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劉 師 培 の 春 秋 学

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(1)

第一節 はじめに

劉師培の春秋学

劉師培、字は申叔、名は左粛、一名を光漠といい、光緒

十(

一八八四)年に生まれ、民国八(-九一九

)年

に三十五歳で没した。その生きた時代は辛亥革命前後の中国激動の時代であった。劉師培自身も、その時代の渦に巻き込まれ、波乱万丈ともいえる一生をおくった。また劉師培は、揚州学派の流れを汲み春秋左氏伝を家学とす

る、

曾祖父劉文洪以来、祖父鍛松・伯父寿曾•父貴曾と代々の学問の家に生まれた。つまり劉師培は中国の伝統的な学術の系譜を引くととも

に、

辛亥革命に象徴される新しい時代の息吹をも感じさせる人であった。本稿は、その劉師培の経学の中心をな

す、

春秋学について考察するものである。

劉師培の春秋学の概要

劉師培の家は曾祖父文浜以来経学を治め、『春秋左氏伝』

を家

学としていた。その学風は江蘇・儀徴の人であったこともあって、王念孫•引之父子以来焦循•玩元と受け継がれてきた揚州学派の流れを嗣ぐものであった。劉

末 岡

(2)

師培もまた、学者となるべく幼少の頃から教育を施されていた。それ故に、

劉師培は革命家である以前に、

生ま

れながらに経学者であった。

また革命を主張している時にあっては、

革命派に敵対する康有為をはじめとする

立憲君主制派が公羊学を中心とする今文学をその重要な理論的な裏付けとしていたのに対して、章柄麟とともに民旅派の論客として古文学の立場から反論した。つまり、家学としての経学者であり、

また古文学派の思想家でも

あったわけである。従って、

劉師培の経学を明らかにすることは、

その思想の全容を明らかにする上で非常に大きな意味を持っている。そこで劉師培の経学の本質を考察し、

他の思想の関係を明らかにして

いかねばならない。劉師培の経学の中心は、『春秋左氏伝』を家学としていたという点でも、今文派が『公羊伝』を中心とすることから公羊学派と称されるよう

に、

古文学の中心が

『左氏伝』であるという点でも、

『春秋左氏伝』を中心とする春

秋学である。そこで

本稿では経学の中でも春

秋学に絞って考察を加えていくことにする。

劉師培の春秋学を具体的に考察する前

に、

劉師培自身が春秋学という学問をどのように考えていたかを示す格好の文が『読左割記』にあるので引用する。近儒、公穀二伝を治むる者、実に煩はしく徒有り。惟だ左氏を治むる者甚だ鮮し。その故は何ぞ

や。

一は巻峡浩繁に因る。一は漢儒完全の注無きに因る。一は後儒斥けて偽書と為すに因る。故に其の書を治むる者の

衆多

なるに若かず。いま左氏一書を観るに、其の後儒の討論を待つ

者、

約三端有り。一に曰く礼、二に曰く

例、

三に曰く事。

ここで劉師培は春秋学の課題を、

一、

『春秋』に示された礼、

二、

『春秋』に託される義例

(例

)、三、

『春秋』にかかれた事実(

事)、

の三つを明

らかにすることにあるとして

いる。ところで、

劉師培の春秋学を具体的に考察

(3)

清朝末期の今古文論争に

火をつけたのは今文派、 羊学派の形成からかなり遅れて、

今文派の古文否定に応える形で登場

してきている。公羊学派の

『左氏

伝』否定

の主張

は、

劉逢禄の

『左氏春秋考証』

と康有為の

『新学偽経考』

および

『孔子改制考』

に代表

させ

ることができ

る。

次に公羊学派の

『左氏伝』否定の論を

挙げながら、

それに対する劉師培の考えを明らかにしていこう。

先ず第一に、『春秋』経の成立に関する問題である。

清代末期に至るまでは、

『論語』「述而」の「述べて作らず」

の記述に基づいて、

六経は孔子が

それ以前からあった文献を

編集し孔子は

その編集作業の中に自分の考えを示し たものだとされていた。

『春秋』の場合は、

本来単なる魯で起こった事

柄を年代順に記

した歴史書である

『春秋』

第二節

今文派に対する反論 ついて考えていきたい。

つまり公羊学派の方からである。

というよりも古文派は、

公 するのに

先立って、

劉師培の春秋学関係の著作の内容を考えてみ

ると大きく

二種 類に分けることがで

きる。

は清末の今古文論争におい

て、『左氏伝』

ひいては古文経が

、劉

款の偽作だという公

羊家の主張に対する

、主

とし て文献学的な研究、

もう―つは、杜預の

『左氏伝』

に対す

る義例説を否定し

、漢代の先師

の示した義例を立てよ うとする研究、

以上の二つである。

前者は、劉師培

の言う「事」

に関係が深く、

後者は、

「例」の研究

そのもので

あり、

ひいては「礼」

の研究に関係してきている。

ここでは、まず

第二節で

今古文論争におい

て、

今文学者に対

する

劉師培の反論を考察していく中で、

その特

徴を考え

、次に第

三節において劉師培の春秋義

例説と

その意味に

―っ

(4)

に孔子が自分の考えを示すため、筆削を加えたものだとされる。

ところが、

『孔子改制考』で康有為

は、

『春秋』をはじめとする六経は孔子が古人に仮託して創作したものだとする。特に『春秋』においては、『孟子』膝文公下

に「

孔子燿れて春秋を作る」とあるのが有力な根拠となっている。それに対して、劉師培は『孔子作春秋説』において、「作」の字に「創作」の意味

と、

それとは別の「為る」の意味があって、ここで使われているのは後者の意味だとして、公羊荘八

(原

文ママ

)年未

修の春秋を以て已修の春秋を証す。又昭十

二年

「伯を陽に

(納

る)」

(原 文「

伯子陽」)の伝に云ふ「伯子陽とは何ぞ。公子陽生なり。子曰く、『我乃ち之を知れり、』と。側に在る者曰く、『子荀も之を知らば、何を以て革めざ

る、

』と

。曰く、

『爾が知らざる所を如何せん

、』と

、」と。穀梁・僧十九年

「梁

亡ぶ」の伝、孔子を引きて曰く

、「我損を加ふる無し。

名を正す

のみ、」と。則ち春秋の説因る所有り。三伝並びに此の説を持つ。乃ち漢儒三伝を信ぜず。専ら緯書を信じ、遂に『孔子王を称し法を制むるは、均しく春秋に見ゆ

、』と謂ふ。春秋一書実は法を制め王を称するの誼無きを知らず。

と、

『春秋』には「因る所」つまり孔子が編纂する以前の魯史

(未

修春秋)が存

在し、

これに孔子が手を加えて春

秋(

已修春

秋)

