとつには当時すでに減少し始めていたとはいえ,手工業世界 ではまだ職人の住込み労働が支配的だったことだ。親方のもとに住み込みで働く職人た ちには,質の差はあれおおむね食事の心配をする必要がなかった。ただし食料価格が高 騰した場合には,社会構造的に工業製品の需要減少を避けられなかったから,賃金や労 働条件の悪化というかたちで職人たちへの影響が現れた。その結果,食料の問題が間接 的に職人を,たとえば賃金闘争などの運動へと駆り立てることはありえたが,やはりそ れは生産者の運動として生起するものであった。

ふたつめに,職人蜂起があくまで身分団体意識に貫かれたものだったことを指摘して おかなければならない19)。ストライキを起こす際に,彼らはたとえ同業であっても自分 たちより身分が「低い」と見なしていた徒弟との連帯を嫌ったし,他の社会階層となれ ば―親方をほぼ唯一の例外として20)―この傾向はなお顕著なものとなった。一例を 挙げておくと,1791 年にハンブルクで職人組合の自治をめぐり広範な職種を巻き込んだ ストライキが発生した際には,製糖工場労働者や港湾労働者が申し出た協力を職人たち はにべもなく拒絶しているのである21)

とはいえ,1840 年代ミュンヒェンのビール騒擾・ボイコットにおいては,現に職人た ちはビールという「食料」の消費をめぐって,日雇いや奉公人といった他の社会層の人 びとをも巻き込みつつ運動を展開した。だとすれば次に問うべきは,職人ストライキと いう運動形態がどのような過程を経て生産者の運動から消費者への運動へと変容したの か。またそれに伴って職人が他の階層との連帯を拒まなくなった要因をどこに求めれば よいのか,ということになるだろう。また,そのうえでさらに,ここまで見てきたよう な職人集団の凝集力が,19 世紀半ばまで維持されていたのかどうか。維持されていたの だとすればそれはどのようにしてか,という点についても検証しなければならないだろ う。というのも,19 世紀初頭の弾圧によりドイツのほぼ全域で,少なくとも公式には,職 人組合が姿を消すからである。

3 食料騒擾との合流

3.1 職人蜂起の変容

まずは,ストライキを含む職人の運動が,18/19 世紀転換期にかけてどのように変化し ていったかを整理し,運動の内部に食料騒擾へと向かう契機を見出せるのかどうかを検 討したい。先に述べた職人蜂起の要因について,藤田幸一郎氏はグリーシンガーの提示

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した分類をさらに精緻化して以下の 4 種類に分けている。すなわち「(1)職人的名誉の ための闘争,(2)職人組合の自治権を守る闘争,(3)「労働市場」規制権を守る闘争,(4)

雇用条件をめぐる経済闘争」22)の 4 つである。このうち(1),(2)はどちらかといえば 社会・文化的な性格が強く,職人集団全体にとって慣習的に不名誉と見なされる事態(① 物乞いや性交渉,親方からの罵倒をはじめ,動物の死骸に触れる,スト破りをする等々。

②職人金庫の管理,集会の開催,職人頭や集会に陪席するツンフト親方の選出方法に関 する職人集団の自律性の侵害。)を幅広く含んでいる。これに対して(3)は職人が取り 仕切っていた親方の工房への労働力斡旋に関係し,(4)は賃金や労働時間,親方のもと での住込み労働の条件に関わり,どちらかというと経済的性格の方が色濃い23)

グリーシンガーによれば,1740 年代および 60 年代の食料高騰と工業不況の結果,一時 期職人の運動は上に挙げた(3)や(4)の要因をめぐって,社会経済構造を問題化する 近代的な運動(「構造反作用的ストライキ」24))の兆しを見せたが,公権力と親方との結 束にもとづく超地域的な弾圧,打倒対象を常に特定の人格に限定し,構造的な問題の把 握にまで及ばない職人集団の認識枠組み,妥協を認めない蜂起の原理的性格などが原因 で次第に「一時性」と「局所性」を強め,結局のところ前近代的なものに留まらざるを えなかった25)。その結果,18/19 世紀転換期には,対仏戦争の影響もあって失業率が増し,

賃金が低迷したにもかかわらず,(3)や(4)よりもむしろそれまで漸減傾向にあった(1)

の名誉をめぐる運動(「浄化儀礼的ストライキ」)が急増するという意外な傾向を示す。こ れは,グリーシンガーの理解では,職人たちがより成功率の高い選択肢を選ぶべく学習 した結果だとされる。高度に組織化された職人組合のもと,遍歴修行で広範囲にわたっ て移動しつつ,定期的で密な集会を開いていた職人たちは,お互いの経験を共有・蓄積 する中で手工業の生産過程を阻害し,親方や公権力の弾圧を招きやすい経済的要因をめ ぐる運動よりも,名誉という文化資本をめぐる運動を選ぶようになったというのである。

