Natural Products Research Vision That Had Been Taken over from Keisuke Ito to Yoshio Tanaka
土井 康弘
DOI Yasuhiro
要 旨
日本で初めてリンネの植物命名法を紹介し、日本で最初の理学博士となった伊藤圭介
(1803~1901)は、近代日本を代表する植物学者である。江戸幕府が創設した蕃書調所(の ち洋書調所、開成所と改称)の物産方(また物産局ともいう)で天産物研究の規範を構築 し、明治政府下では多くの著書や論文を著わした伊藤圭介。同人の学を最も継承した人物 が、門人の田中芳男(1838~1916)であることに疑念をはさむ者は少なかろう。田中は、
伊藤圭介が幕府蕃書調所物産方に在勤した時代に描いた構想を実現し発展させていき、明 治・大正期に天産物研究を牽引していくことになったと考えられる。
「物産の培養」、「国内の物産調査」、「物産会の開催」、「蝦夷地および小笠原の物産研究」
などといった圭介が描いた天産物の研究構想を実現していくなかで、新たな日本を構築す るために田中芳男が果たした役割は大きい。むろん田中のみならず、賛同した人物が行っ た活動により大きな展開を見せた可能性は少なくない。河原田盛美(1842~1914)もその ような人物の一人で、明治七(1874)年に田中と内務省で接点をもちはじめたのか、後に 二人は共同研究を行うようになっているから、圭介の天産物研究の構想を引き継いだと思 われるのである。はたして、河原田盛美に影響を与えたと考えられる田中芳男は、どのよ うな天産物研究構想をもっていたのか。いかにして師の伊藤圭介から、田中は構想を引き 継ぎ実現していったのか。
本稿では、幕政期に蕃書調所物産方で伊藤圭介が主体となりどのような天産物に関する 研究を行っていたのかについて、筆者の旧稿をもとに確認した。また伊藤圭介が物産方を 去り田中芳男が中心となり活動した時期に、江戸幕府がパリ万博(1867年)に参加するな かで圭介が成し遂げられなかった「物産調査」に関わる構想を芳男が実現していく過程を 考察した。さらに、田中がパリ万博に出張するなかで、国際社会の中で日本を見つけ直す ことができるような目を養ってきたと位置づけた。
【キーワード】 伊藤圭介、田中芳男、蕃書調所、物産方、パリ万博
1.はじめに
幕末・明治期を通して一世紀を生きた伊藤圭介(1803~1901、図1)は、尾張で町医を営む時代 に『泰西本草名疏』を刊行し(1829)、リンネの植物命名法を日本で初めて紹介した。また尾張藩 医を経て、明治三(1870)年に大学(のちの文部省)出仕を命ぜられ、明治十年には東京大学理学 部員外教授に任じられ植物園勤務とともに教育博物館出仕となり、同十九年に東京大学を非職とな るまで明治政府に奉職した。その間、『日本植物図説』草部イ初編(1874)、『日本産物志』(1873~ 77)、『小石川植物園草木目録』(1880)などを著し、明治二十一年に日本初の理学博士を授与され た近代日本を代表する植物学者である。
尾張藩医時代(1847~1870)、圭介は外圧に対処するために洋学研究・教育活動を行なうととも に、藩籍を保ちながら、幕府蕃書調所「物産方」に出仕(1861~63)したことは、のちの日本にお ける天産物研究を規定する結果となった。江戸期において幕府が創設した蕃書調所は、洋書調所、
開成所と改称していくが、今日の東京大学につながる西洋学術を研究教育する一大機関であったこ とは疑う余地はあるまい。その意味で、圭介の抱いた天産物研究構想は、明治以降に同種の研究を 行う際の規範となったと考察される。
図 1 伊藤圭介像(69 歳、名古屋市東山植物園蔵)
図 2 田中芳男像(名古屋市東山植 物園蔵)
明治維新後になると伊藤圭介は、政府下で自身が体 系づけた研究規範をもとに、膨大な書物による知識と 実地鑑定能力を駆使して天産物を整理研究し、こちら も幕政期同様に注視しなければなるまい。これにより 多くの著書や論文を著わすに至り、国内外の学者から 評価を受け日本政府は伊藤圭介に学位を授与すること で自国を近代国家として世界に認知させようとしたと 考えられるからである(1)。
そしてこの伊藤圭介の学を最も継承した一人が、門 人の田中芳男(1838~1916、図2)であることに疑念 をはさむ者は少なかろう。安政四(1657)年に名古屋 で伊藤圭介に師事し、同人の学を大きく展開させた人 物が田中であることも同様であろう。田中は、伊藤圭 介が幕府蕃書調所物産方に在勤した時代に作成した建 白書「物産学ニ付存寄之趣申上候書付」で述べた構想 を実現する形で、活動していったと思われる。
しかし、この建白書は、圭介が自らの在任期に感じ た業務環境の改善ならびに新規事業について述べたも のであることを考慮しなければなるまい。圭介が「物 産方」を辞任してからは、その組織運営の一切を担う ことになった田中芳男が、時の求めに応じて圭介の構 想を加筆修正していったことは想像するまでもなかろ う。その意味で、筆者が旧稿で「物産学に関する田中 の構想は師圭介を一歩も越えるものでなかった」(2)と 述べたことは少なからず修正しなければなるまい。幕 政期ならばまだしも、時世の変化の激しい明治以降に
おいて、師の構想のみに依存していくこと自体、そもそも不可能であったと言わざるを得まい。
伊藤圭介が幕政期に、「物産方」で実現できなかった新規事業構想を、多かれ少なかれ実現して いった田中芳男は、時世にあわせて自然物の研究を次なるステージへと進ませていく。「物産の培 養」、「国内の物産調査」、「物産会の開催」、「蝦夷地および小笠原の物産研究」といった圭介の構想 を実現していった田中芳男。しかし、この過程には明治維新後に日本を作り上げようとした人物ら の意向が大きく反映していることも言うまでもないことである。その意味で、田中芳男はいつしか 師の伊藤圭介を超える必要が生まれたわけで、圭介とは違う構想に基づいても活動しなければなら なかったといえよう。政府自体の構想に加え、自ら発案するところもあったろうが、師である伊藤 圭介を全肯定することができない時期が、いずれの時にか訪れたものと思われる。圭介没後に田中 が述べた次の文面は、これを端的に物語っていると思えるのである(3)。
伊藤圭介先生は博物の大家であるけれども、殖産興業といふ方は大得意でない
数え年で七十六になる大正二(1913)年に述べたこの言葉。すでにこの時点で師の伊藤圭介は没し ている。そのためでもあろう、師に対して批判めいたことを述べてもいるのであろうが、実はそれ 以前から圭介の研究手法について田中は苦言を呈している。明治十六年十一月十三日に田中は、圭 介の孫である篤太郎(1865~1941)(4)の行く末を案じた伊藤延吉(1842~1909)、小春(1844~1922) 夫婦に宛てた手紙で、自身の考えを次のように述べるのである(5)。