が成立し

たと述べている。そして孟子の言う「作」とは孔子が刺•磯・褒.緯•抱・損の文を加えたことであって、廉有為が言うような創作の意味ではないので、『春秋』は孔子以前に成立していたのだと主張している。この「作」を創作の作とは

異な

るというのは『論語』の記述と『孟子』の記述との矛盾を解決した点で劉師培の功績である。

さら に六 経全

体について、孔子六経を訂するに、述べて

作らず。

具さに 史記

孔子世家に見ゆ。……孔子書に於て僅かに

編次

の功を施す。

(5)

次に、劉逢禄は、『左伝』の作者とされる左丘明は、『論語』公治長に見える人物と

は別

人で、『国語』の作者である失明の左丘明であるから、孔子から口授を受けた

はずが ない、

と主張している。古来左丘明についてはさまざまな説がある。先ず、その姓と名はどう考えるかという点について、劉師培は

『劉 氏論 語正義 左丘明姓

氏駁

』及び『春秋左氏伝答問』で論及して、孔穎達の

『正義

』の左が姓で丘明が名とい

う説と、

朱葬尊の『経義考』と劉宝楠の『論語正義』の左丘という複姓と明という説を紹介した上で、左伝

•国

語確かに両人作る所に非

ず。

左丘は亦複姓に非

ず。

丘は

其の姓、左は其の官、

説は

愈正

嬰癸己類稿に詳らかなり。(『春秋左氏伝答問』)

と、

左は官名、丘が姓、明が名であるとした上で、左という官名に言及して、礼記・玉藻に、動けば則ち左史之を書し、言へば則ち右史之を書す、と云へば則ち、

は春秋なり。

言 書なり。大戴礼記盛徳篇慮注以て、 は尚 左史

は則ち太史なり、と為すに

拠り

、又漢

志自注、及び論語孔注均

しく、

丘明は魯の太史と云

ふに拠れ

ば、

是の丘明即ち魯の太史なるこ

と、

蕨の証甚だ昭かなり。故に作る所の伝、左氏と表題す。此の誼愈未だ言はざる 所、

柳か此に補ふ。

(同

前)

と言って、左丘明の「左」つまり『左氏伝

』の

「左

」は「左史

」という官名であり、左史つまり太史である丘明 ている。 ……孔子詩に於て取舎有れども増益無し。……孔子の従ふ

所、

周の礼なれど

も、

芳夏殷に潮る。……春秋実は古史を援きて成る。

均しく孔

子六経を作らざるの証なり。

(『孔子作春

秋説』

附記)

と、

六経は孔子の制作にかかるのではないことを証して、六経が孔子の創作にかかるという今文派の説を否定し

(6)

は事を中心に述べる『左氏伝』の作者として適当なものだと主張している。劉師培は『春秋原名』において先の引用中に見られた『礼記』「玉藻」やその他の文献にみら

れる「動

けば則ち左史之を記す」の文と、『漠書』「律暦 志」に見られる劉欽の『三統暦』に述べられる『春秋』の名が、それぞれ陰と陽の中であり、動作が中にあたるように書かれたものだ

という説を関連づけて

、未修『春秋』

は、

左史が、

その行動を中からはずれないための戒

(6) めとして記録したのだとする説を述べている。ついで『古代春秋記事成法孜』で、

孔子修むる所の魯史、春秋を以て名づくれば則ち、事を記すの

法、

必ず史官記す所に符す。故に経を以て教 授するに、

恒に附記の文有り。丘明作れる伝は、即ち斯に本づく。〈中略〉丘明述ぶる所

、孔

子記す所に本づ

く。故に事を記すに詳かなるを貴び、古春秋の成法に符するを上とす。……

と、

『左氏伝』

は孔

子を経由して左史の記事法に基づくと述べている。ごのように「行動を記

す左史

」と、

事に詳

しい『左氏伝』を結びつけて

『左 氏伝』の成立及び性格を解明している点

は劉師

培の功績だと言えよう。

また、『左氏伝』

が、

孔子の『春秋』を修めた本旨を伝えているこ

と、

そして『公羊伝』『穀梁

伝』

との関係を、

『春秋三伝先後考』において次のように述べている。春秋一書、

義有り、

事有り。孔子記す所、僅かに経文に限るのみに非ず、恒に口述に資る。即ち史記、十二 諸候年表序所謂「七十子

の徒、

其の伝を口

述さる、

」なり。年表

序又

言ふ

「左丘明、

弟子人人端を

異に し、

各々

其の意に安んじ、其の真を失ふを擢る。故に孔子の史記に因りて具に其の語を論ず、」と。是れ丘明の世、春 秋を説く

者已に各々殊な

り、

聞く

所同じからざるに因り、

或は

臆を以て経を解き測る。

丘明伝を作るに事を

誌すこと特に詳かなり。即ち

漢書、

藝文志の所謂

「丘

明本事を論じて

以て

伝を作る、」なり。惟ふに漢志に又

(7)

は略

ぼ丘明の

説を聞

くなり。

言ふ、

「其の

書を

隠し

宣べず、

」と。

孔子

の門

人尽くは左氏伝を賭る克は

ず、

或は

梢や丘

明の説

を聞き、

或は丘明誌す所の他に於て復た稽ふる所有り。左伝と或は同じ

く、

或は 異なるに致

り、而して公・穀諸家以て

起く

。〈中略〉蓋し、左伝

の書

、公穀二

家均し

く未だ賭

ず。

其の左伝に同じき者は、則ち拠る所の

書同

じ、

これは、劉師培の『左氏伝』に

対す

る基本的

な立 場を示 して

おり、『春秋三伝先後考』以外の所でも、

しば

しば

主張されている。つまり、

左丘

明は孔子から直接教授を受けているから、より正確に孔子

修経

の本旨を伝えているので、

他の二伝より優

れているとするのである。これは劉逢禄の『左氏春秋考証』の、

夫子

の経、竹吊に書するも、微言大義は、

書を

以て見るべからざれ

ば、

則ち瀞夏の徒之を伝ふ。丘明は蓋し魯の

悼の

後に生まれ、徒だ夫

子の

経及び史記

・晋

乗の類

を見るのみにして、而して未だ口授の微旨を聞

かず。

とい

う説

に対

しての反駁である。

先の 引用

に続いて、劉師培

は、

桓諏『新論

』の 説を引

いた後で、『左氏伝』『公羊伝』『穀梁

伝』

の経に示された事実の説明で相違する点を

引き

、『史記』

十二

諸候年表の文章

を立説 の根 拠と

『左氏 伝』が より正確に事実を伝えていることを証明している。また、さきに引いた『春秋三伝先後考』で、『公羊伝』『穀梁伝』はともに、『左氏伝』

に比

べると劣るものの、やはり孔子修正の意図を伝えているという点で、

夫の

二伝の文、晩出に係ると雖も、

然れ

ども

、「所侠」「叔術」の諸條、左伝の鋏くる

所を

補ふに足る。即ち、左伝と説を殊にする者有るも、亦伝聞の異を徴す

るに 足る。と評価している

。こ

の点で『左氏伝』を孔子の微言大義を

全く

伝えていない、劉款による偽作だ

と全

面的に否定

(8)

