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原 研二 著『白雪姫たちの世紀末 闇の女王をめぐるヨーロッパ19世紀末の文化論』

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原 研二 著『白雪姫たちの世紀末 闇の女王をめぐ

るヨーロッパ19世紀末の文化論』

著者

松崎 裕人

雑誌名

東北ドイツ文学研究

54

ページ

91-95

発行年

2012-09-30

URL

http://hdl.handle.net/10097/00127128

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原 研二 著『白雪姫たちの世紀末 闇の女王をめぐる

ヨーロッパ 19 世紀末の文化論』

松崎 裕人

著者である原研二氏は生前,東北大学で学部一年生を対象として,「白雪姫と闇 の女王」および「白雪姫たちの世紀末」と題する講義を行った。その講義における, 著者と受講学生との双方向でのやりとりを踏まえながら,本書『白雪姫たちの世紀 末』は執筆された。 18,5cm×13cm サイズで 200 頁強の,ハンディな版にまとめ上げられた本書は,そ の成立事情からも,入門書としての要素をもっている。しかし他方,本書は著者が 述べるように,著者が発表したドイツ語での論文を下敷きにしている。その意味で 本書は,入門的でありながらも専門的という多面性をもっており,幅広い読者層の 知的好奇心を刺激する一書といえる。 本書は,まえがき(「はじめに」),本論 10 章,あとがきによって構成されている。 巻末に「この本と著者について」および著者略歴がご家族によって添えられている。 本論は,一貫した視点からの論述によって有機的にまとめられているが,おおまか にふたつのパートにわかれている。 ひとつは,ローベルト・ムージルの小説『生徒テルレスの惑乱』(1906)で主人 公が思い浮かべる「黒い群れの女王」(「闇の女王」)の探求である。これが本書の 主題として,1 章と 10 章に位置する。 「闇の女王」の正体を突きとめるために,2 章から 9 章まで,時代を遡り,世紀 転換期の歴史があらためて辿られていく。それがふたつめのパートであり,ここで の主役はさまざまな「白雪姫たち」である。『グリム童話』第 7 版(1857 年)によ る『白雪姫』をはじめとするヨーロッパ 19 世紀末における(また,夏目漱石にお ける)「白雪姫たち」が多様なテキストをとおして論じられていく。(著者に倣って, ここでは絵画や建築,音楽なども「テキスト」と呼ぶ。)取り上げられている文学

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松崎 裕人 92 者や芸術家,テキストは,写真や図版とともにじつに豊富かつ多彩である。以下に 紹介するのは,そのうちのごく一部である。 1 章ではつぎのように問題設定がなされる。『テルレス』には,「物語の筋とは別 の次元で主人公テルレスのなかで進行するもうひとつの出来事」の推移がある。そ こにこそ「作品のピーク」がある。主人公テルレスは,他の類似のイメージではな く,なぜ「闇の女王」を想起するのか。「闇の女王」はなぜ作品のピークに出現す るのか。以下に続く世紀末の女性像の考察には,したがって,表面やうわべとは別 のところに位置する,もしくは別のところに抑圧される力の存在が強く意識されて いく。 2 章では白雪姫と王妃が「女性的なもの」の両面をあらわし,動的・性的・積極 的な要素(王妃)が抑圧され,静的・受動的な白雪姫は「死せる一個の芸術作品」 と化すこと,物語には姿を見せない王(父)は黒檀の窓枠,鏡の声として,物語を 外から規制していることが論じられる。3 章では清浄なイメージのオフィーリアが 水・自然の声・無限・狂気といった原初的な力,それゆえ男性的な秩序に脅威とな る力によって破滅する様子が,『ハムレット』,ランボーの詩やミレイの絵画,さら に夏目漱石の『草枕』などから跡づけられる。漱石とテニスンを介して言及される シャーロット姫とエレインも含めて,このような白雪姫につながる女性像が「時代 の雰囲気に合致する」こと,その女性像を描く文学や絵画がヨーロッパ世紀末の「時 代思潮のなかにある」ことが確認される。なお,各章にはコラムや読書案内が添え られているが,3 章のコラムでは,ラファエル前派の美の理想として描かれること によって,美術作品としての実生活を送ることになったエリザベス・シッダルにつ いて,印象深く記述されている。 4 章からはオーストリア,とくにウィーンにとりわけ焦点が向けられる。4 章と 5 章では宗教的素材を扱う作品が主に取り上げられる。クリムトの描いた「ユーディッ ト」では,そのユーディットが世紀転換期ウィーンの女性でもあることが確認され た後,彼女が白雪姫では抑圧されていた性の魅力によって男に「滅びの魅惑」を味 わわせる「裏返しの白雪姫」であることが,額縁の装飾的な要素が絵の内部に食い 込んでいることの指摘とともに論じられる。逆転した白雪姫の像は,サロメやルル にも確認できる。5 章では,ミケランジェロの彫刻「ピエタ」の構図を逆手にとっ て清浄なピエタ像を裏返したココシュカのポスターが論じられる。 こうした芸術作品に見られる,「既存の体制を倒壊させ逆転させるような要素」 の出現を,社会や時代の変動の現れのひとつととらえ,ほかの領域でその変化を検 証するのが 6 章と 7 章であり,広義の装飾(服飾・ファッションと建築物のファッ サーデ)が対象とされる。ファッションの変貌の背後に,時代や社会の抑圧の存在 が垣間見えることや,とりわけオーストリアの二重道徳に社会全体の二重性を読み うることが示唆される。なお,7 章については後述する。 崩壊へと向かうハプスブルク帝国(二重王国)の皇妃エリーザベトもまた,華や