今年初春申上候篤太郎君之件、今以テ学校之課程を履ましむるなし、単に本人之所好ニ従ひ学 術研究致来候。右ハ維新前之事を思ヘハ决して不可なるなく、又目今とても維新前風之学問な すには、又是が外ニ策なし。而して其人物たるや若年の錦窠翁をなすへし。今ノ世中ハ夫でハ 済まず、必す学校を経て課程を終り、而して其学課の教頭(カ)となり、世の人智を開く事を勤め、
傍ら著述して人間一般の利益をなすに至らすハ縦令博学多識大学校の教師にも劣らさるも、其 学術たる一の学校課程を脩むるなし。唯物好学問の高尚たるにあらば、亦其缺所なきに非ず。
而して、錦窠翁の左右に侍し離れ難く、又離すべからざるものならば、何ぞ是を承嗣の孫とせ ざる。然らざれバ唯他人を膝下ニ養ふと一般ならん。故ニ翁の跡継でなくハ君の嫡子となり、
君之世嗣ならバ即ち別家の子、本家の世嗣に非ず。然バ本家翁之を自由にするを得んや。翁も 本年御病気の処、御全快相成大慶之至り、実の(ママ)翁之壮健なる事驚くべく賀すべし。小生如きハ 従来も虚弱、迚も翁の没後迄(カ)生存ハ覚束なし。前條心付之侭申上候。定て御分りならん。小生 の申上候事ハ数年の後に至り御了解被下度候。
篤太郎は学校の課程を履修しないで、好みだけで「学術研究」をしており、さながら「錦窠翁」、
つまり圭介を見ているようだ。しかし、維新前ならこのような態度は一般的であったかもしれない が、こんにちではそうではない。学校に入り課程を経て、「世の人智を開く事」に勤め、「傍ら著述 して人間一般の利益をなす」ようにしなければならない。もしそうでなかったならば、たとえ「博 学多識」で「大学校の教師にも劣らさるも、其学術たる一の学校課程を脩むるなし」と述べ、田中 は次のようにいうのである。
唯物好学問の高尚たるにあらば、亦其缺所なきに非ず。
「物好きで行っている学問が高尚であったとしても、その欠けている所がなくなったわけではない」
ということか。いずれにしても、学問は遊びではないのであって人に役立てるものであると田中が 強く述べているように読み取れる。
延吉、小春夫婦は、自分たちの子の篤太郎が祖父圭介の「左右に侍し離れ難」くなっていること を憂い、圭介の門人で旧知でもある田中に相談したのであろう。このまま篤太郎を圭介のもとに委 ねておいていいのか。田中は不可と述べたのである。
そもそも篤太郎は延吉、小春の子で、本家の子ではない。そのため篤太郎を自由にすることはで きないはずだと田中は述べているが、記しはしなかったものの少なからず篤太郎を圭介から遠ざけ るべきだと思っていたのではなかろうか。病気となったものの全快した圭介に比べ、自身は「虚 弱」で圭介よりも先に没してしまうのではないかと危惧もあったろう。しかし、伝えるべきである と考えたのか、田中は「小生の申上候事ハ数年の後に至り御了解被下度候」というのであった。
学を継承してくれるとも考えていた田中芳男が、次第に自らと袂を分かっていくなか、圭介は孫 の篤太郎にこの役目を委ねていったのだろうが、親の延吉と小春は気が気でなかったろう。しかし 別の見方をすれば、田中が伊藤延吉と小春夫婦に手紙を宛てた明治十六年十一月十三日には、すで に少なからず師の伊藤圭介から学問方法などの点で脱却していたとみなすことができるということ である。はたして、この時点までに田中芳男は師の伊藤圭介からどのように天産物研究の構想を引 き継いでいたのか。
本稿は、河原田盛美(1842~1914)の天産物研究に田中芳男がどのような影響を与えたのかを考 察するための準備として、田中芳男が師事した伊藤圭介からどのような同種の研究構想を引き継い でいったのかを検討したい。河原田は明治七年に大蔵省から内務省に転出。同年一月十二日に地理 寮十二等出仕、九月十三日に同省琉球藩事務取調掛となるが(6)、同じく明治七年九月四日に田中は 内務省勧業寮六等出仕ともなっているから(7)、このころ河原田、田中の二人が同じ内務省で接点を もちはじめたと考察される。そしてこれを支持するものとして、同年に河原田が佐藤信淵(1769~
1850)の家学を敬愛し大いに農政を志していると述べたことを挙げることができよう。この背景に は、少なからず本草学に根のある天産物研究を行う田中の影響があったことを推察させるのである。
はたして、河原田盛美に影響を与えたと考えられる田中芳男は、どのような天産物研究構想をも っていたのか。いかにして師の伊藤圭介から構想を引き継ぎ実現していったのか。本来なら、田中 芳男が明治七年に勧業寮に出仕して、河原田盛美にはじめて接するまでを明らかにするべきであろ う。しかしながら紙数の関係上、幕政期までに限ったことを明確にしておく。これにより、以後の 田中の活動を考察する準備としたい。
2.伊藤圭介よる天産物研究構想の発案
蕃書調所物産方に勤務することで、伊藤圭介は次世代の天産物研究構想を生み出すことになった と思われるが、これを引き継いでいったと考えられる田中芳男とはどのような人物なのか。まず は、この辺りから筆を起こしたい。
2-1 )田中芳男の伊藤圭介への弟子入り
天保九(1838)年八月九日に千村平右衛門の陣屋のあった信州飯田に、長崎に遊学したこともあ る漢方医師田中隆三(如水、?~1866)の三男として生まれた田中芳男(8)。幼名を芳介と名乗った 頃から父に西洋のことや物理、地理などを聞き、同家にあった翻訳書を中心に読破していった。こ
れにより芳男の基礎知識は形成されたのであろうが、次第に父の医療業務にも携わることで、その 後の活動を少なからず既定することとなったものと思われる。とりわけ、野山を巡り薬種を探索し たり、天産だけでなく化学薬品をも調合するようになったことは、天産・人工物を社会の役に立て る場に奉職しようと考えるには自然のことであったろう。もっとも芳男も、医薬科学だけでなく知 識人となるべく、親からは四書五経を教授された。また、自主的に寺僧に漢学や詩文を学び基礎教 養を身につけていくのだが、「三字経」を読み、親から次のように訓誨されたことで、生涯の心の 糧を構築したといえよう。
人たる者は世の中に生れ出たからは自分相応な仕事をし世用を済さなければならぬ
安政三(1865)年三月、名古屋へ出てきた芳男は、「伯母ノ家ニ寓シ、尾張藩儒塚田ヘ通学ス」(9)
るようになったが、この時点では漢書ばかりを読んでいたらしい。しかし、翌年に伊藤圭介に師事 することになり、ついに芳男の人生の歯車が回り始める。
芳男は圭介のもとに通学し、医学、蘭学、本草学を学んだようだが、あまり学力、とりわけ語学 力は向上しなかったようである。それでも、安政五年五月に伊勢菰野山に師の圭介をはじめとして 本草学者ら十数名とともに採薬旅行に出かけたことなどで、自然物研究に生涯をかける気持ちが固 まっていったものと思われる。父からは「本草学を以て一生涯を済ませるものではない」と誡めら れても、募る思いは抑えきれなくなっていったのか。いったん自宅に帰ったのち、文久元(1861) 年に伊藤圭介が幕府蕃書調所の物産方に出役するにあたり、同人に随行して江戸に赴くのであるか ら。
2-2 )蕃書調所物産方への伊藤圭介の出役
伊藤圭介が幕府の蕃書調所に赴くことになった理由は、新たに創設された「物産方」を運営して いくことを求められたからであった(10)。幕府側は、蕃書調所を仮称「洋学所」として設立準備を した段階で、どのような研究教育の部署を立ち上げたらよいのかを構想しており、「物産方」もそ の一つであったらしい。研究対象として掲げた「産物」について、海外での状況を次のような観点 で調査することを構想しているのである。