する今文派の態度と鮮やかな対照を成している。『公羊伝�一『穀梁伝』の二伝と、『左氏伝』と

は、

その内容が、前 者は「春秋の義」を説き、後者が史実を詳しく伝えるという点で、また『公羊伝�ーは家族主義的で肉親の情を何

よりも重んじるのに対して、『左氏伝•一

はむ しろ肉親の情よりも君臣の義の方を優先させるというようにその倫理

観が

全く 異なるという点で、対照的な性格を

持つ

ものである。さらに清末の今文派・古文派の政

治的

対立の激し

さを

考えると、劉師培の主張は、『左氏伝•一の弁護であって今文否定とは言いが

たく、

康有為ら今文派の古文否定

に比べて力強

さを 欠くと言えよう。それはもちろん劉師培の依って

立つ

資料が実際に『公羊伝』『穀梁伝』を否定

しないことにもよっているのだろうが、むしろその主な原因は

第三 節で考えるように、劉師培の春秋義例説が漢

儒の説を引き、漢儒

『左氏伝•lの義例説が、『公羊伝』

『穀梁伝』の義例説に依るとこ

ろが多

いた

め 、どうして

(8)

も『

公羊伝l『穀梁伝ーを一概には否定するわけにもいか

ないと

いう点にあるのではなかろうか。

次に、『左氏伝』の伝授に関して、劉逢禄

は『

左氏春秋考証』で、『春秋序』の疏に引

く「

左兵明ー曾申ー呉起

楚人鐸叔ー虞卿ー荀卿」という伝授に対して、

曾申と呉

起の間の伝授に

疑いをさ

はさみ、さらに荀卿

は『

梁伝』を治めたのであって、『左氏伝』を治めてはいまい、と述べている。これに対して劉師

培は

『漢

代古文学弁

誤』「弁明以前漢代之文

」や

『群経大義相通論』において、荀子

は『

左氏伝』を伝えていることを証明し、さらに

(11) 『春秋』三伝 全て にも通じていたことをも述べている。

ま た『周季諸子述左伝考』や『読左剖記』では、荀子の 門人の書である『韓非子』や『呂氏春秋』が『左氏伝』を多く引用する

ことで

、間接的に荀子が『左氏伝』を伝えていることを証明している。そして荀子を、荀卿、左伝を伝ふると

も、公

・穀二

伝に於て

短を舎て長を取る。後儒の一を執りて百を廃する者と逍かに

(9)

異なれり。此れ其の学術の大成を集むる所以なり。(『群経大義相通論

』「

左伝荀子相通考」)

(後

の儒生は)遠くは孔子作経の心に乖き、近くは荀子伝経の例に違ふ。(『春秋左伝先後考』)

と、

荀子を経を伝えたという点で、孔子に次ぐ地位にあると評価している。それは、おそらく荀子が三伝を兼ね治めたという点と、漢儒の学、特に魯学は直接的には荀子に源を発するものである点を評価したものであろう。次に今文•古文のテキストの問題につい

て、

従来は、今文とは秦の焚書によっていったん滅びた経を漢代になって復元したテキストで、古文とは焚書を免れたテキストだ

とさ

れてきた。それに対して康有為は、孔子の時代に用いた文字は秦・漢代の豪書であって、文字という点では、決して今文

・古

文という違いはなく

、ま

た秦の焚書は六経に及んでおらず、漢の十四博士の伝えたのは、いずれも古くから伝わった完全なテキストだとする。そこで今文・古文の違いとは、その内容の面での違いにあると主張する。それに対して劉師培は『漢代古文学弁匪』

(12)(13) 「論古経亡子秦火」

「論今古文之分僅以文字不同之故」

『六経残子秦火考』

・ 『古今文考』において、従来の説

をよ

り多くの資料を挙げて補強した上で次のように言う。今文・古文ともにその基となるテキストは同一であって内容もほとんど差がな

く、

単に字体が違うだけであり、今文

・古

文とは文字通り字体の名前に過ぎない。ところが後世の儒者が経を読む際

に、

字体が異なることで解釈が異なったために学説の差が生じてきた、と。そして、今文・古文が漢代になって対立するようになった過程を次のように考えている。六経孔門に訂せら

れ、

〈中略〉春秋の学、子夏に伝はり、一は子夏より公羊高に授けら

れ、

公羊氏世々其の学を伝ふ。一は子夏より穀梁赤に授けら

れ、

再伝して申公に至る。高は斉の民、赤は魯の産、是よりも春秋斉・魯の学有り。〈中略〉是れ、漢初の経学初めより今古文の争い無きなり。祗だ斉学・魯学の別有るのみ、を曰

(10)

ふ。

凡そ 数経の同じく魯学に属する者は、其の師説必ず同じ。

凡そ 数経の同じく斉学に属する者は、其の大義も亦必ず同じ。故に西漢の経師数経を並び治むるもの多し。誠に群経に通ずるに非ざるを以てす

れば、

ち一経に通ずる能はざればなり。蓋し斉学は典章に詳かにして、而して魯学は則ち故訓に詳かなり。故に斉 学は今文に属すること多くし

て、

而して魯学は古文に属すること多し。(『群経大義相通論』

序)

と、

漠初の儒者は、今古文の別は無

く、

魯学·斉学という学風の違いがあるだけで、しかも、数経にわたって学

習していくの

が普

通であった。

しかし、

前儒経を治むるに左右采獲

し、

一家の言に圃らず。景•武の際に及び、董生明らかにする

所、

惟だ公羊に在るのみ。是に由りて公羊を執り、左.穀を抑ふ。

儒生左.