グリーシンガーが主に南ドイツ地方の事例を扱っているのに対して,オスナブリュッ クやブレーメンといった北部ドイツの事例に依拠する藤田氏は,18 世紀末にそれまでと は異なって名誉をめぐる職人蜂起が特に増加した形跡はないとしている。その代わり,

1790 年代には「賃金や労働時間などをめぐる経済闘争の増加は群を抜いて」26)いると述 べ,先に挙げた(1)〜(4)の要因のうち,(3),(4)をめぐる運動が顕著となったこと を強調している。グリーシンガーも 18 世紀末にこれらの要因を背景に持つストライキが 皆無になったとしているわけではなく,むしろ職人組合の自治権や労働市場の規制権を めぐる異議申し立ての発生件数はそれ以前と変わっていないと述べてもいるのだが,実

(12)

際ミュンヒェンに限って見てみると,1790 年代に発生した職人蜂起 4 件のうち,名誉が 要因と見なせるものは 1 件なのに対して,賃金と失業率の改善という経済的要因は 2 件,

残り 1 件は組合の自治権に関わる運動となっている27)。つまり,局所的に捉えるならば,

ミュンヒェンについても藤田氏の見解の方が当てはまるのであり,不況期にあたる 90 年 代には「生活必需品である食料価格の高騰は手工業者の生計費の上昇,実質所得,実質 賃金の低下をひきおこさざるをえ」28)ず,運動は経済闘争としての様相を帯びていった のだと考えられる。

さらに,食料騒擾との合流という観点から重要なのが,自立した家計を営む職人の増 加傾向である。ライトが指摘するように,18 世紀後半はもともと職人身分のままで妻帯 し,独立した家計を持つことができた建築業だけでなく,靴工や仕立工といった修行期 間が比較的短く就業者数も多かったために人口増加の影響をもっとも受けやすかった大 衆手工業でも住込み労働が解体を始めた時期にあたり,職人身分のままで一生を過ごす 者も現れはじめていた。そのうえこの時期は,賃金の出来高払いが浸透し始めた時期で もある。言い方を換えれば,家賃や光熱費,食費を自ら賄うことを余儀なくされた職人 たちは,生産局面だけでなく消費局面においても市場の影響を直接にこうむるようにな り,消費者として経済不況に向き合わざるをえなくなったのである29)。このような社会 経済的環境の変化が他方での公権力による締め付けの強化とあいまって,先に述べたス トライキの「一時性」と「局地性」の傾向をさらに強め,その結果,広域的な都市間で の連帯に期待しえなくなった職人たちは,ローカルな場で「たんに一職人組合の蜂起の 枠組みを越えて」30)協力する方向へと押し出されていった。つまり,18 世紀末に職人蜂 起のありかたは変化をせまられ,同時に職人と食料との関係も直接性を増していったが,

その主たる原因は,構造的要因による労働条件の悪化と市場の影響力の増大という職人

(組合)にとっては外部の力がもたらした苦い必要性だったのである。

3.2 食料騒擾との合流

1800 年,ロシュトクで後に「バター戦争」と呼ばれる事件が起きる。この事件はこれ までもさまざまな研究で言及されてきたが,おそらくもっとも詳細なモノグラフを書い たプロップによれば,その概要は以下のようになる31)

18 世紀最後の 10 年間にロシュトクでは食料騒擾と職人蜂起が断続的に発生していた が,1800 年,おりからの対仏戦争とイギリス,スカンディナヴィア向け穀物貿易の拡大 のさなかに農作物の不作が発生する。10 月に入って小麦,ライ麦,肉,バター,ビール

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の価格がそれぞれ平年の 2 〜 3 倍に達すると,都市住民に周辺農村の住民も加わってロ シュトク市参事会に請願書を提出,富裕な貿易商人たちに穀物輸出を禁止させ,上記食 料の値下げを行うよう求めた。ところが参事会は,私有財産の保護を理由にこの要求を 拒否する。その直後の 10 月 29 日,直接には市場でのバター価格の吊り上げと商人によ る暴言をきっかけに騒擾が発生し,市内の穀物倉庫や商人,市参事宅が襲撃された。暴 動そのものは翌 30 日までに鎮圧されるのだが,興味深いのはその後明らかになった逮捕 者のプロフィールである。私有財産の侵害や秩序の紊乱といった罪名で有罪判決を受け たのは総勢で 101 名に上ったが,うち 24 名が手工業職人,26 名が徒弟,12 名が日雇労 働者となっており,事件の中心は徒弟,日雇い労働者に加えて職人が占めていたのであ る32)