是者国々之産物、何々者有之候而何々者無之と申義、幷何を食し何を着候哉、耕作樹芸諸植物之仕 方、薬石其外諸科諸材迄都而取調可仕候
この海外の「産物」、つまり「物産」と同義であるため、特別な事情がない場合は、本稿では「物 産」と表記することをここでは明確にしておきたい。ともあれ、これを把握したいとする幕府側の 構想を実現するために、実務に携わる組織が必要となるが、蕃書調所頭取の古賀謹一郎(1816~ 84)と頭取助の勝麟太郎(1823~99)は建白書を作成し、実現に向けて動いていく。
文久元年四月に連名で建白書を作成し、「物産学」という学問を「必要之学科」で「国家御経済 之根本」であると位置づけた古賀と勝。開国により生じた物価高騰対策として、物産を統制するた めでもあったろう。万延元(1860)年四月に国益主法掛を設置したことと軸を一つにすると考えら れる。
古賀と勝はいう。物産学を「考究」することは「格別之面倒」で、「多年」「懈怠」なく取調べな ければうまくいかないと。いまは「追々外国へ交易」を許すようになっている時で、特に「御国地
内之物産」を調べておかなければ、差し支えることがある。そのため「動植金石類」の見本を取 り、「其品之善悪高下等」を明白に見極めたいとするのである。
この建白書で古賀と勝は、巧者の人物三人を「物産方」に出役させたいとするが、その候補とし て幕府側が目していたのが伊藤圭介と飯沼慾斎(1782~1865)であった。圭介は上述したように、
日本で初めて「リンネの分類法」を紹介した人物。それに対して慾斎は、リンネ分類とともに、尾 張美濃本草学のお家芸的な「印葉図」という特殊技法などを駆使した『草木図説』三十巻(1856~
62)を著していたことに幕府側は着目したものと思われる。
仮称「洋学所」から蕃書調所を設立する際に幕府側が抱いていた構想。ここには伝統的な本草学 的分類ではなく西洋にも通用するような分類体系で「物産方」に業務を遂行させようとした形跡を 感じさせる。そのため「リンネの分類法」に巧者であった伊藤圭介、飯沼慾斎の登用に思い当たっ たのだろう。また幕政期には実現しないが、『草木図説』のような図譜を作成することも構想して いたことは、明治以降に伊藤圭介が実現した企画を考えれば容易に想像がつこう。残念ながら、飯 沼慾斎は諸般の事情で「物産方」には出役できなかったが、伊藤圭介は、再来日していた旧師シー ボルトとの対面を約束として、蕃書調所教授方の箕作阮甫(1799~1863)から出役を打診される。
圭介にとってそれほど江戸行きは利点のあることではなかったが、箕作の申し出を受けることにな った。
文久元年十月二十五日に江戸に到着した圭介は、当初からの約束でもあった横浜で旧師シーボル トと十一月十日、十一日に横浜で田中芳男らとともに対面を果たす。以後圭介は腰を据えて蕃書調 所で業務を行なうことになったであろうが、圭介を補佐する人事が矢継ぎ早に行われる。文久二年 三月十一日に足立栄建(1810~64)(11)が「物産学出役」、同年同月二十日に嶋主馬助(生没年不明)
が「物産学稽古人教導手伝」、そして圭介の江戸行きに随行してきた門人の田中芳男も同年五月九 日に嶋と同役となったのである。これにより圭介出役時における正式な物産方の職員は出揃った。
また職員に準ずる人物として、非公式に「下役」もしくは「御出入」という名目で、六月から植木 屋吉三郎(1799~?)(12)を雇い入れ陣容は固まる。
2-3 )「物産方」の運営構想
幕府側が伊藤圭介に一任した形で進められた「物産方」であるが、同人在任期にどのような運営 をしたのかについて明確に物語る史料に恵まれない。いま知り得るのは、物産方の設置目的でもあ る殖産興業の充実をはかるためであろうか、自発的に楓より砂糖を製造するため翻訳を行ない子息 謙三郎(1851~1879)が尾張藩邸で実践したことが見当たる程度である(13)。
いわば、綱領や職掌も明確でないまま、設立段階の幕府側のおぼろげな構想を、その時々の求め に応じて活動していたにすぎない「物産方」。裏を返せば、職員たちの気持ちややる気次第で、大 展開をもしていく可能性も秘めていたともいえるのではなかろうか。いま伊藤圭介が、文久二年十 二月に提出したと考えられる「物産学ニ付存寄之趣申上候書付」から、物産方の実態を垣間見るこ とができる。
圭介はいう、物産学とは「万国之品物一切草木鳥獣虫魚金石等多識之学」であり、書籍と実物と を参考にして研究する必要がある。「蘭学、英学初教授方洋書中物産江付候名目難相分候品々」を
「一々吟味」するという業務を物産方は引き受けており、洋名をはじめ和産があるものは和名や
「形状之説等も取調」、漢名もわかれば記して明細に物産方はしている。しかし、このような実務を 行うにも、創設以来書籍も実物資料も集まらず、出役の輩が銘々に持ち寄り研究・教育を行なって いるのだと。
さらに圭介はいう。物産学関連の書籍類は差し入れられることもあるが、書籍以上に必要な実物 資料の収集は暗礁に乗り上げていると。このままでは鑑定ができず紙上の空論となるし、生徒に見 せて教育するためにも不都合であると圭介は説く。「種々之動植珍物等」をよく見掛けるようにな れば、自然と「博物之学を相嗜ミ申候ものも多く」なり、ひいては国益にもつながり物産方を置く 意味も明らかになると圭介は言うのである。
圭介は、近年献納になった「草木鉢植」をはじめ今後も時間をかけて実物資料を収集していくこ とについて協力を要請するが、幕閣を納得させるには、それ相応の実益を述べておくことも忘れな い。「海内海外之物産」を明白にすることで「自然貿易之基」となるとともに、「食用薬用其外民用 有益之品物相増、第一御国益」になるという殺し文句を圭介は入れるのである。
恐らく幕閣らは、問題山積する折柄で物産方を職員ほどは重視していなかったであろうが、在籍 する面々にとっては死活問題である。折しも物産方と歩調を合わせて設立されたと見られる国益会 所も廃止になるということで、圭介の心はざわめいたのではなかろうか。同所にも詰めていた圭介 が、この噂を文久二年七月五日に聞いたことで、今度は物産方の番と考えたとしても不思議ではな い。その意味で圭介は「物産学ニ付存寄之趣申上候書付」を提出するにあたり、この進言が採用さ れなければ辞職も止むを得ないとも考えていたものと思われるのである。
物産方で海外の「産物」を把握するという幕府側の当初から抱いていた構想を実現するにも支障 が生じていた圭介の在任期。業務である物産を調査するにも、洋書や標本が足らないとして充実さ せてほしいと訴えたことはすでに述べた。これと並行して物産方では『図譜』を作成することでも この欠を補おうとした様子が垣間見えるが、さらに部署自体を発展させようとして提出したのが