穀を伝ふる者、各々一伝の義を持

ち、

以て相抗衡

す。……(『左氏伝三伝先後考』) と、

董仲舒が公羊学の専家として、他の学を抑えたことから一家一伝となり今文派・古文派が

対立

するようになっ

合うものである

という説と同

じく、

たとしている。ここで劉師培は、今文派・古文派の対立が生じた時期を、

資料的 に考えうる最も遅い西漠中期以降に考え、また今文・古文の対立の原因を今文派に帰している。以上のように、荀子が『左氏伝』

を中心に三伝を兼

ね治め、漢初の学者たちも数家の学を兼ね治め、今古文の

別はなかったというのである。

これ

らの点にも

また、

三伝が

成立 した時点では、三伝は『左氏伝』を中心に

補い また春秋三伝を含む今文・古文の経はもともとは対立するものではないとい う、

劉師培の考えが現われている。次に劉逢禄が、『漠書』儒林

伝に 記さ れる

『左氏伝』の伝授を

疑う

のに対して、

参考図

に示 される伝授を

示し

(11)

て、

劉款が張蒼ひいては荀子以来の伝授であると証明している。さらに、劉欽に至りて、

秘書

を典

校し、

古文春秋左氏伝を見る。又雷方進に従ひて大義を質

問し、

伝文を引きて経を

解し、

転た相発

明し、

而して章句義理以て備はる。蓋し秘蔵の経伝を以て主と為し、而して兼ねて張・賣以

下相伝

ふるの大誼に通づる者なり。

(『左氏学行於西

漢孜

』)

と、

劉欽を非常に高く評価している。そして、

西漢

に『左氏伝』が存在していたことの証明として、『淮南子』

に多

く『左氏伝』が引用されること(『読左割記』)、また、高祖・文帝・哀帝の出した政令の類にもまた『左氏伝』が引用されること(『左氏学行於西漢孜』)を挙げて証明している。しかし、これだけでは劉逢禄・康有為が『左氏伝』は、本来『春秋』とは関係ない書(即ち劉逢禄の言う『左氏春秋』、康有為の言う『旧本国語』

)が

あって劉欽はそれに手を加えて『春秋左氏伝』を作ったとする説を否定するには不十分である。そこで、『漢書』藝文志には『春秋古経』なる、『公羊伝』『穀梁伝』が基づく『春秋』とは異なる経が存在すること。『説文解字後叙』に魯の恭王が孔子宅を壊した時に得られたという『春秋』

と、

張蒼が献上したという『春秋左氏伝』のことが記されているが、これが劉款が秘府で発見したと言

『春秋古経』

『春秋左氏伝』であり、これが張蒼を源として伝わったとされる民間で流布していた『春秋左氏伝と一致したこと。『史記』 「呉太白世家賛」に 「古春秋を読む」として『左氏伝』の文を引くこと。『漢書』 「雷方進伝」に 「方進春秋左氏伝を授く」とあるこ

と、

等で、『春秋』の伝としての『左氏伝』が存在したことを証明している。(『左氏学行於西漢孜』・『読左割記』)以上を通観してみると、公羊学派の古文批判に対する劉師培の反論の要旨は次の二点にまとめることができる。

(12)

11が劉逢禄か疑った伝授 貫長卿 買嘉I買損之

荀卿)贔蒼ー買

i]

貫公 八参考図>西漢『左氏伝』伝授

以左氏通穀梁「ー粛望之一―手咸II劉飲 鷹|手更始rl[□

1

いい術陳欽口 買厳

一王葬

張散

l

張吉杜鄭

張疎

以左氏通 公羊

(13)

一、

今文派は、 『左氏伝』

を、

劉款が本来 『春秋』と関係ない書物をもとに、 『公羊伝』 『穀梁伝』の体裁と以たようなものになるよう改窟して作ったものだとする。しかし 『春秋』三伝を比較すると、『左氏伝』が先行していたと思われる点と、先秦•秦.漠初の文献に、 『左氏伝』と一致する文が多くみら

れ、

中には 『春秋』の名と結びついて示されるものがある点で、『左氏伝』は偽書ではな く、

確かに 『春秋』の伝である。

二、

武帝以

降、

『左氏伝』と 『公羊伝』 『穀梁伝』を兼修するということがなくなり、今文派•古文派の対

立が 生じた。それは博士が学館に立って禄利を得られるようになったためである。『春秋』三伝はその内容に

優劣 こそ

あるものの、本来同じく

孔子、

さらにさかのぼると周の史官の法を伝えるものである。荀子など漢初までの経師は三伝に通じていて、 『左氏伝』を中心に 『公羊伝』を助けとしながら孔子修経の本旨を理解したのであって、どれか―つの伝だけで 『春秋』の義を理解しようとするのは間違っている。また、 『孟子』

「膝 文公の「作」と 『論語』「述而」の「述べて作らず」の間にあった矛盾を解決した点、 『

左氏

伝』を左史と結びつけた点、先秦

•西 漢に明らかに『左氏伝』の文が 『春秋』と結びついた形で通行していたことを証明した点等は劉師培の功績である。逆に、

(左

)丘明を孔子の弟子と考える点、 『左氏伝』を 『公羊伝』 『穀梁伝』に先行したものだとし

、三

者の類似点は(左)丘明の説を公羊・穀梁が取り入れたものだとする点は、納得しがたい面がある。この節で考察した劉師培の特徴を考察すると

、春

秋三

伝は内容的に対立するものではなく、る事が重要であるという考え方が基本にあると考えられる。 また三伝を兼修す

(14)

第三節

春秋義例説

春秋

学は

、春秋には孔子の考え

が示

されているということを前提にする。一見すると事実

を羅列し

ているに過

ぎな

い春秋に、どの様に孔子

が考

えを示しているかというと、事実を記録する際にその書き方に原則があり、その原則とは違った書き方をするこ

とに

を示していると考えるの そしてその評価が孔子の考えの評価を示すわけである。よって、その事実 が春

秋学

の立場で

ある。

そこで孔子の考えを明らかにするために

は、

原則に従った書き方をしているのはどこで、原則

と違 った

書き方をし

ているのはどこかを知らねばならない。

そのためにはまず原

則と

は何かということを知る

必要が

ある。その原則を義例と呼ぶ。だから義例の研究は経学としての春秋の中でその根幹を成していると言える。しかし、義例は明文化された形では残っておらず

、各

伝に見られる記述から帰納的に把握するしかないのである。それも『公羊伝』『穀梁伝』は義例に関する解説が中心で

ある

から比較的容易に義例を把握できる

が、

『左氏伝』は事実の詳細な説

明が

に主

なって義例に関する説明が少

ない

こと

から

その義例を把握するのが難しい。この節では劉師培は『春秋』の義例をどのようなも

のだと 考え

ていたかについて考えてみたい。まず劉師培が考える、『春秋』成立のプ

ロセ

スを、

義例を中心に簡単にまとめると

、次

のようになる。『春秋』とは歴史書一般の名称であり、もともとは左

史が

記した周の歴史書の名称である。現在『春秋』経として残っている魯の『春秋』もまたその―つである。ところで、

左史

の記録法の基準は動作一般が周の「礼」という規範に従っているかどうかという点に在る。従って左史は君子の行動が礼から逸脱した

時、

それを非難して

(15)