食料騒擾の参加者にここまで多くの手工業職人が,しかも徒弟や日雇い労働者と共に 含まれていることは 1790 年代前半までは見られなかった現象である。ドイツ全域で職人 組合の解散圧力が高まり,職人蜂起が姿を消すのとちょうど交代するかのように,職人 の賃上げ要求の中に食料高騰を理由とするものが増え,徐々に食料騒擾の中に職人たち が登場するようになる。1795 年にハンブルクの仕立工職人は,「ほとんどあらゆる生活必 需品,とくにパンの今日の高価格にたいし(…)手当て」を市参事会に求め,同じ年に グライフスヴァルトでもレンガ積み職人が似たような内容の請願書を提出している33)。 さらに 1799 年のリューベックでは,食料高騰による職人の賃金引上げ要求を参事会が認 めたが,その見返りとして労働時間を延長し,月曜日の怠業を禁止した。

ヘツルィヒは,こうした職人蜂起から食料騒擾への移行の背景を次のように説明して いる。「雇職人たちは,「賃金ストライキ」だけにたよるのではなく,市場での抗議にも 参加するほうが得策だと考えるようになっていった。このことから,一八四七年の物価 高騰時でさえ,市場での抗議のほうが賃金紛争よりずっと多かった理由が説明されうる だろう。民衆による価格設定(Taxation populaire)のほうが,賃金抗議より成功の可能 性が大きかったのである」34)。つまり,グリーシンガーが職人蜂起の類型の変化に見出し たのと同じように,ここでもまた職人たちは「成功の可能性」を「学習」した結果,徒 弟や日雇い労働者,他の都市諸階層とも協力するようになり,食料騒擾へと合流していっ たのである。確かに学習という行為そのものには職人たちの主体性を見出すことができ るかもしれないが,ただしこの行為の契機は,社会経済構造の変化や公権力の規律化圧 力という苦い必然性に求められている。

ところで,上に挙げた事例はいずれも北ドイツ地域,つまり食糧の流通がいち早く市

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場経済に組み込まれた地域に限られているが,ミュンヒェンを含む南ドイツの都市では どうだったのだろうか。管見の限りでは,18/19 世紀転換期に食糧騒擾が発生した形跡は ないが,1816 年〜 18 年にかけての食糧危機の際には南ドイツ地域で数件の事例を確認で きる35)。この時期の食糧危機については史料の多くが焼失してしまっているため不明な 点が多いのだが,1816 年秋から 1817 年夏にかけてバイエルン領内では少なくとも 5 件の 食糧騒擾が発生したことがわかっている36)。そのうち事件の詳細が比較的明らかなのが,

1817 年 7 月のレーゲンスブルクの事例である。

この時期,通常 1 シェフェルあたり 16 〜 18 flで販売されていた小麦価格が 86 flとい う非現実的な水準にまで上がっていた。穀物の不作だけでなく,家畜の飼料にすら困る 状況が続いていたため,都市にかぎらず近郊の農村も食料不足に悩まされていたが,7 月 6 日農村住民がパンを手に入れようと大挙してレーゲンスブルクにやってくる。その後の 様子については,『コレスポンデント』紙が概要を伝えている。そもそも品薄だったパン 屋の棚はあっというまに空になり,「騒乱がおきた。もっぱら若者と女性からなる無数の 集団が,要を満たせなかったがためにものの 30 分の間に 5 軒のパン屋の窓ガラスを石で 壊し,うち 3 軒ではかまども粉々にされた」。同紙の見解では,群衆を率いていたのは「日 雇い労働者,若い手工業者たち,放蕩者,そしてごく普通の女性たち」で市民層は騒擾 に加わらなかった37)

『コレスポンデント』紙の伝える「若い手工業者」とは,市民層が参加していなかった という事情を考えるなら,明らかに親方ではなく職人を指している。また,先の北ドイ ツの事例同様に,日雇い労働者や家庭を持つと思しき女性ら雑多な社会階層との協力関 係を見出すこともできる。南ドイツに関しては今のところこれ以外の事例を見出せてい ないが,北ドイツと比較すれば若干時期が遅くなった可能性も考えられるとはいえ,手 工業をめぐる政治的・経済的動向は大まかに共通しており,やはりほぼ同じ時期に職人 蜂起から食料騒擾への合流が確認できるのである。

この後,1820 年代に入るとドイツ地域では一般に好況が続き,農作物価格も低い水準 が維持される。1830 年にはフランス七月革命の影響で市民層を中心とした自由主義運動 が高まりを見せた一方,1826 年にはゾーリンゲンで鋏砥ぎ工が出来高賃金をめぐるスト ライキを起こし,1830 年にはアーヘンでいち早くイギリス製の機械を導入した工場が織 布工の打ちこわしにあうなど手工業職人も加わっていたと思しき運動が散発的に発生し たが38),いずれも消費という視点は皆無もしくは弱い。食料をめぐる運動が再び頻発す るようになるのは,1840 年代半ば頃を待たなければならないのである。

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ところで,1840 年代のビールも含めた食料をめぐる運動では,ここまで見てきたよう な職人集団内部での結び付きに他の諸階層との混交が加わるという新たな特徴が引き継 がれている。しかし,この職人集団内部での凝集力は,1820 〜 30 年代のいわば空白期間 において,いかにして維持されえたのだろうか。というのも,19 世紀初頭以降の職人に 対する規律化圧力と39),1830 年代に始まる工業化,職人層の工場労働者や日雇いへの分 解・流動化は,慣習的な共同性の再生産を困難にさせたと思われるからだ。