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かな外観と生活の内実との落差に苦しみ,自由を求める「現実に存在した白雪姫」 のひとりと述べられる。その 8 章では,シェーンベルクのオペラ『モーゼとアーロ ン』の分析を例に,解体しつつある旧来の秩序に代わる秩序の構築の困難さや,根 本的,全体的な変動へとヨーロッパ社会が達している段階が確認される。 9 章では思想的側面が論じられる。挙げられるのはマッハ(解体の思想),フッサー ル(解体とは別の可能性を探る思想),ヴァイニンガー(解体としての女性性を克 服しようとする思想),そしてフロイトである。 そうして,10 章では,「闇の女王」の正体は,一方では秩序の解体であり他方で は解放の予兆であると示される。さらに,ムージルが『特性のない男』の執筆に込 めた「別の歴史への試み」などをとおして,その解放の予兆は複数の可能性に開か れた別の歴史へと通じうるものであり,「白雪姫たち」が志向した自由や無限への 道,狂気からの解放の道がまさにそれであると論じられる。 さて,『テルレス』には表だった物語の筋と,それとは異なるピークがあると, 著者は述べていた。それもまた,ヨーロッパの知的伝統に連なるのであろう。その ことを,著者は 5 章で,ミケランジェロが「最後の審判」のなかに自画像という, 表面的な題材とは別の要素を描き込んでいることを紹介することによって,示して いる。また,ピエタを裏返すことで隠蔽されたものを表面化するココシュカの手法 についても,それがヨーロッパの伝統的な題材を使って行われていることに注意を 促している。こうした系譜の発見は,著者が本書の「隠れたテーマ」と言う「歴史 の見方」,その方法にかかわっている。著者は「自己の立場をつねに相対化しなが ら進んでいく思想的な立場」の重要性を強調しているが,その思考の動的なプロセ スに対する著者の方法的な意識の明確さが,歴史のダイナミクスをどう見るかとい う問題への裏付けとなっていると思われる。 しかし歴史は,「ムージルに,意図するとしないとに関わらず『黒い群れの女王』 という言葉を書かせるような力」である歴史は,相対立する力を奇妙に一致させ, 単一の権威的な力としてしまうこともある。そのことを,筆者は 7 章で分離派を論 じながら印象深く描いている。つまり,リング通りの建築様式を否定したウィーン 分離派の建物は,芸術の永遠性と神経質な時代性の反映との折衷によって,当のリ ング通りの歴史折衷様式と奇妙に一致する印象を与え,つまるところリング通りの 堅固なファッサーデと内部の貧困で空虚な,しかし攻撃的な力という時代相を証し 立てることになっている。すべての解体に瀕したとき,堂々たるファッサーデに魅 せられるような精神が,ふたたび権威的な単一の力,旧来の父権的な力で束ねよう とする動向もまた,「歴史のありうべき可能性」のひとつであることを,10 章で著 者はヒトラーの登場に確認している。それは,その観点で見る限り,歴史の「必然 性」をもっていた,と著者は判断する。 その単一化された歴史に対して,著者は「女性的」な,複数の可能性に開かれた