子の『春秋経』

は、

記録

法は周の史官

(左

史)

貶めた事き方

をし、

礼に

かなった行動をした時は通常の書き

方をし

た。そうい

う意味で

『春秋』の記

録法

の原則、つまり義例と周の礼は相表裏す

る関

係にあった。ところが、孔子の時代には、

周王

朝が衰え国が乱れて、左史の記事法も義例からはずれた

やり

方を

する

ようになってきていた。そこで孔子は本来の記録法に従った歴史を残そうと考えた。その材料となったのが、魯の歴史書つまり魯の『春秋』であ

る。

また、礼についても無視できない乱れが生じていたので、孔子は『春秋』

を改

修す

る際

、行動の評価の基準

、つ

まり礼も再検討した。だから、孔の記録法によったのであり

、評

価の基準は周の礼によったのであ

以上が劉師培の考

える

『春秋』経成立のプ

ロセ

スであ

る。

従って、

実際

の事実と『春秋』の記事を

比べ

てみない限り、『春秋』に示され

てい

る評 価、

すなわち「春秋の義

」と

いうものは解らない。しかし、孔子の時代から遠く離れると具体的な事実関係は解らなくなってく

るか ら、

伝の内容と義例を

照ら

し合わせてみて、そこから孔子が示した春秋の義を読みとることにな

る。

これが春秋学において義例研究が

重要な理由で

ある。

ところで、一般に通用している『左氏伝』の注は杜預に

よる

『春秋経伝集解』

であ り、

杜預の注は『春秋釈例』に示された杜預の義例説によって

いる。

その杜預の義例説は、『春秋』の例を、周公が定めたという

「凡 例」

、孔子の新意

による

という

「変例

」、魯の『春秋』

(未

修春秋)の記事をそのまま用いたという「非例

」の三

つに分け、特に

「変例」を措定

する点

に特徴が

ある。

だが劉師培はそのう

ちの五十

凡例と

呼ばれ

る「

凡例

」を次のよ

うに批 判し ている。

「凡 例」

とは杜預によ

ると、

その凡を発して以

て例

を言

へる

は、皆経国の常

制、

周公の垂

法、

史書の旧章なり。

仲尼

従ひて之を修め、以

(16)

て、

て一経の通体を成す。其の

微顕

にし

て、

幽を閾き、

義類

を裁成せる者は、皆旧例に拠って義を発し、

行事

を指して以て

褒貶を正

す。

(『春秋経伝集解序』)この凡例と言へるは、

乃ち

周公制むる所の礼経なり。(『春秋左氏伝』隠公七

「謂之礼

経」注)

つまり、未修春秋に用いられた周の史官の間に伝えられた記録法である。劉師

培は、

この「礼経」の部分に対し

是の礼経は、

即ち

周典なり。周典の例は、国例なり。春秋の礼は、史例なり。史例と国例同じからず。左伝の凡例は、即ち周公定むる所の礼経と謂ふがごときは、是れ史例を国例の中に混へ

るな

り。(『読左割記』)

(14

)

『春秋』

の例と周礼の礼を直接的に結びつけることを批

判し、

さらに、漢儒の旧説、

凡と 不凡と

、新旧の別元し。五

十凡

を以て周公の礼経と

為さず

。明けし、経孔子の作る所と為ること。経文の書法、勝め孔子よりするなり。杜預以下悉く五十凡を以て周公の旧典と

為す。

魏晋

以前未だ斯の説を聞

かず。

(『春秋左氏伝例略』)

と、

漢儒には「凡例」•

「変例

」といった区別は

なく、

五十凡例と変

例の

したも区別は杜預が勝手に捏造

のだと

批判している。では劉師培の考える

「凡

例」とは何かというと、左伝載す

る所

の凡例、乃ち丘明師の説

に拠

りて以て経の旨を釈する者なり。(『読左割記』)

と直

接的には左丘明の手になり、周の史官から孔子を経て伝わったもの

であ

る。では劉師培は誰の義例をとるかというと漢儒の説なので

ある。

そもそも杜預が『春秋釈例』

で「

凡例」•

「変例

」.「非例」という独自の義例説を立てたのは、漢儒の説が公・穀二伝の義例を混えるからである。しかし、

第二節 で述

べたように劉師培

にと

って

(17)

三伝は対立するものではないのであるか

ら、

公・穀二伝の義例を混えるからといって漢儒

の説を否

定する杜預の

態度

五十凡 は、

例は乃ち左氏

一家の学、

公・

穀に

異な

る。蓋し褒

•韓

・抑

・損の

義、

三伝同じうする

所なり。

(読 左割

記』

( 15

) と批判されることとな

る。

そして劉師培は漢儒の義例に対して『春秋左氏

伝例略』

で十五

条に わたって考察している事からも、彼が漢儒の義例説に対して左担していたことが解る。さて章柄麟は、劉師培が革命派に参加するきっかけを作った人物で

あり、

日本滞 在期に

はと

もに

『民報

』の

編集に当た

るな

ど、

一時期その政治的

立場

は非常に近かった。また劉師培が革命

を裏切っ

た後も

、行方不明になっ

( 16

) た劉師培を捜すな

ど個

人的にも親交のあった人物である。また、学術面においても、『春秋左伝読叙録』で劉逢禄

(17

)

『左氏春秋考

証』に反論する

など

、そ

の経学上

の立

場も近か

った

。そこで、劉師培の春秋義

例説を考

えるにあたって、章柄麟と

比べ

てみることで劉師培の考えの特徴が明らかになると考えられる。一九〇七年に章柄麟と劉師培は

書信

を交換す

るこ

とに

よっ

『春秋左氏伝』

の問

題、

特に杜預の釈例を

どう

評価するかを中心とした学術

(18 )