職人の共同性に関してまず指摘しておかなければならないのは,遍歴という要素であ ろう。1810 年に営業自由化を実施したプロイセンでさえ手工業者の養成課程として遍歴 修行は禁止しなかったし,ましてやバイエルンのように紆余曲折はあれど独占的な営業 体制が維持された領邦では,遍歴は営業数をコントロールするための手段として重要な 位置づけを与えられ続けた。そして遍歴が維持されるということは,同時に,かつて職 人組合が取り仕切っていた互助の機能が部分的とはいえ存続したことを意味し,場合に よっては非公式ながら工房の斡旋も行われていたのである。ミュンヒェンでも,すでに 職人組合が解体されてから 40 年ちかく経過した 1840 年代半ばに,職の斡旋や共済金庫 の維持が警察によって報告されている40)。さらに,法的には禁止されていた職人組合の 活動が実際には公然と続けられていた地域も存在した41)。つまり,19 世紀前半の近代化 政策や社会経済構造の変化は,職人蜂起を支えた旧来の共同性のありかたに変容を促し たが,組織的なボイコットを可能にするだけの凝集力は,インフォーマルな結合関係を 通じて維持され続けていたのである。

4 ビールをめぐる公共圏

4.1 ビールが生み出す言説空間

パンや穀物ではなく,ビールをめぐって騒擾が発生し,はじめてボイコットという運 動形態にまで移行しえたのはなぜなのだろうか。ブレッシングのいうように,ビールは パンほど生活必需品ではなく大量に消費される「娯楽の対象」だったからなのだとして,

では,騒擾やボイコットにいたるほどの「楽しみ」とは何なのか。

パンを食べることをやめれば餓死する可能性すらあるという意味で,ビールはパンほ ど生存にとって不可欠ではなかった,という主張を否定することは確かに難しい。しか し,たとえばビールと同じアルコール飲料という意味では主にドイツ北部・西部でさか んに飲まれていたワインや,東部で消費量が多かった蒸留酒については,管見の限り 19

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世紀前半までに不買運動が起きた形跡はない。だとすれば,やはりビールをめぐってボ イコットが起きたことの背景には,社会との関係においてビールには備わっているが,他 の食料やアルコール飲料には見られない固有の歴史的性格が関わっていたのではないだ ろうか。以下ではこの点を検討していくことにする。

19 世紀に入ってから,職人や労働者階層のビール消費量は増える傾向にあった42)。そ の背景には,ひとつには 18 世紀までは小麦原料のビールを好んだ都市住民が,大麦原料 のビールをより多く消費するようになるという嗜好の変化があったと考えられる。そし て,この変化をもたらしたのは,科学知識に支えられた醸造技術の改良,とりわけ麦芽 の焙煎,発酵プロセス,冷却法の工夫であった43)。小麦原料のビールの場合には,ひと たび食料危機が発生すると醸造禁止となることもあったが,先に言及した 1810 年代後半 の際にはそのような措置はもはや取られることもなく,さらに 1820 年代には市場競争の 中で新製品の開発が相次ぎ,原料の価格・供給の安定化にも後押しされてビールの需要 は一挙に拡大したのである。そして,ビール消費の拡大は,醸造業者だけでなく国家・都 市にとっても大きな意味を持つようになる。19 世紀前半バイエルンの国家・都市それぞ れの財政において,ビールからの税収(「麦芽税」(Malzaufschlag))はいずれも最大の 財源を構成しており,前者では約 16%,後者においては約 50%を占めるまでにいたった からである44)

他方で,こうしたビールの需要・供給の拡大と背中合わせで,19 世紀前半のドイツ地 域では新聞,雑誌などの活字メディアの種類と発行部数も急速に増加した。そして特に バイエルンのメディアでは,他の地域と比較すると異色なほど,連日のようにビールに 関する話題が報じられており,ビールをめぐる公共圏とでも呼びうるような言説空間が 生成していたのである。

夏場になると低温での貯蔵が困難だった当時,大麦原料のビールには夏ビールと冬 ビールの 2 種類があり,前者の解禁が 5 月,後者は 10 月とされていた。これ以外にも特 に 4 月にはミュンヒェンの郊外都市アウにあるサルヴァトール醸造所にのみ生産が許可 されていた「サルヴァトール・ビール」や,5 月にはもともと宮廷醸造所だけが醸造して いた「ボック・ビール」の販売も開始されたため45),「昨日もサルヴァトール・ビールを 飲みに,ミュンヒェンの住民がアウに殺到」し,「ツァッヒァールの醸造所では,数えき れないほどの人びとでテーブルが埋め尽くされた」46)といった記事が毎年紙面を飾った。