「物産学ニ付存寄之趣申上候書付」であった。物入り省略の時節柄であることは圭介も自覚してい る。しかし圭介は物産方の存亡をもかけたのか。「物産学ニ付存寄之趣申上候書付」で物産学研究 の隆盛を目的として掲げ、その研究部署である物産方の運営構想を鏤々述べるのである。そしてこ の内容こそが、近代以後も門人田中芳男らに継承された天産物研究構想であろうが、この内容を端 的に述べれば次のようになろう。
① 備品の充実 ② 草木類の培養
③ 日本各地での物産調査
④ 物産会ならびに物産研究会の開催
⑤ 領土問題の顕在化している未開拓地の蝦夷、小笠原ならびに海外物産の入手 ⑥ 図譜の作成
以下、上記の伊藤圭介が物産方在勤期に抱いた新規の天産物研究構想といえる②から⑥について、
同所で田中芳男がどのように実現に向けた活動をしていったのかを見ておきたい。その際、拙著に 加え、宮地正人氏による研究(14)などを最大限に活用し論旨を展開したい。
3.物産方で伊藤圭介が発案した天産物研究構想の田中芳男による実現
3-1 )伊藤圭介が尾張に帰国したあとの物産方
物産方に在任している間に、舶来物産の名称調査と物産学に関わる専門用語の抽出検討および図 譜作成を職務として行っていた伊藤圭介。突如として文久三年三月十八日に妻の病気を看病すると いうことを理由に蕃書調所が改名した洋書調書から五十日の暇をもらい、江戸を引き払い尾張に戻 り、文久三年十二月二十七日に辞任してしまう。
どうやら圭介と同年に足立栄建は辞任していたらしく(15)、物産方は残された田中芳男および嶋 主馬助が担うことになったようだが、このままでは職務の遂行も覚束ない。そもそも物産方は四名 が定員であったらしく、実質残された二人で職務を行っていたことになる。そのためでもあったろ う、元治元(1864)年八月、洋書調所が改名した開成所当局はこの部署の活動を評価して次のよう な行動に出る。出役の田中芳男、そして物産方と兼務していた、物産学が得意なオランダ語句読教 授嶋主馬助の両名を次のように評する。
諸事引請罷在、教導筋は勿論、草木培養方迄一ト方ならず骨折、御取締向等相立て行届候者
そのため、手当を改善し、役名を「開成所物産学教授出役」と改称したいと出願するのであっ た(16)。
しかしながら幕府当局は、田中と嶋の手当改善は認めたが、次のような理由で学科設立は拒否す るのである。
物産学の儀は彼我の風士も違ひ、加之是迄生育致させ候品には尋常のもの而巳に有之、御国薬 品に相用候は大体漢土の品多く、西舶渡来の品は稀に有之、左候えば差向御用にも相立不申、
学科当節諸般御入費多、百事多端の折柄、厚く御世話有之候にも及び申間敷
明治維新後に、殖産興業推進のもと自然物の研究を推進するために次第に当該の職に携わる人員を 手厚く扱おうとする態度から見れば、時代遅れと映るかもしれない。宮地氏はこの扱いを次のよう に述べるのである(17)。
財政難という古今共通の名目とともに、西洋物産研究に対する極度の軽視が歴然としている。
むろん立場はともあれ、田中芳男と嶋主馬助は物産学の研究に勢力を傾け、自らが抱く構想を実 現するため、本来不足している二人を補充しようとしたのであろう。そして後述するように、慶応 二(1866)年二月から五月まで物産調査を行った人物と(18)、「慶応二年丙寅六月十五日改」の段 階(19)を加味すると、物産方の最終段階は次のような陣容であったと推察される。
物産学出役:田中芳男 物産学世話心得:阿部友之進 物産学世話心得:長田宗十郎 物産学世話心得:田中仙永
開成所調役兼物産学出役当分助:鶴田清次郎
どうやら阿部友之進(1805~70)(20)は一旦その職を退いたことがあったのか、慶応二年物産方は 人員不足となり開成所の教授職にあった杉田玄端(1818~89)から出役を要請されている(21)。この ことは阿部が抜けると物産方では人員不足であったということになるが、後述するように圭介の構 想がようやく結実し業務量が以前より増加していた結果といえよう。
3-2 )「草木類の培養」構想の実現
以上のように、文久三年に伊藤圭介が尾張に帰った後の物産方は、田中芳男がになうことになっ たのだが、この時代になり少なからず圭介の天産物研究構想が実現していく。以下、実例を示しな がら検討していくことにする。
米や野菜といった蔬菜はいうに及ばず、人類は悠久の歴史の中で植物を実生活に役立てようとし
てきたことを今さら語るまでもなかろう。しかし、それに対して植物を愛でる習慣が根付き、とり わけ江戸時代に太平の世が続くなか、園芸がもてはやされるようになった。何らかの役に立つか、
否かは別として、植物を培養しようとする考えは、伊藤圭介の新規発案ではない。しかしながら、
これを組織的に行おうとしたところに圭介の先見性があり、「物産学ニ付存寄之趣申上候書付」の 価値は、そのあたりにも見出せるのである。
しかし残念ながら、幕府側はこの圭介の希望を叶えることはなかったようである。蕃書調所は文 久二年五月十八日に一ツ橋門外へ移転し洋書調所と改名拡大され、三番原の土地が調所の添え地と なり、草木を植える場所が出来てはいた(22)。しかしこの土地に圭介は、文久二年九月にアメリカ 公使が献納した種物(23)を培養したいと願い出たが、見合わせになり希望は叶わなかったのであ る。もっとも圭介は、すでに自身の仕える尾張藩の「四谷御下屋敷之内御花畑御不用之明地」へ植 えたいと文久二年四月に同藩側に進言し実現していた。圭介は藩側にいう。蕃書調所では「書伝而 已ニ而培養不仕」ので、「公辺おゐて御用残之薬草類」を貰い受け植えたいのであると。圭介は藩側 から五月十二日に許可をうけて長期的に借りていたようであるが、この地に文久二年にヨーロッパ からもたらされた種子を蒔いていたのか。圭介が作成した『植物図説雑纂』(国会図書館蔵)には、
どこで行ったのかは記されていないが、発芽状況を散見することができる。
圭介が尾張藩の土地に植えたものがどれだけあったのかはわからないが、物産方には前述したア メリカから献納された六四品のほか、次々と海外からの物産がもたらされることになる。文久三年 二月に竹内使節で同行した箕作秋坪(1825~86)が持帰った一八五種、英国よりの草木七十四種、
同じく二月に仏国よりの観賞用各種球根、六月には仏国よりの種物一一〇、元治元(1864)年二月 ロシアよりの穀菜種子四十九など(24)。これらが次々と物産方にもたらされたと思われる。
結局圭介は三番原の土地を使用することなく尾張に帰国したようであるが、圭介が辞任し門人の 田中芳男が中心に運営する時代になったとき同地での培養については好転を向えた。田中は洋書調 所の土地以外にも「九段坂上に西洋医学所の薬草園を開いて其所に薬草を作ることになり」、「それ の世話をする人が無いから、やつて呉れと云ふことで、西洋医学所の緒方洪庵先生、池田玄仲先生 から御依頼を受けて其薬草園の管理をするといふことで、其所に行つて世話を」したと述べている のである。文久三年正月廿五日のことであった(25)。これにより、ようやく物産方が草木を培養す ることができるようになったといえよう。
ちなみに、三番原の西洋医学所の薬園は、維新後に東京府、さらに大学南校の管理となった場所 で、現在の千代田区三番町千鳥ヶ渕戦没者墓苑のあたりである(26)。