上の諸問題を論じた論争

があ

る。

これを

考察する事によって、両者の違い、ひいては各々の特徴を考えてみたい

まず

劉師培は、惟ふに今の弁析せんと欲する所の者は、則ち

前函賀

・服左

氏を釈するに多く公・穀六家の例を掴取するを疑ふ。

然れども

静か

に以て之を思へば、左氏

の例

僅か

に五

十のみならずと覚ゆ。征南の凡例実

に未

だ備はらざ

る事多

し。左伝の例凡字を著わし以て標と為すもの有

り、

凡字を著

わさざ れども

、而れ

ども

亦例

と為すべき

(18)

者有り。征南其の凡字を著す者に拠りて以て言を為す。故に釈する所の例僅かに五十條のみ。此より以

、外

左史の侠例伝文に拠りて類求すべし。

(『答章太炎

論左伝書』)

と、

杜預の凡例は『左氏伝』の伝文中に

「凡そ

」と書いているものだけを機

械的 にと ってい るが、

そのほかにも例に従ったと考えられる記述はたくさんある。だから杜預の五十凡例だけでは不十分で、

賣達

・服虔などの漢儒の義例を補ってもよいと主張する。それに対して章柄麟は、

始め謂

へらく、

「劉

・ 賣 諸儒、

曽て左氏の

微言

を見、

或は

其の大義略々二伝

に同

じ、

而れども杜征南

見ず

、遂

に諸儒師法を

詭更

するを疑

ふ、

」 と。

後復

た侍中奏する所、

「左

氏公羊と同じき所の

者、

什に七八有り、

ふ有る 」 と云

を紬繹し、

乃ち知る、左氏初めて行なは

れ、

学者その例を得

ず、

故に公羊に博会して、以て其の

説に 就く ことを

。〈中略〉征南諸儒の後に生ま

れ、

専ら五十例を以て

槃褐

と為し、雑へて二伝を引かざれば、則ち後儒の先師より勝れる者なり。

(『丙午与劉光漢

書』)

と、

賣遣を初

めと

する

東漢

の経師は『公羊伝』『穀梁伝』からその義例

を借

用して『左氏伝

』に用いた

のであるか

ら、

彼らの言う義例は信用できない。逆に、『左氏伝』の論理を追求している杜預の解釈の方

がす

ぐれているとするのである。ここに劉師培と章柄麟の根本的な違いがある。しかし、章柄麟は杜預の意見にすべて同意したわけでは

なく、

然れ

ども是

(五十

凡例

)を以

て周公の旧典と為す

は、

抑々又其義趣を失ふ。其間

固よ

り史官の成法有

り、

赴告諸例のごとき、是なり。

萩よ

りして

外、

大抵素王

の新

意、

賓礼に会

・盟有

りて宗

・蜆 無し、

官職

孤卿 を汰

して大夫を存

す、

其の周・魯の旧史に非ざるこ

と、

固より已に明白なり。公羊殷礼を以てすれ

ば、

自ら文誠

(19)

子の考 えに

よる

部分、

る、

つま

り周初の史官の法であると考

えて

いる。 以上の論争を

整理し

その要点をまと

めてみる

と次 のように

なる。

第一に

、章柄麟も劉師培も、ともに杜預の釈例と東漢の経師の義例いずれにも欠点

があ

り、

完全

では

ないと考

える点

では

一致して

いる

。しかし、

章柄麟

はあ

くま

でも杜預の釈例を基

本とす るのに対して、劉師培

は賣達

•服虔ら東漢

の経師の義例を基本とす

る。

第二に、

「凡

例」と

「変 例」を区別

する

ことには

反対だ が、

章柄麟

は「

凡例」

のほとん

どが、

「素王

の新法」と表現する孔

つま

「変例

」と同じ

であると考

える

。そ

れに

対して 劉師培 は、

義例は『周礼』と

一致

えて

いる。 に辞遁

す。

左史

の末師又当時の覇制を謂

ひ、

其の会・盟の礼に於て

は、

則ち

従へり

。抑

々翌

孤卿

の秩、

亦覇

制の無き所

なら

んや。

故に周官

を酌損し、

斉晋

を裁益 する

は、斯れ素王の

志な

り。

(同 前)

と、

杜預

は五十凡例を「周公の旧典」と周初に定

めら

れた

史官の法であると

する が、

それ

は誤りで

、五十

凡例の

中で

は、

赴告

に関する諸例

だけ

が周初の史官の法で、その他

は「素王

の新法」

つま

り孔 子の考えによるものだと 考える

のであ

る。

それ

に対して、劉師培は、来書に言

ふ、

「左伝

に素王

の新法 有り

、」と。

〈中

略〉此の説

誠に新奇喜ぶ

べし。

然れ

ども

之を按ず

るに、古義

は則

ち殊に然

らず、

左伝

言ふ

所の典礼、一として周官経と合

はざ

る無し。〈

中略

〉之を総するに、

左伝

言ふ

倶に周礼に係

り、

必ずしも

公羊改制の説を以て左伝に附会

し、

以て其の家法を消へず。(『答

章太 炎論左

伝書』)

と、

『左氏伝』の例と『周礼』

は基

本的に

は一

致するので、『公羊伝』や『穀梁伝』の説

を混

じえ

たと

は言え

ない

また 章柄麟が

「素王

の新法」と主張

した例

は『周礼

』と 一致する

のだ

から

、孔子の

考えとする

のはおかしいと考

(20)

さてこの劉師培と章柄麟の違いはどこから生じているのだろうか。まず、注目し

なけ

ればならないのは、

『漢

(20

)

論』

で、

余少き時左氏春秋を治め、頗る劉.賣•許・穎を主として以て杜氏を排

し、

卒の婁々攻伐を施すも、

杜の

猶ほ完にして、劉•

賀・

許・穎を為す者自ら

敗る

。晩歳『春秋疑義答問』を為り、頗る杜氏に右し、経義に於て条達せり。

(21)と言い、『自述学術次第』でもまた余初め『左氏』を治め、漢師を偏重し公羊を頗る修采す。〈中略〉数年以来釈例必ず杜氏に係り、古字古言は

則ち

漢師焉を尚ぶ。と言うように章柄麟

も、

初め

は劉師培と同じく漢儒の説を取っていたが、ある時期から杜預の説を取るようになったのである。章柄麟によれば『春秋左伝読』が前者を代表する著作

であ

り、『春秋左氏疑義答問』が後期を代表する著作である。この論争の時点では章柄麟の意見は後者である。

つま

り、章柄麟にとっては漢儒の説を取るという劉師培の説は彼自身が否定した考え方だったのである。章柄麟の説が変化した理由はいろいろあろう茄

‘王

( 23 )