また,同じ時期に庭園,路上,公衆浴場,水浴場,あるいは醸造業者がイザール川の ほとりや郊外の丘陵に建設した貯蔵庫の周辺など屋外でのビール販売も始まるため,こ

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れらの施設の良し悪しを一覧表にして 1 面に掲げる新聞も散見された47)。庭園や水浴場 に関する記事からは,これらの施設を訪れていたのがもっぱら市民層以上の社会層に属 する人びとだったことが読み取れるが48),醸造所や酒場も含めそれ以外の場所には雑多 な階層の人びとが集まり,女性の姿も珍しくはなかった。ただし,職人や労働者(ある いは市民層でも)については,必ずといっていいほど行きつけの酒場があった49)

こうした社交もしくは娯楽の場でも,また活字メディアでも,もっとも頻繁に話題に なったのが,やはりビールの味の良し悪しだった。先述のような夏・冬ビールの解禁直 後には,「もうここ何年もなかったほど,まともなビールを醸造業者が造ってくれた!」50)

「今年の夏ビールは,残念ながら駄作である…」51)といったように,およそあらゆる新聞 紙上で読者も巻き込みつつ甲論乙佀が繰り返された。こうした味についての評価は,個 別の醸造所や酒場にも及び,「評判の芳しくないフィルザー醸造所にはこれまで足を向け なかったが,先日機会があって口にしてみたらとてもおいしかった」(読者からの投稿)52)。 あるいは,ボック・ケラーの用益人フィッシャーが,「大勢の客の目の前で客が残したビー ルを給仕たちに集めさせ,樽に戻し,吐き気を催す飲み物にした」53)などと,実名を挙 げての毀誉褒貶が流通していたのである。

さらにビールの消費者たちは,しばしば味の問題を健康と結び付けて論じた。「使って いる麦芽の量が少なすぎ」たり,「ホップではなく代用品が使用され」たビールは「酸っ ぱくなる」が,これを飲むと「酔うことはできるが栄養は少なく,太鼓腹を作りはする が力を与えてくれはせず,食欲も増進しない」54)。また,1830 年代末にミュンヒェンで コレラが流行した際には,「ワインよりも体を温めてくれる飲み物」であるビールが「力 を与え」てくれたから,ビールをたくさん飲む者ほど罹患しなかったという話がまこと しやかに語られたりもした55)

実際に以上のような味や健康をめぐる活字メディアでの議論が客足にどこまで影響し たかはわからないが,味をけなされたり不正を疑われたりした醸造業者や酒場経営者が 反論のパンフレットや広告を出しているのを見ると56),少なくとも当事者にとっては名 誉の問題として無視しておけるようなものではなかったのであろう。いずれにせよ,上 に紹介したような記事の端々からは,職人を含む広範な都市住民がビールの味とその背 後にある醸造技術や不正疑惑の数々,さらにはビールから徴収される税金の使い道にい たるまで(中には俗信めいたものも含まれてはいるが)詳細な知識を共有していたこと が見て取れ,このことは生産者にも周知の事実だった。だが,ここで特に注目したいの は,以上のような議論の数々が確かに真剣さを伴っており,それぞれの主張の正否をめ

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ぐる論争という側面を持ってもいる反面,公衆が議論そのものを楽しんでいるように見 えることだ。ビールをめぐる言説には,ビールへの執着と同時に,どこか余裕とおかし みがまとわりついているのである。

たとえば,1834 年 9 月 6 日付『ラントボーテ』紙には,酒場での出来事として次のよ うなエピソードが掲載されている。ある男がどうしてもビールを飲みたがったが,金が ない。そこで醸造所の客に自身の歯を一本抜かせる代わりに,マース・ジョッキを 1 杯 おごれと持ちかけた。面白がった店主と客たちは話に乗り,最終的にこの男は 4 杯のビー ルにありつき,満足して家路についたというのである57)。この話の真偽のほどは定かで はないし,滑稽というよりグロテスクと読むこともできるだろう。だが,少なくともこ の記事の書き手は,これを小噺に近い,ユーモラスな挿話として受け止められることを 期待して紹介している。

ビールをめぐるユーモアや放埓さといった要素がさらによく見て取れるのは,ビール を主題にした詩や歌の類である。ここでは,「呑み助が仲間に送る最期の言葉」という題 の詩から一部を抜粋しよう58)

(一部省略)

醸造所の広間こそ最大の幸福 これに優るものなどない 私が私でいられるところ バカ騒ぎに終わりはない だから兄弟,ひとまずお別れ 醸造所の広間でまた会おう

神様がとわの平安を授けてくださるから

もちろん彼のことだから,ビールとシュナップス[蒸留酒]も忘れちゃいない

臨終の床という悲哀と静けさに満ちていておかしくない場面において,この「呑み助」

の口から出てくるのは飲み仲間と過ごした「醸造所の広間」での騒々しく陽気な思い出 ばかりである。というのも,そこが「私が私でいられるところ」だからなのだが,ふつ うならその位置は家庭や故郷あるいは仕事が占めていておかしくない。しかも,彼が彼 岸で再会を果たすべきは家族ではなく「飲み仲間」であり,その場所は彼にとっての日 常だった「醸造所の広間」にほかならない。そして,死におもむくにあたって,なるほ