西洋医学所の薬草園は手狭だったのか。これとは別に、物産方は植物の研究栽培を拡充するた め、慶応二(1866)年には雑司ヶ谷御鷹部屋組屋敷を「開成所物産植物場」として受取る(27)。しか しこの土地でも、本格的事業を行うには不十分だとして、翌三年二月に隣接地の御鷹部屋跡地も必 要だとして、その理由を次のように述べるのである。
差向カミツレ亜麻等各国の名産、種々仕置方可仕心組にて、夫々蒔付方割付、年々上り高概算 仕候処、御利益筋不少、且僻地窮民も舶来高価の薬品を容易に相求め候事出来、格別の御仁恵 相成るべき儀に御座候
圭介のいなくなったあと、物産方は広い土地を確保していき、国内外の種子および苗の実験栽培 および培養を行なっていったのだが、この土地に温室を作ったことは実に興味深いと言わざるをえ ない(28)。露地では栽培できない植物を、死滅することなく生育させることのできる温室は、その
後の研究に裨益となったことは想像に難くない。
それでは、伊藤圭介がいなくなった後の物産方では、どのような実験栽培及び培養を行っていた のであろうか。田中芳男の著書『新撰日本物産年表』によれば(29)、次の通りである。フランスの 蔬菜や樹木の種子一一〇種を播種、元治元年には落花生・馬鈴藷・菊芋等の栽培、さらに慶応元年 には亜麻やカミツレを試作したという。ほかにも多くの植物が実験に供せられたことであろうが、
菊芋と亜麻は同人にとって思い入れがあったと思われる。
アメリカ人が食用に供していた菊芋は文久年間に横浜にわたってきたが、これを試作していた岸 和田藩医(30)の加藤友之(生没年不明)が田中のもとを訪れ質問したという(31)。田中は洋書を調べ て一種の球根植物で「球根向日葵」と呼ばれていることを知り、これを新たに「菊芋」と名づけた という。
同じようなエピソードは、亜麻についてもある。後年農学者として知られることになる津田仙
(1837~1908)と慶応元年に協力して白菜を栽培するとともに、田中は亜麻を作り、その繊維を取 り出して布を織ったという(32)。
幸い、「菊芋」と「亜麻」の二種は後述する『海雲楼博物雑纂』には、次のように記されている から(33)、物産方でも公式に試作していたことがわかるのである。
一、カミツレ種 六月下旬ヨリ七月上旬迄ニ熟、但蒔付年々両度二月八月 一、亜麻仁種 此節刈取候付、下旬迄ニハ出来申候、但蒔付右同断 一、ジキタリス 六月下旬ヨリ七月中、但蒔付八月
一、キクイモ 九月下旬ヨリ稍枯ヲ度々掘取申候 右之通御座候、以上
寅(慶応二年)五月 物産方
幕府の物産方とは別に、時間と経済的余裕のある大名や幕府旗本衆をはじめとして、幕末になる と自然物の研究を趣味として弄ぶようになる。伊藤圭介が物産方に在籍した時期も同様で、後述す る織田宮内大輔との関係でもその様子が垣間見える。田中芳男も圭介と同様に個人的に自然物をも つ人物と接触し、のちに物産方で研究することになったものもあったろう。「セイヨウリンゴ」も そのひとつで、田中は後年に『田中芳男君七六展覽會記念誌』で回想している(34)。
越前藩主松平春嶽(1828~90)が外国より取寄せたかもしれないセイヨウリンゴ。同藩の巣鴨下 屋敷に植えられていたものを慶応二年春に接木をしたという。「それが日本に平アップル果樹を接 いだ初め」だったのである(35)。
3-3 )日本各地での物産調査
金銀の流出を防ぐため、中国、朝鮮などからの輸入に頼っていた薬種を、国内で調達することを 享保の改革の柱の一つと掲げた八代将軍徳川吉宗(1684~1751)。日本各地に採薬使と称して、珍 種のみならず常種に至るまで、土地それぞれに存在する物産を調査し培養することまでも企画し た。この吉宗の発案以後、本草学者はこれまで以上に多岐にわたる分野の知識を求められることに なったと考えられる。物産の生息地やその状況だけでなく、歴史的な事象や各地で呼ばれていた名 称、さらには地理学や民俗学などの分野にまで研究対象が広がっていったものと思われるのである。
いわば本草学者は、机上の書物による知識と、実地調査に基づき収集した知識の双方を必要とす るようになっていったのだが、物産方に出役した伊藤圭介も同様である。またこの双方に対する高
い知識を有していたからこそ、圭介は物産方への出役を求められたのであろうが、残念ながら圭介 の在任期に同人の構想した物産調査が行われなかったことはすでに述べたとおりである。ようや く、物産方が物産調査を行えるようになったのは、江戸幕府がパリで行われる万博に物品を出品す ることになった時である。
慶応三年にパリで行われる万国博覧会に江戸幕府が出展するにあたり、物産方からは昆虫を出品 するように求められる。この時点でも、備品は整備されていなかったのか、田中芳男は「標本も無 く」、「江戸では虫が捕れ」ないから、「近国に出張して採集することになり、相模伊豆駿河の三国 竝に下総辺に出掛けた」といっている。むろん、田中「一人ではいかぬから、外に手伝が二人、御 供が三人都合六人連れで虫捕御用に出かけ」たと、同人は述べている(36)。都合六人のうちの手伝 であろう、田中は慶応二年二月から五月にかけ、開成所調役兼物産学出役当分助であった鶴田清次 郎(~1892年、七六歳没)と物産学世話心得の阿部友之進を連れて(37)飛び回り、五月十八日に江 戸にもどったようである(38)。
ようやく曲がりなりにも物産調査が物産方で行われるようになったのだが、虫を捕りに来たとい うと各地での協力にも差し支えたのか。田中は「其時分に虫捕御用といふのは面白からぬから、物 産取調御用といふ立派な名義で出掛け」たと述べ、職務の重要性を示していたようである。
この「虫捕御用」のあと、物産方での物産調査は拡大したのか。「地方の人は何を調べられるか 分らぬ、是は調べて運上でも余計取られるだらうといふ念慮を起した者もあ」り、「此際序にあら ゆる物産上の標本類を蒐めて来たら後の為になるから、そうしたいといふことを申出」て許可され る。これにより、田中らは「地方へ出て発見するに随ふて、石でも木でも何でも沢山な見本を蒐め て長持に詰めて持つて帰つた」(39)のである。
3-4 )物産会ならびに物産研究会開催
享保期を境に、本草学者が文献渉猟のみならず、採薬などと称して物産の実地調査を行うように なるなか、実物を見たいという欲求は高まっていったのか。宝暦年間ころには、文献渉猟より実物 の自然物を一同に会して見ようとするようになる。その嚆矢は、平賀源内(1728~79)が発案し、
師の田村藍水(1718~76)が主催して宝暦七(1757)年に実施された「薬品会」である。田村藍水 一門では五回が行われたが、以後江戸では多紀家の医学校である「躋寿館」が中心になって同じく
「薬品会」の名称で開催されていく。のちに「躋寿館」は名前を変え「医学館」となるが、京都か ら小野蘭山(1729~1810)を招き、以後も幕末まで同種の会は開催されていく(40)。