森氏が言うように康有為ら公羊派との政治的決別が大きく作用しているのは確かである。しかし同じような条件にあったはずの劉師培の説が異

なる のはな ぜだろう

か。劉師培の杜預の否

定、

賣逸•

服虔ら東漢

の経師

の注

の重視と言うのは、劉師培に独自の考えではなく

恵棟

・焦

循を始めとする乾嘉学派にも共通して見られるものである。では乾嘉学派がなぜ賣達

・服虔

らの東漢の経師の注

を 重視したかというと、

その理由は次

の三

つが考えられる。第一に乾嘉学派が、五

経正義 の成立に

よって失われ

(21)

た東漢の注

を追求し

たということである。

第二に、

焦循が『春秋左伝補疏』の自序で、「杜預

は司馬鯰

の女婿で

あって、杜預の注は魏から政権を

纂奪して

晋を

興し た司

馬氏の行動を正当化するように偏った解釈をしている」

と言

うように、杜預の注の態度にも疑問があったからである。

第三 に、

乾嘉学派を代表とする清代考証学の中心は訓詰学にある。その訓詰の面では、劉師培への書簡で章柄麟も認めて

いる

ように、

賣達

・服虔ら

の東漢の学者の注の方が杜預より優れている。だから乾嘉学派が杜預の説を否定

し、

東漢

の注を

輯侠

・考

証しよ

うとしたのは

当然

であると言える。

そし

て劉師培の家学の祖である曾祖父劉文

洪もま た、

乾嘉

学派の流れを嗣ぐ学者であった。劉文演の『春秋左氏伝旧注疏証』は劉宝楠の『論語正義』

や陳立

の『公羊正義』と並んで、それまですぐれた清

(24 )

人の注がなかった『左氏伝』『公羊伝』『穀梁伝』『論語』に注を作ろうとした企画から生じた

もの

である。つまり劉文洪が手が

けた

『春秋左伝旧注疏証』は乾嘉学派を代表とする清朝考証学の集大成なのである。ここで、劉文洪の『春秋左氏伝』に対する考えを考察してみよう。劉文棋には『春秋』に対する自分の考えを述べた文章が意

外に

少ないが、

同じく

『春秋左氏伝』を研究する沈欽韓に宛てた『致沈欽韓書』

(青

渓旧屋文集巻

三)

で『春秋左氏伝旧注疏証』制作の意図

を次

のように言っている。左氏原文を

取りて 次に

依りて

排比

し、先ず賣

•服

・鄭

君の注を取り、疎通証明す

。凡

そ杜氏排撃する所の者

は之を糾

正し、

剰襲する所

の者は之を表明

す。

其の

窟氏を襲用する者

は、

――疏

記す。……

と、

賣逸•

服虔などの『左氏伝』の東漢の注の

輯侠

・考証ということが目的であると述べている。そし

て、

劉文

洪は『春秋左

氏伝

旧注疏証

』の

『注例』

で、褒•

講・

抑・損の義、

三伝伝

ふる所の春秋皆之有り。左氏に注す

る者、

惟だ

賣君の

み尚ほ梗

概を存す

。後人

(22)

其の

公・

穀の

説を

雑入

する

を議

して自ら家法を滑

へる

と為す

実は

則ち

左氏本

より其の義有り。而して

賣 君 之を伝

ふ。

君好ん

で合

併を為す

に非

ざるなり

と、

『春秋

』三伝

が同

じ内容を

伝え

てい

るの

あり

、賣誼

•服虔が

『公羊伝』 『穀梁伝』から義例を

とる

のは問題

がな

いと

言っ

てい

る。ま

た杜

預に

つい

ては

『致沈欽

韓書』

で、

左氏 の例公

・穀

に異

なる

に至

るが

ごと

きぱ

、賣·服間

々公

・穀の例を以て左伝を釈す。

是自ら其

の綽隙

を開 き、

人と

以て

攻む

るべ

し。

春秋釈例

一書

に至り

ては

杜氏の憶測為る

こと

、更

に論

ずる

無し。

と杜

預の

釈例を否定

して

いる

。以上

に述

べた

見解

は先

に考

察し

た劉

師培の見

解と

まっ

た く同

じで

ある。そして、

劉師培自身

も、

先曾王 父孟贈公

(文洪

)左氏を治

め専

ら訓 詰名物典章

を釈

して

凡例を言はず。

男に

五十

例表を

為り 均しく左

氏の

例を以

て左

伝を釈す

。其の明か

にし

き所、

概ね

訣如

に従

ふ。

杜氏の曲説

を矯 し、

左氏の家法を存すと

謂ふ

べし

。(『読左

割記』)

と、

その義例説を劉文

洪に

負う

いる

こと

を述

べて

いる

。劉師培

自身、

父祖の業を嗣

いで

、襄公

四年の項までし

(26

}

か完成

して

いな

『春秋左伝旧注疏証』

を完

成さ

せて

、賣誼、

服虔を中心

とす

る漢儒の注

を復元し、

それ

にみ

れる

義例を集

大成

した

『左伝 凡例

』を作 ろう

とす

る意志

のあるこ

とは

、その著作各所で

述べ

いる。

つま

り、劉

師培の春秋義例説は

父祖

伝来の 『春秋

左伝

旧注

疏証』

を完成

させる

ための 作業

の一

っと

して受 け継

がれたもので

あっ

た。

つま

り、

劉師培の春秋義例説は

、曾

祖父

劉文洪以来受け継がれてきたもので

あっ

て、乾嘉学派以来の伝 統的な 枠組

の中

こあ

った。

(23)