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ど「神」の名が口にされてはいるものの,その神が神たるゆえんは,彼の与えてくれる 永遠の平安がビールを「忘れちゃいない」ことにある。このユーモラスな詩に,醸造所 や酒場に通い詰める者への皮肉,あるいは自嘲や自己弁護を見出すことも可能かもしれ ないが,しかし,少なくともここでは悲しみや後悔よりも,むしろビールを介してもた らされる生の喜びや解放感の方が強調されているように見える。「呑み助」の人生に意味 を与えているのは,ビールと醸造所なのである59)

また,ビールをめぐる詩歌では,生きるための活力や豊穣さが猥雑さを伴いながら語 られることも少なくない。たとえば,醸造所や酒場で歌われていたと思われる「黒ビー ルの歌」では,「飲めば飲むほど利口になる」,「飲んだそばからすぐにでも,からだに力 がみなぎって,巨人のように俺はなる」,「女房と一緒に出かけよう。彼女はホウッと,俺 はフイッと飲みほすだろう。(…)ほろ酔いかげんになったなら,二人してうちに帰って ベッドにもぐろう」60)と,性的な連想をともないながらビールが生命力の源として描か れているし,シラーの「鐘の歌」のパロディとして作られた「醸造所」では,ビールじ たいが大麦(女性名詞)とホップ(男性名詞)とが添い遂げた結果,自然界から人間に もたらされた贈り物として提示されるのである61)

ところで,ビールをめぐる詩歌の以上のような陽性のイメージは,同時期の他の食料 についての記述に比べるとなおさら異質な印象を受ける。パンや穀物については,ビー ル同様にたびたび報道されているものの,同情を誘うような暗い出来事が多く,どこか 重苦しい。先ほどの歯と引き換えにビールを飲んだ男と等しく貧窮が原因でありながら,

食事に困って「パンを盗んだ兄妹」62)のことを報じる記事にはユーモアは不在である。夫 の虐待にさらされて,「グラス 1 杯のビールの代わりに水と黒パン」しか口に入れさせて もらえず,やつれた妻の話にせよ63),パン屋の仕事がいかに重労働で苦しいかを切々と 訴える歌にせよ64),ビールをめぐる挿話や詩歌に漲っていた喜びや活力,解放感といっ た要素はそこにはほとんど見られない。

他方で,ビール以外のアルコール飲料,たとえばワインに関してはビールにまつわる 諧謔と同類の記述が散見されるが,ミュンヒェンをはじめアルト・バイエルン地方では ワインは上流階級の飲み物だったから,ビールのような庶民性や猥雑さ,解放感はさほ ど感じさせない。そして,蒸留酒については,不健康や堕落のイメージが強調される批 判的な記事がほとんどである。

以上の分析は,図式的とのそしりを免れないところもあるだろう。確かにビールをめ ぐる記事であっても,もはや脅迫に近い調子でその高騰を非難するものもあるし,パン

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や穀物を「神様からの贈り物」として快活に描くコラムなども特にカーニヴァルや聖体 拝領の祝日の前後には見つけることが可能である。だが,19 世紀前半ミュンヒェンでの ビールをめぐる議論には,疑問の余地なく,他の食料やアルコール飲料よりもはるかに 色濃く陽性の活力,すなわち祝祭性がまつわりついている。ただし,この祝祭性は必ず しも非日常的な性格のものではない。活字メディアの中であろうと,醸造所や酒場の中 であろうと,ビールをめぐる議論の数々は,それじたいがビールの消費者,つまり職人 や労働者をはじめ広範な社会層の老若男女にとっての日常生活そのものであったのだ。

活発な議論の飛び交うビールの公共圏と,この公共圏を支えていた日常性を持ちつつも 祝祭的なエネルギーこそ,ビール騒擾の発生とボイコットへの移行を可能にしたのでは ないだろうか。

4.2 「節酒」運動の呼びかけ

最後に,ビールをめぐる公共圏で生成し,ビール・ボイコットの発生に大きな影響を 与えたと思われるできごとについて検討したい。それが,ビールの「節酒」運動の呼び かけである。

例年,夏ビールは 12 月に醸造が開始されたが,この時醸造業者の仕入れた原料(大麦・

ホップ)の価格を当局が調査し,翌年の 2 月に暫定的な公定価格が発表される仕組みに なっていた。それゆえ,新聞紙上では 1 月頃から,前項で紹介したような価格をめぐる 議論が活発化するのが常だった。1840 年代に入ってからは,大麦の作況が悪化したこと もあって徐々にビールの公定価格が高騰し,価格をめぐる議論も過熱した様相を帯びて いく。1820 〜 30 年代にかけては,数回の突発的な例外を除き夏ビール価格は 4 〜 5 krの 間で推移していたが,下の表に示したごとく,1840 年になるとマース(1.069 リットル)