このような自然物を展示・検討する会は、「薬品会」や「物産会」など色々とよばれるが、本稿 では名称を規定していないものは、基本的に「物産会」で統一して記していこう。ともかく、この 同種の会は、とりわけ先進地内で広がりを見せていく。小野蘭山を輩出した京都では、同人の門人 である山本世孺(亡羊)(1778~1859)が文化五(1808)年以降に、自身の私塾「読書室」の名を冠 した薬品会を開催し、さらにその門人である岩永文楨(1802~66)は、大坂で物産会を開催する。
そして名古屋である。同地では吉田高憲(雀巣庵)(1805~59)が、天保八年より毎年一月二十五 日と日を決めて「博物会」を開催し、同人が亡くなる安政六年まで二十年以上にわたって続けられ た。また天保年間に尾張医学館で開催された「薬品会」のほか、本草学サークルである嘗百社のも のは著名である。のちに嘗百社は弱体化し、桑名周辺で活動していた「北勢交友社」と明治二二年 八月一日に合併し「北勢嘗百交友社」となるが、最盛期は水谷豊文(1719~1833)とその門人であ った伊藤圭介が担っていたのである。
尾張の本草学サークルである嘗百社の際立った特徴は数多ある。その中でも伊藤圭介が師事した
シーボルトに、圭介の実兄大河内存真(1796~1883)が作成した『蟲類写集』は贈られ蘭訳されて いることは注目できよう(41)。またシーボルトに蘭訳されたことでいえば、大窪昌章(1802~1841)
の『蛛類図説』を挙げることができるが、同人の功績は精巧な図ともに、植物の拓本である印葉図 を駆使した著作を作り上げたことである(42)。
このように、「物産会」および「印葉図」に際立った特色を有する嘗百社であるが、圭介がこれ を物産方で再現しようと考えるのはごく自然なことであったろう。しかしながら、この尾張本草学 のお家芸ともいえる活動を圭介が物産方で行うことはなかった。ようやくこの構想の一部を、幕府 がパリ万博に参加するため田中芳男により実現するが、圭介は江戸にいながら尾張で行う物産会に 江戸の知己に出品させることには成功する。文久二年三月二十五日に尾張の自宅で経営する旭園で
「博物会」を行うにあたり、蕃書調所の同僚である川本幸民(1810~71)や小野寺丹元(1800~
1876)(43)が出品しているのであるから。
3-5 )領土問題の顕在化している蝦夷地および小笠原さらに海外物産の入手
一見、領土問題と天産物の研究に関係があるとは思えないであろうが、権利を主張するには現状 を把握しているということは大前提として挙げられよう。民法一六二条にあるように、長年にわた り放置したとなると、所有権が移るのであるから。
土地を放置していないと内外に認識させるには、その場所を熟知し実質的に管理していることを 誰の目から見ても明らかにしておくことが肝要であろう。圭介が物産方に在勤していた時代、まさ に日本の周辺部分である小笠原および蝦夷地の所有権をめぐって、江戸幕府は日本領土として確立 させようとしており、これに同人も注視していたものと考察される。さらにいえば、自らの実務を 遂行する上でも、恒常的に圭介は対外情報に敏感にならざるを得なかったといえよう。領有権の問 題だけでなく、未知なる天産物を自国に裨益となるようにするためにも、圭介は対外情報の入手に 心がけていたものと思われるのである。
もっとも領土の問題からいえば、小笠原や蝦夷地以外にも琉球という場所も考えられようが、同 時期の圭介の「日記」を見ても、同地への関心を示すような記載は見られない。どうやら琉球に関 する問題は、門人の田中芳男や田中から影響を受けたと思われる河原田盛美らに持ち越されたとい えよう。圭介は時世にあわせて、回収問題が顕在化していた小笠原、そして第一人者であった松浦 武四郎(1818~88)との出会いから蝦夷地といった土地に強い関心を抱くことになったと考察され る。これにより圭介は、中浜万次郎(1827~98)(44)や調査隊に通詞として加わった堀一郎(1840~
1901)(45)の父、達之助(1823~94)(46)から小笠原産の自然物。そして蝦夷地物の物産を松浦武四郎
からが入手したものと思われるのである(47)。
むろん、周辺地域ではなく、さらには海外の産物に想いをはせることも自然なことである。伊藤 圭介は、文久二年にこの想いを強くする出会いをすることになる。六月四日に遣米使節に同行した 成瀬善四郎(1822~69)(48)からアメリカの種子や小笠原の物産などともに(49)、よほど印象深かった のか見せられたワニ(50)の図を描き、『海雲楼博物雑纂』に収録されている。
また、物産方の配下の嶋主馬助を連れて訪れた、高家二千七百石の織田宮内少輔(実は宮内大輔
(1814~91))(51)の宅で見せられたコレクションを、圭介は物産方にとっても有益なものであると考 えたであろう。織田邸で圭介は「草木盆種」と設えられた園で「奇品」を多く見て感銘をうけたと 思われるが、同家にいた箱館生まれの小侍が所持していた蝦夷地の物産は格別であったと推察させ る。これが縁で蝦夷地の専門家である松浦武四郎に会ったものか、ともかく『海雲楼博物雑纂』に 収載されているから、武四郎の所蔵品の中に物産方での研究対象を見出したことは確かであろう。
いわば珍奇な産物を研究しようとする態度といえようか。『海雲楼博物雑纂』に遣欧使節団で箕作 秋坪らと同行した医師の高島祐啓(生没年不明)が入手したセイロン島のカメレオン(52)を掲載し ていることからも見てとれる。
常種、珍種に関わらず物産方が天産物を研究に供しようと、収集し、後述するように描いていた のであろう。宮地正人氏は次のように述べるのである(53)。
献残屋からウミソウメン(54)を入手したり、両国で見世物に出ていた二コブラクダを写生した り(55)、医学館主催物産会出陳品を写したり(56)、あるいは笹子峠へ出張しての臨写(57)も行っ ていた。
蝦夷および小笠原といった領土問題が顕在化している土地を、注視していた物産方。在任期に伊 藤圭介が勤務先にもたらされる竹内下野守一行とオランダ留学生についての動向にも着目していた らしく、これも天産物研究のためであったと考えられる。
ヨーロッパに赴く竹内使節の一行から伝えられる情報の中に、圭介は日本とは異なる世界に魅了 されたことであろうが、物産方の立場から、使節がいずれもたらすであろう書物について注視して いたことであろう。西欧でどのように天産物は認識されているのか。これを端的に知るには、同地 の書物が必要となることはいうまでもない。竹内使節は、海外で収集する書物として、明確にその 範疇として「物産書」が求められているのである(58)。竹内使節のもたらす書物を圭介は心待ちに していたようであるが、物産方の環境を改善するためであろう、オランダ留学に向かう津田真一郎
(1829~1903)に文久二年六月五日に書簡をあて、次のように述べているのである(59)。 物産ニ付申候書籍者御申立御求、追而調所へ相廻被下度、御世話奉願候
物産方で整備の遅れていた関連書物を、海外から入手するため圭介も苦慮していたことであろう が、これは何も特別なことではなかろう。そもそも、開国した日本が海外の諸国と関係を築いてい くために蕃書調所などは設立されたわけで、物産方も職務を遂行するために常に最善の行動をしよ うと心がけていたといえる。