余謂 へら く、

清儒

失する所

は、

漢学の名義

に牽

かれて、而して魏

晋幹盤

の功を忘るるに在り。

と言

うよ

うに

、清朝考証学の漢儒偏

重に

対し

て批

判的 な考え

を持っ

ていた。それが章柄麟を杜預の肯定に向かわ

せる

一因であっ

たこ

章柄麟と劉師培の学説を比較すると、同じ は 確かである。

く古

文派

に属

すると

はいえ、

その内容は

かなり

異な

ることがわかる。

つま

り、章柄麟

は劉

師培と同

じく乾

嘉学派の流れを汲

む詰

経精舎

から 出発し なが らも

、公羊学派との決別を経て、『春秋左氏伝』固有の論理を追

求してい

く中 で、

内部的

により論理的矛盾

のな

い学説を成立

させ

、最後

には独

自の儒学観を打 ち出

してい

る。それに

対し

て、劉師培

は曾

祖父劉文洪以来の家学としての春秋学を受

け継

いだため、 の

中で、 曾祖父の劉文洪が漢儒の説をと

ると 決め

たこ

とに

よって、劉師培は漢儒の義例説をと

るこ

とに

なった。

ところ

が、

本来『春秋左氏伝』は、

義を

とく

こと より

事を説

くこ

とに重点

がある

ので

、『

春秋左氏伝』の説

くと

ころだけ

で義

例を帰納的

に導

き出

すこと

は難

しい

。そ

こで漢

代の儒者

たち

は『春秋左氏伝』の義例を考

える

にあたって、『左氏伝』だ

けで

は不

』『穀梁足している義例は、『公羊伝

伝』

の二

伝を援

用し た。

だから漢儒の義例説を認めようとすると、『公羊伝』『穀梁伝』を否定するわけ

には

いか

なく

なる

。そ

こで

『左氏伝』が最もよ

く孔

子の意図を

伝え

てい

るが、『公羊伝』『穀梁伝』

『左氏伝

』に

は劣 るも

ののやはり孔子の考

えを

伝えているという

第二節で

見られた考え方が必要と

なっ

てくる。

つま

り三伝を兼ね修めるという

こと

は漢

儒の義例説をとるという曾祖父劉文洪以来の態

度から決

定され てい

たと

言える

この

ように劉師培が劉文洪以来の清代考証学の

枠組 みの

中で自

説を展 開し

たのに

対し

て、

章柄

麟は

、『漢学論』

(24)

第四節 結論

三伝に矛盾がないという説をとることによって問題を解決しようとしたのである。

劉師培の春秋学研究は、公羊学派の「左氏伝偽作

説」

の否定と、春秋義例説の研究が中心である。前者の研究は、『左氏伝』そのものを偽経として否定する公羊学派との対

立が

その背景にあった。後者の研究は、曾祖父劉文洪以来受け継がれてきたものであって、漢儒の説

を輯侠

・考証するという清代考証学の伝統的な方法論に則ったものであった。

劉師培の春秋学には、『左氏伝』を中心として『公羊伝』『穀梁伝』で

補う

という、三伝兼修、あるいは『公羊伝』『穀梁伝』にも正当性を認めるという特徴があった。その原因は漢儒の説を取り、その漢儒が『左氏伝』の解釈をするにあたって、『公羊伝』『穀梁伝』の解釈を利用したということの理論付けである。つまり『春秋左氏伝』を経として捉えることの矛盾が公羊学派か

ら突

きつけられる中で、きわめて清代考証学の枠内から解決を試みた回答が劉師培の春秋学であったと考え

られ

る。劉師培は、義例説にお

いて

は、

劉文洪の説をそのまま受け継いでいると考えてよい。しかし、劉文洪が主に東漢以降の時期の経や注を考証するのに対して、劉師培は、西漢以前の『春秋』

及び

『左氏伝』に関

して、

諸子を含む多くの資料の中から考証する

こと

に重点がある。そして、劉師培の春秋学上の成果は西漢以前の『春秋』及

『左氏伝』のありようをより精密に考証した点にある。

この

『左氏伝』の経伝そのものを問題とする意識は、

(25)

は当然である。 康有為をはじめとする今文派との政治的

・経学

的な対立があってこそ生じたものであると言えよう。ところで劉文洪は、その学問を母方の

叔父

の凌曙

より受けた。

凌曙は

『左氏春秋考証』を著わした劉逢禄に私 淑し、

『公羊礼疏』を著わした今文派の人物である。また第三節で触れたように、劉文演は『公羊義疏』を著わした陳立とも親しかった。つまり、劉文漠の時代には、まだ今文・古文が根本的に対立するものとしては意

識さ

れてはおら

ず、

単に学説の違いといっ

たレ

ベル

のものと考えられていたようである。

むし ろ、

この時代の関心

は、

『五 経正義

』が成

立し魏

晋の注が流行することによって失われた両漠の注の研究

や のであろう。その中で 、宋学との対立の方にあった 企図

された『春秋左氏伝旧注疏証』は、

『五 経正義

』に採られた、

魏晋の

注である杜預

の注

を否定することに

重点

があって、『公羊伝』『穀梁伝』の今文

に対

して『左氏伝』

の優

位を説くことに及ばないの

ところが劉師培の時代になると、康有為らによって古文経が全面的に否定

され、

それに加えて中国の新しい政体をどうすべきかという政治的な対

立に

経学の問題が結びつく

こと

によって、今文

・古文

が厳しく対立するようになる。そのような時代にあっては、『左氏伝』を家学とする劉師培

の主

な問題意識は『左氏伝』の正当性の証明という方向に向かわざるを得ない。そこで、劉師培の研究の

重点 は、

『春秋』及び『左氏伝』自体の研究に置かれるようになり、劉師培の春秋学上での成

果の多

くが、西漠以前の『春秋』『左

氏伝』

に関する

部分で

もたらされた

。つ

まり、劉師培は劉文洪以来の家学としての『春秋』の大枠は受け入れつつ、その中で、『春秋』及び『左氏伝』

の成立

・伝授という方面で考証を精密化した点にその独自性がある。『春秋』

とそ の三

伝を考察すると、『左氏伝』と『公羊伝』『穀梁伝』の性格の違いは同じ経を説明する伝とは

(26)

考えられな

いほ

ど違

うこ

とは 無視で

きな

い。

この問題

は本

来孔子ある

いは儒家

とは別

個に

成立した

春秋を経

に取

り入

れた事から

生じ

た、

避け

得な

いもので

あっ

た。

更に

当時

の政

治的状況

に士

大夫 か危機感

を持つ 中で この

対立

は現

実の政治運動の問

題に

なっ

てく

ると単に

学説

の違

いで

は済

まされな

くな

って

くる。

康有為はそれを古文経の全面

的な

否定と儒学の宗教化

によ

って解決しよ

うと した

し、

章柄 麟は

経を歴史と捉

え直

すこ

とに

より解決しようとし

た。

それを、清代考証学の

伝統的な方

法に

忠実

に解

決を図

って

出された

回答が

劉師培

のやり

方であ

った

。そしてこの劉師培の春

秋学

は、

清朝考証学の実証主

義的な

性格とその限界を示して

いる

と言えるの

では

なか

ろう

か。

劉師培

の経歴 銭玄同

『左煎年表』

著述繋年』

陳凡鐘

『劉先生行述』

劉富曾

『亡姪師培墓誌名』

弔炎武

『劉申叔外伝』

察元培

『劉申叔事略』

『劉申叔先生遺書』

(以下

『遺書』

称)

『遺書』

国六 四年華世

出版局

(台北)

錯刊等 は民国三

四年寧 武南氏 排本

『遺書』

初出書名、

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