あたり 6 krにまで一挙に上昇する。ビール価格がここまで上昇したのは 1816 〜 18 年の 食糧危機以来であったが,43 年 2 月に公表された夏ビールの予想価格は,前年に比べて さらに 0.5 kr値上がりし,6.5 krとされた。その直後,ビールの買い控えを提案する「節 酒協会」設立の動きが浮上するのである。

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表 1 1840 年代ミュンヒェンのビール小売価格(単位 kr)

冬ビール 夏ビール

1839/40(39 年 10 月〜 40 年 4 月) 5 1840(40 年 5 月〜 40 年 9 月) 6

1840/41 5.5 1841 6

1841/42 5 1842 5 / 5.5

1842/43 5.5 1843 6.5

1843/44 5.5 / 6 1844 6.5 / 6

1844/45 5.5 /5.75 1845 6

1845/46 6.25 1846 7

(典拠:Königlich Bayerischer Polizey-Anzeiger, 1839-1850; Hummel, München in der Revolution, S.345; Carpenter, The Munich Beer Riot, p.92 より筆者作成)

43 年 3 月 15 日付の『ラントボーテ』紙には,次のような記事が掲載された。今回の値 上げには「適正な理由が見当たらない」。「大麦とホップの価格が現在,比較的低い水準 に保たれているにもかかわらず,ビールの価格があの 1817 年と変わらない」とはどうい うことなのか,と若干誇張を含みながらも(1817 年にはマース当たり 8.5 krを記録した)

不満を表明したうえで,次のように呼びかけるのである。「当地[ミュンヒェン]の人び とが協会を設立し,その会員たちは一定期間,ビールを飲むのを控えるというのはどう だろうか。さらに同時に,非会員に対してはビールを避けるよう勧告するのだ」。続けて 同 紙 は, 協 会 の 呼 称 を「 ビ ー ル 消 費 者 の た め の 節 酒 協 会 」(Mäßigkeitsverein für Biertrinker)としてはどうかと問いかけ,同種の協会がすでに他の領邦では活発に運動 を展開していると報じている65)

確かにこの時期,ドイツに限らずヨーロッパ各地で節酒もしくは禁酒協会が設立され つつあった。その背景には蒸留技術の発展と工業化の展開および酒税法の改正による蒸 留酒消費の急増等があり,労働者とアルコールの関係を問題視する言説が広がり始めて いたという事情がある。だから,一般に「節酒協会」といえば,アルコールが身体や精 神に及ぼす悪影響を考慮して酒との関係を断つよう啓蒙を試みる団体がほとんどだっ た66)。ミュンヒェンの「節酒」運動の呼びかけでも,やはり蒸留酒については身体に「毒」

だとされている。しかし,興味深いのは,むしろだからこそ「毒」を摂取する人間を増 やさないために栄養豊富なビール価格は安価に保たれねばならない。ビールこそアル コールによる堕落を防ぎ,健全な身体と精神を維持する最善の手段なのだ,というのが

『ラントボーテ』紙の論理となる。ビールという「神の贈り物を適度にたしなみ,良き模 範となることで貧しい人びとの福利に貢献する」。そうすることで「喜びと健康に満たさ れた生を送る」ことができるというのだ67)

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この「節酒」運動が他の類似の名称の協会活動と比して異質なのは,ビールがアルコー ルであるにもかかわらず,通常節酒・禁酒運動が描く飲酒を通じた堕落や破滅,家庭の 崩壊といった陰惨なイメージとビールとが結び付けられておらず,なおかつ新聞の主な 書き手や読み手だった市民層の徳(節制,倹約,勤勉等々)とビールが調和しうること を示していることである。しかもビールの「節酒」運動の呼びかけにしてからが,切迫 感や義務感,啓蒙や断定といった要素よりも,むしろどこか面白がっているような,余 裕のある雰囲気を帯びている。結果からいえば,この呼びかけは現実に「節酒協会」を 設立するまでにはいたらなかったのだが,ただし,上記の記事は少なからぬ読者に好意 的に受け止められたようで賛同の声と入会手続きの問い合わせが寄せられるようになる のである68)

最初に紹介した記事に続けて,3 月 19 日『ラントボーテ』紙は,節酒運動がもたらす インパクトを具体的に試算した記事を掲載する。それによると,「ミュンヒェンの人口の 3 分の 1,つまり 3 万人だけこの計画に参加したとしよう。それでも,これだけの人びと がこれまでよりも 1 日に半マース少なく飲んだとしたら,それだけで 1 日当たり合計 15,000 マース69),1 年では 5,475,000 マース」に上り,その額は「たった 1 年で,501,870 flというべらぼうな数字に達する。さらにこの総額を,当地の醸造所の数で割ると,醸造 所 1 軒当り 11,949 flの損失になる」というのである70)