3-6 )『図譜』の作成
すでに何度も述べてきたので述べる必要もなかろうが、「物産方」では「図譜」の作成を行って いた。そもそも物産方を創設するにあたり、天産物といった実物を研究するためには、単なる活字 で記された書物では役には立つまい。絵に描いた餠ではなくズバリ現物そのものがあればよいのだ が、生物などを生存しているままで収集できるということも少なかろう。それでも現物に近い標本 があればよいだが、物産方では不足しており、圭介をはじめとした職員が持ち寄ることで補おうと していた。また鉱物類ならいざ知らず、天産物の中でも生物類は生育しているときと、そうでない 時は明らかに色や形状なども異なる。そこで、図譜があればよいということになるのは今も変わる まい。圭介も「物産学ニ付存寄之趣申上候書付」で次のように述べ、どこ国の版でもいいから収取 したいと述べている。
草木禽獣魚虫金石等図説御座候所、何国出板ニ而茂宜敷候間、多分ニ追々御取集相成候様仕度候
しかし、図譜があっても、調査しようとする対象が掲載されていなかければ身も蓋もなかろう。
そのため、必要とする図譜を自ら製作するということになろうが、この形跡を物語る資料が、これ まで何度も扱ってきた『海雲楼博物雑纂』である。図譜の作成は、どうやら圭介のあと幕府瓦解ま で続けられたらしく、「慶応三年」と記されたものが存在する(60)。
この図譜作成作業は、すでに本草学の世界などでは一般的であり、何も珍しいことではない。し かし『海雲楼博物雑纂』に収録されている図譜を見ると、蕃書調所の別部門である画学方の人物た ちの名を散見することができ、この協力により完成させていたことには注視せざるを得ない。文献 調査などで繁忙な物産方の人員を補佐するためであったといえようが、これは明治以降に伊藤圭介 が小石川植物園に勤務したときに図譜を作成しようとした時と同じであり、江戸期に同種のものを 作成しようとしていたことに先見性を見出せる。
図だけでなく、和名、リンネ分類名、ラテン名、オランダ名など、調書を作る際に、植物の発芽 の時期、葉の形、花、結実状況などを記録している。物産方の創設にあたり、飯沼慾斎の登用を考 えていたことから、同人の作成していた『本草図譜』のようなものを作り上げたいと幕府側が考え ていた証ともいえよう。むろん個人的見解で記録することを避けるため、今日のように統一条項を 定めていたことは想像に難くない。恐らく、伊藤圭介の『植物図説雑纂』(国会図書館蔵)に散見す る記録用紙のようなフォーマットが、物産方でも作られていたものと推察する。
多種多様な記録媒体が数々ある現代においても、特徴とすべき部分を強調するために図譜のもつ 価値は必ずしも低下したとは言えまい。否、むしろ高い意義があるとも位置づけられ、今後も図譜 は作成され続けるであろう。そもそも物産方は、蕃書調所の中に設立された機関である。日本が国 際社会で立ち振る舞っていくための方策を見出すためにも設立されたといっても過言ではない蕃書 調所において、物産方とて同じ路線を進むことは当然のことである。海外との違いを認識すること でこそ、自国を再認識できる。汝自身を知れということではないが、自らの国を知ることなしに他 国は認識できないことは言うまでもない。その意味でも、幕末期に入ってきた外国産草花に加え、
在来種のミカン、ダイダイ、ユズ等も『海雲楼博物雑纂』には描かれていることは当然と言わざる を得まい(61)。
さらにいえば、『海雲楼博物雑纂』には、物産方に最初出役した伊藤圭介の専門外の自然物も描 かれていることにも注目しなければなるまい。圭介自身はそれほど携わることはなかったであろう が、自然界に存在する植物以外の生物を研究した成果として、『海雲楼博物雑纂』には、植物のみ ならず小動物や海洋諸生物なども記録されているのである。
物産方の職員が鑑定をする際などの業務を行う上でこの図譜は裨益になったであろうが、残念な がら出版などの形で日の目を見ることはなかった。それでもこの図譜を作成しようとする心は、明 治以降に伊藤圭介をはじめとする人物により再開される。圭介は自らが勤務する小石川植物園に生 息する植物をまとめ『小石川植物園草木図説』を作ったし、私家版として子息謙と『日本植物図 説』をまとめ上げようとした。さらに圭介の孫篤太郎は私家版として『大日本植物図彙』を出版し たほか、伊藤圭介や孫の篤太郎のみならず、牧野富太郎(1862~1957)に代表されるように多くの 人々により完成度の高い図譜が次々と作成されていったことは今さら語るまでもなかろう。
4.田中芳男のパリ万博参加
4-1 )江戸幕府のパリ万博への参加経緯
これまで伊藤圭介が描いた天産物に関する研究構想を、江戸期に門人の田中芳男がどれほど継承
し実現してきたかを見てきた。そのうちで、圭介が構想した物産会や研究会の開催については、物 産方では実現しなかったことを確認できたと思われるが、幕府が一八六七(慶応三)年にパリで開 催される万国博覧会に参加することで、発案の一端は実現したといえる。これには、元治元
(1864)年にフランス公使、レオンロッシュ(1809~1900)と幕府監察の栗本鋤雲(1822~97)が伊 豆国熱海で会談したことが契機となっている。
ロッシュは栗本に、パリで世界各国が出品する「エキスポジション」という会に江戸幕府も参加 するよう要請するのだが、その意義を次のように伝える。物品の優劣を競い、智力を競うことであ り、非常に有益なことであるとロッシュは言うのだが、これに続けて栗本が同人に質問したこと で、こんにち馴染のある言葉が誕生することになる。「エキスポジション」という言葉について尋 ねた栗本に、通訳のメルメ・カション(1828~89)は「広く示す」という意味であると答えるとと もに逆にこれを日本語では何というのかと質問してきた。これに対して栗本が編み出した言葉が、
「博覧会」であった(62)(63)。
最初は消極的であったが(64)、江戸幕府はパリ万博への参加を決し将軍徳川慶喜(1837~1913)の 名代としてその弟、徳川昭武(1853~1910)をパリへ派遣することにした。出品収集を目付、外国 方、勘定所の三者で担当するとともに、幕府は百姓、町人や各藩にも出品を募るが、動乱の時世で 応じたのは清水卯三郎(1829~1910)、吉田六左衛門宗梯(~1881、享年52歳)(65)と佐賀藩、薩摩藩 のみであった。
権威や政権の正当性を主張したい幕府と佐賀藩、薩摩藩の思惑が交錯することになるパリ万博で あるが、幕府が参加するための準備は外国奉行所が事務を総括して行った。田中芳男が勤務する開 成所には実測日本地図を用意し景色のよい場所の油絵などとともに、前述したように昆虫の標本が 求められたのである(66)。ただしこの昆虫の標本は、フランス側では不満であったらしく、出陳予 定の物品を内覧したあと、仏人シヘリヲン(生没年不明)は、九月四日に次のように強く不満を漏 らした。
美麗の御品多分有之、宜敷候え共、金石草木其他天然物に到ては至て少く候間、猶御取集御差 廻し有之様いたし度、右は欧洲おゐて只触目の美のみ喜び候ものも有之候え共、学術心掛候者 は却て天然物を相好候間、成丈成丈くだけ沢山御差廻し有之度(67)