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松崎 裕人 94 別の歴史を重視する。この場合,肝要なのは,ヨーロッパがたどった実際の歴史と 可能性としての歴史との対比といった「図式的把握」を著者が斥けていることであ る。著者は,開かれた可能性に対する「生き生きとした感性」をもつことの重要性 を,「わたしたち」の今日的な課題として主張しながら本論を閉じる。 ムージルのある表現の謎がまず提示され,その探求のため 19 世紀をたどり直す という構成は,著者の主著である『物語と不在 十九世紀オーストリア小説とムー ジル』(東洋出版 2005 年)でのそれと重なるものである。ムージルを厳密に読解 するには,これほどの知的営為を要するのかと,専門外の評者はその専門性の高さ, 厳しさに気が遠くなる思いがする。だが本書においてより強調すべきは,著者がそ の高度な専門性をそのまま自身の「心が動かされた」記録として,その「面白さ」 をまるごと,評者を含めそのような専門性をもたない読者にも伝えようとする,そ の知的・教育的「情熱」の激しさであろう。読者として重要なのは,(知識の習得 もさることながら)著者の情熱に触れること,面白さをみずから体感しようとする ことだろうと思う。 本書を読みながら,「気楽に読んでいただければ幸いである」という著者の言葉 に甘えて,できることなら他愛のない疑問や発想などを著者に話してみたくなる。 手短にいくつか挙げると,たとえば,「闇の女王」の「黒」のもつ肯定的な面と「白 雪姫たち」との連関について,評者はうまく飲み込めなかった。論述展開よりも, どちらかと言えばムージルのいわば特異性や特別さに依拠しているように感じられ た。そこで,本書の趣旨から外れることだが,白い女性のかたわらにいた黒い女性 のことなども聞いてみたかった。シェイクスピアの『ソネット集』に現れる「ダー ク・レディ」のことや,本書で著者が『白雪姫』読解に援用するギルバート/グー バー著『屋根裏の狂女』の標題の女性,つまり『ジェイン・エア』の登場人物バー サもまた(ヨーロッパ出身ではないが)黒い女性であることなどである。 世紀末オーストリア文化の面で言えば,アドルフ・ロースについてである。ロー スはややもすると「装飾と犯罪」という言葉だけが取り沙汰される建築家だが,「女 性用服飾の流行」「女性と家」「洗濯物」等々,日常とも結びついた建築や服飾につ いての考察を残した文化論者でもあった。その点で,本書のとりわけ 6,7 章にか らめてのロース評価を著者に聞いてみたい気がする。 読者をある思索や感想へと誘うのは良書の常である。だから,上のような,評者 のとりとめのない思いつきをここで述べるのは,そもそも必要のないことであろう。 あえて書き残したのには理由がある。本書が著者と受講学生との双方向性の講義か らうまれたことに,あらためて触れたいからである。「あとがき」によれば,著者 は授業時に学生から提出された質問や意見を検討し,次回の授業時に答え,また自 身のホームページ上で返答を用意した。それは A4 用紙で 100 枚をこえるものになっ たという。著者は,文学をはじめとするさまざまなテキストを読み解きながら講義

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を準備し,さらに,学生の質問や意見をあらたな(しばしば「おもいがけない方向」 へと著者を「面白」がらせる)テキストとして読み込みながら,講義を,つまり自 身の産出するテキストを,さらに練り上げていった。それは,著者が述べる「自己 の立場をつねに相対化しながら進んでいく思想」のまぎれもない実践であり,病床 でまとめられた本書はその実践の「記録」,カフカを借りて言えば「ある戦いの記 録」である。 『白雪姫たちの世紀末』は,その過程で,もしかするとなにがしか違う姿で読者 の前に現れたかもしれない。著者によれば,当初はこの講義の完成に 3 年から 5 年 をかける予定であった。そのなかで,19 世紀の女性作家の系譜を追う意図もあった という。著者は,2 年で講義を断念せざるを得ず,その構想を講義に反映させる時 間は,病によって奪われた。本書は,その意味では,別の可能性をもっていたのか もしれない。 しかし,それこそ評者の勝手な感傷にすぎないだろう。『白雪姫たちの世紀末』 は,講義という枠を離れ,一冊の書物としてだれもが手にすることができる。だれ もがこの書を読むことができるし,そして読み替えることができる。もちろん,そ れによって,読者自身が自己の思考をたえず相対化していくことができるかどうか は,読者それぞれの課題であろう。 いずれにせよ,本書は読者それぞれの関心に応じて,いかようにも接近を許す書 物であり,読者を当人にとって思いがけない方向へといざなう書物である。そして また本書は,読み尽くせないテキストとして,読者によるたえざる読み直しをも, 常に,待っている。この書がもつ,本当の意味での,別の可能性はそこにある。本 書が多くの人たちに読まれること,読み続けられることを願ってやまない。 (郁文堂 2010 年)

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