桁の大きな数字が並べられており,一見しただけではわかりづらい印象を受けるが,実 はこの「試算」という方法は,もはやこの時期のミュンヒェンにおいてはビールをめぐ る議論を展開する際のひとつの「文法」といって過言ではない手管だった。19 世紀に入 り,前述のように活字メディアの数が増えるに伴って,ビール価格が高止まりする時に は必ずといっていいほど醸造業者もしくは公定価格を管掌する公権力への批判が,上記 のような「試算」を伴って公衆に提示されるようになっていたのだ。したがって,そも そもビールについて該博な知識を持ち,活字メディアだけでなく,実際に醸造所や酒場 でビールを口にする消費者としての実感を通じてどの醸造所がどの程度のビールを生産 し売れ行きがどのくらいの規模なのかを容易に想定しえたミュンヒェンの住民には,そ れほど理解が苦にならなかったはずなのである71)。だからこそ,逆に次のような反論が 寄せられることにもつながる。

「節酒」運動を敢行すれば,小さな醸造所は軒並みつぶれ,大醸造者だけが生き残るだ ろう。そして結局のところ「うまいビールが供給されない」という結果を招くだろう。な ぜなら,ビールが売れなくなった場合に大醸造業者たちはその分「安いビールを造ろう

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とする」からである72)。急速に盛り上がりを見せるかに思われた「節酒」運動が,この 時には結局具体化しなかったこととこうした反論とがどこまで関わっているのかは定か ではないが,ここに紹介した議論からは「ビールをめぐる公共圏」が広範な人びとを巻 き込みつつ,現実の運動を生み出す可能性を持っていたことがわかる。

確かにここで紹介した一連の議論の担い手は市民層であって,遍歴職人たちではない。

さらに,ボイコットに際して彼らがこの「節酒」運動に言及したとの史料が残っている わけでもない。だが,職人たちを取り巻いていた状況を考えるなら,彼らもまた「ビー ルをめぐる公共圏」に参与しており,この議論についても十分知りうる立場にあったこ とは間違いない。醸造所や酒場の中には新聞が置かれているところも多く,よく知られ ているように職人や労働者の間では新聞が読み上げられる習慣が存在していたからだ。

そのうえ,ミュンヒェンの醸造所・酒場では,市民層と職人たちとは,同じ空間でビー ルを楽しんでいたのである。

つまり,「節酒」運動の呼びかけに応じたのは,当初の宛先と異なり,職人たちだった のである。市民層による「節酒」の提案が,44 年の騒擾から 46 年のボイコットへと運動 が展開していく直前の 43 年になされていたというのは,ビールをめぐる公共圏を考慮す るなら,偶然とは思われない。1846 年ミュンヒェンのボイコットは,職人ストライキの 伝統と食料騒擾の慣行,そして市民層の「節酒」運動が合流した地点に生成したのであ り,このことを可能にしたのは,ビールめぐる公共圏の存在だったといえよう。

5 おわりに

以上の議論をふまえて,先行研究で提示されていた「娯楽」と「学習」という視点に ついて検討してみたい。

ブレッシングは,騒擾という「前近代的」な運動形態から「近代的」なボイコットへ と移行しえた要因を,ビールが生活必需品ではないが娯楽の対象としては重要であった ことに求めていた。本稿で紹介してきた事例では,経済的困窮から食べるものにも事欠 くためにパンを盗んだ者はいたが,空腹に耐えかねてビールをくすねたなどという事象 は見られなかった。その限りでは,ビールをパンなどと同値の食料とするわけにいかな いのは確かである。しかし,にもかかわらず,ビールの栄養源としての重要性がことあ るごとに強調され,ワインや蒸留酒のような他のアルコール飲料と同列に置くことがで きないのもまた事実である。つまり,ビールには食料であると同時に娯楽の対象でもあ

表 1 1840 年代ミュンヒェンのビール小売価格(単位 kr) 冬ビール 夏ビール 1839/40(39 年 10 月〜 40 年 4 月) 5 1840(40 年 5 月〜 40 年 9 月) 6 1840/41 5.5 1841 6 1841/42 5 1842 5 / 5.5 1842/43 5.5 1843 6.5 1843/44 5.5 / 6 1844 6.5 / 6 1844/45 5.5 /5.75 1845 6 1845/46 6.25 1846 7

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とはいえ、先行研究の解釈に沿って分析を進めた結果、再考の余地があることも明らかと なった。ひとつには、 1844 年ころよりも以前、

Ballantine Books に統合され、 Random House Ballantine Publishing Group と名乗ることになった。 この解雇について Random

その意味でいえば、一三日の風聞に対し、百姓勢を「御屋形」に侵入させてまで、帰村させようとする姿勢こそ、今回の一摸に対する上田藩の基本姿勢であると考えられるのである。上田藩は、百姓勢が城内へ侵