ヨーロッパから見ても、きれいな品を集めてきたつもりだろうが、こちらはそんなことは求めて いない。金石草木といった天然物を多く出品してもらいたいのだ、ということを日本側がどれだけ 理解したかは疑問が残るところであろう。
このような世界的な常識から離れた江戸幕府の態度は、昆虫を集めた田中にも向けられる。外国 奉行所は慶応二年九月に、「多数の昆虫標本は「損敗」しやすく、パリでの飾付の問題もあるので 田中を付添わせたい」と出願するが、十月七日付で拒絶されてしまう。それでも同月に開成所側 は、外国奉行支配向の者に、「この標本の安全輸送に責任がもてないし、専門家を付添わせれば、
フランスで物産研究が出来る」という理由で再度出願し、十一月五日付で次のような指令を受け る。「開成所にて物産学相心得候者、御家人の内にて一人」を派遣するというものだが、この時点 で田中芳男は、旗本千村氏の家臣であり御家人ではない。そのため田中を「其身一代新規召抱」と してほしい、と再々度出願し、これにより召し抱えは拒否するが、派遣は承認ということに決し た。十一月二十一日のことであった(68)。
4-2 )出港からパリ万博へ
田中は慶応二年十二月十一日に英国船エゾフ号に乗込みフランスヘ出航するが(69)、道中でつけ た克明な記録は(70)、今後とも多種多様な分野の研究をする上で重要な史料となることは疑いな い。いまこの内容を天産物への関心が見て取れる部分を中心に見ていくが、十二月二十三日に香港 で記した次の部分には、物産方に勤務する人物の視点が垣間見える。
香港ニテ最共奇とする者ハ、街上、人家の前及坂道、旁所々ニて見る所の草木なり。西洋人盆 植種々ノ品、却テ見覚の品多けれども此地の品は甚奇なり。未見ズ聞かズの竹木多し。又是迄 南地産として、盆植種(数種か)数ハ図画ニて見、書物ニて読し品、高大目驚せり。
書物では見たことはあるが、田中は現物の感想を次のように述べる。
其名知ル品ハ榕樹の類、数種、売子木、茘枝、番石榴、林ア ダ ン投タコのネト云、梹榔、カイマンコ ラ等なり。又南瓜樹(義訳名)ヲ見ル。
香港での滞在は続き、同廿四日にはイギリス人が造った庭園で奇物、翌日には「英国鎮台」からの 招きで訪問し隣接する花園を見物したことに加え、鎮台の側の植木屋については詳細に記録してい る。このような田中の態度は、旅の途中とは言いながら、頭からは物産方での活動を念頭において いたことが如実に感じられるのである。田中は次のように記し、同廿六日に香港から出港したあと に食べた二種の果物である、パイナップルとバナナに何らかの感慨を抱いたものと思われる。
此日鳳アナナス梨英名パインアップル香バ ナ ナ蕉即芭蕉の実可食モノ抔ノ珍菓を食す。
前者はともあれ、後者は伊藤圭介が物産方に在職した時代に小笠原からもたらされており(71)、田 中も目にしたことはあったろう。香港で手に入るこの珍菓バナナはどこで生育しているのか。田中 の疑問はシンガポールで解けたと思われる。
慶応三年正月二日「第十二時保炭蔵の所へ船を寄」せたのち、午後に上陸した一行はシンガポー ルの町に向かう。道の「両傍樹木繁茂、開花等ある事夏月の如し」といった景色の中に、「熱国産 の植物」を多く見るが、その中にバナナもあった。また街の景観とともに人家の様相とともに、庭 先にサツマイモやサボテン、さらには「扇子を撒る如くに葉柄を出す芭蕉」などを記録することを 田中は忘れない。そして翌三日、驟雨のために出帆を見合わせているなか、田中は「海岸の辺を徘 徊」して次のように気づくのである。
椰樹甚多し。無人嶋産の樹又多くあり。
物産方で研究していた小笠原の物産と、同じものがシンガポールでも産すると田中が結論づけたこ とは想像するに余りある。日本の周辺地域を把握する一環であると考えたかどうかは別として、田 中が明治以降に河原田盛美などとともに沖縄をはじめとした土地を研究していくための予備知識に なったことは疑いあるまい。
ともあれ「午後第三時」に一行はシンガポールを出港するのであるが、田中がこの日に「茄子、
胡瓜等」を食したと記したあとに述べた次の文に注目したい。
芭蕉、鳳梨等ハ日々の食事なり。
すっかりバナナとパイナップルが田中の日々の食事となったようだが、一行は「乾果塩蔵等」のオ リーブ、リンゴ、スモモなど、さらには胡桃、栗、「糖蔵」のイチジクなども常備していたようで ある。正月三日の記載を田中は、オウム、インコ、椰子類、紅茶、アンペラといった自然物を羅列 して終えているが、これはどう理解してよいのか。少なくとも田中が大きく注目していたからだろ う。愛玩する鳥類と役に立てるべき自然物を強く認識していったことは述べるまでもなかろう。
シンガポールを後にした一行はスマトラを通過する途中で、燐発光体を海中に見るのだが、これ について田中は次のように正月五日に述べていることは、科学者としての見解というべきであろう。
ポスホルノ光、鬼火等の如く炎焰の形を成さざれ共、知らざるものハ怪むべし。
田中と同行した人物のなかに恐れおののく者もいたのであろうが、正月十日にセイロンの港ゴール に着いたあとは、それ以前に上陸した香港やシンガポールなどと比較して景観に注視したようであ る。
土地の人の衣や髪を束ねる玳瑁から作られた半月状の櫛、南国セイロンは山がちな内部とは異な り、「海岸は唯椰樹の林のみ」である。「麺頸茶」と田中は記しているが、紅茶のことか。いずれに しても、土地の人はこれ以外にもバナナなどの商品を船にまで売りに来るのだが、「旅人を見掛来 りて頻に」同じ行為をしていたらしく、この国に共通していたことであったろう。田中らは、市中 でも商魂たくましい人々を目にするのだが、上陸したのは「第九ツ時」。ホテルで「氷アイスリモナアデ橙 汁を飲」
んだ田中は、その味にひと時の安らぎを感じたのか、次のように評するのであった。
酸甘にして稍苦く、香気ありて清涼歯に徹ス。暑気甚しきゆへ甚美なり。
翌十一日にはセイロンを後にするのだが、田中が十日に同地の景観について記した最後の記載は、
同人が物産方の目をもって旅行記を記そうとしていたことを感じさせる。
此辺の地赤灰色ニして、小き赭色の石甚多し。数個を拾ひ帰りて検するに我国にてゴールドと 称る、画具に用ゆる砂ニして今甚少きものなり。始てゴールドなる事を発明ス。土人此ものゝ 用ある事を知らず。
「ゴールド」は平賀源内が『物類品隲』巻之二(1763年)で記している「コヲルド」のことであろ う。種倉氏は、源内のいう「コヲルド」は、「ラテライトか赭土式ボーキサイトの可能性」を指摘 しているが(72)、セイロンの場合であれば前者の可能性が高いと思われるのである。参考文献は数 多あるので、ここで紹介するには及ぶまい。
正月十一日、セイロンのゴール港を出港し、十四日には「印度洋通行ゆへ四辺ミるものなし」と いった風であったが、次の寄港地に近づくなか田中の眼は自然をとらえる。ソコトラ島の近くで見 たクラゲを十九日に次のように記す。
皆灰色ニして透明、其紐短くして赤色なり。又長サ壱間許、太サ六七寸赤色ニして帯の如く首 尾なきもの水母の如く波面ニのるを見る事あり。